はてなキーワード: ゴダイとは
最初に断っておきますが当時の従軍慰安婦制度は立派な人権侵害であり「彼女たちは単なる売春婦、人権問題があったとしても当時は当たり前だから何も日本は悪くない」などと主張する方には聞いておりませんので来ないでね。
あれって、慰安婦に対する認識の違い、保障が適切だったか、そのような人権侵害を繰り返さないようにする為の取り組みとして適切か、など色々な部分で論点がごちゃっとあるわけですが、その中でも個人的に「慰安婦像をアメリカの地方都市にいくつも建てる事は適切な取り組みだろうか」という点に関して、『はてサ』の皆さんの考えがどうにも読み取れないのが気になっていました。
私は慰安婦像自体、ゆかりの地に建てるのは構わないと思うんですよ。
でもそうではないところに建てる、それも次々に建てる、って話になるとどうしても違和感を拭いきれない。
かと言って明確にダメって理由もないんだけど、そうするともし仮に、「原爆の碑を~」「天安門の悲劇を彫像にして~」「ゴダイ・ダイヴィンの~」悲劇を教訓にする為、アメリカの地方都市に碑をどんどん建てようって話になった時に、次々建てざるをえなくなりません?
像を建てる大義みたいなものが弱い気がして、どうにも、それはやり過ぎだろう、と思ってしまうんですよ。
そして、やり過ぎなのにそれを推し進める行為を見てしまうと、そこから「体の良い問題を旗印にして、イデオロギーでも優位に立とう」としているのではないか勘ぐってしまい、そこから私の中で韓国に対する反発心が生まれてしまってたりします。
そうは言っても日本は加害者なんだから・・・という意見もありましょうが、現在の大半の日本人も韓国人も加害者でも被害者でもないので、平等な立場で問題を解決するべきだと思うんですよね。
だから、やり過ぎだと思ったらそれはきちんと言うべきだし、逆に韓国人が「俺達は被害者だ」と意識的優位に立とうとする態度をとったとしても、それは違うんじゃないか。
像をあっちこっちに建てるような方法でどんどん圧力をかけて(そういうやり方が単に得意なのかもしれないけど)相手を打ち負かすような方向性でなく、もっと別のアプローチでお互い解決していきましょうよ、って姿勢を相手にも望みたいなーと愚生は思っております。
前置きは長くなりましたが、「はてサの皆さん、慰安婦像をアメリカの地方都市に建てる行為そのものにつて、そこんとこ実際どう思ってるの?」って質問で、初増田させてもらいます。
『はてサ』と言ってもとても曖昧なものなので、もう少し具体的に言うと「熱心にテキサス親父やネトウヨを批判している方々」の意見を聞きたいです。