はてなキーワード: チキンマックナゲットとは
湯を沸かせ。その間にフィルムを剥がし、かやく、液体ソース、粉末ソースを取り出し、かやくをあけておく。
パチンッ! 沸いたな。注げ。そして1分待つ。湯切りだ。ソースをかけて混ぜる。
俺の塩が完成した。記念に一口食べておけ。
皿を1枚用意して、半分に分けろ。
片方に、昨日のチキンマックナゲットの残りのレモンタルタルソースを混ぜる。
もう片方に、昨日のチキンマックナゲットの残りのアラビアータソースを混ぜる。
食べろ。オゥ! レモンの爽やかさ! 次第に俺の塩味に戻る。だがそれがいい。
食べろ。オゥ! これはスパゲヘッティだ。頭から尻まで。よく塩茹でされたスパゲヘッティだ。
交互に食べろ。オウフ! 新しい食べ物! そして新しい食べ物!
冷める前に食べきったか?
よくやった。これが3分クッキングだ。
お前さあタイトルで釣って本文でふざけたかったのは分かるけど、ヘタクソだろ。
3-5位はメニューじゃない。そういうネタをやりたいならタイトルからメニューの文言を消して、「マックで一番うまいのは~」みたいな表現にしとけ。詰めが甘いんだよ。
そんなことだから本文のおふざけは総スルーされてほとんどの人が普通にメニューについて語りだしちゃうんだよ。
お前はマックにかこつけてふざけたかったのに、はてなー達のメニューについて普通に語りたい欲求の踏み台にされただけになった。それでいいのか?
もしくは表記上の突っ込みどころを「わざと」設けることで俺のような一部の人間を「釣った」気になっているのか?そんなチープな承認でお前がいいと言うなら俺はいいんだが?
という訳で俺が「分かってる奴」のランキングを発表する。
1位: アップルパイ
2位: チキンマックナゲット
3位: ハッシュポテト
以上だ。
バーガー類は正直どれも微妙。競合多数な中でマックをわざわざ選ぶ理由になるほどのバーガーは存在しない。
選外ながらレギュラーバーガーのなかであえて一つ俺の舌に適う味わいの品を選ぶとするなら、えびフィレオだな。コスパ悪い印象が拭えないからあまり頼まないが。
ちなみにポテトはな、スーパーで冷凍のやつ買ってきて揚げた方がよっぽどうまいぞ。揚げたてを即食いきれるならマックのポテトも悪くないが、途中で冷めるのは不可避だし冷めるとあれほどまずくなるポテトも珍しい。
また、サラダやコーンや既成品のドリンク類のような、どこで食っても差がないメニューは選好から除外したぞ。
まあマックの若者たちの喧騒の中飲む氷で薄まったコーラがうまい、というような感覚は分からなくもないが、お前はそんな雰囲気に金を払っているのか、本当に払いたいのか、それでYESなら何も言わん。
あとハッピーセットは食べ物の名前ではないし、まさかおもちゃを食う訳じゃないから「うまいランキング」という選考基準で語る以上、当然除外したぞ。
この記事は女子高生 Advent Calendar 2017 18日目の記事です。
ダブルチーズバーガーチキンマックナゲットコーラセット。ちらっとカロリーを計算する。ちょっと気になるけどハンバーガーはコーラで飲まなければならない。ウォンテッドリーのフィードを流し見していると番号が呼ばれた。ちょっと重くなってるトレイをコーラが滑り落ちないように水平を保ちながらそろそろと2階へ登る。平日の3時半、人はまばらでシンクパッドでエクセルを打っているスーツ姿のおっさんとパーカーを着てアズールレーンしてる若者ぐらい。目の前が一面ガラス張りになってる細長いテーブルには誰もいない。一番奥に陣取る。すっとトレイを置きメイのリュックをひざの斜め前にあるはずの空間に向けて押し込む。ブレザーを脱いで背もたれにかけ、下ろしていた髪をゴムでポニーテールに結ぶ。状況開始。ストローを包む紙袋の端をちぎり、ドュゴォォォと音を立てながらコーラにぶっ刺す。そっとくちびるを当てちゅるちゅると吸いながら糖分が脳にまわっていく感覚を楽しむ、大麻吸うときよりは全然弱いけどまあまあいい感じ。チキンマックナゲットを一つバーベキューソースにつけて食べる(ここはバーベキューソースだと決まっている)。ダブルチーズバーガーの包装を少しずつ引き剥がしていくと、パン肉チーズ肉チーズピクルスとケチャップパンの順に重なったパラレルな縞模様がのぞく。いざ口に運びパン肉チーズ肉チーズピクルスとケチャップパンが一斉に味覚に襲いかかられているとふと、ある問いが頭にポッと持ち上がった。
女子高生ってなんや?女子高生ってなんや??とりあえず個ではなく概念としての女子高生について考える。≒制服とする説もあるが、制服はあくまで女子高生を際立たせ識別しやすくするためのわかりやすい符号であり概念の本質ではないだろう。思うに女子高生とはいわば中途の期間であり体は大人ではあるが心など諸々は子供である。この未完成で矛盾している状態が女子高生に心が体をもてあそばせ、体が心にいらだつという状況を強制している。過ぎ去った時代に対する哀愁の説もあるが現役女子高生としてこの点についての判断は控える。ざっと抽象化するとこのように捉えることができるであろう。
アメリカンライフスタイルことアメリカ型大量消費社会とグローバル化の象徴であるがゆえにたびたび店舗襲撃なども発生したマクドナルドと画一的なイメージに閉じ込められた形而上学的な女子高生が同時に語られることがあるのは皮肉とも言えるだろうがわたしがマックを商品そのものにフォーカスして語ったように女子高生においても概念から解脱し個々にその内面に着目していくべきなのではないか。そんなことを考えながら街を見下ろした。
「『チキンマックナゲット』に異物が混入」、「日本マクドナルドが380億円の大赤字」「時給を1500円以上に上げるべきだというデモ」など、各メディアを通じて批判的な内容のニュースばかり流れている。しかしあえて言いたい。みんなマクドナルドの悪いところばかり見ているのではないかと。
ぼくをここまで育ててくれたのは、マクドナルドのおかげと言っても過言ではない。小さい頃、ハッピーセットを買ってもらえるだけで嬉しかった。CMを見るだけですごくワクワクした。土曜日の午前授業が終わり、家に帰ると父親がたまにバリューセットを買ってきていることがあった。少年野球チームに所属していた際、試合後ごく稀に監督がマクドナルドをみんなにおごってくれた。どれもたまらなく嬉しかった。あの頃の気持ち、みんな忘れているんではなかろうか。ぼくはマクドナルドに対して悪い思い出や印象がほとんどない。マクドナルドはぼくにとって特別なものなのである。
ということで、今日は皆にマクドナルドの良さを再確認していただきたく思い、マクドナルドの良いところだけを書いていく。恋人の悪いところだけ見えてしまって、別れた後に後悔するような、そんな思いはしてほしくないのだ。
ラーメン、オムライス、カツ丼、焼肉……。どんな料理でさえ、「出来立て」は美味いのである。注文を受けてから作ってくれるハンバーガーなどに加え、ポテトなどのあらかじめ準備してあるものでさえ「出来立てをもらえますか」と言えば文句なく対応してくれる。
これぞ「ファーストフード」。時間のない現代人にとっては、注文したものを待つ時間でさえ惜しいものである。「60秒以内に商品が提供できないとハンバーガー無料券がもらえる」というキャンペーンを実施したほどのスピーディーさだ。レジに人が並んでいてもすぐに順番が回ってくることも嬉しい。
昔に比べると多少の値上がりはあったものの、未だにハンバーガーやチキンクリスプなどは「100円」で食べる事ができる。貧乏学生や、パチンコや風俗などでお金を使いすぎた社会人にとっても嬉しい価格設定だ。コンビニでハンバーガーを買うと大体200円前後することに比べると、大変良心的と言えるだろう。
冒頭でも述べた通り、子供の頃親に連れて行ってもらった時や部活の帰り道に友達と食べた時の思い出など、過去を思い返してみるとマクドナルドで培った思い出は日本人ならば誰しもあると思う。そんな過去に浸ることも出来るのがマクドナルドなのだ。
マクドナルドは主要都市の駅前にあることが多いので、友人との待ち合わせ場所に最適である。「渋谷のハチ公」などの誰もが知る有名待ち合わせ場所がない限り、「マックの前」というキーワードは大変便利なのである。
関西と関東は文化が異なるとよく言われるが、マクドナルドもその例である。自分が関東生まれの場合は「マック」と呼ぶのが通例だが、関西生まれは「マクド」と言う。この「マックとマクド」の話のネタだけで、初めての関東と関西の異文化交流が盛り上がるのだ。
マクドナルドは他の飲食店に比べ、融通が効くことが多い。ポテトを買うと、ケチャップが貰えたり、水もタダで貰える。ポテトの塩を多めにして言えば、喜んで対応をしてくれる。ピクルスだって取ってくれるのだ。
「マック」と「Mac」。イントネーションも一緒だ。最新の技術を搭載したPCと名前が似ているということは、マック側からしたらなにも悪いことではないだろう。いい宣伝効果にもなるかもしれない。マックが新商品として「リンゴバーガー」なるものを発表したら、かなりの話題になると思う。でもなぜだか、Macユーザーはマックを利用することが少ない。スタバなんて一文字も被っていないのに。
他のレストランなどに行くと、どれを食べたら良いのか分からなく悩んでしまうことあるだろう。しかしマクドナルドのメニューは昔からレギュラーメニューの変化はそこまでないので、自然に何を注文するかがある程度頭に入っているのだ。ちなみにぼくは「チーズバーガー2つとダブルチーズバーガー」である。この何年も変わっていない。
「マクドナルドは体に悪いもの」というイメージが自然に頭の中にあることにより、例えば昼食にマクドナルドを食べることがあれば、「夕食は野菜を多く摂取しよう」という気持ちが増加するのである。その結果、「マクドナルドを食べると健康になる」という理論があってもおかしくない。
10個の「マクドナルド」の良いところを並べてみた。マクドナルドの良いところは人によって異なるので、皆もよく考えてくれると嬉しい。織田裕二主演の映画で「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ」という名セリフがある。これを置き換えて考えると良いかもしれない。
「弱いものイジメはカッコ悪い!」と正義感を振りかざす、心が綺麗なイケメンになった気持ちで、モスバーガーの席に座り美味しいハンバーガーを食べながら書いてみた。
今日も、「荒れる新成人」という毎年恒例の話が出てくる。しかし、新成人に文句を言って嘆く既成人たちは、「なにがなぜ悪いのか」を説明して叱れるのだろうか? 叱責が説得力をもつためには、なにがなぜ悪いのかを説明し、しかも叱る当人が己を律していなければならない。
「人を殺してはなぜいけないのか」という疑問が話題になったことがあったが、「そうした疑問をもってはならない」という社会気質が、この国にはある。何も考えずにただ「殺人=悪」だと言う。しかし、そんな思考停止では、真の倫理観は育つまい。究極的には、刺すか刺されるかの状況になれば他人を刺すものが必ず出るし、「死にたい」と思っている者には「他人を殺すまい」という抑止力はきわめて働きづらい。ただ単に「殺人=悪」だと言って洗脳するのでは、ものごとは解決しない。
この社会にあるのは、道徳倫理ではない。潔癖症なのだ。言い換えれば、怖いのだ。多くの者が、死を怖れると同時に、快適に暮らしたいと思っている。その、自分たちにとって心地の良いような潔癖な社会にしようとする理屈でできているのであって、真に「なにが悪いのか」は考えていない。
「なにが悪いのか」を考えずに杓子定規に順守して、「俺も守っているのだからお前も守れ」と言うのだろうが、そんな理屈ではよくわからない。ところが、いまの多くの人たちは、「俺はこんなに頑張っているのに」「私はこんなに苦しいのに」と言って他人に八つ当たりする。大流行中だ。
古くは、自分でも「悪い」とは思いもよらなかった行為を、偉い人に怒られたり、天変地異の原因になったと思ったりしたから、「しきたり」ができるようになり、いささか不合理な「しきたり」でも杓子定規に遵守するという社会気質ができた。それがそのまま江戸時代ころにはもう全国家的に流布されて、皆「お上」の言うことをきく「踏み絵社会」ができあがっていた。
さて、そもそも、社会的善悪というのは、真の善悪とは異なると思う。社会的善悪というのは、人間にとっての都合の良し悪しだ。自分たちの自我にとって「得だ」と思うことが善になり、「損だ」と思うことが悪になる。だから、死にたくなければ他の生物も殺すし、インフルエンザウイルスであれなんであれ、徹底的に殺すようにしているだろう。昔も今も、多くの生物を殺戮して、しばしば絶滅させてきた。
昔はもっと、「殺生は悪だ」ということが一般的に言われていた。いまは、平気で生物を殺すし、動物がたくさん殺されて食べられている。動物を殺すのを見たくないから食べない、というのではなく、見ずに食べる方法をつくりだして逃げている。ついには、魚肉や鶏肉に骨がないようにまでしている。もはや、生物っぽくなく、便利に食べられる。もちろん、骨抜き魚肉や骨抜きフライドチキンが出てくる以前に、チキンマックナゲットだろうがハンバーグだろうが、骨を意識することはないのだが。いまの欧米人はこの国の活造りを見ると「残虐だ」と言い出すが、我々はもともとは、生き物を殺して喰らっているという自覚をあえてもって、また、ピチピチしているのを見て「新鮮だ」と言って、喜びと有難みをもってきたのだ。反対に、たとえブロイラーにしようがハンバーグにしようが、動物を殺している残虐からは不可避なのだ。例えばマクドナルドなどにしても、全世界的に食肉を大量生産して流通させているが、膨大な殺生をしている。大量の飼料や水を消費して牛を飼い、また、深海魚まで獲っている。それはムダな消費なのではないか?
まあどうせ昔も、「殺生=悪」という「しきたり」でしかなかったのかもしれないが。だが、きっと、釈尊にしてもそうだし、「無益な殺生をしてはいけない」と言った多くの偉人たちのなかにも、「殺生ばかりをしていたら自分たち人間も生きていけないだろう」と直感していた者が少なくなかったのだろう。ただそれが、日本社会では、形式的にばかり順守される「法令さえ守っていればいい」的な実態になったのだ。それは結局のところが、日本社会のほとんどの人が無教養で思考停止をしているからなのだろう。つまりは洗脳されてきただけだ。
我々が生きていくためには、生物を少なからず殺す必要がある。そうしないと食べていくこともできないだろう。直接にも間接にも、殺生をしている。だが、際限なく殺しまくっていたら、無益な殺生になり、そして殺された生物種がしばしば絶滅する。
自我の屁理屈を超えれば、他の生物を殺しすぎるのは、生態系のつりあいを破ることになるから、我々自身も生きていくことが難しくなる。したがって、無益な殺生は、生きていくという観点でも明らかな悪だ。無益な殺生が悪だということは、合理的に説明可能だ。
いまのこの国では、「本当のこと」が言えない。例えば、政治的な発言が忌避されるのも異常だ。「それはおかしいと思う」と言える社会ではなくなっている。例えば原発にしたって殺生にしたって自殺率にしたって、さらには、インフルエンザだろうがHIVだろうがなにもかもを殺戮して存在を消し去ろうとすることの異様さにしても。
他人を叱れないし、叱る能力(冒頭に書いた通り)がそもそもない人が多いのだろう。なにがおかしいのかを言える雰囲気でもなければ、なぜおかしいのかも言えないからなのだろう。ひとりひとりが叱れない社会だから、マスコミが代弁することで憤懣の捌け口になっているのだろう。
我々は、完全には清廉潔白でいることはできない。殺生をしなければ生きていけないし、他人に迷惑をかけずには生きていけない。
だが、己の穢さを自覚しなければ、不潔であることに対する抑止力は働かないのではないか。
皆がまたぞろ、自分にとって都合のいいと思うことをやりたいから、例えばガソリンなどの資源エネルギーも多用するし、そうして地球温暖化も進んでいるのだろうし、有毒物質もまきちらしているし、将来の資源枯渇へと「ツケまわし」もしている。だが、「それは悪いことだ」とは、ほぼ誰一人として言わない。例えば、「自動車を抜本的に減らせ」とは、ほぼ誰も言わない。乗りたいからなのだろうし、自動車があることで産業があり雇用があるからなのだろう。同じように、「タバコは有害だから禁止すべきだ」どころか「増税すべきだ」と言うことすら、すぐさま自民党などから「葉タバコ農家が〜」という屁理屈が返ってくる。それではきっと、葉タバコ農家は死の商人だね。JTも、その大株主のこの国も、同じ国民から「血を吸って」「肉を喰らい」生きているのだ。
例えば米国人がやっていたら、この国でもやっていいことになる。迷惑駐車でもポイ捨てでもなんでも「他人たちがやっているから自分もやっていい」という言い訳は必ず出てくるだろう。互いに都合のいいことなのだから、みんなして「赤信号も渡る」のだろうし、「崖っぷちへと突撃する」チキンレースをやりもする。
ところで、自分たちにとって都合の悪いと思われる生物を徹底的に殺戮してきたから、HIVが出てきたり、新型インフルエンザが出てきたりしたのだと思う。少なくとも、薬物耐性病原体は、過度の殺菌をしてこなければ出てこなかっただろう。そうして、潔癖に潰しまくってきたから、いわば「テロ攻撃」が他の生物から、地球から、加えられているのだ。
それどころかさらに、いまの我々は、自己の心身にすら欺いて、自我が都合の良いと思うことばかりをしているから、心身の反乱をくらっているのだろう。癌にしても、アレルギーにしても、「精神疾患」にしても。人工的に潔癖な生活空間をつくってきたから、心身にとってかえって不健康なことになっている。
地球の生態系のつりあいも、自己の心身のつりあいも、壊しているからだ。だからかえって危機に陥る。不健康になる。
この国では少子化だと騒がれているが、世界人類はいまも増え続けている。はたして、「人口増=善」なのか? 人類が増えすぎたら、地球の生態系のつりあいは崩れる。すでに崩れている。しかし、自分が生きたいと思っている人たちは、「出産=悪」だとは決して言わないだろう。真実を言わないし、真実に気づきすらしないのかもしれない。
昔から、例えばクリスチャンは「人は原罪を負っている」と言う。また、この国では浄土真宗の檀信徒が最大多数だと言われているが、そもそもの浄土宗や浄土教は、悪の自覚から始まっている。つまり、「自分は悪人だ」と自覚しているからこそ、「地獄に堕ちる」と思い、「どうやったら救われるか」と考えるのである。それに比べると、いまの人間には、悪の自覚が足りない。
自分たちを律することができず、ゆがんでいく。ゆがんだことでトラブルが起こるごとに、対症療法をする。砂糖を入れすぎたから塩を足すかのように、余計なものをどんどんと付け足していき、だからますます錯乱していく。ぐにゃぐにゃにゆがんでいく。
究極的には、己の死に対して覚悟がないとはじまらないのだと思う。人類は、過剰な生存意欲があるからこそ絶滅せずに生きていられたのだろう。だが、だからこそ、生存意欲の過剰さに対する自覚をもたないと、欲望も執着も、いくらでも膨張して肥大化していく。そうして、人類も増えすぎるし、生物も殺戮するし、資源も食い尽くすし、自己の心身さえも傷つける。
異質な他者の存在に対して、多様性に対して、寛容に、しなやかに、ふわっと、受け入れないといけないと思う。究極には己の死に対して覚悟がないと、それはできない。だが、受け入れなければ、「テロ攻撃」が、他人からも、他の生物からも、さらには自分自身の細胞や潜在意識からも、加えられていくのだ。
いまのこの日本社会にしても、やっていることは正反対で、威圧して同調化させようとする傾向があり、それは近年ますます増している。それではきっと、ますます危険で不健康で暮らしづらい国になっていくのだろうと、私は思っている。