はてなキーワード: ポッカリとは
あと彼女達と関わっててどうしてもわからんことがあるんだけど、そもそもホストクラブって、お金は有り余っててどうしようもないけど、承認欲求だけがポッカリ穴空いてる富裕層の御夫人とかが、その大金で承認欲求を買いに行くところであって、若い女の子が身体削ってまで大金作って持っていくところではなくない?
担当(彼女達は推しのホストをこう呼ぶ)の写真とかを見せてもらっても、みんな大体判で押したようにワンパンで倒せそうな痩せ型の男ばっかりで、ラグビー選手とか鈴木亮平みたいなガタイ良い男だったことは一度もない。
道端でケンカ売られても、女捨てて自分だけ逃げそうな男ばっかりなんだよ。
私がガタイ良い男が好みなだけかもしれんけど、心や身体を壊してまで、あんなモヤシに貢いで何になるんだろう……って思っちゃう。
准看護師や看護助手なら発達でもギリできそうだから、「早々に撤退してこっちにおいで」って言ってるんだけど、彼女達、学校とか勉強への苦手意識が強過ぎて、それすら無理なんだよな。どうやったらああいう子達を救えんだろうなぁ。
「私さんが男だったらよかったのに」って彼女達からめちゃくちゃ言われるけど、鈴木亮平が好みの女に女と付き合うのは無理だ。ごめんよ。
リアコじゃなくても何故アイドルが結婚したらモヤっとするのか?自分なりの結論が出たので、書きとめておく。
これは私のオタクスタンスに基づく考えなので、すべての人がこれにあてはまるわけではないと思うが、「なんで素直に結婚を祝うことができないの?自分が推しと結婚できるわけでもないのにw」というお決まりのフレーズに対する答えの一つとなれば。
まず、私が信じている「オタクと演者の関係性」について述べたいと思う。
アイドル含む演者すなわちステージに立つ人間にとってのいちばんプリミティブな欲求は「見られたい」「愛されたい」だと思う。そして、それを満たしてあげる(敢えてこういう言い方をしますが)ことができるのは、ファンだ。
パフォーマンスを通して「見られたい」「愛されたい」というメッセージを放出する演者に対し、ファンはそれを受け取って、推しを見つめる視線や拍手や歓声という形で応える。時よっては熱い想いを送るファンに演者がファンサという形でさらに想いを返してくれることもある。こういう幸せな愛情の交換が現場では成り立っていると思っている。
アイドルがアイドルでいる限り、オタクは「身の丈に合った相手を好きにならなきゃいけない」とか「重すぎたら嫌われるかも」といった現実の人間関係における制約をすっ飛ばして無限の愛情を向けることができ、アイドルはオタクから注がれる膨大な愛情を受け止めてくれる。
愛情を受け止めてくれる(無視や拒絶をしない)こともまた愛なので、「受け止めてくれた」と感じられることによって、オタクはアイドルからの愛を受け取っている。(これはファンサや直接的な「ありがとう」の言葉に限らず、「愛してもよい存在」としてそこにいてくれること自体がアイドルからファンへの愛だと思う。)
これはオタクをすること以外では得られない関係性だし、おそらく演者にとっても同じく、ファンとの間でしか成立しない関係性だろう。私は、それが自分にとって最も尊い「愛」の形だと信じている。
(実際には推しに干されることもあれば、えげつない集金やクソみたいな運営に振り回されることもあり、綺麗事だけではない部分もあるが、この幻想を信じられるからこそ綺麗でない部分も飲み込むことができる。と私は思っている)
先ほどから「信じている」という言葉を何度も書いているが、この関係性は概念であり一種のロールプレイであり、言ってしまえば「幻想」である。
アイドルとオタクの間にこのような関係性が存在することをオタクが信じ、アイドルが信じさせて続けてくれることでこの「幻想」は成立している。
しかし、演者の結婚は、これが唯一絶対の「愛」の形ではなく、さまざまな「愛」の形の一つであり、相対的なものでしかないことを嫌が応にも突き付けてくる。
私の愛する貴方はステージの上でしか生きられない人間なのだと、ステージ上と客席で想いを交わし合うことで史上の愛を感じている人間なのだと信じたいが、実際にはそうではなかった。
それが明確にわかってしまうと、途端に自分の信じていたものが陳腐に見えてしまう。
芸能人の熱愛や結婚が発覚したときによく「ディズニーランドのミッキーが着ぐるみを脱いだ」という例え方をされるが、ミッキーが着ぐるみを脱ぐことはミッキーだけ問題ではなく、ディズニーランドという「場」への崩壊であると思っている。
(少なくとも私にとっては)推しの結婚は自分がオタクをすることの決定的な終わりではなく、パフォーマンスが好きな限り推しの出演作を観に行き続けるだろう。楽しむこともできるだろう。
でも、「ステージ上と客席で想いを交わし合うことが、私にとっても推しにとっても史上で唯一絶対の愛の形」という幸せな共犯関係のような幻想は失われ、二度と戻ってはこない。
結婚によって推しのすべてが損なわれるわけではないが、私がとても大切にしていて、推しとも共有できていたと信じていた一部分はポッカリ穴が空いたように失われてしまう。
ほぼタイトル落ちみたいなものだけど、公式のオンラインショップで買って色々と捗ったので書いてみることにした。
超特大オオサンショウウオぬいぐるみと初めて出会ったのは去年から一昨年にかけてのことだったと思う。
観光とも旅行ともつかぬ、午前中に家を出て新幹線の車内でビール飲みながら弁当を使って午後は用事を済ませてホテルに戻って一杯、みたいなよくある一泊二日の旅。
帰りの午前中がポッカリと開いていたのでホテルの周囲をブラブラと散策するかー、そういや京都水族館がペンギンの相関図でバズってたなぁと思い出し、折角なので行ってみることにした。
この時点でオオサンショウウオ自体アウトオブ眼中だったのだが、館内に入るや否や圧倒された。なんなんだ、このオオサンショウウオ推しは!
入口を入ってすぐといえば、もうちょっとキャッチーな生物を展示してあるものじゃないのかと訝る増田を尻目に、彼らはプチャプチャ所狭しと言わんばかりに泳ぎ回り、あるいは何か仲間同士でワチャワチャ、あるいは泰然自若にのたりくたり、と愛らしい姿を振りまいているではないか。
今までのオオサンショウウオ知識といえば和田慎二の漫画「銀色の髪の亜里沙」くらいしか無かった増田は、初めて見るその姿にはノックアウトされ小一時間ほど佇んでしまっていた。元より爬虫類や両生類が大好きなのである。
気付いた時には、頭にあったペンギンの相関図は吹き飛んでしまっており(これはこれで面白かったです。あとクラゲの展示がロマンティックで素敵だったんですが周囲はカップルばかりで浮いてしまってました)
オブジェとして展示されていた超特大オオサンショウウオぬいぐるみに魅了されてしまった。
デカい。とにかく、デカい!人の身長くらいは優にあり、綿がパンパンに詰まったフカフカなお手手(ちゃんと生態に合わせて前脚と後脚の指の本数が違う!芸が細かい!)、キュートな眼差し。模様もキチッと再現され隙が無い。
欲しい~、ねぇママこれ欲しい~!と心の中の五歳児が駄々をこねているのを必死で宥め透かし、この手の施設はミュージアムショップあるから落ち着けと理性でコントロールし、途中の展示は楽しみつつも足早に順路を急いだ。
そして途中の売店で小さいサイズのオオサンショウウオぬいぐるみ達に心を奪われつつ、いざ本丸。そして轟沈。お値段、28,233円なり(現在のオンラインショップでのお値段です。当時もそれくらい)。
さ、さまんえん弱は……途中でブラリと寄った所で買うグッズには……ちょっと、出せないぃ……。
今の自分の視点からは「買えーっ!買えーっ!」とノスタル爺が叫ぶものの、如何せん一目惚れしたばかりだ。愛はここから育んでいくものさ!ご縁があれば、また会える!と、おためごかし
3千円くらいのLLぬいぐるみを買ってお茶を濁しつつ、帰路についた。ちなみに、この子は抱き枕として申し分ない大きさだったので、毎晩ぎゅっとして寝てるよ
帰るや否やオンラインショップをブクマし、時々ページを眺めて入荷があれば値段に煩悶し、売切れたら落胆し、を繰り返していたのだが、最近ようやく清水の舞台から飛び降りる覚悟を決めてポチり、お迎えした。してしまった。最高です。もう言葉はいらない
1年前、俺はふと戦うことに疲れてしまった。
戦いなんてエネルギーの浪費だし、無駄なんじゃないかって思ったんだ。
だからそれ以来、できるだけ戦うことを避けてきた。
仕事上での同僚との戦い、インターネット上でのレスバトル、プロ野球やサッカーの応援、ゲーム上でのオンライン対戦など、ありとあらゆる戦いをやめてきた。
すると、なぜかとても寂しくなった。
争っていた時は戦いなんてストレスでしかないと思っていたのに、戦いをやめると心にポッカリと穴が空いたように虚しさを感じるようになった。
戦うことをやめたら人との繋がりもなくなって、努力しようという気力もなくなって、腑抜けみたいになってしまった。
俺、もう一度戦ってもいいのかな。
再来週にアイカツプラネット+初代アイカツの同時公開の映画があるんだけども、おそらくこれでアイカツが完全に終わりそうで辛い。
そもそもアイカツのテレビ放送はもう一年前に終わってる。現在はYouTubeで、アイカツの役者(アイカツプラネットは実写+アニメのハイブリッド仕様のため、実写パートの役者)がバラエティ番組を配信してるけど、ぶっちゃけるとアイカツ要素なんてあってないようなもんだし、微妙。ただし、番組そのものはタイムマシーン3号のMCと、一部のアイドルのボケがいい塩梅で意外と面白かったりする。
ちゃおの漫画連載は終わったし、専門のグッズショップも全て閉店した。
頼みの綱の……というか、メインのアーケードゲームの更新も、やる気の無さが凄い。稼働当初はなんかコンテンツも少ないけど、そのうち改善されていくだろうな……と思ったけど、全然そんなことはなかった。そもそもアニメをやってないから、テコ入れ用の新キャラが出せないという、割と根本的な問題がある。一年半くらい細々やってて思ったけど、やっぱり着せ替え要素が全然楽しめないのは、ゲームとして致命的だと思うよ。だから、ゲームメインのアイカツヲタも結構プリマジに流れてるじゃん……。
そんなゲームも、次のバージョンで主人公と主人公の憧れのキャラとのユニットを推すことになってるから、割とこれで終わりっぽい空気がある。総集編として、もう一度くらい更新があるかもしれないけど。あと、歴代の主人公のスイング(カード)の排出があるけど、次のバージョンで早々全員が登場するから、その点でももう終わりなんだなって感がある。
アイカツも今年でもう10年。割と早い段階からアイカツに付き合ってきたから、ほぼ10年くらいの付き合いのあるコンテンツになってる。そんな付き合いのあるコンテンツがこうして終焉を迎えようとしてるのを見ると、なんか心にポッカリ大穴が……というレベルじゃないくらいの喪失感があるんよ。
そもそも今のアイカツプラネットが始まったとき、ガンガン宣伝しまくってたくせに、なんであっさり半年で終わらしたのか、よくわからんわ。もうちょっと何とかならんかったのか。
異常な興奮を求めて集った、七人のしかつめらしい男が(私もその中の一人だった)態々わざわざ其為そのためにしつらえた「赤い部屋」の、緋色ひいろの天鵞絨びろうどで張った深い肘掛椅子に凭もたれ込んで、今晩の話手が何事か怪異な物語を話し出すのを、今か今かと待構まちかまえていた。
七人の真中には、これも緋色の天鵞絨で覆おおわれた一つの大きな円卓子まるテーブルの上に、古風な彫刻のある燭台しょくだいにさされた、三挺さんちょうの太い蝋燭ろうそくがユラユラと幽かすかに揺れながら燃えていた。
部屋の四周には、窓や入口のドアさえ残さないで、天井から床まで、真紅まっかな重々しい垂絹たれぎぬが豊かな襞ひだを作って懸けられていた。ロマンチックな蝋燭の光が、その静脈から流れ出したばかりの血の様にも、ドス黒い色をした垂絹の表に、我々七人の異様に大きな影法師かげぼうしを投げていた。そして、その影法師は、蝋燭の焔につれて、幾つかの巨大な昆虫でもあるかの様に、垂絹の襞の曲線の上を、伸びたり縮んだりしながら這い歩いていた。
いつもながらその部屋は、私を、丁度とほうもなく大きな生物の心臓の中に坐ってでもいる様な気持にした。私にはその心臓が、大きさに相応したのろさを以もって、ドキンドキンと脈うつ音さえ感じられる様に思えた。
誰も物を云わなかった。私は蝋燭をすかして、向側に腰掛けた人達の赤黒く見える影の多い顔を、何ということなしに見つめていた。それらの顔は、不思議にも、お能の面の様に無表情に微動さえしないかと思われた。
やがて、今晩の話手と定められた新入会員のT氏は、腰掛けたままで、じっと蝋燭の火を見つめながら、次の様に話し始めた。私は、陰影の加減で骸骨の様に見える彼の顎が、物を云う度にガクガクと物淋しく合わさる様子を、奇怪なからくり仕掛けの生人形でも見る様な気持で眺めていた。
私は、自分では確かに正気の積りでいますし、人も亦またその様に取扱って呉くれていますけれど、真実まったく正気なのかどうか分りません。狂人かも知れません。それ程でないとしても、何かの精神病者という様なものかも知れません。兎とに角かく、私という人間は、不思議な程この世の中がつまらないのです。生きているという事が、もうもう退屈で退屈で仕様がないのです。
初めの間うちは、でも、人並みに色々の道楽に耽ふけった時代もありましたけれど、それが何一つ私の生れつきの退屈を慰なぐさめては呉れないで、却かえって、もうこれで世の中の面白いことというものはお仕舞なのか、なあんだつまらないという失望ばかりが残るのでした。で、段々、私は何かをやるのが臆劫おっくうになって来ました。例えば、これこれの遊びは面白い、きっとお前を有頂天にして呉れるだろうという様な話を聞かされますと、おお、そんなものがあったのか、では早速やって見ようと乗気になる代りに、まず頭の中でその面白さを色々と想像して見るのです。そして、さんざん想像を廻めぐらした結果は、いつも「なあに大したことはない」とみくびって了しまうのです。
そんな風で、一時私は文字通り何もしないで、ただ飯を食ったり、起きたり、寝たりするばかりの日を暮していました。そして、頭の中丈だけで色々な空想を廻らしては、これもつまらない、あれも退屈だと、片端かたはしからけなしつけながら、死ぬよりも辛い、それでいて人目には此上このうえもなく安易な生活を送っていました。
これが、私がその日その日のパンに追われる様な境遇だったら、まだよかったのでしょう。仮令たとえ強いられた労働にしろ、兎に角何かすることがあれば幸福です。それとも又、私が飛切りの大金持ででもあったら、もっとよかったかも知れません。私はきっと、その大金の力で、歴史上の暴君達がやった様なすばらしい贅沢ぜいたくや、血腥ちなまぐさい遊戯や、その他様々の楽しみに耽ふけることが出来たでありましょうが、勿論それもかなわぬ願いだとしますと、私はもう、あのお伽噺とぎばなしにある物臭太郎の様に、一層死んで了った方がましな程、淋しくものういその日その日を、ただじっとして暮す他はないのでした。
こんな風に申上げますと、皆さんはきっと「そうだろう、そうだろう、併し世の中の事柄に退屈し切っている点では我々だって決してお前にひけを取りはしないのだ。だからこんなクラブを作って何とかして異常な興奮を求めようとしているのではないか。お前もよくよく退屈なればこそ、今、我々の仲間へ入って来たのであろう。それはもう、お前の退屈していることは、今更ら聞かなくてもよく分っているのだ」とおっしゃるに相違ありません。ほんとうにそうです。私は何もくどくどと退屈の説明をする必要はないのでした。そして、あなた方が、そんな風に退屈がどんなものだかをよく知っていらっしゃると思えばこそ、私は今夜この席に列して、私の変てこな身の上話をお話しようと決心したのでした。
私はこの階下のレストランへはしょっちゅう出入でいりしていまして、自然ここにいらっしゃる御主人とも御心安く、大分以前からこの「赤い部屋」の会のことを聞知っていたばかりでなく、一再いっさいならず入会することを勧められてさえいました。それにも拘かかわらず、そんな話には一も二もなく飛びつき相そうな退屈屋の私が、今日まで入会しなかったのは、私が、失礼な申分かも知れませんけれど、皆さんなどとは比べものにならぬ程退屈し切っていたからです。退屈し過ぎていたからです。
犯罪と探偵の遊戯ですか、降霊術こうれいじゅつ其他そのたの心霊上の様々の実験ですか、Obscene Picture の活動写真や実演やその他のセンジュアルな遊戯ですか、刑務所や、瘋癲病院や、解剖学教室などの参観ですか、まだそういうものに幾らかでも興味を持ち得うるあなた方は幸福です。私は、皆さんが死刑執行のすき見を企てていられると聞いた時でさえ、少しも驚きはしませんでした。といいますのは、私は御主人からそのお話のあった頃には、もうそういうありふれた刺戟しげきには飽き飽きしていたばかりでなく、ある世にもすばらしい遊戯、といっては少し空恐しい気がしますけれど、私にとっては遊戯といってもよい一つの事柄を発見して、その楽しみに夢中になっていたからです。
その遊戯というのは、突然申上げますと、皆さんはびっくりなさるかも知れませんが……、人殺しなんです。ほんとうの殺人なんです。しかも、私はその遊戯を発見してから今日までに百人に近い男や女や子供の命を、ただ退屈をまぎらす目的の為ばかりに、奪って来たのです。あなた方は、では、私が今その恐ろしい罪悪を悔悟かいごして、懺悔ざんげ話をしようとしているかと早合点なさるかも知れませんが、ところが、決してそうではないのです。私は少しも悔悟なぞしてはいません。犯した罪を恐れてもいません。それどころか、ああ何ということでしょう。私は近頃になってその人殺しという血腥い刺戟にすら、もう飽きあきして了ったのです。そして、今度は他人ではなくて自分自身を殺す様な事柄に、あの阿片アヘンの喫煙に耽り始めたのです。流石さすがにこれ丈けは、そんな私にも命は惜しかったと見えまして、我慢に我慢をして来たのですけれど、人殺しさえあきはてては、もう自殺でも目論もくろむ外には、刺戟の求め様がないではありませんか。私はやがて程なく、阿片の毒の為に命をとられて了うでしょう。そう思いますと、せめて筋路の通った話の出来る間に、私は誰れかに私のやって来た事を打開けて置き度いのです。それには、この「赤い部屋」の方々が一番ふさわしくはないでしょうか。
そういう訳で、私は実は皆さんのお仲間入りがし度い為ではなくて、ただ私のこの変な身の上話を聞いて貰い度いばかりに、会員の一人に加えて頂いたのです。そして、幸いにも新入会の者は必ず最初の晩に、何か会の主旨に副そう様なお話をしなければならぬ定きめになっていましたのでこうして今晩その私の望みを果す機会をとらえることが出来た次第なのです。
それは今からざっと三年計ばかり以前のことでした。その頃は今も申上げました様に、あらゆる刺戟に飽きはてて何の生甲斐もなく、丁度一匹の退屈という名前を持った動物ででもある様に、ノラリクラリと日を暮していたのですが、その年の春、といってもまだ寒い時分でしたから多分二月の終りか三月の始め頃だったのでしょう、ある夜、私は一つの妙な出来事にぶつかったのです。私が百人もの命をとる様になったのは、実にその晩の出来事が動機を為なしたのでした。
どこかで夜更しをした私は、もう一時頃でしたろうか。少し酔っぱらっていたと思います。寒い夜なのにブラブラと俥くるまにも乗らないで家路を辿っていました。もう一つ横町を曲ると一町ばかりで私の家だという、その横町を何気なくヒョイと曲りますと、出会頭であいがしらに一人の男が、何か狼狽している様子で慌ててこちらへやって来るのにバッタリぶつかりました。私も驚きましたが男は一層驚いたと見えて暫く黙って衝つっ立っていましたが、おぼろげな街燈の光で私の姿を認めるといきなり「この辺に医者はないか」と尋ねるではありませんか。よく訊きいて見ますと、その男は自動車の運転手で、今そこで一人の老人を(こんな夜中に一人でうろついていた所を見ると多分浮浪の徒だったのでしょう)轢倒ひきたおして大怪我をさせたというのです。なる程見れば、すぐ二三間向うに一台の自動車が停っていて、その側そばに人らしいものが倒れてウーウーと幽かすかにうめいています。交番といっても大分遠方ですし、それに負傷者の苦しみがひどいので、運転手は何はさて置き先ず医者を探そうとしたのに相違ありません。
私はその辺の地理は、自宅の近所のことですから、医院の所在などもよく弁わきまえていましたので早速こう教えてやりました。
「ここを左の方へ二町ばかり行くと左側に赤い軒燈の点ついた家がある。M医院というのだ。そこへ行って叩き起したらいいだろう」
すると運転手はすぐ様助手に手伝わせて、負傷者をそのM医院の方へ運んで行きました。私は彼等の後ろ姿が闇の中に消えるまで、それを見送っていましたが、こんなことに係合っていてもつまらないと思いましたので、やがて家に帰って、――私は独り者なんです。――婆ばあやの敷しいて呉れた床とこへ這入はいって、酔っていたからでしょう、いつになくすぐに眠入ねいって了いました。
実際何でもない事です。若もし私がその儘ままその事件を忘れて了いさえしたら、それっ限きりの話だったのです。ところが、翌日眼を醒さました時、私は前夜の一寸ちょっとした出来事をまだ覚えていました。そしてあの怪我人は助かったかしらなどと、要もないことまで考え始めたものです。すると、私はふと変なことに気がつきました。
「ヤ、俺は大変な間違いをして了ったぞ」
私はびっくりしました。いくら酒に酔っていたとは云いえ、決して正気を失っていた訳ではないのに、私としたことが、何と思ってあの怪我人をM医院などへ担ぎ込ませたのでしょう。
「ここを左の方へ二町ばかり行くと左側に赤い軒燈の点いた家がある……」
「ここを右の方へ一町ばかり行くとK病院という外科専門の医者がある」
と云わなかったのでしょう。私の教えたMというのは評判の藪やぶ医者で、しかも外科の方は出来るかどうかさえ疑わしかった程なのです。ところがMとは反対の方角でMよりはもっと近い所に、立派に設備の整ったKという外科病院があるではありませんか。無論私はそれをよく知っていた筈はずなのです。知っていたのに何故間違ったことを教えたか。その時の不思議な心理状態は、今になってもまだよく分りませんが、恐らく胴忘どうわすれとでも云うのでしょうか。
私は少し気懸りになって来たものですから、婆やにそれとなく近所の噂などを探らせて見ますと、どうやら怪我人はM医院の診察室で死んだ鹽梅あんばいなのです。どこの医者でもそんな怪我人なんか担ぎ込まれるのは厭いやがるものです。まして夜半の一時というのですから、無理もありませんがM医院ではいくら戸を叩いても、何のかんのと云って却々なかなか開けて呉れなかったらしいのです。さんざん暇ひまどらせた挙句やっと怪我人を担ぎ込んだ時分には、もう余程手遅れになっていたに相違ありません。でも、その時若しM医院の主が「私は専門医でないから、近所のK病院の方へつれて行け」とでも、指図をしたなら、或あるいは怪我人は助っていたのかも知れませんが、何という無茶なことでしょう。彼は自からその難しい患者を処理しようとしたらしいのです。そしてしくじったのです、何んでも噂によりますとM氏はうろたえて了って、不当に長い間怪我人をいじくりまわしていたとかいうことです。
私はそれを聞いて、何だかこう変な気持になって了いました。
この場合可哀相な老人を殺したものは果して何人なんぴとでしょうか。自動車の運転手とM医師ともに、夫々それぞれ責任のあることは云うまでもありません。そしてそこに法律上の処罰があるとすれば、それは恐らく運転手の過失に対して行われるのでしょうが、事実上最も重大な責任者はこの私だったのではありますまいか。若しその際私がM医院でなくてK病院を教えてやったとすれば、少しのへまもなく怪我人は助かったのかも知れないのです。運転手は単に怪我をさせたばかりです。殺した訳ではないのです。M医師は医術上の技倆が劣っていた為にしくじったのですから、これもあながち咎とがめる所はありません。よし又彼に責を負うべき点があったとしても、その元はと云えば私が不適当なM医院を教えたのが悪いのです。つまり、その時の私の指図次第によって、老人を生かすことも殺すことも出来た訳なのです。それは怪我をさせたのは如何にも運転手でしょう。けれど殺したのはこの私だったのではありますまいか。
これは私の指図が全く偶然の過失だったと考えた場合ですが、若しそれが過失ではなくて、その老人を殺してやろうという私の故意から出たものだったとしたら、一体どういうことになるのでしょう。いうまでもありません。私は事実上殺人罪を犯したものではありませんか。併しかし法律は仮令運転手を罰することはあっても、事実上の殺人者である私というものに対しては、恐らく疑いをかけさえしないでしょう。なぜといって、私と死んだ老人とはまるきり関係のない事がよく分っているのですから。そして仮令疑いをかけられたとしても、私はただ外科医院のあることなど忘れていたと答えさえすればよいではありませんか。それは全然心の中の問題なのです。
皆さん。皆さんは嘗かつてこういう殺人法について考えられたことがおありでしょうか。私はこの自動車事件で始めてそこへ気がついたのですが、考えて見ますと、この世の中は何という険難至極けんのんしごくな場所なのでしょう。いつ私の様な男が、何の理由もなく故意に間違った医者を教えたりして、そうでなければ取止めることが出来た命を、不当に失って了う様な目に合うか分ったものではないのです。
これはその後私が実際やって見て成功したことなのですが、田舎のお婆さんが電車線路を横切ろうと、まさに線路に片足をかけた時に、無論そこには電車ばかりでなく自動車や自転車や馬車や人力車などが織る様に行違っているのですから、そのお婆さんの頭は十分混乱しているに相違ありません。その片足をかけた刹那に、急行電車か何かが疾風しっぷうの様にやって来てお婆さんから二三間の所まで迫ったと仮定します。その際、お婆さんがそれに気附かないでそのまま線路を横切って了えば何のことはないのですが、誰かが大きな声で「お婆さん危いッ」と怒鳴りでもしようものなら、忽たちまち慌てて了って、そのままつき切ろうか、一度後へ引返そうかと、暫しばらくまごつくに相違ありません。そして、若しその電車が、余り間近い為に急停車も出来なかったとしますと、「お婆さん危いッ」というたった一言が、そのお婆さんに大怪我をさせ、悪くすれば命までも取って了わないとは限りません。先きも申上げました通り、私はある時この方法で一人の田舎者をまんまと殺して了ったことがありますよ。
(T氏はここで一寸言葉を切って、気味悪く笑った)
この場合「危いッ」と声をかけた私は明かに殺人者です。併し誰が私の殺意を疑いましょう。何の恨うらみもない見ず知らずの人間を、ただ殺人の興味の為ばかりに、殺そうとしている男があろうなどと想像する人がありましょうか。それに「危いッ」という注意の言葉は、どんな風に解釈して見たって、好意から出たものとしか考えられないのです。表面上では、死者から感謝されこそすれ決して恨まれる理由がないのです。皆さん、何と安全至極な殺人法ではありませんか。
世の中の人は、悪事は必ず法律に触れ相当の処罰を受けるものだと信じて、愚にも安心し切っています。誰にしたって法律が人殺しを見逃そうなどとは想像もしないのです。ところがどうでしょう。今申上げました二つの実例から類推出来る様な少しも法律に触れる気遣いのない殺人法が考えて見ればいくらもあるではありませんか。私はこの事に気附いた時、世の中というものの恐ろしさに戦慄するよりも、そういう罪悪の余地を残して置いて呉れた造物主の余裕を此上もなく愉快に思いました。ほんとうに私はこの発見に狂喜しました。何とすばらしいではありませんか。この方法によりさえすれば、大正の聖代せいだいにこの私丈けは、謂わば斬捨て御免ごめんも同様なのです。
そこで私はこの種の人殺しによって、あの死に相な退屈をまぎらすことを思いつきました。絶対に法律に触れない人殺し、どんなシャーロック・ホームズだって見破ることの出来ない人殺し、ああ何という申分のない眠け醒しでしょう。以来私は三年の間というもの、人を殺す楽しみに耽って、いつの間にかさしもの退屈をすっかり忘れはてていました。皆さん笑ってはいけません。私は戦国時代の豪傑の様に、あの百人斬りを、無論文字通り斬る訳ではありませんけれど、百人の命をとるまでは決して中途でこの殺人を止めないことを、私自身に誓ったのです。
今から三月ばかり前です、私は丁度九十九人だけ済ませました。そして、あと一人になった時先にも申上げました通り私はその人殺しにも、もう飽きあきしてしまったのですが、それは兎も角、ではその九十九人をどんな風にして殺したか。勿論九十九人のどの人にも少しだって恨みがあった訳ではなく、ただ人知れぬ方法とその結果に興味を持ってやった仕事ですから、私は一度も同じやり方を繰返す様なことはしませんでした。一人殺したあとでは、今度はどんな新工夫でやっつけようかと、それを考えるのが又一つの楽しみだったのです。
併し、この席で、私のやった九十九の異った殺人法を悉ことごとく御話する暇もありませんし、それに、今夜私がここへ参りましたのは、そんな個々の殺人方法を告白する為ではなくて、そうした極悪非道の罪悪を犯してまで、退屈を免れ様とした、そして又、遂にはその罪悪にすら飽きはてて、今度はこの私自身を亡ぼそうとしている、世の常ならぬ私の心持をお話して皆さんの御判断を仰ぎたい為なのですから、その殺人方以については、ほんの二三の実例を申上げるに止めて置き度いと存じます。
この方法を発見して間もなくのことでしたが、こんなこともありました。私の近所に一人の按摩あんまがいまして、それが不具などによくあるひどい強情者でした。他人が深切しんせつから色々注意などしてやりますと、却ってそれを逆にとって、目が見えないと思って人を馬鹿にするなそれ位のことはちゃんと俺にだって分っているわいという調子で、必ず相手の言葉にさからったことをやるのです。どうして並み並みの強情さではないのです。
ある日のことでした。私がある大通りを歩いていますと、向うからその強情者の按摩がやって来るのに出逢いました。彼は生意気にも、杖つえを肩に担いで鼻唄を歌いながらヒョッコリヒョッコリと歩いています。丁度その町には昨日から下水の工事が始まっていて、往来の片側には深い穴が掘ってありましたが、彼は盲人のことで片側往来止めの立札など見えませんから、何の気もつかず、その穴のすぐ側を呑気そうに歩いているのです。
それを見ますと、私はふと一つの妙案を思いつきました。そこで、
「やあN君」と按摩の名を呼びかけ、(よく療治を頼んでお互に知り合っていたのです)
「ソラ危いぞ、左へ寄った、左へ寄った」
と怒鳴りました。それを態わざと少し冗談らしい調子でやったのです。というのは、こういえば、彼は日頃の性質から、きっとからかわれたのだと邪推して、左へはよらないで態と右へ寄るに相違ないと考えたからです。案あんの定じょう彼は、
「エヘヘヘ……。御冗談ばっかり」
などと声色こわいろめいた口返答をしながら、矢庭やにわに反対の右の方へ二足三足寄ったものですから、忽ち下水工事の穴の中へ片足を踏み込んで、アッという間に一丈もあるその底へと落ち込んで了いました。私はさも驚いた風を装うて穴の縁へ駈けより、
「うまく行ったかしら」と覗いて見ましたが彼はうち所でも悪かったのか、穴の底にぐったりと横よこたわって、穴のまわりに突出ている鋭い石でついたのでしょう。一分刈りの頭に、赤黒い血がタラタラと流れているのです。それから、舌でも噛切ったと見えて、口や鼻からも同じ様に出血しています。顔色はもう蒼白で、唸り声を出す元気さえありません。
こうして、この按摩は、でもそれから一週間ばかりは虫の息で生きていましたが、遂に絶命して了ったのです。私の計画は見事に成功しました。誰が私を疑いましょう。私はこの按摩を日頃贔屓ひいきにしてよく呼んでいた位で、決して殺人の動機になる様な恨みがあった訳ではなく、それに、表面上は右に陥穽おとしあなのあるのを避けさせようとして、「左へよれ、左へよれ」と教えてやった訳なのですから、私の好意を認める人はあっても、その親切らしい言葉の裏に恐るべき殺意がこめられていたと想像する人があろう筈はないのです。
ああ、何という恐しくも楽しい遊戯だったのでしょう。巧妙なトリックを考え出した時の、恐らく芸術家のそれにも匹敵する、歓喜、そのトリックを実行する時のワクワクした緊張、そして、目的を果した時の云い知れぬ満足、それに又、私の犠牲になった男や女が、殺人者が目の前にいるとも知らず血みどろになって狂い廻る断末魔だんまつまの光景ありさま、最初の間、それらが、どんなにまあ私を有頂天にして呉れたことでしょう。
ある時はこんな事もありました。それは夏のどんよりと曇った日のことでしたが、私はある郊外の文化村とでもいうのでしょう。十軒余りの西洋館がまばらに立並んだ所を歩いていました。そして、丁度その中でも一番立派なコンクリート造りの西洋館の裏手を通りかかった時です。ふと妙なものが私の目に止りました。といいますのは、その時私の鼻先をかすめて勢よく飛んで行った一匹の雀が、その家の屋根から地面へ引張ってあった太い針金に一寸とまると、いきなりはね返された様に下へ落ちて来て、そのまま死んで了ったのです。
変なこともあるものだと思ってよく見ますと、その針金というのは、西洋館の尖った Permalink | 記事への反応(0) | 22:33
いや、それだけでこうなるとは考えにくい。
そして、それが出来るのは“部屋の中”にいた者だけ。
凍りつくような冷気が背筋を吹き抜けていくのを感じた。
慌てて俺たちは一階と同じように隊列を組む。
何度も周囲を見回した。
いや、焦りから視線が泳いでるだけ、といった方が正しいかもしれない。
「ダメだ、どこにもいないよ!」
「私、女だけど、ミミセンの方が血液サラサラしてて飲みやすいわよ!」
「おい、タオナケ! 仲間を売るんじゃない!」
いつ解かれるかも分からない緊張感に耐えられず、俺たちの陣形は乱れつつあった。
こちらの様子を窺っているかもしれない相手に、そのような隙を晒すのはマズい。
早く見つけないと。
けれど一瞥しただけで分かるほど狭い空間には、どう見ても潜める場所は存在しない。
見落とすような場所なんて……。
その時、ハッとした。
「そうか、屋根裏だ!」
仲間も一斉に天井へ顔を向けた。
「で、出てこい!」
何の反応も返ってこないが、俺たちは警戒を解かない。
「ほれっ!」
シロクロは近くにあったモップを拾いあげると、天井をドンドン突いた。
すると、バタッと大きな音がした。
己を奮い立たせるように、二度目の威喝は全力でやった。
その後またも静寂が流れたが、今回は数秒と続かない。
「えっ!?」
俺たちがその状況を理解する間もなく、その空間から何者かが勢いよく降りてくる。
虚を突かれた俺たちは不覚にも立ちすくんでしまう。
ただ一人、シロクロだけは怯まない。
何者かが降りてきた時には、既に前傾姿勢で走り出していた。
「は? ドラキュ……」
ドラキュラは催眠術を唱えようと言葉を紡ぐが、わずかだけシロクロのタックルが早かった。
「ぐえ! な、なにを……」
床に倒れこんだドラキュラに、すかさずシロクロはマウントポジションをとる。
一気に勝負を決めるつもりのようだ。
「行くぞ!」
そう言ってシロクロは、なぜかニンニクを自分の口に放りこんだ。
突然ニンニクを食べだしたシロクロに、ドラキュラは戸惑いの表情を浮かべる。
俺たちも困惑していた。
「シロクロ……それは自分にじゃなくて、ドラキュラに使うんだ」
「え、そうなのか……ぶうぇっ!」
それがドラキュラの顔にぶっかかる。
「ぎゃああ!?」
ドラキュラが情けない叫び声をあげながら、足をバタつかせている。
どうやらニンニクが効いているようだ。
この隙を見逃してはいけない。
「俺たちも続くぞ!」
「高校までゲーム・テレビなど数々の娯楽を禁止された結果、社会からの隔絶感がすごい→大人で反動が出る・「制限があった方が」などさまざまな声」
https://togetter.com/li/1405794
これ実は自分も同じで。
自分の場合は親が某宗教団体で、その親に生まれたのでその宗教を生まれた時から信じさせられてたいわゆる二世というやつだった。
その影響もあるが、自分の親はゲームとかあと民放とかを見せない、漫画買わないという感じの典型的な毒親でした。
(他の同じ宗教信じてた子達はゲームも漫画も買ってもらってたりしたから、ちょっと変には思ってたが)
何やかんや高校生になり、親と対立して宗教抜けて(今は和解済)上京して大学生になり社会人になって今に至るんですが、
やはり幼い頃~思春期に上記であげたような娯楽を体験してない喪失って本当にデカい。
友達と話をしてる時でも、例え今そんなにゲームやってない人でも昔やったゲームの話とかは出来て「あのボスがね」「あのコマンドがね」ってなる。
自分はその時どうするかと言うと、「全然分からないんだけどどういう事?」と問いかけるか何もツッコミ入れずにそのままこのゲームの話題が終わるの待つかどちらか。
前者の場合だと「??!」みたいな顔されてさも異世界から来た奴を見るような目をされるのを何度もされたので本当に自分がゲームを殆ど知らない、という事を知ってる仲がいい友人たちにしかやらない。
後者の場合だと取り敢えず乗り切れるのだが、知ってる前提で次話されるリスクがあるのは否めない。
そんなこんなでこの幼い頃やった娯楽の話って、大人になって今話す上でも前提になってるという事実に気付かされる。
ゲームやってる人はそれを土台に今のソシャゲームに至るまでの過程があって、それで話す幅も広がるし
漫画もそうで、幼い頃見た漫画を元にやっぱり別の漫画を、みたいなのがあるだろうし。
結局、小さい頃やった事って何にしても基礎になってて、そういう思い出があるから深みがある話って出来るんだなぁって思う。
今から同じこと(たとえばスーファミとか64とか)やったところでそれは全然埋められないし、
もし今から買ってやりこんでってやっても結局それってみんな小さい頃にやってたんだなぁと思うと本当に寂しいし何やってんだろ俺って言う気分になりそう。
もう1つ。
一人暮らし始めた時に、じゃあその親から解放されたからテレビゲーム買ってやるかー!という気分には実はならなかった。
多分親から言われてたのもあるのだが、何となく買うのが億劫なのだ。
感覚的にはこれが一番近いのかもしれない。(このツイートはオシャレに関する事なのだが、そういえば自分もその類のことは全然ではある)
https://twitter.com/n_kurakura/status/1240725145137758208
結果として解放された後もその呪縛みたいなのがあって、ずっとそこに居続けるみたいな現象?っていうやつなのかなとも思う。
幸いにして音楽(聞いたり演奏したり作ったり)とか禁止されてた漫画とかは今では買う事は趣味になってるので、もしかしたらテレビゲームは合って無かったのかなぁとも思うが、
ゲーム禁止された結果なのかなとも(禁止にされてたからこそ、別の方面に目がいった)考えてる。
ただ思う。
やっぱり娯楽を親から禁止という事を言うもんじゃないよ。大人になったときにポッカリなにか空いたやつになってしまう、本当にまずい。
数日前までなんとか開催する方向だった学位授与式が、ついに息絶えた。
県内も何校か中止って言ってるもんな、ウチも時間の問題だろうな〜…と覚悟はしていたが、いざ本当に中止になってみるとなんだかポッカリ穴が空いたような気持ちになった。
数日経ってはじめて、「かなしい」と思った。
大学生活に思い出がたくさんあるかといえば、実はそういうわけでもない。
サークルはほぼ幽霊部員みたいなものだったし、学部でもとくべつ仲の良い友達ができたわけでもない。
私はオタクをしているが、オタ活での方が様々な出会いがあったし、学んだことがあったな〜なんて思うくらいだ。
袴を着て、みんなに会えないからだ。
ご覧いただいている方は
「なんだそんなこと」とお思いになるかもしれない。
そんなことである。
成人式も卒業式もスーツで出席するつもりだった。家庭の事情というやつだ。
でも振袖を着てみたいという気持ちはあったし、女袴にブーツで卒業式…なんていうザ・ハイカラな格好には、幼いころから憧れた。
憧れたけど言えなかった。
けれども憧れていることを家族は察していたので、
https://anond.hatelabo.jp/20200203232919
https://anond.hatelabo.jp/20200218234717
お金の掛かる趣味なので、友人には公言できないからね。値段を言うと確実に引かれてしまうよ。いい機会なので、一介のエンジニアがエドワードグリーン(EDWARD GREEN)のMTO(Make to Order:個別受注生産)に手を出し始めるまでの革靴遍歴についてまとめてみようと思う。ちなみにグリーンのMTOは、日本でオーダーすると25万円くらいの高級品。これを連発することになるだなんて誰が予想できただろう?
初めて買った本格靴はトリッカーズ(Trickerʼs)のBOURTON(バートン)だった。ちなみに “本格靴” って言葉はバズワードなので定義はないんだ。自分は “グッドイヤーウェルト製法で作られた靴” という意味で使ってる。
社会人1年目のボーナスで買ったから8年前かな。当時は日本に直営店が無かったから、渋谷にある革靴のセレクトショップ “トレーディングポスト” で購入した。本格的な夏を迎えた蒸し暑ーい日に、現金7万円を財布に入れて電車に揺られてた。靴に7万円だなんで自分はどうかしてると思って、心臓がバクバク脈打ってたのを覚えてる。高級靴店に汗だくはマズいよなーと思って、お店近くのファミマで涼んでた。汗が引いたら、ついにトリッカーズとご対面。第一印象は「かっこいい!!」だった。これまでの雑念はついぞ忘れて、迷わずに買った。スーツは着ないしTシャツもOKな職場だけど、雨の日以外は必ず履いてた。新社会人の自分を大きくみせてくれる相棒だった。
のちに、革靴は一度履いたら2日間は寝かせた方が良いことを知った。革靴は水分をよく吸収するからね(だから、もちろん木製のシューツリーを入れるんだ)。そして相棒が寝ている間、僕のテンションを上げてくれる2足目の靴を探すことになった。この頃から革靴の沼に片足を突っ込んでいたのかもしれない。
初めての本格靴にトリッカーズを選んだ理由は、 “ロイヤルワラント” に認定されているためだった。これは英国王室からメーカーに送られる認定制度で、 “所定の評価基準を満たす品質がありますよ” という指標になる。ただ当時の自分は品質なんて気にしていなくて、「ロイヤルワラント!?かっこいい!!」とだけ思ってた。007のボンドとか、シャーロックのホームズが纏ってるような英国紳士の装いが大好きなんだ。そんな彼らが愛用するチャーチ(Church's)やクロケット&ジョーンズ(Crockett&Jones)に手を出すのは自然な流れだった。
この頃から伊勢丹新宿のB1F、丸の内のブリティッシュメイド、表参道のチャーチ路面店にヴァルカナイズロンドンなど、イギリス靴が置いてあるお店に月一くらいで顔を出すようになった。モデルを眺めてると「これ、最高級靴読本で見たやつだ!!」となることもあって、顔のニヤニヤが抑えられなかった。イギリスはもともと家具とか鞄とかを親子世代に引き継いでいく文化があるらしい。靴になると “子に引き継ぐ” のは難しいけど、それでも一生モノとして使えるように、靴底を張替えられるように手間をかけて作られてる。“一生モノ” っていうのが靴業界のセールストークなのか今はまだ分からないけど、自分にはとっても魅力的に映ってるんだ。
2足目に選んだのはチャーチのDiplomat(ディプロマット)だった。トリッカーズのBOURTON(バートン)がアメフト選手だとすると、Diplomatはその名の通り外交官のような落ち着いた雰囲気。高い買い物になるので悩んでたけど、チャーチが過去に扱ってた伝説のラスト“73” の限定復刻モデルということで、頭の中では両親に「こんな自分でごめんね……」なんて謝りながら、勇気を振り絞って買ったのを覚えてる。トリッカーズのような質実剛健さはないのですっごく丁寧に扱ってた。ゲリラ豪雨に遭った日なんて、靴をその場でぬいで抱えてたから今思い出しても恥ずかしくなる。後述するようにもうお別れしてしまったけど、今この瞬間でも同じ行動をとったと思う。それくらい大事だった。
これの経験がトラウマになって3足目にはクロケット&ジョーンズのPembroke(ペンブローク)を選んだ。グレインレザーになっているモデルだったので、多少の雨でもへっちゃら!これで雨の日も晴れ日も、(病めるときも健やかなるときも笑)革靴と一緒だー!なんて思って一人でテンション上がってた。
そうそう、イギリス靴ってモデル(型番)が人物名や地名になってるんだよね。英数字の羅列よりも愛着が湧くし、ある界隈では擬人化されてるとかされてないとか……も納得だね笑
チャーチのくだりでも書いた “ラスト” って何だ?って思うよね。ラストというのは靴製造で使う木型のこと。職人さんはこのラストに革を被せて靴型を作ってるんだ。ラストの形状がそのまま足を入れる空間の形状になっている。だから、ラストの種類は革靴を選ぶ上ですっごく重要なパラメータなんだ。ただ、例えばチャーチだったらDiplomat(ディプロマット)はラスト173、Burwood(バーウッド)はラスト81、って具合に各モデルと紐付いてることが多い。なので、自分の足型には81ラストが合うのに、モデルとしてはDiplomatが欲しいよーっていうときは、困る!笑 (こんな悩みも、のちにエドワードグリーンが解決してくれるなんてびっくりだよね。)
本格靴のサイズ表記には、一般的なサイズに加えて “幅(ウィズ)” と “ラスト” が併記されている。サイズとウィズよりも大事なのがラストで(ラストはもう大丈夫だよね?)、自分の足型に合ってないと僅かな空間ができたり、小指の先が少し押されたりする。つまり既製品で満足するためには、この3つの組み合わせが足型にピタリと一致しないといけない。加えて本格靴は中物がコルクでできているので、しばらく履くと形状が変化する。つまり自分に合ったサイズを見つけるという行為は、トンデモない組合わせ最適化問題を解くようなものなのだ。
一度「このサイズ、足型に合ってるのかなあ?」と思い初めたが最後、喉に刺さった小骨のようなもので、一日中違和感を感じるようになった。伊勢丹や阪急で仲良くなった店員さんに相談したところ、自分は甲高幅広の日本人系でおまけに左右の足幅が数ミリ違うので、完全に合うサイズを見つけるのは至難の業と診断された。それならチャーチ、クロケット&ジョーンズ、チーニーから主要ラストのモデルを集めるぞ!とおかしな発想をしてしまい、最終的にチャーチの81ラストが一番合う!と結論するまで本格靴を10足も買うことになってしまった。
話はここでは終わらないんだ。ある出会いをきっかけに、思い入れのあるトリッカーズのBOURTON(バートン)を残して、集めたイギリス靴を全て処分してしまった。それは革靴界の老舗名門エドワードグリーン(EDWARD GREEN)との出会いだった。価格は20万近いので、文字通りこれまでの本格靴とは価格が1桁違う。もともと手が届かないと思ってたんだけど、妻とフラフラ散歩してたとき、気になって直営店に入ってみたんだ(高いから買うつもりはなかったけど、革靴ってこんなに素敵なんだよーって言いたくて、少し背伸びしたのは内緒ね笑)。そのとき僕が履いてた靴はクロケット&ジョーンズのISLAY(アイラ)だった。007スカイフォールでボンドが履いてたことで有名で、とっても鼻高々だった。エドワードグリーンの靴にも引けを取らないかっこよさだと確信していた。ただ、CADOGAN(カドガン)のラスト202を試着させてもらったとき、かっこよさよりも大事なことに気付いたんだ。CADOGANに足を入れ進めると、行き場を無くした空気が圧縮されて、ぷしゅっと踵から抜ける音が鳴った。そして、右足の土踏まずから甲を回って右小指まで滑らかに包まれる感覚があった。極めつけにヒールカップは僕の小振りな踵をしっかりと掴んでくれた!すぐに「これだ!!」と思った。妻の手前、さすがに即購入はできなかった。「なーに言ってんの!買わないでしょ笑」と言われるのがオチだった。そして1週間後、またお店の前に立っていたのはみんなの想像通りだ。
エドワードグリーンのラスト202との出会いは、サイズに悩んでいたこれまでの自分を肯定してくれるようだった。これまで集めたDiplomat(ディプロマット)やPembroke(ペンブローク)といった本格靴は、僕の足には合わなかったけどとっても魅力的な靴だった。もっと履いてくれる人の元で大事にされて欲しいと思って売ることにした。処分した後は胸にポッカリと穴が空いたようだったけど、あの子達を想うと不思議と寂しくはなかった。少しずつあの子達のいない生活に慣れ始めた頃、胸の中には黒くモヤモヤした霧がかかっていた。それは、ジョンロブ(JOHN LOBB)やガジアーノ&ガーリング(GAZIANO GIRLING)は果たしてどういったフィッティングなんだろうというものだった。この頃の自分は、大事な靴をまた手放すことになるんじゃないかって、まともにエドワードグリーンを直視できなかったように思う。
すぐに銀座三越にジョンロブのCITY2(シティ2)とWILLIAM(ウィリアム)を試着しにいった。エドワードグリーンと同じ衝撃だったなら、その場で買う決意をしていた。値段をどうこう言っている精神状況ではなかった。結果、どうサイズ調整しても踵が緩かった。次に表参道のトレーディングポストでガジアーノ&ガーリングのST.JAMES(セント・ジェームズ)を試着させてもらったけど、幅広な自分の足にはとっても窮屈だった。
全てが報われた気がした。僕の足にはどんな高級靴よりも、エドワードグリーンの202ラストが合うって確信した。今まで積み上げてきた経験は無駄じゃなかったんだよって、別れた靴達が言ってくれた気がした。ST.JAMESを履きながら、泣き笑い顔をしてたから店員さん驚いてたんじゃないかな。
エドワードグリーンの良いところは、モデルに複数のラストが割当てられているところなんだ。だから、「モデルはCHELSEA(チェルシー)にして、ラストは202にしよー。」なんてことができるんだ。例外はあるけどね。そうこうしてるうちに、エドワードグリーンが4足になっちゃった。もちろん全部ラスト202だし、雨用に “ユタカーフ” っていうオイルドレザーを使ったモデルも揃えちゃった。雨の日でもグリーンを履きたいっ!!
ただモデル毎に推奨ラストっていうのがあって、それを満足しない組み合わせだとMTO(セミオーダー)になる。僕はとってもGalway(ガルウェイ)っていうモデルが欲しかったんだけど、なかなかラスト202で販売されないのでオーダーしてみることにした(もちろん、雨の日でも履けるようにユタカーフで頼んだ笑)。日本で価格を聞いたらsurcharge込みで25万円!うちは子どももいなくて共働き、おまけに妻は革靴を理解してくれてるから払うことはできるんだけど、少し尻込みした。8年前のように、靴に25万円だなんで自分はどうかしてると思って、心臓がバクバク脈打ってた笑 念のため、モデルについて過去に問い合わせていたロンドン本国のsales担当にメールしてみたら、関税込みでもずっと安い!ということでロンドン本国にオーダーしてみることにした。彼とはすごい気が合って、2モデルもオーダーしちゃった!ここまで来て、増田に “革靴” の文字があったからビックリしてこれを書いてるよ。
エドワードグリーンに出会ってからとっても散歩が増えた笑 一緒に歩く時間が本当に幸せなんだ。けど最近、革靴の個体差が気になってる。本格靴には手作業の工程があるから、職人さんの “くせ” からくる数ミリオーダーの僅かな偏りがある。気にしたくないんだけど、ちょっとだけ気になる。この先にあるのはフルオーダーのBespoke(ビスポーク)なのも分かってる。去年の年末時点で、これ以上ないくらい最高峰のジョンロブとガジアーノ&ガーリングのBespoke価格は6500ポンドと5000ポンド。今日時点のレートだと933533円と718102円。革靴は怖い。時計とかと違って、最高級品も手が出せちゃうんだ。。。
ああー胸が痛い
もうすぐクリスマスだ。冬の音楽を聴きながら布団に潜っています。
大学の授業が終わったときに、これから最寄り駅までの中央線路沿いの小道を歩きながら、なんともやりきれない感じを僕はずっと抱えて歩いています。
心にポッカリ穴が開いたような、左の胸がそわそわする感じ。
最近は大学外の仕事がけっこう忙しくなってきて、やりがいのある仕事を任せてもらっている。
正直、その現場に慣れてくると大学で受けてる授業が何も役立たないことも知る。
大学で遊んでる奴らがいかに浅はかで何も考えてないやつだと思うと意識観がだいぶずれてきて、友達なんていなくなってしまう。
それでも大学に卒業はしなくちゃいけないから授業はちゃんと受けてる。
大学に通うのは週に3回か4回、1コマ2コマを受けるために短い時間で大学に通っている。
そしておれはこの可愛い子たちの誰にも見向きもされないままつまらない授業を受け、そのまま帰らなければいけない。
大学のどの人とも話さないままおれは口を閉じたまま、可愛い子を見つめることしかできない。
この辛さがわかるか!
鍋に入れられたじゃが芋の皮が剥けるように。
あるいはエビの色が変わるように。
まさにあの沸騰し切ったスタンドにいた僕は
晒されていた。
ゴール裏では毎度痛いほど思い知る。
自分が何者なのか。
誰といても、何を叫んでいても、結局いつも自分自身と向き合うハメになる。
ずっと昔の話。
でもコンサドーレはどうしようもなく弱かった。
最下位も連敗も勝点の話も全部嘘じゃなくまだ心の中にある。もちんろんインターネットや本の中にも。HDDからは消した。
クラブがなくなるかもしれない。そんな話もあった。
クラブの有り様を教えてくれると同時に、号令を出した。
「みんなで強くなっていこう」
クラブを自分たちが強くしていくという思いで、まだそこに無いものに希望を持って応援して欲しい。
これが福音なのか世迷言なのか、疑う時間も許されないまま、次々と花火は上がった。
数えきれないほどの素晴らしい選手がやってきて、コンサドーレは偉大な選手たちを文脈に取り込みながら、階段を登っていった。思っていたよりもずっと速いスピードで。
「みんなで強くなっていこう」
僕らは、僕自身は強くなれたのだろうか。
同点ゴールが決まるその瞬間まで、今を含め永遠とも感じられる「負けている時間」が怖くて辛くてたまらないのだ。
それは勝ちたいと思うほど強く跳ね返り、かき消そうと声を出すほどピッチが遠い。
時計に目をやる回数も増える。
前半途中でビールはもう無い。
10.26の話。
後半、同点。
ビルドアップは狙われ、追いやられ、ピッチの半分よりこちらにボールが来ない。
また意識が遠のいていくのを感じた。
88分。
やっぱりダメか…武蔵のトラップが収まらなかった時、いやもっと前から、タイトルとはそうか、もっともっと何か…
ずっと余計なことを考えていたように思う。
最後のチャントが歌われ、リバウンドメンタリティと呼ぶものなのかスタンドの熱は上がっている。
空中にボールが出た瞬間、ポッカリとゴール前。頭ひとつ。誰か。入った。深井だ…!!
クラブの持つ長い長い文脈を辿っていくと、意味があると思えてくる点と点が見つかる。チームが苦しい時、希望を持たせてくれたユース達、怪我、決勝…
朝から視点も趣向も違う人間の様々な念が交錯していた埼玉スタジアムのスタンドで、赤黒こそが人生だと歌う集団が、その細胞からゴールを喜んでいる。
選手がかつてないほどスタンドを煽り、それに応えるように声を張り上げた時、全ての感情が自分だけのものであり、今宝物のような幸福に包まれていることを実感した。
「こんなことって無いよなぁ」
花火は上がらず、
タイトルは取れなかった。
あれから1週間。
当たり前のようにリーグ戦があり(当たり前のように勝ち!)間も無くシーズンが終わる。あれからというもの、少し騒がしい札幌と北海道、コンサドーレについて考えている。
大きな感動に感謝している。でもあの日のことじゃない。ずっと前から今日までのことに。
電車で、工事現場で、コンビニで、学校で、新川通りで、会社で、駅前で、大通り公園で、
ファイナリストとして胸を張って1週間暮らしていた人たちがいる。
そんな奴がいるなんて誰も思いもしないだろうけど。
そんな日が来るなんて思っていなかった。
あのひりついた感覚が、日灼け跡に残ってる。
もう1度感じたいし、もうあんな思いは嫌だ。
90分で終わらせたい。けど120分でもいい。
目を逸らすことはもうない。ないと思う。
今すぐ札幌ドームで、