はてなキーワード: 発心とは
真木よう子本人が個人的にやりたい事であると同時に事務所の指図が入ってるんじゃないかと、私は勘違いして反発心もってた。
本人には大した考えがなくとも、事務所やひょっとすると芸能界そのものが、新たなる商売の場としてコミケに目をつけたのかと。
それで続々と芸能人参戦が続くうちにあちこちの事務所から運営に圧力がかけられて、コミケの開催主旨が変わってしまい、今まで参加していた人達が参加しづらくなるんじゃないかと危惧した。
ま、芸能人参戦云々関係なく、今でさえコミケの新規参入障壁は昔より上がってるんじゃないかって気がするけれども。おもに二次創作界隈で。プロやセミプロがいすぎて、好きな気持ちに実力のついて行かない人達の肩身が狭い。
真木のFacebookの本人コメントによれば、事務所は関係無いどころか事務所や芸能界のシステムそのものに反発してのコミケ参戦のつもりらしい。
真木が表現したいことそのものはある意味とても同人っぽいし、資金の集め方自体は別に問題だと私は思わない。
ただ、税務署から何か突っ込まれないのかな?とか、Facebookのあれは正面切って事務所や芸能界そのものに喧嘩を売っている様に見えるんだが、コミケに何も影響無かったとしても真木本人のこれからは大丈夫なんだろうか?と不思議に思うし、あまりにも無謀なのでやはり仕込みなのでは?という疑いも持たないでもない。
真木よう子本人が個人的にやりたい事であると同時に事務所の指図が入ってるんじゃないかと、私は勘違いして反発心もってた。
本人には大した考えがなくとも、事務所やひょっとすると芸能界そのものが、新たなる商売の場としてコミケに目をつけたのかと。
それで続々と芸能人参戦が続くうちにあちこちの事務所から運営に圧力がかけられて、コミケの開催主旨が変わってしまい、今まで参加していた人達が参加しづらくなるんじゃないかと危惧した。
ま、芸能人参戦云々関係なく、今でさえコミケの新規参入障壁は昔より上がってるんじゃないかって気がするけれども。おもに二次創作界隈で。プロやセミプロがいすぎて、好きな気持ちに実力のついて行かない人達の肩身が狭い。
真木のFacebookの本人コメントによれば、事務所は関係無いどころか事務所や芸能界のシステムそのものに反発してのコミケ参戦のつもりらしい。
真木が表現したいことそのものはある意味とても同人っぽいし、資金の集め方自体は別に問題だと私は思わない。
ただ、税務署から何か突っ込まれないのかな?とか、Facebookのあれは正面切って事務所や芸能界そのものに喧嘩を売っている様に見えるんだが、コミケに何も影響無かったとしても真木本人のこれからは大丈夫なんだろうか?と不思議に思うし、あまりにも無謀なのでやはり仕込みなのでは?という疑いも持たないでもない。
21歳の時、つまり大学在学中のときに親に結婚をしろと命令された。
もちろん嫌だったけど小学校から中学、高校大学と進路先まで親に決められてきたし、反発しても仕方ない家族だということはわかっていた。
中学生のときは親に支配に反発して家を飛び出したりもしたけど、その度に自分で道を決めるのは無理なんだって思い知ってきた。
もう小さな反発心だけが心残りだったけど、ほとんど不自由なく幸せに毎日を過ごせてきた。つまり慣れた。ずっと親に決められたことに反発心を持ちながらも慣れることで適応してきたように思う。
親に大学を決められた時は何も思わなかった。それこそ小学生の最初の頃からそこに行くと決められていたし、それが自分の目標だと思っていたから。
それでも大学生になって一人暮らしを始めると楽しかった。もう8時までに寝なくてもいいし、門限も守らなくていい、開放されたんだって思った。
だけど、その日母親から電話が来た。着信拒否は許されない。出ると自分が結婚すること、相手に会うことなどをいつものように伝えてきた。
相手は26歳の男性。色々な職業をしていて、性格はおっちょこちょいだけど人をいたわる心をもっている人。ただ残念なのは、身長が私より低いことぐらいかな。
そして結婚した。一回デートした後に数週間も経たずに。大学にはそのまま行かせてもらえた。
それでもやっぱり小さな親への反発心のせいでどうしても相手を受けれられずにいた。例えばすることを求めてくる時にどうしようもなく気持ち悪くなったりした。そういうときはやめてくれる人で良かった。
でも次第に慣れた。親に進路を決められたときのように、慣れた。
だから今となっては彼を拒絶する気も全く無くなった。愛はないけれど、慣れはあった。
これを書いたのは今日、妊娠二ヶ月目であることが分かったから。
これもすぐに慣れると思う。
気持ち悪かったらごめんなさい。
某頭文字Pの激安カット店では九部九里いや十割の確率で腑抜けてやる気の欠片もない床屋もどきが担当につく。
彼らは客が目をそらしたり瞑ったりすると容赦なく手を抜きバリカンを駆使してくる上、
切ってほしいところは切らず切らなくていいところは切りすぎるあまり、
客が指示を出さないとベトナムの小学生みたいな刈り上げタラちゃんヘア崩れにしかできない。
なので代金を支払ってその身を差し出す我々は、いつ愚行に走るかと肝を冷やしつつ、
ミラー越しに金剛力士さながらの面様を携えこの昼行灯の所作を監視するわけだ。
注文をつけすぎたりあからさまに不信感を醸したりするとかえってカットが雑になってしまう。
その為たるみきった表情で我らの髪を弄る姿から心の機敏を読み取り、時には監視の目を緩める必要もある。
とにかく自分のヘアスタイルの、その今後一ヶ月の命運を握る鋏に細心の注意を払っているんだよ。
切られる方のこの私が。
ご存知の通り件の森友学園の問題について籠池理事長がyoutubeに反論を投稿した。
【文字起こし】大阪の国有地払い下げ問題〜森友学園・籠池理事長、YouTubeでの発言書き起こし(3月8日付)
個人的に一番「こいつヤベエ…」と思ったのは北朝鮮からテポドンが発射されたのくだりで、金正恩はじめ北朝鮮指導者たちの行いを理由に特に関係のない日本在住の北朝鮮にルーツをもつ人たちを差別する気満々すぎてドン引きしたが、とりあえず本題でないのでおいておく。
発言の中で注目したのは以下の箇所。
『どういうことなんでしょうか?ということはこの学園を潰したいということなんでしょう。いまいいきっかけだからいまのうちに、この日本の歴史と伝統を一生懸命旗を振っている、この塚本幼稚園を、そして国歌君が代を歌っているこの塚本幼稚園を、この素晴らしい子どもたちが礼儀作法をしっかりし、そして挨拶もしっかりし、声も元気よく、自分に自信をもってはつらつと話をし、そして勉強し、体操しているこの子どもたちを、潰そうとしているんじゃありませんか。』
『退園された方は、ご自身の子どもさんがわれわれの教育にあわなかった。あるいはついていけなかった。いや、それ以前に、ためにするために入ってこられた方やと思います。なにか撹乱を起こすために。保護者が機嫌よくきているのに、保護者の中に撹乱を起こすために入ってこられた。』
うーん。被害妄想炸裂。
あるところに加害-被害の関係があったとする。当然被害者は加害者を非難する。
このとき、加害者側に加害の認識がない(あるいは加害を否認しようとする強い欲求がある)場合、加害者はなぜ自分が責められているのか理解できない。
そこでこの「自分は悪くないはずなのになぜか責められている」という状況に置かれてしまった理由を考えると、導かれる答えは「(自称)被害者側に悪意がある」だ。相手は自分を貶めるために被害をでっち上げて言いがかりをつけてきているのだ、という認識になる。
ここで注目すべきは、このような認識を持つことによって加害-被害の関係が逆転するということだ。
本来加害者であったはずの側が言いがかりで攻撃されている被害者となり、本来被害者であったはずの側が言いがかりをつけて攻撃する加害者となる。
このような思考は籠池氏に見られるだけではなく、日本の「保守派」に広く見られるものだ。その代表例が歴史問題だろう。
日本は慰安婦だ南京事件だと中国や韓国から非難される。しかし日本の「保守派」はそれらの問題は捏造されたものであったり解決済みのものであったりするため日本は悪くないと信じている、ではなぜ日本は非難されるのか。それは中国や韓国が日本を攻撃することで国内の不満を逸らそうという意図があるからに違いない。これは歴史問題ではなく「反日問題」なのだ……。
かくして日本はかつての戦争犯罪に真摯に向き合わない加害者ではなく、中国や韓国から言いがかりをつけて攻撃される被害者となる。日本の「保守派」は「加害者」である中国や韓国に対して反発心でいっぱいだ。
言うまでもなくこんなものは逆ギレとでもいうべきものであって、第三者から見れば馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない。しかし、日本の「保守派」の中では大真面目に語られる理屈だ。
籠池氏がこのような被害妄想思考の持ち主だから「保守」に傾倒しているのか、それとも「保守」に傾倒した結果このような被害妄想思考が癖になってしまったのか、卵が先か鶏が先かはわからない。しかしこの被害妄想思考こそが日本の「保守派」に見られる典型的思考であることは確かだろう。
最後に。
だから、加害-被害の関係を逆転させる被害妄想思考は立場を逆転させるためのテクニックとしても使える。
ここで家庭が壊れる元ができた。
落ち着いたときには遅かった。
精神もやられてたと今になって思う。
働くことしかできなかった。
体が壊れた自覚はなかったけれど
気がついたら勤務中に3時間寝てたとか
同僚に言われて初めて気がついた。
本当にもっともだと思う。
それは今でも思う。
転職先も似たような状況だったが
ただ一つ
終わりの見えない自転車操業だったところが違ってた。
今も同じ会社で働いてるけど
ただ、その反発心のおかげでようやく人並みの生活ができている気がする。
周りからは定時ダッシュの人と思われてるらしい。
全然思い通りにならない。
心も。体も。
思いも寄らなかった。
きっと罰があたったんだろう。
今までの心のツケが回ってきたんだと思う。
でもけっして嫌なことばかりではなかった。
やりたかったことを目指し
そのためだけに頑張れた自分がいる。
つらい時期を仲間と乗り越え
今でも一緒にお酒を飲んで笑いあえている。
本当にありがたいことだし幸せなこと。
お疲れさま。よくがんばったよ。
今はただ
頑張りすぎた自分を許して。
感謝して。
ゆっくり休ませてあげたい。
幸せであればそれでいい。
ほら子供の頃を思い出すと、親に怒られたり叩かれるよりも
自分がしたことで親に泣かれてしまったときのほうが深刻でショッキングだったろ
マジで変わらなければって思ったろ
叩かれると最初は効果あるけど、あんまり叩かれすぎると次第に反発心のほうが勝るんだ
「残念すぎるよ...」「本当に悲しい」「彼女がしてしまったことを考えて泣いちゃった。。いまでも手が震えてる」
「報道をきいたとき本当にショックだったよ」「T_T」「あぁ神様!このような受難は私には耐えられない!」
「なんて日だ...」「クソ今日は人生で一番バット入ってるわ」「うぅ・・・(泣」
こういうコメントをみんなでしていけばいいんぢゃない?
この人に周囲が振り回され、私も大いに傷ついた。
●とにかく人を信じない人であった。
●常に自分を卑下していて、「私はダメな人間なんです」アピールをしていた。
●しかし周囲の同僚の欠点を見つけては、指摘しまくり、「そんなことないでしょ」と言うようなものなら、それを認めさせるまでゆずらず、
残業してまで、「その人の欠点は確かなものである」というメールを送ってくる。
●常に私や周囲の同僚が、自分を退職に追い込もうと計画を立てていると思い込んでいる。
そう思い込んでいるので、その反発心から↑のように、同僚の欠点を指摘することで自分のポジションを確保するように奔走する。
その人の問題行動は列挙すればキリがない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%AE%B3%E5%A6%84%E6%83%B3
かなりこの女性に当てはまる。
ひょっとして、うつ病、統合失調症などの精神疾患であったのかもしれないと今振り返ると思う。
被害妄想 → 周囲を傷つけ → 私は被害者だと主張 というのが毎日のように繰り返されていた。
今でも悪夢のように鮮明に覚えているのだが、
次のプロジェクトの件で、上司と会議をして、私が会議室から出てきたのを彼女が見つけ
「私のことを上司に告げ口するなんてどういうことなんだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
と、怒涛のごとく罵られたことがあった。
もちろん、そんなことはなく、弁明をいくらしても聞き入れてはくれなかった。
こういう人が一人でも部署内にいると、業務どころではなくなってしまう。
ちなみに上司はこの件について何も動いてくれませんでした。
結果から先に言ってしまえば、これは自殺してしまった人の話である。多少のフェイクは含まれる。ちと長い。
とある事情から請われて、はるばるその人は私たちの職場にやってきた。
それまでの経験と着任したポジションの権限の強さから、徐々に自分の思い通りにいくような職場をその人は作り上げていった。表立って反発した人たちは、結果的に揃って辞めていった。そうして出来た穴も、その人がスカウトしてくることで埋めていき、更にその人の派閥は強まっていった。そうでない人たちも、反発すれば左遷させられるか、辞めさせられるのでみんなビクビクしながら働いていた。もちろん、その分陰口は凄かった。
その人が来てからしばらくたつと、少なくない回数、備品や売上金がなくなるようになった。警察沙汰にもなった。
噂というのは怖いもので、そうした嫌疑がその人にもかけられることとなる。そして、普段の関係性も相まって、回数が重なるごとにその疑いはより強いものとなっていく。陰で反発していた私たちは、何故か疑いをかけられたということもあり、有志で隠しカメラを設置するか、とまで話をするようになる。
だが実は、社長を始めとする経営陣はある程度証拠を掴んでいたようで、弁護士を挟んでの話し合いの結果、その人は辞めることとなった。陰で、あるいは表立って反発していた人はそれをとても喜んだ。派閥の中にいた人たちは、船頭を失って少なからず動揺していた。
そこで初めて聞かされたのが、その人はもともと精神疾患を抱えており、目下治療中であったが、完治していないままにスカウトを受けてやってきたということ。また、以前の勤務先でも同様の事件を起こしていたということ。職業柄、そしてポジション柄、そうお金に困るような人ではなかったので、そうした精神疾患が事件を起こす原因だったのではないかと聞かされた。他にも、それだけ聞かされれば本当に同情してしまうような話が驚くほど出てくる。権力を使って派閥を作り出し、自分の居場所を作り出すことで、その人は精神的なバランスをとっていたのだろう。辞めざるをえない状況になったことで、そのバランスが崩れて自殺につながったのでは、ということだった。
表立ってぶつかった人からは、同情のかけらも見られない。それほどまでに嫌われていたのだろう。
派閥にいた人はどうなのだろう。離れてしまった私には知る由もない。もしかしたら、話は流れてくるかもしれない。でもきっと、重苦しい雰囲気になるに違いない。
私はというと、その人に反発した人の影響で飛ばされてしまったので、恨み言がないわけではない。その人のやり方が非常に気に食わないので、聞こえてくる噂に対して陰口をたたいていた側である。ただ一方で、飛ばされた先の職場の雰囲気が悪くなかったこと、そしてこれは性格からだが、先の精神疾患の話のせいもあり、反発心が緩和されたり、あるいは少しだけ同情的になっていたりする。善し悪しで言うのであれば、悪い方に傾きながらバランスをとっているような感じだろうか。
なんでこんなことをダラダラ書いたかっていうと、自殺の話を聞いたときの自分の感情が、少しショックを受けた程度でほとんど揺らがなかったからである。なんで、人が死んだことに対してこんなにドライになれてしまっているのだろう、と思ったのだ。
殺したいほど憎たらしい、と思うような相手がいる人は少なからずいると思う。では、そうした相手が本当に死んでしまったとしたら、まして自殺であったとしたら。そして、それまであなたに向けられてた敵意が、実は病気を原因とする、本人にも止めようがないものだったとしたら。あなたはそうした死を、どう受け入れるだろうか。中途半端な私は、その人が死んだという事実がふわふわ浮いていて体に落ちてこない。
[追記]
休日の出先でPresso開いたら自分のエントリーが出てきたもんだからひっくり返るほどビックリした。
元々文章書くのが下手なところに酒が入り、思いつくがまま、吐き出すように書いたエントリーだったので、ブコメにもあるように内容が把握できない、読みにくいは当然だと思う。そんな中でも汲み取ってコメントをくれた方々、ありがとう。そして釣り認定してくれていた人、確かに下手なフェイクを入れるときにおかしな表現が多くなったように思う。とりあえず、こういった書き方が釣りと解釈されるのだと何となく分かった。釣りならもっとのほほんと出来てどんなにいいことか。ちなみに、増田への書き込みは二回目だ、いまだに空気感とかよく分からない。
・トラバなどにある罪悪感について。
私が罪悪感を感じている、と解釈出来るような表現があるのかもしれないが、実際のところ罪悪感は特に感じてなくて、身近にいた人が自殺した、という未体験の事実にただただ驚いているのが正直なところ。この事実に関しては、割と淡々と、傍観者になっているところがある。
・タイトルと内容の不一致感について。
先にタイトルを付けた後、思った事をひたすら書いていったら結果的にずれてしまった。これはひとえに私の国語力、文章の構成能力のなさに起因している。読みにくくて申し訳ない。
で、うまく表現出来るか分からないけど、その意味について。これは内面の問題である。表面上のやりとりは、最低限こなしているつもりなので、ここではどうでもよい。ブコメにあったように、事実を知った上で故人を許せるか、が正しいのだと思う。後から思いつくままに書いたという意味で、タイトルより内容の方が言いたかったことに近い。
また、優しさではなく同情、というブコメもより正確な表現だと思う。
・所感
いただいた意見が自分の予想を超えて多かったので、時間をかけて消化していこうと思う。一つ一つ、ありがたいと思ってます。
ちなみに、監視カメラという言葉からだろうか、Pressoの写真・カメラカテゴリーにこのエントリーがあったのにはちょっと笑えた。
普段人に見せないように思考整理のために書いてる日記の一部を投稿する。
身近に相談できる人間がいないから話を聞いてもらう代わりに読んでもらえませんか。母親に相談しても心配事増やすだけだし…。
昔ブログやってた名残で、個人の日記にしてはすっごく気持ち悪い文章です。
2014/03/03
ちょっともう手詰まり感半端無くて目覚めるたびに「早く夜になって寝たいな」って感じで現実逃避してますが皆さん如何でしょうか。
私は最近幸福に生きる能力、というか精神を平穏無事にする能力が著しく欠落してるから、もう無理して幸せにならなくてもいいんじゃないかと思えてきました。
ただ、幸せに生きられないなら、損益で言うなら損にしかならんのに生きる必要はあるのか、という問いかけに有効な回答が出来ないままでいます。
こんな幼稚な思考実験をしてるうちに周りは刻々と変わっていくわけで、別れの季節であるこの時期、色んな人がいろんな場所へ旅立っていきます。
最近父親のガンが再発し、幸いな事に全く命に別状はないのですが、「どんな命も永遠に続くことはない」って当たり前のことをまざまざと見せつけられたようで、
今拠り所にしている居場所、この場合は実家もいつか消えてなくなって、その時、俺は天涯孤独になってしまうのか否か、考え始めると眠れません。
旅立ちの話ですが、やはり長く懇意にしていた(向こうはどう思ってるのか知りませんが)連中も遠いところへ就職していき、ますます物理的な居場所が無くなっていく気がしちゃいます。
孤独に耐えられる人間になればいいのでしょうか?居場所を頭の中に作れる人間になればいいのでしょうか?それって敗北じゃありませんか?
何に対する敗北なのでしょうか、おそらく世間一般の幸福のあり方に対してだと思います。
「お前の幸せは邪道」って言われてる気がして「俺は楽しいのに何だお前らは」と言いたくなります。
以上のような事柄が誰も言ってないのに私の頭の中で湧いてきます。未練の表れなのでしょう。人生に優劣はないかもしれませんが悔いの有無はあるものだと思います。
2014/03/04
しんどい時期です。どれくらい続くか分からんやつです。日中、働きながらずっと生きる理由探してて、何度考えても人の生死の判断は個人の自由って結論から離れられません。
なら現在、将来の見通しに価値を見いだせない自分の人生は、自分の判断で終わらせても、理屈上何の問題もないように思えます。
母が言うには自分の命も他人様の物らしいですが、しっくりきません。自分が納得できる生きる理由がほしいです。納得が全てだと思います。
テレビやレジャー、ネットサーフィンで一瞬フワッと元気になってもすぐに「やっぱ生きる理由無かったら死んでも良いよなあ」と沈み込みます。
「こんな程度の感動や笑いで元気に振る舞えるような半端な病み方はしてないぞ俺は、俺の病み方は特別だ」と謎の反発心が有ります。
他の病んでる連中とは一線を画したいんでしょうか。病んでる連中界でもなんでもいいから、何者かになりたいのでしょうか。承認欲求がかなり歪に発露しているように思えます。
よろしくありません。こういうことを鬱々と続けているから、私の人間的魅力はますます低下し、周囲からは人がいなくなり、ますます承認欲求を満たす手立てが失われていくのに、辞められません。
焼畑農業みたいな人間関係しか構築できないようです。しかし改善しようにもする気がありません。逃げですね。はい。すみません。
苦手なことは極力しない生き方をしてきたんで、今更健全な人間関係構築とか言う苦手な課題にアタックする気力が無いですし、もし構築できたとしても定期的にやってくるであろう病みによって瓦解します。
定期的に病む性質を持った自分に、人並みの人間関係を構築して維持できるような人間的魅力なんてないです。
ではその性質を改善したらどうか。と思うわけですけどこれも難しいと思います。
幼少期からその傾向があったわけで、自分の直感というか、生きてきてこれは限りなく正解に近いと確信してるんですけど、生まれながらにして定期的に病む質なんだと感じています。
となると、棺桶に入るまでこの性質とは付き合いつつ生きるというのが賢明な判断であって、性質と付き合いつつ生きるということは「人並みはずれて劣った人間的魅力をぶら下げて天寿を全うする」ことに他ならず、
そんなクソみたいな人生をこれから送ることを強いられている現状に絶望し、いっそもう明日にでも死んでもうた方がいいんじゃないかと、毎日思考が不健康まっしぐらな堂々巡りをしています。
死ぬ勇気もないとは思いますが、元来発作的に何かをする癖がある自分なので、なんとなーく。
「ああ、たぶんこのままだと死因:老衰だけは無いな、ストレスが原因で大病患ってくたばりあそばすか、終わっちゃうかどっちかだな」とふわふわ思ってます。
こんな特別でもなんでもないテンプレみたいな病んだことを日常的に考えて病みをアイデンティティにしてるからアカンのでしょうか。いや分かってるんですが。今は辛い。
最初に断っておきますが当時の従軍慰安婦制度は立派な人権侵害であり「彼女たちは単なる売春婦、人権問題があったとしても当時は当たり前だから何も日本は悪くない」などと主張する方には聞いておりませんので来ないでね。
あれって、慰安婦に対する認識の違い、保障が適切だったか、そのような人権侵害を繰り返さないようにする為の取り組みとして適切か、など色々な部分で論点がごちゃっとあるわけですが、その中でも個人的に「慰安婦像をアメリカの地方都市にいくつも建てる事は適切な取り組みだろうか」という点に関して、『はてサ』の皆さんの考えがどうにも読み取れないのが気になっていました。
私は慰安婦像自体、ゆかりの地に建てるのは構わないと思うんですよ。
でもそうではないところに建てる、それも次々に建てる、って話になるとどうしても違和感を拭いきれない。
かと言って明確にダメって理由もないんだけど、そうするともし仮に、「原爆の碑を~」「天安門の悲劇を彫像にして~」「ゴダイ・ダイヴィンの~」悲劇を教訓にする為、アメリカの地方都市に碑をどんどん建てようって話になった時に、次々建てざるをえなくなりません?
像を建てる大義みたいなものが弱い気がして、どうにも、それはやり過ぎだろう、と思ってしまうんですよ。
そして、やり過ぎなのにそれを推し進める行為を見てしまうと、そこから「体の良い問題を旗印にして、イデオロギーでも優位に立とう」としているのではないか勘ぐってしまい、そこから私の中で韓国に対する反発心が生まれてしまってたりします。
そうは言っても日本は加害者なんだから・・・という意見もありましょうが、現在の大半の日本人も韓国人も加害者でも被害者でもないので、平等な立場で問題を解決するべきだと思うんですよね。
だから、やり過ぎだと思ったらそれはきちんと言うべきだし、逆に韓国人が「俺達は被害者だ」と意識的優位に立とうとする態度をとったとしても、それは違うんじゃないか。
像をあっちこっちに建てるような方法でどんどん圧力をかけて(そういうやり方が単に得意なのかもしれないけど)相手を打ち負かすような方向性でなく、もっと別のアプローチでお互い解決していきましょうよ、って姿勢を相手にも望みたいなーと愚生は思っております。
前置きは長くなりましたが、「はてサの皆さん、慰安婦像をアメリカの地方都市に建てる行為そのものにつて、そこんとこ実際どう思ってるの?」って質問で、初増田させてもらいます。
『はてサ』と言ってもとても曖昧なものなので、もう少し具体的に言うと「熱心にテキサス親父やネトウヨを批判している方々」の意見を聞きたいです。
深く考えたりまとめたりする頭があるわけでもないので、頭の中でもやもやしていることをとりとめのない感じに並べるだけ。割と長い。いろんなところで見たものの寄せ集めかも。
人工知能学会誌の表紙絵で一騒動あったが、その批判に対して言いがかりだという感じの反応が多く見られた。
些細なことで差別のレッテルを貼られることへの怒り、反発、表現をする側が批判を恐れ、政治的に正しい表現へと漂白されていくのではないかという危機感を強く感じる。
今回の件に限ったことではなく、特に"政治的に正しい"というのにものすごく反発がある様子。
自分もそういう反発心がないわけでもないし、表現の自由度が下がるのは避けたいとも思っている。
ただこうした反応を見ていて、自分は反対の方向に危機感を覚えたりする。表現に対して批判をしたり嫌悪感を表明することが封じられてしまうんじゃないかと。
批判のために攻撃的な言葉が使われる問題。それこそ差別的だという指摘がある。
もちろんどの立場であっても攻撃的な言葉を使うのはよろしくない。しかし多数派の罵倒はスルーされやすく、少数派の罵倒は目立って大きな憎しみを買いやすい。それがまた一層激しい罵りに繋がる気もしている。
ゾーニング、住み分けもかなり重要ではあるが、住み分ければいいだけの話、というのも個人的にはあんまりいい流れではないと感じている。分断する方向へ向かっているような。そこへ至るにはある程度のプロセスが必要ではないかな…
批判や議論も重要だし、嫌悪感の表明も自由だと思う。しかしそれによって簡単に表現が規制されたりすることはない方がいい。批判があったらダメというわけではない。批判があるからといって規制する必要はない。
表現規制の問題があるからか、批判というとすぐ規制に繋げてしまう傾向がある。
と言っても激しく批判する方もそれに激しく反発する方も、落としどころを見つけようとか意見を聞こうとか、おそらく思ってはいないんだよな…。相手を叩きのめそうという力が大きく働いている感じがある…。またそればかりが目立つために類似の意見すべて感情的に受け入れられなくなる、といったこともあるようだ。
自分としてはあの表紙絵が特別差別的だとは思わないし、些細なことではある。些細なことであるから問題であるとも思う。生贄的な側面は確実にある。意味のない指摘とは思っていない。
今回の件では、人工知能学会をどう見るかによっても意見が分かれたようだ。学会誌は内向けではあるだろうが、趣味を共有する目的のものではないだろうし、実用に目を向けているからこそ表現に気を遣う必要はあるかと思う。
人工知能を愛でる学会であればおそらくそんなに問題にはならない。
女性は家事とかそんなステロタイプは今時ほとんどねーよという反応も結構あった。これは、観測範囲に単身世帯が多いのではないかなあと思っている。単身なら性別関係なく家事をする。自分の観測範囲では所帯を持った人が多いが、女性が家事のほとんどをやっていて共働きというのが圧倒的に多いように見える。
労働環境の都合上そうなるしかないというのもある。田舎に住んでいるというのもあるだろう。実際全体ではどうなのか…ステロタイプから脱却するべきという認識は主に若い世代に広く共有されているが、状況はそれほど大きく改善されたわけではないってとこかな。
まあ観測範囲が狭いのでなんとも。
一番気にしているのは、批判の声が大きくなった場合、表現をする側の心が折れる問題。
批判や議論はあった方がいいと思いつつ、それらを受け止められる表現者がそんなにいるとは思えない。今回騒動になった絵を描いた人の心が折れていないか正直心配である。絵が悪いわけでも描いた人が悪いわけでもない。
ステロタイプな表現は社会の鏡であり、表現そのもの以前に社会環境の方に問題があるのは確か。
表現の影響を過大に見る向きがあると感じる一方で、それに反発して過小に見る向きもあるように感じる。ひとつの表現が社会に与える影響は大きくはないし、大抵の場合劇的な何かをもたらしたりはしないと思うが、多くの表現が少しずつ既成概念を作り上げているところはあると思う。
表現が個人に与える影響は多分かなり大きい。
海外を引き合いに出さずとも多様な立場にいる人が声を出すようになれば、批判される割合はどんどん高くなっていき、面倒なことは増えていくと思われる。声が出ることを歓迎する反面、何らかの表現をする者にとって背負いきれない重荷であるとも感じている。
間違った表現、正しい表現があるわけではない。漂白する方向へ向かうよりは、多様化する方向へ向かった方がいいと思う。向かって欲しい。
で、結局どうしたらいいのか、自分には分からない。真摯に考えた人もたくさんいたと思うし、記事も色々読めたことは自分としてはよかった。議論が起こるのは意義のあることだと思う。一方で溝が深まっただけという気もしている。
SF的にこれからの表現のあり方や人工知能、アンドロイドのあり方なんかに議論が広がっていったら主に自分が喜んだのだが。表現が差別であるかどうかで泥仕合になってしまったのは残念だった。いや、これにも意義はあるのかもしれない。わからない。
結論はない。頭いたい
1/3追記
id:hal9009 表現が既成概念を作ってるってのは多分幻想なんだよな~。実利があれば表現が追い付かないほどの勢いで世の中変わるので。変わらないのは構造的にではあれその現実を支える確かな「利益」が存在しちまってるんだよ
これなんだけど、自分が感じてるのはもうちょい小さいことで、情報の少ないことや些細なことについての既成概念。
些細な認識の穴埋めとして物語などで得た情報が結構使われている気がする。
現実に色々な情報が入ってくるようなことだと頻繁に上書きされるので表現は表現という認識にとどまる気がする。
実際には違うという認識が共有されつつお約束とされている表現があって、何らかの理由で共有されていた認識が薄らいでお約束の表現だけ残ったら、割と面白…面倒くさいことになるかもしれない、などと思うこともあり。
情報が少ないことであったり取るに足らないような些細なことであったりすると、なんとなくそのまま表現のイメージを引きずってしまう感があるということ。
些細なことなので問題ないといえば問題ないかもしれないが、些細であるだけになかなか更新されないなど。
それがよくないと思っているわけでもなく、既成概念も物事を見るのには必要だが、面倒な問題を起こすこともある、と思っている。
頭の中でもやっと考えているだけで自分でもまとめられないので具体例を出せといわれるとよく分からなかったりする。
あんまり多くの方向にアンテナ張って本当に些細なところにも配慮しつつなにか表現しようとすると死んでしまうが、些細なことに突っ込む意義もまたあるということ。
石破氏のブログでの発言
主義主張を実現したければ、民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべきなのであって、単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます。
(http://ishiba-shigeru.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-18a0.html より引用)
が話題になってるが、この発言デモを行ってる人達に対して「どうすれば政治の意思決定プロセスを左右できるのか」、「どうしてあなた達は政治の意思決定を買える事ができないのか」を明確に示してる点ではむしろ助け舟を出してるに等しい。
つまり、
という事を明確に表明している点で現状分析として非常に単純明快に示していると言える。
(一応書いておくと、自分は自民党の憲法改正案や現状の秘密保護法案に反対する立場であり、その他の事項も含めてどちらかと言うと比較的リベラルな政治的意見を持っている。)
こういった匿名日記に書いて発散させようというそんな考えです。
正直、今やってる仕事も偽善者たちのお手伝いくらいにしか思ってなくて。
必要とされる人もいないまま人に迷惑をかけながら死んでいくんですね。
ヘルパーの講習を受けに行った時施設での実習があったんだけど、本当にひどかった。
あれが普通なんだろうけど、あそこに入っている人の日々の楽しみって多分ご飯しか無い。
あとは一日中テレビの前に放置。職員も手が開いていたら話し相手もするけど
そりゃたまには外に遠足的なものとか、イベント的なもので出し物があったりするんでしょうけど、
基本ゴハンくらいしか日々の楽しみがないように見えた。
そのゴハンですら、うまく自分で食べられないとか咀嚼できない人とか
口が空いてる時にどんどん詰め込まれるんです。
意思を伝えることが難しい人になると、自分のタイミングでは食べれない…
死なないように、栄養だけ取らされてるように見えました。
一般的に言う人の尊厳なんて、多くの人の理想の上に作られたふわっとした決まりごとでしかないのに、
それに倫理とか名前がつけられて、死こそが最悪で、生きてさえいれば良いことがあるとか
訳の分からない理想論のために、生きながら苦痛のみ味わっていかなければならないんです。
それは自分のためではなくて、周りの人の
「良いことをしてる」
という自己満足のために生かされてるだけだとおもうんです。
最悪です。
モチベーションが上がるわけ無いです。
まあ仕事に誇りを持つだとか生きがいを感じるだとか
そういうことを本来仕事に対する考えとして持っておくべきとか
ただ、そういうのは気づいているけどみんなそういう本音はうまく隠しつつ建前だけで生活していけるんですよね。
オトナだからw
そう思ったら、自分はちゃんと中高時代にそういう思春期ながらの社会的な反発心みたいなのを持つ時期がなかったんです。
言われるがままになんとなく「そういう社会なんだな」とぼやっと生きてきたんですよね。
いや、それすらも気づいて、考えてなかったかも。
それがいまになってこじらせてしまったのでたちが悪いw
今、日々「そんなものだ」「しかたない」と押し殺そうとして納得させてはいるけど、
多分納得はできてなくて無理が出てきてるのかな。
そういうところが日頃の今の不安を増幅させてるのかもしれない。
こんな人のエゴの受け口になる前に、自分の命は自分で簡単に終わらせられるような社会的なシステムを望んでます。
そもそも、人は生まれてくる前に「産むかどうか」の命の選択が他人の手で行われてる。
産むと決まれば生きられるし、産まないと決まれば殺される。
死ぬ時もそう。
一度生まれてしまうと、自分の手で命を終えることが、あらゆる意味でできにくい社会になってる。
生まれる前なら殺しても構わないことになっているのに。
そんなの勝手に死ねばいいだろうという人もいるだろうけど、もし失敗すればそれはそれで地獄。
またしても「命は粗末にするな」とか周りの勝手な優しさや良心という自分勝手な押し付けで
病院で薬漬けにされながら生きながらえさせられる。
もう自分の手で何もできなくなってしまえば、人生が終わるよりも最悪の絶望しか残ってない。
助けた後のフォローは何もない。
助けたと勘違いしてる人が勝手に満足するという偽善なんていりません。
正直、建前の話ではなく、人は命よりも尊厳のほうが重視されるべきだと思ってます。
尊厳が保てなくなった時点で、自分の手でその人生を楽に終了させるシステムはあるべきだとおもいます。
勢いに任せて書きました。
支離滅裂かもしれませんが、だいたいあってるはず。
すこしはすっきりするだろうか。
だからといって今後も何も変わらないのでしょうけど。
元増田は話の導入として故事を持ち出しただけで、それ自体は肯定も否定もしていない
例として間違っていると見なすのが間違い
話の導入として関係ない話や自分の主張と反対になる故事を持ち出してるだけだから馬鹿ではない!か。
斬新な弁護ですこと。
反骨心のために守らないならパンクスと言うべきだし
元増田は自分を過大評価した結果「俺はこのルールの適用外だ」と勝手に判断して守らないという手合いなので
これは自分と同じような馬鹿がギタギタにされてるのを見て反発心が沸くんだろうな馬鹿なりに。
嫌なやつは確かにいい圧力にはなるけど、それへの反発心は往々にして自分の本来の願望とは違っている気がするよ。
プレッシャーに抵抗するために一生懸命勉強して医者になって、見返せたとしても
その人が本当にやりたかったのは漫画を書くことだったかもしれない。
でも手っ取り早く見返す方法に目を奪われて安牌へそのエネルギーが向かってしまう、みたいな。
本当に大事なのは自分の欲のほうで、嫌なやつの圧力はその欲を一般社会に適応させるよう矯正してしまう。
上手く欲のエネルギーを自分でコントロールできるようにするのはやっぱり嫌なやつじゃなくて楽しいと思わせてくれる奴だと思うよ。
という疑問に対してただ一言
「タダだからだよ」
とは、ボカロを使った楽曲でランキング入りしていた友人のPの弁だ。
そして、タダじゃなくなっていくことによって、衰退していくのだろうか。
同じぐらいにピント外れた同世代中年知人しか居なくなってくるから
こうやって「詳しい奴から知見を仕入れた」つもりでもピンボケコメント貰って鵜呑みにすることになるんだね。
悲しい…。
あのなー
今時なー
どんな音楽もPVもちょっとネット漁ればタダで手に入るんだよ。
その状況で、タダであることにアドバンテージがあるわけねーだろ。
回転鈍くなった脳みそでもそれぐらいわかるだろ、なあおじさん。
しょうがないから以下、精一杯おじさんにわかるような言葉と説明を模索してみるね。
「優れたコンテンツ」wwwwwww
ねえおじさん
「テレビで流れてる歌よりニコニコのボカロ曲の方がいいよね!」っていう
メインカルチャー(AKBが独占するような荒涼とした焼け野原だが)への反発心が多分にある。
それを視聴するみんなと、アップロード者も含めて、
みんなで評価して盛り上げる、一緒に作り上げるような仲間意識を楽しんでんだよ。
そういうものに課金で広告付ける奴がいーーーーっぱい居るんだぜ。
生放送とかでもちょっと規模が出るとすぐリスナーが信者化して課金で枠貢いだりしてくれるんだぜ。
テレビに1円も払わないどころか24時間テレビの商業性に唾を吐くネット民が
テレビはクッソつまんないけど、ニコニコ生放送より完成度が下ってことはないだろ。
じゃあもう一回おじさんの噴飯書き込みを読もう
wwwww
おじさんの脳内ではアレだよね、
ニコ厨ってのはな、
金を出すのがいやなんじゃないの。
でも商業が嫌いなの。
黙っとけって話だよ。
古い、支持されない(つーかカウンター対象として忌み嫌われてる)、時代遅れな仕掛けしか出来ないんだよね。
そりゃ嫌がられるわ。
曲がいいんじゃなくて場を含めた全体で楽しまれてるのにさあ
「曲だけ切り離してパッケージにして売ろう」だとか
もう勘が悪すぎて死んだほうがいいでしょ。
「タダじゃなくなったから」じゃなくて、
わかった?
ここに書いた事の3割ぐらいおじさんの脳味噌で理解できれば御の字だよ。
世相を語るみたいな事はやめること。
余生は手元の仕事だけコツコツやって堅実に暮らせよ。
注:加筆修正しました
最近商業BL作品ばっかり読んでるから、たまにはネットで同人作品も読もうかなと思い立って、某ジャンルのサーチから二次創作サイト巡りをしていたときのこと。リンクを辿っていった先に、管理人が韓国人であることを明記しているBL小説サイトがあった。日本語ネイティブじゃないとこれはムリだろと思わせる豊かな語彙の小説や日記・掲示板の内容から判断するに留学生やニューカマーなどではなくて、日本で生まれ育った在日韓国人の方であるようだった。
なんかね、これちょっとびっくりしたんですよ。在日の人もBL書くんだなぁって。
いや、こんなにもアニメや漫画の氾濫する日本社会で生きている以上、日本人だろうが外国人だろうがオタク趣味に染まる人は染まるのが当然だろうし、中にはヤオイや二次創作に興味を持って腐女子や腐男子になる在日コリアンがいるってのも理性では理解しているんだけど。実際目にしてみると、なんかこう、感慨深いものがありましてね。
そうかー、在日のBL好きってのもやっぱりいるもんなんだなー、っていうか他にもいるけど明かしてないんだろうなー、としみじみしてたんですが、途中でふと思い出した。あれ、ちょっと待てよ?よく考えてみれば、数少ないながら今までにも在日韓国人が登場するBLがあったりするし、在日朝鮮人のBL作家というのもいたりするんじゃないの?そういえば私、そういうの読んだことあったような……、と。
というわけで、今回はBLと在日と私というテーマで今まで読んだ作品を振り返ってみようと思う。長いよー。私が以下で言及している作品には18禁のものもありますのでお気をつけください。
倉科るりというペンネームで、商業誌からBLを出版している小説家がいる。正確にはいた、と言うべきかもしれない。著作の中には絶版になっているものも多く、また1996年の『王様の夏休み』を最後に10年以上発刊はしていないようだから。公式サイトにも「倉科るりの商業活動は諸々の事情から不可能だと思います。時間がないのです。」と書いてあるので、今後も商業誌でBL作品を発表する可能性は限りなく低いと思う。
けれど、在日とBLというテーマを語るなら、彼女を外すことはできない。
実はこの作家さんは、コバルト文庫で金蓮花という名義で少女小説も書いている。むしろ金蓮花(きんれんか)というペンネームの方が世間的には通りがいいだろう。私も残念ながら倉科るり名義の本は読んだことがないけれど、金蓮花名義の本は小中学生の頃にわりと読んでいる。『銀葉亭茶話』、『水の都の物語』、『月の系譜』は何度も読み返すくらい好きだった。私が金蓮花=倉科るりというのを知ったのは大学生になってからだったけれど、BL読者やコバルト読者には結構有名な情報だったようで、ネットで検索するとペンネームを使い分けるようになった経緯や、その他もろもろの噂が出てくる。それらの噂がどこまで本当かわからないのでここでは紹介しない。
さて、金蓮花は1962年生まれの在日朝鮮人3世である。東京に生まれ育ち、大学も都内の小平市にある朝鮮大学師範教育学部美術科を卒業した。作家デビューは1994年、『銀葉亭茶話-金剛山綺譚-』で集英社の第23回コバルト・ノベル大賞を受賞したのがきっかけだった。この『銀葉亭茶話』シリーズは、朝鮮半島を舞台に仙人や精霊、竜や虎、人間たちが織り成す恋愛を描いた朝鮮風ファンタジー小説で、仙境にある一軒の茶屋銀葉亭にさまざまな客が訪れ、店主の李月流(り・うぉるりゅ)に身の上話を打ち明ける、という趣向になっている。
『金剛山綺譚』の金剛山は、もちろん朝鮮半島に実在する景勝地金剛山をさす。韓国人や外国人が北朝鮮国内の金剛山観光地区に観光をしに行くニュースを見たことのある人は多いはずだ。『銀葉亭茶話』シリーズの物語に登場する実在の固有名詞は地名だけではない。例えば『蕾姫綺譚』では重要なキャラクターとして李氏朝鮮建国の王李成桂が登場するし、『舞姫打鈴』のヒーローは新羅の英雄金庚信である。
ところで、学校で歴史を習う前に本シリーズを読んだ影響で、私は現在でも「新羅」という単語を見ると反射的に「しらぎ」ではなく「しるら」と読んでしまうし、「李成桂」を見ると「りせいけい」ではなく「りそんげ」と読んでしまう。私にとって、このシリーズこそが生まれて初めて触れた‘朝鮮文化’なのだった。馬鹿な子供だったので現役読者だった小学生の頃は朝鮮半島というのがどこにあるのか知らなかったし(私は当時本気で外国=アメリカであり、世界には日本とアメリカの二国しかないのだと思っていた)、儒教文化だとか在日朝鮮人だとかさっぱり理解できない上に興味もなかったので読み飛ばしていたけれど、雪華(そら)や明蘭(みょんらん)という美しい漢字と不思議な響きの名前、美味しそうなチヂミ、ふわりとチョゴリを広げて鞦韆をこぐ明朗な少女、霊山の天辺に位置する天池(ちょんじ)の聖水……どこか好奇心を刺激する異国のイメージの数々を私は大いに楽しんだのだった。特に金剛山の壮大な瀑布や峰々が鮮やかに染まる絢爛豪華な秋の描写などは、幼心にうっとりするような綺麗な文章だなぁとドキドキしながら読んでいた。金蓮花という作家のおかげで、私は隣国と幸福な出会い方をしたのではないかと思っている。そういう意味で、『銀葉亭茶話』は私にとって印象深いお話なのだった。
金蓮花自身にとっても、作家として第一歩を踏み出したシリーズであると同時に、祖国を舞台にしたロマンスであることを考えれば、『銀葉亭茶話』はやはり特別思い入れの深い作品なんじゃないだろうか。
彼女の著作のあとがきでは、自らのルーツを意識した話題が多い。北朝鮮に観光に行って金剛山の絶景に感動した話、伯母が北朝鮮に帰国した話、親戚が日本と北朝鮮と中国に住んでいるという話、子どもたちの通う朝鮮学校のお祭りのためPTAとして準備に奔走する話など。
そんな彼女がBL小説を書くときは、金蓮花ではなく倉科るりというペンネームを用いた。倉科るり名義の本では特に朝鮮半島と関連のある物語を書いたりはしていないようだ。少女小説のコバルト作家としての自分とをきっちり分けたかったのかもしれないし、儒教を尊ぶ在日コミュニティの価値観からするとさすがにBLを在日朝鮮人と明かしている金蓮花名義で出すのは難しかったのかもしれない。少女小説家としてデビューする際も家族からかなり強硬に反対されたと聞く。少女小説を書いているのがバレて家族会議で土下座までしたそうな。ましてやBLをや。
まぁ、BLを書くときと少女小説やラノベや一般漫画を書くときでペンネームを変えるのはbassoや秋月こお、榎田尤利もやっていることで、金蓮花に限った話ではないけれど、少女小説では在日ネタをふんだんに出していた人がBLではそれを一切出さないというのも興味深い話ではある。
ちなみに金蓮花名義の本に一切男性同士の恋愛や性愛が出てこないか、というとそういうわけでもない。
ここでちょっと萌え語りをさせてもらうと、『銀葉亭茶話』シリーズで私が一番好きなキャラクターは長白君(ちゃんべつくん)だった。彼は、朝鮮半島の付け根、北朝鮮と中国の国境にまたがる山(朝鮮語では白頭山、中国語では長白山)の守護仙人(精霊だったかもしれない)で、シリーズ通してのキーパーソンである李氏(注:男性)に想いを寄せている男性である。李氏に冷たく拒絶されたり、周囲の神仙たちに揶揄されたりしつつも、変わらず李氏に暖かい真心を捧げ続けている好漢なのだ。李氏には他に想い人がいるのでまず間違いなく長白君の恋が成就することはないのだろうが、私は彼の男らしい包容力にときめいたのでぜひ幸せになってもらいたいと思っている。別に相手は李氏じゃなくてもいいから。というか長白君には楓英とか緋鯉の精みたいな豪胆で誠実な男性とか似合うと思うんだよね。
studio may-beを結成して仕事をしている高城響と鷹匠早紀は、BLゲームや乙女ゲームのシナリオライターとして活動している他に、連名でBL小説を書いて出版したり、漫画の原作をしたりしている。音楽業界を舞台にしたBL小説『たぶん、きみが好き』『いつか、翼を広げて』『きっと、空も飛べる』という3冊がマイクロマガジン社から発行されたのは2004年のことだった。この3作は天才指揮者と男性アイドルのカップルを描いたお話なのだが、実は高城響と鷹匠早紀がやっているサイトに長年連載していた大長編小説『KT』を手直しして発表したものだという。
そのサイトの大長編(まだ完結していないらしい)には、脇役として若手の指揮者同士のカップルが登場する。彼らを主人公にした話もサイトには掲載されており、出会いと恋人になるまでを描く『'O sole mio』、体の関係を持つまでに至る続編『hard day's night』、いちゃいちゃらぶらぶしてる『jealous guy』などがある。珍しいことにこのカップルの攻めは在日コリアンである。
『'O sole mio』と『jealous guy』では、攻めが在日であることはストーリーの主軸にはほとんど絡んでこない。民族が違うということよりも同じ夢を抱く音楽家同士であることの方が、この物語の中では圧倒的に比重が大きいのだ。
しかし、『hard day's night』の中ではそれらしいエピソードが挿入されている。演奏会の予定が突如キャンセルされてしまった攻め。晴れがましい仕事を一つ失った原因を、受けに問われた攻めはしぶしぶこう語るのだった。「オレ、在日やん」。BLで、差別に直面する在日の姿が描かれているのは大変珍しい。そもそも在日としてのアイデンティティを持ったキャラクターが登場するBL自体ほとんど見かけないんだけどね。
ところで、この物語の攻めは、大阪出身で関西弁を喋る陽気な男性だ。大らかで人懐っこい。阪神タイガースファン。長身、ガタイが良くて、美男子ではないけれど、受けから見れば十分に魅力的な容貌をしている。そして新進気鋭の指揮者である。実際、読んでいて、彼は魅力的な人物として描かれているように思った。なんとなく関東生まれ関東育ちな自分からすると良い意味で典型的な関西人という印象を受けた。
神経質で繊細、あまり感情表現が得意ではない日本人の受けは、自分と正反対の気質の攻めに惹かれていく。自分にないものを持っている相手を反発心を抱きながらも愛してしまうパターンというのはわりと恋愛物の王道だが、受けが攻めの才能に嫉妬をして苦悩したり、振り切ってもついてくる攻めに苛立ったり、励まされたりと感情をぶつけ合ううちに自分の恋心を認めざるを得ない展開になるというのは微笑ましくて良かった。
BL小説家、檜原まり子の作品の一つに『マリンブルーは密やかに』という小説がある。2008年、講談社X文庫ホワイトハートから発行された。舞台はアジア・オセアニアクルーズ中の豪華客船。そこに乗り込んだ保険会社から委託を受けた調査員の受けと、元自衛官の攻めのラブストーリーだ。
正直なところ、この物語の一番興味深いところは、ストーリーなどよりも受けの両親だと思う。
受けの母親は日本人の医師だった。そして父親は在日韓国人の寿司職人。両親が渡米して、一家がカリフォルニアにいたとき受けは生まれた。医師免許が認められなかった母親は畑違いの仕事をして受けを育ててくれたらしい。後に離婚したようだが、受けの両親の話こそ読んでみたいと思った。寿司職人と女医さん夫婦米国滞在記なんていろいろ波乱万丈なドラマがあって面白そうじゃん。
というわけで、本作の受けは間違いなく在日韓国人の血をひいているのだが、特に在日とか韓国に関するエピソードは出てこない。受けが韓国語を喋ったりキムチを食べるシーンがあるわけでもない。彼が民族的なコミュニティや朝鮮半島に思いを巡らすシーンがあるわけでもない。冒頭、地の文でさらりと受けの生い立ちが説明されているだけで、その後はとくに彼が韓国系であることには触れないまま物語は終わるのだ。
なら別に受けが在日の血を引くキャラクターである意味ってないのでは?と思わないでもないけれど、まぁ深い意味がなきゃ在日がBLに出てはいけないってこともないし、これはこれでいいのかもしれない。なんと言ってもこの作品の舞台はいろいろな国籍のクルーが働く豪華客船なのだから。南太平洋を悠々と航海する船上のキャラクターにちょっとしたマージナルな要素を付与したいと作者が思うのもわかる気がする。船長の喜屋武も、受けと同様にマージナルな人物である。米軍勤務の軍人を父に持つ沖縄出身の男性で、金髪碧眼という日本人離れした容姿だが自らを日本人だと主張する。とても珍しい韓国系の受けや、沖縄と米軍というデリケートなバックグラウンドを持つキャラクターが登場するという点において、このお話はなかなか印象深かった。
『うつしみの花』は、幻冬舎リンクスロマンスから2008年に出版された全2巻のBL漫画である。作者はタカヒサ亨。舞台は飛鳥時代の日本で、有名どころでは葛城皇子(中大兄皇子)、皇極天皇、間人皇女などが登場する歴史ロマンBLである。ちなみに中大兄皇子と受けがキスする場面もあったりする。
主人公(受け)は、百済からの渡来人で金工職人である実父を持つ美少年。攻めは、受けの父親の弟弟子で、乃楽山(ならやま)の麓に住む百済系渡来人であり以前は都随一と呼ばれた腕を持つ金工職人だった。受けが攻めの弟子となるので職人師弟ものBLであると同時に、渡来人と渡来人の子孫が出会って恋に落ちる物語なのである。
職人の村で修行をする受けは、師匠であり恋人である攻め以外の渡来系の職人たちとも交流を持つようになり、技術を磨いていく。いつか攻めの故郷である百済に帰還することを夢見るようになるし、自分たちの存在は発展させ続けていく技術に拠って立つのだという強い自負心を持つに至る。彼らのアイデンティティは明確に百済系渡来人であることにあり、ヤマトにはないんだなーと読んでいて思った。
日本が舞台なのにあえて渡来人のカップルを描くなんて随分通好み(?)だなと思う。こういうのは珍しくて面白い試みだ。同時に、ちょっと私の中の日本人としての感覚が一抹の寂しさというか疎外感を感じなくもなかったような……。この記事のテーマである在日と古代日本の渡来人はちょっと違う存在なのでこの作品には簡単に触れるだけにとどめるけれど、思いがけずヤオイを読んでいて自らのナショナリズムが浮上したという点で本作は印象深い作品だった。私が気にしすぎなだけだけなんだろうけれどさ。
もちろん、健気で頑張り屋な受けとクールで格好良い攻めは萌えたし楽しめた。
ところで、作者のタカヒサ亨は、角髪(みずら)に萌えてこのお話を描いたらしい。わかるわー私もみずら萌えです。特に青年の下げみずら姿は可愛くて良い。不評でなかなか描かせてもらえなかったとのことだが、残念だ。もっと見たかったよー。
ハテブやツイッター、増田2ちゃんねるでコメント下さった方ありがとう。せっかくだし嬉しかったので、いくつかのコメントにお返事します。
恐縮です。ありがとう。
自分のブログではこういう記事を出したことがないのでうまく書けるかわからなかったし、書いたとしてもこの記事だけ場違い感がぷんぷんして浮き上がってしまうだろうと考え増田にしました。悲しいことですが、BLも在日も荒れやすい話題ですから。
私は金蓮花の初期の作品が好きでここ7~8年の著作は読んでないのですが、作品だけじゃなくて作家自身も本当に興味深いなと思ってその動向は注目しています。ラノベ界でも稀な在日外国人であることを明かしている作家さんですよね。まして日本と関係が良好でない国を祖国に持つ人ですから、日本社会で生きる彼女自身、悲しみや自負心を含め複雑な感情はあったんじゃないかなと想像しています。日朝首脳会談が開かれ拉致問題が発覚した2002年、この年に発売された『伽椰琴打鈴』を最後に、彼女の著作の中で一番‘朝鮮’を押し出している銀葉亭茶話シリーズが発行されていないというのは、偶然かもしれないけれどなんとなく象徴的に見えたり……。
確かに文化が違う、価値観や倫理観が異なっている、と強く感じる点はいくつかありましたね。面白いなと好ましく思う相違もあれば、モヤモヤする思いを抱える相違もありました。私の場合、女性の描かれ方や女性の置かれた立場というのが結構気になりました。『蝶々姫綺譚』で、女性が子を成さずに死ぬのは罪である、罰として死後の世界で償わなければならないという設定には、儒教をベースにしたファンタジーだとこうなっちゃうのか、とびっくりしたなぁ。日本や日本よりフェミニズムの強い欧米発のファンタジーじゃそういう設定ってないでしょう。まぁ、当時の価値観を反映させた設定であることが良いという考えもあるとは思いますが、現代女性としてはファンタジーとはいえその世界の女性は生き辛そうだなという感じたのも事実でした。
ネットで読める作品もるし書店や図書館に置いてある作品もあります。個人的に、興味や関心の度合いが在日>BLという人よりは、BL>在日の人の方が楽しめるとは思いますが。
全然関係ないけど、最近アメリカのスラッシュが翻訳されて日本の書店の店頭に並び始めましたよね。日本語で海外スラッシュが読める日が来ようとは思わなかった。嬉しい。
皆さんがどなたをイメージしているのか興味あるなー。私は弱小ブログを書いてますが、Twitterはやっていないんですよ。
韓国人は日本人よりも情熱的、確かにそういうイメージありますよね。こんな記事書いといて言うのもなんですが、家族友人知人に韓国人や在日の人っていないんで実際そうなのかはよく知らないけれど。
確かに作品が面白ければ作家は関係ないというのは仰る通り。私も普段は書き手には興味がないんですが、今回は冒頭で書いた某サイトにはなんだか妙に感慨深くなってしまいまして。
創作の中のマイノリティ、本当に興味深いですよね。読み専なので創作の苦しみは知らないのですが、創作物にマイノリティを登場させる際書き手さんはやっぱり慎重になるんだろうなぁ。セクシュアル・マイノリティが登場するBLは殊にそういう姿勢を求められているジャンルですし。常に政治的に正しいお行儀のよいBLである必要はないと思うけれど、読者が引くような差別的な描写が垂れ流しにされてるBLは読みたくないと思います。私はまだガチでがっつり民族問題を盛り込んだBLというのは読んだことがありません。今後もそんな作品は出ないんじゃないかなと思うし、たとえ出版されたとしても読みたいとは思わないかも、と考えています。娯楽作品には悲惨な差別とか貧困とかの要素は求めていない性質で、どちらかというとイチャイチャ、ドキドキ、ワクワク、エロエロ、アマアマ、ラブラブって感じのノリの方が好きなんですよ。なのでフレーバー的な登場のさせ方や特筆されるような描写がなくても私はOKなんですが、作家がまったくその問題の背景に無知ではキャラクターの魅力的な属性にはできないわけですしね。作家は10調べたことのうち1を書く(100調べたことのうち1を書く、だったかもしれない)と聞いたことがあります。BLを愛する者の一人として、そういうBL作家さんが今まで以上にたくさん出てくれるといいなぁと願っています。