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はてなキーワード: 俎上とは

2019-09-30

何でお前らはいつも理屈の構築に詰まると「ぐぐれ」って言うの?

「お前が何を情報ソースとしてどういう理解でそれを正としているのか」が議論俎上に上がってるのにぐぐれとかお前それ「逃げ」やぞ。

お前がググった情報と俺がググった情報ぶつけるんが議論って奴やろが…

2019-07-26

「終わりなき日常の終わり」とかいう終わってるコラム

アニメなんてなくても生きていける。

そう論じるのは簡単なことだ。

だが

人間そもそも不完全なものであり、合理性のみで人生を全うすることは難しい。

それが出来る人間もいようがその数は決して多くない。

アニメに限らず、ゲーム、酒、タバコ、異性、ギャンブル、車、ゴルフ音楽アイドルスポーツ観戦、特撮映画小説

多くの人間一見生産ものにひと時その身を浸して癒やしを得、日々の暮らしにおける心の糧にしているものだ。

まずこういったもの批判をすること自体禁酒法時代アメリカ天保の改革風俗取締令のようなナンセンスさがある。

すでに多くの批判が寄せられているが、大阪芸術大学純丘曜彰教授の例のコラムの改稿前のものを長くなるが引用し、思うところを述べていきたい。

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終わりなき日常の終わり:京アニ放火事件の土壌

純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

/夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。/

まりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファン豹変し、本人を襲撃。アイドルアニメは、そのマーケットクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。

もとはと言えば、1973年手塚プロダクションの瓦解に始まる。同じころ、もう一方のアニメの雄、東映労働争議で多くの人材放出。かれらは、それぞれにスタジオを起こした。だが、これらのスタジオは、アニメ製作ノウハウはあっても、資金的制作能力に欠けており、広告代理店テレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働常態化していく。

そんな中で74年日曜夜に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率の低迷以前に予算管理製作進行が破綻して打ち切り。にもかかわらず、時間帯を変えた再放送で人気を得て、77年に映画版として大成功。当初はSFブームと思われ、78年の『銀河鉄道999』や79年の『機動戦士ガンダム』が続いた。しかし、サンリオ資本キティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおマンガ翔んだカップル』を実写化し、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり中高生モノの手応えを感じており、81年、アニメに転じて『うる星やつら』を大成功させる。

このアニメの実際の製作を請け負っていたのが、手塚系のスタジオぴえろで、その応援として、同じ手塚系の京都アニメーション前身が稼働し始める。そして、その後のアニメ業界大勢の方向を決定づけたのが、84年、この監督だった押井守映画オリジナルストーリーうる星やつらビューティフル・ドリーマー』。SF色を取り入れた学園コメディで、学園祭の準備が楽しくて仕方ない宇宙人女の子ラムの夢に世界が取り込まれ、その学園祭前日を延々と毎日、繰り返しているという話。

アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、セル画式だけでも、『サザエさん』や『ドラえもん』のようなファミリーテレビ番組はもちろん、『ドラゴンボール』や『ワンピース』のような人気マンガを動かしたもの、『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSFさらにはもっとタイト大人向けのものもある。

にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。たとえば、07年の『らき☆すた』の最終回24話は、『BD』と同じ学園祭の前日。エンディングでは、あえて『BD』のテーマ曲を下手くそに歌っている。つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。しかし、「エンドレスエイト」として知られる09年の『涼宮ハルヒの憂鬱』2期第12から19話までとなると、延々とほとんど同じ夏休みエピソードが繰り返され、『BD』に悪酔いしたリメイクのような様相を呈する。

もっと言ってしまえば、京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだった。学園物、高校生サークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。天性の善人とはいえ社長の姿は、『BD』の「夢邪鬼」と重なる。そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。

なぜ学園物が当たったのか。なぜそれがアニメの主流となったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数共通体験からだ。入学式修学旅行学園祭卒業式教室体育館、登下校。だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分個人人生空っぽな者、いや、イジメ引きこもりで中高の一般的共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。それは、いい年をしたアイドルが、中高生ガイ制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタアラサーアラフォーファンを誑かすのと似ている。

夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。グッズを買い集め、「聖地」を巡礼し、そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなものだ。

『恋はデジャブ』(93)という映画がある。これもまた、同じ一日をループで繰り返しながら、主人公精神的に成長するという物語。この話では、主人公だけでなく、周囲の人々も同じ一日を繰り返す。つまり主人公の成長を待ってくれる。だが、映画と違って、現実は、そうはいかない。終わりの無い学園物のアニメうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメ主人公は、のび太カツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。しかし、現実人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。こういう連中に残された最後希望は、自分永遠の夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。

起業する、選挙立候補する、アイドルタレント芸人になる、小説マンガの賞に応募する、もしくは、大金持ちと結婚する。時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした夢を見させられ過ぎた。だから、一発逆転も、また別の夢。かならず失敗する。そして、最後には逆恨み逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ

いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。

まずはこの業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別する必要がある。もう学園祭は終わったのだ。休もう。番組も、映画も、穴を開けて休もう。あれだけの京アニ惨事を目の前にしながら、よりタイトな状況で黙々と規定製作スケジュールをこなそうとしていることこそ、異常だ。こんなときくらい、京アニにかぎらず、業界の関連全社、いったん立ち止まって、仕事待遇業界のあり方、物語方向性ファンとの関係見直しあらためてしっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。

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京アニは学園ものだけ」という言説に対し、傷痍軍人女性戦後を生きる「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の存在意義が改めて燦然と光り輝いているという事実劇場版企画されており以降もシリーズ化されればそれはもう「学園ものだけ」という批判にはあたらない、はずだったのだが…。

また京アニオリジナルの源流をたどればMUNTOという異世界ファンタジーもあり、今後何が飛び出すか、その可能性は無限に満ちていた。

日本オタク作品の大半が確かに学園ものなのは事実であるが、それは世界観の説明が容易であること、多くの視聴者経験していて没入しやすいこと、といったアドバンテージがある、いわば「手堅い」ジャンルゆえ。

京アニは決して裕福な会社であったとは言い切れないし、またアニメ業界自体流行り廃りが激しく、そんな中で一定収益を手堅くあげる選択をとっても批判されるいわれはあるまい。

エンドレスエイトがいまだに物議を醸す存在であるのは事実だが、話題性が1期よりは希薄になりがちな2期ハルヒを「語る」上で大きな要素になっているという点では意義のある存在ともいえるのかもしれない。

終わりなき学園祭としてひとつ象徴となった「ビューティフル・ドリーマー」、

うる星やつら漫画版で約9年、アニメ版で約5年もの長きに渡り「途切れることなく」続いた学園ものであった記憶もあって、ことにアニメに対して古い感性人間ほど「終わりなき青春」を延々続ける印象もあるが、

近年の製作ペースは1クール12話、月にならせば3ヶ月ほどのスパン基準で、シリーズが続いても2クールか長くても4クールあたりが殆どで、1年を通して続くことはもはや一部の例のみで、1クールないし2クールベースの途切れ途切れの発表ペースになっている。しかうる星が3年を超えて学生生活を描き続けたのに対し、妥当時間経過とともに終わり即ち「卒業」があるのも近年の特徴。

しかアニメファンは常にコンテンツ新陳代謝さらされる中で、コンテンツの完結を一区切りとして、同じ制作会社からといって次に提示される新コンテンツを必ず追い続けてくれるとは限らない。

1期で好評だったシリーズ物の2期ですら、1期以上に人気を得るのは実際難しい。

そしてこの御仁が憂うまでもなくアニメ自体卒業していく人間も確かに存在する。

そういった熾烈なレッドオーシャンで波間の泡のように浮いては消えていくのがアニメ制作会社非情なる現実

そんな熾烈な世界にあって健気に誠実に作品を作り続け、また大きな落ち込みもなく良質な作品供給できる会社を存続させてきた、業界良心の要石のような会社京アニであって、それはこういう批判俎上に上げるべき存在ではそもそもない。

事件からかねがね用意されていたであろう「ぼくのかんがえた日本アニメ概論」をここぞとばかりに持ってきたのだろうが、世界的に見ても比類なきほど理不尽な、そして悲惨事件に対して論じるにはあまりにも適さない代物であったと言わざるを得ない。

このケースは犯人特性も含めて極めて異常であり、安易因果応報的論説にははめ込めないほどの歪さ不条理さがあるのだ。いやしくも大学教授を名乗る立場にふさわしくない浅薄さであったと言わざるを得ない。

この御仁が禄を食んでいる大阪芸大は早くからサブカルチャーに特化した今やオタク御用達大学であり、辺境にありながら高い人気を持ち続けているのはそれ故もあるのに、そこからオタク批判をすること自体、あたかも親の庇護を受けながらヤンキーやってるイキリ中学生のようであり甚だ滑稽でしかない。

オタクにイキって食う飯は旨いか

まぁ一方で確かにアニメ作りすぎなのは事実であるが、それは業界全体レベルの話であり京アニを論って言う話ではない。それは数を作らないと食えないという業界構造にこそ問題があり、是正されるべきものであるのは論を俟たない。だが、かつて勇名を馳せた会社ですら粗製乱造ものも見受けられる中、ひとつひとつ作品を売れる売れないに関わらず本当に誠実に作ってきた会社を取り上げて言うことではない。まして「麻薬の売人以下」とまで蔑まれるいわれはない。

あとアニメうる星はその後綺羅星の如く多くの俊英を生み育てる土壌になり、アニメ産業及びアニメ文化嚆矢ともなったという意味で意義深い作品であり、とりわけビューティフル・ドリーマーアニメ制作班の若き野心とオリジナリティに溢れた傑作であったことも付け加えておく。だがそれに内包されている批判精神は今や一周回って定番になってしまい、それをもってアニメ批判オタク批判をするには「今更感」で一杯で陳腐化していることも。


最後

人的物的、そして心理的にも大きなダメージを負い再起すらも危ぶまれる中、これからの再起を表明した八田社長京アニには、深い敬意を表しつつ、事件前に比肩する制作体制を整えるのはおそらくまだ時間がかかるであろうとも、その行く末を見守っていきたいし、微力であれ力添えもしていきたいものである

そして、亡くなられた方のご冥福と、負傷された方のご快癒をお祈りしつつ、件のコラムのような浅はかな批判論を払拭する新たな可能性に満ちた作品群を期待したい。それがいつになろうとも。

2019-07-17

https://anond.hatelabo.jp/20190716122944

全く違うな、キモカネおばさんがキモカネおじさんよりも冷遇されている事を問題視するのもフェミニズムだ。

キモカネおばさんは男に生まれていても人生詰んでた?違うでしょ。

キモカネおじさんはネットで大騒ぎされ同情され俎上に上がってるじゃん、つまり同じように醜く無能でも、男は男というだけで下駄を履かされているんだよ。

「同じくらいの能力ルックス階級」であっても、男は女よりも上に扱われている。それは別にエリート男性エリート女性比較だけでなく、無能底辺男性無能底辺女性との比較においても当てはまる事だ。

その自覚が全くないから、自分達を「男」の中に入れるななどという被害者面した発想ができるんだ。

2019-06-15

瞑想してるときやばい顔になるはず

はてなでも瞑想はよく話題になるし、自分も興味あってたびたび試すのだけどなかなか期待していたようなところまでは行けなかった。

意識俎上に載せるものを限りなく小さくするというコンセプトはわかりやすいのだが、実際にはなかなかうまくいかない。

これは何か根本的に間違えてるんではないかと考えて思い当たったのが、あのみんながよく思い浮かべる瞑想の本の表紙にありそうな涼しそうな顔。あれが先入観なんじゃないかと思った。

そもそも意識俎上に何も載せないということは人間性が限りなくゼロに近づくということだ。

あんなに理性的きれいな顔をしているわけがなく、きっと相当やばい感じの顔になっているはずではないか、ということでその方向で試してみたら前より全然うまくいった気がする。

ちょっとした発見だったのでみんなにも聞かせたくなった。ぜひ試してみてほしい。

2019-04-28

anond:20190427223747

公平に税を取るとか受益者から税を取るってのは正しい態度なんだけど一方理想論でもあって、現実システムは今のところそうなってない。なんでなってないかというと、徴収コストとか捕捉率の問題があって、クリティカルに担税してもらうのが難しいから。

消費税なんて逆進性があるし税の中ではかなり筋が悪いものだと個人的には思うのだけど、なんでこれが現在日本議論俎上に有り、世界各国でも税の柱になっているかといえば、国という領域の中で逃れようがない行為が消費行動で、補足しやすいからという一点につきる。要するに絞れるやつから絞るという話なので、公平感とか、受益者とか二の次三の次なのだ消費税=取り立てしやすい税。消費税にそれ以上の利点はない。

よく「富裕層からもっと金を搾り取れ」って気安い意見がでるけれど、これって有効度がかなり低い。捕捉率は低くて徴収コストは高い。海外資産現金以外や資産移植のことを考えれば、正確にガッツリ徴収するコストは非現実的だといえる。高所得者富裕層意味が違うことを考えればなおさらだ

高所得者課税するのは割と簡単なので、高所得者のことを金持ちと呼んで、富裕層と誤認させて庶民の溜飲を下げさせるという方策はありうる。実はこの方策副作用大きいわけだが)

そういう前提知識を置くと「ツケにしておく」というのが、どれだけ無理筋かわかると思う。逃げやす実装なわけだからね。

から現実制度でもめったに見ない。どっちかっていうと「とりあえず取り立てておいて、免除が決定されたら払い戻し」のほうがありうる(還付金という名称ですでに幾つかのシステム実装されている)。

2019-04-21

ネット上のフェミが言う「女」に私は含まれます問題

ツイッターを中心に日々インターネットを見ているだけの

市井の人間のたわ言なので軽く読んでほしい。



私は女だ。そこそこの学歴も持っていて、会社員

昨今世の中を騒がせている#metooにまつわる女性らと大体同じ世代で、20~30代。

おそらく同じような感性で、同じような考えを持って生きてきたはずだ。



ただ、いつも思うのだ。

metooで、女性のあたりまえの権利を主張する人たち。

彼女らの主張が代表しているはずの「女」に、私は含まれているのか?



女性権利を主張する人たちの言う「女」が

ただ「生物学上の女性性」という意味ではないことは理解している。

「女」という役割ジェンダーとしての「女」という意味

被害に遭いやすく、女性というだけで正当な評価を得られなかったりする。

女の全てを平均化した、一般的女性像(そんなものがあればだが)は

きっと一般的男性像よりも確かに不遇なのだろうと思う。



話は変わるが、「レンタルなんもしない人」が、女性にはつとまらなかったりつとまったり

というような文脈でここ数日炎上していた。

きっかけはひとりの女性ツイートで、要約すれば

女性は女という特質上、レンタルなんもしない人は務まらない」という内容だった。

被害に遭いやすいし、性的サービスを求められやすいし、危険



しかに、一般的女性像はそうかもしれない

ツイートを発信した女性も、そういう一般的女性像にあてはまる人なのかもしれない。



でも、その女性像に当てはまらない女もいる。

例えば、生殖機能のなくなったおばあちゃん

例えば、平均的な男よりも断然強い肉体を持っている女。

例えば、顔や体的に全く女性としての魅力がない人(本当にそうかはわからないけれど)。

例えば、乳房も膣も無い女。

例えば、LGBTの人もそうかもしれない。体は男。心は女。



そういう人たちは「レンタルなんもしない人」本当にできませんか?

そもそも「女」を考えたときに、こういう人たちのことを

一切想起しなかったのではないですか?



私は上の例には当てはまらないけれど、

正直に言って、物凄く女性的魅力が無い。

男性から言い寄られたこともなく、言い寄ると向こうから強くお断りされてしま人間だ。

もちろんmetoo糾弾されているようなセクハラも受けたことが無く、

これから先もあるかはわからない。

女だからといって職にあぶれたことはないが、

おそらく見た目のせいで職にあぶれたことはある。

それは女性からではなく、単に見た目が悪いからだ。



から私も、なにもしないだけなら、女性であっても務まるのではないかと思っている。

そう思ったときに感じるのは、じゃあ私は何なのかということだ。

生物学上は女性。でも、ネット上の自称フェミが語る「女」からは疎外されている。



「女」を政治俎上にあげるとき

移民」「黒人」「高齢者etc.政治俎上にあげるのと同様に

特殊な例を省いて一般化しなくてはならないのはわかる。



ただ、フェミニズムの根幹は、弱者弱者のまま価値を認められるということにあるのではないか

フェミニズムの内部で、平均ではない女性を(弱者ではないかもしれないが)無視して

一般的女性像のみを語るのはいかがなものだろうかと思う。



私たち「女」を語るときに、一般的女性像にあてはまる女を語るのではなく

平均化していないすべての「女」の存在

心のどこかに感じていてほしい。



私たち「女」は、という語り口で持論を述べ始める前に、

自分が「女」と女性を切り分けることで、そこから漏れしまっている人、

まりは「仲間外れにしてしまっている人」が居ないか

ちょっと立ち止まって考えてみてほしい。



ブサイクのたわ言だとか、性的被害に遭ったことのない幸せ人間の言えることだとか

そんな風に思われるかもしれないけれど。

2019-03-24

anond:20190324131518

ワンチャン狙い」という相手価値観否定してモノ扱いしてる

ここのロジックが全く分からん。全き人間をモノ扱いすることと、相手の「ワンチャン狙い」を解釈することとが同一の俎上で扱い得る論拠を示せや。つくづく生き恥さらしてるなあアンタ。

2019-03-11

anond:20190311193204

俺もそう思うんだけど、同性愛者さんたちはそうは思ってないらしいぞ。つまり議論俎上には(悲しいことに)上がってる

自分たちの「愛」とやらを証明するためにわざわざ税金を使ってもらえるつもりらしい

2019-02-24

anond:20190224200500

でもその戦い方の結果稀代の悪法がまさに国会審議の俎上にのってしまった事については何の反省や振り返りもないんですよね分かります

フェミ自称リベラル文化庁を動かしたというストーリーの方が口当たりもよくて自分達の団結力も高まって自尊心が満たされるんですよね分かります

2018-12-13

anond:20181213134338

18禁指定されていればこういう俎上には上がらないでしょ。

2018-12-09

anond:20181209150522

利害調整男です。収入は私の方が多いですね。もちろんそれも割愛した細かい条件に入れるべき項目でしょう。

95%(でしたっけ)のカップルが夫の姓を選んでいるのは、収入の面の話もあると思うけど、そもそも女が姓を変えるのが当たり前すぎる文化なので、そのような意向があっても女からは主張しない、女が主張したところで検討俎上にも上らないというのが、現状ではないでしょうか。

2018-12-07

anond:20181207112241

贔屓と評価は分けるべきだと考えるのでどの様な文脈であれ贔屓を俎上にあげるのは間違いだと思っている

2018-11-26

anond:20181126181122

お前は「信号無視」という「(危険に向かう)自発的行動」と「男性」という「生来属性」を同じ俎上に並べて良いと思ってるの?

お前の言い分ならヘイトスピーチなんか存在しないな。属性の種類も確率無視して言いたいように属性全体にかかる悪態を吐いて良いわけだからな?

2018-11-13

anond:20181112183902

左翼的提言としては悪くはない。ただ、逆進性が高くなる可能性はあるが移動の自由は言い過ぎな気も。

地価や周辺の住宅事情道路公共交通機関等も併せて論じるとQOLに関する政治俎上に乗せる価値はある話だと思う。

便利さが金で買える、という事実が孕む問題自体が、もっと広く認知されてもいいかもしれない。

良い問い掛けとなる日記ありがとう

2018-11-12

インタビュー 米中間選挙2018)心の奥底の物語 米社会学者、アーリーホックシールドさん:朝日新聞デジタル

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/DA3S13761007.html

tikani_nemuru_M 「語り」を基盤にした社会学仕事。非常に重要だし社会学仕事典型だが、こういう仕事に対して「査読」の有無を云々したり、「お気持ち」などと揶揄することは無意味だと知性がわずかでもあれば理解できる。

これは本当にその通りで、「お気持ち」を分析することは決してアカデミズムから離れた営みではないし、

研究対象としてのお気持ちと、研究者個人的に抱く規範意見とは大抵明確に区別されているものである

日米の著名な社会学者を例にとると、アメリカホックシールド氏はトランプ支持者の思い、日本千田氏は自身思春期の思いをそれぞれ「お気持ち」として研究俎上に載せた。

最終的な意見としては、たまたまホックシールド氏はトランプ支持者らと同じ意見には至らず、千田氏の場合研究対象同意見に落ち着いたというだけ。

この辺りは本当に混同されており、感情研究対象とする分野自体が現状では不当に貶められていると言わざるを得ない。

2018-11-05

anond:20181105142146

抱き枕と同様の性質作品にあってそこを批判されてるのでは?

抱き枕と同様の性質エロ は確かに存在するが、それは作品から引っ張ってくるものであって、作品とは関係のないところから持ってこられたら反感を買うのは当たり前でしょうに。

そもそもエロがあるからこの作品はクソと批判されることが、作品批判として成り立たせるには、個人依拠したお気持ちしかない。だからお気持ち批判をするとバカを見る(これはオタク側)

そして、作品に内在されると言われるかもしれない女性差別かいう話も、抱き枕から帰納法的に導くのは作品批判としては受け入れられない人も多い。自分たちで満足するなら勝手だけど、

この作品女性差別が内在されていると、わからせたいんだよね?じゃあ作品から批判しないと(これはフェミ側)

時間を遅くしても現状配信もして閲覧に年齢制限もしてない状態ではやはり公共のものだし議論俎上には乗せられるだろう

いや難しいでしょう。公共のものとはいえ普通の人が見る時間でないのは大きい。

完全に自分から不快ものを見に行っていることに変わりはないでしょう。

anond:20181105141907

抱き枕がこうだからこの作品はクソっていうクソみたいな批判

をじかに見てないからなんとも言えないけど、抱き枕と同様の性質作品にあってそこを批判されてるのでは?

時間を遅くしても現状配信もして閲覧に年齢制限もしてない状態ではやはり公共のものだし議論俎上には乗せられるだろう

2018-11-04

anond:20181104122225

まあどの層でも低レベルな者の意見は、自分の願望を説明するために何かをつまみ食いしてるにすぎないな

そういう屁理屈理屈だと俎上に乗せるかどうかでだいぶ話の展開が変わりそう(俎上に乗せると批判の的になって議論が壊れるから邪魔なんだけど)

2018-10-19

横山由季子「ブロックバスター展は善か、悪か」を批判する

 美術手帖で連載中の「シリーズ:これから美術館を考える」の第6回、横山由季子(金沢21世紀美術館学芸員)による「シリーズ:これからの美術館を考える(6) ブロックバスター展は善か、悪か|MAGAZINE | 美術手帖」。一読して何が言いたいのか理解し難かったが、それもそのはず、書いている本人が考えがまとまらないと言っているのだった。

まとまらない考え、逡巡をそのまま書いてしまいましたが、現状を共有することで、今後の共催展、ブロックバスター展について考えるきっかけになれば幸いです。

https://twitter.com/blanche1002/status/1051094298815430659

 「考えまとめてから話せ、バカ」で済む話ではあるけど、一部好意的に受け止められている様子もあり、少しこだわってみたい。

 まず、かなり気に食わないことの一つに、ブロックバスター展について「善か、悪か」と問うている点がある。「善悪」というのは倫理道徳的価値判断であり、展覧会評価をするにあたってはなじまない言葉である。「是非」でよかったはずだ。にもかかわらず、横山は敢えて「善悪」という強い言葉を用いた。その理由は推測することも可能だが、不要から止めておく。ただ、私自身は「善か、悪か」という問いに答える気にはならないし、また応じて「ブロックバスター展は悪だ」と言っている人がいたら異様だと思う。些末な問題ではある。しかし、筆者の立ち位置や考え方が無意識に出ているように見受けられる所、注意を要する点である

 次。筆者はタイトルで「ブロックバスター展は」と議論対象提示する。そして文中で「ブロックバスター展」の定義を明確に行う。ここまではまったく素晴らしい。だが、なぜか横山は文中でブロックバスター展以外についても語り出してしまう。こんなわずか短い文章にもかかわらず、その対象を固定することすらできない。大丈夫なのか、この人?

 実際に対象になっているのはブロックバスター展と共催展である。前者も後者の一部だが、このうち60~70万人ほどを動員したものを指すと定義している。もちろんそれ以上動員した場合も含まれるのだろう。また、共催展以外でこの規模の動員は不可能と考えられる。すなわち、60万人以上の動員を記録した展覧会ブロックバスター展だと言っていい。明確だ。

共催展のなかでも、とりわけ規模が大きく大量動員が見込まれものは「ブロックバスター展」と呼ばれる。ブロックバスター展の基準について100万人以上の動員としている記述もあるが、近年ではさすがにそこまでの来場者を集めた例はないので、ここでは60〜70万人規模の展覧会ととらえることにしたい。広報会議メディア担当者と話していても、60万人あたりがひとつ分水嶺になっているような感覚がある。

 共催展一般共通するものであるならば、わざわざ分ける必要はない。だが、60万を越える規模になると、単に量の違いではなく、質の差が出るようだ。「60万人あたりがひとつ分水嶺になっているような感覚」というのはそういうことだろう。ならば、「ブロックバスター展」と呼び分けることに意味が出るわけだ。

 しかし、結局筆者が俎上に乗せるのは共催展一般であって、ブロックバスター特有問題についての指摘はわずしかない。筆者は読者にブロックバスター展のみに絞って考えて欲しいのか、それを含めた共催展一般について考えて欲しいのか不明である。というよりも、筆者自身の中で、その程度のことすら整理できていないのではないかと思われる。

 そんな筆者横山が共催展やブロックバスター展の「現状」についてどのように認識しているか批判的に捉えているか文章引用しつつ細かく見ていこう。

ブロックバスター展はその華やかな話題性によって、普段美術館に足を運ばないような人が展覧会を訪れるきっかけをつくり、美術裾野を広げているという側面もある。そのいっぽうで、やはり集客のために打ち出される広報の数々は「イベント」としての側面を強調するものであり、一過性の消費で終わってしまうのではないかという危惧がつきまとう。

 一過性の消費の何が悪いのかさっぱり分からん人生は短い割に、世界はあまりにも豊かだ。誰しもが、美術とがっぷり四つに組んでいる暇があるわけではない。すべてのことに入れ込むことはできないわけだ。学芸員成るほど美術真剣に取り組んでる横山も、例えば音楽とか、芝居とか、映画とか、ほかのジャンルに関しては一過性の消費で済ませていたりするわけでしょ? 美術に対してそういう態度をとる人たちを批判する権利なんかないわな。

そして現場学芸員は、採算性と学術性を両立させるという大きな矛盾に直面することになる。

 ブロックバスター展やそれに準ずる共催展に足を運ぶ人の多くは、作品を見に来ているのね。有名作に心踊り、傑作に胸を打たれに来てる。学術性とか、正直無くても構わないとすら思っている。

最近ではメディア側も展覧会事業にこれまでになく採算性を求める傾向にあり、10万人を動員する小規模の企画を年に何本も実施するよりも、大量動員が見込めるブロックバスター展を1本開いたほうが、労力的にも資金的にも報われるという事情もあるだろう。

 共催展の数を減らして、ブロックバスター展に集約していると読めるけど、事実なのか?

あくまでも組織としては採算性が優先されることになる

 当たり前なのでは。

ここで、そこまでの費用をかけてまで、海外作品を借りてくる必要があるのかという問いが生じるだろう。国内美術館にも豊かなコレクションがあり、それだけでも十分に展覧会は成り立つ。実際に、近年では国内の所蔵品を中心に見ごたえのある展覧会が多く企画されている。

 ブロックバスター展や美術館展など、学術性の低い展覧会批判する人って、だいたい欧米によく行っていて、そこで十分に作品を見ている人なんだよね。だから、そういった展覧会が名作や有名作を持ってきているということ自体意味を見いだせないわけだ。でも例えば、今後10年間、海外所蔵の作品を見ることを一切禁じるって言われたら、我慢できるの? できないでしょ。できないなら「国内美術館にも豊かなコレクションがあり」とか言って欲しくないよね。子供仕事で忙しい人、貧乏人、障害者、老人。誰しもが気軽に海外に行けるわけではない。そういうところにブロックバスター展の意味の一つがあると思うんだよな。弱者に優しいという点を鑑みれば、筆者の問いかけに「ブロックバスター展は善である」と答えることも可能かもしれない。

共催展の広報において差し迫った課題は、いかにして若者展覧会に足を運んでもらうかということである。とりわけブロックバスター展を支えているのは、バブル期以降の大型展に足を運んできた50代以上の世代であり、メディア側も確実な集客を見込んで、この年齢層に的を絞った広報戦略を立てることが多い。しかしながら、このような目先の集客ばかりを求める広報が続くようであれば、美術館展覧会未来はそう長くはないであろう。

 若者じゃないから分からないけど、どっちかというとやはりブロックバスター展の方が若者リーチしていて、それより規模の小さい共催展に問題がある気がするけどなあ。今なら例えばフェルメール展とルーベンス展。

近代美術の延長線上に現代美術位置づけ、両者を結びつける作業は、やはり美術館が担うべきものである。そして、村上隆草間彌生などの知名度と人気を誇るごく一部の作家を除いて、メディア現代美術展に出資することは考えにくい。美術館が主導して近代美術現代美術をつなぐ展覧会企画したり、現代美術一般へと浸透させる持続的なプログラムを行うための体制づくりや予算が求められる。

 これはブロックバスター展や共催展の問題じゃないよね。美術館学芸員が怠けていたからこういう状況になったんじゃないの? 「国内美術館にも豊かなコレクションがあり、それだけでも十分に展覧会は成り立つ」んでしょ。美術館主催粛々とやってればいいのでは。

数十万人の来場者を想定したブロックバスター展の場合、あまり大胆な切り口を提示することは難しく、個展であれば年代主題ごとに画業をたどるようなオーソドックス構成となりがちだ。先行研究調査をふまえた新たな視点を、カタログ論文作品解説のなかで示すことはできても、展覧会構成全体に反映するにはいくつものハードルがある。とりわけオルセー美術館ルーヴル美術館からまとめて作品を借りる場合は、これらの美術館学芸員が監修を務めることが多く、そのことによって企画自由度が低くなるという側面もあるだろう。

 そういう学術性は不要なんだって。単にいい作品を持ってくればいいの。学術性を発揮したいのであれば美術館主催の展示でやればいい。それでは自分能力が十分に生かされないと感じるなら本場の美術館就職してください。あと、日本学芸員よりオルセーやルーヴルの学芸員の方が信用できるから、その場合は口出さなくていいよ。

オルセー美術館には各所蔵作家の膨大な資料が集められており(ルノワールだけでざっと50箱以上はあり、フランス語だけでなく、英語イタリア語ドイツ語スペイン語、そして日本語や中国語韓国語資料網羅されている)、それを日々リアルタイム更新していくドキュメンタリストたちがいる。学芸員は彼らの協力を得て調査研究に勤しみ、その成果が展覧会に反映される。この蓄積こそが、オルセー美術館の、さらには今日における世界的なフランス近代美術の人気の礎なのである。これは一朝一夕に実現されるものではなく、長期的な視点に基づいた、たゆまぬ歴史化の作業の賜物といえよう。

 日本フランス絵画についてオルセーと張り合う必要なんかないよ。自国美術研究環境が貧弱なこと(いろいろ話を聞くに相応の事実だろう)については悲しむべきことだけど、西洋美術基本的に横のものを縦にしてればいい。もちろん立派な研究をなしとげれば敬意を表するが、俺達のブロックバスター展を研究発表の場として利用してくれるな。

 私はブロックバスター展やそれに準ずる規模の共催展を楽しんでいるのだ。それを学芸員風情の浅薄な考えや安っぽい使命感によってぶち壊さないで欲しい。日本に居ながらにして傑作や有名作を鑑賞することができる。これだけでブロックバスター展は素晴らしいものなんだ。ということを学芸員玄人気取りに理解してもらいたいのだが、なかなか難しいのかもしれない。

2018-10-17

anond:20181017173409

いや増田勘違いがあったなら増田の主張にも誤りが出てくる可能性があるのでどうでもよくはないです。

申し訳ないんだけど増田が何を言いたいのかよくわかんなくなってきた。

「『個人選択の結果の服装』って言い方」がどう勘違いなのか、「然るべき文脈」が一体どういう文脈を指すのか、またその「然るべき文脈」において3D現実洋服の違いがどう問題になってくるのか、申し訳ないけど自分にはちょっとよくわからない。

あと遡るが

まり、「人間の扮装であることを理解しつつキャラとして設定も尊重されてる」

って部分が

法的な扱いや、社会問題文脈では「人間の扮装であることを理解しつつ」までは共有されても、法的に「キャラとして設定も尊重されてる」わけではないってことだ。

からキズナアイだって社会的問題俎上に上がった時に「キャラとしての設定として魂があって中の人人権尊重される」という言い分は無理があるって結論になる。

なにかおかしいところあるか?

この部分も「法的に『キャラとして設定も尊重されてる』わけではない」ことがなぜ「『キャラとしての設定として魂があって中の人人権尊重される』という言い分は無理があるって結論になる」のかちょっとよくわからないです。なにが「だから」なのか。

付け加えるとキズナアイ場合は設定上はAIなので「キャラとしての設定として魂があ」るのかは怪しい。

基本的Vtuber界隈では「魂」って言葉はむしろメタ的な文脈で用いられるワードから

anond:20181017163556

法的に「キャラとして設定も尊重されてる」わけではないってことだ。

法的にキャラ設定を尊重しろなんて誰か言ってるの?

未成年Vtuberは法的に未成年として扱うべきだ」「キャラとしての独立した人格を認め人権を与えろ」って、

少なくとも自分は見たことないが。

Vtuberの「魂」って要するに、Vtuber中の人はいるけど基本的公表はしていないから、そこらへん配慮して「中の人」や「中の人人格」を比喩的表現した言い回しなんだけど

もしかして文字通り捉えてた?

そもそも彼女の「人格」が議論俎上に上がったのは

発端の弁護士やら騒ぎ立てた人らが当初中の人への配慮を欠いた形でバッシングをしたためだと記憶してるんだが。

例のフェミの人たちはキズナアイへの敬意が欠けてたよ

https://anond.hatelabo.jp/20181005144508

anond:20181017110545

そうだろ?そのとおりだろ?

まり、「人間の扮装であることを理解しつつキャラとして設定も尊重されてる」

って部分が

法的な扱いや、社会問題文脈では「人間の扮装であることを理解しつつ」までは共有されても、法的に「キャラとして設定も尊重されてる」わけではないってことだ。

からキズナアイだって社会的問題俎上に上がった時に「キャラとしての設定として魂があって中の人人権尊重される」という言い分は無理があるって結論になる。

なにかおかしいところあるか?

2018-10-11

anond:20181011194820

男性ジェンダーロールから解放されればいいのに、それを言い出さないのはなんでだろうね?

仮説1:男性ジェンダーロールは抑圧的ではないため解放必要を感じない

仮説2:男性ジェンダーロールは非常に抑圧的で解放概念俎上に上ることがない

個人的には仮説2だと思う。

2018-10-05

男性スーツ姿にエロを感じる

朝の通勤電車に乗ると、エッチな格好の男性が沢山いて「うわーい!」となる

前にnekoraさんが「満員電車に興奮するのは鉄オタと痴漢だけだ」と言っていたけど

私もスーツ姿の男性と密着できるから好きだ

この時期は涼しくなってきてクールビズも終わったか上着を着てるから尚更たまらない

また、職場で稀に力仕事(掃除にために机をつったり、荷物を運んだり)があるのだけど

その時に上着を脱いでシャツの腕を捲ってたりするとその場で鼻血が出そうになる

合わせ技アウトで性的搾取といわれても仕方ないんじゃないかな。


ってならない?

この「合わせ技アウトで性的搾取といわれても仕方ないんじゃないかな。」という概念? 万能すぎない?

正直、森羅万象にこれを適応させられるとしか思えないんだけど

でもこういうのって、こうやってそれが森羅万象に当てはまるかどうか関係ないのかな?

一世の中に存在するすべての物事をこうして俎上にあげて、多数決を取るしかないの?

なんか違和感あるなあ

だって

世の中すべての人がおいしいと思う食べ物も、すべての人が不味いと思う食べ物もないわけでしょ

ウンコですら食べる人がいるわけで

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