はてなキーワード: 部活とは
こういうのは書いたことなくて無駄話が長くなると思うので先に簡潔にまとめよう。俺はプロになるためのトライアウト(入社試験みたいなものだと思ってくれていい)を受けて最終選考まで残り、そこで不合格になった。結果として今はほぼニートのような毎日を送っている。
・トライアウトを受けて落ちるまで
小さい頃からゲームが好きだった。とはいえサッカーやテニスも習っていたりして、この頃から引き篭もってゲームばかりしていたわけじゃない。確かにその時俺は楽しくてやっていた、だがどれもお世辞にも上手いと言えるレベルではなかった。
部活動ではテニスをやっていたが顧問が気に入らなかった。実際今思い返してもしょうもない奴だったと思う。だから、部活をやめた。
俺がゲームに熱中するようになったのはそれからだった。当時中学生だった俺はfpsにハマりクランに所属した。大半が年上だったが楽しかった。有名なところではなかったが、それでもクランの公開グループ(チャット部屋のようなもの)には数百人の参加者がいた。
そしてそのfpsが廃れるのと同時に当時の知り合いと別のゲームへ移った。そのゲームにはランクシステムがありそこで俺はアジア圏の上位0.003%に入った。身内からはプロなんかも出たりした。
その時に感じてしまった感覚、それが今の俺を生み出したんだろうと思う。
『頼られる感覚、褒められる感覚、必要とされる感覚、尊敬される感覚』
今まで何の才能もなく、誰かに求められたことも無かった俺にとっては最高の気分だった。完全にゲームに溺れたのは多分そこからだろう。
その頃にはもう最初期のfpsをやっていた仲間は殆ど関わりがなくなっていた。
それからしばらく色々なゲームを転々としたあと19になる頃に俺は大学を休学した。
親や教師に『プロゲーマーになる。』と宣言して。当時まだリリースもされていないFPS(以下文中でfps2とさせてもらう)に目をつけて、休学届を出した。
その時の俺には自信があった。俺には才能があるそう思っていた。
そして親や教師に休学を伝える頃には既に俺に一通のメールが届いていた。
『一次審査を通過されました。』
この時はまだ計画通りだった。
その後書類、ポートフォリオ提出、面接、実技、実戦等のトライアウトを経て最終審査で俺は落ちた。
全ての審査が終わるまでに1ヶ月ほど期間がかかった。俺はその1ヶ月間審査以外でfps2をプレイできなかった。
強くなろうと頑張っているところ、負けているところ、弱いところを誰かに見られるのが嫌だった。これからもしかするとプロゲーマーのXとして活動するかもしれない自分の弱さを他人に見せたくなかった。
いつか失ったはずのプライドで全ては終わった。
・現在
バイトは相変わらず続けているがこれからどうすればいいのか、分からない。来年に復学予定だから普通に学校を卒業して働けばいいと大半の人は考えるだろうがやりたくない事で生きていくのは意味があまりないと思う。
もちろんそれがズレた感覚なのは分かっているが、バイトの時は時間を売っていると思って心を殺して働いているしそれが一生続くなら死んだ方がいいような気もする。
生きたいと思う程未来に希望を抱いてないけど、死にたいと思うほど人生に絶望もしていない。
どうなるんだろうな俺は。
逆に年齢上の層による「中高生の『学校がー部活がーテストがー受験がー』がガキ臭くてうぜえ」ってのもよくあった
今はもう「嫌なら見るな、ブロックかミュートしとけ」で終わる話だと思ってたけど
つーか、そういう15年前の文化を知ってる歳なのに
覚えてる先輩の数に比べて、覚えてる後輩の数が圧倒的に少ない。
たいていの後輩の名前と顔を覚えていないのに、先輩のことは覚えている。
例外的に仲良かった後輩とかはちゃんと覚えてるけど数がとても少ない。
末っ子は、上との接し方はわかるけど、
下との接し方がわからないとか、そういうブログも読んだけど(私も末っ子)
なんかそれが原因だと言われても、ピンとこない。
先輩も後輩もなくタメ口。その後輩達のことはみんなよく覚えてる。
敬語で話されると、なぜか相手を見下してしまう脳みそになっちゃってるのかな。
それが正解に近いと直感では感じる。
会社でも、やってはいけないと思ってたのに、後輩の名前を呼び間違えたことがある。
後輩、タメ口聞いてくれんかなー。
増田に投稿するのは初めてなので読みづらい長文だと思うが許してほしい。
自分が他人に恋をできるかわからない。もうできないかもしれない。
何年も恋をしていなかったけどこんな恋愛してるよ、とかあったら教えてくれ。
前提として、自分は出歩いているとちょっと周囲の目を引く「そこそこかわいい」部類の人間だ。自他ともに認められているので多分そう。
人付き合い>趣味(オタク)なタイプで、特定の人と会うのは月1くらいで満足するようなドライと言われがちな人間だ。
これまで24年の短い人生の中で一度も恋愛したことがないわけでもなく、それこそ多感な高校生辺りまでは一丁前に好きな人が居て、ドキドキや不安やわくわくなんかに駆られていた。
(今思えば思春期特有の周囲の恋愛至上主義的な雰囲気に流されていた節はある)
好きな人ができて、自分なりにアピールして、デートして手つないだりなんかして、相手に告白してもらうように仕向けるというプロセスを経て、高校生らしさ全開のかわいいお付き合いもしてきた。
それがどうだろう。大学に進学していやいや化粧を覚え、外見をメンテナンスするようになると幾人かに惚れられ、「今度は好きになれるかも」と不誠実な内心を抱えつつ付き合い始めてみるものの。
付き合えたということは相手に対してそこそこの好感度を有していたはずなのに、好きになれないし信頼しきることもできない。(自分は若干人間不信のケがある)
心を開ききれないのでキス以上の関係を持つこともなかった。いざそういう雰囲気になっても相手の体格や匂いなんかが気になってセックスしたくないな、と思ってしまう。
幸い自分の相手は優しい人間ばかりだったので全員こちらに無理を強いることはなく、セックスには至らなかった。
部活の後輩で、ジャニーズjr.にちょっといそうなかわいい系の顔で背が低い男の子だ。
部活体験に来たのを少し指導して、その時にはすでに彼が気になっていた。多分一目惚れ。もしそれが言いすぎだとしても一目見た時から惹かれていたことに間違いはない。
当時の自分の好みのタイプは優しい年上だったので「年下なんて好きになるわけねえ!」と抵抗もしていたが、
顔見るとドキドキするし何かしてあげたいし部活以外にも会いたいしなんかうまく話せないし少しでも長い時間を一緒に過ごしたかったので、恋愛的に好きなんだと認めざるを得なかった。とにかく顔面が好きだった。今思い出しても彼はかわいい。性格はそこそこくそだった気がしないでもないが。
好きだと認めて交際に至るまでが春~夏だったので、数回のデートを経て2回花火大会に行って2回目で勝負に出た。成功。やったぜ!
その後デートをしたり一緒に勉強したり映画見たりと幸せな日々を送っていたが進路の事や2個下でちょっと価値観が違う事などを理由に11月に振られた。
高校生っぽく短期間の交際だったがこっちは無茶苦茶好きだったので傷ついたし半年くらい引きずった。
自覚している中で一番恋愛っぽかったのはこの人が最後だったと思う。
交際したのはバイト先の先輩、後輩の2人。それぞれ期間は全く被っていないが、どちらも私に一目惚れしたといっていた。そんなことある?
この2人は私のことを爆裂好いてくれてとてもよくしてくれた誠実な人たちだったが、残念ながら恋愛的に好きになれなかった。
とても優しくて紳士的で尽くしてくれたり私を第一に考えてプレゼントもくれたけど、好きになれなかった。雨天や気分次第でドタキャン上等だった不誠実くそ野郎な私にはもったいないくらい良い人達だった。その節は本当にごめん。幸せになってね。
あと先輩の方は1か月記念日に赤いバラをくれたがうれしくなくて「重いな…」としか感じなかった。帰りに最寄りのコンビニで捨てた。くそ野郎である。
後輩はやたら私の頭の形が好きで二人でいるとめちゃめちゃに頭を撫でてきた。私は愛玩動物ではないと2千回くらい思った。
大学4年間そんなかんじで人を恋愛的に好きになれることはなく、2人きりで会う男の子は居たがお互いクズで関係に名前を付ける気がなく安心感のある「友達以上恋人未満」だった。こいつは私のことが明らかに好きだったが「わかってるでしょ」とストレートには伝えてこなかった。はっきり言葉にされるとこちらもちゃんと答えなければいけなかったので言葉のない関係性がとても楽だった。キスはなんとなく避けていたが抱きしめあったりネカフェで一晩だらだら過ごしたり胸揉まれたりはした。
一通り都内の定番デートコースはこいつと楽しんだが、クズゆえに当日ドタキャンをお互いに繰り返してなんとなく授業も被らず疎遠になっていき、やつの留年を契機にもう連絡は取っていない。
いつか恋愛できる日が来たらこのくらいの緩さと温度感がいい。かっちりしすぎてたり愛が重いと私は答えられない。誠実すぎる男とはすぐに別れたくなる。居心地が悪い。
なんとなく今までの恋愛っぽい経験書き連ねたが、書き出してみて
「もしかしたら私は自分から好きにならないと恋愛対象として見ることができないんじゃないか」と一つの仮説にたどり着くことができたのでこの記事を書いた意味はあったと思う。
社会人として漸く落ち着いてきたというか自分の生活に若干の余裕が見えてきたのでそろそろ恋愛したいなーと思っていたのだが、
ここ数年で私の中のトキメキセンサーが故障していて誰かを好きになれそうな兆しがない。そもそも出会いもないが、出会いがないのはコロナのせいという面もあると思いたい。
数年間趣味第一に過ごして、人間不信で人にあまり興味がない干物な自分に、この先恋愛の好きを抱ける相手ができるのだろうか。
自分が他人を好きになれない性質なのかもしれないという懸念もある。
「日本から出て行け」「学校つぶせ」…部活クラスターで中傷電話、生徒の写真も拡散
私は小学生のときから、GARNET CROWというアーティストがずっと好きだった。というより今も大好きだ。
今日まで四半世紀とちょっと生きてきて「夢みたあとで」以上の楽曲に私はまだ出会っていない、本気でそう思っている。in little timeやholy groundも未完成な音色も、全ての楽曲がたまらない。捨て曲なしだ。これを読んでくださった皆様もどうか一度騙されたと思って聴いて欲しい。
"幸せの中に潜む不幸せ""大切なものをなくす痛み""過ぎ去ってしまったものが戻らない無情感"そういったものを拾い上げて歌ってくれる、そういう楽曲が当時小学生だった私には衝撃的だった。解散しても何年経っても、彼らの曲の魅力は色褪せない。今も私は魅了され続けてる。
けど、この思いを私は信頼できる1人の友人と夫以外には伝えていない。他の友人はGARNET CROWを好きなことすら知らないと思う。友人に嘘をついているわけではない。答えたアーティストが好きなのも本当だ。ただ一番ではないというだけで。
私は自分が本当に一番好きなものを誰かに打ち明けられずに、今も生きてる。
別に最初からこうだったわけじゃない。少なくとも小学生のときはこんなんじゃなかった。
変わったのは中学生の時。
私の中学は田舎ということもあって、荒れた学校だった。幸いにも私は人数の多い運動部に所属してたおかげもあっていじめなど被害を受けたことはない。けど、俗にいう"陰キャ"をバカにする空気がそこにあって、なんだか生きづらいなと思っていた。
きっかけとなったその出来事のことはいまだによく覚えてる。中学に入ってすぐ「どんな曲聴いてるの?」なんて話になった。小学生高学年から中学生になるとみんな、音楽に興味が出てきだして好きなアーティストの話にもなったりする。同じクラスになったばかりの子に私は「GARNET CROWとか好きだよ」と答えた。好きだから。他のどんなアーティストよりも大好きだから。
でも返ってきた言葉に私は衝撃を受けることになる。GARNET CROWにピンときてない様子だったその子の隣にいた別な子に「コナンの歌でしょ。なんでそんなの聴いてるの?」と言われた。なんでって、好きだからじゃだめなの?そんなのって、なんだよ。
やっとのことで「好きだからだよ」と返した私にその子は「普通聴かないよ、変なの」と言い放った。きっとその子は何の気なしに放ったその当時の率直な感想なんだと思う。GARNET CROWがじゃなくて、中学生の私が聴くのが変わってるって意味だったんだろう。けど当時の私には衝撃的だった。
今まで自分のすること、興味があることを否定されたことがなかったわけじゃない。けどそれは私が何かをするという行動が伴っているからだと思っていた。つまり否定されるのは私の言動であって、私の気持ちや趣味嗜好ではないとそう思っていたのだ。
けど今回は違う。そこに目に見えた私の言動はない。"ただ好きなだけ"という誰にも迷惑かけてないはずの嗜好ですら否定の対象になる。
私の勝手でしょ、なんて言ってやればよかったのに言い返せなかった。変に反論してこじれるのも大好きなGARNET CROWが否定されるのも怖かった。彼らが悪いわけじゃないのに、あんなに素晴らしい曲を作る人たちなのに、私が好きってだけで変なの呼ばわりされるのも耐えられなかった。
その子とはそれなりの友達ぐらいの距離感のまま卒業して、それ以降私から連絡することはなかった。同じ部活で汗を流しても結局あの印象が抜けなくて最後まで本当の意味で心を開くことができないままだった。
高校はやりたいことがあって、知り合いのいない少し遠い都市部の学校を選んだ。そこでも同じ質問をされる。正直に答えようとして、名前が喉の奥につっかえて出てこなかった。
このまま唇を跨いだとして、本当のことを言ったとして。また否定されたらどうしよう。その時私は目の前の、これから仲良くしていきたいクラスメイトのことを好きでいられるだろうか。そう考えたら一番好きなものを好きだというのが途端に怖くなった。
結局当時一番ではないものの、好きだったチャットモンチーの名前を挙げた。「私も好き」と返してくれたことにひどく安堵した。そのまま仲良くなって、友人も増え、知り合いが一人もいない学校にきたにも関わらず私は友人に囲まれ穏やかで楽しい高校生活を手に入れたのだ。
その時分かったことが2つある。
1.好きなものを好きだと馬鹿正直に打ち明けなくてもいい。自分がわかっていればそれでいい
2.下手に答えてその人を嫌いになってしまうくらいなら、当たり障りのない答えをしておいた方が圧倒的に楽だ
人生を穏やかに楽しく生きるためのコツを掴んだ気がした。あの質問をされるたびにその時聴いているアーティストのなかから、流行ってて人気がある人を答えるだけでよかった。答えたそのアーティストが好きなのも一部分では本当のことだから、すんなり信じてもらえた。
自分の友達にそんなことをする人がいると思いたいわけじゃない。実際多分いないと思う。けど誰にも迷惑かけていないただの自分の嗜好を否定された時、その友達を好きでいられる自信がない。友達ならまだしも、生きてく都合上ある程度関わらなくてはいけない程度の思い入れしかない人だったら尚更許せる気がしない。
だからこれは私なりの予防線だった。なるべく人を嫌わずに生きていくために必要だった。
大学に入ると自分が大人に近づくにつれ、周囲も大人になり、人との違いに寛容になっていった。当たり前だけど大学にはいろんな人がいる。多分ここでなら何を好きと言おうと否定してくる人間はいなかったと思う。それでも言えなかった。
社会人になりいろんな世代の人と接するうちに、ご年配の方には人の嗜好にまで口を挟んで否定してくる人が多いことにも気がついた。それでも付き合っていかなきゃいけないから、もはや言う努力なんてやめてしまった。
数少ない私の一番好きなアーティストを知っている二人、夫と親友にGARNET CROWの話をしたのは去年のことで、好きなものを正直に話してもいいと思えるまで出会ってから10年かかった。
私はこれからもきっと本当に好きなものを誰にも言えないままだと思う。この先も「普段何聴いてるの?」と聞かれるたびにそのとき比較的流行っていて聴いてるアーティストのなかから、適当に答え続けるだろう。
あの子が何気なく発した言葉が、十数年経った今でも未だに私に刺さったまま抜けない。
この増田を読んでくださった方々にそんな方はいないだろう。本当に私が届けたい、いつかのあの子にこの言葉は届かないんだろうし、そもそも私が傷つきやすいってだけなんだと思う。でも、
「自分の好きなものを否定されていい気持ちになるやつなんて、この世に存在しない」
これは誰にでも当てはまることだと思うから。いつか誰かに抜けないトゲを刺してしまう前に、言葉を発する前にどうか一度思いとどまってほしい。私も気をつける。
その"好き"をあなたが理解できなくてもいい。しなくてもいい。どうか、否定しないであげてほしい。理解出来ないってだけで攻撃対象にしていいわけじゃない。
否定の言葉の代わりに「そうなんだ」と相槌を打つだけで世界は少し優しくなる。誰も傷付かずに済む。
誰もが一番好きなものを素直に好きと言える、言っても傷付かない優しい世の中になってほしい。
バンプが好きだと言ってた中学生、チャットモンチーが好きだと言ってた高校生、クリープハイプが好きだと言ってた大学生の私が救われることはないけれど。世界が少し寛容になればそれで救われる誰かがいる。いつか変わることが出来る。そう、信じている。
10年くらい前、『姉の友達(女)とジュースを回し飲みする思い出』を買い取る人がいた。
mixi上のいろんなコミュニティで『姉の友達(女)とジュースを回し飲みする思い出』を募集する書き込みをしていて、その思い出の主人公を実際の当事者ではなく、購入者の思い出とすることで、Amazonギフト券を3000円ぶんメールで送っていた。
自分も小4の時に部活の先輩でもある姉の友達とポカリを回し飲みした経験がるので、その思い出をその人に売った。Amazonギフト券のコードが記載されたメールには「この思い出はもう貴方の思い出ではないので他所では絶対に語らないでください」という旨の警告が書かれていたが、もう時効だろう。
自分が把握してるだけでも思い出を売ることに成功した人が数十人はいたので、あの人は何十万円も払っていた事になる。そこまでして何がしたかったんだろう。
突然ですが私は「過去絵恐怖症」です。名前のとおり、過去に描いてネットにあげたイラストが下手くそに見えて恥ずかしくてたまらなくなるやつ。
まぁ、それを聞いて画力が上がってる証拠だよ良いことじゃんって言われることもあるけど、そうじゃない。
まず、その絵をあげて自信満々になってた自分が恥ずかいし、3週間前の絵でも下手に見えてくるから、自分やっぱり下手じゃんって思い知るのが本当に辛い。
しかも、TLには上手な絵ばっかりで、その絵を見ても今の自分の絵では圧倒的に画力や魅力の違いを感じてしまい、絵を描くのが辛くなる。
絵が上手いのは素晴らしいことだし、羨ましい。
自分も今は大学生になって余裕ができてひたすら毎日絵の練習をしてるけど、自分の絵を見てもマイナスな感情しか湧かず楽しくない。絵が上手くなりたい。
そもそも、絵って人によるけど一枚仕上げるのにもすごく時間かかるし、「お前よりうまい人間は皆お前より努力してきたんだ」なんて言われても、その練習時間はどうやって捻出してきたんだと思う。だって、十代の学生生活なんて高校受験や大学受験で勉強優先だし(進路がデザイン系や芸術系などもちろん例外もいるが)部活やバイト人間関係も大切にしてたら頑張っても週1,2ぐらいのペースでしかイラストは描けないと思う。リアルの友人や姉(姉は絵が上手い)を見てても、絵なんてそこまで真剣に毎日描いてなくても元々上手い人間は成長と共に画力も上がるしちょっとの練習で上達するものなんだと思う。
自分は才能が無いのに頑張ってる方だから普通の人よりは描けると思うし、絵を描かない友人は自分のことを神絵師だなんだと褒めてくれるけど、やっぱり自分の満足する絵が描けないのは苦しいし悔しい。
人生で痩せて…いや普通サイズだったのは子供の頃と20代前半の5年間くらい。
あとはずーっとデブ。
健康診断が怖くて2年前からダイエットを始め、2年前と比べればいまのところ5kgは減ってる。
2年で、たった5kg。
それでも気をよくしてリングフィットをプレイし始め、1周目はクリアした。
それまで運動嫌い文化系部活一筋だった私に、大腿四頭筋ができた。足めちゃくちゃ硬い。これが筋肉か。
肩にも筋肉がついた。大胸筋は思ったよりつかなかったので、少し前から腕立て伏せで増やしている。
男性が考えるような「筋肉がついた」からは程遠いけれど、脇のあたりが硬くなって「これが…大胸筋…」て感じになってる。ちょっと筋トレの面白さに目覚めた。
なお体重は減ってない。
そんな言葉で自分を慰め続けて、腹の脂肪が一向に減らない事から目をそらしていたような気がする。
食べる量?多くないです、限界です。
先に5kg痩せた時にもう限界まで減らして、毎日腹減って辛い。
「40代は食べないと痩せないよ」という言葉を信じた時期もありました。
食べなければ痩せないのかもしれないけれど、食べても痩せません。当たり前ですね。
人生の大半をデブとして過ごしているので、おそらく他人と比べて生活がデブになるようにできているのでしょう。
しかし一方で過去には25kg痩せた経験もあるので、ダイエットが全く分からないわけではない。
在宅勤務になったので、昼休みの間ステッパーを踏んで、リングフィットも続けている。
高カロリー食大好きだけど我慢して、夜は米を食べず、タンパク質と野菜にしている。
これ以上どうすればいいのか。だれか40デブ女を救ってくれ。
人生が向いてない
私は今、床に倒れ込み大泣きしながらこの文字を書いている。きちんと意識している回数だけでもここ4日は毎日泣いているし、それ以前の日だって、毎日のように泣きながら暮らしている。
生きたくない。死にたい。死にたいと考えている。でも死ぬのは怖い。首を吊るどころか手首に傷をつけるのさえ怖い。痛いのはすごく嫌。でも生きるのはとてもつらい。
現在、無職である。社会人2年目にして無職。去年は一年間きちんと働いていたが非常に激務であり、契約が切れると同時に退職した。あと1年続けませんか?と何度も声をかけていただいた。しかし、この激務をもう1年間耐え続ける体力も精神力もなかった。適性もないと思っていた。漠然と、何か別のことをしたくて、それなら早いほうがいいと思って、辞めた。
そして現在無職である。一応就職活動をしているが今までとは全く異なる業種を受けており、ことごとく落ちている。その仕事がしたいわけではない。働き方が希望の条件に合いそうだから、それだけである。しかし実際働いたらキツイだろうし、実際勉強もしてるが難しい上に興味もないのでチンプンカンプンでやる気がまるで起きない。このやる気のなさが面接官に感じ取られているのだろう。就職エージェントに勧められるところを一通り受け、していない勉強をしていると嘘をついている。実際のところ全くできないのに。とてもゴミクズである。知っている。知っているのだ。そりゃ正直働きなくない。でも働かないとお金もなければ世間体も保てないから仕方なく働こうとしている。こんな気持ちじゃそりゃ落ちる。わかってる。もう死んでしまいたいのだ。
本当に働きたい人は何をどうしても、がむしゃらに頑張るんだと思う。でも私にはその気力がない。3月末に退職して現在8月、やりたいことがあるわけでもない。虚無。虚無の毎日である。
頑張れない。一向に頑張れない。
これは仕事の有無のせいなのかと言われたらわからない。仕事をしていたときは仕事場で一人で泣いていた。辛くて辛くて、死にたいと思っていた。仕事をしていても、やめても、死にたいという気持ちは一向に拭えない。
小学3年生の時には既に死にたいなと思っていた。10歳の誕生日「とうとう10年も生きてしまった」と焦り、20歳の誕生日には「子供のうちに死ねなかった」と人生を嘆いた。将来の夢は昔から無い。親に「公務員になったら安定するから公務員になったら?」と言われ、そのことを小学校の卒業文集に書いたらこっぴどく怒られ、いまだにそのことを言われることがある。言われたとおりにしようとしただけなのに。
漫画家やイラストレーターになりたいという夢もあったが、そのような技術も才能もアイデアも、なにより根気も無かったのでとっくに諦めてしまった。今は趣味で絵を描く程度だ。そんな死をずっと思い続ける、無気力な人間だ。
生きる適正がない。言われたこともできないし、自分なりにもこなせない。どうしていいかわからない。相手の気持ちがわからない。指示待ち人間で、言われるまで何も動けない。
ここまで救いようがないなら死ねばいいが、でも怖いので死にたくもない。食べる量だけ多くてどんどん太っている。動くのも中学生の部活いらいまともに運動をしていない。運動のしかたもわからなければ、運動をする気力もない。めんどくさいという気持ち。変わりたいという気持ちが弱い。きっとそうなんだと思う。それこそ中学生のころは本当に毎日泣きながら暮らし、日々死にたいとブログに綴っていた。そのブログはとっくに消してしまったが、10年も経って今、同じことをしている。
身近な人に「相談してね」と言われてもなんと言っていいかわからない。その人の前でただただ泣き崩れてしまう。論理的に考える頭がないので、乱文でもこうして文字に起こすことで自分なりに考えをまとめようとしているところだ。
実際、何を「相談」していいのかがわからない。私は何を悩んでいて、どうしたいのかがわからない。言えることは「私は死にたいが死ぬのが怖いので、なんとか生きていきたい」だと思うが、そもそも「なんで死にたいの?」なんて聞かれたらわからない。生きるのが向いてないから。じゃあなんで生きるのが向いてないと思う?みんなみたいにうまく立ち回れないから………… みたいな掘り下げをしていると本当に鬱々としてくる。いやだ。あぁ、ここで私の得意技である現実逃避。自分と向き合うことが怖い。理屈ではわかってる、わかってるけどそれは相当なストレスで、楽したいから避けている。
結局、自分と向き合うことができない人は自分の人生なんか生きられないんですよね。でもその自分との向き合い方もわからない。今自分で自分を正論でめった刺しにしているのが辛い。また泣いている。
身近な人にほど相談は難しい。自分の素性を知られたくない。駄目な人って思われたくない。きっとバレているのに。それでも言いたくない。不特定多数に見られるインターネットのほうがよっぽど気が楽である。
転職エージェントに言われることは「自信がないから自信を持って」ということだ。面接官にも言われた。身内にもそれは言われるし、自分でも思う。自分には自信がないと。自分の課題はそこなんだと思う。
でも、そこまで誇れることも何もないのだ。本当に空っぽの人間なのだ。さも自信がある人間のように、ウソで塗り固めることすらできない。そんな国語力はない。
理想ばかり高くて、そこに追いつけない自分とのギャップで病む。本当は私は素晴らしい人なのになぜ……という気持ちがきっとどこかであるからそうなってしまう。
ここからは人のせいにもしてしまうが、人から認められることなんてないし、そもそも親は私のことを小さい頃からずっと「バカ」と言い続けてきたし、ブスな上に努力もせず、ボーッとしてる上に人付き合いが苦手でいじめに合い……周りから奪われる自信と、それをはねのける自分の精神力の無さが原因だと自分では思っている。
みんなうまく生きているのに自分だけこんなんじゃ自信なんてなくなる。自分が信じられないのに他人を信じるなんてできなくて相談も何もできない。信じたいとは思っている。でももしこの人に嫌われていたら?などと考えてしまう。無限ループ、無限ループ、無限ループ。
そもそも何を相談したらいい?人生の根底にある自信の無さ?気力を得る方法?身近な人に相談したらその人の気力を奪うだろう。そして嫌われるだろう。孤立するだろう。近寄ってくるのはきっと弱みに付け込むカルト宗教の人たちだろう。もう嫌だ。
ここまで読んでくださった人、もしくは最初の一行目を読んだだけでブラウザバックした人はみんな思っただろう。精神科に行け、メンタルクリニックに行けと。
そう言われたとて、何を相談したらいいかわからない。昔から病院どころか保健室さえ苦手だった。症状をうまく説明できない。プレゼン能力の無さ。病院の待合室では症状を伝える練習を脳内でぐるぐるするタイプだ。
考えるより行動したいが重い腰が上がらない。もはや家から出るのも怖くなってきた。あぁ、負の連鎖。
さすがに床は体が痛くなってきたのでベッドに移動した。あぁ、このまま眠って、息を引き取りたい。穏やかに死にたい。苦しみたくない。もう、生きるのをやめたい。
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■追記(8/19)
このエントリーに反応をしてくださった方々、ブックマークしてくださった方々、ありがとうございます。
こんな文章、タイトルだけで未読スルーするでしょと思っていたので、まさか反応をいただけるとは…と思い少し驚きました。優しいお言葉をたくさん頂いて、気持ちが救われております。
私は相変わらずの生活です。ここ最近は本当に寝付きが悪くて、寝ている時も心がザワザワと不安になって夜中何度も目が覚めたりしますね……この症状は去年もあったんですが最近ひどくなってきまして… 人生への焦りかな……今も心がザワザワしている
とりあえず前回投稿してから今日までは床に這いつくばって泣いたりしてないので、少しマシになってるといいなと思いつつ生きております。生きてる!!!
生きてるならいいかな なんだかんだ、コロナにならないようにマスクするし手洗いうがいもしているしね。健康第一。
コメントにもありましたが人間いずれみんな死ぬんだから、私も今慌てて死ななくてもいいのかな…。
いまだに希死念慮は拭えず、お世辞にも前向きとは言えない気持ちで日々を過ごしていますが、それでも自分のペースで生きていけたらいいなと思います。今日この時点ではまだ大きな病気も無いですし…。最近、両足の薬指に血豆ができたくらいで。
またいつか、誰にも吐き出せない暗い気持ちの波が押し寄せてきたらここに長文を書きに来るかもしれません。もしくは、次はハッピーな報告でもできたらいいな。
これが間違いの始まりだった。
練習できるのは3年生だけだった。
1~2年は球拾い専門。
コートをぐるりと囲んで、飛んでくる球を回収するだけの雑用係。
拾うボールは飛び交っているのだが、球拾い要員の人数が多く(30人近く)、手持ち無沙汰。
明らかな過剰スペック。
ほぼ棒立ちの状態。
たまに飛んできたボールを、トスして回していたら「真面目にやれ!」と一喝された。
練習の最後は決まって、アタックを拾うレシーブの練習が行われる。
球拾いが最も忙しくなる時間でもある。
「早く終わってくれ・・・・」これが1,2年の共通した願いだった。
練習の末期が近づいたと安堵を感じる。
しかし顧問は力任せに思いっきりアタックするため、誰も取れない。
そんなこんなで、「ラスト」は永遠と思えるくらいに伸びに延び、他部活の生徒が完全に帰り、外が真っ暗になった頃に終焉を迎えるのが日常だった。
これが毎日続いた。
月火水木金土日。
平日は16時~19時までの3時間。
土日は弁当持参で丸一日。
問答無用で球拾いだった。
朝6時に起きてランニングして球拾い。
昼ご飯を食べて球拾い。
夜は9時まで球拾い。
1年の秋。
3年生は泣いていた。
でもボレは何とも思わなかった。
感情移入できなかった。
「早く帰りたい」と言う思いしかなかった。
しかし「来年は絶対に勝つぞぉ!!!」という顧問の一言で、その日は夜遅くまで球拾いさせられた。。
3年生が引退し。
2年生が練習できるようになった。
長きにわたり耐え抜いた彼らの顔は、とても生き生きしていた・・・
しかも球拾い要員の数が少なくなったこともあり、ボーっとしていると目立つようになった。
気の抜けた顔で突っ立っていると「やる気だせやぁぁぁああ!!!」、と横からボールを顔面に投げつけられた。
鼓膜が破れたかと思った。
それでも行く気になれなかった。
2年になるころには、全く行かなくなった。
同じような脱落者が何人もいた。
そしてボレ達は3年生になり。
2年間球拾いに耐え続けた英雄達(同期)は、試合で1度も勝つことなく、部活動を終えたと聞いた。
思い返せば。
ボレの人生は、あのバレーボール部の入部で歯車が狂いだしたように思う。
そして2020年。
家賃も払えず、来月末には退去を迫られている。
それでもボレは、文句も言わずただ粛々と生き続けようと思っている。
そう。
あげるのは別にいいんだが、あれってどこまでの関係性であげるべきなんだ?
友人って言われても、みんな県外に出てて数年顔も合わせてないのに突然住所聞いてモノを送るべきなのか?
この間、学生時代の部活の同期に子供が産まれたから、結婚式も呼ばれたし他の同期に自分が声かけて出産祝い贈ろうよって言ったんだけど。
これ、万が一 自分が結婚したり子供できたらしたら、あいつら 贈らないんじゃないか?
声かけた自分が予算もプレゼントの内容も決めて、立て替えて注文して、代金の回収して…を結婚祝いのときもしたし、出産祝いのときもした。
(出産祝いのときは、他の誰かが言い出さないか出産報告から1ヶ月待ったけどダメだったから、結局自分がやった)
終戦の日は、Y君の命日です。
高校時代の同級生Y君とは、それほど親しくありませんでした。同級生とは言っても、三年間で同じクラスだったのは一年生の時だけでした。その後は、時折廊下などで会った時に軽く話をし、稀にメールをする程度の仲でした。
Y君は、予備校の友人と二人で海水浴場に行って事故に遭ったそうです。酷く天気の悪い日で、彼らの他に誰も泳いでいなかったと伝え聴いています。それ以上Y君の死の理由は誰も話しません。みな察しがついているからです。
しかし、僕は彼の死の理由と向き合う必要があります。悼むだけでは足りないほどの仕打ちを、僕は彼にしてきました。
Y君と最初に話したのは、高校入学初日です。僕らの高校は、マンモス私立高校で、大概は公立高校の受験に失敗した人間が行く学校でした。お世辞にも賢い学校とは言えません。それでも、それなりの生徒を集めて、特進クラスが二クラス編成されます。僕らのクラスはその一つでした。
入学式からしばらくは、みな口々にどこの高校に落ちてこの学校に来たのかを話していました。例によってY君も学区一番の難関公立高校に落ちたそうです。最も、僕らの高校の進学クラスの大半は、その高校か、県下トップの公立高校を落ちてきた人間でした。
はじめは出席番号の近い者同士で輪になるものです。彼と僕の出席番号は二番違いでした。ゴールデンウィークに入る頃には友情の再編成が済み、僕らは別々の交友グループに加わって行きました。
端から見ていて、グループの中のY君の地位は極めて低かったと記憶しています。彼らのグループはみなテニス部でした。Y君はいつもいじられる役回りを演じていました。自分から話を切り出しても「調子乗るなよ」という言葉を掛けられている様子をよく見かけました。
入学式が終わってすぐに、実力試験を受けさせられます。Y君の試験結果がどうであったか僕は知りません。少なくとも、僕より上ではなかったことは確かです。学年トップ十人は公表され、僕は四位でした。
第一志望でこの高校に進んだ僕は、周囲から奇異の目で見られていました。ただ一人、Y君だけは、周囲と少し違う反応をしていたのでよく覚えています。Y君の同じ中学校で、学区トップ校合格間違いなしと言われて落ちた二人を、僕は下しました。そのことをY君は自分のことのように喜んでいました。
その時の僕にはまだ、そんな理由で勉強をはじめようと思う理由を理解できませんでした。彼にとって高校はどのような意味をもった場なのかと怪訝に思いました。今になって思えば、不本意に入学した学校について、明るく思える理由を見つけられた日だったのでしょう。
とは言っても、その後Y君が試験のライバルとなることはありませんでした。二年生からは、進学クラスの文系理系とで別れてしまい、一緒になることはありませんでした。英語の授業だけは進学クラス二クラス合同で、レベルごとの三グループに別れて開かれていたが、ついに一緒になることはありませんでした。二年間、Y君は成績下位クラスから上がって来ませんでした。
交友グループが完全に別れてからも、僕はたまにY君と話す機会がありました。というのも通学に使う電車の駅が同じだったのです。そうかと言って一緒に通う約束をするような仲でもありませんでした。遭えば多少話をするといった具合でした。Y君はよく話しかけてきましたが、僕から何か話しかけたという記憶はあまりありません。
彼の家はごく近所でしたが彼の家に遊びに行ったことはありません。詳細な場所も知らず、団地の名前で知っているだけでした。僕は中学卒業後にこの街に引っ越してきたので、同じ中学校の出身というわけでもありません。彼が普段通学路にしていた道が、僕の部屋の窓から見えます。しかし、駅との直線距離上に住んでいる人と思っているだけでした。
Y君はテニス部に入部していました。中学から続けていたと聴いています。しかし、同じクラスのテニス部員から伝え聞くかぎり、部の中での実力ははじめから下位だったそうです。Y君は小柄で、先も細く、よく中学生のようだとからかわれていました。
Y君と同じグループのテニス部員は、高校二年にあがるまでに部活を辞めてしまいました。部員の層は厚くないものの、後輩にも実力で追い抜かれ、Y君は引退まで団体戦のメンバーに入ることはなかったそうです。
ときに一年生の頃にY君と同じ班だったM君は強豪のサッカー部員でした。髪を染めピアスをしていたM君は、Y君に対していつも高圧的な態度をとり、掃除当番を押し付けて、誰よりも早く部活の練習に行き、後にレギュラーの座を得ていました。少なくともY君はそのような気概を持ち合わせてはいないように見えました。
僕らの通った高校には、進学クラスを中心とした三泊四日の受験勉強合宿がありました。合宿中は山のように課題を出されました。ホテルに着いて早々、会議室に籠ってひたすらに特別授業を聴かされました。それが終われば翌日までに解いてこいとプリントを大量に渡されました。まともに取り組んで解き切れる量ではなく、教師もその事を知った上で出していた節がありました。それでも僕らは、教師の鼻を明かしてやろうと思って夜を徹して問題を解いていました。
Y君は、ちょっと問題を解いては周りに話しかけていました。「どこまで進んだ?」「この問題どう解くの?」と。そして周囲が邪魔そうな顔をすると自虐的に謝った後、「よし、俺も集中する」と宣言して問題に取り組み、三十分と保たずに振り出しに戻るのでした。
高校二年の頃、しばしば僕はY君のクラスでごく親しい友人と受験勉強のノウハウや、進行状況について情報交換をしていました。そこに、部活が休みになってY君が加わったことが何度かあります。
Y君が、自分の勉強について詳細を語ったことはありませんでした。自分より成績の良い人間の発言には同意をし、自分と「同等程度以下」と思っている人間の発言にはあまり信用していないような素振りをしていました。しかし、前者が後者の発言に賛同すると、途端に賛同し出す、風見鶏な態度で話に加わっていました。
僕らはみな自分に合わせて勉強のスタイルを組み立てていました。Y君には、そのような節はなく、彼の尊敬する誰かの勉強の仕方を真似しているだけでした。正確には、真似している「つもり」なだけでした。
僕がセンター試験模試で九割をマークした時、Y君が英語の勉強内容について尋ねてきました。その頃僕は学校で配られた基礎的な問題集で文法問題を毎日大量にこなしていました。ケアレスミスを減らしつつ長文問題に十分な時間を確保するためでした。自宅学習を英語の長文に充てられるよう、学校での細切れの時間は文法を勉強していた方が都合よかったのです。
そのような事情は告げず、学校で配られた問題集を解いているとだけ告げると、Y君は基礎的な問題集にずっと取り組んでいました。かなり後になってから知ったことですが、Y君は毎度の模試では長文問題で大量失点を繰り返していました。長文を読む訓練からはじめるべきだったのに、同じ文法の問題集に何周も取り組み続けていたのです。その後も彼は模試の度に取り組んでいる問題集を尋ねに来ましたが、僕は同じ問題集だと答え続けていました。
時を同じくして学年上位の人間が「単語力が足りない。」と言ってハイレベルな英単語帳に噛りつくと、Y君はそれを無条件に肯定し、同じ単語帳に取り組み出しました。
学年上位の彼女の場合、元から基礎的な語彙力・単語力がしっかりあり、それに支えられて文法問題を解きこなし、身に付けた語彙・文法で長文を読み解き、総合的な英語力を身に着けた後に、日々取り組む実践問題の中で単語力の不足を感じていたのでした。Y君は、そのような事情を知る由もありません。
すべての教科の勉強がこのような具合で、Y君の受験勉強は日々、一貫しないものになっていきました。誰かが「基礎をしっかりしないといけない」と言えば同意をし、しばらく基礎的な勉強を繰り返し、また誰かが「基礎ばかりで実践レベルの問題が解けない」と言えば、応用問題を解き始めました。Y君は、自分の実力を冷静にみて勉強する習慣がなかったのです。
試験が終わっても模試が終わっても、Y君はいつも「次で挽回する」とだけ言って答案用紙を二つ折りにして閉まってしまい、自分が何を間違えたのか何が不足しているのか反省をしているようには見えませんでした。僕らは答案を見せ合い、点数をひけらかし合い、同時に何を間違えたのかも見られ、ときには馬鹿にされ、それを恥じ、次には同じ過ちをしまいと心に誓ったのです。そして口々、「次の試験では負けない」と言い合うのでした。
Y君は、ただひたすらに成績上位の級友に勉強方法・勉強内容を尋ね、それを真似してみるだけでした。あるいは、それで成績の落ちた級友に反省点を尋ねてみるだけでした。自分の頭を使って、自分に必要な勉強をして成績を上げようという姿勢が見られませんでした。
高校二年の秋頃から、学年トップ十人の常連の内で、制服に細工をするのが流行りました。理科実験室から拝借してきた薬品で五円玉や五十円玉を磨き上げ、ブレザーの左胸にある校章の裏に挟むのです。すると鳥をあしらった校章が後光の差したように見えます。上位三人が五円玉を、残り七人が五十円玉をはさみ、模試のたびに奪い合うのです。
事情を知らぬ者が見れば、何のこともない遊びです。どんなにかよく言っても「お洒落」程度のことです。何も知らないでY君がそれを真似して校章に五円玉を挟んでいたのを、僕らは影でクスクスと笑いました。自分の手で掴む喜びを知らないで、努力する苦しみを知らないで、努力した者の成果にだけ憧れるY君の態度を、僕らは気づき、そして内心侮蔑の眼差しで見ていました。鈍い色の五円玉が、それを象徴しているように思えたのです。
勉強をしたからテストの結果が伴うのだという自信が、僕らの中にありました。また、勉強していないから全国模試で他校の人間に負けるのだと悔しがっていました。進学クラスの同志とともに学内順位で一喜一憂するのは全国模試で泣くほど悔しい思いをした腹癒せであり、本懐はみな志望校への合格でした。
正直に言えば、僕は心底彼を見下していました。大した進学校でもない私立高校の成績上位だけを見て、「◯◯君、勉強できるもんね」と言えてしまうY君の姿勢を、僕は内心唾棄すべき存在だと思うようになっていました。
僕は、努力の方向性を間違える人間は愚か者だと思っていました。そして努力すらしようとしない人間を軽蔑していました。他の何もかも投げ打って練習に取り組むわけでもなく実りのない部活動にただ漫然と時間を費やすY君の姿勢は、まさに軽蔑の対象でした。「三年の夏に部活を引退したら、本格的に受験勉強をする」というY君の弁に至っては、この時点でもう勝負はついていると僕は思いましたが、哀れな奴だと思うことにして黙っていました。
当時進学クラスの上位面々にしても、実際には大した学力は持ち合わせていませんでした。勉強すればするほど募る不安を振り払うべく、ビックマウスで自分を鼓舞させ、歯を食いしばって受験勉強に打ち込んでいたのです。
みな手の内を知っているから言い合えた言葉がありました。「普通クラスの連中が努力して行くような大学だから、日東駒専は滑り止め」「明青立法中はセンター利用入試で一学部二学部抑えて、あとは試験慣れ」「本命は早慶、国公立大学」
Y君が目指したのも、早慶の文系学部でした。折りに触れ志望学部を聞いた時に「受かったらいいなぁ」という言い方をしていたので、どこまで本気で受験していたのか分かりません。また彼が将来どういう職業に就きたくてその大学を目指したのかも知りません。いずれにしても、当時のY君の実力からすれば、合格は絶望的なので記念受験だったと思います。
日本で双璧をためす有名私立大学どころか、当時のY君は本気で日東駒専を第一志望にして対策を組んで然るべき成績でした。それにも関わらず、十分な対策をしていなかったのでしょう。そのレベルの大学を「滑り止め」として受験し、行き場がなく浪人が決まりました。
先にテニス部を辞めたある級友は、有名私立大学に合格しました。Y君から学業面で「同等程度以下」と思われていましたが、彼は初めからY君より成績は良く、そして努力の甲斐あって志望校に合格しました。Y君が、センター利用試験で抑えるつもりだったレベルの大学です。
高校の卒業式で、Y君は自宅浪人をするつもりだと話していました。図書館で勉強している方が集中できるからだと本人は話していました。それを聴いて、受験勉強のやり方を根本から間違えているのだから予備校に通わなければY君は同じ失敗するだろうと、僕は思っていました。
僕も浪人が決まっており、同じ境遇の友人らと、どこの予備校に行くか、予備校が始まるまでどう過ごすか情報交換をしていました。しかし、僕は、彼と同じ予備校に通うのは自分の精神衛生に悪いと思い、誘いませんでした。
僕は気心が知れた戦友二人と予備校生活を送りました。定期的に他の予備校に通っている元同級生とも食事に繰り出し、情報交換とリフレッシュをしていました。時には勉強会を開き、時には悪い遊びに繰り出し、予備校生活を満喫しました。僕はY君に対して意図的に声をかけませんでした。
Y君が亡くなった後、彼がどのような浪人生活一年目を送ったのか、聴いて回っても誰も知りませんでした。分かっているのは結果だけです。一年後の再戦にY君は敗れました。彼が受かったのは、日東駒専の文系学部一つでした。浪人してそんな大学行けないと、二浪することを決めたそうです。Y君と伴に最後までテニス部にいた普通クラス出身者が、予備校生活の後に地元国立大学の教育学部に合格したのも少なからず影響があったと思います。
Y君の二浪目については、僅かながらに噂が流れていました。僕らが通った予備校とは別の大手予備校に通ったと聴いています。そしてそれはY君の両親の望みだったという話です。しかしそれ以上のことは誰も知りませんでした。
Y君は、限りなく記念受験に近いであろう第一志望の早稲田大学に落ちました。それでも、今度は明青立法中レベルの大学に手応えを感じていたそうです。高校時代の担任教師の元には、今度は大丈夫そうだとメールが来たそうです。滑り止めに受けた日東駒専の合格は決まっていました。
しかし受かった手応えを感じていた青山学院大学は、不合格だったそうです。その結果が判明した時、既に日東駒専の手続き期日は過ぎていたそうです。二浪して予備校に通い、親に負担を掛けたくない気持ちが働いたのでしょう、Y君は日東駒専の入学一時金を払わなかったそうです。
かくしてY君は三浪目が決まりました。その頃のことは、Y君の級友何人かが打ち明けられていました。「一浪、二浪までは変換できるけど、三浪って、ケータイで変換できないんだね」Y君からある友人に宛てられた最後のメールには、そう書かれていたそうです。
苦しさは後に喜びがあると知っているから耐えられるものです。喜びのために経験する苦しさと、苦しさの後にある喜びとは、価値が全く異なります。失敗の先に成功を掴んだ人間だけが、成功を評価できます。しかし成功を掴めない人間には、そのような言葉は無力です。苦しさの中でも特に失敗は辛く、とても重ねていられるものではありません。
三浪目の夏、Y君は、予備校の友人と二人で海に行き、事故に遭ったことになっています。酷く天気の悪い日で、盆過ぎの海水浴場には彼らの他に誰もいなかったと伝え聴いています。
同行したのが同じ予備校の友人であるのかは分かりません。しかしその新聞を調べてみると、天気予報では、県内は午前曇、午後から雨となっていました。海水浴に出かける天気ではありません。実際の天気を調べてみても、前日から曇り、実際に曇のち雨だったようです。
二人は遊泳禁止柵を超えて、外へ外へと泳いでいったそうです。友人はしばらくして怖くなり引き返し、Y君のことを警察に通報したそうです。海上保安庁と警察が捜索したものの、Y君が発見されたのはそれから二日後のことでした。
沖に流されて生還した人の体験談を、折りに触れ読んでみました。だんだんと手足の感覚が無くなって行き、全身が重く感じられ、乾きと苦しさと絶望のあまりに、自ら沈もうとしても身体は死を受け入れず、数時間に渡って浮かんでいると言います。その間、Y君は何を思ったのでしょう。
暗く塩辛い海の底に引きずり込まれるまでの数時間、海に来たことを後悔するのでしょうか。自らの力の無さを恨むのでしょうか。早くから勉強しなかったことを悔やむのでしょうか。時代を恨むのでしょうか。日本社会を恨むのでしょうか。
人生の遠回りを許さない日本の空気に、Y君は命を奪われました、一体誰が仇をとってくれるのでしょうか――僕はそう思うことで、Y君の死は、自分の責任ではないと思い込もうとして来ました。そんな綺麗事では済みません。彼を死に追いやったのは僕らです。
彼の学業上の相談に乗らなかったのは、彼が気楽に、好きなことをしていたことに対する妬みです。彼が、僕の思う独善的な「努力」をしないことについて、快く思っていなかったからです。「努力」などと呼んでいいものではありません。自分の味わった苦しみを人も味わえばいいという意識は、酷い嫉妬心に過ぎません。
彼が学業面で悪循環に陥っていると知りながら、僕ら「成績上位者」を誤解していることと知りながら、僕らが手の内を明かさなかったのは不当な仕打ちです。Y君は、級友の受験勉強という、励まされる理由にも自信を持つ理由にもならないものを盲信していました。そして、僕らはそのことの具合の悪さに気づいていながら放置し、影で嘲笑っていました。僕らはY君の話を聞ける関係にあったのに、聞かずに見殺しにしました。
こうまで酷い仕打ちをして、どうして彼の死を受け止めて来られなかったのでしょう。
今なお、僕は「僕ら」でないと責任を背負えない弱い人間です。そんな僕にも毎年夏は訪れます。しかし、今に自分一人、罪の念を免れたいがために記憶を上塗りし、忘れ去ってしまうことでしょう。あるいは、もうそれは始まっているのかも知れません。
実家にある、かつての僕の部屋からは、一車線しかない県道が望めます。Y君が三年間、高校に通うために歩いた道です。なんの変哲もなく、田んぼと林に囲まれた田舎の風景です。僕が彼から奪ってしまったものの一つです。
友達と言えるほどでもないが、同じ部活だったり同じゼミだったりという繋がりがあった人の中で、そこそこの会社に勤めていて、ある程度コミュ力があって、顔もイケメンではないにしても不細工ではない人は大半が結婚している。
実際の所こうゆう男は普通ではないが、婚活女性で言われるところの普通の人という扱いの人である。
逆に、こいつ結婚できそうにないと思う人で、結婚している人は少数派である。自分は、後者なので今も独身である。
自分が女だと仮定したり、自分の妹が結婚するとして、いいなと思うような人は早い段階で結婚している。こいつと結婚するのは考えておけというのは、だいたい残っている。
女性で婚活している人が、普通の男がいないというのはよく分かる。
逆に女友達(知り合いも含めて)を見ると、どう見ても結婚しなさそうな人が結婚している一方で、結婚願望が高くて彼氏が途切れていなかった人が独身だったりと、男と比べると明確な軸みたいなのはない。
色々とこじらせる人も結婚している。反対に美人で性格もいいのに、いい男といないと言っているもいる。
高校の頃、私学だったから全教室エアコンがあったんだけど、どんなに暑くても26°Cまでしか冷房設定できない仕様だった。
教室は広いので26°Cでは普通に暑い。でも冷房あるだけマシだし、勉学に支障あるわけでもないってことでみんな律儀に守ってた。
部活がなくて暇な日に、暇を持て余した友達とふとどうにか冷房下げる方法ないのかな〜とエアコンのパネルをいじった。そしたら設定にロックがかかってた。馬鹿だった俺たちは放課後4桁のパスワードを解く為に1から9999まで打って探そうとした。2日ぐらいかけて探したら、創立記念日とか創立年数とか関係ない数字の羅列が見つかった。
ロックを解いてからは19°Cまでエアコン下げ放題で、クラスメイトも喜んでた。同学年にエアコンの温度下げられることが広まったし、さすがに教員に怒らられるかなと思ったら「この部屋涼しくていいね〜」ぐらいだった。教員も温度が下がることを知らなかったようだ。
それから1週間ぐらいたったある日エアコンの管理側(事務?)にバレたのか突然パスワードが変えられてしまって下げる事は出来なくなったけど、あのときはほんと馬鹿だったな〜って思う
発達障害の診断が出ている。
大学をクビになった。本当に被害妄想のくそったれた悲劇のヒロインごっこだけど、それでも主観としては、大学をクビになった。どれだけ頑張っても、折角合格しても、少しだけ届かない決まりごとに無理ンゴw単位やらンゴwされて辞めざるを得なくなった。数年経った今オンライン授業なら、もしかして通えてたのだろうかとか。本当に悔しくて未だに夢に出てくる。あの学科、学びたかったなあ。
その度に怒られた。これから先の人生で遅刻をするとどんなに損をするか、どれだけ他人の時間を奪っているか、似たようなことを一体一で語られ続けた。未だに年上と一体一のあのなんか圧のある空間が怖い。
遅刻以外はわりと真面目にやっていた。ノートが取れない(1回1回の授業はちゃんと受けているのに、ノートを完成させられない、途中で抜ける、忘れる、ルーズリーフが揃わない、なくす、などなどなどなど)とか苦しいことはたくさんあったけれど、とりあえず人を殴らずに生きれた。中学以降は。小学生の頃は何回か殴ったかも。ごめんなさい。あとリストカットもしてない。ドライヤーで腕を殴っていた。今は煙草に落ち着いたので比較的穏やかになった。
大学に合格した。三年経っても俺は一年生のままだった。何度も辞めろと言われた。ついに辞めた。500万の借金だけが残った。
学びたかったなあ、と心から思う。人体のこと、細胞やなんやの小さな小さな世界のこと、いろんな生物の仕組みはちらっとやってて楽しい。他にも心理学とか、犯罪心理学って名前がかっこいいから気になるし、海のこととか知りたい、趣味寄りでいうとフィルム写真を学びたいし楽器にも憧れがあるし。趣味は知識だからいっぱい学びたかった、いっぱい好きなことを作りたかった。
学校で「されたこと」は、本当に苦手すぎて一欠片も身につかなかった数学と英語の補習、遅刻の叱責。カスカスのバカのまま、しかもガイジが判明してもう何?wwwという感情。もちろん笑い事ではない。
なんかずっと罰を受けていたような気がする。
できないなりに、必死に学校行ってたのに。授業中に眠っている・読書しているやつ(彼らは塾に通っており当たり前のように遠い学校へ進学した)は良くて、遅れてくる俺は罰された。部活でも、なんか数日間、一日六時間ぶっ通しで罰掃除をさせられたりもした。「遅刻するから」。俺はアホなので見張りもいないのにちゃんと掃除してしまって手がなんか赤くガスガスになってしまった。
罰を受けましたという事実ができたら担任は満足して、俺を退部させてくれた。顧問が言った「お前はいてくれると思ってたのにな」が忘れられない。なんやそれ。どんだけ浮いてもハブられても遅刻してもできなくてもやってたのに、ついに大会に出させなかったの誰やねん。
はいはい悔しかったね。つらかったね。ほんでそれはそれとして、じゃあこれからどうする?って切り替えてもさ。
高卒ガイジが一般的な職業に就くのがどれだけハードル高いか。もうそれは程度によるけども個人的に言うと「無理😉🎶」や。ニッチな知識を身につけてニッチな職業に就ければ、ガイジはただの変な人になれる。ニッチな知識つけたるで!と思っても味方してくれるのは図書館だけ。
図書館の利用者カード作るだけで一苦労。借りるのも返すのも苦手。青少年広場みたいなやつにも登録したけど、ホームページに書いてない規則で無理ですね…と言われて数回追い出された。書けや。ガイジか?交通費返せ。
なおNHK高校講座(響きが草)はかなりありがたい。ネット環境っていう豊かさが必要ではあるけれど、かなりガイジ的ハードルの低い作りである程度信用できる情報に辿り着ける。タダ。
他に、どこに行けば「学べる」のかが全く分からない。高校ってあれ、なんやったんやろうな。本当にひたすら罰されてた。関係代名詞よりもたすき掛けよりも教えてほしいことがあった。もう今やクラップユアヘァンズぐらいしかぱっとわからんし繰り上がりの足し算で電卓立ちあげる。苦手なことをずっとやって、やっても結果はでなくて、罰されて、
最終的に辿り着いたのがここでも、自分がガイジに生まれたことも、塾に通えない経済環境のくせに夢を見たことも、物理と精神殴られ続けた日々も、謎の説教を受け続けて誰も解決してくれなかったことも、なんかもうそのへん全部ひっくるめて自己責任なんかな。俺が悪かったんかな。ガイジのくせに普通になろうとしてえろうすんまへんな。
なあこれからさ、ちゃんと学んで、現実逃避しすぎずに生きれるかな。生きててよかったとか言う日が来んのかな。ちゃんと自分の稼ぎでドルオタできたりするんかな。はやく半身不随になりたい。
来世では恋をしたい。まともで穏やかな人になって、自分は人ではないんやから結婚する権利なんて〜〜とか一欠片も考えないまま、普通に、ふつうに生きたい。欲を言えば、教育に携わる人になりたい。ほんま教育がおクソのこの国をッッッ!!変えたイーーーイイーッアアーーーーーンッ!!!命がけデーーエエーーーッ!!!!