はてなキーワード: 理解力とは
留年して,モラハラ人間のいる学年を抜けた.モラハラ人間のいる部活もやめた.
抜けてやめて気づいた.モラハラ人間のいる集団は,知性のレベルが低くなる.複雑なものを理解する努力はしたくない,諸説ある状況は嫌でわかりやすい結論がほしい,自分にも原因があるとは考えたくなくて全て他者のせいにしたい,というのは人間の自然な欲望だ.だけど普段は向上心によってこれらの欲望を抑制している.
そこにモラハラ人間がすり寄ってくる.複雑なものなんか理解しなくて良い,「意味がわからない」の一言で拒絶して良い,悪いのは我々じゃなくてあいつらだ,とささやいてくれる.諸説を否定してわかりやすい一面的な結論を提供してくれる.人々はここに安心を得る.こうすることで,モラハラ人間はその集団から向上心・理解力・知性を追い払ってゆく.
僕もストリーミングで全てを拝見した1人だ。
彼の尖った人生において学びを得ていく話は確かに興味深くどれもが深く共感できるものだった。
ただ話を聞き終えて尚、彼がもう一皮むけるためには、一つ、まだまだ深い呪いが残っているような気がしてならなかった。
過去、彼とは何度も直接あったことがある。
話をしたこともあれば対戦をしたこともあり、ほとんどは運とは言え少ないながら勝利したこともある。
それは彼がまだ無名だった頃から世界に名前を轟かせる少し前くらいまでの時期の話だ。
つまり僕は、彼がゲームセンターに自らの居場所を発見するに至った要因である大人たちの1人というわけだ。
とは言え、おそらく彼は僕の名前はおろか存在すら覚えていないだろう。
なぜなら、彼の周りにそれだけ多くの人間が存在したということでもあるし、それ以上に、彼は人というものに全くと言っていいほど興味を示さなかったからだ。
彼が常に見ていたのは、彼の回りにいる人間の人やなりではなく、その人が操るキャラクターであり勝負の中身であり勝つための手段だったのだ。
講義の中で、大人たちがゲームセンターを危険な場所と言っていた理由を、彼は子どもたちから面白いものを遠ざけるためと語っていた。
なぜなら、僕がゲームセンターに行き始めた頃は、確かにそこは危険な場所だったからだ。
昼夜問わずに不良やチンピラたちがたむろし、こどもはもちろん、大人だって迂闊には近寄れない場所だった。
僕自身だって何度も怖い目に遭ったし、カツアゲなんてものは日常的なことだった。
ゲームに使う以外のお金や貴重品を持っていかないことは当たり前の自衛手段だった。
しかし、そうまでしてそこに行くったのは、やはりそこに面白いゲームがあることを知っていたからだ。
だからゲームセンターを居心地の良い場所に変えようと、さらに大人たちと協力しあって安全なゲームセンターを作り上げるための努力をした。
入口を作り変え、照明を明るくし、見通しを良くして死角をなくし、それでも尚入り込んでくる悪意と正面から向き合って戦ったのだ。
ゲームが好きで、そんなゲームを誰に邪魔されるでもなく心ゆくまで楽しみたい。
そんな一心で戦い続けた大人たちだからこそ、ゲームを好きだといって入ってくる子どもたちを大切にしたいと願ったし、そんな子どもたちに自分の意見を持てと教えるのは当然のことだといっていいだろう。
対戦格闘ゲームブームが訪れた裏には、ただそのゲームが面白かったからという理由以上に、それまでにゲームセンターをゲームを愛する人間のために取り戻した大人たちの努力があったという事実が隠れているのだ。
ただ、そんなことを押し付けたいがためにこの文章を書いているわけではない。
でも君は、こういった事実を聞いてもただ「ふーん」と言って聞き流すだろう。(今は分からないが、少なくとも当時の君だったなら間違いなくそうしていただろう。)
君の講義の中で気になったこと、それは、君の親御さんからの教えの一つである「人に迷惑をかけるな」という言葉だ。
確かにそれは考え方としては立派なことだ。
でも君は、人に迷惑をかけなければ何をしてもよいと思ってはいないだろうか。
ならば聞くが、君が人に迷惑をかけていないと思う行動は、本当に誰にも迷惑をかけていないのだろうか。
それとも、自分さえ迷惑をかけていないと思うのであれば、相手が迷惑と思うのは勝手なことだと考えてはいないだろうか。
言うまでもなくそれは間違っていることだ。
なぜなら、人は生きていく以上、必ず誰かに迷惑をかけ続けるものだからだ。
そしてその教えが本当に正しいことだとしたなら、人に迷惑をかけているかもしれないという理解力ある人間より、人に迷惑をかけている自覚の無い厚かましい人間ばかりが幅を利かせる世界になってしまう。
事実、今の世の中はそういう人間が強く、理解力のある優しい人間ばかりが肩身の狭い思いを強いられているのだ。
君は確かにゲームが強かった。
しかし、強すぎたのだ。
その強さが誰よりも苦労した結果に得られたものである以上、その強さを誰も否定することができなかった。
だから、君に勝てないことでゲームを辞めてしまう人間が数多く生み出されることになった。
君はそれを自己責任だとばっさりと切り捨てるだろう。
他でもない君の一言だからこそ、それに反論できる人間は誰一人としていないのも事実だ。
でもね、一言言わせてもらえるなら、ゲームセンターをゲーム好きのために苦労して取り戻した大人たちにしてみれば、それは迷惑だったんだ。
目の前でゲームを嫌いになる人間が生まれる瞬間を見てしまうことは、そんな大人たちにしてみれば何よりも辛く悲しいことなんだよ。
それをあえて口にしないのも、大人たちは人間が生きていれば迷惑をかけてしまう存在だということを知っているからだ。
だから、「人に迷惑をかけるな」という教育は、考えとしては立派だけど、教えとしては間違っている。
それは、「人に迷惑をかけていることに日々感謝を忘れてはいけない」ということだ。
人に迷惑をかけるより、迷惑をかけていることを自覚しないことのほうが罪だ。
もし君がそのことを少しでも理解してくれたなら、これからもプロとして、世界中のゲーム好きが憧れる存在でい続けて欲しい。
それがゲームが好きでたまらなかった大人たちに対する、一番の恩返しになるのだから。
【インタビュー】字幕翻訳者・戸田奈津子さん「エッ?と思う字幕は、どこかおかしいの」
https://www.buzzfeed.com/eimiyamamitsu/interview-with-natsuko-toda?utm_term=.bhpJ8y62dK#.pf3GDwzR2e
を読んだ。全体的には一方的な自己弁護を垂れ流すだけの提灯記事だが、インタビューという性質上これは仕方のないことなのだろう。この記事の良い点は、戸田奈津子という人の見当違いな自己顕示欲を浮き彫りにしているところだ。
「叩く扉もなかった」字幕翻訳という仕事に、その道の第一人者に直接食らいつくようにして取り組んでいった前半生は感動的でさえあるし尊敬もしよう。しかし一人前として仕事を任され、一定の地歩を固めつつあった頃には、質的な研鑽よりも量的なアピールに重きを置く仕事ぶりだったことがよく分かる。
それは時代というか当時の映画産業の要請でもあって、戸田個人に責任を帰すことも出来ないだろうが、何度も立ち止まるチャンスが有ったにも関わらず、過剰な自信に満ちた「職人魂」みたいなもので自分を虚飾したい一心で、本質的には作品に奉仕するべき字幕翻訳者のあり方を歪めた自己像を描出し、直そうともしなかった。それがこのインタビュー記事で表現されている「字幕翻訳の女王」の実態だ。彼女はことあるごとに「文字数は自由だし調べ物にもゆっくり時間をかけられる文芸翻訳とはわけが違うのよ」式の言い訳(師匠の発言の一部を都合よく切り取ったものだ)をして、質を犠牲にしてることを棚に上げて早業自慢を繰り返すが、この記事もまさにその例を一歩も出ていない。ほとんど馬鹿の一つ覚えだ。
せっかく日本一名の売れた字幕翻訳者になったんだから、個人の早業を自慢するよりも、字幕の質的向上のために制作・配給側が用意する時間や予算の拡充をアピールするのが筋なんじゃないのか? と私などは思うのだが、そんなことは自己否定になりかねないのでできない。映画や観客より自分が大事だからだ。徹底して裏方仕事に向いてない性格なのに(だからこそ喰らいついていけたとも言えるが)、なぜか字幕翻訳者になっちゃった人で、その上根っからのダンピング体質なんである。広く「第一人者」と呼ばれるものの最悪の事例として歴史に記録されるに値する人物だろう。
戸田字幕の具体的な問題点については、今ではある種のネットミームと化していて、山のように検証を綴ったページがヒットするので、ここでいちいちあげつらうことはしないが、この記事を読んでそれらガッカリ字幕の根本的な原因を確信できた気がする。戸田奈津子自身の映画作品に対する理解力が低いのだ……というのはあまりにも失礼なので、観客(想定読者)の理解力を低く見積もりすぎ、と留保つきで言うべきなのかもしれないが、とにかく画面に映っているものや脚本に対する読解力が低い翻訳をしてしまっている。軍事用語や「指輪物語」の専門用語に通じてないせいで勝手流に造語しちゃうみたいなことは、専門の監修者をつければ(それさえ不服のようですが)済むことだが、理解が浅いまま手癖で字幕をつける悪癖についてはせめて直そうとする姿を見せてほしいと思う。
どんな作品であれ受け手によって読み出せる情報量は変わるものだが、戸田字幕はその理解力の設定が最小限になってるみたいな字幕なのだ。そんなとこを端折ってしまったら、まるで子供の頃に見た「大人の映画」のように途中で筋が追えなくなるだろうな、と思うことさえある。一通りセリフが聞き取れるとか、背景知識も揃っているような人間が見ると「エッ?」となるような訳を乱発してしまっているのである。これは映画字幕という表現媒体そのものの制約なのだろうか? 単に投下すべきコスト(時間と人員)をケチってるだけじゃないのか? なにしろ理解力が乏しいゆえにかえって回りくどい表現をして、大切な字数を浪費している例さえあるのだ。単にこなした本数が多いから下振れが記録されているだけと擁護することも出来るが、それを言うとかえって早業自慢の露悪性が強調されるというものである。
そして戸田字幕に感じる理解力の低さ、雑さの遠因が、このインタビューでは明らかにされている。ただの映画ファンとして、「作品のファン」としての経験を積まずに映画を見まくった原体験が、映画を十分理解せずに、ざっくりと筋がわかれば(たまにそれにも失敗する)いい、という仕事を次々とこなすことを良しとする「映画字幕の女王」を産んだのだ。それは映画というものの立ち位置が変わってしまった現在には全くそぐわない態度であると私は思う。
多くの人が週末には何かしらの映画を見て、学生なんかは金の続く限り映画館に入り浸って、それ自体が楽しみで、何度かに一回面白いものがあったら儲けもの、といった時代はとっくに過ぎ去った。多少荒っぽい仕事があっても、「まぁそんなこともある」と納得してすぐにまた映画館に足を運んでくれる観客は絶滅危惧種と言っていい状況で、「とりあえず筋の追えるものを今週中に」みたいな品質でつけられた字幕を使う理由はほとんどないと言って良いんじゃあるまいか。なにもタコツボ化したマニアだけが字幕翻訳者の理解不足を責めているのではない。字幕でスクリプトの情報量を100%伝えろという不可能を要求しているのでもない(そんなことを言ったら、原語が完全に理解できても伝わらない部分は常にある)。娯楽が多様化する中で、金と時間を使うに値する丁寧な仕事で競争できているかが問題なのだ。
そもそも多くの映画は長い時間をかけて作られるものだ。製作に着手してから数年かかることはザラだし、驚くべき短期間で撮影が終わったというような作品でも、原作を読み込んで脚本化するのに何十年もかけていることだってある。そしてそれを待つファンも何十年越しで待っていることだってある。それだけの労力と期待を集めて公開される作品の最後の工程に、パッと見の印象を伝えるので精一杯みたいな字幕がついていて良いのだろうか? 日本人の英語力の向上には役立つかもしれないが、自分で聞き取れるようになったからといって問題が無くなるわけではない。「自分は内容がわかっても、あまりにも作品に無理解な字幕がつけられていることに耐えられない」という作品のファンの心理を考慮せずに仕事を続けることは、今や娯楽の王座から落ちて、比較的嗜好性の強いものになった洋画のファンには悪印象しか与えない。それに洋画ファンだけの問題でもない。どんなジャンルの仕事であっても、雑な仕事というのはそれに初めて触れる者に「なんとなく面白くないな」という印象を与えてしまうものである。それを防ぐために必要なのは、十分な準備期間と作業時間を用意することによって得られる翻訳者の深い作品理解だ。翻訳者に十分な時間とリソースが与えられ、一つの作品に使える労力を拡大することのほうが誰にとっても良いことなのではないか? すべての原因を「文字数の制約」や「納期の短さ」に帰することが出来るという甘ったれた足かせを自慢できればそれでいいのか?
戸田字幕の映画理解力の低さが、意図的に設定されているものではないと疑う理由がもう一つある。戸田は字幕翻訳が単独作業である理由として、「セリフの言い回しやリズムを統一するのに余計な時間がかか」るということを挙げている。そんなことを言っていたら、作中でセリフの言い回しやリズムを敢えて変えることで、登場人物の心理的変化や場面転換を表現する映画は原理的に字幕に乗らないことになる。これほど馬鹿な話はない。「こいつは最終的に悪ものになるやつだから、最初は丁寧にしゃべってても荒い口調で統一しとくのが親切」みたいな字幕が付けられた映画を、誰が見たいだろうか? 一つ一つの映画作品の性質をよく理解しないまま、ちぎっては投げみたいな仕事を続けてきたせいで、どんな映画も同じような構図に当てはまるよう訳すのが当たり前になってしまっているからこそ、セリフの統一感があることが「透明な字幕」の必要条件だという勘違いを起こしてしまうのだろう。映画が転調したときには字幕も転調するのが「透明な字幕」で、そのためには複数の視点が必要になることだってある。脚本や演出の意図を読み違ったまま、理解をし損なうことは避けられないからだ。いつまでも「一人の字幕翻訳者が短い期間で理解できた範囲」としての映画字幕が作られ続ける状況を肯定することは、この人の取るべき道ではない。それは決して映画のためにはならない。
「ロード・オブ・ザ・リング」の第二作以降は、原作の翻訳者がスクリプトの全訳を事前に行った上で、それを参照して戸田が字幕を作成し、改めてチェックを受けるという体制が敷かれたようだ(インタビューではその経緯をまるっきり無視していて、結果的に監修者の仕事を貶める傍若無人ぶりが表れている)が、これに似たことが常識的に行われるように働きかけしているんですよ、といった風のアピールをするほうが、「第一人者」としての尊敬を集めるのではなかろうかと私は思う。
現在の洋画の年間公開本数は80年代末以来の第二のピークを迎えている一方、戸田の仕事は当時の1/5近くまで減っている。文芸関係に限って言えば50歳ごろに確立した仕事のペースを守っている80歳なんていくらでもいるので、年齢のせいばかりでもないだろう。その事自体、戸田が翻訳者の待遇改善に取り組んだことの証左だと弁護することも出来るかもしれないし、実際にセリフを聞き取りながら見て「ここをこうやってまとめるのか、上手いなぁ」と思える翻訳者が増えてはいるので、まぁ戸田奈津子の問題ある訳というのも、そろそろ過去の話だよね……と最近は思っていたのだが、私はこのインタビューを読んで気が変わってしまった。やはり早いとこ全面的に後進に道を譲って、ご自身は字幕翻訳の質的向上のために翻訳者の待遇を改善する言論を起こされるなどしたらいかがだろうか。それが名の売れたものの使命と思ってはもらえまいか。いい年してよいしょインタビューに答えて、自分の大ポカで迷惑をかけた監修者の名誉を傷つけるような非道い言い訳を垂れ流している場合ではない。
今さら早業自慢を封じられるのは、自己認識からすれば転向に映るかもしれない。ひょっとしたら一気に老け込んじゃうかもしれない。しかし、昔よりずっと観客同士の横のつながりが強くかつ広範囲で、作品についての情報も手に入れやすい今だからこそ、字幕翻訳に要求される水準が上がっていることを認識し、それに適切に対応するように送り手たちに働きかけをする姿は、映画ファンの心に強い印象を残すはずだ。個人的な快刀乱麻の仕事ぶりを自慢するのはもうやめて、業界全体で作品の質に貢献する、充実した作業環境を残せるよう声を上げる好機なのではないか。それでこそ「字幕翻訳の女王」としての尊敬を集められるのではないか。今のままではせいぜい良くて「時代の徒花」といったところである。
妻の耳が遠い。妻の母親も遠いので、おそらく遺伝的なものもあるだろう。
日常生活では普通に聞こえるので病院に行ったりするレベルではないと思うので、病名なんかはついてない。
生活音がデカい。扉ドカンとしめたり、くしゃみの音量をまったく絞らなかったり。
当然声もデカい。
それを指摘しても、「そんなことないよ」とか「TV見てたから」とか色々言い訳して全く行動を変えようとしない。
普通に会話してたり、映画みてたりして「今のどういう意味?」と聞かれることも多い。
たまにならいいよ、でも毎日だ。俺との会話だけならまだしも、ドラマとか見てたらしょっちゅうだ。
同じような人、もしいたらどうしてる?どうしたら平穏に暮らせる?
助けてほしい。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1611/21/news096.html
人工知能のニュースで逆に人間の方の理解力の低さが浮き彫りになったっていうのがあってそんな馬鹿なとは思っていたんだけど。
文章や発表の趣旨をくみ取ってそれが何を表すのか何のためのものなのかを理解できない人がここまで広く存在するとは。
いや驚いたのはこれ。
http://blog.livedoor.jp/itsoku/archives/50239533.html
前からデータの恣意的表現に対する異常な反応は気になっていたがここまでだったかと思ったね。
番組本編を見ればわかるけどこれ、全然データの目盛の取り方と説明におかしな相違がないんだよね。
池上彰が説明してるのは格差が広がっている原因としてアメリカでは富裕層がさらに富を増やし続けるという傾向があり、一方日本では下位90%の所得が下がり続けている、という趣旨だ。
つまり縦軸の目盛が二つのグラフで違っているということが結論に対して何の悪影響も及ぼしていない。
それなのに
目盛の幅が二つの図でちがう。→ミスリードだ!子供だましのトリックだ!
と騒ぎ立ててしまう残念な連中。
先進国に生まれ、21世紀を生きる人間がこれじゃああまりにもだな。
ああ、ちなみにこれ見てはてなをチェックしてる連中はましだと思ったわ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/itsoku/archives/50239533.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.jgnn.net/ls/2016/12/post-14336.html
流石に金寄越せとは言わんけど「一緒に遊ぼうぜ―」とはなれないな。
「菌」と口にだすことすらせずそっと避けて暮らすと思うし給食の時はそいつから距離離して座ると思う。
道徳の授業でエイズ持ちの子供ともお互いに血を出したり唾を飛ばし合わなければ安全に遊べるよピース!みたいな写真が載っていたのを見て「でもお互いに血を流してたら危ないんだろ…一生棒に振るかも知れないのに一緒に楽しく遊べとか無理だわ…」と考えた事を思い出す。その授業の感想文では適当にごまかして皆仲良しピース!と書いておいたけど本心はエイズマンと一緒に遊べるかよばーかだった。
暴力は悪だ。
恐喝は悪だ。
だけど放射能を垂れ流していると噂をされている子供とも仲良くしろと子供に説明するのは簡単じゃない。よっぽど優秀な教師じゃないと出来ないと思うし、子供も理解力がないと無理だろう。そもそもちゃんとした知識を持った大人が今どれだけいるのだろうか。
ボスとうまくやれない。
仕事は士業。
仕事に対する意欲はあった。なんでも挑戦したいと思っていたし、経験を積みたいと思ってた。
でも、就職して、ボスとうまくいかなくてっていうか、私が一方的にストレスを感じて、プライベートでもいろんなことが重なって体調崩して休職した。情けないけど。
私とボスの間には誰もいない。
だから、相談できる人もいなくて、私ははじめての社会人だったし社会常識もないし、私の心が弱すぎるのかぼすがちょっとおかしいのかわからなかった。
ボスは、悪い人じゃない。いい人。
たとえば、事務員(20代半ばの女性)にBMI値を平然と聞いてしまったりする。私に対して「あなたにはわからないだろうけど、美人っていうのは苦労するんだよ」とか言って来たりする。美人じゃないのはわかってるけど、やっぱり傷つく。
漠然としてる。
わからないでやるより、マシかなって思ってた。
けど、ボスはせっかちで、説明するのが面倒くさいらしくて、質問に答えてる最中に
「あー、もういいや。自分でやった方が早い。」と言って、私に任せるのをやめてしまう。
私が質問したのが悪かったのだろうか?
ボスには言わないけど、お歳のせいもあるのか、うまく言葉が出てこないのか、ボスの説明はボスが知っている事実を私も知っていることを前提に話してきたりして、結構分かりにくい。
知識不足なら私のせいだけど、ボスが打ち合わせでお客さんから聞いた情報とか、私が知りようもない事実を前提に説明したりする。
なので、わかるまで聞き返す。
最初は理解力のない自分が情けないと思ったし、遠慮もあって聞けなかったけど、それで一度ミスをしたのでわかるまで聞くことにした。
そしたら、「もういいや、自分で~」という流れになって、任される仕事が減っていった。
どうしたらいいのか、わからなかった。
前任者は仕事が雑だったからほとんど仕事を任さなくなって最終的に契約更新せずに切った、という愚痴を何度も聞かされていたが、前任者が雑、というより最低限の仕事しかしなかったのも無理ないと思った。
でも、その話を聞いていたから、任される仕事が減っていったとき、すごく不安になった。
期限ギリギリになって、間に合わなくなって、私に仕事を回してくることが多かった。
しかも、帰り際に「明日までによろしく」と資料を渡されることもあった。
締め切り前のボスは遅くまで帰らない。
夜の8時とか9時で仕事してたりする。
たまに週に一度ぐらい早く帰る。7時過ぎぐらい。
新人は誰よりも多く経験を積んで仕事をすべき、と思っているのかもしれない。
私が先に帰る日が続くと、「お先に失礼します」の挨拶を無視されることもあった。
なので、仕事が減って、やることがなくなっても、することもなく職場にずっと残ってた。(もともと残業代はでない職種)
それも新人の仕事だし、円滑な関係を築くのも仕事だし、と思って最初は何も思ってなかった。
けど、私は体力がなくて、そのうち、何も仕事がないのに職場に残ることに疲れてしまった。
年齢のせいもあるし、性別のせいもあるのだろうが、価値観があわないこともよくあった。
仕事は計画的に前倒しして早く終わらせるのがいいという私の考えと、ボスの考えは違った。
期限より早く書類を提出すると「手抜き」だと言われた。どこが「手抜き」だったのかは、教えてもらえなかった。
なので、時間をかけて仕事をするようにしたら、今度は「遅い」と言われた。加減がわからなかった。
ボスに雇われている以上「ボスの価値観」で働くのが正解だと私は思っていた。
だから、内心の葛藤はあったけど、雇われの身で、私は新人で、ボスに合わせるべきだと思った。
他にも色々とボスの価値観と合わないことがたくさんあったり、自分が言ったことを忘れたり、言葉足らずなことがよくあった。
愚痴を聞くのも仕事のうちだと思って最初は聞いていた。けど、話を聞けば聞くほど、心が荒んでいくのでやめてほしかった。
早く帰ってしまうだの、事務所にあまりいないだの、仕事が雑だの、色々と。
「私はそうなったらクビだ」という遠回しな忠告 だと思うと同時に、裏で私も何を言われているかわからない……と、ボスが怖くなっていった。
どんどんボスと会話するのを避けるようになった。
私の心が弱く、「仕事だから」と割りきれず、必要なことも聞けなくなっていった気がする。
そんな頃、
はじめてことで、すごく嬉しかった。
自分なりに頑張ったし、お客さんとも話を進めていった。
私なりに、たまに報告もしていた。
取引先から別のオファーがあり、手に入る金額は下がるだけど早く進行できるというメリットがある内容だった。
夜だけどいち早くお客さんに伝えた方がいいと思って電話でお客さんにその事を伝えると、お客さんがそのオファーを受けてもいいと言った。
翌日、その事をボスに話すと
「なんでそんな重要なこと、俺に相談せずにそんなこと決めちゃったの?電話でそんなこと決めるとかあり得ないでしょ。」
と言われた。
ボスは決して怒鳴りも怒りもしなかったけど、明らかにイラついた口調だった。
私が決めた、というより、お客さんに報告したらお客さんがそれでいいと言ったのだ……私はどうすればよかったのだ?と、すでに泣きそうになっていて言葉がでなくて「すみません」としか言葉が出てこなかった。
私の報告ミスもあったと思う。私が悪い部分もたくさんあったとは思う。
でも、どんどんボスとコミュニケーションをとるのを避けるようになった。
でも、ここに書いたこと以外にもいろんなすれ違いやわからないことがたまってきていて、
もうボスが私に何を求めていて、何をすべきだったのか、わからなかった。
悪い人じゃない。
せっかちで、気が利かないけど、いいところもたくさんあるのだ。
理不尽なこともたくさんあるし、不機嫌になるけど、理不尽に怒鳴ったりはしない。
新人を育てる気もなくて、
質問すると不機嫌になって、
本人には注意しないけど陰ではいろんな不満を他の社員に漏らしていて、
私も何か言われているのではないか……と、
仕事を振られるのが、怖い。
質問するのが、怖い。
早く帰るのが、怖い。
そしてなにより、怖いがゆえに、ボスに質問したりすることを後回しにしてしまう自分が情けなくて罪悪感でいっぱいだった。
人目はあまり気にしない性格だったので、こんなことはほとんどはじめての経験だった。
精神的に疲労してしまったけど、早く帰って休むこともできなくて、誰にも相談できなくて。
そのすぐあと、プライベートで不幸なことが重なって、私は体調を崩して、そのまま休職した。就職して一年も経っていなかった。
申し訳なさでいっぱいだった。
仕事には、戻りたい。
私にも改善すべき点はたくさんあった。
報連相を怠って、逃げた私が悪い。
そう思ってる。
ただ、立ち向かえない私が弱いだけ。
ちょっと注意されたり、不機嫌になるからといって、コミュニケーションをとるのを避けた私が悪い。
でも、正直、どうボスと接すればいいのかがわからないし、戻ることを思うと吐きそうになる。
直接「ダメだ」と言われた訳じゃないのだし、
顔色をうかがわずに気にしないでいるのが正解なんだと思うけど、
「気にしない」でいられる方法があるなら、やってるよ、と思う。
あー、情けない。
自分は不器用なせいかグラフの手書きが致命的に遅かったので、2年前期の実験で危機感を感じた自分は2年の夏休み中にpythonを覚え、今まで苦労していたグラフのプロットなどをパソコン上で全部自動化しようと考えた。日本語の情報が少ないため(あっても多少古かったりすることが多かった)、情報をかき集めるのに相当苦労したが、夏休みが終わるころにはjupyter notebook(名前通りノートブックのような実行環境でセルごとにコードを実行するという形をとっている)上で統計処理をしたりそのデータを基にグラフをプロットするのはある程度できるようになっていた。
早速2年後期の実験でpythonを試してみたが、その威力は凄まじく、今まで時間のかかっていた作業が劇的に効率化した。pythonのモジュールであるpandas,numpyを使えばデータ列を文字式のように扱えるので(例えば実験データをdataとして、そのデータをすべてcos関数に代入したかったらnumpy.cos(data)と書けばよい、Excelと似たようなものだがこちらは変数として扱っているので使いまわしが容易である)、Excelでちまちま関数をセルに入力して列全体に引き伸ばすという操作もしなくていい。グラフもコマンドで出力するので当然だが今まで苦労していた手書きのプロット作業はなくなった。GUIありきのExcelと違ってコードひとつでグラフの罫線の調整などもかなり簡単にできる。高級言語だけあってコードは組みやすく、実験中に即興でプログラムを組むことも割りとできる。しかもコードさえ組んでしまえばあとは実行するだけで計算、グラフの描画を一気にやってくれるので、実験結果の確認が極めて素早く行えるようになった。しかもjupyter notebookはmarkdown形式の文章を埋め込めてメモ書きも残せるし、mathjaxに対応しているのでlatex形式の数式も途中に挟むことが出来る。最高の環境だと思った。しかし良いことばかりではなかった。
パソコンで全部やろうとする自分を見た一部のTAはなぜか自分にグラフを手書きにしろと要求してきた。自分は反論した。「グラフならパソコンですでに出力できているのになぜわざわざ手書きにする必要があるのか?」これに対するTAの答えはだいたい「平等性を保つため」、「他のみんなは手書きでやっている」、「理解を深めるため」、「他学科は手書き必須だから」というような感じである。自分にとっては、これらすべてが理解できなかった。そもそも手書きにすることによって実験に対する理解がどう深まるというのか?自分はむしろ手書きを徹底的に排除することによって、煩雑な作業をする時間を考える時間に充てた。そのおかげで実験に対する理解は以前と比べ物にならないくらいに深まった。手書きじゃなければ理解が深まらない理由はない。そもそもパソコンのほうが厳密にコードを組まなければならない分だけ理解力を要求されるはずである。「理解を深めるため」といっている本人だって結局その言葉の意味もわからず言っているにすぎない。
「平等性」に関しては全く別のTAから複数回言われた。「パソコンを使って効率化しようとするのはずるい」と言いたいのか、このTAは?pythonだって1ヶ月間死に物狂いで情報をかき集めて覚えたのに、それのどこがずるいというのだろう。平等性を掲げて効率化を否定し、全員に同じ作業を強要させ、「成績」をちらつかせて脅すのはずるくないのか?みんな一緒に抑圧されましょうということか?これを言われたときに感じた何とも言えない吐き気のようなものは今でもうっすらとだが覚えている。正直なところ、プログラミングが出来るというだけでむしろ褒められると思ったのだ。パソコンが使いこなせるほうが印象はいいに決まってると思っていたのも、結局は自分の勘違いだった。
pythonを使い始めてからの2年後期、3年前期を通して4,5回ぐらいTA(全員別の人)に「手書きにしろ」と言われたが、言われるたびに反論するのもいい加減に疲れてきた。なぜ手書きにする必要があるのか、自分は聞かれるたびにこう聞き返した。まともな答えを返したTAは一人もいなかった。大学の先生が担当する実験でPCは駄目なんて言われたことは一度もなかったし、どうもTAが勝手に「手書きにしろ」と言っているだけらしい。「他学科がパソコン禁止だから」とかいう非論理的なルールを鵜呑みにしてそれを適用しようとする姿勢にも無性に腹が立った。
TAがいうには手書きはコピペ防止の意味もあるらしい。本当に手書きにしたらコピペが減るのか?パソコンにしたらコピペが増えるというが、それは果たして本当に「増えた」のだろうか?確かにコピペするのは手書きと違って簡単だが、コピペするやつは手書きだろうがパソコンだろうがコピペする。そもそも自分の頭で文章を書く能力がないからコピペするのであって、パソコンを制限したからコピペがなくなるという理屈はおかしい。そんなにコピペが嫌だったらむしろ最初からコピペをチェックしやすい電子データに限ってしまえばいいと思う。パソコン有りにしてコピペが増えたというのは、手書きレポートでは見逃していた分のコピペがばれて、それで数が増えたように見えたという可能性もある。むしろパソコンだからこそコピペを見破れるのではないだろうか?
自分は、手書きは不正の温床ぐらいに思っている。手書きの場合見かけ上はコピペしたことがばれにくいし、グラフもそれっぽく適当に書いても適当にプロットしたことはほぼばれないし、そもそもアナログデータは機械の検閲にかけにくいためどの程度コピペなのかを判定する労力だって膨大過ぎる(別のTAに話を聞いたところ、採点する側から言わせるとコピペしたこと自体は結構分かるものらしい)。手書きを強制するということは、すなわち不正をごまかす余地を与えているに過ぎない。本気でコピペをなくそうとするならば、いっそのことすべて電子化してしまったほうがよいとすら思う。
pythonを使い始めてから1年経ち、「手書きにしてください」と言われるたびに反論していったが、元々自己主張の弱い引っ込み思案なタイプのために、自己主張してちゃんと言い返すというのは精神的な負担が大きかった。「パソコンではなぜ駄目なのか」を強く主張するたび、ものすごく疲れがたまってしまい、実験がない日でも「なぜこんな当たり前のことをわざわざ言わなければならないんだろう」と思い返してしまうせいでどんどんやる気を無くしていった。
なぜ大学の一部にはパソコンを使わせたがらない空気があるのだろう。この人たちは、手書きが苦手な自分にとっての最後の砦すら壊すつもりなのだろうか。なぜ手書きにこだわるのだろうか。
ジェンダー問題にしろ、のさばりたい男は頭のいい女を許さない。生殖にかかわる本能なのかね。負けたら必ず『ブス』ってレッテル貼りして、自分の周囲には『あいつ○○だからな!』とアピる。小池百合子が男に嫌われるわけだよ。理屈じゃないんだろ。
女は、感情的反論してくる奴は基本頭悪いからそもそも読んでないし、文章を理解できてない。
男女問わず、議論ができるやつはある程度理解力があるが、それも『正しいかどうか』じゃなくて、『未来を有利にするかどうか』が基準。
1週間ほど前に話題のゴジラを見に行った。面白かったは面白かった。
が、事前ハードルが上がりすぎていたのか、粗(に私には見えた)の部分が結構気になってしまい、正直世間で言われている程に「大傑作」にはあまり見えなかった。
この一週間ほど感想記事などをいろいろ巡ってはみたが、いくつかの批判記事もあまり共感できる内容でも無かったので、ひとつ増田にでも吐き出してみる。なお、いろいろと確認の意味も込めて昨夜もう一度シン・ゴジラは再視聴している。
という訳で以降シン・ゴジラへの不満点を列記する。
まず冒頭の10分か20分くらいで気になった部分。主人公の矢口が会議中に巨大生物に言及するのだが、この時点で矢口がそう判断に至った材料は精々ネットの動画程度であり、あそこでアレを「生物」と考えるのはかなり不自然だ。この時点では矢口は単なる夢想家レベルである。
演出意図としては「唯一真実にリーチしている主人公」のように見えるのだが、それならもっと巨大生物という予測に納得感が無ければ意味が無いように思う。もし矢口をそうした「夢想家」的キャラクターとして描く意図があったのならば納得がいくのだが、以降は基本的に「有能な政治家」然と描かれるのでそれも考えづらい。
基本的に高いリアリティラインで進む映画のため、このシーンで不自然に映画の先を予測した発言があるのは違和感が大きかった。さらにそれに続く、会議室で尻尾のニュース映像が流れるシーンがその印象を後押ししていて、あの映像だけであれを「巨大生物の尻尾」と判断できるというのもかなり不自然に思う。映画の進行のためにさっさと登場人物全員に対象を「動物」だと認識させたい+ゴジラの全体の姿をここでは見せたくない、という意図からああいったシーンになったのだろうが、やはり不自然は不自然だ。
比較的序盤のこの2シーンで、「映画の都合で登場人物の理解力直感力が劇中で変動する映画では?」という疑念が生まれてしまった。
ゴジラに対する登場人物のリアクションとしては、最終形態が現れたシーンでも、あれだけサイズも形態も変化していれば、別個体の可能性への言及があっても良かったのではないだろうかと思う。ここでも映画の進行のため、そうした選択肢を登場人物に不自然に与えていなかったように感じられた。特に「あらゆる可能性を」と発言していた矢口が最後まで同種の別個体の存在に言及しなかったのが不満として残った。
・人の死の描き方について
ネットでは「死がちゃんと描かれていない」「いやアレでちゃんと描かれている」という論争がいくつかあったようだ。
個人的には全体を通してあくまで被害を俯瞰的に描いていたのは面白かったと思う。「対策ルームに篭って黙々仕事をする政治家」が主人公という映画なので、むしろ現場の被害をことさらクローズアップせずに描いたのは正しい。
が、むしろそれならその描き方を徹底して欲しかったという不満があり、2,3箇所ほど不自然に急に人死にがクローズアップされたシーンがあり、そこが「ちゃんと死を描いていますよ」というアリバイ作りのシーンに見えて正直気持ち悪かった。
(一つは倒れるマンションから逃げ遅れた家族、一つは溢れた川から逃げる男性、もう一つどこかで同じことを思った気がするが覚えていない)
この点はあまり大きな不満という程では無いのだが、どうにもモヤモヤとしてしまった部分だ。「全体としては面白いとは思うのだが、細かい不徹底が気になってガッカリしてしまった」というのはシン・ゴジラ全体に対する不満でもあるので、その意味でも言及しておいた。
これは褒めている人の中でも言及している人がチラホラ散見されたが、カヨコのキャラクターはリアリティラインを高めに設定しているこの映画の中で明らかに一人浮いているように感じられてかなり気持ち悪かった。正直ここまで不自然に浮いたキャラクターをこの映画に投入した作劇意図がよく分からない。
とある感想で、「カヨコの突飛なキャラクターによりリアリティラインが下がったために、その後のヤシオリ作戦が受入れやすくなっている」という説明があったが、ちょっと納得しづらい。ヤシオリ作戦はかなり無茶な内容の作戦ではあるものの、劇中の他の展開で「これしか残された作戦はない」という納得感は十分作れており、カヨコの存在が無くても十分受け入れられたと思う。そもそも、対ゴジラ作戦のリアリティラインと登場人物のドラマのリアリティラインとは(相関してはいるだろうが)別の話であり、突飛なキャラクターがいるからと言って突飛な作戦が受入れやすくなるものだろうか? 単に「不自然に浮いたキャラがいた」というだけに見える。
全体通して極めて「大人」な登場人物で物語が進んでいるだけに「なんでこんなキャラクターを入れて雰囲気ぶち壊すんだろう?」と感じた。
・ヤシオリ作戦について
当のヤシオリ作戦についてであるが、例の無人在来線爆弾など独特のケレン味の魅力は確かに素晴らしいとは思うのだが、最後の決着の味気の無さが気になった。有り体に言うと「ショボい」。
意図自体は分かる。派手な秘密兵器などを使うのでなく、人々の地道な対策奔走による勝利を描きたかったのだろう。だが、結局それと特撮的な絵の盛り上がりとバッティングしてしまっているのは悪手だったのではないか。もっと同じ演出意図を満たしながらも、絵的に迫力あって盛り上がる「決着」を描く方法が何か無かったのだろうか、というのがどうしても不満。
注入量を読み上げる緊迫感あるシーンで、「放水した分を全て飲んだ計算して大丈夫なのか?」「そもそもあの生物「口からモノを飲む」という習性自体あるのか?」などの疑問が脳裏をよぎってしまったが、そうした疑問ももっと絵的な盛り上がりがあれば勢いで誤魔化されていたのにな、と思うので、ここも「悪くは無いんだけど、もう一歩足りないなあ」と感じた部分。
加えて、ヤシオリ作戦に関しては、矢口の陣頭指揮の部分にも中途半端さに違和感があり、これまで徹底して「対策室で対応する政治家」を描いてきて、結局最後は「主人公が現場の陣頭指揮を取りに行く」というのを描くのか、というのに少し落胆した。せめて矢口本人が言うように「自分が現場にいる事で出来た微妙な判断」が描かれていればスッキリはしたかも知れない。まあそれをやると矢口がヒーローっぽくなりすぎるきらいがあるのでまた違うんだろうなとは思うのだが。
・「国」のアピール
別に「国威掲揚だ」とか「日本スゴイきめー」だとか言うつもりは無いが、そうでなくても妙に「国」や「日本」のセリフに唐突さというか、無理やり挿入した感があって首を捻った。矢口の「皆休まず熱心に仕事してくれる」から「この国はまだまだやれる」のセリフに繋がるのに飛躍を感じる。前段階として「政治家としてこの国に失望しかけていた矢口」という描写でもあればドラマとして納得しやすくはあったのだが、そういう個人ドラマをフォーカスする映画では無かった。「ニッポン対ゴジラ」というテーマのために無理に接続した感がある。
また、これも同意見を多少ネットで見られたが、総体としての「日本」とゴジラとの戦いを描くのがテーマであるのであれば、あそこまで「東京」のみの話に終始したというのはどうなのだろうと思う。劇中でモブのセリフに地方軽視へのエクスキューズ台詞があったが、正直言い訳程度にしか感じられず、物語として組み入れられてはいなかった。話を2時間にまとめることを考えれば、そこまで舞台を拡散させるのは難しいというのは分かるが、映画全体で「日本」や「国」を強くアピールしていた事との整合性がとれていなかったように思う。
他、細かい部分は置いといて、強く気になったのは以上の点だ。
「細かい事を気にしすぎ」と言われるかも知れない(というか知人に話したらそう言われた)が、気になってしまったのだから仕方ない。面白かったは面白かったが、改善できそうな部分、徹底されていない部分がチラついてしまった、というのは何度も繰り返す通り。「大傑作」の評に期待して見に行ったため、「ここがクリアされてないのか…」というガッカリが先行してしまったきらいはある。
リアルの知人と言い合いになっても後味悪いので、増田で一通り吐き出させてもらった。以上。
<追記>
続きと種明かし
ネットでは日々様々な議論が行われているが、アウフヘーベンまで昇華しているものは稀で
ほとんどが、それぞれの主張をして、自分だけが正しいという信念を持ったまま何も変わらずに終わり、
なぜネットではそのような不毛な議論が行われるのだろうか。今回はそれについて書きたい。
「ヤバイ」という言葉はシチュエーションや言い方によって幅広い意味を持ち、人によって解釈の幅がある。
にもかかわらず、ネットでの議論はこうした言葉の定義に厳密さを求める姿勢が少なく、
それぞれが自分なりの解釈、時には都合のいい解釈やレッテル貼りをすることで議論がかみ合わなくなる。
そうした結果、相手をバカと認定することになり、各々がバカと過ごすのは時間の無駄と結論づけられる。
例えば「青森」という単語を出したとしよう。それは青森県全域を示しているに他ならない。
しかし、人によっては「青森=東北」と解釈し、東北という意味で捉える。
青森はりんごがおいしいよねと話していても、そうとは限らないとか、きりたんぽの方がおいしいなどという答えが返ってくる。
また、その抽象化した概念に関連したレッテルに置き換わることがある。
「青森=東北=福島=原発」くらいまで飛躍してしまう人もいる。
青森の話題を出しているのに、東京電力が!放射線が!という突飛な単語が出てきてびっくりすることもあるだろう。
彼らにとっては「言葉の厳密さよりも、自分がその言葉から何を連想したか」の方が重要で、それがその言葉の本当の意味になってしまっているだ。
これが、実態を持たない形而上の議論というのはこういうおかしさを確認するのがむずかしくなる。
例えば一橋自殺の事件に対するコメントでも、ゲイに対するそれぞれが持つレッテルや常識が客観的な議論を妨げている。
彼らの中での常識に反している=異常=排除すべき のような流れになっていることも少なくない。
彼らは言葉の定義や自分たちの解釈の「揺らぎ」について把握しようとしない。
指摘をしたとしても実態をともなわないため、図で示して明確にまちがっているということを表現しづらいのだ。
ネット上では愛知県を東日本と考えている人と西日本と考えている人がその違いを把握しないまま、東日本の県の数はいくつなのに
あいつは数も数えられないのかと憤慨しているのだ。
しかしながら、こういう「揺らぎ」を理解しようとするものは少数派だろう。
そもそも「定義付け」なんてものは現実世界の日常会話で行ったら気持ち悪いと思われるのが関の山だ。
ネットとリアルの境界線が曖昧になった今、そんなことをしようものなら気持ち悪いやつというレッテルを張られ、
「定義付け」自体も気持ち悪いやつの行う気持ち悪い行動となり、
彼らをまともな議論に導くことは困難になるだろう。
結局、授業でディベートなどを導入し、言葉の「揺らぎ」を自覚させ、定義付けの重要さを頭がこり固まる前に刷り込ませるしかないのである。
それまでは、ネットでの議論なんてものは不毛で、一部のまともな人の間でしか生産性を持たないのである。
ーたけを
もう人生のゴールを決めたいよね。
一発逆転とかそんなもの求めてないから、もうね。ゴールしたい。
親より先はいやだ
苦しみたくない
墓とかいらない
上京した一番の理由が、わりとくだらないけど、雪見たい、地震体験できるかな?だった。
当時住んでた場所は降雪も地震もなく、テレビで見てどんな感じなんだろうって憧れてた。
もちろんそれだけじゃなくて、やりたい仕事が東京にしかないって言われたから上京したけど。
仕事しなくちゃホームレスになるしかないって思ってたから、仕事している。
テレビで、大人になって契約社員や派遣、フリータなのはくそだ。みたいなこと言われてたから正社員になっているけど
後々どう影響するのか分からないけど。
働いているけど、人様に迷惑かけながら生きているのがそろそろ辛くなってきた。
ヤバイ泣きそう。
だって30だよ?30なのにいまだに学生気分なんだもん。うんこだよ。
30なのに人怖いとか、もうね、うんこでかすだよ。
うんこかすだけど、なんとか働いている。
うんこかすと一緒に仕事していて、大変申し訳ございません。誠にありがとうございます。
貯金あるけど、ていうかどのくらいあればひっそり生きていけるんだろう。
受け取らない設定にすればいいけど、週明けに血の気がひくような思いをするくらいなら受け取るほうが精神的に安心。
趣味あったよ。生きがいあったよ。
あった気がしたけど、なんだったのか思い出せない。
今は、仕事かな。
止めたいけど、止めらない趣味だわ。まさに生きがい。
昇格とかいらない
今のままでいい。今のまま。今じゃねーな。異動しなきゃよかった。
前の部署もアレだった。いつ終わるかビクビクしながら働いてた。
だから逃げたのに、ぼろ家から逃げた先が落とし穴だったていうね。爆笑。
ぼろ家だけど、あったかかったんだ。人がね。よかった。
もう弱ってるわ。
生きるってなんだろう。なんで自分はこうなんだろう。
がんばろ。まだ頑張れる。頑張れ自分。
http://anond.hatelabo.jp/20160815041020
これを読んで何だけど。
「社会に出たら(就職したら)仕事ができないってのがわかった」なんてこと、起こりうるのかな?
日本の企業の業務なんて、ほとんどすべてが学生時代の教育の延長線上で、国語算数程度の事務能力やら、体育程度の体力仕事やら、初頭英語で十分な外語コミュニケーションやらでなりたってるんじゃないの? PGとか研究職やらの技術系であるなら別だけど、それは就職前に大学などで学ぶ過程で適正は判明しない? っていうか技術職に技術無しで入るってのがそもそも何かおかしいような。
オレが見た「仕事が出来ない奴」ってやつは、説明の理解力が乏しいとか段取りが悪い(想像力がないせいで自分の行動をフローチャート的に想定できない)とかなんだけど、でもそれって学生時代に集団行動や自分の行動決定や、それこそ高校大学の日常生活で判明するものだよね。つまり「仕事ができない」ってことはあるし見かけるんだけど、「社会に出たら仕事ができないってのがわかった」ってのとはちがうよね。学生時代から要領が悪く愚図だったってだけのはなしで。
なんでそんなことが起こりえるんだ?
http://anond.hatelabo.jp/20160806123148
少し前に書いたらえらいたくさんの反響をもらった。
一応自分の中に取り込んだ後にあれこれ考えてみたけれど
根本的な考えは変わってない。
http://highsoneet.hatenablog.com/entry/2016/08/08/224009
まったく同意。
こういうことが起こり得るからこそ、
ひとりが抱いた「気持ち悪い」「怖い」といった想いは
カムアウトされても「へぇー」って言える世の中を実現すべきとか
理想ばっかり掲げる人に聞きたい。
それまでに何人の自殺者を出せばいいのかね?
理想の社会を実現するまで多くのゲイにカムアウトするように仕向け
その何割かが失敗して世を儚んで自殺すればいずれ良くなるってか?
放っておいて欲しいことが傲慢?
社会に生きてるんだから、自分達は受け入れる腹づもりもあるんだから
さっさとセクシャリティを吐き出せよ、マイノリティですって言えよ。
半ばレイプ的に引き出させる世の中ではないでしょ。
「私は理解あるつもりよ、さぁ!胸の内を語ってちょうだい」と言われて
残念ながら亡くなってしまったけど
本人がその気にさえなれば男性版の蒼井そらにもなれたはずだけど
彼はそうしなかった。その理由の一端はYouTubeでも語られている。
https://youtu.be/ilOa3E4U5FY?t=3m36s
人間が突然テレビに出てきてゲイですって言っても分かり辛いと思うんですよ」
そう言いつつ彼のしゃべりはほんのりとオネェなんだけど、
まぁそこは置いといて話を進める。
連れション感覚でパレードに参加してるゲイ達よりも遥かに多く存在する
1日24時間生きていて、ゲイでなければ生きられない瞬間なんて
少なくとも今の自分には1秒もない。
ほんとそれぐらいしかないんだよ。
特に不自由を感じてもないのに、「公にできないのはさぞ苦しいでしょ?
不自由でしょ?さぁカムアウトしなさい、受け止めてあげるから」って言われても
そりゃあ余計なお世話だろって話になるじゃん。
「マイノリティを受け入れる覚悟はあります」って表明する人達は
放っておいて欲しい自分達のような存在の気持ちは理解しようとしない。
いい加減、そこに気付いてくんないかな。
自分からすれば、今の「皆で認めてあげなくちゃ」みたいな風潮は
ホモなんてのはマイノリティの中ではまだメジャーなほうであって
じゃSMやスカトロやロリコンの人達が「私達も受け入れて」って来たらどうすんの?
「俺、男が好きなんだ」も「俺、ウンコ食べたいんだ」も
セクシャルマイノリティってことに関しては同じ。
「チンコ好き」と「ウンコ好き」を等しく受け入れられる人ってどれぐらいいるかね?
「まだゲイならいいけど、スカトロは・・・」って思う程度の見識なら
二度とこの手の話にクチバシを突っ込まないで欲しい。