(2/3【討論!】決定版!在日問題を考える[桜H25/11/16])
http://www.youtube.com/watch?v=PcbA77rSE1g
水島総は日本国籍をもつことは戦争の時、国に忠誠を誓うことだと言っている。しかし、多くの日本国民もそう思っているだろうか?
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=1126&f=national_1126_120.shtml
この記事によれば、「もし戦争が起きた場合、国のために闘うか」というアンケートで日本の小中学生は29.3%しかその意志がないということである。これからの若者である日本人たちはほとんどそのような意識をもっていない。私もまたその意識をもっていない。もし日本が馬鹿げた戦争に突入しようとし、私たちを徴兵しようとこころみるのであれば、海外脱出をこころみるつもりだ。
私をふくめて多くの日本人は、日本国籍を「取得した」のではない。むしろ、日本国籍とは、自分が生まれるか生まれないかを決定することができないように、決定以前的なものとしてあるのだ。私は偶然に日本国籍をもってしまっているのであって、それ以上でも以下でもない。「ならば日本国籍を捨てたまえ」と言う人がいるだろう。しかし、外国籍を持たなければ、日本国籍を捨てることはできないし、仮にそれができたところで、それは七面倒くさい官僚的事務を通さなければならないしくみになっている。いわば私は「たまたま」日本人なのだ(というか、全ての人は根源的にそうでしかありえない)。
水島は日本国籍という「偶然的なもの」をもつ人々を神聖化して(つまり日本人というものを神聖化して)、虚構の日本人をつくっている。彼はまあよい。彼はもう64歳のおじいちゃんだから戦争にいかなくても済むし、「お国のため!」と虚構のリアリティのなかで勇敢な戦士となってくれればよい。「しかし彼は尖閣に突入したのではないか?」と問う人がいる。そう、たしかに彼は尖閣上陸を決行したかもしれない(それでお国に迷惑をかけてしまったね)。でもな、本物の戦争をなめるなよ(君は戦後生まれだからリアルな戦争を知らないね?)。水島よ、そんなもん英雄でも国士でもねえぞ。むしろ彼は(尖閣に限らずつねに)、風車に向かって宣戦布告したドン・キホーテに似ている。
追記)
水島のいう「日本人」って結局なんなのか? 彼は以下の三つの概念を好きなときに好きなように使い分けている。
1)日本国籍をもっている人
3)戦争時(シュミット風により正確に言えば例外状態)に日本のために戦う人
しかし、これら三つは全然違った事柄を指している。さきに私が指摘したのは(1)と(3)は別物だよね、ということだけど、(2)と(3)の違いもあるんだよ、ということは言っておかねばならない。私たちは偶然にも日本に生まれたわけだが、そこに自分があるべき姿を見出すのは勝手だし、どうぞ好きなようにすればいいと思う。でもまあ、実際のところ、私ももはや日本人でしかありえないし、三島由紀夫が全共闘にいった言葉をパクれば「欧米人から見れば、こいつは鼻の低いな、日本人だな」と思われるだろうこともまた必死である。だが、ここでも問題は面倒で、てっとり早く究極的に問うてしまえばそれは「私とは何か?」という問いになるだろう(奇しくも全共闘世代を描いた小説に『僕って何?』というのがあるね)。「私」を考えるとき、(a)他人から見られている私(b)私としての私(c)その二つの次元を合わせた次元にいる私、の三つの私が考えられる。まずは(a)の次元を考えてみよう。私がマクドナルドで働いていたら、他人から見れば「マック店員」である。私はバイト中には「マックの店員」らしくあろうとふるまうだろう。しかし、そのことは私はそもそもはマック店員ではない、ということが含意されている。そこで、(b)私としての私の発見がある。「マック店員」の話をつづければ、私とはマック店員になろうとする何者かである。あるいはよい日本人であろうとする何者かである。つまり、私は「マック店員」でも「よい日本人」でもないのである。(c)において、私はマック店員ではないにもかからわず、マック店員であろうとする自分を見出す。マック店員にはマニュアルがあり、「スマイルください」と言われたらにっこりと笑顔を変えなさくてはいけないし、一番下のクルーはマネージャーや社員の言うことをきかなければならないetc。私はマック店員になりきれれば、なんの苦悩もなく、機械のごとく、それに従うだろうが、「従う」というところにやはり私はマック店員以外の何ものかであるという意識を持たざるを得ない。そうした均衡のうえに私は存在しているのである。もし(a)(b)が同一のものになってしまい、そこになんのシコリもなくなってしまえば、それは単なる機械と同じである。「私は日本人であるから日本人だ」という自同律にはそうした危険性があるのである。それは、奇しくも、マクドナルドに象徴されるようなアメリカ的画一個人主義と共産主義的恐怖政治の悪い所どりの思想なのである。水島の意見というのは、きわめて象徴的だと思う。