はてなキーワード: 理想論とは
周回遅れの議論をしているのはお前だ。
育休制度の趣旨に関してはその通りで、社会インフラの恩恵を受ける企業が一定の範囲で人口維持にコストを割くのは理にかなっています。しかし大元の増田はそれを否定しておらず的外れな指摘です。
大元の増田は『勤務年数が成果に繋がりづらい事務職においては出産・育児を経ても職員に継続して勤務してもらえるという企業側のメリットを享受できず経営者や他の職員の理解を得づらいので利害調整が難しい』という話をしているのに、突然『あえて言うなら「国という会社の利益のための制度」です』とか言って殴り始めるのは日本語読めてるか心配なレベルです。大元の増田が求めているのは育休制度そのもののメリットではなく、経営層やしわ寄せを受ける職員が納得できる理由や、理解を得やすいより具体的なメリットの発生する制度改革であるとまともな国語教育を受けていれば読み取れるはずです。
現実の『仕事』は単一の価値観に基づいて物事が決まることは少なく、管理職は経営層や職員、育休制度を含む規則など相反する複数の価値観に基づいて利害関係を調整した上で最終的な制度や手順に落とし込まれます。育休制度は複数ある制約の一つでしかなく、大元の増田も管理職であることから様々な制約の中で最大公約数的な解答を見つけるのが『仕事』であり、そこでもがき苦しんでいます。
育児休業制度の趣旨そのものは良いことであり正しいですが、『他の職員や派遣社員の労働環境の維持・改善』、『事務業務の質の向上』、『利益を出して給与を払い納税する』といった価値観もまたいいことであり正しいことなので、育児休業制度そのものの正しさを語るだけでは不十分です。また大元の増田は少なくとも育児休業制度がある社会を前提として現実の制度の落とし込むために汗を流しており(それが管理職の業務として理解ある態度を取っているのか本心なのかはわからないが、その差異については今回の問題に実質的な影響はないだろう)、そういった人に対して「何周遅れの話をしているのか」と侮蔑の言葉を投げかけるのは非常に失礼なだけではなく、無用な断絶を招く悪しき行為だと感じますので撤回か謝罪をされたほうが良いのではないかと思います。
そもそも論なのですが、価値観が多様化した現代において現実に発生している問題の殆どは利害関係の調整が難しく、現実的な落とし所としての解がみつかっていないものであると私は考えています。その中で実際に問題の解決に当たる人というのは、個別の価値観の正しさは認めた上で多くの人が納得できる解を探すことがほとんどです(担当者個人の心情はどうであれ、仕事としてはそのようにしか進まないことがほとんどだと思います)。そういった人にとっては盲目的に個別の価値観のみに則って「~する人は全員バカです」とマウントを取る人間は周回遅れであり、「それはそれで正しいけれどもいきなりは変えられないし現実的にどうやって実現できるか考えてるんだから黙ってろバカ」というのが本音であることも多いと思います。ただそういった人たちがいることで世論が動き、世間の価値観がどちらかに寄ることで着地点が見つかることも多いので、特定の価値観のみに基づく言説それ自体が悪とは思いません。ただ今回の批判増田によって大元の増田の会社の意識が変わって問題が解決することはないと思いますが。
また現実に問題を解決しようとする人がそれを理解していればいいのですが、仮に特定の思想が強い『活動家』が仕事を始めてしまった場合、自身の信じる理想にのみ基づいて仕事を進めるため大抵はうまくいきません。例えば利害が衝突する価値観に突っかかって多くの敵を作ってしまったり、理想と関係の薄い業務を軽視しがちになり税金を使っているにも関わらず経理が疎かになったりといったようなことが起こりえます。
そう、人それぞれの正義も悪もグラデーションになっておりそれは万人が100%うなずける物は無い。
ただ、明確に否定できる事が1つだけある。
「暴力(武力)による変更」だけは道徳を習えば絶対的な一線に成りうる。
どういう理屈があろうと暴力に手を染めた時点でそれは明確な犯罪であり、その時点で犯罪者の過去、思想なんて語る必要すら無い。
ウクライナ、ロシアの戦争もアレだってウクライナが全て善な訳が無い。ロシアの言い分だって絶対にあったであろう。
ただ、あの日国境警備隊を殺して領土侵犯を開始した時点で犯罪者でしかない。
元増田はお疲れさまでした。そんな大変な状況の中で転職決めて偉いし優秀だと思う。
これ、「ヘッドカウント1として数えられない、生産性の低い社員をどうフォローするか問題」で、どこの職場でも起こりうる問題。家庭の事情(育児、介護)、能力不足、やる気不足、軽微な障害(発達障害、対人スキル)などなど、生産性の低さはいろんな原因が考えられる((今回の当該社員について、夜に仕事してるって元増田は言ってるけど、たぶんアウトプットの量も質も元増田から見たら不満だったんじゃないかなと推測する))。今回は「育児中」っていう属性のため、当該社員を責めづらく感じてしまうけど、結局のところ評価制度が機能していない会社の問題だと思う。元増田の貢献を周りから見える・金銭的な形で評価できない = 不公平感が残る、っていうこと。自分の能力を活かせる職場を見つけて、元増田が新天地で活躍することを祈る。
この手の生産性が低い同僚に出会ったらどうすればいいか?自分がマネージャー層ではない平社員だったらどうすべきか?ちょっと考えてみた。
これに尽きる。「1時間一緒に作業しましょうか」と時間で区切ったり、「このファイルは私がひな形作っておきますね、それ以降は埋めてください」と作業量を明確に決めるのもよし。
引継ぎやほうれんそうは、いつでも応じるのではなく、時間を決めてやる。その時間に相手が来れなければ、メールで要点のみ伝えるor引き延ばす。締め切りまでにできなかったら相手の責任。無視したり無駄に遅延させたら嫌な奴だけど、これだけやってあげてそれは十分なサポートでした、それでも無理でした、は相手の責任というスタンス。なんでもミーティングしたがる系の人は概して生産性が低いので応じる必要がないと思っている。今忙しいので後にしてもらえますか?で割と切っている。生産性高い人は、相手の時間も大事にする。きっちり引継ぎ時間まで考慮してスケジュール立ててることが多い気がする。
パワハラ!XXハラ!って騒がれないように、丁寧過ぎないけど同僚として十分サポートしてる、という実績を残すのがポイント。なので、面倒だけどメールは結構有効。
下にある「恩を売る」にもあるが、緊急事態的に、助けて!!が来るときは協力することもある(自分が忙しすぎるとき、うまみがなさすぎるときは、理由をつけてごめんなさいすることもある)。そういうときは応じていいけど、その代わりの交換条件を出しておく。今回は緊急事態なのでスケジュールあけて対応します、その代わり今月後半の作業が滞るのであまり助けられなくなると思うから事前に仕事時間の確保をお願いしますね、とか、今度のXX手伝ってね、とか。結果は上司や他同僚とも共有する。
正直なところ、生産性の低い人はこの手の交渉事ができない場合が多い。でも無理やりコミットさせる。できない場合は助けない。コミットさせてできなかった=失敗した、生産性低いね、っていう実績を残すのが目的、
フォローの頑張りが評価されない=上司が無能、会社の評価システムがダメなので、会社を変えずに頑張りたい場合、もっと権限がある人にアピールするのがよさそう。なので、上司の上司(skip-level, 日本語だとなんていうんだ??)に評価してもらえるように成果をアピールし続ける。自分の成果をアピールしつつ、暗に「当該社員がダメな奴なんだ」という印象になるように伝える。
正直なところ、生産性が低い人は、みんなに生産性が低いなって気づかれていることが多い。助けてあげていることは堂々とアピールする。タダで助けてやっていると思われると損するのでアピールして自分の手柄にする=ちゃっかりしてる、と思われたほうが長期的には損しない気がする。
上3つのことをしていると、結構厳しい人っていう印象になる。なので、たまに「サービス」してあげる。些細なことでいいので、普段やらないようなちょっとしたサービスをする。期待値をコントロールされたうえで+αをやってあげるとすごくいい人感が出るらしい(不良が猫を可愛がる、みたいな)。当然だけど、これは当該社員にやさしくしてあげている自分を、ほかの優秀な社員にアピールし、人格者であることを示すのが目的。
上を2年間弱続けた結果、生産性が低い人は部署異動になった。2年は長いが、ほかに大きな不満はなかったので、良しとする。
上に挙げたことは、どこの会社でも成立するものではないし、誰でもできるものではないし、すべきでないことも含まれているかもしれない。とはいえ、信賞必罰、そしてGive & Takeという言葉もある通り、みんな正当な対価をもらう必要があると思う。つまり、仕事をしている人は評価され、していない人は評価されないべき論者。生産性が低いってことはその仕事があってないってことで、そしたら部署や仕事内容変えたり、転職したりするのが本人にとっても長期的には幸せだと思う。理想論のゴリマッチョ思想だけどね。
私は2児子育て中の40代ワーママで、むしろ周りの子なしの生産性が低すぎてイライラすることもあるし、過剰な配慮反対派なので、↑くらいはやってもバチは当たらないと思ってる。
こういった人たちは真面目で律儀な人だと思っていたが、最近は実は違うのではないかと思えてきた。
何かを進めるとき、杓子定規なまでに規則通りに進めようとするのは、後で何か不都合が起こったとき、その人自身が「規則通りにやりました」という逃げ道を確保し、自分だけは絶対に悪者になりたくないという自己保身・他責思考にすぎないのではないかと思えてきた。
何かを判断するとき、外に根拠を求めようとするのは、後で何か不都合が起こったとき、その人自身が「〇〇という根拠に基づいて判断しました」という逃げ道を確保し、自分だけは絶対に悪者になりたくないという自己保身・他責思考にすぎないのではないかと思えてきた。
自己保身も他責思考もまったく無用とまでは言わないが、しかるべき責任を負う立場にある者なら、臆することなく自らの責任において判断・行動してもらいたいものだし、自分がその立場ならそのようにしたいものだ…というのは理想論か。
どうせ官主導ではうまく行かない。だが、理想論をぶち上げる意味はあるだろう。
※計算基盤を自作するのは非常に重要で、そうしないと、GPUクラスタ内での並列化や通信ネットワーキングなど、ChatGPT を動かすためのコアの機能を獲得することができない。正直、ここを外資に握られてたらどうしようもないんじゃないか。
参考文献の書籍の方を読んでもらうとだいたい増田の疑問はあるので、ちゃんと知りたい場合はそっちを読んでほしいけど、答えてみると、「安心」と「安全」は違うみたいな話になってしまう。
あと異論は認める。っていうかもっとお前ら異論だせしください。
経済的問題というけど具体的には?
それを「子供を産んでも育てられるだけの経済力がないから(&子供を産まないなら結婚する必要がないから)結婚しない→非婚化」
と解釈する人が子育て支援を打ち出してるんだと思うんだが
前提条件として、この考え方は以下の点からちょっとちがうかも。
で、経済的問題の中身については、絶対的な数字と言うより「結婚しても生活は良くならない。その理由の筆頭が経済を上げている」と言う話。
子育て支援には意味がないと言い張る人は、結婚するのにそれとは違う事に金がかかると思ってるの?
まさか結婚式代だの新居の敷金代だのなんて話じゃないよな?
そのレベルの金すらない人は当然自力じゃ子供も育てられないわけで(そもそも出産費用すらなさそうだ)
どっちみちその金を支援して結婚したって子育て支援なきゃ産めない立場だろうに
まず構造的に
と言う事になっている事実としてある。
で、結婚するのに必要な金というのは、そのための具体的資金ではなく、「結婚すると生活が良くなる」という事のための資金勘定という事になる。
ここら辺を読み物として楽しく読むには、元増田にもあげた参考文献「逃げ恥に見る結婚の経済学」とかを読んでくれ。 https://mainichibooks.com/books/social/post-434.html
みんなが見んな、リアルでここまで計算して考えているとは思えないけど、例えば、こんなことは言われる。
俺が知りたいわ。それが分かったら誰も苦労はしてない。
それだけでは何なので、妄想を書き綴る
結局の所、バブル期以前の結婚観を捨て去っても良いのだ、というロールモデルを普及するしかないんじゃ無いかと思う。
つまり
と言うか、エリート層はこうなってるんだよね。高収入層の婚姻率は回復傾向にある。
よくあるステレオタイプ的な誤解で、女性は給与が高いほど婚姻率が下がると言われる。平成初期のキャリアウーマン的幻想だよな。これ、社会全体で見ると殆ど実態がない。
でも、実態としては年収による婚姻率に差は殆ど無い。(男性は無茶苦茶ある。年齢別で見ても、年収350万以下で婚姻率が一気に下がる)
むしろ、年収が多い女性の方が婚姻率が微妙に高い。また子どもの数は、男女ともに収入が多い方が多い傾向にある。
(以上から、ステレオタイプ的な誤解にある、貧乏多産というのは統計的にはほぼ無視できるレベルの得意な現象であるとも言える)
さて、理想論については、シャーの「ならば愚民に英知を授けて見せろ」みたいな話で、意識が高い層はそれをやればいいけど、そんな箸が転がっても何かを学ぶような意識の高い連中はそうそう多くはない。
もちろん啓蒙して増やして行く努力はいるだろうし、これから大人になる人たちはこれがスタンダードになると言うので良いだろう。
でもそれで既存の層を改善しなかったら駄目じゃん? すると、強制的にインセンティブを作るしか無いと思う。
言いたいことは分かる。無理じゃねーのとか思うだろう。
異論は大歓迎なので、みんなで考えてくれ。
って感じ。
こちとら社会を支える性なのに、どーしてセルフケアなんぞしなくちゃならんのか。
自分らの責務を放り投げて、結局その尻拭いまで俺らがやらされる。
男性は社会をメンテしてください。自分自身もメンテしてください。
——…あのね。
いい加減にしてほしい。
ハッキリ言って、「お互い支え合う社会」理念から目を逸らすための開き直りにしか見えない。
恋愛とか個人の行為ではポイ捨てして「誰をどんな理由で好きになってもいいんですよ」とか言って個人の自由に開き直ってるよな。
自分たちは気づいてないかもしれないけど、欺瞞は全部、バレている。
はてなの人がこれらの話題に一番食いつくから例に挙げたけど、やはりこれらの話題って理想的なムーブをしなければならず、そうでないものに価値がないって風潮が非常に強い。
絵に描いた餅だけが全て
例えば電車の中にベビーカーを持ち込むこと一つで大激論が始まってしまう有様だ
社会が一つになって子育てを支援している、と前向きに捉えることはできるものの、正直みんな「子育てを媒介に世の中に不満を言いたいだけ」なんだよね
結婚や子育て一つに関しても自分の価値観を押しつけ合っているし、みんなの理想が膨れ上がっている気がする
各々が理想を膨らませて「結婚は、子育ては、仕事は、家は老後はこうあるべきだ」と言い続けている
気にしない人が大半なのにね
結婚や子育て等は人生というゲームにおける重要イベントのようなもので、ここをいかに上手く切り抜けるかが今後の人生に関わっている、と真剣に考える人は多いんだろう
だからこういうイベントは完璧にクリアしなければいけない、クリアできない人にこれ以上生きていく資格はない、クリアしないのであればずっと最初の村で過ごすかゲーム自体を辞めてしまえば良い
そうしてできあがったのが現代日本なんだと思う
理想を追って完璧を求めて、それが叶わないと思ったら何もかも辞めてしまう
デビット・ライス氏のブログはバランスの取れた議論と時折混ざる素直な感想が好きで、時々読んでいました。
『How to Not Die Alone』の書評とかは、あまり英語の文章を読めないものですから、とても有益で思わずメモを取ったほどです。
先日、私が好きな『責任という虚構』のブログを挙げてるなと思って読んでみて結構びっくりしました。
https://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2022/10/04/155546
まず、全体的に内容に基づいた批判というよりも、文体や語り方の批判になっています。しかもかなり口汚くののしるような文体で、かなりショックを受けました。
普段、結構素直に感想を語っていらっしゃるなと思っていましたし、今回も個人の意見の範疇かなと思ったのですが、今回のは批判が結構ズレているし、主張の部分と著者の感想を取り違えているような気がしました。
一部(アンダーソンの手紙の部分)有益な情報はあったのですが、数度読み直してみても、全体的にズレているなと感じました。
普段ほとんど人の書評にケチをつけないですし、内容理解にひどい部分があったとしても特に反応もしませんし、私はあまりネットに名前を出して文章を書きたくないので、どうしようかとも思いましたが、はてな匿名ダイアリーはネットの片隅に残るようなので、少々ずるいかと思いますが、書いてみたいと思います。
気になったのは4つの点です。
一つ目。
書評の中では、ロールズについて書かれた箇所に出てくる「理想郷」という言葉から、理想と現実の対比を引き出して『責任という虚構』は理想論を模索する哲学者を非難しているとして、それに対する再批判を展開しています。
私が本書を読む限り、理想と現実の対比は大して重要な対比ではないです。
ライス氏は「理想的な基準や規範が存在することで、ようやく、「現状の財の配分のされかたは間違っている」と批判したり問題を提起したりすることができる。」と続け、それを理解しない小坂井氏を非難する文章を連ねてますが、この論点は本書の主張に対する批判になっていません。
著者の小坂井氏が言いたいのは、人の行動や社会の動きというのは、人の手を離れて自律運動して生み出されるもので、したがって人の意識や理性でコントロールできるものではないので、そもそもべき論とは雨乞いの踊りのように無意味なものだ、という主張だと思います。
規範について言い換えれば、現実の世界における規範は、論理的だったり理性的に構築されたものではなく、権威などによって根拠づけられていることで初めて人の心理的な抵抗を起こすことなく円滑に機能するので、理性によって規範を人工的に構築しようとしても、規範の生成のメカニズムが異なるのでどこかで無理が生じる、という主張です。
ロボットを作っても出来上がるメカニズムが違うので人間にはならない、というのと同種の主張です。
この主張に反論するならわかりますが、規範を否定しているのに規範論を行う著者は倫理的相対主義のジレンマに陥っているというのは、少なくとも本筋に対する批判ではありません。
実際、哲学者の山口尚氏もライス氏と同じく、小坂井氏の哲学者批判に反論されています。しかし、批判の直接の理由は価値相対主義のジレンマではありません。
https://note.com/free_will/n/n24feea05db99
二つ目。
「哲学者やリベラルやフェミニストなどが「ただしさ」を語ることは否定しながらも、「ただしさがもたらしている悪さ」や「ただしさを語っている連中の悪さ」をあれこれあげつらって非難することで「ただしさ」を語るという自分の行為だけは特権的に許容する」
ということをしていると書いています。ほかのネット論客の方の本を拝読したことがありませんので、それに対するコメントは控えますが、『責任という虚構』を読む限りこの批判はズレていると思います。
一つ目の内容で書きました通り、小坂井氏は、規範論で物事を理解しようとすると、どうしても現実に規範が機能しているメカニズムを無視することになりがちであると主張しています。
これは、政治に利用しようと思って進化を研究すると、進化の本来の仕組みを無視することになるのと同種の主張だと思います。規範が対象なので感情的な反発が起きやすい文章で(正直言えば小坂井氏もちょっとケンカを売っているような気もしますが)、ライス氏の言うようなものではないと思います。
三つ目。
ライス氏は、規範を論じる哲学者たちに小坂井氏が、「傲慢」「偽善」「おぞましい」などの価値判断を含む言葉を使いながら非難を浴びせかけていることについて批判的です。
実際、小坂井氏のほかの著作を読んでも、哲学者に傲慢や偽善、おぞましいと言える根拠はありません。あくまで小坂井氏の主張する範囲では言えば、哲学者は「苦しい言い訳」を捻りだしているだけであり、別にだからと言って哲学者が傲慢だとか偽善だとかおぞましいとかいう主張はできません。
ではこれは何かといえば、小坂井氏のただの感想なのだと思います。
ライス氏のブログで言えば、「好ましく思った」とか「イラっとした」みたいな文章に相当します。
私は小坂井氏にかなり共感していまして、こうした言葉に少し心を揺り動かされたりしますが、でもこれは小坂井氏の感想以上のものではないと思います。
こういう言葉が出てくるのは、小坂井氏にとって学問が、ある種の実存をかけた戦いだからなのでしょう。私はそういう学問観、正直すごい好きです。強く共感します。
でもこれは本筋ではないので、ここに関して批判するのは、好み以上のものではなく、論理的な主張になりえないと思います。
もしここに論理的な批判を加えるのであれば、上述した山口さんの批判文のように、主体を虚構と言っておきながら主体を前提とする「責め」を行っているではないか、というものになるのではないでしょうか。
(とはいえ、このような「責め」が著者によって行われること自体が、主体の"虚構"性を表しているとすら私は思いますので、別にこの本の価値は減じないと思っています。この本の中において、虚構は単なる嘘ではないのですから)
ちなみに、小坂井氏の言う相対主義は認識論的な相対主義のことで、善悪は単独では決まらず、枠組みに依存するという立場のことです。この立場に立てば、「小坂井氏という枠組み内では哲学者は偽善者だ」といっているにすぎないので、特に問題はないと私は感じました。ライス氏の言う「イラっとした」と同じです。枠組みを超えた正しさは主張できないだけで、言う分には問題ないと思います。
四つ目。
正直、上記3つだけであれば、この文章も書かなかったかもしれません。ライス氏の言うことも理解できなくはないですから。
しかし、これがあったので書こうと思いました。
端的に申し上げて、他人の著作の題名を加工するというのは、少々失礼ではないですか。
『責任という虚構』であって、『<責任>という虚構』ではありませんよね。
類似の名称の書籍『〈責任〉の生成』と混同したのかもしれませんが、ブログが書かれてから随分と経たれたのに直っていませんし、別のブログで批判的な言及をされた際にも同じ書き方をしていたので、もしかしたら、意図的なものかなとも思いました。
もし、ただの間違いなのであれば、訂正した方がいいと思います。どんな著作であれ、一生懸命書いたものだと思いますし、関わったのも著者だけではないのですから。
そのまた昔、お一人様は素晴らしい概念みたいな理想論を延々と書いてる人が目立ったから、いい年こいて結婚してなかったら皆表立っては何も言ってこないけど実際のとこ白い目で見られてるよ(そんなに理解のある奴はまだ都会の一部にしかいないよ)みたいなこと書いたら死ぬほど煽られて叩かれて怖かったよ
誹謗中傷だの荒らしだのボロックソに言われて俺は誹謗中傷に荒らしをやったのか・・・って危うく反省するところだった
何が正しいかとか何がおかしいかとか何が過激かとかって結局個々人の立場から見たポジショントークにしかならんわ 俺の時はあんなに当たり前のことを書いてあんなに燃えるんだって正直ビビったし
追記でブコメに反応いただいた id:koo-sokzeshky です。
私のブコメ:
解がさっぱり分からんので、素人が言えるとしたら「統計的差別を容認する前にせめてトランス差別解消の意思を見せろ」くらいだと思うけど、そうすると「その前にせめて性犯罪問題解消の意思を見せろ」で膠着状態に…
増田氏の反応:
(引用)
これだけ言ってもまだわからんか。
黒人差別反対の主張に対して、「黒人差別の解消を叫ぶ前に、その前にせめて黒人による犯罪の多さの解消の意思を見せろ」と要求するクソな醜悪さがわからんのか。(実際に過去にも今もそういう主張する白人、わりといる)
「膠着状態」になんてなんないよ。なぜそんな意見を考慮する必要があると思うの?「せめて黒人の犯罪をなんとかしてから黒人差別反対を訴えろ」と思うのか?それと全く同じ主張を差別反対と同列に扱ってると自覚できんのか。
なぜ分離排斥されてる被差別弱者に「問題解消の意思を見せろ」と要求して当然だと思ってるんだ。
「その前にせめて」じゃねえよ。
言い訳になるけど私のブコメは、個別には筋の通っている複数の主張がぶつかったときに「その前にせめて…」式の優先順位の取り合いが発生しちゃって難しいね、というボヤキです。
「その前にせめて性犯罪問題解消の意思を見せろ」が私の主張ではないのです(そう言う人にも同情的なのは事実だけど)。
というか、「性犯罪の危険性を強調することで特定の属性をまるごと排除するのは黒人差別と同じ構造であり、手放しに肯定できるものではない」という点については完全同意なのよ
(構造が同じならすべてが同じというわけでもないが、ではトランス差別問題に固有の話は何かということになると、私は明るくないので論じられない)。
なお、増田氏が私のブコメを「誤読」した等と主張するつもりはなく、基本的に私の書き方が悪い。伝わってて怒られたのだとしたら私の理解度が低い。
なぜと言われると一言では難しいが、一般論としては、あると思う。
というか、私もできているとは言いがたいけど、一般にリベラルは非リベラルを含む他者の主張(場合により差別的だとしても)の背後にある問題意識を無視すべきでないと思っている。
これはしばしば保守派がリベラルを批判するときに言っていることで、限度はあるにせよ、方向性としては確かにそうだなあ、という感想。
なお考慮とは「その通りにする」という意味ではなく、検討材料にカウントするということ。
当然ではないだろうけど、ちょっと整理が要る。
この要求がまだ満たされていないと思う場合は教えて貰えるとありがたいです。実際、私が未だにわかってなくても不思議でないので…。
なるほど、わかる。ただ、『トランス差別を問題視する人が「当然、男性も含めて皆で負担するのだ」』はどうなの、という気がする。悪いリバタリアン的。逆に差別を問題視する人がいなければ差別を放置していいのか。
「悪いリバタリアン的」は実は薄々思いつつ端折ってしまい申した。
"皆で負担" は一見社会主義的だけど、逆説的にリバタリアンがこういう主張をすることがよくありますね。
ソーシャルリベラル的な批判としては、最終的な理想だけを(まるで既に実現しているか、もしくは容易に実現可能であるかのように)述べても、今そこにある問題の是正について議論が進まない、これでは一向に不公正が無くならない……という反応になる。
しかし一方で「現状はともかく、理想はこうだよね」という確認作業も大事ではあるんだよなとも思っており、まずはそこで合意を示しておくべきかな、と思った次第です。
理想論と現実論の混同は色んな話題でよく揉めますよね。混同しなくても単体でも揉めるけど。
・DD論はやめろ
2ch的レスバはやめろという気持ちだが、気持ちは置いといて、その2点については良い指摘だ。
それと "2振りの武具" とやらはリベラルの傲慢さを批判したいのだろう。その連帯責任を私に求めている? それとも私のエントリに該当箇所がある?
ちょっと疲れたのでBingちゃんにお願いした。いつのまにかモードチェンジャ(独創・バランス・厳密)がついてるので独創の紫をオン
ぼく「日本の映画や漫画で怪獣が出てくるものがありますが、怪獣から逃げる人々が怪獣が進む方向に逃げがちなのはどうしてでしょうか。 怪獣と同じ方向に進んでしまうと怪獣から逃げることは難しくなると思います。これについて何か理由付けがあったり、考察があったりしますか」
日本の映画や漫画で怪獣が出てくるものはたくさんありますね。怪獣から逃げる人々が怪獣が進む方向に逃げがちなのは、いくつかの理由が考えられます。
一つは、怪獣映画の演出上の理由です。怪獣と人間との距離感や迫力を表現するために、怪獣が進む方向に逃げる人々を映すことで、観客に恐怖感やスリル感を与えることができます。
もう一つは、現実的な理由です。もし街で怪獣に遭遇したら、どこに逃げればいいか分からないかもしれません。急いでパニックになってしまうと、周りの人々に流されてしまったり、目立つ建物や道路などに向かってしまったりする可能性があります。また、怪獣の動きや意図を予測することも難しいでしょう。そのため、思わず怪獣と同じ方向に進んでしまうこともあるかもしれません。
うん、だいたいこんなもんだと思われる。これについて直接の言及があるサイトは提示がなかった(怪獣映画の感想サイトを読んで考えたみたい)
ちなみにBingちゃん本人は「実際に遭ったら怪獣から離れる方向に逃げたいが理想論だね」とのことである
怪獣の写真撮りたいって言ったら「逃げ損ねるかもしれないし怪獣画像公開者としてネットで問題になったり対人的危険に晒されるかも」とか現実的な諫めをもらった。クラス委員長か