はてなキーワード: バケツとは
/* 2021-06-10 追記:蛇足を書いたよ https://anond.hatelabo.jp/20210610200709 ) */
「洗車くらい自分でしたいけど、何から何までわからない」という人向け。
ちなみに私は洗車業界関係者ではなくただの一般人。そんな私が「だいたい失敗がない」と思う方法を書いていきます。
これ読んで「めんどくさ!」と思った人は素直に洗車機に突っ込むかガソスタで手洗いを頼んでください。
人間がお風呂入るときと同じだね? 車だけの特別なことって実はそんなにないんだ。でも、人間のお風呂とは違うだいじなポイントがふたつあるよ。
ボディの上で水滴や洗剤が蒸発して乾くと、こびりついて落としにくい跡になってしまうよ。特に水アカが厄介。なので洗車している間はなるべく車をウェットにたもっておく必要があるよ。
ボディをよく見ると細か~い傷がたくさんついている。この傷は全部、洗車する時についた傷だよ。洗車すると汚れは落ちるけど傷は増えてしまうんだ。だから、なるべく傷をつけないように洗車する方法を語っていくよ。
洗車には涼しい時間帯を選ぼう。涼しい曇りの日がベスト。暑いと作業がしんどいというのもあるけど、とにかく乾かしたくないというのが一番。
洗車する場所は、車の周りにある程度のスペースがあって、水道から水をとれるところ。まあわかるよねと。
あと、なるべく日陰を選ぼう。屋内や屋根があればベスト。理由は上と同じ、洗車中は車を乾かしたくないから。
汚れてきたなと思った時が洗車どき(ボーダーラインは人によって違うだろうけど)。その日の夜から雨が降ることがわかっていても、洗える時に洗ったほうがいいよ。
ふつうのガーデニング用のリール式でよいよ。手元でON/OFFや水量調整ができる散水ノズルがついたもの(だいたいついてる)。ホースの長さは20mくらいあるとよい。
7L~20L(車の大きさなりで)。四角い箱型バケツは洗車用具を収納しておくのに便利だよ。2個あると便利だけど、まずは1個でいい。
○個で○○○円とかの安物。奮発して高いものを買ってはいけない(理由は後述)。安物スポンジはたいてい売り場の目立たない場所に置かれているので、床に近いところを探すといいよ。
家にあるふつうの使い古しタオルでいいけど、少し厚手でよく水を吸うものがよい(旅館の手ぬぐいみたいなのは向かない)。洗車用品売り場で売ってるマイクロファイバータオルを買うなら60x30cmくらいのサイズがよい。バスタオルサイズのもあるけど、絞りにくいのでおすすめしない。
安物でよい。お店に行くとコーティング車用!とか○色の車用!とか色んな付加価値のついたカーシャンプーがたくさん売ってるけど、大した違いはない。その売場でいちばん安くて質素な容器のやつでよい。液剤が無色のやつよりは青とか緑とかの色がついてるやつのほうが量がわかりやすいよ。
本来「洗車は上から」が鉄則なのだけれど、ホイールはとりわけ汚れている場所なのでまず先に済ませちゃいます。
ホイールっていうのは車輪を横から見て内周の金属のところね。ゴムじゃないところ。黒いゴムのところはタイヤ。
まずシャワーを当ててざっくり汚れを落とす。シャワーはできるだけ水圧を上げよう!
ついでにタイヤハウス(タイヤが収まっている空間)も流しておくとよい。タイヤとボディのすき間の奥にノズルを向けて、タイヤハウスの壁や天井、裏側の部品などをぐるりと水で洗い流す。水がかかっちゃいけない部品はないから景気よくやっていいよ。
バケツにカーシャンプーをドボドボッと入れ(底から1cmくらい)、強めのシャワーを浴びせかけてよく泡立たせながら、泡がバケツからあふれてくるまで希釈する。希釈率とかは気にしないで目分量でいい。泡を落ち着かせてシャワーを繰り返すと、きめの細かい泡になるよ。
スポンジに泡をたっぷり含ませてホイールを洗う。特別なテクニックとかはなくて、目が届く&手が届く範囲の汚れを落とす。
ホイールはとても汚れているのである程度ごしごしやる必要があるけど、あんまりしゃかりきに洗わなくてもいい。簡単に落ちる汚れだけを落とすと割り切ろう。ホイールのしつこい汚れはどっちみちシャンプー+スポンジ程度では落ちないんだよね。
タイヤは、うーん、タイヤは好きずきかなー。シャワー当てて落ちる汚れだけ落ちてればまずは十分だと思う。
4本とも洗ったら水でよくすすいで終わり。拭かなくていい。濡れたままでOK(どうせこの後ボディを洗うときに水がかかりまくるから)。
ボディの洗浄手順もホイールと同じだよ。ざっと水洗い、シャンプーで本洗い、すすぎ。最後に拭き上げという工程が加わります。
車全体にすみずみまで強いシャワーを当てて、砂埃などを流してしまおう。これらを残しておくとスポンジで洗う時に小キズの原因になるよ。
シャワーの水圧はできるだけ上げてね。遠くから広い範囲にサワサワかけるんじゃなくて、シャワーのノズルをできるだけ相手に近づけて、なんだろ、スプレー塗料で色を塗るような感じ? ゆっくりとノズルを移動させながら、ボディ表面の汚れを高水圧でていねいに吹き飛ばしていくようなイメージ。
基本的にはルーフ(屋根)からだんだん下に降りてくる要領で流すんだけど、シャワーのノズルを上や横に向けないと水が届かない場所もあるよ。
ホイールに使ったシャンプーはめちゃくちゃ汚れているので捨てて、バケツをすすいでもう一度シャンプーを作る。作り方は上と同じだよ。
スポンジもホイール用とボディ用を必ず分けること! ホイールを洗ったスポンジは異物まみれだから、それでボディを洗うと傷だらけになるよ!
シャンプーの泡をスポンジにたっぷり含ませて、ルーフから順に洗っていこう。
こまめにスポンジに泡をとって、ボディが潤沢な泡まみれ状態になるようにキープしてね。スポンジは力をこめてゴシゴシこすらずに、表面を滑らせるような力加減でよいよ。なでて落ちない汚れはこすっても落ちません。傷を増やすだけだよ。
洗っていく順番はおおむね上→下になっていればあとは好みでよいよ。車の形も様々だしね。
スポンジを走らせる方向は、水平往復がいいよ。「の」の字を描くようにぐるぐると洗うと気分的には洗ってる感が出るけど、ボディラインに沿ってスポンジを動かしたほうが実は効率的。それに、洗い傷がついても一方向なら目立たないんだ。あと、スポンジは何度もゆすいでください。ルーフを洗ったらゆすぐ。ボンネットを洗ったらゆすぐ。ドア一枚洗ったらゆすぐ。こうしてやることで、スポンジに噛み込んだ異物を落としたいからだよ。
ここまで何度も洗えば洗うほど傷がつくと言ってきた。これは、スポンジやタオルが異物(砂や鉄粉)を噛むからだよ。そんなもので洗車を続けると、異物をだいじなボディにこすりつけているのと同じだ。
これはもう宿命的なことで、まったく傷をつけずに洗車する方法なんてない。そして、一度ついてしまった傷は専門業者に研磨してしもらわないと根本的に消す方法はない(逆に言えば、金を積めば消せる)。なので、スポンジとタオルは事あるごとにこまめに真水でゆすいで異物を落としながら作業を進めるしかない。
しかし、ゆすいでもゆすいでも居座り続ける異物はいる。洗車を繰り返せばそうした異物は増えていく。これは高級ムートンだろうが安物スポンジだろうが同じだよ。つまり古いスポンジ=ヤバいスポンジなのだ。なので、安物のスポンジを短いスパンでばんばん取り替えるのが最適解だと私は思っている。
お払い箱のスポンジはホイール洗い用に降格するとか、家で別な用途に使うとかしてちょんまげ。
高いムートン買っちゃった人。残念だけどしまっといてください。やわらかくてフサフサで高級感もあるけど、あんなに毛が多くて毛足が長かったら「異物さんお入り下さ~い」って言ってるみたいなもんよ?
水で泡を洗い流す。隅々までね。
洗車中はなるべくボディの水分を切らさないようにと言ってきたけれど、いよいよ水分を拭き取るよ。
タオルを2枚用意したほうが効率がいい。水拭き用と、乾拭き用。
水拭き用のタオルは一度濡らしてから固く絞り、こいつでどんどん水滴を拭き取っていこう。屋根から順に、ホイールは最後。タオルは拭き取った水分ですぐにジュクジュクになるので、こまめによく絞る。あと、こまめにゆすぐ(異物対策)。
水拭きしたらすかさず乾いたタオルで乾拭き。どのくらい「すかさず」かというと、両手にタオルを持って、左手で水拭きしたら右手で乾拭き、というくらいのタイム感。とにかく水道水に蒸発するスキを与えない。ここは手際の良さが勝負だよ。
ホイールまで拭き上げたら洗車は終わりだ。洗って流して拭く、要約すればこれだけのことだけど、作業のイメージがしやすいようにちょっと詳しく書いた。慣れない人だと小一時間はかかると思う。
仕上がった車を眺めてみると、まだあちこち汚れているところが見つかると思う。それは洗い残しかもしれないし、日常の洗車では本質的に洗い落とせない汚れなのかもしれない。それは次の洗車で確認してみてほしい。
セミバケットちゅーのはやね、スポーツタイプのシートのことですわ。運転席、助手席の椅子。
「バケット」は、要はバケツよね。バケツ状にドライバーの座るところがくぼんどる。くぼんどると言うよりは、両サイドに壁があるような感じかね。
ほんとにショベルカーのバケットみたいな一体型になってるのをフルバケットって言うんだけど、これはリクライニングもしないし、まあ、素人の買うものではない。
ふつうのクルマのように真ん中から倒れるやつがセミバケット。略してセミバケ。色んなメーカーからたくさん出てる。
とにかくラク。
「セミバケ」で画像検索すると、肩や腰、腿あたりの両サイドが盛り上がってるシートの画像がたくさんご覧いただけると思います。
こ~の壁があると、ラク、なんです!
カーブを曲がるとき、こう、横Gがかかりますよね?(体を左右に傾けるジェスチャー)
でも、カーブのたびに助手席のほうに倒れかかったり運転席のドアにぶつかったりしてたら安全運転できないから、こう、踏ん張るとか、体幹を使って、姿勢をなるべくまっすぐに保とうとします。みなさん無意識にやっていることと思います。
それをね、支えてくれるんです! この壁は!
両サイドにお兄さんがいて、「体軸がブレても大丈夫だからね、俺たちが支えててあげるよ」ってサポートしてくれてるみたいな感じ。
「セミバケのメリットってそれだけ?」って思うかもしれないけど、はい、それだけです。
ハンドル操作のつど、横Gに備えて踏ん張る必要があるかないかだけの違いです。うん。
でも、これがあるとないとでは雲泥の差です!
電車でも、10分15分ならまあ立っててもいいかと思うけど、1時間2時間だと座りたいな~って思うでしょ?
同じ同じ。セミバケの良さも、運転時間が長ければ長いほど効いてきます。
これねー。
ほんと乗ってもらえば一発で「こりゃええわい!」ってなると思うんですよ。
ふだんの運転では横Gをこらえてることなんてほとんど意識してないでしょ?
横Gをこらえなくていい運転がどんなものか、あんまイメージできないと思うんですよね。乗ってみないと。
私も友達のZの助手席に乗せてもらった時に「なにこれ!ラクチン!」ってなるまで知りませんでした。
助手席はドライバーと違って横Gに対して常に受け身なので、ドライバーよりむしろ助手席のほうが恩恵は大きいかもしれませんね。
私のクルマの助手席に乗ってもらった人はよく「この椅子ラク…」って言います。
もちろん本来はスポーツ走行を主眼としたものだけど、それはつまり、運転しやすさとか疲労の少なさをよく考えられているという意味です。
ドライバーを運転操作に集中させることを第一に設計されてます、成績のために。
でも、運転操作に集中したいのは一般ドライバーだって同じですよね?
「純正シートもそれを考えて作られてるんじゃないの?」
それはどうでしょう。
メーカーのサイトで価格別に内装写真を見ていってほしいんですが、安いクルマほど座面が平らですよね?
高いクルマはわりと堀の深い椅子が採用されてます。セミバケに比べれば浅いですが。
というのも、乗り降りのしやすさ、コスト、どんな体格の人でも窮屈でないこと、などなど、市販車にはいろんな制約があります。
私が力説している横Gサポートのほかにも優先させなきゃいけない条件がたくさんあるということです。
あー。イケイケな走り屋なデザインのシートは、おだやかなファミリーカーには似合いませんね。
でも、おとなしいデザインのシートもたくさんありますし、高級輸入車に似合うような高級感のあるデザインのやつもあります(お高いけど)。
「なんで変な穴が空いてるの?」
背もたれにある左右一対の穴のことですね。あれは4点式や5点式といった競技用のシートベルトを通す穴です。街乗りでは使いません。ないものもあります。
ゲーミングチェアにあの穴が空いているのをよく見ますが、意味がよくわかりません。
「デメリットもあるでしょ?」
色々ありますね。
まず、それを買うお金がかかる。ヤフオクメルカリで1万円以下から中古があるとは思いますが、直接人の肌に触れるものなので新品がいいと言う人も多いでしょう。そうなると工賃含めて10万円くらいは予算を積んでおいたほうがいいでしょう。
あと、純正シートの機能は一部使えなくなるかもですね。パワーシートとか。
あと、セミバケにはサイドサポートという壁があるので、じゃっかん乗り降りしにくくなります。ちょっとですよ。
あと、たいていドラポジが低くなると思うので、体格によっては見切りが悪くなるかもですね。でもこれはすぐ慣れます。
ちなみにドラポジは、高いほうが視野が広くて運転しやすいですが、低いほうが疲れは少ないです。
車はカーブで横Gがかかると左右に傾きます(これをロールといいます)。メトロノームの棒を思い浮かべてください。棒の上のほうより下のほうが振れる量もスピードも小さいですよね? それと同じで、ドラポジは低いほうが体が安定するんです。
とまあ、色々書きましたが、月に一度や二度はロングドライブをする人。田舎道を走るのが好きな人。運転好きな人。セミバケットおすすめですよ。
うちにはセット三つ分のレゴがある。
妻はプレゼントを考えるのが面倒くさい人間なので、クリスマスと誕生日に立て続けにレゴを買ってきた。
なかなか立派な庭園やドラゴンが出来上がるが、半分くらいしか使わずに完成する。
毎日片づけなさいと怒気を含んで言うがなかなか片づけない。
片づけなければ捨てるというと、いいよと言う。
捨てようとすると妻がヒステリーを起こす。
どうせ半分も使わないので半分をレジ袋に入れて押し入れに入れておくと、妻が必ず戻す。
彼女の「ねえこの動画面白よー」という声。リビングに行ってスマホを覗き込む。
画面中央には水の張られたバケツがありその縁に木の板がまるで飛び込み台のようにかけてある。動画が再生されると、画面の端からネズミが現れて板の上をバケツに向かってとことこ歩いていく。端あたりに到達したその瞬間、ネズミがまるでハンマーで弾かれたようにバケツに落ちた。水の中でもがく。
「面白くない? 木の端っこに電極があって、そこに突っ込んでいっちゃうの」
笑顔で語る彼女。その間にもまるでベルトコンベアーに乗せられたかのように次々とネズミが板の上を歩き、電気ショックを受け、バケツに落ちた。バケツの中はあっという間に溺れまいともがくネズミだらけになった。
僕は気分が悪くなった。そんな映像は見たくなかった。「そういうのは気分が悪くなるので見せないで」と、普段の僕からは考えられないであろう冷たさをできるだけ演出して、言った。
彼女は相当しょげたらしく、その夜は「ごめんなさい」と謝ってきた。今にも泣きそうな声であった。
その映像を見せられた時、頭から冷静さみたいなものが無くなっていた。一つ重大な要素を見落としていた。
彼女は害獣駆除業者で事務の仕事をしている。聞くところによると日々現場の報告書を処理しているらしく、罠にかかって死んだネズミの写真とかを見るようだ。その話を聞いて僕とか、僕の両親(彼女とはお互いの親と食事もする位の仲だ)は「えっきつくないそれ?」と心配したのだが、彼女は全然へいきーというので特に気にしないでいた。
実は、彼女は相当のストレスを抱えているかもしれない。彼女はあまり友達が多い方ではなく、僕と彼女の親くらいしか話し相手が居ない。その数少ない話し相手である僕に「気分が悪い」と言われるような仕事をするという気分は、どうなんだろう。そこまで考えられなかったのは軽率だと思った。その点については謝るべきだと思った。
しかしどうだろうか。「ごめん、気分が悪いと言ったが、君の仕事を否定するつもりはないんだ。ごめんよ」と言えばいいのか。その映像を見るのは気分が悪いが、その映像にあったことを仕事として行うのことは気分が悪くないという主張は何か矛盾している気がした。僕が一番主張すべきことは、そこに矛盾が発生しないことを示す論理だと思った。その考えに至った時点で「君の仕事を否定するつもりはないんだ」という言葉が嫌に白々しく感じるようになり、僕は眠ってしまった。
このやりとりがあったのは日曜日で、まったく休日にこんな不快な思いをして月曜を迎え、金曜日まで働かないといけないなんて最悪の気分だと思った。しかし、翌日月曜日の夜にはこの出来事の気分の悪さはほとんど忘れていた。自分でも不思議だったし、都合が良すぎるかもしれないと思った。火曜日には完全に忘れてしまい、金曜日まで無難に仕事を終えることができた。
「ネズミって、仲間が罠にかかっていても助けないの。危険信号とか出さないの。よっぽどバカなんだね。知性とかないのかも」
昆虫は罠にかかったら危険信号を出して仲間に伝えるとかどうとかをさも重大な発見であるかのように話した。やはり気分が悪かった。僕はそういうのは気分が悪いからやめてくれと伝えた上で「仕事が辛いなら辞めてもいいと思う」と言った。別に辛くない、となんともなしに彼女は答えた。
彼女が仕事を辞めてしまえばいいと思った。何か、別の不可抗力的な事情で。例えば、クビになったとか、嫌いな上司が居るとか。害獣駆除とは関係のない理由で辞めてしまえば物事が単純になって楽になると思った。
ネズミが電気ショックで死ぬ瞬間を思うと心が痛んだ。彼女も別にそれで心が踊ることはないと思う。なくて欲しい。ネズミがバカな生き物だと思うことで仕事をストレスなく進められるのであればそれでもいい。けれどネズミは昆虫と比べてバカであるとか、電気ショックを受ける動画を面白いとかいう価値観は共感できないし、共感を求めないで欲しかった。
でも例えば、僕の家にネズミが大量発生したらどうするだろうか。間違いなく業者を呼ぶと思う。
彼女の価値観が、間違っていて欲しかった。けれどそれは僕の願望で、エゴに過ぎない。でもエゴだから、とか価値観の違いだから、と言って見て見ぬ振りをするのは彼女に対して不誠実だと感じる。いっそこのことを全て素直に話してしまえば良いのかもしれない。だがそれは口にした瞬間に白々しく、不潔なものになる気がして何も言えないでいる。
春になると2階の玄関廊下にツバメが巣を作ろうと侵入して出られなくなって騒ぐというルーチンが毎日というか数時間ごとに発生して、コロナ自宅待機中の俺はうるさいからその度にツバメを外へ出してあげてたんよ
「赤城つえーwwwww加賀もっとつえーwwwww」までがゲームとしてのピークじゃね?
最初のイベントの時点でシステムがクソすぎてクソゲーだったでしょ。
そもそもの「分岐条件のヒントが曖昧すぎるので、作り手の脳内あてで総当りするか、WIKIを丸写しして、そこから更に運が絡む」っていうのがしょーもなすぎる。
戦闘も運が8割占めてて「敵のボスに攻撃が当たるように祈る」「敵の攻撃がカスることを祈る」ばっかでゲームというよりもパチンコ。
ひたすら演出が長いパチコンを延々と回して当たりが出ることを祈ってるだけ。
テンプレ構成とバケツを用意したらもうプレイヤー介入要素が全くと行っていいレベルでない。
バケツぶっかけたらすぐ治る大破と取り戻すのに何十日もかかりうるキャラロストでリスクの差がありすぎるから、ダメージ受けた時の判断が「中破以上なら撤退」だけしかなくてもはやゲームとして成立してない。
分岐条件があまりにも単純すぎるから誰がやっても同じ結果になる。
強いて言うなら「たかがゲーム如きに必死になる→Y/N」の分岐があるだけ。
本当になんであんな誰がやっても全く同じ結果になるだけなのにクソほど時間がかかるゲームが流行ったのか理解できねえ。
ポケモンやTCG・DCG環境読みがあったし、スプラやスマブラはアクションゲー、モンハンやMMOみたいなチームゲーだとコミュ力が重要、育成ゲーや麻雀も運ゲーではあっても分岐やプレイングが多様で個人差が出やすい、推理ゲーはある意味正解は一つだけど謎解きの過程はゲーム内で完結していて納得感あり、ADVの場合はプレイヤー毎の感受性によって感想がマチマチになるように作られてて、流行るゲームって基本的には「それぞれのプレイヤーの物語」が展開されるようになってる。
艦これみたいに「空母・魚雷担当・戦艦・謎解き要員(核爆)」っていう誰がやってもテンプレ回すだけの構成になんざならない。
いや逆にそれが流行ったのかな?
パチンコスロットも、釘読み(笑)目押し(藁)とかの要素があるっぽく見えて実際はデジタル管理で店側の奴隷だから結局皆一緒だけど、その部分がみんな一律に同じことをしてるって安心感がある?
競争してるように見えて実は競争なんてまともに出来ていない所が売りのジャンルがあるってこと?
この世界にはそういったお手々つないで仲良くパチンカスなゲームをやりたがる層がいる?
単にレアカード並べてただけの黎明期のケータイゲームもそういう「課金さえマックス回せば皆同じデッキになる」所が強みとして求められていた?
俺みたいにゲーマー気取ってる連中の語る「ゲームって、個々人で結果や過程が違うからこそ面白いんじゃないですか」は単なる思い込みだったとってこと?
マジ?
俺が間違ってんの?
そりゃ当たり前だろ。
35を超えたら子供目当てという線も薄れる。ニーズはセックスさせてくれるおかあさんでしかない。
・お前の維持にカネがかからないこと。自分磨きとかはむしろ敬遠材料。
・それなりにカネが稼げているか実家が太いこと。まだ子供ができる可能性はあるから子育ての支援体制が整っていることは重要。
・浪費癖がないこと、お金の管理がきちんとできること。いくら稼いだって結婚して穴の開いたバケツのように使うようでは無理。
・子供を欲しがっていること。子供が要らないなら結婚する必要はない。同棲でも風俗でも男にはいくらでも解消策がある。
・出産という女としてのコアコンピタンスを失ったことを覚悟しろ。出産できない女なんてただの貧弱な劣化男でしかない。無職男並みに無価値であると理解しろ。
・せいぜいお前のニーズはセックスさせてくれるママであることだ。かつての美貌とか無意味。どんなに必死に磨いたって歳は隠せない。
・むしろ若く見える見えることはマイナス。子供ができるかもわからんのに自分ばかり磨いてる地雷女なんて誰が選ぶか。
うちもこれほどひどくはないけど、学校行けんかったことあったから。
外野のときは、親の対応が悪いんじゃねーか、学校の対応もまずいよねとか、好き勝手言って批判できたけど、
発端の娘さんの件だって、なかなか担任が原因って疑うってできるもんじゃない。基本的には担任といい関係、信頼関係を築きたいと思ってるわけだからね親は。
非常事態がずーっと続いてて、それを打開するためいろいろ動いて考えてってやってたら、本当ストレスたまるもんよ。
親だって人間だからね。非常事態が続いてるとこに体調やら精神状態やらの加減が重なると、何かの拍子にブチって限界越えちゃう時もある。
あきらめてそれが「日常」だと思えばいい、親も一生懸命になり過ぎない方がいい、って思うだろうけど、
そこまで腹くくるにはもがいたり足掻いたりする時間も必要なんだよね。
「散々、色々な関係機関への相談や、色んなことをしたけれど、何も出来なかった」
っていうのも実感できること。
うちも散々いろいろ相談したけど、結局決定的な打開策はなかったし、子供の時間を待つほかなかったって感じだよ。
何がきっかけで学校に行けなくなったのか、そして行けるようになったのかもよくわからんかった。
その間、違う先生からは「原因がないなんてあり得ない、なにか原因があるはずだ」とか言われたりとかさー、
じゃあどうすりゃいいわけ?どうやって聞き出せばいいわけ?って思っちゃったわよ。そんなん言うんならうちの子と話してよってね。
もうなんか非常事態の間は、自分も視野狭窄に陥ってんなーってわかるんだけど、最中はどうしようもないのよね。
今思えば、原因はたぶん一つじゃない、子にも要因があり、親にも要因があり、学校にも要因がありって感じなんだろうけど、
じゃあその親の要因、私は夫はどうしたらよかったのか、どうすればいいのかって、最中は暗中模索状態なのよ。
もう一度言うけど、一人で悶々考えてんじゃないのよ?学校にも相談機関にも散々話してるのよ?決して一人で勝手に抱え込んだりしてないよ?この増田もそうでしょ。
スクールカウンセラーには発達障害の可能性も提示されたりして、いや違うんじゃないかなーって思いつつ、病院予約する一歩前までいったこともある。
(のちカウンセラーから必要ないと判断されて止められた。幼い頃から見てきても、当てはまる要素がほとんどなかったし。)
でも本当にもう悩みつつも、その状態である子供を受け入れるしかなかったというか。
殴打事件も褒められたもんじゃないし、暴力を肯定する気はないけど、結果的には決定的な打開策になったような感じだよね。
だけど、この親子の事例で、結果的に良い方向に進んだってだけで、すべての引きこもり事例に当てはまることじゃない。
こうすれば解決するよみたいなもんがない、いつまで続くかもわからない。先が見えないって本当に地獄だよね。子も親もね。
結局は子供の力を信じて待つしかないのかなーと思いつつ、何もしないで手を拱いてるわけにもいかないし、というジレンマ。
不登校以前から算数だけ進学塾に行ってたので、算数だけはなんとか手当てできてた。不登校中も通塾や習い事だけは意欲的だったし。
学校の宿題もできる限りやってたし、保健室でテストを受けることもあった。担任も学習面の心配はしてなかったかな。
中学年だったのでなんとかなってた感じ。理科とか、のちのテストのでき具合見て、あー不登校時に抜けてたところだなと思うこともあった。
地理的、人種的、宗教・文化的など様々な要因が複雑に絡み合って、東アジアってのは
「(聞き分けが良くて、従順で、忍耐力が強い、政府にとって都合の)良い大人」の比率が
その他の地域に比べて多いんだろな。もちろん中韓や台湾にもその傾向はある。
そん中の最東端で外界と分断された島国となりゃ、その傾向も極まってくるわけでさ。
結局、その「(聞き分けが良くて、従順で、忍耐力が強い、政府にとって都合の)良い大人」達の持つ右に倣えな習性やそこから
自然発生的に生み出されてくる同調圧力に頼りきった、いわば自動運転的で場当たり的な政治運営しか経験してない国・政府だから、
ガラパゴスルールの範囲外から何かとんでもなく大きな外的圧力が加わった瞬間に理性が秒で崩壊してしまうんだろうな。
ま、竹槍でB29落とそうとしたり、前途ある若者に爆弾括り付けて敵の軍艦に投げつけてた頃と何も変わってないんだよ。
増田が列挙したコロナ周りの施策は、第二次大戦中の施策と同じくらい非論理的で荒唐無稽で無秩序、筋の通ってないものばかりだ。
この国はずっとこのままだよ。原発が吹っ飛んだら、バケツで上から水掛けただけで何か成し遂げた気になっちゃうような、そんな国だ。
涙が止まらない。
しかし、他にも要因があって、息子が不登校になる前に、上の娘の方が不登校だったのである。
娘は息子の三歳上だが、小学生六年の時、悪質な担任に当たり、とんでもない差別というか、エコ贔屓を超えたレベルのほとんどいじめに近いことをされ、担任だからなかなか原因が発覚せず(本人は自分が悪いと思い込んでいた)、相談相手が最初は担任なので、全然わからなくて娘を叱ってばかりいた。担任が原因だと分かったのは不登校になって三ヶ月くらい経ってのことである。
それは、なんとか解決したが、その時、下の息子は「学校へ行かなくてもいい」ということを覚えてしまったのである。
などとしばしば言っては、ほんとにずっと布団の中で寝込むので、親も仕方ないかなと思って休ませていた。
実は、しばしば学校をそんなふうにして休んでは、親がいなくなると、ずっとゲームをしていたのだ。
それがエスカレートして、学校でいじめられてるとか言い出し、問い詰めても誰がいじめてるとか内容とかをまるで言わず、娘の例があるもんだから、原因がわかるまで待つしかないとなった。
しかし、ある日、やはり息子はどこか嘘をついているという感じがしたので、「家にいてもいいけど、ゲームは親がいない間は禁止する」としてゲームを取り上げた時に、息子は半狂乱に近い状態になったのだ。
やっと、ゲームが原因だと分かったのは、多分5年生の夏休み前くらいだったと記憶する。
ところが、怒っても怒っても、息子は頑として学校に行こうとしない。
色々聞いてると、どうも不登校が続き過ぎて、クラスメートに恥ずかしくて学校に行けないという気持ちになったらしかった。
しょうがないので、保健室登校から始めようということになった。
ゲームは、この時、禁止したり、或いは時間制限したりはしていたが、たまに取り上げたりと、方針は一定していなかった。
但し、不登校児童はできる限り自分の意思で学校に行かせようとしないといけない、と学校などから指導されるので、夫婦で話し合い、息子を叱るのはやめようとなった。
そして、一週間に1、2回だけど、保健室登校をするようになった矢先の出来事。
妻のせいだとは思わないけど、妻が息子をこっぴどく叱りつけ、ゲーム機をバケツの水に沈めて使えなくしてしまったのである。
その時息子に生じた不信感が、彼を五年間自宅に閉じ込めるきっかけになってしまったのだと思う。
正直、「どうして、あれほど息子を叱ってはいけないと二人で決めたのに……」とは思ったけど、反面で妻の方が、家にいる時間の少ない私よりは一生懸命対応しているので、責めはしなかった。
それから、散々、色々な関係機関への相談や、或いは、中学校を学区外にして、小学校の友達に合わないようにしたり、色んなことをしたけれど、結局、この五年間、何も出来なかった。
そのうちに、引きこもりが酷くなって、息子は家族とも顔を合わさなくなった。
食事だけは、自室ではなく、ダイニングで取ってもらおうと、息子の食事は必ずテーブルに用意し、息子がリビングに出てきやすいように、夕飯時などは他の家族全員が顔を合わせないよう息子が食事の間は別の部屋に引きこもった。
そんな生活を続けて、とうとう、ほんとに顔を合わさない父親の私のことを、息子は大っ嫌いになったらしい。
何故なら、不登校になるそもそもの原因、任天堂Wii u とスプラトゥーンを、息子への褒美にと買い与えたのは私だったからである。
一年間、自宅の風呂洗いを続けたら、買ってやると約束し、彼はきちっとそれを守り通したから、買い与える以外にはなかった。
どうして大嫌いになってるのを知ったのかは覚えていないが、私は息子と顔を合わせないどころか、自宅にいる間は咳すら我慢し、存在を消す以外になかった。そうしないと、あからさまに息子は自室のドアをバンバン蹴ったりして暴れ出すからだ。
そして今年かな、一月頃に、息子は私がブチ切れるざるを得ない行動に出た。
「死ね」
と、他もまぁ色々と書いてあったけど、そう書いた手紙を私のいる部屋の扉の下に滑り込ませたからである。
怒り狂った私は、怒鳴り散らしながら、彼の部屋の鍵のしまっているドアを外から開け(外から簡単に開く)、送風機を持って待ち構えていた息子を布団の上に押し倒して二、三発軽く殴った。
その時、散々私は息子に色々なことを言った。確か、「「死ね」などと書いた手紙を書ける神経があるのは、お前が五年間も友達とかコミニュケーション取らなかったからだ!」みたいな話かな。
それまでの数年間、会話らしい会話どころか、息子の声すら聞いたことがなかった。
やっと話し始めた。
「本気で書いた訳じゃなく、パパのイビキとか咳とか聞こえてくるとめちゃくちゃムカついたから、冗談のつもりだった」
こちらが、あまりに意識し過ぎたせいで、逆にちょっとしたことが息子には気に触るようになってしまったからだと思う。
それから少し経って、息子が「学校に行きたい」と、妻にLINEした。
息子が学校に行きたいと思っていること自体は、少し前から知っていた。
息子は息子なりに、このままではダメだと思っていた。
でも、親が何も言っていないのに自分から言い出したのは初めてだった。
今から普通の高校は無理なので、週少しだけ登校のある通信制だけど、いいか? と聞くと、行くという。
そして、その高校から提出書類をもらって、息子は所信表明のようなことをその提出用紙の一つに書いた。
そこには
「友達が欲しい」
と書いてあった。
私が、「死ね」と書かれて息子に怒ったときに「友達とコミュニケーション取らないからだ!」と言ったことに影響されたのかどうかは知らない。
もちろん、それがぬか喜びになってはいけないから、現時点でもそうだけど、まだまだ様子見を続けなければならない。
だけど、きっともう大丈夫だと思う。
がんばれ、負けんな! 心の底からそう思う。
俺は2年半かけてアタックして今の妻を得た。最近のはてなを見ていて、どうせ恋愛できないよ、と諦めてる奴が多そうで、俺だってなんとかなったんだからみんな頑張ってほしいと思って書く。
妻とは趣味関連の友達だった。複数人で趣味活動をしたり、その後飲みに行ったりしてるうちに、仕事に対する真摯な姿勢と飲んだ時のギャップにやられて惚れ込んだ。笑うと顔が犬みたいでかわいい。
妻は星野源みたいなのがタイプという。ヒョロヒョロっとした文化系のが好きだそあだ。俺は、どっしりしたオヤジ顔で一言で言うと出川哲郎みたいな感じだ。しかも遺伝でハゲてるし超汗かきだし、ニキビクレーターだらけ。いままでの人生、恋愛対象に見られないとか暑苦しいとか基本的に振られてきた。給料も別に高くない。
友達付き合いをしばらくして、告白したが、当然振られた。昔大失恋をして恋愛はもうこりごりと思っているうえに、俺がまったく恋愛対象じゃないそうだ。覚悟していたが思わず泣いた。涙ってコントロールできないもんだ。
でも友達としては好ましいと言われた。出川だが、話が面白いし、優しいと言ってくれた。俺は別に面白くもないのだが、彼女との話題を作りたくて、彼女の仕事についてたくさん調べたし、彼女がやっているという乙女ゲームもやってみた。彼女が釣りをしてみたいと言えば、釣りを練習して、ある程度うまくなってから誘ったりした。皮膚科にも行ったし、ファッションも図書館で雑誌を読んで勉強した。ウェストポーチって女性は嫌いらしいとか学んだ。
2年半くらい、誘い続け、時々遊び、惚れてるのもバレているのでひたすら告白し続けたら、ついに彼女が折れた。釣りをしてたら彼女が船酔いして吐いて、バケツに吐いてるあいだずっと背中をさすった。そのとき、こいつでいいやと思ったそうだ。背中を触られてもそんなにいやじゃなかったから俺と付き合えると思ったそうだ。
このとき俺は背中に触れてラッキーと思っていた。余談だが背中撫でてるときにブラジャーの感覚がなくて、ノーブラなのかとドキドキしていた。ブラジャーが前にだけついてる下着を着ていたらしい。
そんなこんなでついに付き合えることになり、結婚もした。俺は子供が欲しかったが妻は仕事に集中したいとのことで話し合って子供は作らないことにした。もう結婚して6年になるが、妻は相変わらずかっこよくて超かわいい。あと妻に少しでも好かれたくて運動始めたら、健康診断全部◎だった。いいことだらけだ。
親にも、同級生にも、お前がよくこんな子を捕まえれたなと言われた。40年近くモテない人生だったが、諦めなかった俺の粘り勝ち。
だから、恋愛弱者だとか言って諦めないでほしい。好きな人がいるなら一回振られたくらいで諦めるなよ!俺みたいなクリーチャーでもなんとかなったんだ。もう会ってくれなくなったら諦めたほうがいいと思うけど、友達からだって恋愛対象に昇格できるんだぜ。
免許取得後、プライベート用にと買ったが車庫にしまいっぱなしだから、と祖父が車をくれた。光に当たると濃くパープルに反射する、落ち着いた色をしたワゴンRだった。
年数にしては走行距離が少ない、といろんな人に言われた。車庫から出たとしても祖父とはあまり遠くまでは出掛けなかったのだろう。
内装は一部がブラウンにカスタムされていて、おしゃれだった。カーナビはついていなかったけれど、スマホもあるし、特に不便はしなかった。
出先の駐車場でぶつけた、家の車庫に入れるときにこすった、初心者というのもあり、傷はそこそこつけてしまった。何度か工場で直してもらった。
運転は楽しかった。次第に遠くまで行けるのが良かった。ひとりでどんどん遠くまで。
車をもらった当初、親と同居していたのだが、折り合いが悪く、ことあるごとにひとりでドライブがてら気分転換をした記憶がある。夜のドライブも多かったし、たまに助手席に愛犬も乗っていた。犬は、窓から鼻先を出して、風を感じるのが好きだったようで、今でも一緒にドライブするときは、平気そうなところでは窓を開けてあげている。
アルバイトへの通勤も車にした。職場が楽しかった。家に居たくない分職場にどっぷりだった。
フリーターなので今までいろんなアルバイトを経験してきて、その中の多くは愛車ちゃんとともにある。いろんな職場の、いろんな従業員駐車場に停まったね。
はじめての恋人ができたときも愛車ちゃんに見守られていた。なんなら車の中で告白をしたような気がする。恋人といろんなところに、車で出かけた。私が運転することもあったし、恋人が運転してくれることもあった。愛車ちゃんからすると、どっちの運転の方が良かったなーとかあるのだろうか。
たわいない雑談やひとりごとをうんと聞いてくれたね。車の中のBGMはずっとアニソンばかりだったね。気に入ってた曲とかあった?
スピードを出すことが楽しくなってた頃もあった。
突然前の車に煽られた時もあった。
今まで使ったことのなかったボタンやレバーの使い方を車に詳しい同僚に教えてもらったこともあった。
名前が、ワゴンR スティングレイ だと言うことを教えてもらってからは、スティングレイちゃんと呼んでいた。
定員まで乗せてラーメン屋に行った。
後部座席を全部倒して、引越しの荷物を積んで運んだね。何往復も。
炎天下の夏は灼熱の車内だった。
雪の降った時は、一瞬ハンドルが取られてヒヤッとした時もあった。
祖父が倒れたと聞いた時、先に病院向かった両親を追って、弟を乗せて病院まで運転した、気が気ではなかったがなんとか無事に着いた。
祖父が亡くなってからは、スティングレイちゃんは祖父の形見のようで、大事にする気持ちがより一層強くなった。
車には詳しくないし、そんなにお金もなかったから、整備とか交換パーツとかにあまりお金はかけられなかった。最低限しかしてあげられなくてごめんね。
洗車ももっとこまめにしてあげたら良かったな。
長い間、私をいろんなところに連れて行ってくれてありがとう。いろんな景色を見せてくれてありがとう。
今までお世話になりました!!!
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴ふく岩穴もあったのです。
さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光は運動場いっぱいでした。黒い雪袴ゆきばかまをはいた二人の一年生の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかにだれも来ていないのを見て、「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫びながら大よろこびで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ふたりともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合わせてぶるぶるふるえましたが、ひとりはとうとう泣き出してしまいました。というわけは、そのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり、いちばん前の机にちゃんとすわっていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。
もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり目をりんと張って、そっちのほうをにらめていましたら、ちょうどそのとき、川上から、
「ちょうはあ かぐり ちょうはあ かぐり。」と高く叫ぶ声がして、それからまるで大きなからすのように、嘉助かすけがかばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。と思ったらすぐそのあとから佐太郎さたろうだの耕助こうすけだのどやどややってきました。
「なして泣いでら、うなかもたのが。」嘉助が泣かないこどもの肩をつかまえて言いました。するとその子もわあと泣いてしまいました。おかしいとおもってみんながあたりを見ると、教室の中にあの赤毛のおかしな子がすまして、しゃんとすわっているのが目につきました。
みんなはしんとなってしまいました。だんだんみんな女の子たちも集まって来ましたが、だれもなんとも言えませんでした。
赤毛の子どもはいっこうこわがるふうもなくやっぱりちゃんとすわって、じっと黒板を見ています。すると六年生の一郎いちろうが来ました。一郎はまるでおとなのようにゆっくり大またにやってきて、みんなを見て、
「何なにした。」とききました。
みんなははじめてがやがや声をたててその教室の中の変な子を指さしました。一郎はしばらくそっちを見ていましたが、やがて鞄かばんをしっかりかかえて、さっさと窓の下へ行きました。
みんなもすっかり元気になってついて行きました。
「だれだ、時間にならないに教室へはいってるのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の中へ顔をつき出して言いました。
「お天気のいい時教室さはいってるづど先生にうんとしからえるぞ。」窓の下の耕助が言いました。
「しからえでもおら知らないよ。」嘉助が言いました。
「早ぐ出はって来こ、出はって来。」一郎が言いました。けれどもそのこどもはきょろきょろ室へやの中やみんなのほうを見るばかりで、やっぱりちゃんとひざに手をおいて腰掛けにすわっていました。
ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革かわの半靴はんぐつをはいていたのです。
それに顔といったらまるで熟したりんごのよう、ことに目はまん丸でまっくろなのでした。いっこう言葉が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。
「学校さはいるのだな。」みんなはがやがやがやがや言いました。ところが五年生の嘉助がいきなり、
「ああそうだ。」と小さいこどもらは思いましたが、一郎はだまってくびをまげました。
変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけ、きちんと腰掛けています。
そのとき風がどうと吹いて来て教室のガラス戸はみんながたがた鳴り、学校のうしろの山の萱かやや栗くりの木はみんな変に青じろくなってゆれ、教室のなかのこどもはなんだかにやっとわらってすこしうごいたようでした。
すると嘉助がすぐ叫びました。
そうだっとみんなもおもったとき、にわかにうしろのほうで五郎が、
「わあ、痛いぢゃあ。」と叫びました。
みんなそっちへ振り向きますと、五郎が耕助に足のゆびをふまれて、まるでおこって耕助をなぐりつけていたのです。すると耕助もおこって、
「わあ、われ悪くてでひと撲はだいだなあ。」と言ってまた五郎をなぐろうとしました。
五郎はまるで顔じゅう涙だらけにして耕助に組み付こうとしました。そこで一郎が間へはいって嘉助が耕助を押えてしまいました。
「わあい、けんかするなったら、先生あちゃんと職員室に来てらぞ。」と一郎が言いながらまた教室のほうを見ましたら、一郎はにわかにまるでぽかんとしてしまいました。
たったいままで教室にいたあの変な子が影もかたちもないのです。みんなもまるでせっかく友だちになった子うまが遠くへやられたよう、せっかく捕とった山雀やまがらに逃げられたように思いました。
風がまたどうと吹いて来て窓ガラスをがたがた言わせ、うしろの山の萱かやをだんだん上流のほうへ青じろく波だてて行きました。
「わあ、うなだけんかしたんだがら又三郎いなぐなったな。」嘉助がおこって言いました。
みんなもほんとうにそう思いました。五郎はじつに申しわけないと思って、足の痛いのも忘れてしょんぼり肩をすぼめて立ったのです。
「二百十日で来たのだな。」
「靴くつはいでだたぞ。」
「服も着でだたぞ。」
「髪赤くておかしやづだったな。」
「ありゃありゃ、又三郎おれの机の上さ石かけ乗せでったぞ。」二年生の子が言いました。見るとその子の机の上にはきたない石かけが乗っていたのです。
「そうだ、ありゃ。あそごのガラスもぶっかしたぞ。」
「わあい。そだないであ。」と言っていたとき、これはまたなんというわけでしょう。先生が玄関から出て来たのです。先生はぴかぴか光る呼び子を右手にもって、もう集まれのしたくをしているのでしたが、そのすぐうしろから、さっきの赤い髪の子が、まるで権現ごんげんさまの尾おっぱ持ちのようにすまし込んで、白いシャッポをかぶって、先生についてすぱすぱとあるいて来たのです。
みんなはしいんとなってしまいました。やっと一郎が「先生お早うございます。」と言いましたのでみんなもついて、
「みなさん。お早う。どなたも元気ですね。では並んで。」先生は呼び子をビルルと吹きました。それはすぐ谷の向こうの山へひびいてまたビルルルと低く戻もどってきました。
すっかりやすみの前のとおりだとみんなが思いながら六年生は一人、五年生は七人、四年生は六人、一二年生は十二人、組ごとに一列に縦にならびました。
二年は八人、一年生は四人前へならえをしてならんだのです。
するとその間あのおかしな子は、何かおかしいのかおもしろいのか奥歯で横っちょに舌をかむようにして、じろじろみんなを見ながら先生のうしろに立っていたのです。すると先生は、高田たかださんこっちへおはいりなさいと言いながら五年生の列のところへ連れて行って、丈たけを嘉助とくらべてから嘉助とそのうしろのきよの間へ立たせました。
みんなはふりかえってじっとそれを見ていました。
「前へならえ。」と号令をかけました。
みんなはもう一ぺん前へならえをしてすっかり列をつくりましたが、じつはあの変な子がどういうふうにしているのか見たくて、かわるがわるそっちをふりむいたり横目でにらんだりしたのでした。するとその子はちゃんと前へならえでもなんでも知ってるらしく平気で両腕を前へ出して、指さきを嘉助のせなかへやっと届くくらいにしていたものですから、嘉助はなんだかせなかがかゆく、くすぐったいというふうにもじもじしていました。
「直れ。」先生がまた号令をかけました。
「一年から順に前へおい。」そこで一年生はあるき出し、まもなく二年生もあるき出してみんなの前をぐるっと通って、右手の下駄箱げたばこのある入り口にはいって行きました。四年生があるき出すとさっきの子も嘉助のあとへついて大威張りであるいて行きました。前へ行った子もときどきふりかえって見、あとの者もじっと見ていたのです。
まもなくみんなははきものを下駄箱げたばこに入れて教室へはいって、ちょうど外へならんだときのように組ごとに一列に机にすわりました。さっきの子もすまし込んで嘉助のうしろにすわりました。ところがもう大さわぎです。
「わあ、おらの机さ石かけはいってるぞ。」
「わあ、おらの机代わってるぞ。」
「キッコ、キッコ、うな通信簿持って来たが。おら忘れで来たぢゃあ。」
「わあがない。ひとの雑記帳とってって。」
そのとき先生がはいって来ましたのでみんなもさわぎながらとにかく立ちあがり、一郎がいちばんうしろで、
「礼。」と言いました。
みんなはおじぎをする間はちょっとしんとなりましたが、それからまたがやがやがやがや言いました。
「しずかに、みなさん。しずかにするのです。」先生が言いました。
「しっ、悦治えつじ、やがましったら、嘉助え、喜きっこう。わあい。」と一郎がいちばんうしろからあまりさわぐものを一人ずつしかりました。
みんなはしんとなりました。
先生が言いました。
「みなさん、長い夏のお休みはおもしろかったですね。みなさんは朝から水泳ぎもできたし、林の中で鷹たかにも負けないくらい高く叫んだり、またにいさんの草刈りについて上うえの野原へ行ったりしたでしょう。けれどももうきのうで休みは終わりました。これからは第二学期で秋です。むかしから秋はいちばんからだもこころもひきしまって、勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんもきょうからまたいっしょにしっかり勉強しましょう。それからこのお休みの間にみなさんのお友だちが一人ふえました。それはそこにいる高田さんです。そのかたのおとうさんはこんど会社のご用で上の野原の入り口へおいでになっていられるのです。高田さんはいままでは北海道の学校におられたのですが、きょうからみなさんのお友だちになるのですから、みなさんは学校で勉強のときも、また栗拾くりひろいや魚さかなとりに行くときも、高田さんをさそうようにしなければなりません。わかりましたか。わかった人は手をあげてごらんなさい。」
すぐみんなは手をあげました。その高田とよばれた子も勢いよく手をあげましたので、ちょっと先生はわらいましたが、すぐ、
「わかりましたね、ではよし。」と言いましたので、みんなは火の消えたように一ぺんに手をおろしました。
ところが嘉助がすぐ、
「先生。」といってまた手をあげました。
「高田さん名はなんて言うべな。」
「わあ、うまい、そりゃ、やっぱり又三郎だな。」嘉助はまるで手をたたいて机の中で踊るようにしましたので、大きなほうの子どもらはどっと笑いましたが、下の子どもらは何かこわいというふうにしいんとして三郎のほうを見ていたのです。
先生はまた言いました。
「きょうはみなさんは通信簿と宿題をもってくるのでしたね。持って来た人は机の上へ出してください。私がいま集めに行きますから。」
みんなはばたばた鞄かばんをあけたりふろしきをといたりして、通信簿と宿題を机の上に出しました。そして先生が一年生のほうから順にそれを集めはじめました。そのときみんなはぎょっとしました。というわけはみんなのうしろのところにいつか一人の大人おとなが立っていたのです。その人は白いだぶだぶの麻服を着て黒いてかてかしたはんけちをネクタイの代わりに首に巻いて、手には白い扇をもって軽くじぶんの顔を扇あおぎながら少し笑ってみんなを見おろしていたのです。さあみんなはだんだんしいんとなって、まるで堅くなってしまいました。
ところが先生は別にその人を気にかけるふうもなく、順々に通信簿を集めて三郎の席まで行きますと、三郎は通信簿も宿題帳もないかわりに両手をにぎりこぶしにして二つ机の上にのせていたのです。先生はだまってそこを通りすぎ、みんなのを集めてしまうとそれを両手でそろえながらまた教壇に戻りました。
「では宿題帳はこの次の土曜日に直して渡しますから、きょう持って来なかった人は、あしたきっと忘れないで持って来てください。それは悦治さんと勇治ゆうじさんと良作りょうさくさんとですね。ではきょうはここまでです。あしたからちゃんといつものとおりのしたくをしておいでなさい。それから四年生と六年生の人は、先生といっしょに教室のお掃除そうじをしましょう。ではここまで。」
一郎が気をつけ、と言いみんなは一ぺんに立ちました。うしろの大人おとなも扇を下にさげて立ちました。
「礼。」先生もみんなも礼をしました。うしろの大人も軽く頭を下げました。それからずうっと下の組の子どもらは一目散に教室を飛び出しましたが、四年生の子どもらはまだもじもじしていました。
すると三郎はさっきのだぶだぶの白い服の人のところへ行きました。先生も教壇をおりてその人のところへ行きました。
「いやどうもご苦労さまでございます。」その大人はていねいに先生に礼をしました。
「じきみんなとお友だちになりますから。」先生も礼を返しながら言いました。
「何ぶんどうかよろしくおねがいいたします。それでは。」その人はまたていねいに礼をして目で三郎に合図すると、自分は玄関のほうへまわって外へ出て待っていますと、三郎はみんなの見ている中を目をりんとはってだまって昇降口から出て行って追いつき、二人は運動場を通って川下のほうへ歩いて行きました。
運動場を出るときその子はこっちをふりむいて、じっと学校やみんなのほうをにらむようにすると、またすたすた白服の大人おとなについて歩いて行きました。
「先生、あの人は高田さんのとうさんですか。」一郎が箒ほうきをもちながら先生にききました。
「そうです。」
「なんの用で来たべ。」
「上の野原の入り口にモリブデンという鉱石ができるので、それをだんだん掘るようにするためだそうです。」
「どこらあだりだべな。」
「私もまだよくわかりませんが、いつもみなさんが馬をつれて行くみちから、少し川下へ寄ったほうなようです。」
「モリブデン何にするべな。」
「それは鉄とまぜたり、薬をつくったりするのだそうです。」
「そだら又三郎も掘るべが。」嘉助が言いました。
「又三郎だ又三郎だ。」嘉助が顔をまっ赤かにしてがん張りました。
「嘉助、うなも残ってらば掃除そうじしてすけろ。」一郎が言いました。
風がまた吹いて来て窓ガラスはまたがたがた鳴り、ぞうきんを入れたバケツにも小さな黒い波をたてました。
次の日一郎はあのおかしな子供が、きょうからほんとうに学校へ来て本を読んだりするかどうか早く見たいような気がして、いつもより早く嘉助をさそいました。ところが嘉助のほうは一郎よりもっとそう考えていたと見えて、とうにごはんもたべ、ふろしきに包んだ本ももって家の前へ出て一郎を待っていたのでした。二人は途中もいろいろその子のことを話しながら学校へ来ました。すると運動場には小さな子供らがもう七八人集まっていて、棒かくしをしていましたが、その子はまだ来ていませんでした。またきのうのように教室の中にいるのかと思って中をのぞいて見ましたが、教室の中はしいんとしてだれもいず、黒板の上にはきのう掃除のときぞうきんでふいた跡がかわいてぼんやり白い縞しまになっていました。
「きのうのやつまだ来てないな。」一郎が言いました。
「うん。」嘉助も言ってそこらを見まわしました。
一郎はそこで鉄棒の下へ行って、じゃみ上がりというやり方で、無理やりに鉄棒の上にのぼり両腕をだんだん寄せて右の腕木に行くと、そこへ腰掛けてきのう三郎の行ったほうをじっと見おろして待っていました。谷川はそっちのほうへきらきら光ってながれて行き、その下の山の上のほうでは風も吹いているらしく、ときどき萱かやが白く波立っていました。
嘉助もやっぱりその柱の下でじっとそっちを見て待っていました。ところが二人はそんなに長く待つこともありませんでした。それは突然三郎がその下手のみちから灰いろの鞄かばんを右手にかかえて走るようにして出て来たのです。
「来たぞ。」と一郎が思わず下にいる嘉助へ叫ぼうとしていますと、早くも三郎はどてをぐるっとまわって、どんどん正門をはいって来ると、
「お早う。」とはっきり言いました。みんなはいっしょにそっちをふり向きましたが、一人も返事をしたものがありませんでした。
それは返事をしないのではなくて、みんなは先生にはいつでも「お早うございます。」というように習っていたのですが、お互いに「お早う。」なんて言ったことがなかったのに三郎にそう言われても、一郎や嘉助はあんまりにわかで、また勢いがいいのでとうとう臆おくしてしまって一郎も嘉助も口の中でお早うというかわりに、もにゃもにゃっと言ってしまったのでした。
ところが三郎のほうはべつだんそれを苦にするふうもなく、二三歩また前へ進むとじっと立って、そのまっ黒な目でぐるっと運動場じゅうを見まわしました。そしてしばらくだれか遊ぶ相手がないかさがしているようでした。けれどもみんなきょろきょろ三郎のほうはみていても、やはり忙しそうに棒かくしをしたり三郎のほうへ行くものがありませんでした。三郎はちょっと具合が悪いようにそこにつっ立っていましたが、また運動場をもう一度見まわしました。
それからぜんたいこの運動場は何間なんげんあるかというように、正門から玄関まで大またに歩数を数えながら歩きはじめました。一郎は急いで鉄棒をはねおりて嘉助とならんで、息をこらしてそれを見ていました。
そのうち三郎は向こうの玄関の前まで行ってしまうと、こっちへ向いてしばらく暗算をするように少し首をまげて立っていました。
みんなはやはりきろきろそっちを見ています。三郎は少し困ったように両手をうしろへ組むと向こう側の土手のほうへ職員室の前を通って歩きだしました。
その時風がざあっと吹いて来て土手の草はざわざわ波になり、運動場のまん中でさあっと塵ちりがあがり、それが玄関の前まで行くと、きりきりとまわって小さなつむじ風になって、黄いろな塵は瓶びんをさかさまにしたような形になって屋根より高くのぼりました。
すると嘉助が突然高く言いました。
「そうだ。やっぱりあいづ又三郎だぞ。あいづ何かするときっと風吹いてくるぞ。」
「うん。」一郎はどうだかわからないと思いながらもだまってそっちを見ていました。三郎はそんなことにはかまわず土手のほうへやはりすたすた歩いて行きます。
そのとき先生がいつものように呼び子をもって玄関を出て来たのです。
「お早う。」先生はちらっと運動場を見まわしてから、「ではならんで。」と言いながらビルルッと笛を吹きました。
みんなは集まってきてきのうのとおりきちんとならびました。三郎もきのう言われた所へちゃんと立っています。
先生はお日さまがまっ正面なのですこしまぶしそうにしながら号令をだんだんかけて、とうとうみんなは昇降口から教室へはいりました。そして礼がすむと先生は、
「ではみなさんきょうから勉強をはじめましょう。みなさんはちゃんとお道具をもってきましたね。では一年生(と二年生)の人はお習字のお手本と硯すずりと紙を出して、二年生と四年生の人は算術帳と雑記帳と鉛筆を出して、五年生と六年生の人は国語の本を出してください。」
さあするとあっちでもこっちでも大さわぎがはじまりました。中にも三郎のすぐ横の四年生の机の佐太郎が、いきなり手をのばして二年生のかよの鉛筆をひらりととってしまったのです。かよは佐太郎の妹でした。するとかよは、
「うわあ、兄あいな、木ペン取とてわかんないな。」と言いながら取り返そうとしますと佐太郎が、
「わあ、こいつおれのだなあ。」と言いながら鉛筆をふところの中へ入れて、あとはシナ人がおじぎするときのように両手を袖そでへ入れて、机へぴったり胸をくっつけました。するとかよは立って来て、
「兄あいな、兄なの木ペンはきのう小屋でなくしてしまったけなあ。よこせったら。」と言いながら一生けん命とり返そうとしましたが、どうしてももう佐太郎は机にくっついた大きな蟹かにの化石みたいになっているので、とうとうかよは立ったまま口を大きくまげて泣きだしそうになりました。
すると三郎は国語の本をちゃんと机にのせて困ったようにしてこれを見ていましたが、かよがとうとうぼろぼろ涙をこぼしたのを見ると、だまって右手に持っていた半分ばかりになった鉛筆を佐太郎の目の前の机に置きました。
すると佐太郎はにわかに元気になって、むっくり起き上がりました。そして、
「くれる?」と三郎にききました。三郎はちょっとまごついたようでしたが覚悟したように、「うん。」と言いました。すると佐太郎はいきなりわらい出してふところの鉛筆をかよの小さな赤い手に持たせました。
先生は向こうで一年生の子の硯すずりに水をついでやったりしていましたし、嘉助は三郎の前ですから知りませんでしたが、一郎はこれをいちばんうしろでちゃんと見ていました。そしてまるでなんと言ったらいいかわからない、変な気持ちがして歯をきりきり言わせました。
「では二年生のひとはお休みの前にならった引き算をもう一ぺん習ってみましょう。これを勘定してごらんなさい。」先生は黒板に25-12=の数式と書きました。二年生のこどもらはみんな一生
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴ふく岩穴もあったのです。
さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光は運動場いっぱいでした。黒い雪袴ゆきばかまをはいた二人の一年生の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかにだれも来ていないのを見て、「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫びながら大よろこびで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ふたりともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合わせてぶるぶるふるえましたが、ひとりはとうとう泣き出してしまいました。というわけは、そのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり、いちばん前の机にちゃんとすわっていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。
もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり目をりんと張って、そっちのほうをにらめていましたら、ちょうどそのとき、川上から、
「ちょうはあ かぐり ちょうはあ かぐり。」と高く叫ぶ声がして、それからまるで大きなからすのように、嘉助かすけがかばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。と思ったらすぐそのあとから佐太郎さたろうだの耕助こうすけだのどやどややってきました。
「なして泣いでら、うなかもたのが。」嘉助が泣かないこどもの肩をつかまえて言いました。するとその子もわあと泣いてしまいました。おかしいとおもってみんながあたりを見ると、教室の中にあの赤毛のおかしな子がすまして、しゃんとすわっているのが目につきました。
みんなはしんとなってしまいました。だんだんみんな女の子たちも集まって来ましたが、だれもなんとも言えませんでした。
赤毛の子どもはいっこうこわがるふうもなくやっぱりちゃんとすわって、じっと黒板を見ています。すると六年生の一郎いちろうが来ました。一郎はまるでおとなのようにゆっくり大またにやってきて、みんなを見て、
「何なにした。」とききました。
みんなははじめてがやがや声をたててその教室の中の変な子を指さしました。一郎はしばらくそっちを見ていましたが、やがて鞄かばんをしっかりかかえて、さっさと窓の下へ行きました。
みんなもすっかり元気になってついて行きました。
「だれだ、時間にならないに教室へはいってるのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の中へ顔をつき出して言いました。
「お天気のいい時教室さはいってるづど先生にうんとしからえるぞ。」窓の下の耕助が言いました。
「しからえでもおら知らないよ。」嘉助が言いました。
「早ぐ出はって来こ、出はって来。」一郎が言いました。けれどもそのこどもはきょろきょろ室へやの中やみんなのほうを見るばかりで、やっぱりちゃんとひざに手をおいて腰掛けにすわっていました。
ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革かわの半靴はんぐつをはいていたのです。
それに顔といったらまるで熟したりんごのよう、ことに目はまん丸でまっくろなのでした。いっこう言葉が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。
「学校さはいるのだな。」みんなはがやがやがやがや言いました。ところが五年生の嘉助がいきなり、
「ああそうだ。」と小さいこどもらは思いましたが、一郎はだまってくびをまげました。
変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけ、きちんと腰掛けています。
そのとき風がどうと吹いて来て教室のガラス戸はみんながたがた鳴り、学校のうしろの山の萱かやや栗くりの木はみんな変に青じろくなってゆれ、教室のなかのこどもはなんだかにやっとわらってすこしうごいたようでした。
すると嘉助がすぐ叫びました。
そうだっとみんなもおもったとき、にわかにうしろのほうで五郎が、
「わあ、痛いぢゃあ。」と叫びました。
みんなそっちへ振り向きますと、五郎が耕助に足のゆびをふまれて、まるでおこって耕助をなぐりつけていたのです。すると耕助もおこって、
「わあ、われ悪くてでひと撲はだいだなあ。」と言ってまた五郎をなぐろうとしました。
五郎はまるで顔じゅう涙だらけにして耕助に組み付こうとしました。そこで一郎が間へはいって嘉助が耕助を押えてしまいました。
「わあい、けんかするなったら、先生あちゃんと職員室に来てらぞ。」と一郎が言いながらまた教室のほうを見ましたら、一郎はにわかにまるでぽかんとしてしまいました。
たったいままで教室にいたあの変な子が影もかたちもないのです。みんなもまるでせっかく友だちになった子うまが遠くへやられたよう、せっかく捕とった山雀やまがらに逃げられたように思いました。
風がまたどうと吹いて来て窓ガラスをがたがた言わせ、うしろの山の萱かやをだんだん上流のほうへ青じろく波だてて行きました。
「わあ、うなだけんかしたんだがら又三郎いなぐなったな。」嘉助がおこって言いました。
みんなもほんとうにそう思いました。五郎はじつに申しわけないと思って、足の痛いのも忘れてしょんぼり肩をすぼめて立ったのです。
「二百十日で来たのだな。」
「靴くつはいでだたぞ。」
「服も着でだたぞ。」
「髪赤くておかしやづだったな。」
「ありゃありゃ、又三郎おれの机の上さ石かけ乗せでったぞ。」二年生の子が言いました。見るとその子の机の上にはきたない石かけが乗っていたのです。
「そうだ、ありゃ。あそごのガラスもぶっかしたぞ。」
「わあい。そだないであ。」と言っていたとき、これはまたなんというわけでしょう。先生が玄関から出て来たのです。先生はぴかぴか光る呼び子を右手にもって、もう集まれのしたくをしているのでしたが、そのすぐうしろから、さっきの赤い髪の子が、まるで権現ごんげんさまの尾おっぱ持ちのようにすまし込んで、白いシャッポをかぶって、先生についてすぱすぱとあるいて来たのです。
みんなはしいんとなってしまいました。やっと一郎が「先生お早うございます。」と言いましたのでみんなもついて、
「みなさん。お早う。どなたも元気ですね。では並んで。」先生は呼び子をビルルと吹きました。それはすぐ谷の向こうの山へひびいてまたビルルルと低く戻もどってきました。
すっかりやすみの前のとおりだとみんなが思いながら六年生は一人、五年生は七人、四年生は六人、一二年生は十二人、組ごとに一列に縦にならびました。
二年は八人、一年生は四人前へならえをしてならんだのです。
するとその間あのおかしな子は、何かおかしいのかおもしろいのか奥歯で横っちょに舌をかむようにして、じろじろみんなを見ながら先生のうしろに立っていたのです。すると先生は、高田たかださんこっちへおはいりなさいと言いながら五年生の列のところへ連れて行って、丈たけを嘉助とくらべてから嘉助とそのうしろのきよの間へ立たせました。
みんなはふりかえってじっとそれを見ていました。
「前へならえ。」と号令をかけました。
みんなはもう一ぺん前へならえをしてすっかり列をつくりましたが、じつはあの変な子がどういうふうにしているのか見たくて、かわるがわるそっちをふりむいたり横目でにらんだりしたのでした。するとその子はちゃんと前へならえでもなんでも知ってるらしく平気で両腕を前へ出して、指さきを嘉助のせなかへやっと届くくらいにしていたものですから、嘉助はなんだかせなかがかゆく、くすぐったいというふうにもじもじしていました。
「直れ。」先生がまた号令をかけました。
「一年から順に前へおい。」そこで一年生はあるき出し、まもなく二年生もあるき出してみんなの前をぐるっと通って、右手の下駄箱げたばこのある入り口にはいって行きました。四年生があるき出すとさっきの子も嘉助のあとへついて大威張りであるいて行きました。前へ行った子もときどきふりかえって見、あとの者もじっと見ていたのです。
まもなくみんなははきものを下駄箱げたばこに入れて教室へはいって、ちょうど外へならんだときのように組ごとに一列に机にすわりました。さっきの子もすまし込んで嘉助のうしろにすわりました。ところがもう大さわぎです。
「わあ、おらの机さ石かけはいってるぞ。」
「わあ、おらの机代わってるぞ。」
「キッコ、キッコ、うな通信簿持って来たが。おら忘れで来たぢゃあ。」
「わあがない。ひとの雑記帳とってって。」
そのとき先生がはいって来ましたのでみんなもさわぎながらとにかく立ちあがり、一郎がいちばんうしろで、
「礼。」と言いました。
みんなはおじぎをする間はちょっとしんとなりましたが、それからまたがやがやがやがや言いました。
「しずかに、みなさん。しずかにするのです。」先生が言いました。
「しっ、悦治えつじ、やがましったら、嘉助え、喜きっこう。わあい。」と一郎がいちばんうしろからあまりさわぐものを一人ずつしかりました。
みんなはしんとなりました。
先生が言いました。
「みなさん、長い夏のお休みはおもしろかったですね。みなさんは朝から水泳ぎもできたし、林の中で鷹たかにも負けないくらい高く叫んだり、またにいさんの草刈りについて上うえの野原へ行ったりしたでしょう。けれどももうきのうで休みは終わりました。これからは第二学期で秋です。むかしから秋はいちばんからだもこころもひきしまって、勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんもきょうからまたいっしょにしっかり勉強しましょう。それからこのお休みの間にみなさんのお友だちが一人ふえました。それはそこにいる高田さんです。そのかたのおとうさんはこんど会社のご用で上の野原の入り口へおいでになっていられるのです。高田さんはいままでは北海道の学校におられたのですが、きょうからみなさんのお友だちになるのですから、みなさんは学校で勉強のときも、また栗拾くりひろいや魚さかなとりに行くときも、高田さんをさそうようにしなければなりません。わかりましたか。わかった人は手をあげてごらんなさい。」
すぐみんなは手をあげました。その高田とよばれた子も勢いよく手をあげましたので、ちょっと先生はわらいましたが、すぐ、
「わかりましたね、ではよし。」と言いましたので、みんなは火の消えたように一ぺんに手をおろしました。
ところが嘉助がすぐ、
「先生。」といってまた手をあげました。
「高田さん名はなんて言うべな。」
「わあ、うまい、そりゃ、やっぱり又三郎だな。」嘉助はまるで手をたたいて机の中で踊るようにしましたので、大きなほうの子どもらはどっと笑いましたが、下の子どもらは何かこわいというふうにしいんとして三郎のほうを見ていたのです。
先生はまた言いました。
「きょうはみなさんは通信簿と宿題をもってくるのでしたね。持って来た人は机の上へ出してください。私がいま集めに行きますから。」
みんなはばたばた鞄かばんをあけたりふろしきをといたりして、通信簿と宿題を机の上に出しました。そして先生が一年生のほうから順にそれを集めはじめました。そのときみんなはぎょっとしました。というわけはみんなのうしろのところにいつか一人の大人おとなが立っていたのです。その人は白いだぶだぶの麻服を着て黒いてかてかしたはんけちをネクタイの代わりに首に巻いて、手には白い扇をもって軽くじぶんの顔を扇あおぎながら少し笑ってみんなを見おろしていたのです。さあみんなはだんだんしいんとなって、まるで堅くなってしまいました。
ところが先生は別にその人を気にかけるふうもなく、順々に通信簿を集めて三郎の席まで行きますと、三郎は通信簿も宿題帳もないかわりに両手をにぎりこぶしにして二つ机の上にのせていたのです。先生はだまってそこを通りすぎ、みんなのを集めてしまうとそれを両手でそろえながらまた教壇に戻りました。
「では宿題帳はこの次の土曜日に直して渡しますから、きょう持って来なかった人は、あしたきっと忘れないで持って来てください。それは悦治さんと勇治ゆうじさんと良作りょうさくさんとですね。ではきょうはここまでです。あしたからちゃんといつものとおりのしたくをしておいでなさい。それから四年生と六年生の人は、先生といっしょに教室のお掃除そうじをしましょう。ではここまで。」
一郎が気をつけ、と言いみんなは一ぺんに立ちました。うしろの大人おとなも扇を下にさげて立ちました。
「礼。」先生もみんなも礼をしました。うしろの大人も軽く頭を下げました。それからずうっと下の組の子どもらは一目散に教室を飛び出しましたが、四年生の子どもらはまだもじもじしていました。
すると三郎はさっきのだぶだぶの白い服の人のところへ行きました。先生も教壇をおりてその人のところへ行きました。
「いやどうもご苦労さまでございます。」その大人はていねいに先生に礼をしました。
「じきみんなとお友だちになりますから。」先生も礼を返しながら言いました。
「何ぶんどうかよろしくおねがいいたします。それでは。」その人はまたていねいに礼をして目で三郎に合図すると、自分は玄関のほうへまわって外へ出て待っていますと、三郎はみんなの見ている中を目をりんとはってだまって昇降口から出て行って追いつき、二人は運動場を通って川下のほうへ歩いて行きました。
運動場を出るときその子はこっちをふりむいて、じっと学校やみんなのほうをにらむようにすると、またすたすた白服の大人おとなについて歩いて行きました。
「先生、あの人は高田さんのとうさんですか。」一郎が箒ほうきをもちながら先生にききました。
「そうです。」
「なんの用で来たべ。」
「上の野原の入り口にモリブデンという鉱石ができるので、それをだんだん掘るようにするためだそうです。」
「どこらあだりだべな。」
「私もまだよくわかりませんが、いつもみなさんが馬をつれて行くみちから、少し川下へ寄ったほうなようです。」
「モリブデン何にするべな。」
「それは鉄とまぜたり、薬をつくったりするのだそうです。」
「そだら又三郎も掘るべが。」嘉助が言いました。
「又三郎だ又三郎だ。」嘉助が顔をまっ赤かにしてがん張りました。
「嘉助、うなも残ってらば掃除そうじしてすけろ。」一郎が言いました。
純露の紅茶味は貴重な初摘みファーストフラッシュの紅茶葉のみを使った2トンの茶葉から1滴のエキスしか抽出できない貴重な紅茶味なのよ。
だからあの飴は高価な茶色い紅茶味ばかりじゃなくて黄色いのばっかりなの。
そんなに忙しくないような忙しいような、
そんな感じよ。
どんな感じだよ!って思われちゃいそうだけど、
まあそういうことにしておいて。
何も思い付かないときは何も思い付かないまま書けば良いわよねと思いながら、
いつも銭湯で一緒になる人で、
最初ははて?誰でしょう?って感じだったけど、
そういうの喰らっちゃうわ。
本当に気が付かなくて座ってるその人の前で立ってつり革持っていた私なのよ。
向こうからしたら気付いているのか気付いていないのか
そんなこと思ってたのかもしれないし思っていなかったかも知れないし
どうだっていいことね。
特に会話が弾むわけでもなく、
無難にやり過ごしたい感じオーラをムーランルージュの人のようにムンムンに出してけばいいかなって思ったわ。
今夜サウナで会ったら
もう気が付けばこんな時間だし
今日はこの辺にしておくわ。
試しに試食って、
白い白馬に乗った王子様が頭痛で頭が痛いって言い方と一緒なのかしら?
サーモンもいいけど、
白身魚の方が分があって、
でもサーモンサンドというチャレンジングスピリッツは誉れ高く称えたいわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!