はてなキーワード: 追想とは
この話は難解という感想をよく見るが、その実は全く逆で、宮崎駿が監督作品として一貫して伝えたかった事を、教養のない愚かな大衆の為に限りなく簡潔で単純なストーリーに落とし込んだ結果、宮崎駿自身も「訳が分からなくなった」作品である。
この作品は宮崎駿の自叙伝であることは既によく知られているが、彼の内面やバックグラウンド、そしてこれまでの作品で彼が伝えたかったテーマの一貫性を保っている。
彼はそもそもこれまでの作品にも自分と周囲の環境とを幾度となく投影してきた。ただし、それは一部のマニアにしかわからないものであった。今回は、そのベースに加えて現実の宮崎駿自身の回想を複雑に絡ませて投影されているだけでなく、そのものずばりで作品のオマージュという形で追想しているのだ。
そしてここからが重要な点だが、当然それは単なる追想ではなく彼が監督作品で一貫して伝えたかった「生きるとはどういうことか」というテーマに対して「自分はこうしたがダメだった」のだというメッセージになっている。
戦闘機の風防を量産する軍需工場の経営をしていた父のもとで軍国少年として育ち、裕福ながらも厳しい家庭で母の愛を十分に受けることができなかった宮崎は、敗戦後左翼に傾倒して東映アニメーションで高畑功と出会い、強い影響を受けて監督作品にそれを秘めるメッセージをこめてきた。
これまでの監督作品で散りばめられていたオマージュや背景設定には、子ども向けの作品でありながら大人には「鑑賞者の教養」をもってして強烈な現代資本主義と衆愚政治に対するアンチテーゼが展開されてそれこそが深みとして楽しめるものになっていたのだ。
だがそれは一部のマニアだけが知るものとなり、実際に「大人」である大衆が想定以上に教養がなかったがためにジブリ作品のストーリーやアニメーションとしてのレベルの高さといった表面的なものばかりが「良い」とされ、宮崎駿や高畑功が伝えたかった事は伝わらなかったのである。
それでも宮崎駿は諦めず、本作のアオサギたる鈴木敏夫にそそのかされて愚かな大衆と私腹を肥やす連中のために作品を作り続けた。いつか伝わるだろうと鑑賞者を信じて。
いや、もう飛べないのに何度も何度も鈴木敏夫に首根っこをつかまれて。
そうして作った過去の作品たちだが、まるで伝わらなかった。そして彼は遂に「諦めた」のである。「諦観」にも近いだろう。戦後の日本人が当然に持っていた強く気高い教養は、戦後75年高まるどころか全く失われてしまった。
まさに劇中のインコのように、脳みそが小さく何も考えることができない、ただぴーちくぱーちくインターネットで喚き、特異なものを攻撃する。コンテンツをひたすら消費する愚かな大衆に対する、宮崎最後の強烈にシニカルな表現である。
そして現代日本人を代表するように庵野のような表現と個人主義的な自己実現による自己救済、新海のような風刺のない純潔な大衆作品、そして特に何もない残せていない息子が残った。中盤から終盤にかけて、継母のタッチが明らかにジブリのキャラではなく、庵野や新海といった顔の印象を残しているのは、「俺はこう生きた、お前らもあとは好きにやれ」という餞であろう。
こうした自身の溜まりにたまり、ある種の呪いに近しい諦観を、いよいよ吐き出し昇華せんと最後の力を振り絞って、教養が無くてもそれとわかるように単純かつオマージュもジブリ作品にし、走馬灯のように仕立てた。大叔父は死期を間近に控えた自分自身であり、13個の積み木と世界はスタジオジブリそのものである。自分自身が、自分自身に対してケジメをつけた作品なのだ。
「作家は経験したことしか書けない」は宮崎駿とて例外ではない。自己を総括するように、母性に対する渇望と周囲の女性達との思い出が上手く母・継母・見守るおばあちゃんたちといった具合に添えられている。
だが、この作品は紛れもなく宮崎駿の自伝かつ遺書であり、「君たちはどう生きるか」はこれまで一切メッセージが伝わっていなかった人間達に対する、まっすぐな問いかけである。
追記:
残念なことに、この作品を観て本当の意味で「あぁこれはねぇ~」と嬉々としてはしゃいで満足するのは岡田斗司夫ぐらいで、上記のような内容を今にYoutubeでレビューをするだろう。
考えてみるとほぼ毎週見てますねぇ!
見てない週は土日仕事でした(半ギレ)年末ってチョーS(師走)だよな!
大体の流れ覚えてるし飽きちゃうんじゃないかと心配してたけど全部楽しかった(小学生並みの感想)
旅の思い出を追想してるみたいな。
席はかなり埋まってて、中高生とか家族連れも多い。小学生グループとかもいたり。
若い人が多いと屋根が直るのとカーナビのとこで笑いが起きるんだけど、一体感あって好き。
気付いたこととか
・初対面の相手に扉を探してるんだといらん事言う草太。なんで扉を?とかツッコまれたら今聞いたことは忘れなさいとか誤魔化すんだろう。あいつは昔から情報開示が雑なんだよ…
・すずめの「うちの子になる?」初回だと聞き流してて、ダイジンを勝手に女子高生の子供になりたがるやべー猫だと思ってた
・かもめのジョナサンとはつ恋はなんかの隠喩だろうけど内容よく知らん。あらすじみたが分かるようでわからん。
・すずめの名前知ってるのは自己紹介聞いてたからかと思ったけど、人並みに賢いから表札とか見たんかもね
・チカの男の話のとこ、聞きたくないと聞き飽きたって言ってたの初めて聞き取れた。やっぱシネコンの方が音響いいのかな。
・旅館が繁盛してるからダイジンもそこにいたのかと思ったが、すずめ自体にダイジンの加護があるんかもね。
・稔君、おばさんを家に送ってあげてるのかと思ってたんだけど、他所のスレで小説読んだ人から職場に帰ってきただけと教えてもらった。ですよねぇ~…
・神戸のバーで、深夜に自転車の女性が挿入されるの、単なる風景描写かと思ったけど店員の人が帰ってるシーンだったんやな。フェリーで寝がえりを打つ男性は単なる風景だろうけど
・吉幾三がどこで流れてるのかやっぱりわからん。バーのカラオケじゃないかと言われたが聞き取れん…状況的には新幹線あたりだけど
・古文書に宗像の文字見つけて喜んでたが新海本2に現代語訳があったぜ。猛き大狼とか言われてたから猫じゃなくて狼だったのか…と思ったら大神なんやね
・初代が黒と白っぽいから今の要石も初代なんかな?でもそれだと代替わりシステムがある意味がよくわからんのよな。要石のマークが時代によって剣とかになってるの、場所だけじゃなくて要石も入れ替わってたんじゃないかとか、浜辺の骨は先代の要石じゃないかみたいなのも他所で聞いたがよくわからん
・すずめからは草太をもとの姿に戻せと言われてない≒すずめから草太への好意には気付いてない、かと思ったがミミズの上で元に戻してって言ってたな。システム的にも一度刺さないと戻れない?っぽいが
・察しの悪いダイジンが大っ嫌いと言われて嫌われちゃった…じゃなくて好きじゃなかった…って気づくの好き。ミミズの上でダイジン思いっきり振り払うシーンが妙に好き。
・地下の後戸を開けます(大量殺害予告)からパーフェクトコミュニケーション引き出す流れ好き
・見舞いに来たのダイジンかと思ったけど大きさからサダイジンかな。抜かれたじゃなくて抜けてしまわれただし。
・サダイジンは喋れないから名乗るためにおばさんに憑依した…とか考えてたんだけど、普通にしゃべってた
・覚悟決めて車に乗ったのかと思ったら草太を抜く土壇場で要石抜いたらミミズがとか慌てだすダイジンは何なんだ。
・草太の記憶のとこ、草太視点じゃないアングルが混じるの演出上の理由かと思ったけどダイジン視点なのかも
・記憶を封じないとミミズが出てくるんじゃなくて、忘れられると人の思いが軽くなってミミズが出てくるから、その地の記憶を思い起こして扉を閉じなければならない…って、ちゃんと台詞で説明してるんだけどサラッとすぎてスルーされてるよな~
・草太を駅に送った後、芹沢のたばこに火が付いてないような?そう見えるだけかもだが
・エンディングで稔君が迎えにくるとこ、おばさんが稔君に冷たくしててすずめが慌ててるように見える
見返すと全体的にすずめが表情豊かでかわいかった。
あと、12年前の3.11に起きた大震災ってことで、当然東日本大震災を連想しちゃうんだけど、2022年からだと11年前なんだよな。作中設定が2023とかかなと思って、作中に年代出てないかなんとなく見てたけど見つからず。芹沢の学生証で誕生日が2000何年だったかなんで、大体同じくらいではあるだろうけど。
彼は、電子戦隊デンジマンOPのウエスタン調や、電撃戦隊チェンジマンOPの影山ヒロノブカッコよさ、
トランスフォーマーのコンボイ司令の玄田哲章の素晴らしさや永野護メカデザインの革新性を熱く語る男だった。
自動車鈑金塗装業四男だった彼は中学卒業後農業高校へ進学し、それっきり疎遠になってしまった。
高校卒業後、東京税関職員になって麻薬犬トレーナーになったが独身で相変わらず漫画とアニメ三昧の
日々を送っていると風の噂では聞いていたが、その友人がなんと結婚して36年ぶりに地元に帰っていると知り、
久し振りに当時の友人4人で会うことになった。地元の日本酒蔵元がクラフトビール醸造を始めて、
経営多角化で始めた日本酒とクラフトビールを出すバルで会うことになった。彼は下戸ではないのだが、
あまり酒に強くなく、36年ぶりに互いの近況を語り合い、俺はしこたま酔って楽しい時間を過ごすことができた。
閉店で店を追い出された後、俺は運転代行で帰る彼の車に酔った勢いで乗り込み、彼の奥さんに会いに行った。
彼の住む家は後継者がおらず空き家になった廃屋を地方創生移住支援事業でリフォームして住んでいるそうだ。
若い奥さんと娘4人と6人で暮らしていた。彼は仕事をしておらず、奥さんが農環センターという公民館みたいな
会場で教えるヨガ教室での謝金と、家の庭で育てた野菜と湖で釣った魚を、毎月8日と18日に開かれる
街場の市で売って得た僅かな現金収入しかないそうだ。そんなんで生活していけんの?と思ったが、
隣近所全員東京からの移民でみんなで物々交換で助け合っているそうで、
よく見たら娘さんの女児服もクタクタで誰かのお古のスマイルプリキュアの変身コンパクトで遊んでいた。
何軒かの廃屋に人が住む気配を感じる山奥の見捨てられた集落を歩きながら、
昨日、中国国籍の高校2年生がアルバイト先のクレジットカードの番号を暗記しては金を着服して豪遊していたというニュースをやっていた。
移動はすべてタクシー。飛行機はプレミアチケット。ディズニーランドで120万円使っていた等。
彼はきっとなんらかのバツを与えられる。そして家族なども当然巻き込まれて大変なことにはなる。周りに実例がないので推測でしか無いのだが。
たぶん未成年だからそうたいしたことにはならないだろうなと。中国なら死刑なのかもしれないが。
「時が経てばいい思い出だけが残る」
こんな言葉を歌や小説などで見かける。この理屈によると、いくらか大変なこともあったが彼は「ディズニーランドで120万使った」などの楽しい思い出だけが残ることになるんだよなと。その後の大変なことや辛いことがあったとしても楽しかった思い出は上書き更新されることはないから。
それはそこまでの犯罪を犯してはいないDQNも同様だ。かれらはいつまでも中高生のときの楽しかった思い出に浸ってるし、当時の仲間達と「昔はバカやってた」楽しい思い出を反芻したり追想したりしている。よくいう「若い頃は無茶やったもんだよ」だ。
そうすると中国国籍の高校2年生は、この先、どんなしんどい人生であろうと、なかなか通常では味わうことのできない「いい思い」をして、それを財産としてこの先生きていくことができるので幸運なのか?と思った。
だからといって私は同じことをしたいのか?と自問自答するに答えは断然NOだ。 なぜかはよくはわからないのだがする気はしない。
ここからが本題です。
だからこそゲーム、とくにVRが重要になっていくのではないだろうかと思ったのだ。
最近は夢でゲームの風景をよくみかける。みたことのある実在しない場所の景色。
それは映画やなんとなれば小説でもあり得る話ではあるのだがゲームをするようになって架空の風景をみる夢が格段に増えた。
などと思っていたところ、宮城県の大学生が香川県のゲーム規制条例に対して脅迫文を送りつけて逮捕された。
むーん。いろいろとどうなんでしょうか。しまりのない終わりでもうしわけないが、みんないろいろ危ういバランスで生きているなあと。
…昭和関西棋界の二大巨頭、有吉道夫九段と内藤國雄九段の話。峻烈なライバル関係と、歳を重ねてからの友情。
…高校生時代のライバルが全国大会に都代表で出ることを新聞で知った話。昔同じ立場だった人に置いていかれる話、好きなんだよな。咲-Saki-でいえば穏乃が和の全国優勝でめちゃくちゃ動揺してるとこ。
…赤ドラと、ギャンブルとして発展した麻雀の歴史の話。まあ、麻雀を競技にしたい人は少なくとも一発裏ドラ赤ドラくらいは不採用でやってほしいよね。
【麻雀】福地誠presents 坊主マッチ2016 | FRESH LIVE(フレッシュライブ) - ライブ配信サービス
…「負けたら坊主」というルールの麻雀をした動画。俺が見たい「他人の麻雀」ってのはこういうのなんですよ。
…多数意見を批判する言葉が強すぎて面白い裁判官の話。「齋藤先生と灰皿を投げ合って論争したというのは本当ですか?」「そんなことはしない。六法全書を投げ合ったんだよ」
実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがラディカルフェミニストとお友だちだった件|兵頭新児|note
…牟田和恵をボコボコに批判して、ついでに白饅頭を皮肉る記事。正直牟田和恵も白饅頭もよく知らないんだけど、フェミニストの主張の構造を解明していく過程がなんか面白い。
棋士だけの持つメリーゴーランドの世界 | 将棋ペンクラブログ
…吉野家で晩酌をする団鬼六のエッセイ。出入りする人々との一期一会、死んだ男への追想。
https://www.youtube.com/watch?v=yBmePNR3pSE
1995年の台湾のCM。ただし、CM中で日本語が使われていることから、輸入品っぽい雰囲気を作ろうとしていることがわかる。言い換えると、このブルマーも日本っぽい雰囲気を出すための小道具だという可能性があり、台湾でブルマーが使われた証拠にはならない。
なぜ教師達が少女の羞恥心に対してあそこまで冷淡だったのか。仮説だが、下着が見えたら恥ずかしいという意識が生まれたのが、ブルマーを時代の教師と少女との間の時期なのではないか。
「となりのトトロ」でも「サザエさん」でも、パンツが見えることはむしろ活発さのイメージを表現しようとしている印象だ。
マーリア・シュヴァルボヴァーの描く、ソ連時代のブルマー少女。
https://www.mariasvarbova.com/dinningroom
昔の写真を見たが、結局は当時のイギリスはブルマーではなかった。
子ども向けの辞書にブルマーのイラストがあって、その印象が強かったからのようだ。
やれやれ!
鍋に入れられたじゃが芋の皮が剥けるように。
あるいはエビの色が変わるように。
まさにあの沸騰し切ったスタンドにいた僕は
晒されていた。
ゴール裏では毎度痛いほど思い知る。
自分が何者なのか。
誰といても、何を叫んでいても、結局いつも自分自身と向き合うハメになる。
ずっと昔の話。
でもコンサドーレはどうしようもなく弱かった。
最下位も連敗も勝点の話も全部嘘じゃなくまだ心の中にある。もちんろんインターネットや本の中にも。HDDからは消した。
クラブがなくなるかもしれない。そんな話もあった。
クラブの有り様を教えてくれると同時に、号令を出した。
「みんなで強くなっていこう」
クラブを自分たちが強くしていくという思いで、まだそこに無いものに希望を持って応援して欲しい。
これが福音なのか世迷言なのか、疑う時間も許されないまま、次々と花火は上がった。
数えきれないほどの素晴らしい選手がやってきて、コンサドーレは偉大な選手たちを文脈に取り込みながら、階段を登っていった。思っていたよりもずっと速いスピードで。
「みんなで強くなっていこう」
僕らは、僕自身は強くなれたのだろうか。
同点ゴールが決まるその瞬間まで、今を含め永遠とも感じられる「負けている時間」が怖くて辛くてたまらないのだ。
それは勝ちたいと思うほど強く跳ね返り、かき消そうと声を出すほどピッチが遠い。
時計に目をやる回数も増える。
前半途中でビールはもう無い。
10.26の話。
後半、同点。
ビルドアップは狙われ、追いやられ、ピッチの半分よりこちらにボールが来ない。
また意識が遠のいていくのを感じた。
88分。
やっぱりダメか…武蔵のトラップが収まらなかった時、いやもっと前から、タイトルとはそうか、もっともっと何か…
ずっと余計なことを考えていたように思う。
最後のチャントが歌われ、リバウンドメンタリティと呼ぶものなのかスタンドの熱は上がっている。
空中にボールが出た瞬間、ポッカリとゴール前。頭ひとつ。誰か。入った。深井だ…!!
クラブの持つ長い長い文脈を辿っていくと、意味があると思えてくる点と点が見つかる。チームが苦しい時、希望を持たせてくれたユース達、怪我、決勝…
朝から視点も趣向も違う人間の様々な念が交錯していた埼玉スタジアムのスタンドで、赤黒こそが人生だと歌う集団が、その細胞からゴールを喜んでいる。
選手がかつてないほどスタンドを煽り、それに応えるように声を張り上げた時、全ての感情が自分だけのものであり、今宝物のような幸福に包まれていることを実感した。
「こんなことって無いよなぁ」
花火は上がらず、
タイトルは取れなかった。
あれから1週間。
当たり前のようにリーグ戦があり(当たり前のように勝ち!)間も無くシーズンが終わる。あれからというもの、少し騒がしい札幌と北海道、コンサドーレについて考えている。
大きな感動に感謝している。でもあの日のことじゃない。ずっと前から今日までのことに。
電車で、工事現場で、コンビニで、学校で、新川通りで、会社で、駅前で、大通り公園で、
ファイナリストとして胸を張って1週間暮らしていた人たちがいる。
そんな奴がいるなんて誰も思いもしないだろうけど。
そんな日が来るなんて思っていなかった。
あのひりついた感覚が、日灼け跡に残ってる。
もう1度感じたいし、もうあんな思いは嫌だ。
90分で終わらせたい。けど120分でもいい。
目を逸らすことはもうない。ないと思う。
今すぐ札幌ドームで、