はてなキーワード: 洒落とは
エルメス持ってるってなら凄いと思うけど
コーチ辺りだとイオンでも売ってるくらいだし(アウトレット品っぽいけど安いし)
持ってる人も山ほどいるよ
そういう数万程度のものなら、別にそれでどや顔する人もいないし
ただの「無難なバッグ(馬鹿にされるような安物でもないが他人から引かれるような高級品でもない、と言う意味)」扱いでしかないと思う
安物より丈夫で保つしね
むしろファッションに興味がない人の方が持ってるんじゃなかろうか
「とりあえず無難で、本当にお洒落な人からみたらダサい認定だろうけど普通の人にはダサい認定食らわないもの」って意味で
持ってる数も精々大中小で3つくらいだろうし
初めて入ったワコールの試着室。店員さんに驚愕の事実を聞かされてから、はや二週間。
比較的ほっそりした身体の両親の血を引き、私もどちらかというと細身の体型で育った。
母はずっとAカップのブラジャーを付けていた。そんな母に「あんたもその感じじゃAカップだね、かわいそうにねぇ」なんてからかわれながら宣告されたのは高校生のとき。
もともとお洒落にとても無頓着だったこともあり、特に悲しんだこともないし喜んだこともない。まぁ、こんな体型だし、胸は全くないことはないし、Aってこんなもんかなと思って生きてきた。
私は傍目から見ても普通に小さな胸の持ち主だと思う。歩いてもボインボインと揺れないし、斜めがけバッグの紐が身体の中心にきても、恥ずかしいと思ったことはなかった。
ブラジャーとは胸の大きな人が付けるもの、という固定概念があったので、ブラジャーのつけ心地に違和感があることは自然なことなんだと思っていた。
私は普段A65の、1番狭いところでホックを留めていたが、カップから飛び出る乳房に対し何も思ったことはなかった。
ブラジャーを付けるとみんなこんな風にカップから乳房が出ると思っていたし、時間が経つと乳房の上半分がカップから溢れて乳首が出てしまって、トイレの個室で時々修正することも、恥ずかしいからみんな言わないだけで、していると思っていた。
あの母の宣告から10年が経った。普段私にあまりワガママを言わない夫が「もう少しお洒落なブラジャーを付けて」と言ってきたので、二週間前、初めて天下のワコールに足を踏み入れた。
店員さんは私の状態を一目見るなり、サッと試着室から出て行った。なんだなんだと待っていると、見覚えのない大きさのブラジャーを持ってきた。「お客様、こちら一度お試し頂けますか?」。タグを見るとD65。え?デーカップ??
結局、きちんとメジャーで測ってもらい、私の正確なブラジャーのサイズはE65だと判明した。
Eカップのブラジャーを付け始めて二週間。上半身がとても楽になったし、カップから乳房が出てくることがなくなった。押さえつけられる感覚もなくなり、ワイヤーの痕も強く残らなくなった。
私がもっと早く胸の知識を得ていたら、もっと早く楽になれていた筈だ。
Eカップというのは、歩くと揺れるようなボインボインの胸だと勝手に思い込んでいた。がボインボインじゃなくてもEカップに該当する人間はいるのだ。
細身で自分は貧乳だと思っているけど、何故かブラジャーがすぐダメになったり、乳房がカップから出てしまう人は、是非プロに測って頂くことをお勧めしたい。
今まで知らなかった楽さを体感できる筈だ。
友達に、アイドルみたいに小顔で可愛くてお洒落ですごく気が利いて話もいつも面白いけどガチヲタでBLを楽しみすぎてるあまり恋愛にも結婚にも興味なくて異性のアプローチも全部断る生活を10年以上続けてる子がいる。
一方、身内のママ友に、オウムの麻原が女体化したみたいな外見で肥満アンド不潔コンボでいつも会話の空気を読めず周りに迷惑かけてるドゥフフ笑いの子持ちがいる。夫の勤め先がそこそこ名が知れている会社であることと、既婚であることがステイタスらしい。
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わかります。
男性は見た目が、いかつい。野蛮で粗野、自分の意見を押し付けたがる、
大雑把でだらしない、臭い、汚らわしい、キモい、交渉力が無さすぎてすぐ暴力をふるう、
会話も、金・暴力・SEX、車にバイクに高級時計に、たばこ、俺はどれだけ悪かった自慢、
お洒落も、世間が未だに昭和・マッチョ基準だから、アレンジの仕様がない。
髪型は短髪オラオラ系が至上、ついでスーツ至上主義だし、足出したら汚いし。
なんか言いたいことがあるなら、まず、その汚いヒゲを脱毛してからにしろ。
冤罪がどうとか言ってるけど、男という種が女性に対しての信頼を崩した、
私は、今まで女性が受けてきた痴漢の気持ち悪さを代わりに受けるって形で、
今の社会の流れはなるべくしてなったものだし、自分の中では当然の帰結だなという意見。
私も男なので、生まれた瞬間に汚物確定で、その自覚を持ちながら生きてます。
こんな汚い肉体、オラオラ昭和マッチョ主義の今の世の中で生きるのは正直つらい事です。
女は見た目が可愛い、優しい、共感力高い、気が効く、臭くない、汚くない、キモくない、暴力をふるわない、会話してもご飯しても映画行っても旅行行ってもお洒落しても何してても楽しい!セックスしないからめんどくさい演技の必要もなし!
ちなみに私はビアンでもバイでもない。だから女に性的に触りたいとかそんな気持ちは一切無い。
でも女は最高。
よく「女同士は陰険でしょ〜」とかいうけど、いや、つるむ相手を選べよ、で済む話。
男でも上記に当てはまる人がいるかもしれないけど、レア中のレアケースだからそんな男には出会えない!出会えるものなら出会いたい!
でも、女なら上記の条件に当てはまる人に沢山出会える。だからもうずっと女とだけ関わって生きていきたい。
いや、仕事では男とも関わるし信頼してるけど。でもプライベートは女一択。
女最高。女で良かった。
ということを書くと必ず「でも結婚で女友達は離れていくよ〜」と書く人が現れるけど、だから何だ。未婚の女とつるむまでだ。
〜追記のブコメ返〜
「同性サイコー!」
自分はまさにそれが言いたかったんだと思った。女だから、女目線で好き勝手書いちゃったけど。
思考の仕方が似てる、自分と価値観が似てる人とは一緒にいて心地いいから、同性だとそれだけで共通点が沢山あって幸せだね、っていうある意味当たり前のことを再認識した。
だから、「俺は男だけど女が好き」じゃなくって、男性も同性にもっと興味持って好きになればいいのにってすごく思う。人との繋がり的な意味で。独身中年の孤独みたいなのもそれで解消できるのに。とか思ってる。
あと、自分の見た目がコンプレックスの男性は、脱毛とかダイエットとか、もっと気軽にしたらいいよ!発汗とハゲも治療できるよ。そういうのを強制する空気はあるべきじゃないけど、自信が持てない理由が外見なら、もったいないと思う。あと、単純にあらゆる面で生きやすくなる、と思う。
僕は大学4年生の素人童貞で、今までできた彼女は大学2年のとき告白されて付き合い、2週間後に思ってた人と違ったから別れてほしいとフラレた一人だけ。
ルックスで言えば僕と大差のない二人で、共に冴えない高校時代を過ごした仲間だ。
彼らには彼女がいる。しかもそれぞれの彼女はブサイクではないし、話を聞く限り性格も良さそうでただただ僕は嫉妬するばかり。
僕は特に女の人に対して高望みしてきたつもりはないのだけれど、まともな恋愛をせずに大学生活を終えそうになっていることに悲壮感を覚える。
あああああああああ俺も彼女と貸し切り露天風呂付きの温泉旅館に泊まりたいし、一緒にラウンドワンでバドミントンしたいし、誕生日サプライズでお洒落なごはん屋さんからケーキが出てきてほしいよ、シャンパンの栓が飛ぶ!!!!!!!!!!!!!
海も行きたい、花火も行きたい、家でイチャイチャしたい!!!!!!!!!!!!!!!!
もうさ、エロいことがどうとかじゃないんだよ、優しくされたいの温もりがほしいの、頭撫でてほしいの、ブラの外し方とかわかんないよ!!!!!!!!
ぐわああああああああああ
ちょっと落ち着いた。この増田を読んで自分より下の人間がいることに安心して頂ける人がいればもうそれでいいです。強く生きよう。アーメン。
地味で洒落っ気のなかった私は、中学に入ってすぐ、カースト最下層に属した。
そうなるともう、オシャレをする機会も権利もほぼないと同然だ。
ただ、そんな「ダサい」自分を、劣った存在として受け入れるのは悔しかった。
だから私は、「それこそが私の個性だ」として自分のプライドを守った。
飾らない、でも人に好かれて、自然体で好かれる女の子を目指したんだ。
その選択は間違っていなかったと思う。
飾らず気取らず、でも感じのいい人、に私はなった。
そこに嘘はない。後悔もない。愛されて無事、結婚もした。
それなのにどこかで、羨ましさが残ってるんだな。
しがない漫画描き。
自分も一人の表現者として「読者受けが全て」という覚悟はある。
だから、自分から見てどんなくだらない作品が世間の評判を得ようとも、甘んじてその結果は認めるつもりだ。
とはいえ、あちらこちらから流れてくる話題のネット漫画のたぐいを見ていると、どうしても「なんでここまで読み難いものが…」と困惑せざるを得ないときがある。
・絵が添え物程度の扱いで、膨大な文字数のネームですべてを説明しているもの。
・2コマで十分表現出来る話を無理矢理4コマに引き延ばし、余計な状況描写やリアクションで主題がぼやけているもの。
・今日見かけたあるものは「(子供が能動的に本を)読む」「(子供に本を)読み聞かせる」というふたつの話をまったく説明なくひとつの「読む」という言葉で表現していて、洒落や演出のつもりなのかも知れないが、作品の根幹のテーマを理解させたいのか、とんち問答でもさせたいのか、怪しいくらいの難解さとなっていた。
どれもこれも、プロの指導者に持ち込めば、いの一番に直せと指摘されるような部分だ。
あるいは、対面で知人などに見せて感想を得たとしても、何人かは読みにくいという指摘を必ずするだろう。
しかしインターネットの、特にSNSなどで「バズる」漫画はどれも大抵こういう、ある種ざつな部分がある。
のみならず、本人が特に問題とは認識していないのだろう。何作も同じような事を繰り返し続ける。
SNSで作品を「共有」するのは、その作品で満足した読者であるから、「読みにくい」ところはどうかこうかすでにクリアしてしまっている。
読みにくさにスルーした人は感想なんか書かないし、友人知人がわざわざ「共有」してきた作品にネガティブな感想を敢えてつけるものも居はしまい。
これがブログや自作のホームページにでも上がっているものなら、いくらでもコメントフォームで突っ込みが入るだろう。
2chに関連スレでも立とうものなら、罵詈雑言に混じって必ず読み辛さの指摘は出る。
そしてやはり、昔ながらのやり方で、手渡しで誰かに感想を求めたとしても、SNSほど忖度は働かないだろう。
SNS以前の時代。他人に漫画を読んでもらって感想を貰うという事が、一定数の「わからない」という感想を貰うことと等しかった時代。
誰もが「わかる」表現を必死で模索したし、表現の指導をするとはすなわちこれを指摘する事だった。
今やそういう場は、表現者の登竜門としてオーソドックスなものではなくなってしまった。
「きちんとネガティブな指摘を貰う」ということは意外と難しいことなのだ。
他人からネガティブな指摘を貰う事なく、自主的に読みやすい表現を模索するのは、もっと難しいことなのだろう。
SNS時代には、それでも届く読者には届いてしまうから、それで良いという考えもあっても良いのかも知れない。
金沢は最近新幹線が停まるようになったことで、小京都風なる謎の小洒落オーラで転入者が増えています。そこで、転入者に対する百万石まつりのガイドをしたいと思います。
石川三大祭の一つに数えられる軍事演習です。藩民皆兵の理念に基づいて大行進や閲兵式が行われます。一応建前では前田利家が石川県へとやってきた出迎だか歓迎だか言われていますが、本質的には示威です。
参加は強制ですので、町内会に問い合わせてください。町内会によって対応は様々ですが、一般的に郊外のほうが要求が厳しいです(というか中心部は転入者が多いのでマニュアル対応が進んでますが、郊外だと若手が引っ越してくると言うだけで舞い上がってたりします)。あまりにもきつかったら市役所の振興地域課へ相談してください(観光課への相談は逆効果です。いつまでお客様気分なのだとだらけあつかいされます)
一番ハードルが高いのが鎧の準備です。県民男子は当然一式は備えているのですが、県外からの移住者は鎧所持率が低いです。また、住んでいる町内ごとに様々な決め事(色や武装など)があるので結局新調することになるでしょう。町内会によっては貸出用の鎧が備えられているところもあるという話なのですが、家の近くの場合メンテも悪くて実用じゃありませんでした。ぶっちゃけ、在住者の着古したお下がりなどなので、臭いし使わないほうがいいと思います。
鎧を新調するのが一番の問題なのですが、とりあえず、町内会に相談してください。相談しないとこじれます(後述)。しかし相談するにしても予算の目星はつけておきたいです。ピンきりなのですが転入者のひとは30万円前後のものを目指すのが良いと思います。
と言うか、とりあえず相談+価格さえおさえておけば多くのトラブルは防げます。
高いものは緋糸威+二枚胴とかで150万コースとかも有るのですが、そこまでは必要ありません。町内によるのですが、出入りの業者と結託して高額の鎧を斡旋し、キックバックを受け取るようなところもあり、知識なしだとぼったくりにあいます。
一方で変に安いものだと毎年修繕が高くついたりしますし、再購入にもなりかねません。30万前後(25万くらいで十分)がいいと思います。子供が男子で高校生以上なら、セット価格で20万円x2とかでも良いものがあります。
業者さんは町内会に相談して決めたほうがいいです。インターネット通販でも購入できるのですが、大抵の場合、町内会の老人集の機嫌を損ねて揉めます。田舎なのでその辺出入り業者筋とか謎の付き合いがあるのです。あとは、隣近所の人と色が合わなくて浮いてしまうとかもあります。鎧の細かいデザインはずれてても問題ないですが、槍を保つ場合は長さを合わせておいたほうが目立ちません。刀や小太刀は好きにしてください。
乗馬訓練は必要なのか? というのも悩むと思います。町内の懇親会などで勧められたりすることも有ると思いますが、基本はおつきあい程度であとはスルーでいいです。百万石まつりの行列で馬に乗るのは、大学の乗馬クラブのひととあとはかなり限定された有志です(ぶっちゃけ既得権です)。
飲み会で「馬くらい乗れないとねー」というのは年長者のマウンティングで、実際の祭りでそんな声はまずかからないので無視していいです。「車の免許がやっとなんで馬なんて恐れ多いですよ!」とか言っておくと老人は喜ぶので、適当に振りまいてスルーして下さい。
4月と5月に合計4回位の練習が有ると思うのでそれは出ておいたほうがいいです。実際には二回も出れば進行はわかるので十分ですが、最初の一年は鎧になれるために多めに出たほうがいいでしょう。鎧で肌が擦れるので、適切な下着が必要です。ユニクロ系は布地が薄くて使い物になりませんが、そのへんは体格にもよるし値段も安いので探してみてください。通販しても問題にはなりません。
一方で「打ち合わせ」や「士気高揚」などと称する練習(?)の予定がたくさん入る町内会も有るのですが、それは百万石まつりにかこつけたただの飲み会なのでスルーしても問題ないです。最初の一回行っておけば良いでしょう。
(ただし下手に酒に強いアピールをすると、加賀の利き酒とかいってつれまわされます)
寝坊しなければ注意点はあんまりありません。県内企業であれば公休扱いも有ると思いますが、めったにないでしょう。鎧は家で着用じゃなく集合する体育館で着てください。年寄りがトイレは我慢するか垂れ流せとかわけのわからないことを言いますが、集合場所で済ませておけば問題ないです。
youtuberがまたやらかした。自分の祖母にイタズラを仕掛けるって内容の動画なんだけど、普通に事故ったら洒落にならんし、見てて怖い。笑えない。
んだけど、「面白ければいい」「叩くやつウザい」みたいなコメントがちらほら。
若い子って怖い。
当時は安価スレなんてものが流行って、安価を必死に獲得しに行った。
洒落にならん安価もあったけど、「面白ければいい」と思ってた。批判する人たちもいたけど、「興醒め」「ウザい」と思ってた。
それから10年近く経って、オッサンの立場で若い子を見ると「あぶねぇなこいつら」って思う。
説教くれてやったところで、こいつらが聞かないことは知ってる。
ただ、馬鹿やった結果、誰かが悲しむことになるってことだけは嫌なんだな。
説教くれてやるべきか、ほっとくべきか。
この動画に説教くれてやったところで、どっか他所で、他の若い子が、また別の、洒落にならん馬鹿をやってるんだよな。
説教くれてやったところで、キリがない。
オッサンになるって面倒くさいな。
この長さの怪文書を投稿することにためらいはあるけれども。
偶には、言いたい事を思い切り言ってもいいかなと思う。
まず自分のことを書くと、稀にしか更新しない覚え書きのようなブログをやっている。あと好きな文章を書く人は結構な頻度でチェックしているくらい。
自分も新参だけれど、新しいタイプのブロガーの人が使う、押しが強めの手法がじゃっかん苦手である。
新規にブログを始めた際、こちらのブログは全く読まずに(本人には割と分かるものです)、宣伝のためにスターを付けてくる人が一定数いる。まあ当然、興味を持たれる文章を書けないこちらに非があるわけですが、「貴方のことは気にならないけど私の書いた文章はぜひ読んでくれ」と受け取ることもできる。
露出を求めて「記事お題」を引用し、全く関係のないことを書く人も多い。例えば「雨の日グッズ」というお題を引用しておいて、いつもの調子で日記を書く。露出したいのは分かるけれども、そのばあい読者が読みたいのは傘や長靴の話であって、職場の愚痴とか趣味の紹介とかではない。
あと、リクルートの適職診断、またはリクナビNEXTのグッドポイント診断を薦めるエントリ。MIIDASの適正年収診断、dTVの紹介。日常会話みたいな感じでお勧めされるんだけれど、あれは紹介料が入るからやっているのだそうで。道理で数が多いと思った。…あれはステマにはあたらないのだろうか。「PR記事」とかの表記がない分、「選挙前にさりげなく電話をかけてくる友達」みたいな感じがして、個人的には警戒してしまう。
CGMは、そのコンテンツの持つ価値の判断が難しい、とは思う。それは人によって違うし、ネットでの人気には「親しみ」も大きな要素である。
ただ分かりやすい基準として、例えば、寄稿や出版の話が来る人にはそれだけの実力と、その人固有のブランドがあるわけで。
なので余計に、「とりあえず100記事書きましょう」「SEOを勉強しましょう」「PVを稼ぎましょう」と、クリックしてもらうことに血道を上げる風潮がどうもよくわからない。読み手に客観的な価値を提供できているのかな?と、不安になることはないんだろうか、と。(言うまでもないことだけど、価値がある/ない、という話ではない。「価値のものさしはどこにあるのか」という話)
はてなの人なら、自分なんかよりよほど熟知されていることと思うけれど。執筆され、編集の手が入り、校正されてデータが印刷所に渡り、取次を経て本屋に巡ってきたり電子書籍になる、それだけの手がかかった、色々な「出版物」は本当に凄いなと思う。
個人がもっている「有益な情報」には限界がある。取材して一次情報にあたるプロに、正確性や量で比肩するのは正直、むずかしいのではないだろうか。
比肩しなくてもいいけれど、そこから発生する「収益」は最大限にしたい、というなら、それはインターネットが役に立たなくなるわけだと思う。
媒体が紙でもネットでも同じことで、例えばキッコーマンのサイトを見ると、料理の基本から旬の料理から詳しく載っている。歯の健康について知りたいときは、クリニカ辺りのサイトが役に立つ。商品の紹介記事にしろエッセイにしろ、企業がやっている媒体に掲載されている文章をみると、何歳ぐらいのどんな経歴の人が書いているんだろうと思う。
コードや料理が商品になるように、文章もまた商品として存在することは確かだ。ただ、コードを個人がお金にするにはそれなりの手順が必要だと思うけれど、文章はなぜか、個人がネットに上げるだけでも「儲かる」。
他にも、ネットにアップするだけで儲かるものは色々あるけれど、合法かつ元手がかからず、特に技術の習得をしなくてもできる「稼ぎ方」として、「文章を書く」というのは確かに適しているのだろうとは思う。
ここまでを踏まえて。「商業のクオリティや情報量には敵わないが(※ケースバイケース)、読んだ人に満足を与えるような文章を書き、お小遣い程度の利益を得られる、Win-Winの取引(読者が読む時間によって「収益」を発生させるなら取引みたいなものではと思う)」を考えてみる。(ものすごく飛躍しているような気がするけど気にせず進めます)
商業ではなく、市井の個人が書くことに意味がある文章とは何か。
それは、「その人にしか書けない文章を書く」ということではないだろうか。
別に、個人情報を晒せということではない。出身地や職業、家族構成は確かに、その人を知る大事な情報だけれど、同じような属性を持った人が世の中にはごまんといる。
「他者から客観的に見た自分」と、「自分の演出したいキャラクター」には、往々にして懸隔がある場合が多いと思う。シニカルに渋く決めているかと思えば、愚痴や悪口を書いてしまったり。写真にお洒落な加工をしていても、背景がどうも決まっていなかったり。「本当の自分らしさ」は、他者からの反応や自省によって得られるもので、見たくもない自分を見せられることも多いし、自分の評価されたい項目と他者から評価される項目が違ったりもする。
それでも。「自分の良いところ、推せるところ」を見つけて、「それによって他の人を満足させ、楽しませる」ことが、「個人としてメディアをやること」の強みなのではと思う。
その人にしか言えない言葉、できない話。培ってきた価値観、文章のテンポや言い回し。自分なりの軸による知見や考察。人によってはイラストや作品。例えブログ名や使っているテーマを変えても、文章ならば増田に書いても、「ああ、あの人だ」と分かってもらえるかどうか。
「その人にしか書けないブログ」こそが、個人ブログの存在意義なんじゃないだろうか、と。
「商業に出来なくて個人ブログならできること」は多くある。言及合戦、ボールの打ち合いもそうだし、商業の連載や肩書を背負ったブログと違って、思ったことを好きなように、題材も自由に書ける。
日記を見ると、今日したこと、最近興味のあること、生活や感情の移り変わりを感じることができる。例えば料理や写真のブログであっても、書いている人のキャラクターが違えば、受ける印象は全く違う。
「その人らしさ」が感じられるなら、面白くないブログなんてひとつもない。どんな個性でも、ネットに上げれば一人くらい、それを楽しんで、好きになってくれる人がいる。それがCGMの良いところで、インターネットが普及した利点であると思う。
さらに言えば。有名ブロガーの人たちを見ていると、やっぱり「読者を楽しませること」にとても力を入れているなと感じる。
スタイルは人によって様々だけれど、重い段落がつづくとその人のやり方で空きを入れたり、ボケてみる。自分の愛されている分野以外のことはあまり書かない。反応がよかったらまた掘り下げる。とか。(まあ、こうやって分析されるのも嬉しくないのかもしれないけれども。)
当たり前に、お互いがWinWinになっている関係で。それは愛されるよなあ、と感心したりする。
「互助会」という言葉について書くにあたり、ブログをやっている人を便宜的にタイプに分けます。
A)古参。はてダ時代からやっているような人。総じて文章が上手い。更新頻度は低め。交流はあまりしない。
B)新参。好きなことを書いてあわよくば若干の収入を得たい感じ。更新頻度が高い。交流が好き。
C)アフィリエイター。以下のようなタイプがあるように見える。
・ガチのアフィの人。それなりの戦略があるタイプ。「かわいい猫画像!」とか「速報・芸能ニュース」とかそういうやつ。よくダッシュボードの右に載っている。他にも色々やっていると思われる。
・何を考えているのかよく分からないタイプ。ほぼ中身のない記事にひたすら広告を貼る。偏狭そうな人が多い。
・「ブロガーとして」明確に互助を目指し、ブクマ不正している、らしい。偶に増田で告発されているけど割とスルーされている印象(興味がないのでよく知らない)。
よく見かける「互助会」という言葉は、B)に向けて使われる。「お互いのブクマコメントでブクマ数を稼いでいるんだろう!」というやつ。
でも、実際のところ。「当たり障りのない敬語のコメント」は、「相手に好意をもっていて話しかけたいから」「交流が楽しくて」やっているのだと思う。
その証拠に、「スター・ブクマ・フォローしたけど返してくれなかった!PVが伸びない!」なんて愚痴を書いている人は誰もいない。(このクラスタは素直な人が多いので、そういう気持ちがあったらたぶん正直にそういう記事が書かれ、誰かの目に留まるのではないかと思う)
「ブクマしてほしい」という気持ちももちろん多分にあるだろうけれど、自分がリアクションするにあたっては、利益を期待してやっているんじゃない、と思う。
嘘だと思ったらそのへんの、自分が「互助会」と呼んでいるブロガーに聞いてみたらいい。相手に言葉をなげかけるのが楽しいから。相手のことが好きだから。たぶん、思うより多くの人が、そう答えるのではないだろうか。
そうはいっても、はてブ的には馴れ合いコメントは確かに鬱陶しいだろうと思う。では、コメント欄を使えば解決する話ではないのか、とも。
そう考える人はもちろんブログを書いている側にもいて、読者に向けて「ブクマでなくコメントで交流しませんか」という提案をするブロガーもいる。読者が何百人レベルになってくると、はてブ側に気を遣ってのことだと思われる。
Twitterとの連動など、利点はあるようだれど。言葉をかけたいだけなら、ブロガー本人が「互助会」と叩かれるリスクをとる必要もないのではないか。コメント欄をもっと気軽に使っても良いように思う。
もうひとつ。別にお互いに便宜を図っているわけでもないのに、「互助会」と呼ばれるのは何だかおかしい気がする。「交流会」「ひつじ会」とかのほうが実態を表しているのではないだろうか。(「ひよこ会」とかでもいい。何かかわいい名前がいい)
で、じゃあ「スター・ブクマ・フォローで利益を得ることを目的とした行為」はないのか!というと、うんざりするほどある。
C)のアフィリエイター系。これが本当にしつこい。見るからに書いていて楽しくなさそうな、NAVERまとめ的なブログからのリアクションがそこそこの頻度で来る。凄かったのは、同じ記事に2度3度つけてくる人。無言でそれをやられても、ただ気味が悪いだけで、何かを返したいとは思えないのだけれど。
相手の人格や思いを無視して、金銭のためにブクマをつけて何が楽しいのか、と。他人の顔が札束にしか見えていないような、うわべだけの文章を読みたいとは個人的には思わない。まして広告をクリックなんてしない。
これは自分に矛先が向くことを恐れているとか、好きな人を擁護したいとかでもなく、単純にクラスタの分類として。交流勢よりも、こういった「機械的な無言のリアクションによって、露出や返報を期待する」アフィリエイター勢のほうが、真に「互助会」と呼ばれるに相応しいのではと思うのだけど、どうだろうか。
ネット上で、文章で稼ぎたいのは勿論、悪いことではない。でも、個人的に読みたいのは、誰でも書ける情報のまとめとかではない。
アフィリエイトをやっている人であれば、どうしてそれを始めたかとか。情報収集はどうやってしているかとか。ライバルはいるかとか、作業するときにかけている音楽とか。その人にしか言えない言葉、面白い話。そういう文章が読んでみたい。
とはいえど。面白かったり為になる文章が無料で読みたい、というのもある意味、何というか難しい話だとは思う。
医学辞典なんて手元にないからネットでいいや、とか。先述のように、企業が宣伝のために作成しているページを利用する、とか。「ネット」と書いたけれど内訳は、キュレーションサイト・個人がアフィ目的で作ったサイト・質問投稿サイト・個人ブログのどれかが引っかかることが多いのではないだろうか。
それが確実な情報源でないことは、もちろん周知の事実である。それでも取り敢えず適当な情報がほしくて検索する人がいるから、それにあわせて少ない労力で情報を供給し、利益を得ようという流れが自然に出てくる。
「分かりやすく出所の確実な情報」ならば、上述のように、出版業界の商品に頼るのが却って近道ではないかと思うことが最近増えている。「集合知」は確かに無料だけれども、「文章」にクオリティを求めるならば、書籍を買うか図書館に行けばいい。紙が面倒ならデータの形で入手すればいい。
商業としての出版を信頼しているから、例えば某警察官やめたブログで暴露されていたように、CGMのふりをして売名する商業があるとしたら個人的には少し悲しい。プロとして作り上げたもの、プロモーションされたものに、正当な敬意を払いたい。
…ここまで書いてきて心配になったのだけれど、出版業界の回し者ではなく、ごく普通の読書好きのオタクが書いています。信じて欲しい、としか言えないけれども。
逆に言えば、ネットで、商業ではなく個人が発信するとき、それは受け取る側となんら変わらない、「普通の人」なわけで。文章を発信する側は全ての責任とリスクを負うべきで、受信側は何を言っても良い、ノーリスクハイリターンな立場である、とは自分には思えない。
ネットを使っている人であれば誰でも、ある程度の文章は書けると思う。たまには「発信側」になってみるのも、悪くはないんじゃないかと思ったりする。
同じ人間が一人としていないならば、誰にでも、「その人にしか書けない文章」があるはずで。私はそれが読みたい。
色々書いてきたけれども、これが正しい見方であるとは自分で思っていない。誤りや偏りの指摘も含めて、議論の一助になればと思う。
普段はパンツなんて綿100%のイズミヤで買ったやつにブラは上下セットで買ったのを上だけ着て
彼氏といざセックスするってなっても、彼氏下着なんて全然見てないんだよね。多分。
そんで私の胸はごくごく標準サイズだし、ちょっと足伸ばせば安くてかわいいブラなんていくらでもある。じゃあ高いの買わなくてもよくない?
一番大事なのが、彼氏がセックスするとき結構乱暴にブラを引き上げて胸を出そうとする。
あれ、例えば上下一万超える下着を着けている時にされたら、雰囲気度外視で制止すると思う。
やめろよ。パンツとブラが半々の価格としてもそのブラ5000円するんだぞ。ブラなんてパンツより機能的だから多分もっとするぞ。
なんとなくセックスするときの相手への気遣いというか、お洒落したくて上下揃えてはいるけど、
イケメンです。たぶん。
よくイケメンと言われる。学生時代に、話したことない女子から告白されたことが3回ある。逆ナンされたことも何回か。(告白されたときにOKしてればよかったなと振り返って思う)
ファッションには元々疎かったんだけど、親(服飾関係の仕事をしている)から受けるダメ出しをいろいろ聞いてるうちに、なんかこういうの着とけばいいのかなってのがわかってきて、まあダサくない程度にはお洒落なほうだと思う。
髪はサラサラのドストレートで、セットの余地があまりない。せいぜいが、出かける前に適当にとかすだけ。髪型はここ5年ぐらい変えてない。
眉毛は、中学にあがった最初の頃は親が整えてくれてた。その後は自分で整えてる。(ぼーぼーにしておくと親に小言を言われたりして、いつの間にか自分で定期的に整えるのが習慣がついた)
そういう感じで、たぶんイケメンなんだけど、彼女がいたことがない。
女性と会話が続かない。
女性から話しかけられて、「うん」「はい」とか短文で適当に答えてたら「会話が続かない……」と嘆かれた。
連絡先交換してメールすることがあっても同じような調子で、無愛想と言われたりする。
女性から誘われて二人でおでかけしたときに、あまりにも会話が続かなくて、やる気あるのかとキレられたことがある。
こんなでも彼女は欲しいんだけど、でもどうすればいいのかよくわからない。それに彼女ができたところで、デートしたときに結局同じことになるんじゃないかと思うと怖い。どうすればいいんだろう?
しっちゃかめっちゃかしてて話が飛ぶし同じこと何回も書いてる。
親の言うことは絶対だと思ってる母親が嫌い。言いたいことを言わないと気が済まなくて何回も言ってくる母親が嫌い。
自分の話は聞いてもらえないと怒るのに他の人の話は全く聞いてないのは理解できない。自分が全部正しいと思ってるところが特に嫌い。あと約束を守らないところ。
親が苦手な年ごろだからそう思うのかもしれないけど。
カウンセリングだってたくさん行ったけど何も変わらなかった。母親は都合のいいとこだけ聞いていた。スクールカウンセリングの時は都合の帰りの車でいつも怒鳴られて億劫だった。
母親が隣にいるから話したいことは話せなかった。母親と一緒に行っていたので母親に伝わるかも、と思うと何も話せなかった。
いつも母親の顔色を窺ってばっかりで、母親の言うことに従ってばかりだった。嫌だ、と言うとじゃあどうしたいのと責めるように聞かれる。でも自分の考えなんてないから答えられずに結局いうことを聞いてしまう。
口げんかしても何を言っても聞かれずに屁理屈だと言われ自分が全部正しいと言われる。少しは尊重してほしい。
怒られたら叩かれる。痛い。悪いところがあるのはわかってるし反省してるけど何回も同じことを言われたらうんざりする。それを反省してないだろうと怒るのはやめてほしい。
包丁を向けられたときは怖かった。死ぬかと思った。窓から飛び降りて逃げてやろうかと思った。怖くてできなかった。怒られたときは真っ先にトイレに逃げるしかない。個室だし鍵もあるし2時間は持つ。
トイレは小学生の時からずっと逃げる場所だった。トイレのドアを蹴破られたときは怖かった。最初トイレに逃げ込んだときはトイレ入れないようにしてやる、絶対に出ないからなと思っていたけど30分が限界だった。スマホを手に入れてからは1時間は持つようになった。トイレに長時間いると私も落ち着いてくるし母親も少しは落ち着くのでトイレは最高だと思う。
小学校は楽しかった。たまに行きたくない時もあったけど楽しかった。
中学校は苦しかった。皆の前で言ってることと陰で言ってることが正反対で怖かった。皆がやってるから別に良くない?そういうノリで人の嫌がることを平気でしているのが怖かった。
不登校になった。先生のなんでこれないの、という質問が怖かった。責められているように感じた。静かな部屋で二人きりでとても怖かった。うまく言えなくて、言ってもだからなんで?と言われる。
虐め以外のことで不登校になるはずがないと思っているように感じた。
3年生になって適応指導教室に行き始めた。先生も皆もいい人だった。楽しかった。
高校生になった。自分のペースで頑張れそうな所だったし先生方もいい人だったので頑張っていこうと思った。
最近は週2~3のペースで行っていた。全日制にしなくてよかったなと思った。自分ではこのペースが続けられたらなと思っていた。
母親は違った。学校が変わったら毎日通えるようになると思っていたらしい。3年間ほとんど引きこもってたやつが学校が変わったら毎日通うようになるのは難しい。
通学するのに体力はいる。たくさん人がいるところは怖い。勉強だってたくさんの体力がいる。なにより朝布団から出ることが難しい。目が覚めても体がとても重い。行きたくないと思ってしまう。
やっぱりいつか刺されるんだろうなあ。既に1回向けられてるんだから刺すときは刺す。父親は「僕の死因は病気か事故かお母さんに刺されるかだ。」って笑ってたけど洒落にならない。
普通に生きてほしい、とかいうけどそもそも普通ってのは人によって違うわけで。それに普通に生きるって難しい。当たり前のことが難しい。普通って何なんだろう。
どうして皆毎日学校に行ったり仕事に行ったりできるんだろう。とっても大変なことなのにすごいな、と思う。尊敬する。
毎日目を覚まして布団から出て顔を洗ってご飯を食べて。外に出るまででも大変なことがたくさんあるのにすごい。家に帰るまでも大変なのにすごい。
将来のこととかあんまり考えられなくて「今勉強してないと後悔するよ」とか言われてもわからない。大人になっている自分が想像できない。将来のことを考えてる人はすごい。努力できる人はすごい。
意識してやろうとすると途端にできなくなる。どうやって呼吸してるんだっけと思ったらどうやって呼吸をしているのかわからなくなる。いや、わかるけど本当にあってるのか不安になる。
文だって書けない。自分の考えを書けばいいよだなんて自分の考えがない。たまにあってもどう表現したらいいかわからない。
他人の目が気になる。他人にどう思われてるかが気になる。自意識過剰なことは知ってるけどどうしても無理。どうやって生きていけばいいんだろう。そもそもなんで生きているんだろう。私は本当に私なのか。
やらなくちゃいけないことはたくさんあるしやらないと後々困ることもわかってる。実感できない。
頭では理解していても、割り切れない。
階段だって15秒以内に登り切らなかったら噛みついてくるかもしれない。トイレだって便座の中からいきなり腕が出てくるかもしれない。
家に帰ったら実は強盗がいて刺されるかもしれない。すれ違った人が実はナイフを持っていていきなり刺されるかもしれない。バスに乗っていて角を曲がるとき事故が起こるかもしれない。このまま眠ったら二度と目が覚めないかもしれない。
家出をしたい。けどお金がない。行く場所もない。シミュレーションはたくさんした。
自分の考えを持てて表現できて自分の間違いをちゃんと謝れて他人の顔色を窺ってばかりじゃなくはっきりと言えて自分を肯定できる人に私はなりたい。
やっぱり当たり前のことをするって難しいよ。