はてなキーワード: モダニズムとは
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・加法混色(色を加えるほど明るくなる)の三原色がRGBレッドグリーンブルー
・減法混色(色を加えると暗くなる)の三原色がCMYシアンマゼンタイエロー(これにKブラックを足すと印刷の四原色)
昔から絵の具は「赤黄緑青」を四原色にして色を作り出していた。
ウィンドウズ以外も「新しい物を作り出す」(画家が絵の具から芸術を作るように)という意図を込めたいからこの色をみんな使いたがるんじゃないかと思う(多分)。
ポップな印象を与えつつ、納まりもいいし。
また、うろ覚えだから間違ってたら申し訳ないけど、少し歴史的な話をすると、
原色を使った有名な作品としては、ピエト・モンドリアンの抽象画がある(ピンこなくても見ればわかるはず)。
モンドリアンが主導した前衛運動デ・ステイルでも原色がアイコン化されているので、直接の影響はモンドリアンやデ・ステイルにあるのかも知れない。(緑はあまり使われていない気がするが)
また、同時代にはバウハウスやロシア構成主義といった「近代的な、機能的で合理的な」表現を目指すモダニズムの運動があり、これらも原色を使った表現が特徴。
「表現におけるモダニズム」は合理性を重んじているため、ITやゲーム界隈と相性がいいのかもしれない。
他に原色といえばデンマーク発祥の「レゴブロック」があるが、デンマークのデザインの特徴もシンプルさと機能性。
他にはポップアートなども関連性がありそう。
専門ではないので、話半分に読んで
増田の方です。なかなか分かりづらい文章だと我ながら思ったけど、読んでくれてありがとう。
そして元増田もこんな俺に付き合ってくれて嬉しいなと思っている。
これは、近代的自我やモダニズム、私小説の問題だと考えたんだけど、違うか?
・元増田:私小説家的な立場。近代的自我やモダニズムに自明さを持てない。ゆえに自分や日本に拠り所となるかっこよさを探すのを止められない(無いのは知っているが)
・増田:モダニスト。哲学や科学など、広く使われる手続きにのっとって、我々の限界を探求しつつ知を構造化するしかない。(拠り所の無さを受け入れて)
って感じで対立している感じ。
対立構造という程のものではないけど、元増田と増田(俺)の立ち位置はご指摘の通りだと思う。
ただ、強いていうなら俺もまた元増田と同じ事を考えていたし、その色々と調べるうちに
昔とは違う立ち位置にたどり着いてしまったと思っていて、だからこの辺の文献を読んでは
どうかという主旨の発言をしているつもり。あえていやらしい言い方をすると、先輩ぶっている。
俺は、元増田の立場に近いところにいると感じる。一方、その立場が無理なのは理解している。なれるなら増田の立場に移行するのが理想だ。
だから、増田がなぜモダニストの立場に立てるのかを聞きたい。言い換えると、音楽において自分の基盤を探りたい欲求を止め、なぜ哲学や科学の方法で済ませられるのか、を知りたい。
日本にいると、幼い頃から身近に学者や官僚、芸術家がいないと、モダニズムを自明なものとみなすのはまだ難しいと考えている。でも、意思の力でそれを引き受けられる人がいたなら、その意見が聞きたいのだ。
それについては明確に違うので俺の言い分を書いておきたい。
俺は日本人だが、やはり当事者自身が日本文化を取り扱う事は大変に難易度が高いと思っていて、
研究に目を通す事は多々あるけれども発信はしていない。日本文化について言及する事を意図的に避けている。
レヴィ=ストロースのいう所のメタ視点は自分自身とほぼ接点のない文化に対しては適用できても、
自らに適用する事はそう簡単ではない。だからはっきり言ってしまえばポピュラー音楽研究界隈が
あえて日本文化に切り込んでいくのを、民族音楽学者は指を咥えて見ているという状況が続いて久しい。
元増田が挙げる輪島さんにしても、増田さんにしても、二人ともポピュラー音楽研究界隈の人だ。
彼らは大衆の流行や、何となくの時代の雰囲気を分析する事に特化しているので遠慮なく物申せる部分がある。
だが民族音楽学者は違う。人間社会の織りなす文化はどれも等しく価値あるよねという大前提に立っている。
要はいいところ探しに特化しているので、雑な意見に反論はしても発信自体にとても慎重だ。
これではいかんと重い腰をあげる動きもあるのだが、全体的にフットワークは正直軽くなく、
その点についての批判は真摯に受け止めなくてはならない、という程度の後ろめたさはある。
自分の手持ち武器は当該社会に深刻なダメージを与えるかもしれない、そんな畏れが心の底にある。
ただ、だからこそプロパガンダ的な、意図的に文化志向を捻じ曲げて指針を示すような言説にはとても厳しい。
日本には侘び寂びの文化があるとか、礼儀作法を大切にするとか、伝統を重んじるとか、
何言ってんだこの野郎と率直に感じる。ごく一部の慣習を民族全体の伝統に置き換えるのはあまりに乱暴すぎるのではないか?
もっと雑多でぐちゃぐちゃで日和見主義で、醜い部分から目をそらす事も多々あるだろと。
どんな事から目を逸らしたいのか、何を受け入れたくないと感じる美意識や規範、無言の空気があるのか。
そんな部分も含めて全てを率直に受け入れつつ、肯定的に評価していきたいというのが
自らのフィールドワークの体験からメタ視点については理解した。
でもそれを自らに適用する事はこの上なく恐ろしい事だ。
とはいっても正直なところ、西洋音楽を基にした音楽を、日本的なものとして認めたくないという気持ちもある。
日本の長い歴史から見れば、西洋音楽が入ってきたのはつい最近のことだし、つい最近入ってきただけの音楽的価値観が社会的に支配的になってしまうのは、なんかおかしい。
「西洋音楽を取り入れた日本音楽」であれば、それは過去からの発展とみなすことができるけど、
https://anond.hatelabo.jp/20180708114227
いや、僕は個人的には、演歌は日本の伝統ではないと思ってるんですけど、それは個人の主観的価値観なんですよ。
僕はナショナリストなので、日本の伝統はかっこいいものであってほしいし、個人的に演歌がかっこいい音楽だとは思えないので、演歌は日本の伝統ではないとみなしたい、という「個人の感想」です。
https://anond.hatelabo.jp/20180714150641
というレスが、目をひいた。
これは、近代的自我やモダニズム、私小説の問題だと考えたんだけど、違うか?
・元増田:私小説家的な立場。近代的自我やモダニズムに自明さを持てない。ゆえに自分や日本に拠り所となるかっこよさを探すのを止められない(無いのは知っているが)
・増田:モダニスト。哲学や科学など、広く使われる手続きにのっとって、我々の限界を探求しつつ知を構造化するしかない。(拠り所の無さを受け入れて)
って感じで対立している感じ。
見当違いのことを言っていたら、以下スルーしてくれ。
俺は、元増田の立場に近いところにいると感じる。一方、その立場が無理なのは理解している。なれるなら増田の立場に移行するのが理想だ。
だから、増田がなぜモダニストの立場に立てるのかを聞きたい。言い換えると、音楽において自分の基盤を探りたい欲求を止め、なぜ哲学や科学の方法で済ませられるのか、を知りたい。
日本にいると、幼い頃から身近に学者や官僚、芸術家がいないと、モダニズムを自明なものとみなすのはまだ難しいと考えている。でも、意思の力でそれを引き受けられる人がいたなら、その意見が聞きたいのだ。
「日本的なかっこよさを探してしまう感じ」は、「幽霊に取り憑かれている」や「神経症」と言ってもいいかもしれない。
レヴィ=ストロースは、未開社会にもそれぞれ高度な構造を持った文明があるとしたが、日本が開国前に持っていた構造の中にあった、かっこよさの幽霊がまだ潜んでいて、日本人の頭の中に巣食っていると言っても良い。そして幽霊が復活する期待を捨てられない(あるいは、幽霊が復活する可能性に賭け、下部構造を変えようとイデオロギー工作を頑張る)
元々、モダニズム建築ってのは、機能主義や合理主義を追求して、無駄な装飾を排して、最新の素材を使うという試みだった。
コンクリート打ちっ放しの壁や、大きなガラス張りの窓がそれだ。
しかし、現代ではコンクリート打ちっ放しよりも断熱性の高い工法や、壁面に汚れがつきにくい素材が開発されている。
そうして、より機能的で、より現代における合理性に適合した建築ができるのに、未だに20世紀のようなモダニズム建築がまかり通っている。
しかし、現代のモダニズム建築は、モダニズムの根底に流れる思想を無視した、モダニズム(風)建築である。
このような似非モダニズム建築家を持ち上げるのはそろそろやめにしてもらいたい。
安藤忠雄とか。
宇野常寛『リトル・ピープルの時代』幻冬舎2011の続きを野木の行き帰りに読み続ける。「リトル・ピープル」とは「ビッグ・ブラザー」と対で使われ、その意味は大きな物語に対する小さな物語とかなり近い。その意味ではビッグ・ブラザーはモダニズムの真理を体現し、リトル・ピープルはモダニズム解体後の小さな物語を紡ぐ個々人ということになる。
と聞けばお決まりのポストモダニズム論かと思うがそうではない。著者は村上春樹を80%称賛しながら、この対概念が村上の中でどのように扱われているかを分析する。それによれば、村上はお決まりのポストモダニズム論に読者を引きずり込むのではなく、ビッグ・ブラザーが壊死した後にリトル・ピープルの紡ぐ小さな神話に引き込まれることこそが最も危険なことであると警鐘を鳴らしていると解説する。
そしてその小さな神話の実例としてあがるのがオオムなのである。そして大きな物語からの安易なデタッチメントではなくコミットメントというメッセージを発するのだが、ではそのコミットメントとは何か?
これが最も難しい。小さな神話が厭世的なカルト物語であるのならコミットメントとは社会的公共的な何かへの取り組みということになるのかもしれない。そして恐らく現代はそう言う方向へ流れている。3.11はそれに拍車をかけていると言えるだろう。しかし、ここで、はたとショックドクトリンの議論を思い出す。社会的なコミットメントであればそれは全てが正しいことなのかと言えばそれはそう簡単に肯定できることでもない。ここにも様々なリトル・ピープルが潜在し目に見えない邪悪なものが潜んでいると僕には思えるのである。リトル・ピープルの時代とはそうした小さな邪悪との闘いの社会であり、それ故にビッグ・ブラザーの時代よりはるかにリテラシーが求められるのだと思う。
『超権威主義的世界文学百選』http://togetter.com/li/138734というランキングを見て、面白いと思いながらも疑問に思ったことがあって、「20世紀の小説ばっかりじゃん!!」ということで19世紀の小説を重視したランキングを作成してみました。具体的には近代文学の始まり「ドン・キホーテ」(1605,1615)からモダニズムの始まりである「ユリシーズ」(1922)までです。つまり近代文学のモダニズム以前、ということになります。小説を選ぶうえで参考になればと。あと、あくまで個人的な基準に過ぎないことを留意してもらえればと。
1.「ドン・キホーテ」(1605,1615) ミゲル・デ・セルバンテス
2.「ガリヴァー旅行記」(1726) ジョナサン・スウィフト
3.「トム・ジョーンズ」(1749) ヘンリー・フィールディング
4.「紅楼夢」(18世紀中頃) 曹雪芹
5.「トリストラム・シャンディ」(1759~1767) ローレンス・スターン
7.「高慢と偏見」(1813) ジェーン・オースティン
8.「黄金の壺」(1814) E.T.A.ホフマン
10.「いいなづけ」(1825) アレッサンドロ・マンゾーニ
11.「赤と黒」(1830) スタンダール
13.「アッシャー家の崩壊」(1839) エドガー・アラン・ポー
15.「虚栄の市」(1848) ウィリアム・メイクピース・サッカレー
16.「緋文字」(1850) ナサニエル・ホーソーン
17.「デイビッド・コパフィールド」(1850) チャールズ・ディケンズ
18.「白鯨」(1851) ハーマン・メルヴィル
19.「死せる魂」(1855) ニコライ・ゴーゴリ
20.「オーレリア」(1855) ジェラール・ド・ネルヴァル
21.「ボヴァリー夫人」(1857) ギュスターブ・フロベール
22.「晩夏」(1857) アーダルベルト・シュティフター
25.「ミドルマーチ」(1872) ジョージ・エリオット
29.「ブラス・クーバスの死後の回想」(1881) マシャード・デ・アシス
30.「さかしま」(1884) ジョリス=カルル・ユイスマンス
31.「ハックルベリー・フィンの冒険」(1885) マーク・トウェイン
32.「飢え」(1890) クヌート・ハムスン
33.「クォ・ヴァディス」(1895) ヘンリク・シェンキェヴィッチ
36.「シスター・キャリー」(1900) セオドラ・ドライサー
37.「ロード・ジム」(1900) ジョゼフ・コンラッド
38.「ブッデンブロークス家の人々」(1901) トーマス・マン
39.「超男性」(1901) アルフレッド・ジャリ
40.「チャンドス卿の手紙」(1902) フーゴ・フォン・ホーフマンスタール
41.「鳩の翼」(1903) ヘンリー・ジェイムズ
42.「一万一千本の鞭」(1907) ギヨーム・アポリネーム
44.「ハワーズ・エンド」(1910) E.M.フォースター
45.「ペテルブルク」(1913) アンドレイ・ベールイ
46.「変身」(1915) フランツ・カフカ
47.「明暗」(1916) 夏目漱石
48.「ワインズバーグ・オハイオ」(1919) シャーウッド・アンダーソン
49.「われら」(1921) エヴゲーニイ・ザミャーチン
美術 古典期 発展期 成熟期(ルネサンス) 爛熟期(マンネリ) 東西の交流(印象派) 大衆化・前衛美術期 モダニズム エロゲ エロ──┬──純愛──シナリオ、キャラ多彩化───定型化─────┐ ┌──大衆化───────────記号化 │ (姉、妹、幼なじみ) ├──融合(寝取られ)──┤(ギャルゲや小説と同質化) (ツンデレ、クーデレ) │ │ │ └──陵辱── 状況、シナリオ多彩化 ─── 定型化 ────┘ └─グロテスク化───────不条理・過剰現実 (輪姦、催眠、薬、痴漢) (グロ、殺人、奇形) (話題になった者勝ち)
こんな感じなのかな
【匠接頭辞表】【匠接尾語表】
111:1/25の 11*:【小要素表】の 1**:【小要素表】と【小要素表】の 22*:【空間要素表】の 23*:【住要素表】の 244:【小要素表】の心の 245:コントラストの 246:アップテンポの 255:断面構造の 256:バリアフリーの 266:吹き抜ける風の 333:京町家の 334:体感面積の 335:間仕切りの 336:多機能の 344:寛ぎの 345:機能美の 346:境界線の 355:潤いの 356:自然素材の 366:温もりの 444:廃材の/健康庭園の/花と木の 445:夢の館の 446:森の木の 455:【好きな形容詞】機能の 456:迷宮の 466:節約【初期獲得スキル】の 555:【1d6-1】次元の 556:【王国名の通称】建築に魅せられた 566:【王国の特産品(無ければ【相場表】)】使いの 666:【今現在現地時刻で午前0時台の好きな都市名/地域名】の
11:狭小 12:和/和み 13:家 14:モダン/モダニズム 15:人 16:ゆとり 22:笑顔 23:心 24:時 25:風 26:影 33:水 34:光 35:暮らし 36:空 44:収納 45:動線 46:明かり 55:安心 56:迷宮 66:やすらぎ/安らぎ
11:ゆとりの空間 12:機能空間 13:空間演出 14:狭小空間 15:居住空間 16:住空間 22:空間連鎖 23:空間構成 24:安住空間 25:立体空間 26:癒し空間 33:空間攻略 34:空間 35:時空間 36:空間方程式 44:四季彩空間 45:【好きな形容詞】空間 46:【小要素表】空間 55:【現在/過去/未来】空間 56:迷宮空間 66:【ランダムに選んだ王国内に設置済みの施設の名前/略称】空間
11:ゆとり住宅 12:元気住宅 13:懐古住宅 14:健康住宅 15:古き良き住まい 16:感動住宅 22:個性派住宅 23:住機能 24:住構造 25:住環境 26:住空間 33:生かす住まい 34:住まい 35:住風景 36:【小要素表】と住まい 44:【小要素表】住宅 45:【温暖/寒冷】住宅 46:【プレイヤーの足下の素材】住宅 55:【好きな形容詞】住まい 56:迷宮住宅 66:【感覚表】住宅
1:視覚 2:聴覚 3:触覚 4:味覚 5:嗅覚 6:五覚
111:親子/層造者 112:ストーリーテラー/語部 113:アルピニスト/フリークライマー 114:主治医/救命士/セラピスト 115:栄養士/整備士/療養士 116:若き志士/風雲児/野心家 122:未来予報士 123:アーティスト/芸術家 124:パティシエ/ソムリエ 125:奇才/天才 126:開拓者/開拓師 133:継承者 134:伝導師/説法師 135:時代考証人 136:造形師 144:融合者 145:仕事人 146:リベラリスト/自由主義者 155:保証人 156:伝承者 166:細工師 222:ヘルストレーナー 223:スペシャリスト 224:操縦士 225:発明家 226:旅人 233:詩人/俳人 234:魔術師/錬金術師 235:探求者/探検家/探訪者 236:印象派 244:ライフプランナー 245:エンターティナー/演出家 246:アテンダント/アナリスト/ナビゲーター 255:調律師/ハーモニスト 256:請負人/代弁者 266:調光師/調合師 333:赤ひげ先生 334:エコガイド/エコロジスト 335:アスリート 336:マエストロ 344:改革者/革命家 345:交渉人 346:仕掛け人 355:智将/戦略家 356:【(何も付けない)/動線/生活】【仕立屋/仕立人】 366:奏者 444:熱血講談師 445:粋人 446:解放者 455:渡し人 456:迷宮【匠接尾語表】 466:【好きなカタカナ語】アーティスト 555:スタイリスト/療法士/ソムリエ 556:空間【匠接尾語表】 566:カリスマ【クラス名】【ジョブ名/ジョブ名の英語表記をカタカナ化】 666:ランドメイカー
んーそうして金儲けする人がいるよ、じゃなくて日本人の根底にある精神性なんじゃないの?なんていうか日本にある美って、デザインされたものじゃなくてたまたまあったものを、美しく捉えるってものな気がする。写実的じゃなくて、抽象的な美を、共通見解として「きれいだということにしよう」みたいなさ。陶芸とか、書道とか茶道とか華道とかってそんな気がする。たまたま目に映ったものを、よしこれはよきものとしよう!見たいに始まった気が。
これって実際にどうなのか俺にはわからないよ。
それでも多くの人の中で時間をかけて洗練されてきたものがあるだろうし、
金儲けに関しては、お金が無いと生きていけないんだから、そういう精神性はあるに決まってるよ。
手段を選ばない金儲けの中でそういうものが作られるんじゃないかと思って書いた。
アニメとかフィギュアとかもたまたま評価されて市民権を得てしまったけどさ、以前は景観を破壊するまではいわないけど、もっともっと日陰ものだったと思う。
景観を破壊しているのはパチンコやサラ金の話じゃなかったっけ。
新宿のドヤ街を写真にとって、この退廃したモダニズムがうんちゃら・・・とか言いたがるけど、たまたまそうなったものをそう唱えているだけ。
んーそうして金儲けする人がいるよ、じゃなくて日本人の根底にある精神性なんじゃないの?なんていうか日本にある美って、デザインされたものじゃなくてたまたまあったものを、美しく捉えるってものな気がする。写実的じゃなくて、抽象的な美を、共通見解として「きれいだということにしよう」みたいなさ。陶芸とか、書道とか茶道とか華道とかってそんな気がする。たまたま目に映ったものを、よしこれはよきものとしよう!見たいに始まった気が。
アニメとかフィギュアとかもたまたま評価されて市民権を得てしまったけどさ、以前は景観を破壊するまではいわないけど、もっともっと日陰ものだったと思う。街の景観もそうなんじゃない?新宿のドヤ街を写真にとって、この退廃したモダニズムがうんちゃら・・・とか言いたがるけど、たまたまそうなったものをそう唱えているだけ。
自分で作り出して、言葉要らずで共感を得て、魂を掴むような美や芸術や景色がない国だと思う。そしてそれを求めない、感謝できない民族なんだと思う。
asahi.com(朝日新聞社):ナマ足「もうださい」 女子高生はロンスカブーム 奈良 - 社会
http://www.asahi.com/national/update/0621/OSK200906200188.html
上の記事についての2chの反応やブコメを見るに、あまりにも勘違いしているヤツが多いので言及してみる。
記事の画像は、どう見てもスケバンのような不良路線ではなく、上品・清楚なお嬢様路線だ。
というか、現代の女子高生から見たって、スケバンはダサいだろ…
というわけで、これは30年前のスケバンの再来ではなく、もっと時代を遡った、戦前の女学生の再来だ↓
ttp://tadanorih.hp.infoseek.co.jp/images/toppic/toppic0703.jpg
昨今の流行としては、大正ロマン・昭和モダニズムブームに加え、○○の品格、茶髪→黒髪、ホストクラブ→執事喫茶、肉食系→草食系などなど、上品で落ち着いた雰囲気のものが流行る傾向にある。
だから、ここらで制服のスカート丈が長くなるのは、自然な流れだと思う。
次に、大根足を隠すために丈を長くしているんだろという勘違い。
過去、女子高生の大根足を隠すために編み出されたものといえば…そうだね、ルーズソックスだね。
そしてルーズソックスには、ミニスカートでないと様にならない。
つまり、一昔前のミニスカ+ルーズソックスという組み合わせのほうが、大根足でも何とか「見れる」ようにする組み合わせだった。
逆に、膝が隠れるくらいの長さのスカートを穿く場合は、キュッと締まった足首でないと様にならない。
その為、ロング丈の場合の靴下は、膨張職の白ではなく、引き締め効果のある黒か紺が良いということになる。
ルーズソックスが廃れて黒か紺のハイソックスが主流になったということは、次の段階では必然、その靴下が似合うロンスカが流行するということになる。
これまた自然な流れだな。
あと、奈良というところに引っかかっている人が多いようだが、このロンスカ流行の発祥地は神戸だ。
まあ、この記事だけ見ると、「奈良という田舎の一部地域での流行」と勘違いしてしまいがちだが、神戸→大阪→奈良の順で広まりを見せているということだな。
あと、奈良の北西部は大阪や京都の衛星都市になっているから、奈良自体は田舎でも、そこに住む人間の多くは、大阪で働いて遊んで奈良に寝に帰るという、割と都会的な生活を送っている。
加えて、奈良という地域の特性が、このロンスカの流行を受け入れる土壌になっていると思う。
上でも言った通り、奈良は大阪・京都の衛星都市なので、奈良に「郊外の一戸建て」を購入する金持ちが多い。
特に、元記事に出ている近鉄大和西大寺駅から西側は高級住宅街で、関西の大企業幹部が邸宅を構えていたりする。
実際、奈良県民の貯蓄高は全国的に見ても高く、そのせいか奈良は教育に金を掛ける傾向があり、高校偏差値も全国トップクラスで、東大・京大合格者の数も多い。
奈良にももちろんDQN校はあるが、全国的に見るとお育ちの良い子が多く、清楚・上品志向になる子が多いのも頷ける。
まあ何が言いたいのかというと、ロンスカ最高!ってことだな。
露出度さえ高ければ良いってヤツはわかってない。
いくら綺麗な足でも、いつも見えてたら、そのうち見慣れて飽きてくるのが人間ってもんですよ。
普段は一見隠しているようで、動いたときに偶然チラッと見えるってのが至上。
着物だってそう。普通にしていれば素足が見えないようになっているけど、階段上るときに、裾と足袋の間から素足が覗く。
それが本当の色気ってもんだよ。