はてなキーワード: ヒスとは
「オタク差別は存在するか」議論、いくつもの論点がゴッチャになってて混乱するので自分なりの整理をしてみた。
これに関しては、まあまっとうな疑問なんで「オタク差別」論者の分が悪いと思う。
これまで「差別」という語は、民族とか性別とか宗教とか、とにかく生得的な属性、後天的に変えることが不可能あるいはきわめて困難な属性に対して適用されてきた。
人はオタクに生まれるのではなくオタクになるのであり、後天的に獲得される「趣味」という属性を共有する集団がオタクである以上、それに対する「差別」という語の適用に違和感を持つ人が出てくるのは当然だろう。
この点については「オタク差別」論者がもっと理論武装した方がいい。今の論理じゃ多くの人を説得できないと思う。
あったに決まってる。
十万人の宮崎勤は虚構だったかもしれないけど、探せばオタクへの不当な扱い、迫害、蔑視の証拠なんて山ほど出てくる。そもそも「オタク」自体がもとは侮蔑語として造語されたものだし、オタクであることを理由にいじめられた人も自殺した人もいる。
今の20代以下にはそんな実感は薄いかもしれない(それはいいことだ)。でも年長のオタクたちはそれを経験してきてる。なかったなんて言わせない。
論点aにもとづいて「オタク差別」を否定するなら理解するし「オタク差別」論者も真摯に向き合うべきだと思うけど、論点bの否定を始めたら……戦争だろうがっ! 戦争じゃねえのかよっ……!
「過去は迫害の対象だったかもしれないけど、今は別に迫害されてないだろ」という議論もある。
確かに若い世代だとオタクが普通になってきたりするみたいなので、若い人たちにとってはあまり実感のない話かもしれない。これに関しては周囲の環境も大きく影響するので、「別に迫害なんてないじゃん」と思う人がいるのは当たり前っちゃ当たり前なのだろう。いい世の中になったもんだ。
でも議論の最中に平気で(自虐ではなく相手への侮蔑として)「キモオタ」とか言う人なんかを見てしまうと、いやいやまだ蔑視は残ってるじゃん、という気になるんだよなぁ。完全に解消された、とするには時期尚早なんじゃないかと思う。
(「キモオタ」はオタクの中でもキモいやつを指しているのであってオタク全体への蔑視ではない、って言う人もいるけど、「ヒス女」は女性の中でもヒステリーを起こすやつだけを指す言葉であり女性全体への蔑視ではないなんて理屈が通じるとでも思ってるのかお前は)
ただ論点b’に関しては、繰り返すけど個々人の置かれた環境の問題も大きいから、論点bを否定する人と同列の扱いをするのはよろしくないと思う。論点b’に疑問を呈している人がオタクなら、素直に迫害を経験しないオタクが増えたことを祝いでおきましょう。
もちろん論点b’を持ち出す人の中にはそんな言葉を使ってオタクを罵倒する人なんていないはずである。いやだな~まさかそんなアホがそうそうその辺にいるわけないじゃないですか~HAHAHAHAHA!
これは論点がずれている。ある局面で被差別側にいた人が別の局面で差別側になっていることは、その人に被差別者としての側面があることを否定しない。
オタクの中に、性差別や民族差別に加担する人が一定の割合でいたことは事実で、ネット上で差別カルチャーが大手を振ってのさばっていた(そして未だにのさばっている)ことに対しては反省が必要だろう。オタクは自分たちのなかの差別主義に向き合うべきだ。
でも、だからオタク差別なんてない、とか、オタク差別を言い立てるべきではない、という論理はおかしい。
ヘテロセクシュアルでシスジェンダーの日本人女性の中に同性愛者やトランスジェンダーや外国籍者への差別に加担する人が一定数いたとして、それをもって女性差別の存在を否定するのは違うよね。
パレスチナ人を差別するイスラエルのユダヤ人や、レバノン人を差別するリベリアの黒人(※)も、アメリカやヨーロッパではユダヤ人差別や黒人差別の標的になるかもしれないし、そういう時には差別の被害者として怒っていいよね。彼らが自国に帰ったときには自分の差別を反省するべき、という話と、それはそれとして彼らはこの局面では被差別側であり彼らへの差別は非難に値する、という話は矛盾しないよね。
※ http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-43538302
自分たちにも抑圧者としての側面があるから自分たちへの抑圧を言い立てるのはおかしい、とオタクが考える分には倫理的な態度だと思うし、オタクに抑圧された人が被害者面すんなと言いたくなる気持ちはわかるけど、それを認めちゃうと他の差別問題も封殺できてしまうので、あんまよろしくない理路だと思う。
論点aは「オタク差別」を訴えるならちゃんと理論武装してほしい。そこがガバガバだからツッコまれまくってるんだよ。
論点b’は個人の実感によるところが大きいから色んな人の話を聞くのが大事だと思う。
論点cは本題にはあまり関係ないがオタクも身を律すべき。女性や外国人を差別しておいて「自分たちを差別するな」と言っても説得力は薄い。
論点bを持ち出して実際の迫害の歴史を否定しようとするやつはただのクズなので耳を貸す必要はない。論点bを持ち出して史実の否定を始めた段階で、他の点でどれだけ正しいことを言っていようがこの点に関してはまともに取り合うべき相手ではなく、「オタク差別」に関する議論から退場するべき存在。
大事なのは、誰が何を言ってるか。論点bに固執する論者に対する反論を論点aにこだわってる人に向けても意味がない。無意味に敵を作らないようにしましょう(戒め)
(https://anond.hatelabo.jp/20180322081336 からの続き)
めぐっちゃんと、「南極行きの荷物整理中に見つけためぐっちゃんのゲーム」を「(昔は2人でプレイしていたのに)キマリが一人だけでプレイ」しながら「めぐっちゃんの知らない、キマリの友達」の話をするという流れが端的にめぐっちゃんの心境を表している。めぐっちゃんの心境は各話で少しずつ描かれているが、ここで一気に「めぐっちゃん…」ってなる非常に強烈なシーン。
めぐっちゃんがキマリにすべてを打ち明けるシーン。以下自分語り。
私には小学生時代に知り合った友人がいた。友人はきっかけはよく覚えていないが、小学校高学年になる頃にはほぼ毎日一緒にいたと思う。ただ友人は変に気の強い性格だったのか、私が他の子と遊んでいると鬼のような形相ですっ飛んできて私をそこから連れ出そうとしたり、一人にされることを極端に嫌がったりした。それに振り回されるうち、私は一日中その友人とセットで行動するようになり、中学生になる頃にはその子以外と一切遊ばなくなっていた。
私が当時その状況に甘んじていたのは、一つは友人といて楽しかったと思ってたから。友人はいろんなゲームや漫画のある家庭に育ったので、友人の家に行けばわりと満たされたからだ。そして二つ目は、私が友人から距離を置こうとすると全力で拒否するようになったからだ(暴力込み)。はじめのうちは喧嘩もしたけれど、そのうち「あまりに近くなりすぎないよう距離を置きつつも、概ね抵抗せず、常に機嫌を伺う」というぬるま湯に浸かる術を身につけた私達の仲は、大学時代まで続いた。
その当時の心境を端的に言うと「友人には私が必要だが、私はそうでもない。でも友人から得られるものもある。適度に利用しながら、距離をとっていこう」みたいな感じだった。
別々の地方大学に進学したあとはコミュニケーションを取る頻度が劇的に落ちた。たまに友人からヒステリじみたメール等が飛んできたけれど、物理的な距離のおかげで友人の拘束から逃れることが出来た。そして一人になって初めて、孤独というものを強く思い知らされた。サークルに入っても上手く人に合わせられない。ワイワイする方法がわからない。大学生同士の話題についていけない。同じ趣味の人を見つけることが出来ない。何もかもが上手くいかない。そしてその悩みを共有する相手がいない。本当に空虚だった。案外、友人を縛り付けていたのは私だったのかもしれないな、と今は思っている。結局友人とは音信不通になった。
だから、面と向かってキマリがめぐっちゃんにこの話をしたのはキマリの鋼メンタルを物語ってる。言わば「いっつも面倒見てくれて、それにずっと甘えてきたけれど、もうやめにしよう」とめぐっちゃんを突っぱねたんだから。「いつも面倒かけて申し訳ないから…云々」という消極的な理由ではなく「ゲームの相手になれるくらい」の関係を築きたいというキマリの想いは絶交を宣言しためぐっちゃんと対照的なのだけれど、どっちの気持ちも分かる。私がずっと抜け出そうとしなかった不幸のぬるま湯に、めぐっちゃんもキマリも気づくことが出来て、しかもそこから抜け出そうと一歩を踏み出したのだから。私には二人が眩しく見えた。
でも一方、5話におけるライティング演出が二人の「ここではない、どこかへ」という勇気について非対称性を感じさせる。簡単に言ってキマリ=陽 めぐっちゃん=影 なのだけれど、出発のシーンでは
「絶交無効」…陽
となっていて、「友達と4人で」一歩を踏み出すキマリの明るい予感と、「そうではない(一人で)」一歩を踏み出すめぐっちゃんの暗い予感という対比に見えた。私自身めぐっちゃんルートだったから、最後にキマリが絶交無効したシーンで二人に陽が当たる演出は、「めぐっちゃんにキマリは必要」であることを肯定的に描いてて本当に好き。そう考えると、5話におけるライティング演出の狙いはすべてこの「絶交無効」に収束している気がする。
19:00頃~
日本編と航海編をつなぐ回。シンガポールのメジャーな建物が現地民も納得のハイクオリティで描かれていて、めっちゃ行きたくなる。本作における聖地巡礼は、館林(群馬)→歌舞伎町(新宿)→極地研(立川)→シンガポール→フリーマントル(オーストラリア)が無難か。
キマリ&ゆづの部屋と報瀬&ひなたの部屋でダボーベッドの広さが異なって見える(報瀬ひなた部屋のベッドの方が距離を感じる)。計測したらどっちもほぼ2m幅になっていたので、2組それぞれの心の距離に差があることを非常にうまく対比している、すっげえ大好きなシーン。
無理ーってなってる日向を、自分のわがままで引き止める報瀬。このやり取りは、3話で報瀬が自身の性格について自己嫌悪していた時、日向が「思いの強さとわがままは紙一重である」とアドバイスするとても尊いシーンと対になっている。あのとき日向が報瀬のパーソナリティを肯定したからこそ報瀬が成長し、その結果として6話があるのだと考えるとこんなに幸せな話は他にない。
シンガポールの街並みを見ながらそこに住む人々の生活に思いを馳せ、
同時に過去(日本での生活)を思い出しつつ未来(人々の生活が存在しない大陸)を暗示させる印象的なシーン。
19:35頃 ビジネスクラスのチケットを持ってムッフーなってるキマリ
前回の観測船→今回の観測船の対比(減ったトラックや物資、前回は多くの取材陣に囲われていた隊長、前回は一緒だった貴子)
アバンだけで「観測隊の船出が順風満帆ではないこと、また隊長、かなえ、貴子の関係」を回想と現実の対比によって簡潔に表している。
本作を支える「緻密な取材に基づく描写」がこの辺りから本領発揮する。砕氷艦報瀬の内部構造がしっかり描かれていて、話の内容関係なく観てて楽しい。
ここまでの伏線として「先行き不透明」とか「カネがない」とか「南極ってめっちゃ過酷やねんで」等重大な問題が示唆されているのだけれど、それに対して「一発逆転(一攫千金)の方法」とか「やってみなきゃわかんない」等の非現実的な展開によって解決せず、「これから先いろんな困難が待ち受けている」のではなく「いろんな困難があったけれど、強い覚悟で3年間戦ってきたからこその今がある」っていうもう一つのドラマとして丁寧に大人組を描いていて、主人公の4人よりむしろ大人組に感情移入してしまった。隊長の「この船は、そういう船」っていう言葉で胸がいっぱいになる。
だからこそ、その観測隊員の前で自己紹介をするキマリ、ゆづ、ひなたの晴れやかな顔を見ると「ああ、この子たちはそれでも主人公なんだな」って感じさせるくらいのドラマがあったことを思い出す。大好き。
ここまで「南極にとらわれているお姫様」という舞台装置でしかなかった貴子の「星を見る船を率いていた一人」という側面を知ったことで、報瀬が抱く(手放しで仲間と呼べない)観測隊への複雑な想いが伝わってくるし、自己紹介のとき「小淵沢…報瀬です…」という言い方からも彼女にとって、そして隊員たちにとっての「小淵沢」という姓の重さが伝わってくる。だからこそ、敵or仲間相手じゃないと普通に喋れないポンコツ報瀬が(日向のフォローもあって)あのセリフを言えたことは彼女の成長を強く感じさせたし、「報瀬のコールに応える隊員たち」というシーンだけで、セリフもない隊員達含む全員の想いを完璧に描いた演出は控えめに言って最高すぎる。
8:40頃 物資を運ぶのが大変すぎて、疲労のあまり原型を失ったキマリ
氷海域へ到達!波濤を進む砕氷船「しらせ」での艦内生活【南極観測隊シェフ青堀力の南極紀行2】 https://serai.jp/tour/141947
船内のシーンでは声の反響がシチュエーションごとに異なっていて、反響を聞き分けるだけでその部屋の大きささえもわかるくらい細かい。
「特に荒波に揉まれる砕氷艦の船内」の音がすごい。どうやって作ってるんだろ
キマリの前髪という話題に触れるのは8話が初めてであり、言ってみれば「主人公のキャラデザ(キービジュアル)に個性的な伏線を張り、それを8話まで引っ張る」というマネをしている。「なんやこのキャラ、あんま可愛くないやんけ」って思われたらどうしようとかそういう不安をぶっ飛ばすストロングスタイルな戦略である。前髪の理由を聞いて「あー、だから・・・」って思った私は見事術中にハマっていたらしい。キャラデザ最高かよ。
Bパート以降ずっと画面がゆらゆらしている。公式ラジオでキマリの中の人こと水瀬いのりが「アフレコの時ずっと見てて軽く酔った」と言っていて、たしかに大きい画面で観ると結構きつい。むしろそういう効果を狙った演出だったら笑う。
大人の一人として扱われ、荒波に揉まれる(物理)姿は新社会人を思い出す。観測隊としてやっていくためにはもっと多くのことを出来るようにならなければダメだし、そこに「やる、やらない」という選択肢はなくて、ただ与えられる業務を淡々とこなすことが求められるのも社会人の一つの形なのかもしれない。そしてそういう姿に青春は宿らない。「宝石の国」(2017)12話のフォスフォフィライトを「入社3ヶ月目の俺」と評した人がいたけれど、この4人ももしかして…と思わせるような心境が「頑張るしか無いでしょ…他に選択肢はないんだから」という報瀬のセリフによって描かれている。
これと対になっているのが4話ラストのシーンで、4人が観測隊(あるいは報瀬の旅)についていくのではなく、「みんなで南極に行く」という覚悟が対になっている。だからこそキマリの「この旅が終わった時にはぜったいにそう思ってるもん!」はその鋼メンタルに痺れたし、その後4人のやらかす姿は相変わらず青春しててめちゃくちゃ眩しかった(夜なのにね)。また4人が水平線に流氷を見つけた時の顔は出港時の4人と全く同じ構図になっていて、彼女たちの「変わらなさ」を象徴している気がした。
南極の大変さにビビってたキマリたちがかなえさんに昔の観測隊が何度も何度も南極に挑み続けた話を聞いて、あるいは同じ話を幼い報瀬に話していた吟隊長、そして今の報瀬が砕氷艦のラミングを繰り返す姿に「行け!」って前のめりになっている姿がすごく良い。時代を超えてそれぞれに受け継がれてきた魂のようなもの(作中では「吟の魂」と表現されててかっこいい)の強さがラミングしながら進む砕氷艦の勇ましさや音響とシンクロしてて、控えめに言って最高。
あと、「吟の魂」がなかった3人組は吟と想いを共にする隊員たちより縄跳びが下手で、一方それを幼少期に受け継いだ報瀬は縄跳びがうまいっていう文脈良いよね。そういう意味で3話Cパートの「貴子と、縄跳びを手に持つ報瀬の写真(撮影者はおそらく隊長)を手に持つ隊長」のシーンは非常に印象的。なお現実の観測隊でも縄跳び大会があるみたい(娯楽大会と称して、アウトドア競技やインドア競技で盛り上がるらしい)。
「その貴子はもういないのよ」というかなえのセリフが刺さる。吟は強い信念を持って前回の南極観測に挑んだ結果貴子を失ったことを非常に悔やんでいたし、加えて報瀬を強く傷つけた。しかも自分の信念をロリ報瀬が受け継いだからこそ今の報瀬は母の亡霊と決別するために、あろうことか「宇宙よりも遠い場所」を目指しちゃって、しかも成功しちゃって今目の前にいるというのは吟のカルマそのもので、もはや「自分のせいで報瀬の人生めちゃくちゃ」なのか「報瀬は報瀬なりに一歩を踏み出す勇気を持った子に育ってくれた」のか分からないよね。両方か。そのくせ自分は過去に囚われてるままだし。ラミング→貴子の回想っていう構成で胸がいっぱいになる。
だからこそ最後の「ざまーみろ!」を最初に報瀬が言う演出は最高だった。おまけに大合唱だし。泣くやんあんなの
ラミング(2回め)の氷が割れる音がすごいので、ぜひ爆音で聞いてほしい。あと氷にまつわる音で思い出すのは「宝石の国」(2017)7話の流氷の音。あっちもすごい。
11:55頃 甲板で会話する報瀬と隊長の二人を、下からこっそり見守るキマリのアホ顔
南極のあらゆるシーンで息が白くない。これは気温が低くても息が白くならないリアル南極の仕様を再現してるのだけれど、「白い息を描かない」ことで「ここが南極であることを再認識させられる」っていうのがなんか良い。
「ヘリの音がうるさくて会話が聞こえない」というシチュエーションをアニメで表現しているところを見ないのだけれど(当たり前か)、このシーンはガチでヘリの音がうるさくて好き。ぜひフラットな出力の(人の声を強調しない)スピーカーで大音量にして聴いてほしい。
朝の「ご安全に」、ついつい復唱したくなる。あのシーンだけで「この基地においては隊員たちがああやって生活している姿がメイン」であることを再認識させられる。南極だから彼らが毎日特別なことをやっているわけではないんだよ、というメッセージになってて好き。
「友達とはなんぞや」という話を中心に、それぞれのキャラクターを描く回。10話から本格的に基地での活動や生活を中心とした物語になる関係上それぞれのキャラクターが「友達とは」に言及する尺が結構短い。なのにすごく説得力があるのは、うまくこれまでの物語で彼女たちの心を描いてきたからこそだなぁ、と感じる。
ゆづが「友達誓約書」を出してきて、もしこれが3話とか4話だったらただの笑い話なのだけれど、あれから7ヶ月も一緒だったからこそ3人が曇った顔をしていた気持ちもわかるし、5話があるからキマリが泣いちゃう気持ちがわかるし、一方笑顔でめぐっちゃんの話をするキマリを見てると胸がいっぱいになるし、1話やカーチャンのことがあるから報瀬の友達論は重みがあるし、6話があるから日向が「友達って」をうまく説明できないのが辛い。そして何より、3話で自分から「友達になりませんか!」という宣言とともに獲得した2人の友達(察しのいいゆづならきっとその2人がなんで友達になってくれたのか分かるはずなのに)にすごくこだわっていたゆづ故の「友達誓約書」って思うと、すごく切ない。だって7ヶ月間ずっと待ってたんだぜ?友達宣言。
大好きなのは日向と報瀬がゆづを励ますパーシャル丼のシーン。BGMが3話等の挿入歌「ハルカトオク」のアレンジになっている。BGM聴いただけで「なんて温かいシーンなんだろう」って思わせるくらい優しい空間になっていて、(ゆづの悩みとは裏腹に)明るい予感に満ちている。メッチャ好き。
現代風の表現を用いる時の問題として、時代の変化によってその意味が変質したりするという点がある。これは意図して変質を招くことは少なくて、大抵は無自覚に発生する問題である(ex,宇多田ヒカル”Automatic”の歌詞に出てくる「受話器」)。今作で言えばSNSアプリでのやり取り。もしSNSがポケベルと同じ運命をたどった時、その未来においてこの作品の意図はどれくらい伝わるんだろうか…と心配になるのだけれど、10話の18:30頃において、「既読が付くこと」を「”ピッ”って、読んだよーってサインが付いたり」と表現していて、思わず「おおっ」ってなった。現代風に言うなら「既読スルーしてやんの」とか言いそうな所だけれど(キマリは言わないけど)、「”ピッ”って、読んだよーってサインが付いたり」という言い方は向こう20年くらいは伝わる表現なんじゃないだろうか。風化しにくい表現を選んだ、と言う意図があるかどうかは分からないけれど、すごく好きな表現だ。
発達障害当事者なんだけど、人間関係トラブル精神科医に相談したらさ、相手がおかしい人ですって言われることが多すぎて疲れた。
自分の行動なら工夫のしようもあるだろうけど、相手が情緒不安定だと、医者に掛かってても当事者の体験談探してもどうしようもない。疲れた。
クライアントが来てるのに、俺が隣に座るといきなり小声で「死ね死ね死ね死ね」呟きはじめるおっさん。
(パワハラ問題になったが、おっさん若いころに何かやらかしてたらしくて、仕事できない俺の方が不問になった。)
そいつのやり方に合わせないとヒス起こして「馬鹿にしてる!」って騒ぎ出す、承認欲求満たしに来てんだか仕事しに来てんだかってやつ。
他にも色々。身内にもいる。(これは発覚してないだけで障害あんのかも)
あとツイッターでよく見るのだと、A is Bって言いながらAとBの位置関係が不明瞭な書き方して、突っ込まれたら「さっきから言ってたこれがAでBなんだよ」って煽るやつね。
いやードエロかったですね!
「性」と「母」が繋がることをまったく隠すことなく見せつけてくる話でした。
大きな、生命の尊さみたいなものの上に「性」と「母」をどーんと乗せて同列に扱い、なんかイイ感じの素敵なお話にまとめ上げる手腕は流石だなと思いました。
すごいよマリィ。
茅野さんのキャラクターがまあとんでもなくエロいんです。唐突にブチ込まれる寝取られ展開には大興奮しました。
直接的な性表現がないにもかかわらず、妊娠しているお腹を撫でるだけでこんなにエロさが表現できるのかと。
またキャラクターの造形的に身体的な性的アピールが乏しく、服装は露出が少なく、胸部も臀部も特に主張はない分、
やや膨らんだように見えるお腹を愛おしそうに撫でるという行為を引き立てていましたね。
まあこのキャラクターは作中、人生めちゃくちゃになるんですが、望まぬ性行為を受け入れ、望まぬ妊娠を受け入れて母になる強さが描かれていました。
そうして母になったにもかかわらず母らしいことは一切させてもらえず、産んだ子にも会えずでとにかく悲惨でした。
自分を助けに来たかつての彼氏が目の前で殺され(たと思っていた)てからは病みっぷりが進行し、抱くだの抱かないだのでヒスっている姿がかわいそうでとても可愛かったです。
やっぱり天真爛漫でハツラツな女の子が汚され堕ちていく様は魅力的だなと思いました。
このめちゃくちゃな人生の中でどのように望まぬ性行為、妊娠を受け入れていったのか、その過程が見たい。具体的にいうと薄い本で見たい。
そして梶さんのキャラクターが輪をかけて病んでいくんですが、病みすぎて原理主義的なことを言い出すわけですよ。
でもね、それも仕方ないですよ。
自らの手の中にあったあんなにかわいい彼女がさらわれ妊娠させられ、助けに行けば子のため行かないとか言われればそれもやむなしですよ。
それは母として強くなった彼女との対比としてそう描かれているわけですけど哀れでしたね。
後半には生と死の対比みたいなシーンがあるんですが、そこで夜空に響き渡る日笠さんの喘ぎ声とても良かったです。
精子の性能と、精子がもつゲノムの関連性は明らかでない。精原細胞が細胞質を共有していること、さらにヒストンがプロタミンに置換されることで新規遺伝子発現は高度に抑制されることから、運動性の高い精子から優秀な個体が生まれるという仮説には疑問の余地がある。ついでにいうなら、精子のもつ遺伝情報は個体を構成するには不十分であるということも、この論を否定する材料になるだろう。また、受精のプロセスにおいて、必要な精子は一つではない。卵丘細胞-卵子複合体を突破して透明帯に到達するには、少なくとも1000個の精子が必要であると考えられている。受精競争と社会での競争を比較するアナロジーは個人的には嫌いではないが、その本質は競争というよりはむしろ協力といえる。結論として、増田が優れた精子から生まれたという主張が仮に真実であったとしても、だから水泳が得意だというのはおごりでしかない。優れた競泳選手は競争の中で成長できることを知っているから謙虚なものだ。北島康介選手の名言を紹介しておく。
※この記事は地雷過激派ヒステリックオタクが嫌いな雑食オタクが上から目線で語る記事です。
嫌な予感がした場合は閲覧をお控えください。
オタクをやっていて二次創作に触れていると、どうしても「地雷」という存在は避けて通れないと思っている。
人間だから、一人一人好きなものもあれば受け付けられないものがあることも当然だし、それを否定はしない。
雑種なお陰で色々なジャンルを楽しめているし、周りも交流しても好みで衝突することは基本的にない。
地雷を叫ぶ人からしたら、周りに対して「私はこれが嫌い!だから自衛するけど、周りも配慮してね!」というアピールをするこで、自分の居心地の良い環境を作るためなんだろう。
正直、個人としてはネットの中でくらいならそれくらいのワガママは通っていいと思ってる。
最高に面倒臭いけど。
しかし、最近よく目につくのが「私はこれが地雷!ホント死ね!流す奴は悪!」みたいなことを喚く奴。
古いオタクなので老害と思われそうではあるが、昔の同人サイトBBS交流時代はこんなことはなかった。
今はTwitterやpixiv等で対人のやりとりが容易になり、また若いユーザーが同人ネットマナーを学べる場がない。
そういう面もあるのかなとは感じている。
いや、お前がミュートするか鍵かけろよ。
何で周りがお前の目を気にして話したい話題を遠慮しなければいけないんだ?
そのくせ、TLで少しでも触れてしまうと不穏な発言をしてくる。
お前の言う自衛って何?
一存で言語統制すんじゃねぇよと思ったりもする。
ブロックはしたらしたで共通フォロワーに被害者面をする奴もいる。
偏見かもしれないが、地雷過激派には粘着質で大変短気な方が多いとお見受けする。
「嫌いなものを見せられた!周りが悪い!」
「これが嫌い!何故好きな人がいるのか分からない!」と、基本的に人に原因を求める人間が多い気がする。
いやいや、嫌いなのはお前の好みであって周りが悪いわけじゃないよ。
「個人的な好き嫌いへの悪口」を「地雷」という免罪符を付けて喚くのをやめろ。
例としてあげるならグループで食事をするとき、ファミレス内で大声で
「アタシピーマンきら~い!!!!食べられな~~~い!!!ピーマン好きなやつ頭おかし~~~~い!!!!」
と叫ぶようなもんだ。
「ちょっとピーマン入ってる~!!!アタシピーマン嫌いなの知ってるよね~~!?なのに皆が勧めたのが悪い!!!アタシ悪くない!!!!」
「ピーマン嫌いなのは人それぞれだからアタシ悪くないよね?だから皆アタシに配慮して~~ピーマン食べるとこ見せないでよオエッ」ってことに近いのかなと。
極論かもしれないけど、私にはこう見える。
「地雷持ちは短気を我慢して一呼吸置いて自衛をしろ。もしくはブロックだ、だが後からぐちぐち言うな」
「雑食持ちは周りに地雷持ちがいたら、やんわり住み分けてあげようね。もしくはブロックだ、だが後からぐちぐち言うな」
で済むと思ってる。
だらだら学級会やるよりお互い自衛すればいい。
ただし、自衛してるのにあっちから難癖つけてくる強襲型地雷クソオタクはダメだ。
きっと雑食だったり、地雷持ちに辟易してる人は、ここまで読んで色々思い出させてしまうかもしれない。
申し訳ない。
地雷持ちで自分に思い当たる節があったり罪悪感を感じた人は言動を振り返ってみてほしい。
ちょっと地雷の自衛の仕方を変えるだけで、自分にとってもぐっと交流しやすくなるかもしれない。
ただ、この記事を読んで偉そうに!とか好きで地雷持ちなわけじゃないのに!と怒りを覚えた人はその憤りを周りにぶつけないようにして下さい。
地雷があることは決して悪いことではない。
その伝え方や地雷を武器にしてしまっていることが周りに不快感を与える事例をたくさん見てきた。
時には論争や周りを巻き込んだ喧嘩をしたいが為に地雷を振りかざしている地雷クソオタクだっているみたいだ。
そこまでいくと精神の異常を感じる。
ネットであれだけ地雷地雷言ってたら、現実でもあれがいやこれが嫌い、みたいなことも多そうだ。
心に余裕を持とう。周りの環境をよく保とう。
そうすればちゃんと住み分けできる。
私は地雷を喚いて一人で怒って、思春期のガキのように一人で不貞腐れる
本名 自分の思った通りにならなかったので「私は傷付いた!周りが悪い!」と悪口言う野郎
が大嫌いである。
叫ぶのを止めて、深呼吸して、自分の考えをまとめてからしゃべれ。
幼少期(小学校の低学年頃)に脳に疾患が見つかって、以来十年近く投薬治療をしていた。
また、高校の頃からずっと鬱を患っていた。頭の中が鉛のようになって自由に動けなくなる。生活の上でそういうことが多々あった。
ADHDも併発している。破壊的な過集中を経て朝まで眠れないことが多かった。
バイトのシフトにはちゃんと遅刻せずに行く程度の社会性はあったけれど、やはりと言うべきかミスが多く、恐らく責任者も俺のことを発達障害者として認識していたみたいで、指示を出す時も俺にだけ妙に細かい明確な指示を出してくれたりした。それはそれでありがたかったのだけれど、時々ヒスを起こされることとなった。自分が主原因になっていることは分かっていたから、どちらかと言えば申し訳ない気持ちの方が強かったけれど。
現役で地方の駅弁大学に入学して、卒業が近くなってからは資格試験講座に通っていた。で、途中から引き篭もるようになる。
一応何とか大学は卒業できたけれど、定職に就くことはできなかった。
自分は、根本的に人生はディシプリンというか一種の訓練期間だという固定観念を持っていて、それと同時に、より効率的に自身を訓練できる人間がより優れた人間なのだという価値観を持っていた。だからと言うべきか、高校時代は朝5時に起きてジョギングを繰り返していた。恐らくその頃が、自分の学力のピークになっていたと思う。
確か当時の全国模試の総合偏差値は70を超えていたはずである。
でも、そういう訓練が破綻を来たすのは思っていたよりも早かった。
何年も日課にしていたジョギングが、高校生活半ばに突如として億劫になったのが始まりで、それ以来上手く眠ることができなくなったのだ。
その頃から学力の減退も生じていて、自分で自分がコントロールできない感覚に苛まれるようになっていた。志望校のランクを一つ落として、何とか国立の大学に合格することはできたものの、今にして思えばあれが自分の人生の最盛期だったのではないかと思う。
大学に入ってからは、過密的な訓練期間と白痴のように生活が崩壊する期間を繰り返すようになった。訓練期間には、暇があればジョギングに出かけ、膨大な量の学術書に当たった。また、複数の語学習得を目指し大学のゼミを幾つも掛け持ちしていた。そして、大抵はそのような訓練期間は三ヶ月と持たずに破綻し、再び自分をコントロールできずロクに睡眠も取れない白痴のような生活が始まるのだった。
俺はそうやって訓練期間が破綻する度に、自分の計画の建て方や訓練の方法に恐らくは問題があるのだと考えていた。実際、その考えにはある程度事実に沿う部分もあって、当時の俺はその自分が打ち立てた訓練方法の細部を限りなく修正し続ける作業に集中することとなった。そして、その細部を修正したトレーニング理論に基づく何ヶ月かの訓練タームを集中的に実施し、そしてその訓練タームの後には、訓練タームよりも更に長い破滅的な破綻の期間を迎えるということを繰り返していた。そのような生活は大学を卒業してからも戻らず、そんな具合に二十代の半ばを迎えた。
何かが間違っていることには気付いていたけれど、何が間違っているのかはもはや分からなかった。考えつく限りの細部には工夫を凝らしてきたつもりで、主に食事における栄養バランスの調整には念入りという以上に念入りになった。卵、バナナ、木綿豆腐、牛乳、納豆、青魚、葉野菜。こういうものをバランスよく摂るようにしていた。でも、自分が自分をコントロールしているという感覚はついぞ訪れることはなく、相変わらず愚にもつかない趣味に熱中しては朝を迎え、疲弊しきった精神でバイト先に行き、そして週末は48時間家に引き篭もって過ごすことも多くなっていた。
いわば、この辺りが人生の暗黒期だったと言えるだろう。むしろ、そう言わずして何と呼べるのだろうか? もし他に呼び方があるとすれば誰か教えておくれ。
さて。
いわゆる躁鬱の躁期に入っただけの可能性も有ると言えば有るのだが、しかし実証的に体系的に改善を目指した結果として、根本的に自己をコントロールしているという感覚が数年ぶりに戻ってきたので、そこに関してはある種の信頼を置いている。
原因というべき原因については既に見当がついていて、つまりそれは脳に対する血流の低下である。身体におけるありとあらゆる不調や、自身のコントロールを掌握できていない感覚は殆どの場合、血流の低下に基づいているのである。ADHDや鬱の改善に血流を効率よく増やす有酸素運動が有効であることはとっくに知られていることで、つまり結局は脳の血流の有無が自己コントロール能力の有無へと繋がっているということなのだ。これを改善する為の様々な手段を講じ続けてきた結果、その中で極めて有効なもののみが残ったので、それらについて以下に紹介していきたい。
シンプルながら散歩はADHDや鬱の克服に大変役立つ行為である。普段自転車や原付で移動する距離を、例えば自転車や原付を手で押しながら移動することで、とにかく歩く歩数を増やすことに集中した。iPhoneのヘルスメーターも一応活用しており、実際に散歩した分の歩数が如実に数値として現れることにはかなりモチベーションを刺激されることとなった。
腰の尾てい骨の下に柔らかいタオルを敷いた上での足の上げ下げなど、身体を横にして安定した状態にした上での筋トレは圧倒的に脳への血流を増やすことができる。これで週末の鬱傾向が随分と改善している。なお俺は心肺能力に二十代の半ばからかなり不安を抱えるようになったため、そこまで負荷を掛ける筋トレは実施していないが、自分の体調と相談しながら負荷を増やしていくことが肝要であるようだ。
ドストエフスキーや夏目漱石などといった純文学が望ましい。これらを読む際に脳に鋭い拒否感(としか呼びようのない感覚)が走る人間ほど、読書はうってつけの鬱・ADHDの改善法となると俺は思っている。大抵の場合、活字を読んだ際に訪れる決定的な拒否感は、脳に対する血流が急激に増えることに由来しているのである。そのように活字に対する拒否感が生じる際にはそっと目を閉じて、左前頭葉辺りに意識を集中してみると、はっきりと自分の脳への血流が増大している様子を感じることができると思う。特に、血流を増やす為には身体を横たえた状態でいることが望ましいのだけど、当然屋外や座った状態での読書も随分と効果を発揮する筈である。また、外国語の読解などもこの読書のカテゴリーに加えておく。
基本的に鬱の人間は、日々変化に欠ける生活を送っている場合が多い。
同じパターンというか、悪い意味で安定しきった生活を送っていることが多いのである。
すると行動の多様性や、積極的な行動への意志が驚くほど抜け落ちていくという事態に遭遇した鬱持ち・ADHD持ちの人間は非常に多いのではなかろうか。というわけで俺はどちらかと言えば趣味としては読書や文章を書くことに取り組むことが多く、空間的に物事を把握しそれを描写する絵などにはあまり集中力を払わないことが多かったのだけれど、これがどうやらいけなかったらしい。最近は、漫画のイラストを模写したりだとか、積極的に絵を描く時間を生活の中に設けるようにしている。ファミレスやハンバーガーショップなどに行った時にサッと手帳を取り出して、軽く文章やそれに付する絵を描いたりすることも日課となっている。
ここで言いたいのは、必ずしも絵を描くことが鬱やADHDの改善に役立つといったことではなく、同じ行動パターンや同じ行動に固執することが如何に脳に悪影響であるかということなのである。なので俺は最近は文章を書き、絵を描き、詰将棋を解き、読書をし、と、とにかくやる事を一つに限定せずコロコロと変えることを意識して生活するようにしているのだ。
鬱持ち・ADHD持ちにありがちな、思考の切り替えや行動の切り替えが上手くいかない人間には、是非絵やその他普段行うことのない趣味を増やすことをオススメする。
上で書いた通り、卵や牛乳、青魚といったナチュラルフードが脳のパフォーマンスに影響することは学術的に証明されて久しい(と俺は思っている)。これはもう殆ど記述する必要性がない事実だが、しかし敢えてここに記述するからには、そこには当然ながらそれなりの理由がある。
つまり、俺のような鬱・ADHDの併発した人間には、料理を行う際にとある事柄が圧倒的なハードルとして持ち掛かってくるということなのである。つまりそれは、そう、料理の煩雑さや億劫さである。
基本的に鬱傾向やADHD傾向を持った人間はありとあらゆる行動に億劫さを感じるもので、よほどその行動に高い利益や見返りが見込めない限りは、その行動を行いたくないと思うものなのである。そういった面から言って、料理は味よりも栄養価と手間の少なさを重視するように俺は心がけている。準備や片付けの手間をできるだけ減らすために、単に塩焼きにしたり茹でるだけだとか、できるだけ工程の少ない料理(というか殆ど調理)で済ませられるようにしている。
脳に一定以上の煩雑さや負担を押し付けないことが、ADHDや鬱改善の要点である。時にはサボることも非常に重要だ。
追記。瞑想は効果あると思う。瞑想時に、個人的には脳への血流が如実に感じられることが多く、恐らく脳に対してかなりポジティブな効果が起こっていると思われる。
読書の後など、脳に負荷を掛けた際にその情報の整理や休憩の為に、短めのカジュアルな瞑想を行うことがある。これもまたオススメ。
など
こんなところだろうか。
思い出し次第追記を行いたいと思う。
今年に入って、文学小説の脳に対する効能が非常に大きいことに気付けたのは重要な発見だったと思う。読書の際に襲ってくる倦厭感がむしろ血流の増大と関わっていることに気付けたのは、自分としては非常に大きな発見だったと思っている。というわけで、かなり重篤な症状持ちの人間としては、以上のような改善法を進める次第である。
上では書かなかったが、俺は重篤なインターネット依存症持ちでもある。
しかしその依存症もこの数ヶ月で劇的に改善した。俺という人間は、言うまでもなく長所よりは短所や欠点の方が随分多く付きまとう人間であるからには、そんな人間にすら効果がある対処法は、恐らく全人類的に効果のある対処法となっていること請け合いである。
是非とも、皆さんにも実行してもらいたい。
自身の病癖を繰り返すようで悪いが、やはり疑いなく、「よい訓練こそが、よい人生」なのだ。
それでは。
笑ってはいけないの件で黒人うんたらーって言って問題になってるが、特徴を表現するのは問題なのかという疑問について。
単に浜田が黒人に扮したら、ああなるんかい!って感じで笑いがとれてただけで。
黒人である褐色の肌を表現して黒人のマネをする事に問題が有るのだとしたら、外人さんが日本人のマネをする行為は同じではないだろうか。
特徴を表現することを悪と認識されてしまうのは、なんか違わない?
単なる特徴の表現であれは差別だ!なんて言われたら、何も表現できなくなるよ。
過去に黒人が辛い思いをしたという記録は残っているし、それは今も辛い記憶だろうけどね。
でも、それは差別という行為から始まっているのであって特徴の表現から始める事じゃないでしょ。
明らかに悪質な表現ならば、ガキ使が悪い。そりゃ悪いって思うけどね。
それすらアウトってヒス声あげられたら、じゃあエディー・マーフィーのマネは金輪際誰もできないわけだねってなる。
声高らかに自分たちがさも正義のように差別云々と表現する団体がいるけど、
実際の所、そういう団体がいちいち喚かなければ、番組の一部分でしかなくなって
「昨日の浜田のエディーマーフィーの格好おもろかったな」
「なんで浜田似合いすぎだろww」
これだけで終わるのにね。
団体が大声あげてヒスなんて起こすから、つまらないニュースが流れるわけで今の世の中はTVをつまらなくするだけだなと思いましたマル
あれって悪いのは誰だって言ったら、
あの徳川幕府でさえ、風俗は必要だと認めて吉原遊廓を許可したっていうのに。
まるで、ヒスって現実見れなくなったババアみたいにソープランド潰しにやっきな日本はやばい。
ドイツやマカオだと、裸の女の子並ばせて、セックスしたい子を指名して遊べるのに、
昔の日本なんてスワッピング大国のホモレズ大好きセックスサイコーな国だったのに、こんなのおかしいよ。
立ちんぼもいいじゃないか。
もう2度とこんな悲惨な事故は嫌なので、みんなで署名して国に訴えないか?
ホテヘルで本番交渉したら嬢にお金をゆすられた俺みたいな被害者を無くすためにも、売買春の合法化を進めよう。
ホテヘルでNNできるのが韓デリだけだなんてそれでいいのか日本のイエローキャブ!
娼婦らしくマンコ引き締めて本番マンコにアイデンティティをもて!
以上、2度と悲惨な事故が起きない事を願って下記のURLを貼る。
誰か、署名集めろ。
201712201328追記