はてなキーワード: 洒落とは
中学生の頃くらいから洋服が好きだ。特に中高の頃はファッション雑誌を見るのが好きだった。
ただお洒落なわけじゃない。一種のコレクター的な好きという感じだと思う。
でもマニアでもない。ビンテージのジーンズが好きだったりマルジェラやヴェトモンが好きだったりということではない。
ユニクロで売ってるような服でも好きな服もある。自分が好きな洋服を着てるだけでお洒落に気をつかってるわけではない。
あとコレクター的に好きなのはカジュアル系のものだけでスーツやネクタイを買うときは悩んで買うけど過不足なく買ってるだけだと思う。
流行が終わっても好きな服がある。そういった服が買えなくなるのが嫌。
だから流行が終わりそうなときに買いだめすることがある。買いだめといっても色違いを1着買うくらいだけど。
自分の中での「流行が終わる」には大々的な流行の終わり(例えばここ数年のストンとしたシルエットのMA-1の流行みたいなのが終わるようなこと)だけじゃなくて、なんとなく世間の嗜好とずれたのか製造上の都合なのかわからないけどちょっと前まで普通に売ってたのに最近見なくなったな(例えば80年代には生成りのリーバイス501,505なんてどこでも売ってたけどいつの間にか見なくなった。そういうのを経験してからこう思うようになった)というものも含んでいる。
買い換えが出来なくなりそうだと思ったらその手持ちの服を着る頻度を極端に下げてしまう。ほぼ着なくなる。好きな服なのに好きな服だからこそタンスのこやしにしてしまう。
30歳過ぎて太った。痩せるまで服はあまり買わないようにしようと決心して10年以上たってからダイエットに成功した。
太ってからファッション雑誌を読まなくなったけどdマガジンがきっかけになってまた読むようになった。
特に欧米からのインポート物はかなり高くなってるものが多いと思う。さっきも書いた生成りのリーバイスみたいに好きだった洋服で買えないというものがまたいくつも出てきたのにも気付いた。好きな洋服でこれはもっと高くなる可能性もあるとか廃番になる可能性もあるとか思ったものを買い始めた。
ほとんどの時間をスーツで過ごしているのでカジュアル系の洋服が傷まない。
古い洋服で残っているのは好きな洋服だし、ほとんど傷んでいないし、流行かどうかは自分の基準では関係ない。よく断捨離系で「ワクワクするもの」かどうかを判断基準にするようなことが書いてあるけどこれらは自分にとって「ワクワクするもの」だ。
古い洋服で着用感があるものはもちろんあるけどそういうのは実際によく使っているものであってそれを捨てても新しい似たような物を買う必要がある。(そういったものは思い出が染みついているから買い換えるのにやや抵抗があることは否めないけれども)
最近買った洋服はコレクター的に前から自分の好きだった洋服か実際に今着るもの。捨てる対象になりにくい。
これを書いたのは少し冬物処分しなきゃなと思ってるから。処分の候補は3月くらいから休みの日に着るようにして家族に写真撮ってもらってる。それでもたいして減らない。
今はもう会社都合で転勤になってしまったが、当時川崎(最寄りの駅で言うとJR南武線の矢野口~稲田堤の間)に住んでいて
通勤路は表通りの府中街道沿いか南武線近くの二ヶ領用水沿いの道を使っていた。
4月になると二ヶ領用水沿いにある桜は見頃になり、自転車を漕ぎながら見るのもよいが
休日には家から会社のあるところ、さらに登戸方面まで徒歩で散歩するのが春の楽しみの一つだった。
稲田堤駅から少し歩いたところ、焼き鳥屋が入口になっている裏通りにある団子屋(会社の帰りによく割引弁当を買っていた)で
団子を買い、それを持って散歩に行った。用水路沿いにはところどころに腰掛けがあったのでそこに座って花見団子と洒落込んでいた。
用水路のせせらぎの音と桜の花、そして鴨や鯉などの生物を見ると安らかな気分になれた。
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/04/post-7389_1.php
この話は、テレビ黎明期の頃から言われていることで、書物にもいろいろあるのだからDockerのテクニカルリファレンス本を読むのならそれは「調べもの」で、闇金ウシジマくんを読むのならそれはマンガを読む楽しみだし、ファッション誌を読むのならそれはお洒落の準備だし、ブックオフで中古で買った新書を読むのならそれは暇つぶしです。
通勤電車内での時間つぶしならスマートフォンのほうがはるかに効率的で、ゲームもSNSも音楽鑑賞も映画鑑賞も全部できます。
何かの勉学に取り組むのであれば、それは本であれネット情報であれ学者の講演会であれいろいろ駆使して追求するわけですから、何も「書物」に知を仮託する必要はありません。
文章量が多いので、文字数制限の都合から前編と後編に分けて転載した。
北朝鮮と韓国が戦争状態に突入すると、その二国だけが被害を受けるならともかく、実際は日本やアメリカ、そして後述するようになんと中国やロシアまでも思わぬ被害を受ける事になってしまいます。
戦争になると、北朝鮮と韓国は誇張ではなく「双方の国が亡びる」事になります。
日本は北朝鮮自身が「有事の際には日本もミサイル攻撃する」と宣言しているので全然対岸の火事ではなく、ミサイル攻撃だけでなく国内にいる北朝鮮工作員達による様々な形のテロも起きて被害を受けるでしょう。
ミサイル攻撃については、核が搭載されているか、まだ実用化されていないかはわかりませんが。
アメリカの場合は、北朝鮮のミサイルはまだ届かないと思いますが、日本と同じく全米各地にいる北朝鮮の工作員達が一斉にテロをやってきたり、北朝鮮から出港した潜水艦でアメリカ本土を直接ミサイル攻撃してくるという事も起こり得るでしょう。
朝鮮半島有事は、「北朝鮮と韓国の当事者国は双方が亡びるし、関係国も甚大な被害を受ける」という、まったく誰の得にもならない事態を引き起こすため、何があっても戦争になるのだけは絶対に回避しなければいけません。
北朝鮮自身が日本への攻撃も宣言しているので、「日本は対岸の火事」だと未だに思っている人はその認識を改めるべきでしょう。
それぞれの国が被害を受けないようにするには、我々は一体何をしたらいいでしょうか?
朝鮮半島にアメリカの原子力潜水艦や空母を常時配備したり、韓国に核ミサイル基地を設けて『武力による抑止』をもって戦争を回避するという案もあるとは思います。
ただ、武力による抑止は、抑止としてきちんと機能するうちはいいですが、逆に緊張をより高めて戦争状態に突入させやすくする事にもなりかねません。
「武力による抑止」をやるかどうかとはまた別に「情報による抑止」もあらかじめしておいて、戦争を回避しようとすべきではないでしょうか。
「情報による抑止」は、今この文章を読んでいるあなた方もそれに簡単に協力できる事です。
『情報による抑止』とは、北朝鮮と韓国の双方の人間に、「戦争状態に突入すると、どちらの国も必ず亡びる事になる」という『必ず起こる事実』を繰り返し認識させ、何があっても戦争しないように仕向ける事です。
実際に戦争状態になると、誇張ではなく北朝鮮も韓国も双方の国が亡びる事になります。
「片方の国は被害が軽微」という事は絶対にありません。確実に北朝鮮も韓国も双方の国が亡びる事になります。
「それがわかっていてもなお、あなた方北朝鮮と韓国はまだ対立を続けるのですか?もう和解するべきでは?」と、突きつけるのです。
しつこいくらい繰り返し、繰り返し。
また、実は後述するように、『もっと洒落にならない事態を朝鮮戦争では引き起こしてしまう』というのがあります。
こちらの方がインパクトはより大きい。
<各国が受ける被害>
まず北朝鮮はアメリカが戦争を短期で終結させようとして、核攻撃も辞さないで本気で総力をもって攻撃し、北朝鮮は壊滅するはめになります。
一方、韓国は北朝鮮の攻撃でソウルが開戦まもなく火の海になり、他の都市も北朝鮮の熾烈な攻撃を受け、莫大な数の死者が出て、おまけに韓国経済も壊滅するでしょう。
朝鮮有事は、「北朝鮮と韓国の双方が亡びる」という事につながり、その点だけでも北朝鮮と韓国の人間はどちらも「何があっても戦争にならないよう、もう対立はやめて対話を選ぶ」と改めて認識すべきです。
いまだにお互いがお互いの国を非難しあっていますが、その先には「双方の国の破滅しかない」という事にいい加減両国の人間は気づくべき。
実は北朝鮮と韓国の被害はそれだけには留まらず、もっと洒落にならない事態を引き起こします。
「戦争状態になると、北朝鮮の核処理施設や韓国の何十基もある原発が攻撃を受けたり、あるいはまともに管理されなくなり、チェルノブイリや福島原発事故をはるかに上回る量の放射能放出が起きてしまい、朝鮮半島の大部分を強い放射能汚染で人が住めない地域にした上で、周辺国のロシアや中国、東南アジア、日本などにまで汚染が広がる」と、世界各国の研究機関が『朝鮮半島有事の際にはほぼ確実に起こりえる事』として想定をしています。
原発の存在をすっかり忘れている人も多いようですが、北朝鮮にも韓国にも数々の核処理施設や原発があり、おまけに北朝鮮は2015年にも「有事の際には韓国各地の原発を攻撃する」とはっきり宣言しています。
ミサイル攻撃以外にも、戦争時に南北の軍事境界線が大きく動くと施設から人間が逃げ出し、停止させた原発も送電施設や発電所がやられてしまうとまともな管理者達が逃げた状態では原子炉や燃料プールのメルトダウンを引き起こします。
福島原発事故では燃料プールのメルトダウンはなんとか防げましたが、北朝鮮と韓国の戦争では人が逃げ出してしまいそうはいかなくなります。
燃料プールのメルトダウンまで起き、放出される放射能の量は福島やチェルノブイリ事故とは比較にならないほど莫大な量になる、と世界各国の研究機関で試算されています。
北朝鮮と韓国が本格的な戦争状態に突入すると、朝鮮半島の多くの地域がひどい放射能汚染で人が住めない地域になってしまうのです。
ロシアや中国、東南アジアや日本などその他の国々にまで汚染は広がり、周辺の海までもひどい汚染を引き起こす。
逆に言えば、この事実をもっと広く知らしめる事が、北朝鮮と韓国の双方の人間に戦争を思いとどまらせるための『大きな大きな抑止力』になりえます。
そのためには、北朝鮮と韓国の双方の国に対して、「戦争状態では原発や核処理施設が攻撃を受けたり適切な管理が行えなくなり、チェルノブイリや福島原発事故を大幅に上回る量の放射能汚染を引き起こし、朝鮮半島の大部分を人が住めない地域にした上、ロシアや中国、東南アジア、日本などにまで汚染が広がってしまう。戦争だけは何があっても回避しないといけない。」という緊急の声明をIAEAや国連が繰り返し出すのです。
IAEAや国連はそのような事態を回避したいと本気で思うなら、今すぐにそういう声明をきちんと出すべきです。
そういう事にならないようにするのがIAEAや国連の本来の役割でしょ?
今でさえ福島原発事故によって原発に対しては世界的に風当りが強くなり、東芝の倒産寸前になるほどの莫大な損失でもわかるように原発業界は斜陽産業になっています。
もし朝鮮半島で戦争が起き、想定されていたとおり大規模な汚染が実際に起きると、もう世界中で原発に対する大きな拒否感が出て、今以上に終わるのは確実です。
IAEAにとっては非常に望ましくない事態を招く事になります。
IAEAはそういう事態を回避したいのなら、今のうちに緊急の声明を北朝鮮と韓国の双方にきちんと出して、絶対に戦争が起きないようにすべきです。
また、youtubeで「朝鮮半島有事の際には、大規模放射能汚染が確実に起こる」という内容の動画をアップロードするという手もあります。
ピコ太郎氏がPPAPの動画一つで思わぬほどの莫大な富を得た事がありました。
インパクトのある動画なら信じられないほどの再生数を世界で叩きだし、広告収入もすごい事になります。
「朝鮮半島有事の際には、放射能汚染により朝鮮半島の大部分を人が住めない地域にしてしまう」というのは、相当インパクトのある話です。
そういう内容の動画をアップし、多言語向けの字幕バージョンもきちんと作れば、今朝鮮半島情勢が緊迫している事もあって、世界各国での再生数がすごい事になるでしょう。
また、その動画は北朝鮮と韓国の緊張が高まるたびに繰り返し紹介され再生数は今後もずっと伸びていきます。
残念な事に万が一戦争状態に突入して朝鮮半島の放射能汚染が現実の物となってしまった場合も、「事前に放射能汚染を警告していた動画がある」という事で世界中で次々と紹介され、再生数がものすごい事になってしまいます。
youtubeで動画をアップロードしている方や、3DCGでリアリティのある映像を作れる方は、以下のような感じの動画を作ってみてください。
「朝鮮半島で戦争状態に突入すると、戦争開始からまもなく周辺国で放射能が漏洩しているのが検知される。北朝鮮の核処理施設や韓国の原発から放射能漏洩が起きているのが判明するも、もう止める事はできなくなり、汚染は朝鮮半島を中心に広がり、朝鮮半島の大部分が人が住めない地域になった上、ロシアや中国、東南アジア、日本などのその他の国の一部にまで汚染は広がってしまう。だから戦争になるのだけは絶対に回避しないといけない。」という内容の動画を。
普段から映像制作の仕事をされている方、日本の方だけでなく海外の方でもいいので、どうかそういう動画を作ってyoutubeにアップして拡散していただきたい。
あなたが作ったその動画が世界中で話題になると、北朝鮮と韓国の双方の人間に思いとどまらせて戦争状態に突入するのを回避でき、ひいては日本が被害を受けるのを回避するのにつながります。
おまけにPPAPほどではないと思いますが、再生数に応じた広告収入で結構洒落にならない額の金が入ってくる事になるでしょう。
私と違って動画を作るスキルを持っている方は、今目の前に転がっている「大金を手に入れるチャンス」をどうかお見逃しないように。
後編はこちら
http://anond.hatelabo.jp/20170412123845
普段ネット上でトンキンwwwなどと煽ったりもしたが、ちゃんとしたかたちで東京を見てみた。
俺は今の日本の経済についての知識が欠落しているのであくまで一個人の主観的な感想として見てほしい。
まあ、腐っても鯛というか、一言で東京スゴイ東京発展し過ぎwwwと思った。
まず熱気が違う。どこも人に溢れ、各人が明日の夢と成功を求めていきいきと生きているようだ。
海外旅行で熱いアジアの新興国へ行った帰り、日本の家路につく時に感じる落ち着いた空気、冷えた空気、少し寂しさの残る空気が、東京に限っては皆無のように思われる。
そして、資本の密度が田舎のそれとは明らかに異なる。ここだけ異常だ。
日本全体の資本の4割くらい東京に集まってんじゃないかと目まいがするほど、東京の街は執拗にギラギラとしていた。
道を3メートル歩く度に、雑貨や食べ物の個性的な素晴らしいお店が立ち並ぶ。東京は街そのものが遊園地のようだ。
街中にメーカーのロゴや店の看板がこれほど絶え間なく多く寄せ集まっているのを見たことが無かった。田舎の繁華街が、東京では1ブロックごとに配置されていた。
麻布という言葉は知っているものの、どうしてメディアによく登場するのか分からなかった。実際に夜の麻布に行ってみてそれが分かった。
少し歩くと六本木へとつながる麻布では、日本の一般的な戸建て住宅とは異なる重厚な外国風の豪邸が立ち並び、日本のビバリーヒルズ?と思った。
歩いていると大使館の玄関に次々と遭遇し、ここが首都であることを改めて実感した。
洒落た少戸数型マンションへ帰宅する人たち、1分に1回の間隔で見かける品川ナンバーの高級外車・・・
日本の上位数パーセントの成功者・支配階級が寝床とするコミュニティ、外の世界の喧騒からの影響を受けない住み心地の良い閉じたコミュニティに足を踏み入れていた。
海外のエスニックな料理が好きなのだが、普段日本ではそれが食べられないと嘆いていたものの、東京では全く心配いらない。
ここは本当に日本か?と思うほど海外で経験したスパイシーで胃袋を鷲掴みする良い香りの熱気があちらこちらから流れてきて心が躍った。外国人の数も非常に多い。国際色豊かでカオスな感じ、料理が不味いわけがない。いつか夜の居酒屋巡りをしてみたい。
同じ日本人でも、地方田舎で住むことによって形成される日本に対するアイデンティティと東京で形成される日本に対するアイデンティティは異なるということに初めて気が付いた。
田舎の落ち着いた日常の心休まる日本、東京の激動の熱い日本、どちらも素晴らしいものだ。交互に味わえたらどれほど幸せだろう。
来年、この住み慣れた街を出て行くことになる。
その街の名を上石神井(かみしゃくじい)という。
西武新宿線という、おもに川越や所沢などあまり品のある方ではない埼玉県民を東京に送り込むための路線において高田馬場から急行で2駅・13分の立地である。
私は大学進学に合わせて上京し、とくに大きなトラブルもなく3年間を過ごしてきた。
「とくに大きなトラブルもなく3年間を過ごして」しまったのである。
上石神井駅は決して大きな駅ではないが、特急以外の全ての電車が停まり、山手線圏内へのアクセス性も非常に高い。
牛丼屋は松屋とすき家から選ぶことが出来る(私は吉野家のアンチなので、これは幸いであった)。
駅のすぐ近くにはアッサリ系のラーメン屋と二郎系のラーメン屋が激安ドラッグストアを隔てて並立しており、その日の気分に応じてラーメンの濃淡を選ぶことも出来る。
駅に直結している西友は24時間営業で、しかも深夜にはアルバイトのハセガワさんという美人もいる。
コンビニはファミリーマートおよびセブンイレブンがあり、ポイントカードの宗派争いにも寛容である。
セブンイレブンの向かいにはホットモットもあり、弁当を買うにあたって選択肢には事欠かないことだろう。酢豚が食べたければ少し離れたところにオリジン弁当もある。
その他にも美味いパン屋や、チャーミングなババアのいるクリーニング店、ちょっと小洒落たパスタのお店なんかまであり、要するに至れり尽くせりなのである。
借りたアパートもまた良かった。駅徒歩7分の好立地で家賃4万2千円(共益費込み)。
隣人の大学生は重度の花粉症であること以外はまことによく出来た人物で、鼻をかむ音さえ筒抜けの防音性でありながらそれ以外の物音に悩まされたことなどかつて一度もない。
むしろ隣人の鼻をかむ音に「ああ、今年も彼の花粉症が始まる時期か・・・」などと歳時記的な感傷にさえ浸っていたくらいである。
頻繁に外れる網戸に業を煮やし、内側からガムテープを用いて目張りのように固定したせいで友人から「ガス自殺の部屋」という不名誉な称号をこそ付けられてはいたものの、私の生活にはおよそ十分な住まいであった。
もしも、最寄りのスーパーは20時に閉まってしまったなら?(しかも、そこにハセガワさんの存在しないことは自明である。)
もしも、オリジン弁当の酢豚が食べたくなってしまったら・・・?
私の大きな失敗が、そして不安がここにある。
初めての一人暮らしで、あまりに好条件な暮らしの出来る街を引き当ててしまったのである。
ご存知のことかもしれないが、一度上がってしまった生活水準というものはなかなか下げられるものではない。
その「高い水準」の指すものが、たとえオリジン弁当の酢豚であっても、クリーニング屋のチャーミングなババアであったとしても、である。
これから就職活動を終えて引っ越す街を、愛せる自信がないのだ。
これほどまでに自分のために誂えられたような街を、日本のどこにでも見つけられることなど出来るだろうか。あり得ないのではないか。
郷土愛をあまりにミクロなところに見出してしまった私を、就職活動はどこへ連れてゆくのだろう。
ハセガワのような在り来たりの苗字を、読者諸兄にあっては思い思い当てはめて頂きたい。そして全国のハセガワさんと、このハセガワさんを慮る諸兄は安心して頂きたい。)
先週末オフ会で久々に集まったオカ板の連中と飲み、
ついでの話で盛り上がった件について準備が整ったのでご報告。
この度「洒落にならない怖い話」無断転載ブログ、YouTube朗読動画への集団訴訟を行うことになりました。
本来は悪質な私たちの「ブログ」から転載している方のみを対象とするつもりでしたが、
2ちゃんねる、またはおーぷんちゃんねるを経由しまとめブログに載せる、といった
二次転載を「ブログ管理人が精力的に行っている」様子も見られたため、
(個人でやっている「怪談」「意味怖」でさえブログに貼ったその数時間後に
転載されるのが現状。ひどいところではその日のうちに朗読され、YouTubeに動画が上げられます)
こちらから確認できたすべての二次使用について対象とすることで弁護士との調整が完了しました。
さて、私のブログにはしっかりと
「いかなる二次使用についてもその使用料五万円」と明記してあるので
少なくとも一言一句違わず私たちの話を朗読し、YouTubeでのアップロードを行っている怪談朗読系10アカウント、
またその他、一度YouTube側にアカウントを削除していただいたにも関わらず
結果が出ましたらまたご報告します。
http://anond.hatelabo.jp/20170327002725 の元増田です。
とにかく吐き出したい一心で書き込んだものにさまざまなお言葉をいただき、とても驚いています。
書き込んだときは、一つ二つコメントがあれば御の字、よくて炎上事案だろうと思っておりました。自分が発信したものに、こんなにも多くの方からの方から反応をいただいた経験もなかったため、あまり現実味がなかったのも正直なところです。
しかしながら、増田の皆さんがコメントするという手間を割いてくださったこと、純粋に嬉しく思います。読み初めは恐る恐るでしたが、最後には泣きながらすべてのコメントを拝読しました。
ありがとうございました。
いただいたコメントの中には、はっとしたり、感銘を受けたり、お礼申し上げたいお言葉がたくさんございました。
今後立ち止まったときに読み返したいという思いもあり、誠に勝手ながら覚え書き代わりに再び書き込んだ次第です。
こんなところまでご覧になる方はごく少数かと思いますが、以下、先の書き込みを通してわたしに投げかけられたと思しきコメントを中心に挙げさせていただきました。
わたしの頭が及ばず文脈を読み取ることのできなかったコメント、コメントに対するコメントなどついては割愛させていただきます。本旨を拾うことができていない場合も見受けられるかと思いますが、ご容赦いただければ幸いです。
自覚がなかっただけ余計に質の悪い「いけ好かなさ」があったのだろうと思いますし、言い訳以上でも以下でも無い書き込みでしたのでご指摘ごもっともです。貴重なお時間をいただいてしまいすみません。
解決法、相談場所など考えるなり調べるなりすべきだったところ、自分勝手に思い詰めた挙げ句思考停止していました。
- 単なるビビリやん、行動するのに御託を並べてる時点でビビリ卒業できてないわ
- 自分の人生から逃げ続けていると、そのうち人生からしっぺ返しを食らう。
- 傷つくことを恐れて逃げると、もっと傷つくことになる/同世代にだって心を受け止めあえる優しい人がいることをまずは知って欲しい。とにかく探して話していけば、きっと人として愛しあえる。
- 残念、悉く受動的。恋愛に限らず、してもらうことばかり考えている人に惹かれる人は少ないと思うよ。許されたい、愛されたい、と他人に望んでばかりじゃね。
- コンプレックスのせいで受け入れてくれそうな人に甘えているだけでしょ。お洒落やモテる努力をしてコンプレックスを解消してみては?30代は出会いが沢山あるので遅くないよ。今諦めると10年後にもっと後悔する本当に
- 酷い言い方かもだけど、メソメソこんな私を愛して延々言ってたら、一生搾取おじさんの餌食から抜け出せないと思う 自分も自己肯定感低いけど、なんとか脱しようと努力しているから増田さんとは相容れない
コンプレックスの強い部分が性にまつわる事柄に集中していたのでああいった書き込みになりましたが、そもそも人として受動的である、ということをコメントを通して実感しています。
こちらも仰る通りだと思います。
自分と向き合うこと。価値を見出すこと。認め、受け入れること。すべて放棄してしまったがゆえの今のわたしですね。
このあたりも刺さったコメント群の一つでした。
自主性を放棄したのも自分の選択ですが、そのあたりを「放棄せざるを得なかった」と外に責任転嫁。「誰かと恋愛を共有できずとも生きていく」ということに固執し、「私は違う」と言い聞かせながら、どこかでは自分から愛するのでなく選んでもらいたいという望みを抱えていた気がします。
いや、抱えて”いた”というか。現在進行形の方が近いでしょうか。
なので、こちらのご指摘の通り、自尊心の壁を崩して自己開示することは大きな課題だと思います。
不倫は二度とごめんですが、(誰かに迷惑をかけない形で)失敗を恐れず経験を積み重ねることができたら素敵ですね。
自分が傷つきたくない一心で積極的な行動を避けるようになりましたが、はたしてそれで何を守ることができたかと問われると、得心のいく答えが見つかりません。
文化的な背景であったり、そもそも現実的な部分であったり、分かっていなかった部分がたくさんありますね。
少女漫画やドラマのリアリティを疑う頭はあるくせ、夢見がちな自分の頭を自覚する能は皆無だったのだとつくづく思いました。
わたしが選り好みしない人間であれば、何食わぬ顔で件の人との関係を続けていたでしょうし、きっとああいった書き込みもしていません。
いくら年上が好きでも不倫だなんてありえないし、人の旦那に引っかかるような女にはなりたくない。そう思っていた十年前の自分に今回の書き込みとこちらのコメントを突き出してやりたいです。
正直ぐうの音も出ません。
- 老婆心ながら、その欲求は意識してコントロールしないと望まないトラブルとか、心ない人間に騙し討ちされたりしやすくなると思う。
- 欲求がないのに無理して合わせようとしてた自分からすると欲求がある時点で十分に女というかまっとうな人間様に見えるんだけども欲求が先走ると不要なトラブルがついてくるのもまあわかる…運だな~
- 性的欲求が強くて自信がない女性って、不倫狙いのクズ男の格好の餌食だなあ。さっさと次行きましょう
- この悩み非常にわかるんだけど何かしら変わらないとまた同じような不倫おじさんに捕まってしまうと思う、自己肯定感がないと変なのに搾取されてしまう
- 自分も昔は年上命だったな。年を重ねたおかげか、最近は5歳上くらいが限度だな。あんまオッサンだとふとした時に萎えそうだし。性欲については自分で折り合いつけるしかないよねー。妻子持ちになんて騙されちゃダメ
- 悪い男に引っかからないように気を付けてください!!
年齢ばかりが大人の濃度を増すのに比例して、欲求も複雑かつ深くなっていくので、大人として制御の仕方も覚えねばと強く思います。
同じ轍を踏まないための必須スキルが自己肯定であることも忘れずにいたいです。
コメントを受けて自分の文章を読み返したのですが、見てくれからして自分を好きになることができないあまり、中身はおろか包装さえ魅力がない!だから手にとってもらえない!という書き込みになっていましたね。
もちろんそう感じていたのは事実なので、コメント一つ一つから見目に執着していたことを自覚することができました。
書き方が悪かったため「可愛らしい女の子」に内面も含まれることが全く伝わらなかったことと思います。すみません。
わたしが羨んだ親友たちが(自覚的にせよ無自覚にせよ)努力で構築してきた「かわいさ」には、親しみやすさであったり、思いやりであったり、内面の豊かさに表れるものもたくさんありました。わたしが可愛いと感じた外見も、そうした内面から滲み出る表情・仕草が大半を占めていた気がします。
明るく振る舞っていた彼女たちと、マイナスばかり抱えて鬱屈していたわたしとでは、比べるべくもありませんね。
自分の書き込みが外見ばかりに言及した内容であることに気が付かなかったあたり、内面から目を逸らしているというご指摘は的を射ていると思います。
このあたりもすごくはっとしたコメントばかりです。
女として、女になりたい、女、女……と再三嘆いているわりに、わたし自身が劣等感を通じて「女性」という性を蔑み、貶していたのではないか?と感じました。
自尊心にしがみつき、わたしの憧れる「女性」に対して「わたしは違う」とどこかで思っていたのと同時に、女性としての価値も勝手に決めつけていた気がします。これもまた思い上がりですね。
- すごい違和感。増田の中で「女性=選ばれる立場」という認識?選ばれたいという願望で自覚的にそう思ってるならまだしも、増田にだって愛する権利は勿論あるし「人として」愛されるという選択も確実にあると思うけど
- ショーケースなんかに並んでないで、自ら狩りに出れば選びたい放題だよとマジレス。
- この人は「選ばれること」「評価されること」を強調するけれど、自分自身もまた「選ぶ立場」「評価する立場」であることを忘れている。その非対称性が少し気にかかる。
- 受け身は止めてみたらどうか。あなたが主導でも恋愛は成り立つ。
- 既婚者なのに言葉巧みにおいしいとこだけ持ってこうとするやつなんかに選ばれようとしなくていいよ。そんなショーケースに自ら入る必要ないよ。あなたを「選んで」くれる人を、自ら選べるはず。
こうしたご指摘を受けた根底には、上記のような「女性」に対する偏った価値観があったのだと思います。
日常生活の中で無意識に「選択する」ことを繰り返しているはずですが、そのあたりを自覚できていなかったのも問題なような……自己肯定すること、主体性を持つことにも繋がると思いますが、前向きに選ぶことができるようになるのも課題の一つと感じました。
- ショーケースなんかに並ばなくていいじゃないか。
- 男子からしてみれば、女子の考える女子力で女子を選んだり好きになったりはしない。女子の、いい匂いとか可愛い仕草とか胸が鳴るモーションとかは意識するきっかけでしかない。ショーケースに並ぶより選んじゃいなよ
- 愛とはショーケースの外で成立するものです。
- 女としての地位とかショーケースに並ぶ努力ではなくあなたの趣味と同じ一つの楽しみじゃないのかな。たまたまその楽しみが直接自分自身に向かっているので欠点を直視したり自分を大切にすることに繋がったのだと。
- 恋愛もおしゃれも、ショーケースに並んで奴隷になるためのものじゃないよ...。思いつめて不幸に向かって突き進んでいるようでつらい。
前述したコメント群から繋がるものですが、こうしたご指摘は、偏った価値観に縛られて手段が目的になっていたのだと気づかせてくださいました。
ショーケースに並ぶことは女として取り得る手段のひとつにすぎず、それ以外の選択肢があることを理解しようとはしていなかったのかもしれません。
労っていただいてありがとうございました。
上記の通り偏った価値観から好き勝手に嘆いていましたが、「女」になることで何が欲しいのか?という問いに対する明確な答えを持ち合わせていなかったことに気がつき呆然とした次第です。
好みの恋人を得るために可愛い女性になりたかった、というのが当てはまるような気はしつつも、女として生まれた自分が持ちうる一番身近な「愛される形」が「女性」だったのでは、とも思いました。
ものごころついて以来、女である自分に違和感を感じながら生きてきた。自分みたいな「女の出来損ない」が、さも「ふわふわで甘々のオンナノコ」であるかのように装ってはいけない気がして、化粧にもお洒落にもスイーツ文化にも、近寄らずに生きてきた。中身が悪いのにパッケージだけ飾ったら、詐欺だと思ってる。
ときどき、今までの自分の人生や、女であることへの違和感を吐き出したくて、どうしようもなくなる。でも、自分が言いたいことに近いことや共感できることが書いてある書き込みには、大抵、「みんなと違うワタシ乙w」「典型的な女w」「はいはい自サバ自サバw」「めっちゃ陰湿なザ・女w」みたいな反応がつく。愚痴ることも違和感を表明することも許されない雰囲気が蔓延してて、怖い。
自分の人生の全てが「女というもの」に絡め取られてて、嵌っても「女」だし、はみ出ても「女」だし、女にはバリエーションが認められなくて、全てがただ「女」に収束していく感じがして、息苦しい。
自分には恋愛感情を関係として発展させる才能がない。と、思っていた。
最近は、できたことがないのではなく、作る努力をしてこなかったのだと感じている。
学生の頃、お洒落や化粧、恋愛に一生懸命だった周囲は別世界の人のようだった。
そういうことに興味を傾けずとも自分は充実していると思っていたし、実際、好きな音楽や本だとか、趣味に没頭する時間が好きだった。
人並みに誰かを好きになることはあった。
同級生たちと違ったのは、相手が手の届かない大人ばかりだったということだ。
成就するはずもない相手だという希望の無さに一種の安心感を覚えて、好き勝手に思いを募らせていた。
年上に惹かれるのは完全に好みの問題だが、恋愛に対する能動性を放棄し続けてきた要因にはこうした好みも含まれるのだと思う。
わたしには自信が無い。
とくに、女としての自信が無い。
親友と呼べるほどの間柄にいつも可愛らしい女の子がいて、年上に惹かれるようになる前、同級生に恋をしていた時代の意中の人は悉く彼女らに夢中になった。
彼女たちのように可愛くなりたい。
そう思うより先に、私は女の子として愛してもらえる存在ではないのだと思った。
恋をすることが怖くなった。可愛い女の子たちと比べられること、女として評価を下されることに耐えられなかった。
異性(とくに同世代)に対して、女として扱ってもらうことを諦めたのは十代半ばくらいの頃だ。
手が届かないほど年の離れた人に惹かれるようになったのもその頃だった。
年齢だとか、立場だとか。障害が多く、どう転んでも関係を発展させられないという事実は、わたしが美少女だろうが醜悪な面だろうが覆らない。
才能の有無によって結果が左右されないことが嬉しかった。(今でこそそれも立ち回り次第だと思うが)
逆に言えば、何の努力をしなくてもいい。女として評価されることが怖かったわたしには、この上ない逃げの口実になった。
完全に好みの問題だとは言ったが、書いてみると年上に惹かれる理由はこうしたところにもあるのだろうと思う。
女として傷つかない安全なところで、好き勝手に一人で恋をして、恋が成就せずとも(結婚できずとも)生きていけるようになる。
十代の頃であれば、年の離れた人といっても二十代や、せいぜい三十代前半。独身が多かった。
でも今は違う。今のわたしと比べて年の離れた人、と言うと、世代的にも家庭を持っている人が多い。
そういった人たちの余裕に惹かれるところがあるのか、ここ数年は妻帯者ばかりを好きになっている。
同じ社会人だ。否が応でも同じステージで女としての評価を下される。
それさえ初めは「思わせぶりな態度でその気にさせられた」と思っていたのだから、笑うに笑えない。
恋愛一つ誰かと共有できた試しのない女が、既婚者相手に勝手に思い上がっていただけだった。
違うことは他にもある。
十代の頃にも年相応の知識はあったが、自慰を覚え、知識と身体の感覚が噛み合ってからは他者と繋がりたい欲求が募っている。
とはいえ、恋愛一つままならないわたしにとって、性交渉などさらに高みにある高次コミュニケーションだ。
前段階も突破できずにいたのだから、それこそ手の届かない次元の話だった。
だが、そういう中でも希に異性からアプローチを受けることがあった。
社会人になってから知り合ったその人には、こうしたコンプレックスや鬱屈した部分の一部をうち明けていた。
異性としてというより、人として感じる安心感から話したような記憶がある。下らない自己嫌悪を真正面から受け止めてくれたことが嬉しかった。
そうしているうち、経験を積んでみたら変わることもあると言われ、全てを委ねた。
他者と繋がりたい欲求と、変われるなら変わりたいという焦燥が強かった。これを逃したら二度とそんな経験はできないかもしれないとも思った。
その人が妻子ある人だと知ったのは、後の話だ。
自分の立場がありながら誘いを持ちかけてきたその人に対してというより、ここまできてしまった自分に呆れた。
あれほど女として扱われることを、評価されることを怖がっていたのに、逃げていたつもりで雁字搦めになっていた。
本当は、女として生きてみたかったのだと痛感した。
わたしには自信が無い。
とくに、女としての自信が無い。
今となっては、私の周囲にいた可愛らしい女の子たちが、彼女らなりの努力をして女の子としての地位を獲得していたのだと思う。
若いうちから彼女らはきちんとショーケースに並び、自身を磨いていた。
一方、わたしは女としてショーケースに並ぶだけの度胸がなかった。努力を放棄した。
相応の結果として今がある。
それでも、女として生きてみたいことに気がついてしまった。
自分だけと、後ろめたさなど一切無い関係を結んでくれる人がほしい。
愛することを許されたい。愛してもらいたい。
どんな風に努力を重ねれば、今更でも、こんなわたしでも、女という性を自分のものにできるのだろう。
もはや諦めるしかないという気持ちと、女であることを諦めきれない気持ちとが堂々巡りしているので整理したくて書き込んだけれど、結局まとまらなかった。
かわいいスイーツや、お洒落なファッション、流行のコスメ、最先端の流行スポット、自分らしいライフスタイル、婚活、彼氏のこと旦那のこと、いいけど、いいけどさ。
ほかにも大事なことはあるんだよ。
勉強ができるできないはおいといて、中学生のまんまおっきくなった女性が多いの。年齢とか職業とかすんでる場所関係なく。
30間近の普通に社会にでて働いてる女性が、本も読まず社会情勢にも関心がなく、顔が変わりすぎるアプリで可愛い自分の写真をたくさん撮ってSNSにあげて「あっフォロワー増えた♥」とかいってはしゃいだりさ。少女漫画の原作を実写化した中身スッカスカのラブストーリーとか観ちゃってさ。とにかく精神年齢がこどもすぎる。
それともさ、国とかメディア総ぐるみで、女が賢くなったら権利を主張するだけで面倒になるから馬鹿のままでいさせよう、子供を産み育てる、これだけやってりゃ知性を磨く必要はなしって考えなのか?だからあんな低俗なテレビばっかして女性を馬鹿にしてるのか?
あんな稚拙な内容の番組ばっかりだから、この国で女性として生きるのに、賢くなる必要はないんだって女性が思い込んじゃうんだろうが。
女性は空気に敏感だから、賢くない人が多くいれば、やがて賢い人も、退行して多数派に流れちゃうんだよ。
読書もろくにしないから語彙力に乏しくてむかつく~きもい~ヤバイ~うける~しか言えないあほな女性、
ネットのニュースの表面的なことしか知ろうともせず他人の評価を気にしてSNSに依存する女性、
若くて美しい自分が一番大事だから綺麗でいることに固執する女性、
キャバクラで働くこと水商売をステータスだと感じてる下品な女性、
男のことで頭がいっぱいで男に好かれる女を演じ続ける女性、
結局は稼ぐ旦那を捕まえるのが女の最上級の幸せだと信じて疑わない女性、
こんなんが8割。あとの2割は賢いはずなのに少数派だから日陰者。
なんて視野が狭い生き物なんでしょう。
男もさ、日頃からニュースについて話題に出して意見を言い合うとかさ「日本の政治終わってんな~」とか言って終了、じゃなく、どうしたらいいんだろうって一緒に考えて、もうちょっと彼女とか奥さんの知性の向上に努めるべきだと思う。
もちろん男も馬鹿じゃいけないと思う。スマホゲームばっかしてちゃあいけない。
女性が難しい話よくわかんないとかぬかしたら、わかる努力をしようって言ってあげなきゃいけないし、
自分が話してる内容に対して、よく知ってるね!すごい!とか言ってうんうん聞いてるだけなら、それだけで悦に入らず、あなたはどう思う?って意見を言う機会を作ってあげようよ。
キラキラしてること、興味のあるものだけ見て生きるのはだめだよ、もっとちゃんと知っておかないと、歳をとると、どんどんどんどん見えるものが狭まって、(今よりもっと)お馬鹿さんになっちゃうからねって。
それって俺だけ?
女の子を首尾よくデートに誘い出して、今日はドキドキ初デートっていう時、
目の前の席で少し頬を赤らめて座る女の子を見て、
ゆっくり僕は目を閉じ、
もしこの子が僕の赤ちゃんを孕んで、臨月を迎えたら、どんな姿になるか
そう、僕は想像するんだ。
僕は答えを急がない。すなはち、すぐに身体の関係を結ぶようなことはしない。
ゆっくり、ワインを静かな蔵の奥でゆっくりと寝かせるように、恋を育んで行くんだ。
されど、臨月。
その来るべき未来に、僕は思いをはせる。
僕は目を開く。目の前には先ほどと変わらず、女の子が僕を見つめている。
僕もその事を、あえて告げたりはしない。
そして何事もなかったかのように、軽妙なトークで彼女を楽しませるのさ。
恋のレコンキスタ。
アルハンブラ宮殿は、もう既に、陥落しようとしている…。
マジレスすると、お洒落なレストランとかカフェって彼氏と行くより女友達と行った方が楽しい。
だって男って「なにこれ盛り付けめっちゃ可愛いーー!」とか、「どのケーキも美味しそうで迷うーーー」とか、そういうので盛り上がれないじゃん。
100歩譲って話に乗ってくれたとしても「そうだねー」とかそれくらいでキャッキャはできないじゃん。
ディズニーランドとお洒落レストランは彼氏と行くもんじゃないんだよ。
それなのにお洒落レストランにデートで行きたがる女は、ある程度彼氏のことをいわゆるメッシー君って思ってるか、お洒落レストランじゃなきゃ私というブランドが崩れるって思ってるか、一緒にお洒落レストランに行ける友達がいない奴だけだと思う。
既読すらつかない
コールしても返ってこない
辛い
金曜に夜に半年ぶりに会った
しびれをきらしてコールしたらようやく返事してくれた
楽しみにしてるとも言っていたし、実際会ったら話が尽きることはなかった
とても楽しかった、私は
初めてあったときは、すこし野暮ったい感じが可愛らしくて好きだった
久しぶりに会うとお洒落になって髪も染めていた
それでもカッコよかったし、可愛かった
彼の部屋に泊まったので、今回もそうなるかと思っていた
流れで駅の方へ誘導する彼に、部屋へ行きたいとは言えなかった
そのときはすぐに返信が来た
また遊ぼう、一緒に勉強をしよう
朝
というようなメッセージを15時ごろ送ったのに
冒頭のような有様である
会いたくないならそう言ってほしい
かといって返信はおろか既読すらついていないのに
やっぱり恋人いるのかなあ
嘘でもいいからせめて返事遅れてごめんくらいは言ってほしいなあ
26にもなって、こんな思いするなんて
こんなに好きだったなんて、自分でも驚いている
27歳、リーマン男。
付き合ってもうすぐ1年の彼女がいる。
顔はそこそこかわいく、友人に紹介すると俺にはもったいないと言われるほどの良い彼女だ。
彼女いわく、ひとりでは入りにくい。女子会では小洒落たカフェやイタリアンばかりで焼き鳥屋を提案しにくい。彼氏(俺)なら気をつかわないし週一の楽しみだから、なのだそうだ。
俺だってたまには可愛い彼女と小洒落たカフェやイタリアンに行きたい。
一度「俺が支払うから」と言ってフレンチに連れて行ったことがある。ディナーはすべてコース料理の店だった。
会計を終えたあと、彼女からお礼を言われたが、どうにもいつもの焼き鳥屋を出た後よりもテンションが低めだった。何か気に入らなかったか尋ねると、そうじゃない、料理は美味しかったしいつもと違った雰囲気で楽しかった、とかぶりをふる。
しかし、どうしても気になった。食い下がって聞いてみると、
背筋を伸ばしながらフォークとナイフを使ってお上品に食べたり、ワインのテイスティングをしたり、小声で会話をしたり、といったことに疲れてしまったという。
たしかに、焼き鳥屋のように気負わず、ゲラゲラと笑っていい雰囲気ではない。いつもと違う雰囲気を、と思って張り切ったのが裏目に出てしまったかと反省した。
そうしてずるずると焼き鳥屋を開拓する日々が続いていたが、もう限界だ。
ヤゲン軟骨も、ぼんじりも、ふりそでも、ねぎまも、もう飽きた。
食感が違うだけで同じ味に感じてしまう。
「クリスマスなんだからもっと良いお店にしてもいいんじゃないか」と言っても
「なんで?クリスマスにチキン食べるじゃん。七面鳥も鶏も一緒だよ」だそうだ。
一緒じゃねーよ、ちきしょう。