唐突なんだけど、この前、とある女性と飲んでいたときに、「俺ってイケダハヤトのこと、意外と評価しているんだよね」といったら、すごいびっくりされたのね。「シマダさんって、絶対イケダハヤトのこと嫌いだと思っていた!」と。
そういえば、数週間前にも男の後輩にも「シマダ先輩がイケダハヤトのことがアリだって結構びびりました」ともいわれたなあ。
なぜ意外だと思われるのか、と考えてみたんだが、もしかして、イケダハヤト観なるものに差があるのではないかと思った。
そもそも、イケダハヤトのことを、論理的、言語的に見ると、混乱をまねくと思うんだよ。
イケダハヤトは、内容や文章の書き方が、一見、論理を使おうとしているように見えるのは事実だ。だから「論理的におかしい」「イケダハヤトの意見は違う」「言っていることが前と逆だ」という話になってしまう。
でもイケダハヤトがやっているのは論理ではない。言語ではない、文章ですらないかもしれない。そういう表現手法をとっていないんだ。
イケダハヤト、そしてイケダハヤト的なものは、もっと精神的なものなんだと思う。若者の空気といってもいい。私たちの世代だとホイチョイがやってたようなことをイケダハヤトがやっているのではないかと思う。
つまり、若者の空気をただ放出しているだけ。ホイチョイと違うのは、研究して、それをデフォルメして、うまい具合に時代の空気を表現しているわけではなく、イケダハヤトが今の若者そのものだからである。そして、今の若者の一部の部分を切り取って、それをアウトプットしているんだ。
若者と話すときにさ、論理で話の腰を折るおっさんいるじゃん。わからなくもないんだけど、若者がしているのって別に議論じゃなくて、単に感じたことを素直に出してたりするだけだったりするのよ。「本田かっけー」とか「マジだりー」とかと同じなんだ。本田がかっこいいという点に対して論理で反論しないでしょ。それと同じ。
つまりイケダハヤトに対して反論したり、間違いだという人は、そもそものところで噛み合っていない。話しているレイヤーが違う、次元が違う、内容が違う、論点が違う。
たとえばだ、イケダハヤトが「納豆を若者に強要するおっさんは、若者をバカにしている。そもそもマクドナルドを食べたっていいはずだ。世界的チェーン店であるマクドナルドであれば有害物質を使う可能性も低いし、そもそもキャベツやトマトが入っているハンバーグのほうがよほど健康的」みたいなブログを書いたときに「別に若者に納豆を押し付けていない」「そんな押し付けるようなおっさんは本当にいるの?」「マクドナルドが有害物質を使わないとは限らない」「トマトやキャベツだけじゃ野菜として足りない」みたいな反応をするやつがいるけど、全く違う。
イケダハヤトが上記のようにいったら「納豆はねばねばしてるし、なんかくさい。あとマックはうまい。」といっているということ。それなのに「トマトやキャベツだけじゃ野菜として足りない」って言われたら「え、何の話?なにいってるんですか?」となってしまうのは当たり前だ。
イケダハヤトは恐らく、若者が意見や感想、感じたことを発信することは価値があると考えているので、多くの人がそのようにするべきだと考えている。なので、中身がない、という批判もおそらく意味がない。
こう書いているが、別にバカにしているわけじゃない。実は私も、イケダハヤトと同意見で、若者がブログやtwitteでもっと思っていること、感じていることをストレートに書くべきだと思っているからだ。そういう意味では、イケダハヤトの支持者であるし、彼のブログもおもしろく読んでいる。若者が感じていることをストレートに伝えられるってやはりいいことなのではないか?
目が滑った。 >>若者が感じた素直なこと<< をしたり顔でブログにするから嫌われるんじゃねーの。
職場にイケハヤを知ってる人が複数いて、しかも話題にのぼるって環境にちょっと驚いたw ウェブ関係のお仕事だったら、それもあるのか。 言いたいことはわかる。 で、わかるからこ...