はてなキーワード: 視覚とは
血液が流れ込もうとする主な要因は以下の通りです。
・性的興奮
視覚、聴覚、触覚などから性的刺激を受けることで、勃起が発生します。
勃起の要因として最も知られるものではありますが、実際に勃起する要因として最も多いわけではないことはあまり知られていません。
・外的刺激
とくに性的な興奮を伴わなくとも、ただ外部から刺激を受けるだけで男性器は勃起してしまうものなのです。
時に人目をはばからずにポールポジションを調整する男性を目にすることがありますが、不用意な摩擦で勃起してしまうことを防ぐための緊急回避手段だと言えます。
勃起を見られる危険性とポールポジション調整を見られる危険性とを比較してみれば、どちらを選択すべきかは容易に判断できるかと思います。
刺激があれば勃起する。
あまりに単純なメカニズムなため、最も防ぐことが難しいものでもあります。
時折、好きでもない女性に触れられて勃起した男性を責めるシーンなどが見られますが、残念ながらよほどの訓練を受けたものか、インポ以外の男性が勃起を回避することはできません。
・血流の促進
外的要因の次に勃起する頻度の高い要因です。
それ以外にも、眠気に襲われた時など全身の血流が緩慢になった時にも起こります。
とくに若い頃に顕著で、学校での授業中に居眠りしていたら勃起していたなんてことはとてもよくあることです。
当然入浴時などでも血流が促進されるため、普段に比べてちょっとした外的刺激でも勃起しやすくなるので注意が必要です。
・その他
尿意の我慢などが挙げられますが、抑えこもうとして手で触れてしまうことや、膀胱を閉めようとする筋肉が外的刺激として感じられてしまうことが原因と思われます。
このように、性的興奮にかぎらず男性器とはいともたやすく勃起します。
では、なぜ見た目にもわかりやすい勃起を普段から目にすることがないのでしょうか。
それは、男性が勃起をさとられないようにと日々様々な努力を行っているからに他なりません。
男性とは、自らの意志とは全く関係なく勃起するものだということを知っているからこそ、常日頃から勃起に対して細心の注意を払い続けている悲しい生き物なのです。
どうか勃起をおおごとにしないでください。
健全な男子であれば、とくに理由がなくとも一日に最低5回は勃起していることでしょう。
深津氏の文章を読んで、本当に佐野氏のロゴは著作権的にアウトじゃないか
ことを代わりにやってみた。
著作権侵害が成立するには
1.依拠性
2.類似性
の3つをすべて満たす必要があるらしいので、順番に検討してみようと思う。
(http://www.saegusa-pat.co.jp/copyright/cr_02_3.htm)
を参考にした。
1.依拠性
証明する必要があり、Pinterestの閲覧の有無が争点になると思う。
当然ベルギーのデザイナーはPinterestに自分のロゴを登録しているし
佐野氏もPinterestに登録していたことが確認されている。
これによって佐野氏がベルギー側のロゴを見たということには充分妥当性があるように思う。
ここで佐野氏が実際にそのページをみたかどうかの証明は必要ないし(もちろん証拠があればそれに越したことはないが)、
佐野氏がもし仮に、見ていないと発言しても、忘れたと発言しても依拠性が覆されることはない。
2.類似性
まず佐野氏のロゴとベルギー側のロゴの類似している部分を列挙してみる。
・中心の縦の棒のパーツ
・左上と右下におかれたパーツ
・3つのパーツにより切り抜かれた円の形を視覚的に感得できること
・パーツの組み合わせにより『T』と『L』の合字が視覚的に感得できること
以上の4つではないかと思う。
判例では、他人の著作物の表現形式上の本質的な特徴を直接感得できるかが判例の判断基準となるようだ。
類似性があるとは認められないのと同じ。
これは一目しただけで、類似していることが認められるのではないかと思う。
相違点はベルギーのデザイナーのデザインが外側に黒丸で囲んであり、
モノクロ(2色構成)で構成されているのに対し、佐野氏の、エンブレムは
外側の黒丸に対する円がなく、4色構成であり、右上に赤い丸があることの
違いであるが、これらの違いはベルギーのロゴが土台にあってはじめて
成り立つものであり、ベルギーのロゴが本質的な特徴であることが理解できる。
つまりベルギーのデザインが土台にないと、佐野氏のデザインはまず
構成できないことに着目したい。
主張していて立証は難しいように思える。
着目してみたい。
である。
ここに飛躍的がある。
出発点となっているため、飛躍的な超越はない。ここにベルギーの
おそらく佐野氏は『L』の合字部分に気付かなかったのではないか。
ベルギー側のデザインが『T』のみのロゴだと思い込んだのである。
つまり佐野氏のロゴは、『T』としては非常に不自然な形状をして
いることになる。この不自然さこそ、一般的でないことの証明であり
創作性を保有しているということになる。
という着想を得たのだろうか。
あきらかに五輪エンブレムとして利用すれば利用行為を行ったことになる。
佐野氏がエンブレムを取り下げたために、ベルギー側も告訴を取り下げるしかなかった。
はないかと思われる。
これを読んでもみんな(深津氏や山本一郎氏を含む)は、佐野氏は
エンブレムをパクッてないということになるのだろうか、聞いてみたいところである。
http://anond.hatelabo.jp/touch/20150903190148
よろしくどうぞ
私はバイセクシュアルではっきりと性欲があるので、おそらくアセクシャルであろう元増田とは異なるが、
恋した相手は性別問わず皆ある程度親しい人間で、長時間の接触と感情の高まりがそのトリガーというのが
幾らか共通点があるので書いてみる。
自分が思う「恋愛」とは「この人を独占したい」という感情の執着で、そこに性欲が加わる。
この人のプライオリティが欲しい=自分をあらゆるものより優先して欲しいという醜い感情と、
そこに理性などはない。
恋の極まった状態というのは、本当に狂気に陥っているのだ。
夫婦などのパートナーに対する優しい情愛は、それとは全く異なる感情だ。
時間の経過と同時に推移していく場合も多いし、恋愛の狂気を通過せず、最初から情愛から始める関係もある。
恋の狂気は、おそらくあなたには理解できない境地のように思う。
けれど、そんな狂気に、公平だとか差別だとか言ってみてもどうしようもないとあなたは悟った方がいい。
異性愛者や同性愛者というのは、その制御不能の執着のトリガーが一定の性別(とされている)対象にしか反応しない人間たちのことだ。
だがよく考えて見れば、性欲の対象などは、食べ物は何が好きか、どんな音楽を心地よく感じるか、
どんな作家が好きか、そもそもそういったものが嫌いかなどと同じ、好悪がどちらに向くかの指向の問題に過ぎない。
そしてあなたも、彼らに単に「抽象画は好みじゃない」「カレーが嫌い」程度のことを言われたのだと理解すべきのように思う。
それはさておき。
何が好きで何が嫌いかなどという瑣末なことで同性愛者や両性愛者を差別する方がおかしいのだ。
同性を愛する人間に対する差別は、カレーが嫌いならそれでいいものを、
「カレー喰うやつマジキモい」とか「カレーを喰う奴は死ね」とか言ってくる状態なので全く許されない。
同様に、ゲイやレズビアンの「どうせ最後は異性を選んで日和るんでしょ」とか「本当はゲイやレズビアンなんでしょ」と言ってくる、
バイ差別も何とかして欲しいと思うけど。
" イオンエンジンも眠る丑三つ時。墨を流したような暗がりの中に縞模様の宇宙服の男が歩いています。手には提灯もなく、月は雲で隠れているのにひたひたと日中をゆくが如く堂々と街道を歩いています。向かう先は町外れにあるNASAの酒蔵です。ご存知のように老舗の宇宙問屋であるNASAは宇宙燃料に、嗜好品に、と使い勝手のいい酒を自家栽培するようになり今日では「まるな印のNASAの酒」として市場を賑わせています。その酒蔵へ、男は吸い込まれるように入っていくのです。カードキーで施錠されたNASA鉄壁のセキュリティーも男の手にかかれば造作もありません。懐から取り出した木の葉を滑らせると「ピッ」という小気味良い音を立てて開いてしまいます。扉は油を引いたように滑らかな動きでスライドし、真っ暗だった通路に灯りが点ります。ぬっ、と入ってきた宇宙服の男は電灯の下ではまさしく異様な風体でした。六尺はあろうかという見上げるような宇宙服の大入道で、全身に黄色と黒のだんだら縞が入っています。奇矯奇怪な風体ですが不思議と品位を感じるのはそのゆっくりした立ち振る舞いからでしょうか。やおら男は歩を進めます。警備員はというと監視カメラに睨みを利かせていたのですがちっとも男の侵入には気づきません。煙のようなものがモニターを横切ったようにしか見えないのです。男は真っ直ぐ酒蔵に向かうと醸造樽をにハシゴをかけ、猿の様な勢いで一気に上りきるとそのままどぶり。酒の中に入ってしまいました。立ち泳ぎをしながら男のヘルメットが横一文字に裂けたと思うと大きく開きます。中から輝く白い歯列。どうやら口のようです。そのままごうごうびゅうびゅう音を立てて酒を飲み始めます。しばらくすると宇宙服が全体に赤みを帯び、満足したのでしょう大きな大きなげっぷを垂れました。ぐえーふ。そして滑らかな樽の表面に手を突くとヤモリのように登りきり、ふちから外に飛び降りました。流石に酔っ払っているのでしょう。尻からどっかと落ちてしばらく寝転がっていびきをかきます。しかしそれも寸刻のこと。ふらふらした上体を揺らしながら起き上がるとゆっくり出口へ向かって歩き出します。ここへきて警備員は物音から動き出すのですが男はすんでのところで逃げてしまって行方はようとして知れません。これが月に何べんもあります。
NASAの高官たちは寄り合いを開いて対応を協議することにしました。長官がぱちぱちとはぜる囲炉裏の火を見ながら語ります。「これは我らが神をないがしろにし、ロケットでただ宇宙を駆ることばかり考えた罪ではないのか」かぶりを振って「気ばかりのスティーブ」と呼ばれる翁が怒気混じりの声を上げます「こんなものは怪事でもなんでもない!ただの泥棒だ!警備員を倍増させ、捕まえてしまえば問題ない!」そこへ人事部のロジャースが鼻声で反論します「君、警備員を倍増させるのはいいよ。しかしね、その給料はどうするのかね。10人増やせば月に3万ドルの出費だ。それに泥棒を捕まえたらすぐクビにできるのかね?一ヶ月でクビ切り?おお、怖い。私は幽霊よりも労働組合が怖いね!」長官は二人のやり取りを呆けたような目で見て震えるばかり。とても裁定ができるような状態ではありません。先週妻と協議離婚をしたばかりなのです。親権も奪われました。涙ばかりがぽろぽろこぼれます。頭に浮かぶのは幸せだったころの自宅の庭。今では古タイヤがつまれているだけです。そこへ新役員のホプキンスが手を上げます「それならここにいる役員全員がかりで泥棒を取り押さえようではありませんか。幸い我々は一般職員と違って仕事をしていない。時間は十分にあります。それに私は我々の日本の友達、JAXAから棒を貰う算段をつけています。アジアに生える桃の木で作った棒は邪気を払うといいます。この棒で泥棒を叩きのめせば普通の泥棒なら死ぬでしょうし、怪異であっても無事ではありますまい」その後、閑をもてあました役員たちはそれでも命令を出すのに忙しいと文句を言って中々重い腰を上げませんでした。しかし、長官が人寂しさから全員酒蔵でキャンプをしようと訴えだし、その様があまりに哀れだったため無下に断ると死んでしまうような心持にさせられたため役員総出で寝ずの番をすることになりました。
老人たちの酒蔵生活が始まりました。杜氏は黙々と仕事をするだけで彼らを一瞥もしません。なぜなら彼らはロボットであり視覚センサーを備えていないためそもそも見ることができないからです。終業時刻を迎えそれぞれ酒蔵の目立たないところに張ったテントに戻ると全員それぞれテント内でちびちび酒を飲んだりマンダリンを弾いたり思い思いのことをしています。そんなことで泥棒が捕まるのかはなはだ疑問でありますが、彼らは仕事をしない生活が当たり前になっていたため全員目標を忘れていたのです。そんな生活が四晩も続いた頃でしょうか。ついにだんだらの宇宙服がやってきました。彼は既に見つからないことが当たり前になっていたせいでしょうか。宇宙服の表面は毛羽立ち、ヘルメットからは大きな舌が覗いています。鼻歌を歌いながら酒樽に近寄りハシゴをかけようとすると「ジュワッ」肉を炙るような音がして宇宙服の手袋が黒く焦げました。ハシゴを桃の木製に架け替えていたのです。あっ、とうずくまる大男に老人たちが殺到しました。堕落したとはいえ元はやり手のサラリーマンたちです。身のこなしが違う。久々の仕事に興奮した役員がやたらめったら男の全身を打ち据えます。ぼっ、じゅっ、叩く度に焼きゴテを押し当てたような音がします。きゅうきゅうという音を立て、身をくねらせる大男は徐々に身長が縮んでいき宇宙服もぼろぼろになり獣の毛皮のようになっていきます。狂乱の二分間が過ぎると長官が割って入りました「みな待ちたまえ。もうこの泥棒に盗みを続ける気力はあるまいよ」そこには大男だった痕跡もほとんど残っていない一匹の狸が傷だらけの全身を震わせ横たわっていたのです。不憫に思った長官が狸に尋ねます。ここは人間の酒蔵だ、一体どうして人間の酒蔵を荒らすのか、狸は目に一杯の涙を貯めて語ります。「つい先年、妻と協議離婚をしたのです。親権も奪われ自暴自棄になり、とにかく酒以外に救いがなかったのです。人間様にご迷惑をかけたのはわかっています。それも今日のように罰せられるのを期待していたのかもしれません」それを聞いた長官は膝から崩れ落ちて泣き出しました。おお、お前は私だったのだ。狸を抱き上げ介抱を始めました。もうこんなバカなことをするものではないよ。酒が欲しいのなら私に言いなさい。獣一匹が飲む量くらいはすぐに都合してやろう。「ああ、旦那様。人間とはかくも暖かいものだったのですね。いいえ、いけません。貰うばかりでは狸のプライドが立ちません。どうか私にもできることをやらせてください。そうだ、エンジンの出力を上げるくらいなら狸にとってはどうということはありません。これからNASAで打ち上げるロケットは全て狸の加護を加えましょう」それからというものNASAから打ち上げられるロケットの出力は全て30%増加することになりました。それによりNASAの宇宙開発は飛躍的に進み、今でもNASA本社の玄関には傷ついた狸を抱き上げるかつての長官の銅像が立っているのです。とっぴんぱらりのぷう。"
みんなで遊ぼう←いまここ
だと思うんだけどどうしたら雰囲気とか伝わるの
わざわざ言うと
デザインという企画付属部品の作成についてその基準を満たすかどうかという問題について
1.ださい
2.似てる
家紋とか色紙に書くサインとか決めるのであれば何の問題ないけど
みんなで参加するイベントの話なんだよ
せめてみんなになんか説明でもあったほうがいいんじゃないって
1.業界ではださくない
おとうさんが息子の絵をこれはいいものだって売りつけただけだよ
穢れと言っているのは全体またはロゴを指して
日常から完全に切り離された独自性のあるものを今回は必要としていたので
今回は適していない
日常的な素材がまじってたとか会社の人間関係についてが作成由来に混じっていたとか
人間としての経過経歴によるものでロゴと今回のイベントという選定からはずれていた
2.選定方法についても1と同じ
1.皆で共有するべきものはだれの手にわたってもその時点では清潔であるべき
利用にあたって目的と意味を同じくしていれば自由に消化できるもの
いわば業界を仕切っている血族の肉が共有物として掲げられている
2.選定方法についても1と同じ
禊が必要だとか言われてるけど粛清ということでボツにしてその事象を清める意味(撤回再選考)なのか
・デザインは今回の問題の烙印として最初の問題の3つを示す「コピー職人の証」に純粋化される
・デザイナーは私生活を企画デザインに持ち込んだ「コラ職神」として神格化される
・もし禊いで清められた純粋な「コラ職神によるコピー職印」をオリンピックで使うというのならそのを意図は何なのだろうか
お清めが必要といっている不浄派であれば
・デザインは多く因縁があるためそれらと対峙して解決しなくてはならない
・デザイナーは使用してはならない素材から遠ざからねばならない
・因縁と打ち勝ち使用すべき素材に絞られた結果出てきたデザインは先のそれとは異なっているはずである
ということなんだよね
これらをふくめてダメじゃんって騒いでるだけなんだけど
この「気に入らない」に同調する人がコメントを投げ合ってあつまった状態をみて
「穢れ」と「気に入らない」の違いを聞いてどうするの
「穢れが気に入らない」って言ってるんだよ
人が多く集まっているから一人で戦うには多勢に無勢なので相手団体の戦力自体を削ごうと
原動力である「穢れ」が「気に入らない」という原理的なものを分解に来たのかもしれないけど
よくわからない個人的な理由でおかしいという武器で同じ戦法を持ちだそうとしても
やっぱり数の差はうまらないとおもうよ
すでに数が集まっている「穢れ」って個人的な理由の戦力に対してこの武器で対抗できると見越すのは
極端じゃなければ小さくても気にならないけど大きいと視覚的にすっごい興奮するしやっぱり気持ちいいよ。
あ、気持ちいいらしいよ。
青色LEDの時から思っているのだけど、発明した人の価値って本当にそんなに高くていいのかな?
例えば小さな研究機関にいて同じものが発明できたのかどうかって疑問だよね。
さらに言えば、発明できたとして、それの権利を守りながら流通させられたのかどうかという問題になってくる。
そんなことは当然個人の限界を超えた対応が必要なのだから、やっぱり発明した人の価値ばかりが騒がれるのはすごく違和感がある。
昨今のデザインパクリ問題についても同じような疑問があって、例えば本当にロゴをパクってたとするよ。
でも、地方の劇場でしか使われないようなデザインを、世界的なオリンピックという舞台に相応しいデザインとして取り上げた功績って本当にない?
違法性うんたらの話をしたいわけではなくて、あるべきものをあるべきところに配置するセンスってすごく価値が有ることだと思うのだよね。
トートバッグだって、使用料を払わなかったのは問題だけど、素材を選ぶセンスと配置するセンスがなければできないことなわけじゃない。
音楽にもパクリ問題がよく話題に上がるけど、ほとんどの場合、確かに存在はしているけどそのオリジナルなんて聞いたことがなかったりするよね。
海外のどこか片隅で聞いたことのある音楽を、日本で流行る!って持ち込んで受け入れられるようにアレンジできることってやっぱり価値が支払われるべきことだと思う。
生み出すことに価値がないとは言わない。
だけど、それがどんな場面で使われようが、自分には一定の対価が支払われるべきっていうことにはすごく違和感がある。
それよりも、それを見つけ出して今の世の中で使える形にアレンジして、それが受け入れられたとしたなら、はっきりいって生み出した人に支払われるべき取り分なんて些細なんじゃないかな。
無断は良くないってみんなは思うかもしれないけど、中途半端に法整備されてるから無断で使ったとはいえないし、かと言って作者と交渉どころか連絡すら取る手段がないときだって沢山あるはず。
それが原因で良質な作品が生み出されるきっかけを失うことのほうが世の中にとってよほど大きな損失だと思うのだよね。
そんなことはない。どんな場面でどんなアレンジして使われようが、オリジナルを制作した人間には一定の対価が支払われるべきだって人。
あなたが生み出すものは本当にあなたが全て0から生み出しているものですか?
それらを最初に提唱した人に、常に対価を払い続けることが正しいと思う?書籍代払ったかららチャラ?
今回のパクリ騒動を声高に叫ぶということは、むしろこの辺のライン引きを加速させてしまうことになるような気がするんだよね。
タダ乗りがしたいわけではなくて、もっと自由にアイデアが行き交う時代になって、もっと自由に色々なものが生み出される時代になってほしいということ。
適材適所を見抜ける才能がある人間が、もっと評価される時代になってほしいということ。
そのほうが、世の中はもっと良い方に加速していくと思うんだ。
わかってもらえないかな。
そもそも、「デザイン」というものが世の中に認知されてないよね。
デザインとは、記号や機能を適所に配置していくことで、目的を完遂しやすくさせるためのものだ。
その目的というのは、全体のユーザビリティであったり、ロゴの視覚的な認知であったり、場合によって様々だ。
だから、見かけが似ているから、これはオリジナリティのあるデザインではない、とは簡単には言えるものではない。
トートバッグはともかく、オリンピックのエンブレムについての意見で、「似てる」という以外でまともな反論を
聞いたことがない。
デザインの観点からいうと、あのエンブレムがパクっているのは、佐野氏も自ら言及しているとおり、
なぜなら、デザインとは視覚的な構成ではなく、その背後にある概念を指すからである。
デザイナーがデザイナーの仕事を、一般の人々に対して啓蒙してこなかったのが原因では、
という意見もあるかもしれない。
どれくらいかというと、平常時に亀頭が完全に皮の中に隠れているのはもちろんのこと、勃起しても自然には剥けない。
手で引きずり下ろす必要がある感じ。
付き合っている彼女はいないけど、セックスのチャンスはちょいちょいある。
友達にモテるやつがいるので、そいつにくっついて飲み会に行って、適当に場を盛り上げていると、たまにおこぼれにあずかれる。
風俗にも三ヶ月に一回くらい行く。ローションプレイが好きだから。
恋愛はめんどくさいけど、女の体は好きだ。
亀頭を刺激しまくらないと、勃起しなくなってしまったのだ(本題)。
そもそも三十代に突入してから、ペニスを直接触らないと勃起しなくなっていた。それまでは、視覚への刺激や、キスとかで勃起してたのに。
それでも、一〜二年くらいは、軽くしごけば勃起してたわけだが、三三になった今年、急にダメになった。
で、このあいだ、「これでだめだったら、病院に行こう」と思って、お気に入りのマットヘルスに行った。
付いた嬢が、吉原のソープにいたことがあるというテクニシャンで、軽く前立腺を刺激してみたり、いろいろと試してくれた。
そこで最終的に、勃起前から亀頭を露出して、そこだけを一点集中で攻めまくるというのが有効だと判明した。
海綿体に血が十分に流れ込むまで、手や舌を一瞬でも止めちゃだめ。
勃起状態になってからも、なるべく間をおかず、素早くゴムをつけて挿入する。
その後、自慰や、別のお店でも試してみたが、とにかく亀頭を刺激しないことには、勃起が始まらない。
しかし、風俗嬢ならともかく、普通にいい感じになった女とベッドインしたときに、亀頭を攻めまくるようなタイミングは作れないだろう。
治せるものなら治したい。しかし、何科に行けばいいのか。そしてどう説明したらいいのか。いわゆるEDでいいんだろうか?
激しく悩んでいる。
情報処理には順位があり、例えば脳では触りたいと思っても、熱いものに触ると手を引っ込める。
これは脊髄反射が優先された例。
脊髄反射、延髄反射は、脳で考えた行動よりも優先されるが、脳内での情報処理にも順位づけはある。
オーディオマニアの中では長年の不思議だったそうだが、テレビの音はオーディオスペックのわりには良く聴こえすぎるという謎があった。
その答えは、映像が脳で音を補完しているということだそうだ。
鼻の神経は脳に直結しているし、眼球は脳の出張所のようなところだ。
聴覚情報が視覚情報に影響されるということは、脳の構造的にも頷ける。
体臭を気にしろというレベルのことではなく(実は、異性の体臭については好きという人もいるので難しい)たとえばこういうことだ。
好きな相手といればいい音楽に聴こえるし、嫌な相手といればいい音楽には聴こえない。
ライブハウスの空気(薄暗い視覚情報や、肌に伝わる空気の振動)は、演奏の上手い下手に関係なく気分を高揚させる。
一緒になにかを食べるとして、”臭いけど美味しいもの”と、”いい香りだけど不味いもの”だったら、後者のほうが受け入れられやすい。
なぜならば、嗅覚情報は味覚情報よりも優先されるので、“臭い”を許容して美味しいと感じてもらうためには、相当な慣れを要さねばならない。
他方、香りがよければ、甘い、塩っぱい、酸っぱい、苦いはかなり許容される。
一番犯しやすいミスは、”見た目はアレだが美味しい料理を出す店”や”見た目は不味そうだが美味しい料理”というチョイスである。
デートではまず見た目を重視すべきだ。
当たり前のようで、多くの男性はこれを間違える。
ヒトの本能行動はかなり少ないと言われている。
数少ない本能行動というと、全人類に共通するコミュニケーションが挙げられる。
たとえば、”目をみて頷く”という行動がある(実は、頷く前にわずかに眉を上げるという行動も含まれている)。これは全人類で共通とされている。
緊張すると早口になるとか、怒りや不快を示す時に低い声になるとか、下から睨むような目つきをするとか、これらも本能行動なのではないかと言われている。
目をみて、よく頷くこと。こんな単純なことだが、相手にコミュニケーションが円滑に進んでいるという安心感を与える。
決して怒りを露わにしないこと。怪訝に思っても睨みつけたりしない、これだけで相手の警戒は軽減される。
早口にならないこと。気持ちが浮ついていることは必ず悟られる。これさえ守れば、おどけた道化を装っても、落ち着いて構えていられる自信に満ちた男ということが相手に伝わる。
以上、ナンパ本やコールドリーディング本に足りないとおもったことなど。
続く、かもしれない
いつも疑問に感じてたんだけどさ。
たとえば最新の記事のこれ見てくれよ。
このカツ丼の絵、なんなんだよ。この回に限らないけどこの人の描く料理っていつも、ただの「黄色くて白くて黒い何か」じゃねえか。
「かつ丼」って横に描かれてない状態でこれ見て「わあ美味しそうなカツ丼」って思うやついるのかよ。「あれ?ロールシャッハテスト?」と思ったわ。
俺にはこれ、どんぶりにぶちまけた吐瀉物か、上から見た火山の噴火口にしか見えねえよ。ぶっちゃけ「実はこの絵、今朝出したうんこです」って言われても納得するぞ。
「トロ~リ」って書いてあるけれどこの絵のどこにとろみ感が出てるんだよ。そこは擬音じゃなくて描写力でカバーするのが漫画家だろ。
もしかして写真を反転させただけなのかな?とも思ったけれど、それでもこれはねえんじゃねえかな。カツも卵も玉ねぎも米も見分けがつかねえよ。
そんで食事シーンも毎回一緒。いっつも同じ構図でカエルが汗かきながらハフッハフッ言ってかっこんでるだけ。他にパターンねえのかよ。
食レポにしてもグルメ漫画にしてもそうだけれど、こういった視覚的表現はいかに食べた後のリアクションで食欲を喚起させるかも重要なのに。
いや、正直ワンパでも別にいいし、表現を派手や大げさにしろとも言わないけれど、にしたって「同じ構図でカエルが汗かきながら器かっこむだけ」はあんまりだろ。
同じ「食事シーンはいつも器をかっこむだけ」でもドラゴンボールは美味しそうに見えるのに、この違いはなんなんだ。
本来が漫画という表現の制約上、添え物にしかならなくなる文章も情報量が少ない割にたいして的確でも美味そうでもないしよ。
これってグルメ漫画として成立してんのかと毎回思ってるんだけれど、みんな「美味しそう!」ってコメントするもんだから成立してるんだろう。
でも俺、いっつも首をかしげるんだよな。
毎月1000人程度の行列を従業員4~5人で捌いてたコツを書くよ。
行列の理由:新台のオープンと、あとはなんでかしらないけど毎月ある特定の日に行列ができた。(諸般の事情により理由は答えられません。)
パチンコ屋さんが整理券を配る理由は、開店時間前後に行列をつくると隣接店舗の入り口を塞いでしまうという問題を回避したいとう目的が一番にあります。
そのため、隣接店舗がオープンする前に整理券を配布して、行列を捌いてしまおうとしているのです。
はじめのうちは早朝から並び始める程度だった行列は、加熱していくことで徹夜組を生み出します。
なかには前日の21時、お店が閉店する前から並び始める人もいました。
話題性目的で容認していたものの、ある日おまわりさんからお叱りを受けます。
ピンとくると人も多いと思うのだけど、数年前に突然行列の深夜組に対する指導が厳しくなった時期がありました。
「深夜に起こりえる事故の責任を徹夜を容認している店舗側に求めますよ。罰せられたくなければ徹夜を禁止にしてね。」といった内容です。
遠回しに言ってるけど、深夜にトラブルがあって呼ばれるのは警察なんだから余計な手間かけさせるようなことはしないでねってことですね。
おまわりさんは他にも守らなくてはいけないものが沢山あるので、問題の原因を作るようなことは愚の骨頂。ぐぅの音も出ない正論です。
ちなみに某駅100周年の時に行列を解散させざるを得なかった理由もおそらくこれ。
「行列管理できてないけど、警察に警備でもさせるつもり?責任とれるの?」の一言で駅長のHPはゼロになったものと思われます。
この辺の指導が厳しくなることで警備員の人件費なんて用意できない中小店舗は先着順の行列が実質不可能となります。
それ以外にも、この業界特有の「なんでこんなに人が並んでるの?理由説明して?」っていう別角度からのつっこみもありましたがこれは割愛します。
それでもユーザーはある特定の日に大挙として押し寄せて来てしまいます。
なのに徹夜を容認することはもうできません。
そのため、多くのパチンコ屋さんは整理券配布を抽選という手段にシフトしていきました。
某テレビ番組で徹夜組の後ろに店舗スタッフが並んで、それ以降から整理券配布をするというスカッとする解決策が提示されていましたが行列規模が100人を超える程度になるとこの手段はまず不可能です。
想像してみてください。徹夜で100人並んでる後ろにスタッフがついて、これより前の人は無効ですとされた状況を。
もし自分がその中にいたらあらゆる理由を見つけて自分を正当化するはずです。
店側のスタッフは数名しかいません。その状況で数の暴力に立ち向かうことはまず不可能と思ってください。
結果として数に押し切られた店舗側の人間は、相手のルール違反を容認した上で、さらに自分たちの不備さえ認めさせられる事態に陥ります。最悪の場合、ルールを守った人間すら敵に回してしまいます。
しかしながら、行列管理のポイントはこの正義=量的要因にあるのも事実です。
ここで熱中症患者を量産した某ソーシャルゲームのイベントを思い返してみましょう。
あのイベントが失敗した一番の要因は、限定遥かに上回る人数が押し寄せてくることを想定できなかったため、限定数を上回る参加者に対する準備を怠っていたことにあると言えます。
運営陣は、限定を2~3割上回る人間が来て、間に合わなくてくやしー!くらいで終わるつもりだったはずです。
ところが限定数と同等、もしくはそれ以上の人数が集まってしまったことでまず行列管理が崩壊しました。
その上で、もらえなかった人間が一斉に運営側の準備不足を声高に叫び始めたことでルールと正義が逆転します。
さらに状況を悪化させた点は、本来限定だった特典をユーザー全員に配布してしまうという判断でした。
これによって先着のために払った多くの参加者の労力を無駄にしてしまったからです。
つまりは高いお金を払って準備したイベントなのに、参加者全てを敵に回す結果になってしまったというわけです。
これついて某駅100周年イベントでも同様のミスが見られました。
徹夜を禁止していたにもかかわらず、徹夜で並んだ人間達から優先してしかも時間を繰上げてまで販売を開始してしまったのです。
当然ルールを守った人間からは不満が噴出。その数があまりにも圧倒的だったため現場はパニック状態となり、そこに加えて警察からの中止命令。
結果的に後日希望者全員に販売となったわけですが、高い交通費をかけて現地に赴いたファンはがっかりしたはずです。
さらに豪華な装丁を施したあのカードがもたらした全体の赤字は考えるだけでぞっとしてしまいます。
圧倒的な参加者を前に、少数の従業員でルールを正義するにはどうしたらいいのでしょうか。
方法は単純です。ルールを守った人間が正義になればいいのです。
そうすれば、ルールを守った側の人間が従業員側の味方についてくれることになり、ルールを破った少数派に打ち勝つことが出来ます。
「行列管理やイベントで最も重要なことは、単純でわかりやすいルールを視覚的に内容的にも明確に発信すること」です。
イベントにおける失敗の大半の要因は、ルールがわかりづらい、もしくは視覚的に明確にされていないという点といっても過言ではありません。
逆を返せば、いくら完成度の高いルールでも参加者が理解できない、もしくは参加者同士で共有できていなければ何の意味もなさないのです。
そのために必要なことは、ルールの完成度よりもわかりやすさを追い求めることにほかなりません。
このことは、自分自身、店舗新規オープンの時に1000もの人間を整理券配布のために3時間近く拘束してしまったという実体験によって身を持って知ることになりました。
くわしくは割愛しますが、公平性を厳密に守るために手順が煩雑になりすぎたとでも言っておきましょう。
整理券を配布すると同時に投げかけられた1000もの罵倒は今でもそのときのまま夢に出てきます。
徹夜組に対して言えば、徹夜が禁止であることが参加者全員にわかりやすく伝わること、それにくわえてルール違反に対するペナルティが明確であることが求められます。
その点を曖昧にしておくことによって、徹夜組は自分たちの正当性を理論武装し始めます。そうしていつのまにか同士が集まった時点でモラルハザードが発生してしまうわけです。
ただ、昨今の状況において期待参加者2~300を超えるようなイベントで先着を行なったとして、徹夜を禁止することは弊害が多すぎるため不可能と考えたほうがいいかもしれません。
抽選にシフトするか、容認して警備を強化するためにコストを投入する以外手段はないと言えるでしょう。
某ソーシャルゲームイベントに関して言えば、どこまでが先着に間に合ったかを明確にする必要がありました。それによって、人数がオーバーした上で並ぶか並ばないかの判断が自己責任へと変ることができるからです。
ただし、詳しく調べていませんが徹夜組に対する禁止・容認の流れなどがあったとすればそんな単純な話ではなかったかもしれません。
さて、手前味噌な話に戻りますが1000人の行列をどのように4~5人で管理していたかの話に戻ります。
尚、徹夜が禁止になってしまったため、整理券の配布は抽選で行なっています。
・まずは列の先頭に一人が待機します。
・行列ができはじめると同時に、ナンバリングがされた抽選引換券を配布しながら列の最後尾へと移動し続けます。
・その時点での抽選引換券のナンバリングを確認し、抽選マシンに母数を入力。
・抽選開始時間に間に合わなかった参加者には、特例として配布した番号以降の整理券を配布しています。
この方法を取ることによって、行列に対する割り込み管理を行う必要がなくなります。
そして大事なことは、こうした抽選方法だということをルールとして明確に提示しておくことです。
・抽選開始時間までに来店できなかった場合は、それ以降の整理券を配布します。(ただし、これも5分程度で打ち切ります)
これらを抽選場所と列最後尾に並ぶ人間とにプラカードで持たせることで参加者に明確に伝えています。
この段階であれば、3人程度で捌くことが出来ます。
抽選に間に合わなかったユーザーは、先着順の列に誘導します。ただ、この列も経験上開店30分前で50人を超えるようなことはありませんでした。
つぎに実際の入場です。
・入場開始時間
・整列のための列が100番刻みでできていること
そして店頭には、100番刻みで番号が書かれたプラカードと、そこから伸びる並ぶ場所を示したテープが歩道にはられています。
これによって列は100人までしか伸びず、また整列開始時間が記載されているために、店舗前に行列ができる時間を最低限に抑えることが出来ます。
次にその10分間に集まってくる整理券を持った人間を、該当する番号の列におおよそ誘導します。
この時、全員を綺麗に番号順に並べる必要はありません。前後10人程度なら入場の時に整理し直せるからです。
そうすれば4~5人で1000人を捌くこともそれほど大変ではありません。
人間の心理的にも順番をシビアに守りたいのは100番程度までということが経験でわかりました。
その為、はじめの100人は一人ずつ番号を呼び入場させますが、それ以降は「110番までの方」「120番までの方」とある程度の括りで入場させます。
この時、できるだけ大きな声で番号を叫ぶのがコツです。
面白いことに、そうなると自分たちの番号を参加者同士が確認し始めるのです。
その分、順番をしっかりと整列させる労力を割愛することができました。
それに多少前後してしまったとしても、そのことについてクレームを受けたことは一度もありません。どこかに確認できなかった自分の責任を感じているのかもしれません。
抽選が厳密に行われることがわかれば、徹夜をしようとする人間は居ません。
徹夜組に対する対応の答えにはならないかもしれませんが、SNSで話題が一挙に広がり参加者が大挙して訪れる可能性のある今の世の中では、徹夜禁止の上で先着順というのははっきりいって不可能だと思っています。
コミケの徹夜問題が叫ばれていますが、いっそのこと抽選配布にシフトしてみてはいかがでしょうか。
抽選引換券と、抽選開始時間、入場と整列開始時間、自分たちが並ぶべき列が明確になっていれば、それほどの労力を必要とせずとも数千人を対処できるかと思います。
少しでも早く入場したい人は抽選に参加するはずです。
あとは抽選に間に合わなかったユーザーを先着で並べるための列管理が必要になりますが、それこそそれ以降は先着順の整理券でも配布すれば列管理の労力を入場直前に集中させることができるものと思われます。
特技というか、べつに本当に歩けるわけじゃなくて感覚をだますという感じ。
自分が歩いているのは今天井で世の中全てが上下逆さまなんだって思うと、本当にそういう風に感じることができる。
きっかけは、あるテレビ番組で左右が逆さまに見えるメガネを掛けて生活するっていう実験をやっているのを見た時。
最初は当然右も左も反対に動こうとしてしっちゃかめっちゃかなのだが、1日もするとずいぶん慣れてきて、そのうち自然に生活できるようになるというものだった。
メガネを外した後に正常に戻るまでが大変また大変だって話なんだけど、人間の感覚って曖昧なんだなぁと思ったんだ。
その実験をみて感じたのはとくに視覚情報が曖昧だってことで、視覚のもつ方向感覚と身体の持つ方向感覚っていうのが一致してなくてもいいんだっていうのはなかなかに衝撃的な内容だった。
「大阪クラシック」は、毎年9月、大阪の梅田・心斎橋エリアの各所で1週間にわたって開催されるクラシック音楽のイベント。無料主体のコンサートが1日に10〜15公演行われる、かなり大規模なものだ。
演奏者は主催の大阪フィルハーモニー交響楽団(以下大フィル)の団員がメインだが、数年前から関西フィルや大阪交響楽団など他団体も参加している。
こちらが大フィルのサイト内に設置されている今年の公式サイト。
http://www.osaka-phil.com/oc2015/
トップの日付の部分から各日のスケジュールにアクセスできるが、
http://www.osaka-phil.com/oc2015/schedule.php?d=1
http://www.city.osaka.lg.jp/keizaisenryaku/page/0000316941.html
http://www.city.osaka.lg.jp/keizaisenryaku/cmsfiles/contents/0000316/316941/20150906.pdf
「テキストデータが無い」ということは、音声読み上げブラウザやスクリーンリーダーを利用している視覚障がい者にとっては「情報が無い」と同じこと、というのは誰にだってわかることだ。
音楽を大きな楽しみ、慰めとしている彼らから、よりによって、「音楽」イベントの情報が遮断されている。しかも大阪市や大フィルという、公共性の高い団体の主催する催事で!
はてブは手斧を持ったモヒカンが背景全無視で「行為」を断罪する論理荒野のパラダイスだが、
手斧を投げつける手法が「個人攻撃」に見えることが多くのドラマを生み出しているとも言える。
平たく言えば「オマエの主義は知らんが、その論理展開の主張は気に入らん」という投擲だ。
「オレの生き方サイコー」なら良いが、それに「他の生き方はダメだ」と続けてクサスのが良くないってのを観て
なんかそれもまた違くね?と思ったのが、この批判を書くに至った理由だ。
自分の主張を補強するつもりで、他の論を持ってくるなんてことは、良くある。
論文は大抵「過去の研究ではこう言ってる」「が、俺は違うと証明した」「が、俺は新たに良い手法を見つけた」みたいなのばっかりだ。
つまり、比較することそのものは、別に批判の対象になるようなことじゃない。
比較が雑だったり、優位を主張する部分に誤りがあるから、批判の対象になるわけだ。
コレは結局のところ「スタートの立ち位置が変だから、組み立てが変」なんじゃなかろうか。
例えば、「菜食主義者」の「菜食主義」そのものは、「手段」だ。
宗教上の理由から「肉食を避ける」菜食主義者と、健康上の理由から「肉食を避ける」菜食主義者とは、
外側から見える行動そのものは変わらなくても、その思想的な背景である「目的」は、大きく異る。
例えばミニマル・アート(Minimal Art)は、視覚芸術におけるミニマリズムだが、これは縛りプレイと呼んで良い。
徹底的に削ぎ落としたその先にも表現はあるはずだという、抽象美術の一つの縛りプレイの形といえる。
これも目的は「アート」の追求であり、色数を減らすのは手段の一つにすぎない。
手塚治虫のブッダで覚えている人も居るだろうが、コーサラ国にスダッタという富豪が居た。
ブッダの説法を聞いて感動し、ハコモノを建ててブッダを誘致しようとした人だ。
ジェータ太子の土地を譲ってもらう条件の「土地を金貨で敷き詰めたら」を素で実行しようとした人だ。
必要最低限のモノだけを残して全ての財を金貨に変えて土地に敷き詰めまだ足りないと実行し続けた奉仕の人だ。
「目的」が明確で、「手段」としてミニマリズムを実践した人、とも言える。
最近はてブを騒がす「ミニマリスト」達には「目的」が見えない。
知り合いのヒンドゥー教徒は、結構ユルイヤツが多い。日本に来てる時なら酒は飲む、とか。
手段である「主義」は、厳格な人間でなければ、そう厳密に守ることでもない。
(もちろん厳格な人が、厳格でない人を批判する事は、ままある)
本人の主義に関してアレコレ言うことは(同じ主義を持つ集団でなければ)、無意味な干渉にしかならないだろう。
ただし、それは「相手もまたそうであろう」という暗黙の了解に基づくから、そう言える。
ヒンドゥー教徒の知人は、仏教徒に仏教の戒律に関して「バカげている」という話はしない。
当然、仏教徒の知人も、ヒンドゥー教徒に対して「その食の制限は意味が無い」という話はしない。
お互いに違う宗教を信じていても、相手のことを尊重しているからだ。
(敬意を持った上で、教義上の疑問点を話す、なんてことはある)
最近はてブを騒がす「ミニマリスト」達には「他者の主義に対する敬意」が見えない。
結局のところ、目的も無く、自覚的に自身の主義を捉えることもないので、想像力が無いのだろう。
そうした場合、「自分もそうだから、相手もそうだろう」と想像してしまっても、無理はない。
というよりも、想像することそのものが出来ないのだろう、と想像できる。
全く知らない宗教団体と事前知識無く出会うことになった時に、何がタブーかなんて想像も付かない。
自分以外に配慮出来ないのは、何も「最近はてブを騒がすミニマリスト達」に限った話では無いと思う。
あれは「症状」みたいなもので、クシャミと同じたぐいの「結果が目に見える形になっただけ」では無いか。
それは「自身の立ち位置に無自覚」で「他人の思想的背景を理解しようとしない」という、結構怖い人達なんではないか。
つまり、インド人のベジタリアンに向かって「夏バテなら肉を食べれば元気が付くじゃない」と無邪気に言える怖さだ。
きっとその個々の無自覚さは、ソコココで小さな軋轢を生み、全体としてその母集団の信頼が失われていく。
最近はてブを騒がす「ミニマリスト」達には「自分の主義に対する思い入れ」が見えない。
自分の正しさを証明するために、他人の主義を引き合いに出すのは、それそのものは別に悪く無い。
他者に敬意を持っていれば、引き合いに出す際にぞんざいに嘲ったりすることは、出来ないだろう。
インターネットは誰が管理しているか? ほとんどの人間はこれを気にしない。
インターネットが普及して80年ほどが経過した。無線による生体ネット接続が通用し、網膜に映して必要な情報を得ることが一般化した。
「昔の人間は、網膜の情報なくしてどのように車の運転をしていたのだろうか?」なんて話題が小学校の生活の授業で登場する。
観光地や官公庁の案内が、紙や吊るされた案内掲示板によって確認されていたという祖母の昔話に驚いた。
最近は微力な電力を提供することで、人間の動作の補助をネット経由で行なうことも多くなった。初めは介護施設で試験的に創められ、今では街を歩くときに障害物などに対応して移動の補助を行ないうるようになった。すでに老人だけでなく、生体ネットを持つ者の多くが、この動作補助アプリケーションをダウンロードして日々を送っている。視力を眼鏡で矯正した往時の人々と同様に、動作を矯正して正しい、より強い動作が可能になった。
かつてIPアドレスやドメインの管理はアメリカの民間団体であるICANNによって行なわれていた。インターネットの利便性が人間の身体性にまで及ぶようになった時、些細な、かつ歴史的に何度もあったような、単純な理由をもって、インターネットの支配権をめぐる争いが起こった。その結果、新たな管理者が現れた、ネットを管理している者の正体は複合的な国家とそれから委嘱された営利団体により巧妙に隠されて一般の人間には見えにくくなっている。そもそもインターネットは大変便利で使うに越したことは無いのだが、その仕組みを考えたり理解したりすることは、一般人には極めて困難だ。そしてネットの管理者はその点を突き、管理者の意に沿わない人のネット接続をはじくようにした。ネットは警察権と癒合したのだ。「犯罪者」は、ネットを外された瞬間、見事にぎこちなく、身体動作がガタガタになる。古典的表現で言うなら眼鏡や杖を外されるようなものだ。諸々の視覚情報も得られず、たくさんあるネット認証ゲートの使用もできない。
誰だかよくわからない管理者が露骨にその支配権を表明し、強制的な徴兵や労働を人民に課すようになった。逆らえばネット接続を外されてしまう。そうすれば生きてはいけない。ネットを梃子に人々はたやすく支配された。私はその状況を打破するために、1990年代後半に造られた「もう一つのネット体系」の復原を試み、ほとんど成功させた。直接のデータは紙媒体、それも感熱紙に印刷しており当局もそこまで情報をカバーしていなかったことは幸運だった。ほとんど歴史学者みたいなことを続けて、私はwwwに寄生する形で改良を重ねついに実用段階を迎えた。
「通常」のネットがある日突然使えなくなった。既に私の研究は当局に露見しており、ネットの不正使用ということで逮捕されると網膜に通告がなされた。25分後に警察が到着するという。
私の家は中山といい、代々貴族の家系で家格は羽林家(Urin‐ke)というレベルで中級の貴族だった。貴族制度などから恩恵を得る時代はとうに過ぎて、羽林家だからといって何か得するわけでもない。一つ変ったことといえば、随身(Zuijin)として古代(Ancient)から忍者(Shinobi)として仕える秦(Hata)という一族(Family)がいることぐらいだ。21世紀の今日び忍者なんて流行らず、一族の最後の生き残りであるくのいち(Kunoichi)珠洲子が一人仕えるのみだ。それが必要かどうかは措くが、彼女は先祖からの知識や知恵や武術を高いレベルで継承したという。私より4つ年上だから今年33になるのだろうか。栗毛の短い髪に大きな二重瞼の瞳。顔の造形は美しく、飲み屋でよくナンパされるという。高い運動神経は美しい身体曲線をつくる。足首がキュッとした美脚を30代でも維持していることが自慢なんだよー、とよく私に話しかける。
珠洲子を呼ぶ。「…ここに」時代劇じゃないんだからそんな台詞言わなくてもいいのだが。裾の短い、くのいちの装束を身に付けた珠洲子が現れる。本当にくのいちはこんな格好してたのか? 謎だ。「君に生体接続を試みる。別種のネットだ。」「?」「私は拘禁される。…が君は逃げのびて、支配的なネット規制の現状を打破してほしい」「…かしこまりました」「仕組み、多分使えば慣れるはずだ」「…かしこまりました、任務ということでよろしいですね」「そうだ、任務だ」任務といえば逆らえないのが随身の定め。酷い話だが、彼女を脱出させる唯一の方法だ。別れの際も、普段のように会話できれば良かったのだが。
http://anond.hatelabo.jp/20150713234228
男女どちらも、外から観測できることがらから、直感的に中身を判断している。
その上で男女の違いはどこにあるかというと、女は顔、身長、手、声、髪質、服の質、言葉、腕力などなど、膨大なパラメーターの全てにおいて大きな欠点がないことを直感的に判断する能力に優れている。
対して男は中身の類推に最も便利だと思われる1つ2つのパラメーターを精度高く判断する能力に優れている。そのパラメータとは、顔、おっぱい。以上である。
では、なぜこういう違いが生じたのか?
オスの判断とは、奪うものを選ぶための判断である。奪う対象は選ぶ段階ではまだ敵地にあり、近くに寄って詳細を確かめることはできない。瞬時に少ない視覚情報から多くを類推して判断しなければならない。
対してメスの判断とは、異物を排除するための判断である。メスにとって最も避けるべきは自分の巣が荒れることだ。外から持ち込まれたものが自分の巣に相応しいものかどうか、近くでじっくり時間をかけて判断する。そして巣を守るために最も重要なポイントは、すべてのパラメーターにおいて大きなマイナスが無いことだ。