はてなキーワード: マクドナルドとは
引越しの際のネットの乗り継ぎに失敗してPCをネットに繋げなくなってしまった
それは少し困るのでスマホの小さな画面で無料wifiに繋げる場所を探した
少しググって調べると、セキュリティの危ういフリースポット以外では
マクドナルドやルノアールなどのチェーン店でwifiに繋げるのだという
なるほど、それなら仕方がない、ならばルノアールだ、と行ってみると
スタバはスマホなら繋げたがPCではなぜかwifiが見つからなかった
外国人観光客からの批判の記事を読んだが、日本がそういう国なのはまあ仕方がない
なんで「ここと契約してる方のみwifi使用可能」とかそういう情報を明記してねえんだよ
「wifi繋げます☆」じゃねえよ繋げねえよ地獄に落ちろおまえの人生はこれから地獄だしおまえの家の住所は地獄の一丁目だ
という諸兄らの声もあるだろう、確かにその通りだ
根気良くググればwifiを無料で使用可能かどうか、ある程度わかる
みんなスマホを持ってるのになぜ気になることをググらないんだ、
以前はそう思っていた
それが極めて労力を要することだと初めてわかった
PCを気楽にネットに繋ぐことのできない情報弱者なのではないだろうか
無料wifi情報をまとめるサイトはもう少し情弱に優しく情報をまとめて欲しい
また、wifiを設置している店は
それができないのなら色々事情はあることと思うが、できれば地獄に落ちて欲しい
電話で確認!そういうのもあるのか
唐突なんだけど、この前、とある女性と飲んでいたときに、「俺ってイケダハヤトのこと、意外と評価しているんだよね」といったら、すごいびっくりされたのね。「シマダさんって、絶対イケダハヤトのこと嫌いだと思っていた!」と。
そういえば、数週間前にも男の後輩にも「シマダ先輩がイケダハヤトのことがアリだって結構びびりました」ともいわれたなあ。
なぜ意外だと思われるのか、と考えてみたんだが、もしかして、イケダハヤト観なるものに差があるのではないかと思った。
そもそも、イケダハヤトのことを、論理的、言語的に見ると、混乱をまねくと思うんだよ。
イケダハヤトは、内容や文章の書き方が、一見、論理を使おうとしているように見えるのは事実だ。だから「論理的におかしい」「イケダハヤトの意見は違う」「言っていることが前と逆だ」という話になってしまう。
でもイケダハヤトがやっているのは論理ではない。言語ではない、文章ですらないかもしれない。そういう表現手法をとっていないんだ。
イケダハヤト、そしてイケダハヤト的なものは、もっと精神的なものなんだと思う。若者の空気といってもいい。私たちの世代だとホイチョイがやってたようなことをイケダハヤトがやっているのではないかと思う。
つまり、若者の空気をただ放出しているだけ。ホイチョイと違うのは、研究して、それをデフォルメして、うまい具合に時代の空気を表現しているわけではなく、イケダハヤトが今の若者そのものだからである。そして、今の若者の一部の部分を切り取って、それをアウトプットしているんだ。
若者と話すときにさ、論理で話の腰を折るおっさんいるじゃん。わからなくもないんだけど、若者がしているのって別に議論じゃなくて、単に感じたことを素直に出してたりするだけだったりするのよ。「本田かっけー」とか「マジだりー」とかと同じなんだ。本田がかっこいいという点に対して論理で反論しないでしょ。それと同じ。
つまりイケダハヤトに対して反論したり、間違いだという人は、そもそものところで噛み合っていない。話しているレイヤーが違う、次元が違う、内容が違う、論点が違う。
たとえばだ、イケダハヤトが「納豆を若者に強要するおっさんは、若者をバカにしている。そもそもマクドナルドを食べたっていいはずだ。世界的チェーン店であるマクドナルドであれば有害物質を使う可能性も低いし、そもそもキャベツやトマトが入っているハンバーグのほうがよほど健康的」みたいなブログを書いたときに「別に若者に納豆を押し付けていない」「そんな押し付けるようなおっさんは本当にいるの?」「マクドナルドが有害物質を使わないとは限らない」「トマトやキャベツだけじゃ野菜として足りない」みたいな反応をするやつがいるけど、全く違う。
イケダハヤトが上記のようにいったら「納豆はねばねばしてるし、なんかくさい。あとマックはうまい。」といっているということ。それなのに「トマトやキャベツだけじゃ野菜として足りない」って言われたら「え、何の話?なにいってるんですか?」となってしまうのは当たり前だ。
イケダハヤトは恐らく、若者が意見や感想、感じたことを発信することは価値があると考えているので、多くの人がそのようにするべきだと考えている。なので、中身がない、という批判もおそらく意味がない。
こう書いているが、別にバカにしているわけじゃない。実は私も、イケダハヤトと同意見で、若者がブログやtwitteでもっと思っていること、感じていることをストレートに書くべきだと思っているからだ。そういう意味では、イケダハヤトの支持者であるし、彼のブログもおもしろく読んでいる。若者が感じていることをストレートに伝えられるってやはりいいことなのではないか?
相手は告白してOKもらった大学の先輩。初デートでホテルに連れ込んだ。前々からセックスをそてみたかったからだ。我慢できなかった。
しかし、初めてヤった感想は「こんなもんか」である。キスは特に味もないし、フェラチオは思った以上に低刺激だし……。
直前の興奮がMAXで、あとはなだらかに下山していく。そんな感じだった。でも、彼女に悪いのですごく気持ちよかったかのように演技した。喘ぎ声も出した。
それからしばらくはヤるたびに鬱になった。みんなこんなことのためにたくさんの投資をし、中には犯罪を犯してまで求めているというのに、こんなにも期待外れでいいのか?
こんなことならマクドナルドでビッグマックをコーラで流し込みながら、円城塔の小説でも読んでいた方がマシだ。セックスするよりも、彼女とくだらないことを喋って笑いあっている方が幸福に近い。
どうしても許せないのが、ディープキスである。ビデオだと男女が目をトロンとさせながらとても楽しそうにむさぼりあっているのに、実際にしてみると何も面白くない。「早く終わらないかな」と僕は思っている。
フェラだってそうだ。最初は咥えられているのかわからなかった。もっと陰茎が溶けてしまうじゃないかっていう至福を想像していたのに。ガッカリだよ。
ひょっとしたら「身体の相性が悪い」ってやつかな、と思って別の女性ともしてみた。前々からエロい身体しているな、って思っていた社会人女性を口説いた。結果は「大差なし」だ。もう一人試してみたが、同じだった。
スターバックスの批判的記事を見てみたら、
どれもなんだか的外れで記事を書かせた依頼主にとっては悩みのタネだったろうな。
でも最近になってスタバを「飲むジャンクフード」という言い方で批判が広がりはじめてるのが面白い。
「飲むジャンクフード」でググればいっぱい出てくるスターバックス。
健康ブームに乗じて、それに逆行するドリンクを販売してるという点をディスってるということなんだろうけど
これまでの批判的な記事よりも、一般人向けな批判がようやく現れたみたい。
「不健康」「ジャンクフード」というとマクドナルドのドリンク版 みたいなのをイメージできちゃうね。
広告心理からすると、スタバとマクドナルドはちょっと印象の同化を始めたということか。
いままでの批判はユーザーにとってそれほど興味の無いもの。どうでも良いものだけど、
気になる。
<hopelessness>
これは、どうにもならない。
</hopelessness>
少なくともある程度本を読む人間にとって、彼の代表作、評価、 その死後の受賞歴を長たらしく記す必要がない程度には。どうしようもなく。
それゆえに、ある種の人にはその逝去を悼まれる死者として、またある種の人には越え難い壁として、
そしてある種の人々には華々しい装飾品として扱われる。
更に法人からはSF業界に新しい息を吹き込む新鋭として、 また広告塔として。素材として。贄としてだ。
小松左京賞を逃した『虐殺器官』が早川書房へと持ち込まれ、ハヤカワJコレクションとして発刊される。
本作の評価、また出版のうえでの編集者との出会い等がなければ『ハーモニー』が生まれることはなかっただろう。
彼の死後、同社より、関連書籍の刊行が相次いだ。 『伊藤計劃記録』をはじめとして、ブログ及び個人ページに書きためていた映画評、
同人雑誌への寄稿が次々と出版され、多くの読者たちの手に渡った。
『記録』の主な素材は短編小説のほか、彼のブログに重ねられた書き捨ての文章である。その時既に彼の文章は死者の書物として上書きされていた。
だが、それらの文はインターネット上といえ、確かに人に見せるために彼自身の手により発信されたものだ。公開できるものとして。自らの分身として。
豚はその皮を食い破り、腸を捕まえる。裂け目から沸きだした臓物の汁の一滴まで啜り続ける。 その餌を与えたのもやはり同じ、早川書房である。
文庫化を機にベストセラーとなった『虐殺器官』には、解説という名の追悼文が録されている。
近しい知人のみに公開されたmixi日記に連ねられた彼のことばが、共有される感動の実話として金を集めていく。
豚たちにとってそれは飲み込まれるのを待つだけのコンテンツ、喪失という名の欲望を満たすために在るただの肉でしかない。
彼の最大の不幸もまた同社との出会いであった。
現在、ブックファースト新宿店では「伊藤計劃を超えろ!フェア」が実施中である。
新宿駅から西口方面に足を運んでみれば、きらびやかなポップ体の横断幕がきみを出迎えてくれる。
並んでいるものを見れば何ということはない、ただの新人博覧会だ。
ただの博覧会であるからこそ、彼の名を据える必要がどこにあるのだろうと考える。
それは書店を出て左手に曲がれば見える、マクドナルドの壁に張られた新作商品の広告、
プリンタの限界まで引き延ばされた少女たちの、血色の粘膜をめいっぱいに広げ、バーガーにかぶりつこうとする笑顔と何も変わりはしない。
意味など最初からない。それは羽虫たちを惹き寄せるだけのためのただの明かりだ。
...そんな「人間の意識」だけが死んで、自分のように振舞う要素だけが、
これこそまさに、煉獄というやつなのではないか。
伊藤計劃はこれからもコンテンツとして生き続ける。言及は絶えず続き、没後の節目を迎えるたびこのような商業作戦は行われ続けるだろう。
「彼の本が」ではない。「彼が」でもない。そこに掲げられるのはもはや彼ですらない、幻想としての"伊藤計劃"だ。
"それ"は新刊をさばくための道具だ。士気を煽るための墓標だ。いつでも痛みを味わえる、簡単で都合のいい薄っぺらい擦り傷だ。
またはただの便利な、ブログやツイートの空白を「かんがえさせられましたにっき」で埋めるための装置だ。
伊藤計劃の『虐殺器官』『ハーモニー』といった大天才の大傑作があって、以後立て続けに批評家・レビュワーによる伊藤作品を踏まえた社会評が発表されて、
あーやべーSFスゲーじゃんめっちゃ社会語れんじゃん、俺が社会語れんじゃん!といった風潮ができて。
彼らにとっての社会はそこで閉じている。「知っている」「考えている」ところを「他人に見せる」ことで完結している。
だから少しでも話が小難しくなればWikipediaさえも読み通せはしない。
ただ彼を善く語ることで自分を見せることしか考えていない読書人を殺せ。
売れる本を売れるときに金に換えるためだけに存在するキャンペーン型書店を焼き倒せ。
故人をコンテンツにフォロワーを増やし、友達にくだらない話をすることばかりしか頭にないソーシャルクソ野郎を排除しろ。
創作物に死の匂いを振りかけて、クソ野郎のための新しい餌の在処を振りまくクソ書房はおとなしく無個性ライトノベルでも出していればいい。
派手な色彩の建物はまかりならん、と誰が法律で定めたわけでもないというのに、そこに広がっているのはひたすらに薄味で、
何の個性もなく、それゆえに心乱すこともない街だった。
どこまでも、ひたすらに、河の両岸を果てしなく。
彼らの漬かった沼を満たす泥は金だ。あるいは承認の欲望だ。
社会的であらねばならないこと。そのポージングが直結する意識下、無意識下のスタンドプレイ。同調圧力の強要。
彼が稚拙ともいえる比喩で、『ハーモニー』の作中、あからさまに批難したのはこのやさしさの窒息ではなかったか。
取り合う手と手に首を締められるその苦しさではなかったか。
『虐殺器官』に描かれた偽りの平和主義の破壊に、お前は何も思うところは無いのか。
自分が何を読んだのか、何に心を動かされたのか、少しでも彼の書いたもののことを思うなら、WiFiの電波をオフにしてもう一度考えてほしい。
墓の上のワルツを今すぐにやめろ。
彼は神ではない。
彼は救世主ではない。
お前を輝かせるための装飾品ではない。
お前はお姫様ではない。
ただの惨めで愚かな豚だ。
歌って踊るだけのこの世の屑だ。
臭い口を閉じろ。
彼が評価されるべき理由は「死んだから」ではない。
ブックファースト新宿店様ではただいま「伊藤計劃を超えろ!」フェアを開催中です!
藤井太洋さんも含めた次世代SF作家の代表作がドバーッと網羅されています! 必見です! http://pic.twitter.com/soYpfhPPDn
恥じろ。 醜い。
明文化〜って書いたんだけど、確かにちょっと分かりづらかったかも。
一つ前の「店の人が仕事を聞く → 詮索系の会話やめてほしい → 個人情報を漏らさないといけないんだ」とか思う人のことが気になっててさ。
でも「(個人的な関係性を結びたくないのが当然である)飲食店の店員なのに、詮索するなんて何事だ」って意見になってる。
例えば、マクドナルドの店員だったら「お仕事なんですか?」とか聞かないし、スタバの店員だったら「これからお仕事ですか?」とかは聞くかもだけど「お仕事なにやってるんですか?」とかは聞かなそう。合コンで女の子が「お仕事何やってるんですか?」は、聞いてきて当然。
インドに旅行行ってメシ食ってたら、そこのオヤジは「お前は日本人なのか?トヨタで働いているのか?日本人は、毎日100ドル以上稼ぐんだろ?」とかは聞いてきそうとかさ。
ユーザーとしてとか、プライベートとか、なんとなく想定される関係性があると思うんだよね。
そういった中で、お店の人が仕事とかそういった話題を振ってくることに対してイヤってのは、
店員とも人同士のコミュニケーションだよねじゃなくて、店員なんだから個人情報は聞くべきではない。
って考えてるんじゃないかなと思ったわけですよ。
そういった想いをひっくるめて「明文化されてないルールが存在する空間が苦手なんだろうなあ」という意見になったわけです。はい。
今日も、「荒れる新成人」という毎年恒例の話が出てくる。しかし、新成人に文句を言って嘆く既成人たちは、「なにがなぜ悪いのか」を説明して叱れるのだろうか? 叱責が説得力をもつためには、なにがなぜ悪いのかを説明し、しかも叱る当人が己を律していなければならない。
「人を殺してはなぜいけないのか」という疑問が話題になったことがあったが、「そうした疑問をもってはならない」という社会気質が、この国にはある。何も考えずにただ「殺人=悪」だと言う。しかし、そんな思考停止では、真の倫理観は育つまい。究極的には、刺すか刺されるかの状況になれば他人を刺すものが必ず出るし、「死にたい」と思っている者には「他人を殺すまい」という抑止力はきわめて働きづらい。ただ単に「殺人=悪」だと言って洗脳するのでは、ものごとは解決しない。
この社会にあるのは、道徳倫理ではない。潔癖症なのだ。言い換えれば、怖いのだ。多くの者が、死を怖れると同時に、快適に暮らしたいと思っている。その、自分たちにとって心地の良いような潔癖な社会にしようとする理屈でできているのであって、真に「なにが悪いのか」は考えていない。
「なにが悪いのか」を考えずに杓子定規に順守して、「俺も守っているのだからお前も守れ」と言うのだろうが、そんな理屈ではよくわからない。ところが、いまの多くの人たちは、「俺はこんなに頑張っているのに」「私はこんなに苦しいのに」と言って他人に八つ当たりする。大流行中だ。
古くは、自分でも「悪い」とは思いもよらなかった行為を、偉い人に怒られたり、天変地異の原因になったと思ったりしたから、「しきたり」ができるようになり、いささか不合理な「しきたり」でも杓子定規に遵守するという社会気質ができた。それがそのまま江戸時代ころにはもう全国家的に流布されて、皆「お上」の言うことをきく「踏み絵社会」ができあがっていた。
さて、そもそも、社会的善悪というのは、真の善悪とは異なると思う。社会的善悪というのは、人間にとっての都合の良し悪しだ。自分たちの自我にとって「得だ」と思うことが善になり、「損だ」と思うことが悪になる。だから、死にたくなければ他の生物も殺すし、インフルエンザウイルスであれなんであれ、徹底的に殺すようにしているだろう。昔も今も、多くの生物を殺戮して、しばしば絶滅させてきた。
昔はもっと、「殺生は悪だ」ということが一般的に言われていた。いまは、平気で生物を殺すし、動物がたくさん殺されて食べられている。動物を殺すのを見たくないから食べない、というのではなく、見ずに食べる方法をつくりだして逃げている。ついには、魚肉や鶏肉に骨がないようにまでしている。もはや、生物っぽくなく、便利に食べられる。もちろん、骨抜き魚肉や骨抜きフライドチキンが出てくる以前に、チキンマックナゲットだろうがハンバーグだろうが、骨を意識することはないのだが。いまの欧米人はこの国の活造りを見ると「残虐だ」と言い出すが、我々はもともとは、生き物を殺して喰らっているという自覚をあえてもって、また、ピチピチしているのを見て「新鮮だ」と言って、喜びと有難みをもってきたのだ。反対に、たとえブロイラーにしようがハンバーグにしようが、動物を殺している残虐からは不可避なのだ。例えばマクドナルドなどにしても、全世界的に食肉を大量生産して流通させているが、膨大な殺生をしている。大量の飼料や水を消費して牛を飼い、また、深海魚まで獲っている。それはムダな消費なのではないか?
まあどうせ昔も、「殺生=悪」という「しきたり」でしかなかったのかもしれないが。だが、きっと、釈尊にしてもそうだし、「無益な殺生をしてはいけない」と言った多くの偉人たちのなかにも、「殺生ばかりをしていたら自分たち人間も生きていけないだろう」と直感していた者が少なくなかったのだろう。ただそれが、日本社会では、形式的にばかり順守される「法令さえ守っていればいい」的な実態になったのだ。それは結局のところが、日本社会のほとんどの人が無教養で思考停止をしているからなのだろう。つまりは洗脳されてきただけだ。
我々が生きていくためには、生物を少なからず殺す必要がある。そうしないと食べていくこともできないだろう。直接にも間接にも、殺生をしている。だが、際限なく殺しまくっていたら、無益な殺生になり、そして殺された生物種がしばしば絶滅する。
自我の屁理屈を超えれば、他の生物を殺しすぎるのは、生態系のつりあいを破ることになるから、我々自身も生きていくことが難しくなる。したがって、無益な殺生は、生きていくという観点でも明らかな悪だ。無益な殺生が悪だということは、合理的に説明可能だ。
いまのこの国では、「本当のこと」が言えない。例えば、政治的な発言が忌避されるのも異常だ。「それはおかしいと思う」と言える社会ではなくなっている。例えば原発にしたって殺生にしたって自殺率にしたって、さらには、インフルエンザだろうがHIVだろうがなにもかもを殺戮して存在を消し去ろうとすることの異様さにしても。
他人を叱れないし、叱る能力(冒頭に書いた通り)がそもそもない人が多いのだろう。なにがおかしいのかを言える雰囲気でもなければ、なぜおかしいのかも言えないからなのだろう。ひとりひとりが叱れない社会だから、マスコミが代弁することで憤懣の捌け口になっているのだろう。
我々は、完全には清廉潔白でいることはできない。殺生をしなければ生きていけないし、他人に迷惑をかけずには生きていけない。
だが、己の穢さを自覚しなければ、不潔であることに対する抑止力は働かないのではないか。
皆がまたぞろ、自分にとって都合のいいと思うことをやりたいから、例えばガソリンなどの資源エネルギーも多用するし、そうして地球温暖化も進んでいるのだろうし、有毒物質もまきちらしているし、将来の資源枯渇へと「ツケまわし」もしている。だが、「それは悪いことだ」とは、ほぼ誰一人として言わない。例えば、「自動車を抜本的に減らせ」とは、ほぼ誰も言わない。乗りたいからなのだろうし、自動車があることで産業があり雇用があるからなのだろう。同じように、「タバコは有害だから禁止すべきだ」どころか「増税すべきだ」と言うことすら、すぐさま自民党などから「葉タバコ農家が〜」という屁理屈が返ってくる。それではきっと、葉タバコ農家は死の商人だね。JTも、その大株主のこの国も、同じ国民から「血を吸って」「肉を喰らい」生きているのだ。
例えば米国人がやっていたら、この国でもやっていいことになる。迷惑駐車でもポイ捨てでもなんでも「他人たちがやっているから自分もやっていい」という言い訳は必ず出てくるだろう。互いに都合のいいことなのだから、みんなして「赤信号も渡る」のだろうし、「崖っぷちへと突撃する」チキンレースをやりもする。
ところで、自分たちにとって都合の悪いと思われる生物を徹底的に殺戮してきたから、HIVが出てきたり、新型インフルエンザが出てきたりしたのだと思う。少なくとも、薬物耐性病原体は、過度の殺菌をしてこなければ出てこなかっただろう。そうして、潔癖に潰しまくってきたから、いわば「テロ攻撃」が他の生物から、地球から、加えられているのだ。
それどころかさらに、いまの我々は、自己の心身にすら欺いて、自我が都合の良いと思うことばかりをしているから、心身の反乱をくらっているのだろう。癌にしても、アレルギーにしても、「精神疾患」にしても。人工的に潔癖な生活空間をつくってきたから、心身にとってかえって不健康なことになっている。
地球の生態系のつりあいも、自己の心身のつりあいも、壊しているからだ。だからかえって危機に陥る。不健康になる。
この国では少子化だと騒がれているが、世界人類はいまも増え続けている。はたして、「人口増=善」なのか? 人類が増えすぎたら、地球の生態系のつりあいは崩れる。すでに崩れている。しかし、自分が生きたいと思っている人たちは、「出産=悪」だとは決して言わないだろう。真実を言わないし、真実に気づきすらしないのかもしれない。
昔から、例えばクリスチャンは「人は原罪を負っている」と言う。また、この国では浄土真宗の檀信徒が最大多数だと言われているが、そもそもの浄土宗や浄土教は、悪の自覚から始まっている。つまり、「自分は悪人だ」と自覚しているからこそ、「地獄に堕ちる」と思い、「どうやったら救われるか」と考えるのである。それに比べると、いまの人間には、悪の自覚が足りない。
自分たちを律することができず、ゆがんでいく。ゆがんだことでトラブルが起こるごとに、対症療法をする。砂糖を入れすぎたから塩を足すかのように、余計なものをどんどんと付け足していき、だからますます錯乱していく。ぐにゃぐにゃにゆがんでいく。
究極的には、己の死に対して覚悟がないとはじまらないのだと思う。人類は、過剰な生存意欲があるからこそ絶滅せずに生きていられたのだろう。だが、だからこそ、生存意欲の過剰さに対する自覚をもたないと、欲望も執着も、いくらでも膨張して肥大化していく。そうして、人類も増えすぎるし、生物も殺戮するし、資源も食い尽くすし、自己の心身さえも傷つける。
異質な他者の存在に対して、多様性に対して、寛容に、しなやかに、ふわっと、受け入れないといけないと思う。究極には己の死に対して覚悟がないと、それはできない。だが、受け入れなければ、「テロ攻撃」が、他人からも、他の生物からも、さらには自分自身の細胞や潜在意識からも、加えられていくのだ。
いまのこの日本社会にしても、やっていることは正反対で、威圧して同調化させようとする傾向があり、それは近年ますます増している。それではきっと、ますます危険で不健康で暮らしづらい国になっていくのだろうと、私は思っている。
大学を卒業したあたりから、自由にできる金が増え、反面人間関係が希薄になったことで、人を誘う手間を惜しんでひとりで映画をみることが多くなっていたのですが、この2年ぐらいは劇場で映画を観るときには人を誘うように心がけています。何もかも嫌になった日、授業や仕事をさぼってひとりで観にいき心を奪われた映画もとても大切だけれど、誰かと観る映画にも、昔の友人に電話をしてみるぐらいの手間をかけるだけの価値はあると思うのです。中学高校の頃、休みのたびに少ない小遣いを握りしめて映画館に向かったのは、鑑賞後に喫茶店やマクドナルドで、映画の話や映画とは全然関係ない話をするのが楽しかったから。両親に連れていってもらった『ジュラシックパーク』も細かい内容はほとんど覚えてないけれど、普段態度は大きいが実は気が小さい父が真っ暗な劇場でひときわ大きな声をあげて驚いたことは鮮明に覚えている。
第5位 劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語
第4位 地獄でなぜ悪い
第2位 パシフィックリム
第1位 キャビン
2013年の鑑賞本数は約80本(劇場20本、レンタル60本 含旧作)内、人と観た映画は1/3程度。
単純に面白かった映画の年間ベストとは別モノとお考えください。
友人A(男)と一緒に鑑賞。2日目初回。Aは既に初日初回に観ており、この日が2回目。
会場前の行列に並んでいる間、ほむらちゃん派のおれに対し「えらいことになるから、覚悟しときな」と言いながら遠い目をしていた。鑑賞後、劇場が明るくなり茫然としているおれにAは「・・・な?」とドヤ顔。劇場を後にする人の目がことごとく死んだ魚のように濁っていたのが印象的。
友人B(女)と一緒に鑑賞。
映画の冒頭「全力歯ぎしりレッツゴー♪」と少女が唄うCMが流れるところで「あんた、こういうの好きやろ」と喋りかけてきた。どうやら既に映画が始まっているとは思っていなかった様子。確かに好きです。鑑賞後は「劇場にあんたによく似た男がいっぱい居たな」と言われる。確かにいました。映画自体にはそこそこ満足した様子。
奥さんと一緒に鑑賞。初日初回。
最近は「ラブコメ以外は観たくない」と言いながら韓流ドラマばかり観るマシーンと化してしまった奥さんを無理やり連れ出して鑑賞。「超おもしろかった」とのこと。久しぶりに、映画を観たあと興奮していた。「主人公の生い立ちや過去を振り返るようなシーンが挿入されないのが潔くていい」と、普段楽しそうにみているソープオペラを全否定するような発言を繰り返す姿をみて「もしかしたら今後は、付き合いはじめた頃みたいにサスペンスやホラーも一緒に観にいってくれるかも?」と淡い希望を抱き、後日ためしに白石晃士『カルト』を自宅で一緒に観たが、こちらはお気に召さなかった。
同級生(女)と鑑賞。学生時代はいつもツンと澄ました表情を崩さず、どこか近寄りがたい雰囲気だった同級生(当時クラス委員長)(美人)(三つ編み)と、同窓会で再会 → ホラー映画話で盛り上がる → 一緒に観に行く? という夢のようなシチュエーション。
映画の終盤の大虐殺シーンで横顔をのぞき見ると、向こうも気がつき、目が合って、満面の笑顔にスクリーンの光が当たり、長いまつ毛がキラキラと輝き、その瞬間全ての景色はスローモーション、おれは高校生のころ夢中になって読んだ『グミチョコレートパイン』のことを思い出しながら「あ、これ走馬灯でみるな」と思いました。鑑賞後は「●●●●は出演する映画を選ぶべきではないのか」という話等で盛り上がる。真面目に生きていればいいことがある。
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今年は、誰と映画を観に行こう??
『超権威主義的世界文学百選』http://togetter.com/li/138734というランキングを見て、面白いと思いながらも疑問に思ったことがあって、「20世紀の小説ばっかりじゃん!!」ということで19世紀の小説を重視したランキングを作成してみました。具体的には近代文学の始まり「ドン・キホーテ」(1605,1615)からモダニズムの始まりである「ユリシーズ」(1922)までです。つまり近代文学のモダニズム以前、ということになります。小説を選ぶうえで参考になればと。あと、あくまで個人的な基準に過ぎないことを留意してもらえればと。
1.「ドン・キホーテ」(1605,1615) ミゲル・デ・セルバンテス
2.「ガリヴァー旅行記」(1726) ジョナサン・スウィフト
3.「トム・ジョーンズ」(1749) ヘンリー・フィールディング
4.「紅楼夢」(18世紀中頃) 曹雪芹
5.「トリストラム・シャンディ」(1759~1767) ローレンス・スターン
7.「高慢と偏見」(1813) ジェーン・オースティン
8.「黄金の壺」(1814) E.T.A.ホフマン
10.「いいなづけ」(1825) アレッサンドロ・マンゾーニ
11.「赤と黒」(1830) スタンダール
13.「アッシャー家の崩壊」(1839) エドガー・アラン・ポー
15.「虚栄の市」(1848) ウィリアム・メイクピース・サッカレー
16.「緋文字」(1850) ナサニエル・ホーソーン
17.「デイビッド・コパフィールド」(1850) チャールズ・ディケンズ
18.「白鯨」(1851) ハーマン・メルヴィル
19.「死せる魂」(1855) ニコライ・ゴーゴリ
20.「オーレリア」(1855) ジェラール・ド・ネルヴァル
21.「ボヴァリー夫人」(1857) ギュスターブ・フロベール
22.「晩夏」(1857) アーダルベルト・シュティフター
25.「ミドルマーチ」(1872) ジョージ・エリオット
29.「ブラス・クーバスの死後の回想」(1881) マシャード・デ・アシス
30.「さかしま」(1884) ジョリス=カルル・ユイスマンス
31.「ハックルベリー・フィンの冒険」(1885) マーク・トウェイン
32.「飢え」(1890) クヌート・ハムスン
33.「クォ・ヴァディス」(1895) ヘンリク・シェンキェヴィッチ
36.「シスター・キャリー」(1900) セオドラ・ドライサー
37.「ロード・ジム」(1900) ジョゼフ・コンラッド
38.「ブッデンブロークス家の人々」(1901) トーマス・マン
39.「超男性」(1901) アルフレッド・ジャリ
40.「チャンドス卿の手紙」(1902) フーゴ・フォン・ホーフマンスタール
41.「鳩の翼」(1903) ヘンリー・ジェイムズ
42.「一万一千本の鞭」(1907) ギヨーム・アポリネーム
44.「ハワーズ・エンド」(1910) E.M.フォースター
45.「ペテルブルク」(1913) アンドレイ・ベールイ
46.「変身」(1915) フランツ・カフカ
47.「明暗」(1916) 夏目漱石
48.「ワインズバーグ・オハイオ」(1919) シャーウッド・アンダーソン
49.「われら」(1921) エヴゲーニイ・ザミャーチン
(2/3【討論!】決定版!在日問題を考える[桜H25/11/16])
http://www.youtube.com/watch?v=PcbA77rSE1g
水島総は日本国籍をもつことは戦争の時、国に忠誠を誓うことだと言っている。しかし、多くの日本国民もそう思っているだろうか?
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=1126&f=national_1126_120.shtml
この記事によれば、「もし戦争が起きた場合、国のために闘うか」というアンケートで日本の小中学生は29.3%しかその意志がないということである。これからの若者である日本人たちはほとんどそのような意識をもっていない。私もまたその意識をもっていない。もし日本が馬鹿げた戦争に突入しようとし、私たちを徴兵しようとこころみるのであれば、海外脱出をこころみるつもりだ。
私をふくめて多くの日本人は、日本国籍を「取得した」のではない。むしろ、日本国籍とは、自分が生まれるか生まれないかを決定することができないように、決定以前的なものとしてあるのだ。私は偶然に日本国籍をもってしまっているのであって、それ以上でも以下でもない。「ならば日本国籍を捨てたまえ」と言う人がいるだろう。しかし、外国籍を持たなければ、日本国籍を捨てることはできないし、仮にそれができたところで、それは七面倒くさい官僚的事務を通さなければならないしくみになっている。いわば私は「たまたま」日本人なのだ(というか、全ての人は根源的にそうでしかありえない)。
水島は日本国籍という「偶然的なもの」をもつ人々を神聖化して(つまり日本人というものを神聖化して)、虚構の日本人をつくっている。彼はまあよい。彼はもう64歳のおじいちゃんだから戦争にいかなくても済むし、「お国のため!」と虚構のリアリティのなかで勇敢な戦士となってくれればよい。「しかし彼は尖閣に突入したのではないか?」と問う人がいる。そう、たしかに彼は尖閣上陸を決行したかもしれない(それでお国に迷惑をかけてしまったね)。でもな、本物の戦争をなめるなよ(君は戦後生まれだからリアルな戦争を知らないね?)。水島よ、そんなもん英雄でも国士でもねえぞ。むしろ彼は(尖閣に限らずつねに)、風車に向かって宣戦布告したドン・キホーテに似ている。
追記)
水島のいう「日本人」って結局なんなのか? 彼は以下の三つの概念を好きなときに好きなように使い分けている。
1)日本国籍をもっている人
3)戦争時(シュミット風により正確に言えば例外状態)に日本のために戦う人
しかし、これら三つは全然違った事柄を指している。さきに私が指摘したのは(1)と(3)は別物だよね、ということだけど、(2)と(3)の違いもあるんだよ、ということは言っておかねばならない。私たちは偶然にも日本に生まれたわけだが、そこに自分があるべき姿を見出すのは勝手だし、どうぞ好きなようにすればいいと思う。でもまあ、実際のところ、私ももはや日本人でしかありえないし、三島由紀夫が全共闘にいった言葉をパクれば「欧米人から見れば、こいつは鼻の低いな、日本人だな」と思われるだろうこともまた必死である。だが、ここでも問題は面倒で、てっとり早く究極的に問うてしまえばそれは「私とは何か?」という問いになるだろう(奇しくも全共闘世代を描いた小説に『僕って何?』というのがあるね)。「私」を考えるとき、(a)他人から見られている私(b)私としての私(c)その二つの次元を合わせた次元にいる私、の三つの私が考えられる。まずは(a)の次元を考えてみよう。私がマクドナルドで働いていたら、他人から見れば「マック店員」である。私はバイト中には「マックの店員」らしくあろうとふるまうだろう。しかし、そのことは私はそもそもはマック店員ではない、ということが含意されている。そこで、(b)私としての私の発見がある。「マック店員」の話をつづければ、私とはマック店員になろうとする何者かである。あるいはよい日本人であろうとする何者かである。つまり、私は「マック店員」でも「よい日本人」でもないのである。(c)において、私はマック店員ではないにもかからわず、マック店員であろうとする自分を見出す。マック店員にはマニュアルがあり、「スマイルください」と言われたらにっこりと笑顔を変えなさくてはいけないし、一番下のクルーはマネージャーや社員の言うことをきかなければならないetc。私はマック店員になりきれれば、なんの苦悩もなく、機械のごとく、それに従うだろうが、「従う」というところにやはり私はマック店員以外の何ものかであるという意識を持たざるを得ない。そうした均衡のうえに私は存在しているのである。もし(a)(b)が同一のものになってしまい、そこになんのシコリもなくなってしまえば、それは単なる機械と同じである。「私は日本人であるから日本人だ」という自同律にはそうした危険性があるのである。それは、奇しくも、マクドナルドに象徴されるようなアメリカ的画一個人主義と共産主義的恐怖政治の悪い所どりの思想なのである。水島の意見というのは、きわめて象徴的だと思う。
初めまして。前回「Web系の会社を解雇されて思った事 」を皆さんに読んで頂いて大変うれしい。自分はと言うととりあえず会社らしき所で働いているが、もう辞めたい病発症中だ。以下辞めたい病の内容を職種別に話そうと思う。
Webという仕事をやってて一番嫌いなのがこのデザインと言う仕事だ。大手企業に入社できない大手病まっしぐらの28歳の自分としては、どうしても事業規模の小さい会社で仕事する事が多く、デザインの方向性から自分が担当する事がある。ここで俺がデザインを嫌いな理由は「そもそも何でデザイン作成や改修をするんですか?」とやる目的が見えない時があるからだ。まずデザインや文章を書いていく上で重要な事を書くと、
1.相手に何を伝えたいか?
2.どのような伝えていく事で、相手にどのような印象を与えていくか?
の2つ。例えばこの文章は「俺が仕事の愚痴を書いて、皆さんに共感してもらう」事や「こいつはこういう仕事が向いていない奴」「こいつは仕事本体より愚痴になると心が踊る奴だ」と言う印象を皆さんに与える為に書いている。
さてAKB48だろうと「普通な女の子が歌う歌」と言う方向性があるし、西野カナにしても「失恋に悩む女の子」と言う方向性があって、それに則ってお金を取っているわけだ。その点を煮詰める事が一番肝心だし、そもそもの方向性が定まってないのにサイトを作るのは「敢えて言おう。無駄であると」と言いたい。
それこそサイトを受注する料金がかかるのならば無料ブログでも良い。それこそキャバ嬢や風俗嬢の女の子が個人サイトでも持って営業したからと言って、収益に結びつくのだろうか?否そうではない。要は見た目の良さや機能性のみだけがサイトや商品の善し悪しを決める訳ではなく、相手に合わせ的確なものを選ぶのが肝要であり、そういう話が無いデザイン会社を受けるのは絶対に受験するのを止めろと言いたい。キャバ嬢から話を話して、千葉県のCafe GAKEのブログなどを見ていても思う事で、そのお店の雰囲気や店長の人柄が伝わればそれで良いと思っている。
さて3社目にいた時はどうだったか?機能や見た目に浮かれるような上だったからこそ最悪だった。結論から言えば「Photoshopでスライスし、パーツ画像を作成するコツと方法(Webクリエイターボックス)」に書いてあるようなPhotoshopのスライスの切り方や、各部分の間隔のそろえ方などデザインに関する技術を覚えられたのは良かったと思う。しかし企画としては明らかに失敗と思うケースは意外にある。
具体的には「○○をユーザーによく見せる為に、△△なサイトのデザインにしていく」と言う何故このデザインにするの?と言う説明が無いままいきなり作ってと言う流れに。そりゃあ慣れないプログラム言語を使ってデザイン部分〜データーベース部分に至るまでほぼ一人でやっていた訳だ。しかし終始上は上で俺が作ったページが最高だ!と言わん顔。クライアントとの打ち合わせ会議から帰って来ると「サイトの画像のエフェクトを使うという冒険をしたくないのか?」とクライアントを非難する事を陰で言ってるあたり、そもそも何の為に作っているのかをお互い摺り合わせていない事がわかった。
無論技術を見せびらかして「素人目に見てこうした方が凄い」とのたまっていたが、はっきり言って見る人は絶対に見ない。そもそも今の俺がそうだから。と言う訳でどうも俺はデザインが似合わない事が分かった。
と同様に俺はプログラムと言う名の現場開発もどうも苦手だった。俺はエロ系のサイトの改修をやっていたときは「世界最強のエロサイトを作ってやるぜ」と息を巻いていた。しかしソーシャルゲームはどうか?お姉ちゃんのおっぱいも関係ないし、かといってお尻も関係ない生活が3ヶ月続いた。そもそも無機質なカードを見て欲情できる奴らの気持ちが理解できず、なんでこんな物で満足できるのだろうと思っていた。
しかし会社をクビになる頃、俺はすばらしい数学の問題に出会ったのだ。Twitter経由で「コンプガチャの数理 -コンプに必要な期待回数の計算方法について-:doryokujin's blog」に書かれていた、Coupon Collectors Ploblemと言う命題に非常に感激した。これはnを自然数としてn種類のクーポンの出現確率が同じと仮定した場合、n種類のクーポン全てが出そろう枚数の期待値 E(n) = n(1 + 1/2 +1/3 + …… + 1/n)(枚)となると言うもの。
この時マクドナルドで3種類のコーラグラスを集めるキャンペーンをやっていて、セットを幾ら頼めば良いかなんてのを暗算で弾いたのは良い思い出。n=3なのでE(3) = 11/2で、セット一種類当たりの値段が600円だから3種類全て出そろう期待金額= 600 * 11/2 = 3'300(円)なので、最初っから3種類買って全て集めたのは良い思い出だ。これがソーシャルゲーム時代に一番感激したないようで、ソーシャルゲームの運用のやり方とこのCoupon Collector's Ploblemの証明どっちを取るかと聞かれたら、すかさず後者を取るだろう。それくらい俺は物を作ると言う仕事に向いていないらしいことが分かった。むしろ統計学やデータマイニングと言った数学を駆使してできる商売や、商品企画などもっと上流の過程で仕事がしたいと思い探している。
6月の面接の段階で、機械学習やクラスタリングと言った知識に穴があった。最近ではその点を補う為に「データサイエンティスト養成読本 [ビッグデータ時代のビジネスを支えるデータ分析力が身につく! ] (Software Design plus)」のような本を読んで、取り合えず次の会社の面接官の話のタネになる知識を集めている最中だ。大学時代が贈処理の研究をしていて、クラスタリングと言う単語は聞いた事があった。しかし実際に触れてなかったので改めてここで復習をしているのだ。
最後にこの文章をはてな匿名ダイヤリーで書いたのは、顔を隠そうと思っての事だ。「明らか向かない仕事をどうしてやるのだろう?」「デザインに関しては俺はクライアントの要求以上の事は出来ない。寧ろ美術関係の学校をでているような人に座を譲りたい。デザインに対する情熱が俺とは違う」「俺の好きな数学やデータを駆使するしごとにいきたい」としきりに思いながら仕事をしている。そして長々と愚痴を書いたが、こんな愚痴をここまでお読み頂いた皆さんには感謝だ。又こういった場を提供してくださった株式会社はてなの皆さんにも感謝する次第である。
ごく正直なことを言うとね、田舎のイオンってのは別に娯楽施設じゃないのよ。
無印だのUNIQLOだのがあって、服屋や飯屋があって映画館もあって、
結構な娯楽じゃない、とか言うでしょう?
んで、返す刀でファスト風土だの画一化だの言うじゃない。
あのね、田舎ってのはなんにもないのよ。
道の駅に物産は売ってる。野菜はどこでも取れるものばっかりだけど。
そりゃ、味噌だの干物だのは土地に根ざしてるからココだけかもしれんが、それがウチを代表する食品か?
問題はだ、ここはどこにでもある何の変哲もないところで、よそと置換できる程度の土地柄ってところなんだ。
そんなところでよ、下手にテレビでも見てみなさいな。
映画館は大きな街に行かなきゃねえって生活が、街に洋菓子店が1件って生活がよ、耐えられるかってことだよ。
生きていくって意味で言えばよ、ど田舎、ほんとに村とか山ん中みたいなトコに比べりゃ都会だよ。
DASH村みたいなな、娯楽つーと犬と遊ぶことでテレビ観るより星観たほうが良いって土地柄じゃ無え。
そんな半端なところにはな、もう特色なんてのは無いんだよ。
まあ、あるよ?郷土資料館にゃ土地の歴史ってのは沢山あることになってる。
寺社仏閣の由来だとか、変な石碑だとか、まー、観光客が来なくもない場所ってのも無くはない。
ただよ、例えば国の重要文化財に指定されている豪商のお屋敷と、神社の本殿拝殿があったとしてよ、
それが何なのよ。
神社の参道にある土産物屋とか、アメだのウドンだのを江戸の頃から売ってたみたいな店が潰れました。
近所にファミレスとマクドナルドと牛丼屋が出来てそっちに人が流れて。
それはファスト風土なのか?
そもそもの土産物屋だのうどん屋だの、もっといやどこぞから勧請してきた神社は、ファスト風土じゃねえのか?
あれか、全国にある小京都だの落ち武者の村だのは、ファスト京都とか言うつもりか。
どんだけ貴人が腰掛けた石が世の中にあると思ってんだよ。
まあいいよ、三丁目の夕日みたいな自分がちっちぇえころに既に懐かしかったモノを懐かしむって感覚は判らんでも無い。
品揃えが豊富ってほど豊富かは判らんが、スーパーより断然イイ。
UNIQLOなら都会だろうが田舎だろうが多少量が少ないだけでラインナップがまるで違うって事はなかろう。
参考書とドリルと女性向け雑誌しかねえような街の本屋に比べりゃ、多少微妙でもチェーン書店は魅力だわ。
そういうな、いわば村に電気が来た、って状況なのよ。
人が多いってことはイヤイヤ行ってるわけじゃ無えってことぐらいは判るだろ。
それでも撤退するってことはよ、そもそもやってけねえってイオン側が音を上げたわけだろ。
儲かってるコンビニの近所に直営店を出店させるのとはわけが違ってよ、
イオンが地元の商店街を潰そうと思って出店して、んで潰して、仕事終えて撤退するわけじゃねえだろ。
つまりだよ、その程度の客数商圏しか無えところで、イオンに人が吸い上げられて潰れる商店ってのは、
そもそもが潰れる運命にあったんだよ。
つうかよ、分り易くこういう言い方してもいいな。
オレらは、不満を持って仕方がなくその店を使ってた。そこしか無かったから。
それはつまり、画一化されたスーパーのほうがマシだったってことだ。
んで、その延長でイオンが来て、時期的に爺婆も弱ったり死んだりして閉店ラッシュになってよ、
まそりゃ直接の原因は違っても、イオンがって共通の仮想敵作って愚痴れば平和だわな。
商店街の端っこにあった文房具屋と共通の街の本屋を潰したとは考えたくないわな。
Amazonが悪い、うちも厳しい、ネットは無情だねってので微妙な感情を潰して飲んだり見まわり当番するのが大人だよ。
イオンってのは、そりゃもう室町だの江戸だのの頃から日本の地方が連綿とやってきた
んで、一極集中して、ソコが無くなったとする。
不便にはなるけどな、それだけよ。オレラは離島に住んでるわけじゃ無え。
そこそこの近所には大きな街もある。そこまで足をのばせば良いのよ。
つうか、そもそもからしてお母ちゃんのバイトだしな。新規に生まれた雇用が、元に戻るだけだあな。
商店街がすげえ人雇っててよ、イオンがその雇用を奪って売上も奪って、それでいなくなられたら困る。
でも、そうじゃねえんだって。
スーパーは無くなったから、自転車で行ける距離から車で行かなきゃならなくなった。そりゃ不便さ。
でも、それだけだよ。
ああ、いっこ思いついた。
マダム向けの洋服店ってあるだろ。何だあの服1500円って、みたいな店。
雇用だの洋服店が無くなって困るだのって人は、どんだけ居るかってのに似てるな。
金物屋の近所にホームセンターが出来て、金物屋が潰れた。で、ホームセンターが撤退した。
それですげえ困るし、地方の問題だって血圧上げるほどのことかよ、っていう。
車で行ける距離にいっこもホームセンターが無えってこた無えよ。
だからよ、生活インフラをイオン一社によりかかるのが問題だ、イオンには責任が、とか言うんであればよ、
そもそも洋品店だの金物屋だの、肉屋電気屋氷屋みたいなのが高齢化して店畳んでるのも同じ問題だろうがよ。
でも、金物屋の爺さんが歳だから店閉めたいって言った時に、地域社会に対して無責任だって言わねえだろ。
繰り返すけどな、田舎にゃなんにもねえ。でも、ホントになんにも無えわけじゃ無え。
イオンが集中させた程度で潰れる店ってのには、しっかりしたスーパーは入って無え。
中学校に納品してたとこがアスクルに取られた、みたいなのの方がよっぽどヤベエよ。
だから、イオンが来て、そのしわ寄せを食って辺り一帯焦土になって、それでイオンが居なくなった。
じゃあ、となり町まで行くべか、って程度の話だよ。
なんか誘致するのに税金投入してなかったっけ?とかのが問題だと思うんだよ。
廃墟モールにゾンビは沸かねえけど、やっぱガキは溜まるし変に治安悪化の要因になるだろうしな。
頭良い人はよ、ソッチのほうの問題考えてくれねえかな。ファストファスト言ってねえで。最近はあんま言わんか。
以前、ブログ飯(2013/6/21発売)という本を買って読んでみた。
読んだ感想としては、至極まっとうなことが書かれているなと思ったと同時に
なんかどっかでみたことがある内容というか既視感というのを感じた。
んで、今日たまたま昔読んでいたブログ記事をもう一度読み返していたんだけど
ブログ飯の2章から3章に書かれていることと、内容というか切り口がほとんど一緒だったのよ。
その記事がこれ
アクセスがたくさん集まるブログを作るための12の心得(とりあえず) | WP-D
http://wp-d.org/2012/12/03/1382/
今回気づいたのを例に挙げるとこんな感じ。
http://books.google.co.jp/books?id=y4idKC8DLqcC&hl=ja&source=gbs_navlinks_s
WP-D
言葉は悪いですが「馬鹿になれるくらい好きなこと」をやり続けることが大切です。AKBでもガンダムでもゲームでもなんでもいいんです。時間を忘れて没頭できるぐらいのモノをテーマにすることで、あなたの情熱や躍動感が感じられる文章になります。そんなブログには自然と人が集まってくるもんです。
ブログ飯
言葉は悪いですが「馬鹿になれるくらい好きなこと」をやり続けることが大切です。AKB48でも、ガンダムでも、ゲームでも、対象はなんでもいいのです。時間を忘れて没頭できるぐらい“好きなもの”をテーマにすることで、あなたのブログは唯一無二の情報がたくさん詰まった、「お客を呼べる」ブログになります。
WP-D
誰に何をどうやって伝えるか
「なぜそのブログをあなたが始める必要があるのか」「誰にあなたのメッセージを伝えたいのか」「どのような表現手法であなたのメッセージを分かりやすく伝えるのか」ということを考えてみましょう
ブログ飯
誰に何をどうやって伝えるか
●「なぜそのブログをあなたが始める必要があるのか」 ●「誰にあなたのメッセージを伝えたいのか」 ●「どのような表現手法であなたのメッセージを分かりやすく伝えるのか」
WP-D
ブログを始める理由なんてなんでも構いません。備忘録として記録に残しておきたい、美味しいランチを食べたので紹介したい、自分の持っている知識・経験をシェアしたい、同じ趣味の仲間と交流したい、お金を稼ぎたい、自分の思想を広めていきたい。最初はこのような理由で充分です。ブログを更新し続けていくと、次第にあなたの考え方やキャラクターが文章ににじみ出てきます。それがあなたの個性ですし、その個性を受け入れてくれた人がブログのファンになってくれます。
ブログ飯
ブログを始める理由自体は、さほど重要ではありません。備忘録として記録に残しておきたい、美味しいランチを食べたので紹介したい、自分の持っている知識・経験をシェアしたい、同じ趣味の仲間と交流したい、お金を稼ぎたい、自分の思想を広めていきたい。最初はこのような理由で十分です。
ブログを更新し続けていくと、次第にあなたの考え方やキャラクターが文章ににじみ出てきます。それがあなたの個性ですし、その個性を受け入れてくれた人がブログのファンになってくれます。
WP-D
例えば「銀座に勤務していてランチの場所を探している会社員」や「勤務時間外でいかに自分の時間を上手に創りだすか悩んでいる会社員」、「新しい技術の実装をしたいと考えているプログラマー」、「アクセスアップの方法を探しているブロガー」、「アフィリエイトで稼いで会社を辞めたいと思っている人」等々、世の中には多種多様の考えを持っている人が存在します。こちらもターゲット層向けに書こうと意識しておくだけで、表現方法が変わってきます。
ブログ飯
例えば「銀座に勤務していてランチの場所を探している会社員」や「勤務時間外でいかに自分の時間を上手に作りだすか悩んでいる会社員」、「新しい技術の実装をしたいと考えているプログラマー」、「沖縄旅行を予定していてオススメの観光スポットを探している夫婦」、「アクセスアップの方法を探しているブロガー」、「アフィリエイトで稼いで会社を辞めたいと思っている人」等々、世の中には多種多様の考えを持っている人が存在します。こちらもターゲット層向けに書こうと意識しておくだけで、表現方法が変わってきます。
WP-D
いきなり全く正反対のカテゴリに入ってみろとは言いませんが、週刊少年ジャンプが好きな人だったらマガジンを読んでみる。マクドナルドが好きだったらバーガーキングに行ってみる。このように隣合うようなカテゴリを覗いてみる事で、全く違う体験や共通するポイント、両者の違いなどを感じることができます。もう少し枠を広げて、ハンバーガー業界の店を全て回ってみてもいいでしょう。この比較自体もネタになりますし、成功している店舗の共通点を見つけることもできるでしょう。自分の居心地の良い小さなコミュニティに閉じこもっているだけでは決して得ることができない体験を、カテゴリの壁を越えることで学び取ることができるのです。
ブログ飯
例えば、「週刊少年ジャンプ」が好きな人だったら「週刊少年マガジン」も読んでみる。「マクドナルド」ばかりだったら、時には「バーガーキング」に行ってみる。このように、隣り合うカテゴリを覗いてみることで、全く違う体験ができるかもしれません。逆に同じ体験であれば、共通するのはどこかを考えると、そのジャンル全体の特性をより深く理解することにつながるでしょう。逆に同じ体験であれば、共通するのはどこかを考えると、そのジャンル全体の特性をより深く理解することにつながるでしょう。「バーガーキング」だけに満足せず、もう少し活動範囲を広げて、ハンバーガーをメインにしたファストフード店全てを回ってみてもいいでしょう。ここまでやれば、この行為自体がすでにブログのネタになります。
WP-D
ブログにアクセスが集まらないと悩んでいる人は、他の人と同じような内容を載せていたりしませんか?一つの事象を大多数の人と同じ視点で見て、そのまま記事にしていませんか?そのような一般的な内容のブログをわざわざ読みに行きたいと思いますか?他人との違いを恐れずに、むしろ他人との差こそが価値になるということを認識し、あなた独自の見解を交えた記事を書いていきましょう。
ブログ飯
ブログにアクセスが集まらないと悩んでいる人は、他の人と同じような内容を載せていたりしませんか? 一つの事象を大多数の人と同じ視点で見て、そのまま記事にしていませんか? そのような一般的な内容のブログをわざわざ読みに行きたいと思いますか? 他人との違いを恐れずに、むしろ他人との差こそが価値になるということを認識し、あなた独自の見解を交えた記事を書いていきましょう。
他にもいっぱいあったのだが、余りにも多すぎて書ききれない。
もちろん、本に書いてあるのはすべて同じというわけではないのだけど
昔、とは言ってもだいぶ昔のことなのだけれど、僕はある町(名前もない小さい町だ)に妻と二人で暮らしていた。
多くの夫婦がそうであるように、僕たちの間にもいささかの問題があった。
他人からしてみれば些細な問題かもしれないのだけれど、妻はよくそのことで自分自身を責め、彼女が本来持つ良さを損なっていたと思う。それは2月に突然降る冷たい雨のように僕たちを苦しめた。
「あなたはどう思うの?私たちに子供がいないことについて」と妻が言った。そのとき僕たちはボンゴレ・ビアンコといんげんのサラダを食べ終え向かい合って座っていた。テーブル越しの妻はなんだかいつもより疲れているように見えた。
「ねぇ、最初に言っておきたいんだけど」と僕は言った。
「僕は特に子供が好きじゃない。それに子供がいないことは夫婦の自由な選択の結果であって、君が苦しむべき問題じゃないと思う」
妻は頬杖をついて僕の方をじっと見つめ、(あるいは僕の後ろにある流氷の写真を見ていたのかも知れない)静かに微笑んだ。まるで、そんなことを聞いたんじゃないという風に。
「明日、川に行こうと思うの」と妻はそっと言った。
「悪くない。いつ出発する?」と僕は言った。
「ごめんなさい、私、一人で行きたいの。あなたは山に行って」