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はてなキーワード: 権威とは

2021-10-04

小学校教科書に登場する「習おじいさん」 中国で進むある「変革」

一国の最高指導者思想を、子供たちが必修科目として学ぶ。中国共産党はいま、習近平(シーチンピン)総書記国家主席)の権威をかつてないほど高め、改革開放から次の時代に進む大きな「変革」を進めている。

今回は習氏の思想けが1冊の教科書として作られ、小学校から大学までの必修科目となった。中国政府が発表した学習指導ガイドラインは「民族復興の大任を担う後継者育成のため、学生頭脳を習氏の思想武装しなければならない」と狙いを説明する。

小学生向けの教科書では、習氏を「習おじいさん」と呼び、親しみのあるリーダーとして描く。小学校では「習氏が全党全国人民の道案内人であることを知り、党の指導を堅持してこそ偉大な復興が実現できることを学ぶ」(ガイドライン)という。

写真: 小学校低学年向け「習近平新時代中国の特色ある社会主義思想学生読本」の一コマ。「習おじいさんは忙しい中、私たち活動に参加して成長を見守っている」とある

小学校教科書に登場する「習おじいさん」 中国で進むある「変革」:朝日新聞デジタル

https://www.asahi.com/articles/ASPB36T5MP9WUHBI01L.html?iref=comtop_7_01

こわいなーとづまりすとこ (国交断絶)

2021-10-03

anond:20211003163403

天皇皇族のやることに臣民があれこれ口出せると思ってる人の脳内理解できなくて、

天皇日本で一番偉いってことにしようとしてる人たちがこぞって天皇権威をぶっ壊してる感。

anond:20211003125552

最後に開催されたコミケの第三拡大準備集会代表の一人が

漫画文化として持ち上げられすぎて遠くに行ってしまったと喋り始めて、なんか妙な緊張感が生まれてたのを思い出した

「日陰文化」「所詮漫画」の世代にとっては

アニメ漫画メインカルチャー権威化する現状に違和感が強いのかもしれない

anond:20211003085454

名誉職型大統領制というとインドなんかもそうだな

ただその場合は、大統領という職責を現状の天皇と同等か、それ以上に権威を持った統合象徴だと国民の大多数が認識する様に持っていく必要がある

そうでなければ統合象徴たり得ない訳だから

から天皇制を廃して、ただの一般人をポンと持ってきても上手くいかない可能性が高い

もちろん方法はあって、それは皇族血統人間大統領を務めてもらえばいい

それを数世代続ければ皇室血統から大統領という職責へ権威が移行し、皇室血統人間以外を大統領にしても統合象徴として機能する様になるはずだ

このやり方でも懸念する点は2つある

一つは移行のタイミングの難しさだ

権威というもの曖昧もので、その時の雰囲気によっても増減するもの

それだけに大統領が持つ権威が、大統領個人資質血統によるものなのか、大統領という職責によるものなのかを判別するのは難しい

しか大統領という職責の権威大統領個人権威よりも高まったタイミング皇室血統外の人物大統領に据えなくてはならない

かといって元皇室権威が下がりすぎると、大統領統合象徴として機能しなくなってしま

ろくに数値化もできない権威を高め過ぎず、かといって下げすぎずという絶妙バランスを取らねばならない

ぶっちゃけかなり難しいと思う


2つ目は権力志向人間大統領になった時のリスク

もちろん名誉大統領から、その権力については憲法で厳密に制限する形になるとは思う

ただ天皇皇族はその歴史的経緯から権力回避生存戦略の柱にしてきた一族で、それが権威権力が結びつく事を防ぐ安全装置になっている面もあると思うんだな

皇族権力回避は、幼少期からそういう教育を受ける事による皇族伝統芸能に近い(これが皇族人権侵害になってるところはあるとは思うけどね)

名誉大統領制への移行は憲法皇族伝統芸能権力回避による二重の安全装置が、憲法のみになってしまリスクがあると思うんだよ

憲法大統領制についての条文を足す場合にその部分だけ改正を難しくしたりといった事が可能なのかどうか、その辺の議論必要になると思う

あと書き忘れてたが天皇から名誉大統領制に移行する場合は、当然ながら憲法改正必要になるな

これについては改憲派護憲派もそれぞれ意見が分かれそうではあるなぁ

ネトウヨ幻想をブチ壊す為に小室圭を応援しようぜ!

最初婚約会見時は祝福ムード一色で、批判的な事を言う人はほぼ皆無でした。その後に何も無ければとっくに結婚できていたハズです。火のないところに煙は立ちません。疑惑が次々と出てくるのは金銭トラブルに加え、他にも何かあるのではと調べた結果ではないのですか。眞子様PTSDになってしまったのは何に対してもまともに向き合おうとしない小室家の拙劣さが招いた結果ではないのですか。それを、病んだのは国民のせいとでも言いたげな宮内庁って、本当に仕事しているんでしょうか。このままでは皇室国民との間に出来てしまった溝が更に深くなるだけだと思います

全く的外れ

皇室権威国民に対する真摯な態度と、一族生き方人間の模範、規範になるからこそ。

結婚したいばかりに、色々な儀式を無くしたり一時金を受け取らなかったり、国民への理解努力しない。

更に最新の報道では自らの立ち振る舞いに対する批判誹謗中傷と切り捨て、複雑性PTSDなどと病気を盾に批判をさせないようにしている。

誰しもが眞子さま幸せを願っているが、それ以上に国民として皇室の土台が揺らいでしまわないか心配

から小室はやめて欲しかった。

普通に働いてる問題のない家族なら国民は何も申しません。

ところが、小室母子普通ではないから多くの国民が反対しているのです。眞子さま皇室全体を守りたいという国民の心なのです。

朱に交われば赤くなると言いますが、眞子さまはしてはならない民事トラブルに深く介入なされているのが証拠ではないですか。

皇室国民の支持を得て成り立つ原理原則憲法に示されています皇室結婚国民の支持が必要なのです。お立場が違うのです。

伝統ある日本皇室を守る為に白紙を望みます



ヤフコメネトウヨ発狂してて草ァ!

こういうの見るともっと小室応援したくなるわw

anond:20211002231025

例1のポイント

擬音を用いた比喩

ビール

「う」のかわりに「ー」を使う

漢字にすべきところをあえてカタカナにして長音記号を入れる

一人称がオレ

無駄に一文が長い

粗暴な文学青年

オレ視点

例2のポイント

異性の視点セリフ暗喩する

とりあえず「やれやれ

おしゃれそうなカタカナ

例3のポイント

死にそうな体験

日常些細な事は小さい

お前は運よくいきているだけ

例4のポイント

アルファベットカタカナにした呼び方

医者科学者などの権威比喩に使う

急に「おーい」と言いたくなる

科学的な知識適当にちりばめる

定点カメラで観察するイメージ

2021-10-02

e-Sportsプロがよりプロであるために

e-Sports問題が起きたようだ。

私はこれはゲームうまい人の問題ではなく、e-Sportsに関連した問題だと思っている。

e-Sportsの発展によって、多くの大会が開かれ、出場して賞金を獲得する。

大会に勝てなければ、利益がでない会社起業するというのは、ロマン領域だ。

私はそういう認識なのだが、もしかしたら全く違うのかもしれない。

まぁなんにせよ、そのおかげでゲームうまい人たちというのは、会社に属し、一定収入を得てプロを名乗ることが出来る。

定義上はそうなる。しかし実際は堂々とプロを名乗るには自身ゲームスキル証明しなければならない。

例えば大会に出場し、よい成績を収めるというのがいい例だろう。

日本においてe-Sports大会はあまり賞金を出せないし、賞金が少なく、日本人だけという大会は軽視される可能性がある。

成績を残すには、世界で開かれる大会に出るということも選択視に入れないといけない。

結果を残せればそれに越したこしたことはない。

有名な大会になれば、大会で名をのこすということの難易度が上がっていく。

大会で実力を証明するとは別に他の方法で実力を証明することが出来ればよりよいだろうということだ。

レーティングシステムランクシステムがあるというのは実力の証明として使えるだろう。

これも完ぺきではなく、ゲーム内での出来事限定されてしまうし、すごさが伝わりにくい。

そういった中で、プロネット上で公開レクチャーをするという行為は実力を証明する場としてよいだろうと考える。

ゲームを外部の人間プレイさせ、レーティグやランクの上げる難しさを理解し、なおかつプロの手助けによって上達していく。

FPSなどのチーム戦でよい所は、プロが一緒にプレイし協力することによって、プロがどのように考えて行動しているのかが分かりやすくなる。

単純なレクチャーを超えているのだが、受ける側も短期である程度の実力を証明された存在とすることが可能なのだ

もちろん受ける側本人の努力を全く必要としないことを意味しない。

プロによるこういった行為は、弱者狩りや適性ルート外でのモラルに反する行為であるとされてしまうが

そう単純ではないだろうと私は見ている。

例えば、ランク上げなどに金銭が絡んだ場合は、悪質性が高くなると考える。

  

態度を表明することが遅れたが、私は"プロによる実力の証明"としてのレクチャーやサブ垢を作っての教えることを目的とした協力には肯定的見方をしている。

結果としてランクレーティングが向上してしまうのは問題ないと考えている。(ある程度のレーティングランクを目指すこともレクチャーに含まれ場合はそれも許容する)

なぜ肯定的かというと、e-Sportsが盛り上がるかという視点で考えるとその方がよいだろうと思っているからだ。

  

否定的見方をされる問題は何点かあると思っている。

1.他のプレイヤーのプレイングの邪魔になる。

2.プロによって他のプレイヤーのレート、ランクポイント搾取しているのでは。

3.弱いものいじめではないか

4.レート、ランクシステムを壊すことにならないか

5.教えるという行為言い訳にし、プロ気持ちよくなっているだけでは(または肉体的満足を満たそうとしているのでは)

  

1は満足いくプレイングというのは、滅多にないことだと私は思っている。

勝ち続けるということはなく、どこかで負けてしまう。

プロによるものというより、向上心で負けていることが多いのだ。

プロレクチャーを受ける向上心に負けているのと同じことで、私は違いはないと思っている。

  

2.うまい人間搾取されているのと違いはない。

対人ゲームゲームうまい人間搾取されるゲームであり、レクチャーであっても違いはない。

  

3.初心者狩りなどはどのゲームにも付き物であり、当然否定的行為にあたる。

初心者狩りはつまり格下を倒すことで快楽を得る行為だとすると

レクチャー意図する限りでは問題ないと思っている。

彼らは初心者に対しても敬意をもって接するべきだし、それが悪質な初心者狩りと違うことを明らかにしてくれるだろう。

  

4.プロによるサブ垢を使用したレクチャーが、システムに対して何らかの影響を及ぼすのはその通りだろう。

何らかの限定を付けるべきだろう。私はe-Sportsのことを考えているのなら、こういった行為システムに組み込むべきだと思っている。

  

5.確かに金銭的な利益悪質性があるとみているが、肉体的な利益に関しては何とも言えない。

しかプロ自分の実力を外部に証明するためにやっているという限定付けることで回避できるだろう。

  

以上になるが、4については将来的にもそうなるべきだと思っている。

プロプロであるために、それは野良に負けるということは極力避けなければいけない。

プロ野良に対する絶対的な何かを欲している。

プロレクチャーを行い、プロによる囲い込みを行っていくこと。

野良プロになり、プロは元野良に負けるのだ。

プロ無しで強い野良基本的には存在させてはいけない。

そうすることによって現実スポーツのようになっていくのではないだろうか?

現実スポーツもすごいコーチについてもらった方がうまくなるだろう。

すごいコーチはすごいチームにしかいない。

私が肯定的である理由現実との接近を考えているかである

  

当然私が思う懸念点はある。

プロ以外がプロに勝てなくなるとすると、プロ権威化してしまい、ユーザーが寄り付かなくなってしま可能性があるのだ。

ある程度の権威必要だと思っているが、バランスが難しい。

天皇制廃止したとして

代わりになる日本人統合象徴はなんになるんだろうか?

天皇古代からふわっとした宗教的権威象徴を担ってきた訳だが、代わりになるものや人とはなんだろうか

ふわっとした曖昧存在でありながら、同時に強力な権威を持ち合わせていないと、統合象徴にはなりえない

「そんなもの天皇制を廃止してから考えればいい」といった楽観的過ぎる天皇廃止論には、俺は賛同できない

日本人が抱く想像の共同体の中心に天皇はずっと存在し続けたし、天皇はそう振る舞う事で生き延び続けてきた存在でもある

その方が都合が良いからで続けてきた事でもあるし、代わりになるもの今日まで日本人は見つけられなかったという事でもある

天皇を廃するという事は、日本人想像の共同体の核となっている部分を失うという事に他ならない

天皇制を廃止するにはその代替となるものはなんなのか、示しておく必要があると思うのだ

天皇廃止を叫ぶ人達にはその答えがあるのだろうか?

それは多くの日本人を納得させられる様なものなのだろうか?

天皇制を廃止するのであれば、そこに突っ込んだ議論絶対必要になると思う

2021-10-01

民主党の何がダメなのか考えてみた

結論から言うと、国民の事を全く見ていない。おじさん構文でアイドルアプローチする独身KKOみたいな存在になっている。

もっと民主党自分客観的に見て、主体的国民アプローチするべき。


過去の失敗経験国民記憶に残っている

民主党政権が陥落して約10年、それより以前なら10年前の事なんて忘れ去られていた。しか国民の平均年齢が上がった結果、10年前をそれ程昔と感じられなくなる年齢層が増えた。

また現実に株で損をした、失業したという経験がある人間が数多く居て、デジタルタトゥーとしても、株価にもそれは刻まれている。株価の話が出るたびに、「民主党政権だったから」と説明されてしまう。

正直言って株価に関してはリーマンショックや諸々が重なった事も大きいと思うが、それに対して事業仕分け、官政の分離、コンクリートから人へ等々、所謂狼狽売り」みたいな事をしてしまい、プロとしての対応が上手くできていなかった。

すべきだったのは将来性のある基礎研究等への投資や、官僚との緊密な連携、まずはコンクリート(公共事業)への投資だった。

また中韓に対しても土下座外交をし、結果的関係が良くなるばかりか更に要求エスカレートすることになった。「能力の無い優しいチー牛より、能力のある性格の悪い金持ちの方が良い」という空気が醸成された。


・それに対応するやり方が国民馬鹿にしていた

結果的安倍政権時代は、民主党は何もできなかった。不正を暴こうとしても、「でもお前らの政治よりかはマシだよね?」と掘り返されるとぐぅの音も出なかった。

民主党」という名前に泥が付いてるのに気づくと、「立憲」に名前を変えてなかった事にしようとした。しかし実質民主党で、継承されたのは泥だけだった。

この時すべきだったのは、民主党解体し新しい人間を上に立たせる事だった。つまり枝野周辺の人物を一回下ろし、新しい人間を上につけるべきだった。

最終的に「1020年前の野党の重鎮」の同窓会みたいな野党連合が完成した。ゴミ100個集まってもゴミ


過去成功体験からの執着

民主党政権をとれたのは、自民党への徹底的な批判と外部へのパフォーマンスだった。

民主党に夢を持っていたからだ。しかしそれを全て壊した後にすべきだったのは、自民党への批判だけではなく、「未来への展望を語る事」と「具体的な政策提案」と「過去反省

だったはずなのに、それを疎かにした。国民には過去歴史反省を促す癖に、立憲は頑なに過去の過ちを認めようとしない。

例え民主党政治が悪くなかったのだとしても、反省モードをやらないと国民は変わってないんだなと思ってしまう。その極めつけは「アベノミクスダメだった」という研究結果。

他者反省を求めるだけで、全く自分政権反省が見えないのが丸見え。アベノミクスの前に民主党ダメだったところの検証結果を出せ。


エコーチェンバーに囚われてる

深層学習とか機械学習とかビッグデータとか出てるのに、20年前の「地道な」広報戦略をずっとしている。

旧民主党メンツツイッターや支持者層と内輪で盛り上がり、フェミニスト極左の「私はエビデンス」に囚われて広い国民視野を拾わない。

フェミニスト極左国民から支持されていない事に気付けない。twitterで反感を振りまくだけで、国民全員に共感を得るようなtweetができない。


広報が下手過ぎる

河野ギャグや真面目な話を絡めて支持層を増やしているのに、旧民主党メンツ基本的自分語りしかしない。

民間委託世論の受けを良くする広報SNS戦略もしない。官から民へと言っていた割に、民間の事を全く信用していない。


知識の集積がなされていない

民主党政権での失敗を生かせば更に支持層を広げられたはずなのに、「君は悪くなかった」という意見だけを聞いて閉じこもっている。

正直政権をとる気力さえなく、「一度は日本トップに立てたね」という過去の栄光に縋っているダメ集団という認識しかできない。

自民党民主党政権下でも着実に力を付けて、広報戦略1020年前からかなり進歩している。

まぁ民主党の上を取り替えたり政策の転換をしたらそれはもう民主党じゃないから、もう民主党自体ダメ

新しい右派政党を待つしかないんだと思う。というより左派自体権威になって腐敗してる今、左派政党自体がもう時代遅れだよね。

2021-09-30

自民党総裁選がファスト投票っぽい

実際に投票に行っていないし、自民党の党内人事のイベントだけど、議員党員による投票があって、実質次期総理大臣を決めるイベントで、少なくとも一番前に出る人の顔は変わる。

何度も続けたことで権威のあるものに見えるし、実際の衆議院選の前に決定済み感出してて上手。

2021-09-29

写実的な絵が描かないから頑張ってないことになるらしい

ブランドがない不安定価値はいくらでも権威ボコボコにできるから楽だわな

2021-09-28

令和の公武合体に相応しい髪型は鬟(ミヅラ)

幕末期、公武合体すなわち朝廷伝統権威現実統治者の結合による統治者権威けが図られたが、その具体的手段和宮親子内親王徳川家茂への降嫁であった。

翻って主権在民が謳われる日本国憲法下において天皇家君主として権威を持つとすれば、民主主義精神の不足と言わざるを得ない。現実に先の東京五輪でも、選挙で選ばれた議会が選んだ首相差し置いて、天皇五輪への苦言を言わせようとする王政主義(反民主主義)を公言する者も少なく無かった。嘆かわしい限りである

我が国が真の民主国家たらんと欲すならば、あたか天皇首相の上に立つかの如き思想を抱かないよう、その権威剥奪しなければならない。

これを公武合体に準えるならば公民合体とでも言おうか。その具体的手段は、公武合体に準えるならば、皇族一般人への降嫁となる。

この合体は、民の側が皇族歴史をも伝承・吸収してこそ成る伝統が皇統に専属せられたままでは、伝統に基づく権威もまた皇族に残置されるためである

したがって、逆説的ではあるが、降嫁を受ける者においても皇族伝統体現する必要がある。それは例えば装いであり、髪型である

まり、「令和の公武合体」を体現するためには朝廷伝統髪型である鬟を結える必要があり、それには髪を伸ばす必要があったのである

2021-09-25

志位和夫が死んだ後

今の日本って権威性を有した上で堂々と共産主義を唱えられる人は志位和夫しかいないんじゃないか

彼が政権を取ることは万が一にも無いんだろうけど、そのまま老衰するのは惜しいなとも思う。

2021-09-22

聖書を読み終えた

エルサレムのおとめたちよ

野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください

愛がそれを望むまでは

愛を呼びさまさないと。

聖書(新共同訳)

大学2年生をしている。

一昨日、旧約聖書新約聖書を読み終えた。

キリスト系の大学に通ってるんだけど、神学的な講義がぜんぜん意味不明だった。

なので、一生に一度と思い、聖書に挑戦してみることにした。

率直に感想を述べる。

長かった……とにかく長かったー! ぜんぶで2000ページ以上もあった。

そのうえわたしは、本を読むのが遅い。なので、1ページに平均3分ちょっとかかった。詩編だと2分くらいかな。

なので、1ページにつき3分とすると、2000ページで6000分=約96時間も読んでいたことになる。こんな読書体験は初めてだ。

得られる物はもちろんあった。半年もかかって読み終えたのだ。成果なしでは悲しすぎる。

これからつの掌編を引用して、それぞれコメントをつけたい。

全文引用ちょっとどうかなと思うところもあったけど、この聖書の発行元は、250節までは引用OKとしている。

なので、この2編だけグサッとまるまる引用する。ほかにちょっとだけ引用している。冒頭の詩は、『詩編』(追記:雅歌の間違いでした)という閑話休題的な部分から取らせてもらった。(私が持っている)旧約聖書1052ページに載っている。



まずは『放蕩息子』からだ。

子どもの頃、こんな題名ドラマを観たことがあるかもしれない。

放蕩息子のたとえ

また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどのパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたし友達宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなた身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

――ルカによる福音書 15.11-32(15章の11節~32節) P.139~140


最初意味不明だった。お前は何を言ってるんだ? そんな気分だった。

「あ、これ講義で習った!限界効用の逓減だ!」とも思った。

さて、解説サイトを巡ったところによると、この掌編というのは――父親を神に、放蕩息子を(いつも罪を犯しがちな)迷える人間に喩えているらしい。

なるほどと思った。イエス説話にはたとえ話がよく登場するが、たとえ話の中でもたとえを使っているのだ。

神は寛容な存在だ。聖書においても、寛容さが重要な徳であると述べた個所が多くある。

現代社会においてもそうだ。昔に比べると、個人に対する寛容さが求められるようになっている。傍目では愚かに見える行いであっても、当人意志尊重する。自己決定権というやつだ(うろおぼえ)。

聖書というのは、なんかもういろいろと今の社会を先取りしているのだ。いや違う、普遍的というやつだ。どんな時代でも共通する大事なことを、ひとつひとつ、じっくりとしっかりと述べている。

次は、『不正管理人のたとえ』だ。

不正管理人のたとえ

イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったときあなたがたは永遠住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかであるあなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

――ルカによる福音書 16.1-13(16章の1節~13節) P.140


それはひょっとしてギャグで言ってるのか!?」という、中学生の時に読んだ漫画台詞を思い出した。

読み始めは、聖書らしい勧善懲悪を期待していた。読了後は、こいつやりたい放題だな! と感じつつ、この物語は何を意味しているのだろう――今度は自分で考えることにした。

こたつ机の上で、通勤途中の自転車で、トイレの中で、サイゼリヤでの雑談中に、神学Web講義中に、何度も考える機会があった。

からなかった。結局。

それで、解説サイトを巡ってみることにした。どうやら聖書のたとえ話の中でもメジャー作品らしい。

しかし、わからない。どの解説サイトを読んでもしっくりこないのだ。

どのサイトにおいても、「どんなに苦しい状況の中でも、神の国に行くために最善の行動を取ることが大事」と書いてあった。不正にまみれた富でいいので、いつか最後の審判が訪れて、永遠の国に住む時のための友達を作っておくべき、みたいなことが書いてあった。

腑に落ちない。聖書には矛盾する箇所がいくつもある。

例えば、主人が召使い3人に、自分が留守の間お金を預ける話がある。3人の召使いの中で、そのお金資産運用によって一番増やした人が主人に一番褒められていた。お金を土の中に埋めておいた人は、主人の命でそれを取り上げられ、一番増やした人に渡ったうえ、彼は外の暗闇に追い出されてしまう。

(だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる)

でも、その一方で、「金持ち神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」みたいなことを述べた箇所が同じ新約聖書に3つ以上はある。

約二千年前に作り始められたわけだから矛盾する箇所も当然あるだろう。しかし、それにしても不正管理人の話には納得がいかない。

そうこう考えてググっているうち、こんな本をアマゾンで見つけた。

捏造された聖書

要約すると、長い年月に渡って聖書が写本され続けた結果、当初は存在しなかった物語解釈意図が入り込んでいった、とのことだ。

ならば納得できる。この『不正管理人のたとえ』の真実は、こうだ。昔、聖書を写本していた権威ある人が、「このネタ入れたら面白いんじゃね?」的なノリで挿入したシュールギャグだったのだ。それが不正管理人のたとえの正体である――解決

解説サイトヤフー知恵袋なんかでこの掌編を肯定している人は、もしかして、あれじゃない? 権威に弱い人なんじゃないか?? おかしものおかしいとして、はっきり言わないといけないんじゃない??? と、わたしは思いました。(小学生並みの感想



聖書を読んでよかった。

はっきり言おう(ここイエス意識している)。わたしにとって収穫だったのは、多くのコンテンツ原典元ネタであることを確認できたからだ。以下のようなものがある。ネタバレ防止のため、どの作品派生しているか原則述べない。

例えば、①エジプト王宮でのモーセアロン VS ファラオの対決時に、お互いの杖を蛇に変えてバトルする場面とか、②サムソンが今わの際に両手で二本の柱を押し倒して数千人を巻き添えにして死ぬところとか、③ペルシャクセルクセスが、「王妃エステル、どうしたのか。願いとあれば国の半分なりとも与えよう。」って2回も言うところとか、④大岡裁き(どちらが本当の母親か決めるやつ)の元になった母親2人の諍いの話とか、⑤ダビデの三勇士の一人イシュバアルは、槍のひと突きで800人を殺してしまうとか、サラっと書いてあって思わず吹いた……。

かにも、ここには挙げきれないほど多くの漫画小説ゲーム元ネタに会うことができた。これだけでも読んだ甲斐があるというものだ。

特に士師記サムソンには笑わせてもらった。スラップスティックギャグコメディの原型が聖書にあったなんて! 高橋留美子も、これを読んで『うる星やつら』の肥やしにしたのかもしれない。

聖書というのは、宗教書というよりは総合文学の書であって、これを基に、その人がどう人生を生きるか考えるきっかけにする、みたいなコンテンツなんだと思う。

聖書は、各編によって色あいが相当違う。格調高く綴られた世界創造の語りだったり、長い旅と王国繁栄の中で主人公が次々と交代していく群像劇のようにも見えるし、小説上のジャンルはだいたい網羅している(冒頭の詩は兄×妹の恋愛ものだ)し、どんな生き方が正しいのかという論じ合いもあるし、お笑いな感じの喜劇もあるし、いきなり箴言集になったりするし、詩もたくさん出てくる。

ところで、聖書に出てくる神は、その時々によって寛容だったり不寛容だったりする。人によらずとも、矛盾していると感じることがある。

キリスト者を迫害した人や、信心律法の罪を犯した人を赦す場面もあれば、かの有名なオナンさんはあっさりと殺されるし(彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された。)、聖者エリシャを「禿げ頭出ていけ」と詰った子ども達42人は、突如現れた熊2匹によって皆殺しに遭っている。

しかし、世の中というのは、そういうものではないか

同じ人でもやることなすことに筋が通っていたりいなかったりすることがあるし、理不尽だと感じた運命が後に自らを利するものであることがわかったりするし、法律常識に反した行動がみんなの共感を得ることだってある。



わたし若者でいられる時間は少ない。あと10年以内には若者ではなくなってしまう。それまでには、ひとかどの人物になっていたい。今回、半年がかりで聖書に向き合った経験が生きたらいいなと思っている。

最後に、物語の背景を知らなければ厨二な詩としか思えない台詞を書き留めて結びとする。

わたしの生まれた日は消えうせよ。

男の子をみごもったことを告げた夜も。

――ヨブ記 3.3(3章の3節) P.777


サタンの弄びにより、死に等しい皮膚病に冒されてしまった義人ヨブの独白の一部だ。

いつかは口に出してみたい台詞ランキングで第1位に入っている。

面白い書物だった。また一度は読んでみたい。

フェミ議連が不利になった途端に叩き出すやつらはゴミ

結局正義棒で弱い人間を叩きたいだけの馬鹿が大多数ということだ。

俺はフェミは嫌いだよ?今回の松戸市案件も序盤からフェミ議連をぶっ叩いていた。

でもさあ、いざ炎上してからフェミ議連を叩いてる人達って非常にダサいよね。

ダサいというか、問題なんだ。

結局は今叩いてる人達ほとんどは、旗向きを見てから乗っかってるだけのお祭り馬鹿たちで、

別に表現だとかフェミ関連問題なんて何の興味もない雑魚なわけじゃん?

だってもう何日も前から問題視されてたわけだし、今更叩いてるってことはアンテナが低いか、どっちが形勢有利か見極めようとしていた風見鶏のどちらかでしかない。

いや本当に脳ミソついてないよね。

自分の頭で物事を考えるってことができないし、情報も追えてない幼稚園レベル馬鹿です!

って自己紹介してるのに気づいてないから、恥ずかしげもなくフェミ議連を「今」叩けるわけよ。

仮に今回の案件で「フェミ議連同調する署名が5万件集まりました!」って報道されてたら、

同じ口で「確かにこれは性的だ。ありがとうフェミ議連千葉県警は大いに反省しろ責任者は逃げるな!」

とか叫んでるのは簡単想像できるよね。

何故かというと、自分の頭で物事考えてないからよ。何度でも言ったるわ。

結局、数の暴力だとか、権威だとか、そういうものに乗っかるしかないゴミなのを自覚しろや。

少数派だろうが多数派だろうが他人が何とほざいてようが、

自分物事の正しい正しくないを判断しろ糞共。

なんでキレてるのかっていうと、本当に繰り返すけど、

今回フェミ炎上させたのと同じ手法フェミに取られたらフェミにつくからだよてめーらが。

署名は糞ではないかもしれないが、署名の数を見て意見を決めるやつは糞だって話だよ。

著名人の叩きに乗っかってるやつは内容が真逆でも乗っかるからだよ。

ナチス投票したゴミ近衛文麿戦争するぜ!って時に喝采してたゴミと何が違うねん君ら。

いい加減思考アウトソーシングするのやめろカスが。

2021-09-21

立法権を持つ議員敵対しているのだから、『どこが違法か言ってみろ!』は悪手だよ」という話が通じないのは、立法府権威というものがもはやすっかり失墜していて、一方で司法府権威はいまだ健在であることの現れなのかもしれない。

anond:20210920235201

社会運動に全体の戦略性を求めるのはかなり難しいと思う。特定改善目的を持つ団体があって、そこに方針を決めることができるブレイン存在しているようなケースでは別だろうが、SNSでの運動は同じ方向性の思いを持つ人が声を挙げました、というようなレベルで中心は存在しないだろうから

途中である種の権威現象コントロール可能存在、靴の場合業界団体大手企業だろうが、そういう人たちが運動マインドを拾って活動に組み入れることがあれば継続的運動になり得るのかもしれない。

2021-09-20

「〇〇警察」は「言い切った奴が勝ち」の亜種

「○○警察だ!」とかい言葉、前からあるがここ1年特にはてな界隈流行ってると思う。

だが3割は微妙に間違ってたり初歩的ミスをしてたりする。

俺が気付くのが3割程度ってだけでそれぞれ専門の人が見ればもっと多いと思うよ。

そういうエセを見る度にお前その程度の理解警察を名乗るなよって言いたくなるね。

〇〇警察を名乗った時点で発言者は完全に正しくなくちゃいけない。

だって愚かしくも自ら誇張された権威性まで付与して自身の主張の正当性を誇示し、さら相手をまるで罪人にでっちあげてるんだから

その警棒だかマサカリだかを振り下ろせるだけの完全無比な主張が必要なんだ。

それなのに何だあいつらの貧弱でヌケの多いゴミは。

いや百歩譲って自身があるにしても、謙虚さを忘れ警察を名乗るゴミに識者ぶる資格はない。

警察というより王様だよ。厚顔無恥の裸の王様

そしてその馬鹿を別の馬鹿が称える。

パッと見で警察を名乗るほど自信満々なら正しいんだろうという心理が働くからだ。

これはコロナ禍でありがちな、誤りでも言い切った奴がより信用を得やすいという現象と同じだ。

2021-09-19

anond:20210919065643

実力で天皇決めるとオレオレ天皇が乱立するから万世一系という絶対覆せない権威を持つ天皇家ってのは大事なんだと思ってるよ。

anond:20210919100039

個人的には、眞子様小室圭との結婚は認められるべきだと思うし、メディアもも眞子様をこれ以上追い回すなよとは思うけど、逆にそうやって皇室の責務からある程度自由に脱退が可能になればわざわざ制度を潰す必要はなくない?

責任に見合う十分な対価や補償があり、ある程度の自由意思での脱退が可能なら、人権的には問題ないでしょ。

皇室自体外交における権威とかのために、日本という国家にとって必要なモノだと思うし。

2021-09-17

anond:20210917184133

なにが病院ブランドですかぁああ!!こんなジジババのたまり場に権威なんてありませぇええん!!口コミも最悪なんだからこれ以上傷ついたってたいして変わりませんよぉぉおおお!!

2021-09-16

長文を読み書きしない奴とはできるだけ関わらないことにした

具体的には、読解拒否する文盲は当然として、Twitterとかはてブだけでブログやってなかったり

やってても適当に書き散らした日記だけの奴。リアルで物書きとかなら別。

先に言っておくと読解力とか知性の問題じゃなくて、

頭がよくても「三行でまとめろ」とか言い出すタイプ合理的でも見てて楽しくない。

から読み書き「できない」じゃなくて「しない」奴。

長文は結論に至るまでの過程を書くことによって

無名自分対立している思想相手に一理あると思わせることもできるが、

短文だと過程がすっ飛ばされるのでも党派だとか権威だとかの影響を受けやすい。

まぁこ文章自体、作文能力権威とした長文党なんだけど)

今時長文でしかコミュニケーション取らない人間は珍しいだろうが

全く書かないのは説明議論・説得という習慣が(少なくともネットでは)ないということ。

読まないのはいわずもがな。敵か味方かっていう世界観で生きてる奴ばっか。

いい事言ってると思っても、その時たまたま気が合っただけで、次の日には敵になっていたりする。

2021-09-14

所詮人間と思えば権威なんて全く恐ろしくない

ヤクザだのチンピラだのの方が言葉通じないし人間じゃないので恐ろしい

2021-09-11

鴻巣友季子の時評は何が問題だったのか

 『文學界2021年9月号に掲載された桜庭一樹少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。

 この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者見解掲載された。

 この記事では総括として、両者の見解検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリー仕様URL掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。

見解検討

 両者の主張は、以下のように整理できるだろう。

桜庭文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。

鴻巣文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。

 桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈自由〟を奪」うことを挙げている。

 一方で鴻巣自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。

 では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである

 鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である文学解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないである解釈批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである

 鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。

 繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ私小説フィクションからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。

 ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。

 この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授日比嘉高モデル小説研究フロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在人物モデルに』と事実立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実事実」の問題を切り分けている。

(強調は引用者。これは桜庭が声をあげた最初ツイートだ)

(強調は引用者)

 桜庭実存にとって「現実事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭あくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家動機ではなく、作家根拠フォーカスするべきであるこの記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。

 とはいえ桜庭見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。 

文芸時評というジャンル

 今回の一件に際して、文芸時評不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭ツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣見解において「批評」という言葉を用いている。

 だが、文芸時評批評しかないのだろうか? 文芸時評英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル特性があるのではないか

新聞というメディア

 文芸時評新聞という巨大メディア掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。

 文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷鳥取で一人暮らす実在老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実現象レベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか

 以上の論点を踏まえて、時評担当者見解検討することもできるだろう。

書いてあればよいのか

 桜庭見解は冒頭、「私の自伝的な小説少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家藤田直哉が端的に指摘しているのでツイート引用しよう。

 つまりあらすじに書いてよいのは、「作中の事実であるべきではないか 今回であれば、あくまで一人の人物視点に立って、「私の自伝的な小説少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列テクストに書いてあるとはいえ中人物の「主観的解釈なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか

 あるいは、そもそも事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分幸せだと信じ込みながらオンラインサロン主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せ生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せ事実ではなく評価からだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか

参考になりそうな文献

 最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。

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