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2023-03-14

漠然とした。多分私の人生の話。

急に昔の話をしたくなったので衝動ではてぶに登録した。

多分春だからだと思う。これは花粉症の症状の一つ。

そもそも、真夜中にこのブログを開設するあたり、私はもう正気じゃない。

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漠然とした。多分私の人生の話。

5歳の頃、家族旅行アメリカへ行った。国外旅行へ行くのはこの20数年間でこの一度だけ。知らない言語に囲まれて、知らない文化に触れた、初めての経験

私はそれまで、父親よりも背の高い人間がこの地球にいるなんて知らなかった。

幼稚園キリスト教系だった。でも園の中に十字架とかそういう「偶像」がなかったので、私が日々の中に神の存在を感じる機会は非常に限られていた。お弁当を食べる時になると手を合わせて祈りを捧げた。「神よ、日々の糧に感謝いたします。アーメン」。この時間くらいじゃないだろうか。

先生たちは定期的に聖書の話をしてくれたけれど、当時の私には理解できなかった。そして多分先生たちも私たち理解することを求めていなかった。卒園式で綺麗に装丁された聖書記念品にもらった。字が読めるようになり、心に哲学概念が沸いた年齢になった時に初めて読み返した。そしてようやく何かしらは理解できたと思う。多分。…。時間差があるね。

でもこれだけは覚えているのがある。園長先生という方は非常に柔らかいお話の仕方をなさる方だった。わかるようなわからないような、でもそれはそれとして言葉がスーッと染み込んでいくようなお話をなさっていた。

先生はいつもこうおっしゃっていた。唇に歌を忘れずに。光の子として歩みなさい。

前半は知らない。でも後半は聖書の一節だ。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意正義真実とが生じるのです」

小学校の頃は全く覚えてない。

中学時代勉強はできるような、できないような子供だった。

英語音楽国語だけできた。でも国語担当教師と年がら年中喧嘩してたので評定に定期テストの点数が反映された記憶がない。

英語は楽しかった。小さい頃漠然定型分だけ覚えて旅行に行ったあの「英語」が、形ある理論知識として目の前に再び現れた。いうなれば、旧友との再会のような。互いに少し成長していたけれど。

音楽は、心の拠り所を得るために気まぐれで合唱部に入ったら急に歌えるようになった経緯がある。何それって話なんだけど、私もよくわからない。ただ、ある日ある時急に突然「声の出し方、響かせ方」が分かった。2年生の時、ソプラノソロパート担当させてもらった。嬉しかった。あれは、私が自分の実力だけで勝ち得たもので、そして私にもできるものがあるのだという証明になったから。音楽先生卒業式の日私の母をとっ捕まえて手を握ってこう言ったそうな。

お嬢さん音大に行きたいと言ったら、どうか止めないで入れてあげてください」と。

周りの子供たちは「自由」が増え、レンタルショップビデオを借りた。麓の街に行って、友達同士で服を選び合った。私にもそんな自由が欲しかった。漫画の貸し借りをしてみたかった。アニメ情報を共有してみたかった。

ある日、一緒にピアノを習っていた友人から楽譜を借りた。

彼女は「あなたが弾きたい曲が入ってる楽譜、家にあるから貸してあげる。家まで来て」と言った。彼女の家は私の家とは少し離れていた。やや逆方向寄りなのだ。でも私は彼女について行った。そして楽譜を借りた。

家に帰ると母は非常に機嫌が悪かった。ただいま、という挨拶に対して返ってきたのは「どこほっつき歩いてたわけ?」だった。確かに帰宅時間は通常より20分ほど遅かった。

正直に話した。友人の家に寄って楽譜を借りてきた、と。楽譜没収された。

ちなみにその友人は時々漫画も貸してくれていた。しかし母はそれを目敏く見つけて隠した(母はよく私が学校にいる間に私の部屋に入って物を漁っていた)。そして3週間ほど経った頃にクロゼットから出してきて「あの子に返してきなさい、今すぐに」と言ったのだ。

少し考えればわかること。この家は、何かが少しずつ狂ってる。

私にも自由が欲しいとゴネた事がある。他の女の子みたいにガーリーな服(当時は少し露出があるのが流行っていた記憶がある)が着たい。髪を伸ばしたい。休日友達とお出かけをしたい。バレンタイン友達チョコレートの交換をしたい。

ことごとく跳ね除けられた。

おしゃれがしたいなら家でやらないで外で自己主張して頂戴。学校お菓子を持ち込むのは校則違反でしょ?(それをバレンタインの日だけは黙認されてるから私にもやらせてくれと言ったのだが。)お出かけして遊ぶ暇があるならピアノ練習して勉強したらどう?アンタは目の前の遊びを取って将来を失うつもり?それに私たちがアンタのピアノ習い事にどれだけの月謝を払ってると思ってるの?その分ちゃん練習してよ。

そんな言葉で私の心はポッキリだった。でもその時はまだ幼かったので「高校生になったらきっと変わる」と思っていた。

ちなみに上記言葉を言われた後で私は一度だけ地域お祭りに友人と行ったことがある。

一言で言えば、つまらなかった。目に映る何もかもがくだらなく見えて、そんなくだらないものにはしゃげる友人たちが寧ろ一周回って羨ましく思った。その日の私はピアノ練習もしなかったから、鍵盤が恋しかった。結局皆より一足早く帰宅したはずだ。

…そんな私の感想に、母は非常に満足げだった。こればかりは癪にさわる。

高校私立女子校入学した。良い大学に行くことだけが目標だった。それさえ達成できたなら、きっと私の人生は報われると思った。おしゃれらしいおしゃれをしなかったことも、友人と行ったお祭りを楽しめなかったのも、バレンタインの日にお菓子作りをしなかったのも、全部全部。

周りの友人は有名らしいアイドルにどっぷりとハマっていた。週末になれば電車に乗って遠くへ行き、グッズを買い、ブロマイドを買い、皆で見せ合って楽しんでいた。

街のお祭りを楽しめなかった女は、アイドルの良さもわからなかった。女の子たちが「ねえねえ、このひとカッコいいと思わない?」と見せてくるのを適当に「ほんとだ、カッコいいね」と返した。

ちなみにミュージカルをやる部活に入ったが、言わずもがな母は私がそこに入部するのを死ぬほど嫌がったし、門限は昔よりもシビアになった。当然遊べなくなったし、部活も毎回早退していた。それは舞台本番の1週間前でも変わらなかった。先輩も同期も私の家の事を理解してくれていたことだけがいである。あの人たちは皆優しかった。でもその優しさに永遠に甘えるわけにもいかなかった。当時私はスマホを持っていなかったから「今日だけは門限を伸ばして」と公衆電話から家に電話をかけた。「それなら家に入れてやらない」とだけ返されて電話を切られた。私は職員室の前で泣きながら「どうしろって言うんだよ!」と叫んだ。

その部活は1年生の冬に廃部になった。まあ色々あったのだ。晴れて私は本当に勉強しかすることの無い暇人になったのである

英語にのめり込んだ。きっと海の向こうの人たちが喋ってる言語は私の住む世界を広げてくれると思った。

音楽は私の心の拠り所だった。親には「私たちがアンタのピアノ習い事にどれだけの月謝を払ってると思ってるの?その分ちゃん練習してよ」と言われていて、それでよくピアノが嫌いにならなかったな、と思わないでもないが、それはひとえにピアノ先生の教え方が非常に上手かったからだ。あの先生は一生の恩師と言っても良いだろう。ピアノ技術だけでなく、音楽を体全体で楽しむことの大切さを教えて下さった。

必死勉強して、そこそこ良い大学に受かった。当時は大学入試の定員規定が厳しくなったばかりだったか絶対浪人すると思ってたけど、受かった。第0志望、希望希望通りの学科

高校生の頃(というか小学校中学から)ずっと母は私に「アンタみたいに頭の悪いやつは、私の時代なら商業高校に行ってたよ。今はいいね、アンタみたいなバカでも人並みに高校に入れて受験できるんだからさ」と言っていた。

何度も娘をバカだと言わなくて良い。言われなくても本人がちゃんと分かってる。

大学は色々な地域から色んな人たちが入学していた。

同じ地域に住み、同じ景色を見ていた小中、その延長線上にあった高校とはまるで違っていた。私のような実家住まいもいれば、一人暮らしで頑張る人もいた。

でもこれだけは断言したいが「明日屋根心配しなければならない人」は私以外あの空間には存在しなかった。

大学講義は遅くて6時に終わっていた。母は言った。

「7時半には返って来れるでしょ」

まり、7時半が門限だということだ。大学生の、門限が、7時半。

あんまりだよ、と泣いた。父を説得しようとし、父方の祖母を説得しようとした。大学生なんだよ、大人だよ?と。でも父は母のイエスマンだったし、祖母(と叔母)は如何せん価値観が若干古かった。「7時半は十分遅いよ、お母さんは譲歩してる方だと思う」と言って譲らなかった。

遊ぶことはなかった。化粧もしなかった。ファンデーションだけだった。化粧なんてね、若いうちは要らないの。それが母がいつも言うことだった。

少し考えれば分かること。あの時の母は、私を完全にコントロールたかったのだ。

大学2年生の時、母に内緒彼氏を作った。

その年の秋、私はこれまた突然、手首を痛めた。関節炎だった。ピアノの弾きすぎ、PCの打ちすぎで利き手ではない左手に過度の負担がかかったらしい。もうピアノは弾かないでください。と言われた。

あの時の絶望といったら。私は身近な人を突然亡くした経験はないけど、多分親友がある朝突然死んだらこういう気分なんだろう、と思った。うまく使えない左手、もう弾けないピアノ。虚無感、なんて言葉じゃ補いきれないものだった。

私にとってピアノはそれほど大きな存在だった。嬉しい時も辛い時も一緒にいたのが、ピアノであり、音楽だったから。

その時急に現れたのが昔の知り合いだった「彼氏」だった。

少しずつお互いのことを話す中で私は小さな打ち明け話をした。休日が大嫌いなんだ、と。

当時母は土日のたびに癇癪を起こしていた。やれ私の歩き方が気に食わない、やれ私の話し声が気に入らない。どうしてアンタは私の気に入るように振る舞わないの?と。当時私は土日の早朝6時〜9時でコンビニアルバイトをしていたので、その早朝勤務の後に母の喚き声を聞くと言うのはどうにも「来る」ものがあった。

さて話を戻すと、私の打ち明け話を聞いた彼は私を週末のお出かけに誘った。電車の向こうの街でかれこれこういう催し物があるらしい、行ってみようよ。気分転換にさ。と。そういう具合に。そして私はその誘いに乗った。

母には「友達と出かけてくる」とだけ言った。情報は不足しているかもしれないが、嘘はついていない。少なくとも当時は彼はまだ「友達」だった。

そしてその友人は彼氏になった。

から告白された時、私は一種のチャンスを感じた。きっと私は自分証明できるとお思った。私の人生は私のもので、私の人生の決定権は私が握っているのだと。

しかも、当時の私が心から欲していたのは「絶対的な安全」だった。そして痛めた手首によって失われた「心の拠り所」だった。

きっと彼ならそれらをくれるだろうと思ったので、私は彼の告白同意した。

まりにも、身勝手


彼はそれ以来ちょくちょく私を外へ連れ出した。

その度に私はまるで世間一般に溶け込んだ気分になっていた。世間一般の「普通の子」になれたように思った。そしてその時私は心から喜んだ。「生きてる!」と無邪気に思えた。

私が勝手に出かけ、挙句彼氏まで作ったので、母は怒った。最初父は「別にいいんじゃないか?」と言っていたが、母があまりにも怒るので父も手のひらクルリと返した。

彼の名前学歴を言わされた。ひどく侮辱された。

母は私から家の鍵と財布の金、銀行カード没収した。お前に鍵と金を渡すと碌なことにならない、と言いながら。(ちなみにこの銀行カード、取り返したら今度は月に3万、家に入れる事を要求された。当然今度は私の生活費が足りなくなってバイトを増やしたら、要求される金額がまた増えた)

母は、アンタがどこへ行ったか全部わかってるんだからね!と怒鳴った。最初意味がわからなかったが、どうやらあの時の母は私をスマホGPS機能で追跡していたらしい。それが判明した時、私は泣いて彼氏に詫びた。どうしようもないものに巻き込んでしまったと思った。ざっくり言えば、母のやったことは犯罪に近いのだ。

彼は「気にしてないよ」と言った。

私は「いや、そこは気にしてくれ」と思った。というか、そう言った。

彼は「お前がかわいそうだ、どうにかして救いたい」と言った。

その心はありがたかったが、ありがたがると同時に私はそれを拒絶した。

「かわいそう」と軽々しく言えた彼はどこまでも温室育ちだった。4人家族ペット付き、平均的かそれよりも幾許か上の環境で、ぬくぬくと、二親に愛されて育ち我らが王子様のような扱いを受けてきた彼が言ったのは、永遠に「かわいそう」な立場にはならないであろう人間の、無意識傲慢だった。

「救いたい」と言った彼は、きっと人間人間を救えると信じていたのだろう。確かに信じるものは救われるとは言うけれども、彼氏とはいえ第三者立場人間他人を救えるのなら、今頃イエスキリスト聖母マリアもこの世から用済みだろうし、仏典聖典も要らない。でも世界にはそういうもの存在するのだ…。彼はそれをちゃんとは理解していなかった。

私の状況も、世界の状況も、「聞いて知ってはいる」けど「理解」はしていなかった。

彼氏母親という人は、息子から私の家の状況を聞いて、こうコメントした。

「あそこの大学の子だと聞いて安心していたのに。それじゃあ全く、訳アリのお嬢さんを拾ってきたってこと?」

…ってうちの母がいうんだ、面白いよな、訳アリだなんて。と彼は笑いながら言った。少なくとも彼の中で「訳アリ」という言葉一種ネタとして消費されたらしい。

私は彼氏ができた、とか勝手に出かけた、とかそういう「罪」で度々家を追い出された。そんな時私を匿ってくれたのは大学の友人たちだった。

追い出されるたびに顔色が悪くなる私を見て友人は私の目を閉じさせ耳を塞がせ、その間に家中刃物という刃物を知らない場所に隠した。彼女曰く「今のアンタに刃物を見せたらすぐさま死んでしまいそうで怖い」。当時の私は一体どんな顔をしていたのだろう。

結局、私は彼と別れた。

彼は普通の家で育った普通人間だった。そんな温室の彼を「私」という人間に巻き込み、異常なものを見せ、その一部だけでも経験させてしまたことは、私が負うべき「罪」のように思った。そして、そんな異常な場所から彼を一刻でも早く遠ざけようと思った。「かわいそう」という言葉も「訳アリ」という言葉も、ネタとして理解できる世界に戻そうとした。

それが正しいかどうかは本当にわからない。でも身勝手だったとは思えど、あの時の私にできた「最善」の判断は、それだった。

どうか彼には「普通」の彼女ができていてほしいと思う。そして、私の視界に入らないところで幸せになってほしい。

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大学3年生になり、2つの喪失、「普通」の概念について考える日々、加えてコロナ禍。最悪だった。それでも秋までは保った。そして秋になって体調を崩した。

感情がわからなくなった。楽しいとか、嬉しいとか、悲しいとか。

指先から血の気がひいた。四六時中まるで体全体が後ろから引っ張られているような感覚だった。

ほんの少し正気に戻ったその瞬間に病院に行き、うつの診断を貰った。ついでに精神安定剤も貰った。(本来抗うつ剤をもらう予定だったが、そういう精神に効くタイプの薬を飲んだことがなく不安だったため、安定剤からスタートになった)

家族はまるでお手本のような否定言葉をぶつけてきた。

仮病だ、とか、考えすぎだ、とか、甘えだ、とか。診断をした医者はヤブだ、とも言った。そして私から保険証現金没収した。よって私は途中で治療が止まっている。


正直、大学3年4年をどう過ごしたか記憶がない。

ちなみにかの「原神」を始めたのは4年の最初だったか、それくらいだったはずである。(タブレットデバイス様様で、こういうゲーム自分スマホに入っていれば「実体」が無いので、両親は私が流行りのゲームを始めただなんて夢にも思っていない)





うつの診断を受ける前だったか後だったか、とにかくその辺りの時期に私は数回手首を切った。そのうちの一つだけ、鮮明に覚えている。

衝動に任せて切って、うっすらと血を滲ませた。最悪だったのはそれが金曜日で翌日にはバイトがあったということだ。(※この時は体調の限界やらシフトの都合やら色々なものが重なって、私のシフトは早朝6時〜9時ではなく、9時〜12時に移っていた。そこには私の幼馴染の男の子も一緒に働いていたので、早朝から働いていた時よりは幾分気が楽ではあった)

さて左手首を切って血を見て1時間、なんとなく冷静になった時に気が付く「待てよ、明日バイトじゃん」は本当に最悪だ。急いで薬をぬり(強めのステロイドだった気がする)、ガーゼを乗せて包帯を巻いた。

翌朝幼馴染の彼は「それ、どうしたんです」と聞いてきたので、私は笑って言った。

「関節炎の湿布


この幼馴染、私が怪我をしたとなるとまるで問診か何かのように問い詰めるのである。どこで怪我をしたの、どうして怪我をしたの。その時何があったの、いつもと変わったことでもあったの。

手首は数回掠った。そしてもし、もう一度でも金曜日にそれをやった上で「どこで、どうして怪我をしたの」と問い詰められたら、私は誤魔化せる自信がなかった。

そもそもコンビニアルバイトなんて、いつヘルプ要請が入るかもわからないものなので、それが金曜日じゃなくても、手首を切るのは普通にアウトだった。いつか誤魔化せない日が来ると思ったし、その調子で切ってたら取り返しのつかない事になるのは目に見えていた。

それ以来、手首を切るのは自制している。少しばかり、褒めてほしい。

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先日、この幼馴染と少しばかりの遠出をした。

出かける予定を作ったことを正直に母親に白状し、許可を得た(これがまたハードルが高かった。)母は私たち電車で行ったと思っているが。

私は彼が運転する車に乗って遠出した。





帰りの移動だった。彼は、夜の暗闇が一番好きだと言った。

私も夜が好きだと返した。夜は良いなと思う。あの暗闇も、程よい明るさも好きだ。

その日すっかり疲れてしまっていた私はぼんやりと、彼に少しばかりの昔話をした。

まだ私が早朝6時のバイトシフトに入っていた頃、5時に起きて支度をしていたから冬の早朝は真夜中みたいに真っ暗だったのだと。そして少し季節が春に近づくにつれて日の出時間も早くなり、西の空は暗く、東の空は明るくて、私はその真ん中に立っているような錯覚を覚えたのだと。まるで、昨日と明日の境目にいるような気分だったと。

ある時私は親に家を追い出されて、月曜火曜ならまだしも金曜日に追い出されたのなら翌朝のバイトは始発電車に乗らないと間に合わなかった。まだ空が真っ暗な時間にそっと友人の家を出て、電車の窓の外がうっすらと明るくなるのを見ていた。

そう言った。話し終えてからようやく自分が一体なんの話をしたのか、一体彼に何を聞かせていたのか気がついた。

変な話してごめん。私の家の騒動を知ってて私を家に泊めてくれた友人くらいしか知らない話だ、多分他人に初めて話した、幼馴染の女の子ですら知らない話だ…。と途方に暮れながら謝罪したところ、彼は「そうだろうね」と言い、こう続けた。

「よく、怪我しませんでしたね。危ないでしょう、色々と」





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今も私は「普通ってなんだろう」と考えている。

家では相変わらず母がつまらないことで喚き散らしているし、私の髪の一本一本にすら執着し干渉している。そして相変わらず父は母のイエスマンだ。


幸せになりたいな、と思う。

でもまず私は「幸せってなんだろうな」から思考を巡らせなければならい

そもそもはいまだに感情の生成についての問題解決していない。

たぶん私という人間も私の家族も、私の家の一族も何かしらが「おかしい」のだ。皆が皆で、それぞれ違うベクトルで狂ってるから、その異常性に気がつきにくい。

でも気がついた人が気がついた時に「終わらせなければならない」。母は自分自分母親と絶縁した。もしかしたらそれはいつか来る自分未来だと思う。

それはそれとして、もし誰かが私の幸運をほんの少しでも願ってくれているのなら、多分、私はまだ幸せだ。

2023-03-13

anond:20230311224417

増田さん…書いてある症状は散々トラバでも果てブでも、はてはTwitterまとめサイトでも指摘されとるけど、中年限界独身問題じゃなくて鬱の症状だよ…。

いや、厳密には中年限界独身の影響もあるけど、多くが鬱の症状だと思う。

こんな時こそ、お休みをとって、ゆっくり時間をとって、以下の参考図書を読んでみてもらえるといいな。

(1)細川貂々ツレがうつになりまして。

(2)田中圭一うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち』

(3)上野千鶴子おひとりさまの老後』

(1)(2)は増田さんが仮に鬱だと診断されたら読む本。

それぞれ、バリバリ現役だった男性が急に鬱で何もできなくなって苦境に陥ったけど、妻や家族サポートを得て鬱から復帰したエピソードが紹介されている。

増田さんも今からでも結婚したりすれば、鬱から抜け出すことができると思う。

若い婚活してたって言うけど、今からあえてもう一回婚活を経て結婚してみたら、人生好転するかも。

もし鬱じゃなかったとしても、結婚しなくてもいいかなって思っても、(3)はぜひ読んでみて欲しい。

結婚という選択をしなくても、一人で老後まで力強く生き抜くためのヒントがちりばめられてる。

苦しい時は、先に同じ経験をした人の記録から学ぶのもいいと思う。

FIREに夢持ってる人に現実を突きつけるのも申し訳ないが、少子高齢化に進む日本で、「働かない老人」の人権というのはどんどん弱くなっていくと思うよ。税金は上がるし、年金は減る。よく言われるように、不動産経営のような不労所得の旨みもどんどん減ってる。法律はこれからどんどん更新されていくので、「今のルール」で老後数十年を予測するのは難しい。

「だから真面目に働け!」とか言うつもりもないので、例えば物価の安い海外に逃げちゃうというような解決もあるとは思う。逆に言えば、それくらい思い切った計画じゃないと上手くいかいかも。「いっぱい貯金すれば働かなくても生きていけるでしょ」くらいの甘い見通しだと後悔することになりそう。


まあ、実際はFIREなんてするつもりなくて、「あと〇年頑張ったらFIREする!」を生きがいに結局定年まで働く人もいるだろうけどね。それはそれで賢い生き方だと思う。

anond:20230311224417

ブコメでも何人も指摘しているように睡眠(の質)に問題がありそう

睡眠時無呼吸症候群とかが具体的に疑われる

まあ、自分いびきかいいるかどうかは、独身男性じゃわからんわな

睡眠改善して疲れを取るべき

うつの方もなにか手を打つ必要がありそうだが

anond:20230311224417

趣味が突然楽しめなくなった

 そういうときもある

食事が辛くなってきた

 まったくない

・体が動かない

 ちょっとある

・夜中に目が覚める

 ある。が、悪夢は時々で主におしっこに行きたいから目が覚める

・朝の目覚めが絶望

 これは本当にある。休みの日はいいが、仕事の日(特に月曜日)がしんどい

 スペックあんたと同じくらいで、あんたがうつ病なら、おれはまだギリうつ病じゃないな

 まあ、独身中年は狂う、その要因はうつなんだろうな

 俺も独身中年は狂うっていう言葉意識しだしたところだった

 40超えたらやばいちゃうかって気はしてるけど

anond:20230313154503

誰も心配してなくて、うつ理由として加齢という誰にも起こることを挙げて不安を煽ってる元増田にキレてるだけだよ

anond:20230313141447

この増田以外にも「これは中年関係なくうつ病だ」と言ってる人たちを見て思うのだが、うつ病とミドルエイクライシスってそんな明確に切り分けられるものではなくね?

追記

すみません、この増田は分離はできないけど、とりあえずうつっぽいか病院行けって話でしたね

anond:20230311224417

普通にうつだと思う。これが加齢による衰えと絞っていてほかの原因を模索できないあたりも思考が狭まるうつ特有の症状だ。

私も20代の時にもほぼ似た症状を経験し、心療内科受診したらうつと診断されて休職した。

まずは増田健康回復されることを願う。

anond:20230311224417

これは高齢独身で狂ったのではなく、色んなことを真面目にやりすぎてうつ病になりかけてるから医者に行け。

症状が全部うつの症状だよ。

anond:20230313115511

どういうつもりって聞いたら満足する?

 

日本を滅ぼすつもりだ、とか?_

でも5類にした科学的根拠ってないんでしょ?

世界的な情勢見て5類にしないと世界の中で社会活動が滞るから変更するんでしょ?

岸田政権っていったいどういうつもりなんですか

anond:20230313095256

35歳(若者)のうつ病患者がただのうつ症状を中年危機の話にすり替えホッテントリ載ってるんだからお前もそれくらいのがめつさを見せて増田をバズらせなさい

anond:20230311224417

それ普通にうつ病か何か病気だと思うので、普通に病院行ってください。ただの加齢だけのせいじゃないです。

うつだと正常な判断が出来ないので「俺は正常でこれは加齢のせいなんだ」と決めつけてしまいがちですが、客観的に見て元気な35歳の状態からは程遠いので、まずは病院心療内科でもいいし、人間ドックおすすめ。休んでください。

2023-03-12

東京お土産とは(修正済み)

東京に出てきたばかりの地方出身者にとって、東京土産はなかなか難しい。

正確にいうと、味に小うるさい家族・親戚がいる場合には特に難しい。食に無頓着な人向けには、東京ば○ななど、東京名称についた土産でも買っておけばいい。

しかし、舌が肥えた家族・親戚向けには、帰省の度に頭を悩ませてる。

これが東京から買って帰るべき個人的オススメの「東京土産」だ。


1)ヨックモックシガール(港区南青山

言わずと知れたお菓子定番。まず、嫌いな人がいない安牌。本店港区南青山なので正真正銘東京土産と言える。

ただ、全国のデパート販売されているため、誰でもいつでも食べられるのが、それでも意外に買わないから喜ばれる。


2)東京3大どらやき東京3大たい焼き

東京住まいが長くなると、どら焼きたい焼きの食べ比べをすることになる。

私は、うさぎや派で、かつ、柳屋派。うやぎやは賞味期限がその日中と厳しいが、うさぎやどら焼きはずっしり重く、水分が多く含まれ証拠でうちの家族評価は高い。

うさぎやは、その日中に食べてもらうがある。東十条の草月も1個の値段が安くて独特な見た目と味で美味しい。一方、たい焼き地方への持ち帰りは相当厳しい。


3)赤坂しろたえのチーズケーキ

東京土産定番中の定番大人が好きな味。チーズケーキがあまり好きでない人も食べられる人多し。1カット小さいが十分な食べ応えあり。

その日中に食べてもらうつもりで持って帰る。でも、翌日までは食べられる。



番外編

1)京都お菓子

東京土産に味を求めると買う手間がかかる。行列必至なところが多い。そこで、東京土産はハナから諦める。

京都お菓子なら、味が保証されているし、東京和菓子なんてどれも洗練さに欠ける(と思う)。


2)ピーエルマルコリーニなどのチョコレート

最近では店舗も増えたが、地方在住の人にとってピーエルマルコリーニなどの店舗はなかなかないので重宝される。



NG

1)ひよこ

福岡土産なので、東京の人は福岡土産として持っていかないこと。


2)京都へほかの地域和菓子土産

例えば、東京和菓子京都へ持っていくことは、京都の人からすると、喧嘩を売っている・挑戦しようとしてきている、と思うらしい。

面倒なので、同じ土俵では争わず洋菓子を持っていくべし。

6年使うつもりで高いランドセル買う親はアホ

一番安いランドセルを1年おきに3回買うか、安いのを3つくらい買っておいて卒業時に余ったら売るつもりのほうが安く済む。

6年思い出のために本革とか買う親は目も当てられないアホ。

ランドセルはただの道具。

anond:20230312011918

自分の方が遊ぶつもりでマッチングアプリやってみたら?

気になる相手相手にはされるなら向こうのほうが自分のこと好きな相手一人か二人釣れるでしょ

うつときにそんなんやると危ないか

2023-03-11

機能実用性は一致しない。山屋のゴアテックスを使ったような高性能のアウターも、ハード環境でのギアではなく町中で着る「実用的」なリアルクローズとして張り合うつもりなら、ユニクロの服には到底敵わない。趣味性では軍配が上がるとしても。

ファッション評として、アクロニウムのふざけた値段の服の機能美を「高機能」と呼ぶのは分かるけど、「実用的」と呼ぶのは違うだろって思う。値段も実用性の内なので。そして世の中の多くはそんな服をポンと買える金持ちではないのだから

anond:20230311085306

以下のくだりが、とても印象的だった。

その時にわたし出身地名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。

その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分神戸出身でさ」と言われた。

恥ずかしい話、「神戸出身から」と言われて私は何も分からなかった。

私は自分地震津波被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。

「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。

その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき

上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウム事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて

やっと気づいた。


ひとの災害経験というのは、ほんと様々で、一概にかわいそうな被害者としてのっぺらぼうな面をみるわけにはいかないよね。

自分けが被害者面していたかも、という気づき。こういうちょっとワンクッションおいて、時間が経って考えること、こういうのが大切なんだと思う。

ただ、被害者という言葉共通項を見出したとしても、阪神淡路大震災経験したひとと、東日本大震災経験した増田がこうして、何かのきっかけでお互いの体験共通部分に触れようとしたときでさえ、お互いが経験したものの奥行や背景は全く違う。でもそれは、もっと言葉を交わさなければみえてこないもの

多分、増田上記言葉を交わしたとき、その手前でふと立ち止まって考えたんだと思う。

ひるがえって自分の親戚の話。自分語りをトラバに混ぜるのはなんだかな、と思うところもあるが、テーマ性質上書かせてもらう。津波から数日後、東北もっとも大きな漁港ひとつで、親戚が経営していた漁業関連会社生産工場が全滅したとの一報を受けた。一方、杜の都に住む息子娘世代は全員無事だったという朗報にほっとしたことを思い出す。

しかし、それよりも震災から半年くらい経って、父が一言つぶやいた言葉のほうが忘れられなかった。

父は東北我が家家系からすると、よそから婿養子だった。

その父が他界した親戚をふりかえってぽつりとこうつぶやいた。

「あれは天罰のようなものだったんだろうね 」と。

期待していない予想外の冷徹つぶやきに私は動揺した。

他界した親戚一家は、さかのぼると、昭和8年津波の前から漁港生計を営んでいた。1933年津波で多くの財産を失った親戚は一から再建する際に、同じ場所でやり直すのはやめるべきだと再三にわたって、周囲から助言されていたという。しかし、結局、同じ場所人生をやり直し、次世代が引き継ぎ、そして次第に事業規模が大きくなり、津波記憶が遠ざかっていくなかで、そのまた次世代の方々が財を成し、地元の名士として羽振りよく、親族のなかで存在感を持つに至る。そんななかで、半世紀以上前東京に出て行った東北の令嬢が結婚前の父と出会う。

大切な令嬢(大地主の長女)をどこの馬の骨ともわからないよその県の小作人末っ子風情に嫁がせるわけにはいかない、という大反対の嵐。本家からなにから親戚中の冷たい目線。結局、結婚は許されて、父は母の家系に婿として入ることになるのだが、その時に受けた屈辱を忘れられないらしく、東日本大震災で全滅した親戚に対して、天罰、という言葉自身のつらみを含ませて表現したのだった。

父にとっては、かわいそうだね、では決して片づけられない感情

個人的には、なにより、貧しい者も栄華を誇った者も等しくなぎ倒した大津波の、客観的な、物理的な力に圧倒せざるを得なかった。

たとえ、誰と震災経験の話をするとしても、このようなパーソナルヒストリーの違いによる温度差は避けることができない。そう思っている。

震災経験していようがいまいが、あるいは同じく焼け出された隣人でも同じではない。大地震大津波破壊力を前には、あの家は無事だった、無事でなかった、そういうさまざまな経験がそれぞれにあるにすぎない。

こうしたファミリーヒストリー視点でそれぞれの思いがある一方で、

上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウム事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて

やっと気づいた。

という上司言葉。そして、「やっと気づいた」という言葉。このつながり方は、大変興味深い。「あの年は~」というのは個々の経験の違いを超えた、歴史を振り返った俯瞰的な総括を含んでいるからだ。1995年という時代、そういったマクロ視点での気づきをもたらすのも災害だ。

そして、それが何かの理由で、自分自身ファミリーヒストリー神戸出身者とのちょっとした会話と結びついたのだとすれば、それは自分ある意味「かわいそうな」私的な思いを、歴史の一コマなかに着地させようとする、そういう覚醒だったのかもしれない。

実をいうと、よりマクロ視点で、それぞれの災害にはそれぞれの社会的な背景があり、その脆弱性被害を増幅させている、という視点最初に提起したのは、阪神淡路大震災だった。

1990年代以前は、災害被害者というのは、災害管理文脈で救援対象として、比較ステレオタイプに捉えられていた。しかし、その認識を大きく変え、都市社会構造脆弱性に関心が高まったきっかけが1995年震災だった。こう書くとなにやら上から目線風だけど、阪神淡路大震災自分仕事として防災世界に入るきっかけを作った。

ざくっとまとめると以下のような歴史神戸にはある。

神戸都市としての成り立ちは、明治の初め、神戸港が開港された時から始まる。以降、港湾労働者が多く流入低所得層脆弱埋め立て地や条件の悪い内陸部へ集住するようになる。他方で、20世紀鉄道時代に入ると、阪神間交通網が充実し、六甲山ろくに高級住宅地が開発されるようになる。高度経済成長期には六甲の開発で切り崩した丘陵地住宅地建設、その残土で海岸が埋め立てられ、工場用地や港湾建設が進められていく。おりしも公害問題が深刻化した時代都市生活環境はますます深刻化していった。そんななか、オイルショックを契機に産業構造の転換という時代の変わり目を迎え、神戸産業シンボルであった造船、鉄鋼は停滞してゆく。それは関連する神戸の零細地場産業を苦境に陥らせ、今度は人口流出が起こり都市部の空洞化が始まった。都市部に残っているのは、流動性の低い層つまり高齢者低所得者ばかりとなった(インナーティ形成)。

これに対して1980年代神戸市の政策的な対応としては、財政問題の打開が先行した。バブル前の当時の考え方では、大規模開発こそが地域経済再生をもたらすと信じられていた。埋立地の利用による、ポートラインラド、六甲アイランド建設物流機能強化のための明石大橋建設最先端技術産業の誘致、ニュータウン建設など、新たな付加価値の創出が事態打開の切り札だった。

その一方、社会脆弱層への支援行政による市街地再生は後手に回っていた。

オイルショック後の産業構造の転換で取り残された低賃金労働者の町、老朽化の進んだ木造住宅密集地域長屋建ての住宅の占める割合の多い市街地長田区スラムのようなオールドタウン)は新陳代謝が進められなかった。地震対策の上でも洪水対策の面でも取り残された街となった。どのような地域であったか番町地区検索をしてほしい。

このような経済格差脆弱性が生み出された、マクロ構造変動のなかで襲ったのが1995年大地震であり、被害社会経済的脆弱な人々に集中した。暴力団員が懸命に救助活動していたエピソードを覚えている人もいるだろう。そういう街だった。

社会学的な視点でみれば、この地震の教訓として、被害高齢者低所得者に集中したのは、ある意味歴史的必然だ。格差が生み出された背景などのマクロ政治的経済的な動向と切り離せないということだ。

そして、このような格差脆弱性という切り口でみる構造分析は先月発生したトルコシリア大地震でも、当てはめることができる。

このように、可哀そうな存在というのを社会学的に脆弱性として構造的にとらえる、ひとつきっかけは、やはり他の災害を知るということであるし、昔の災害を知るということだと思う。

パーソナルヒストリーとしてお互いに触れあうことで、お互いに違うバックグラウンドにあることがうすうすわかってくる、それもまた、大切な気づきなのだと思う。

また、パーソナルなコミュニケーションが、例えばまさに「通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね」みたいな会話、これが実はマクロ特性を知るうえでも、その人のパーソナルヒストリーをしるうえでに、もっと重要エントリーポイントだったりする。仕事上、ひとから話を聞くときにいつも気に留めていることでもある。

からトルコシリア現在進行形震災について全体状況を大きな視点理解している国際機関よりも、よりミクロ視点で、特定家族地域の人たちにコンタクトがとれる小規模のNGO支援団体に私自身は微力ながら支援金を送付している。たまたまシリア難民支援をしている人と知り合いの知り合いくらいの関係SNSでつながっていたのがきっかけだ。アサド政権物資を止めてしまう現状も現地の声としてより関心を持つようになった。そのほうが確実に、受け取った人の顔がみえ、困っている状況がミクロにもマクロにもわかってくる。自分支援したお金支援先の一家族あたりの支援額(しか第一バッチ)の1/4にも満たないことを知る。こういうことも大切だと思う。

そのように、何かをきっかけに、他の災害に対して接点を持つ機会を大切にしたい。

その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分神戸出身でさ」と言われた。

というのは、居酒屋トイレ洗面所とかで何気なくかわす会話、とか想像していたのだけど、そういうのが大切だよね。そういうのが心の残って覚えている、ということがさ。もちろん完全にひとのことを理解するなんてことはどんなに会話を交わしてもない。でも覚えてさえいれば、そのなぜか覚えていた思いを何かにつなげることができる。その「きっかけ」というのはとても大切に思う。

災害を忘れない、というのはそういうことだと思うので。

若いうちと年とってからで発想がやっぱ違うよね

中年以降、親世代老いて亡くなっていき、死を一番に意識するようになる

その辺で発想の転換があった気がする

人生を拡げるとか手に入れるじゃなく、終いをどうつけるかの方に否応なく意識が向けられる

渋谷区はどういう理由女子トイレを無くしているのだろう

twitterで見ただけでも最低3箇所女子専用トイレが消えて、共用トイレからはサニタリーボックスまで消えているらしいが、誰も排除しないトイレ女子トイレを消すのは本気でどう言うつもりなのだろう。

迷路のようなワクワクする入り口トイレや木の外壁の森の小道などトイレに行くまでに死角を作っていく危険設計が多いのも気になりすぎる。

渋谷区公衆トイレ女性専用が消えて共用トイレ化の理不尽…現地訪問した本誌女性記者違和感とは』

https://smart-flash.jp/sociopolitics/225151

渋谷に行った時に男性トイレ(大便器+小便器)と多目的トイレしかなくてあまりにも驚いて思わず写真を撮ってしまったんだけど、女子トイレを無くす方向って意味からなさすぎる。

ちなみにこのトイレ渋谷区並木橋児童遊園地公衆トイレ。』

https://twitter.com/AZcoAZ/status/1633087272278179840?t=-2gB7v--HSNR-cP_jXuB8w&s=19

今日も所用のついでに鍋島松濤公園に。こちらも女性専用トイレはありません。区はこの公園女性専用トイレが設置できる場所があっても設置しませんでした。私は区長が男女共用を推進する方針にした結果女性専用トイレがなくなったと思います。設置できるところを無くしたのはおかしいと思いませんか?』

https://twitter.com/sudaken_shibuya/status/1633739619601874944?t=ZZIK2ZGg6VHV1MCHupkoSw&s=19

『「渋谷区トイレ環境整備基本方針」は誰も排除しない、インクルーシブなトイレ環境を実現することを目的とした基本方針です。』

https://www.city.shibuya.tokyo.jp/kusei/shisaku/ku_keikaku/toire_2018.html

研修医3年目になる

26歳、研修医学生時代うつ病になって、床と一体化したような日々を過ごしながら勉強して、なんとか国試に受かって今研修やってる。いまも研修ストレスで時々自殺未遂起こして家族に泣かれながら生きてる。

初期研修普通2年で終わるもんだけど、半年休職してたら当たり前だけど終わらなくて3年目も研修医やることになった。職場も忙しいとこから色々融通きくとこに変えた。でも職場に行けない。朝からだが動かない。指先を眺めながら何で動かないんだろうって思う。正直もう死にたい。頑張らなきゃいけないのわかってるしうつの制止症状というより、どこかに甘えがあるって思う。

医者になれば、社会で役に立てる人間になれば、生きてていいと思えるようになると思ってた高校生の頃。でも、そもそも生きてていいかどうかなんてジャッジすることじゃないんだよな。わかってる。全部わかってる。医師免許が効力をもつのは初期研修を終わってからから、なんとかして研修医終わらせたいけど、もうしんどい。無理かもしれん。

基本的言葉は移り変わるものなので、日本語の誤用についてうるさく言うつもりはないが、「犬笛」という専門用語をまともに使いこなせない分際で一丁前に「私は政治に興味を持って生きています!」という顔をしているのがムカつくんだよな。

2023-03-10

【衝撃】現役薬学JDしながら風俗講習士してます!!!感想

前提条件とか思考過程等をすっ飛ばし

たことのないひとには理解できない文章になってます

もっとわかりやすく書けばよかった

すまん


彼女なぉた(かのめなおた)配信まとめ

個人的思い込みから発言も多々含むことをご了承下さい


【衝撃】現役薬学JDしながら風俗講習士してます!!!彼女なぉた】

https://www.youtube.com/live/cRtbeTLrOM4


https://twitter.com/kanomenaota

@kanomenaota


彼女なぉたって誰?


家庭環境が良くなくて

風俗などの夜職経験多くて

診断上は双極性障害

ただのキャラ設定というわけではなくて割りと本当のことを言っている

大学を退学(?)したり復学したりしてる現役薬学


深度がメンタルについてかじった程度だと出せない

リアリティー重視の人向け

あとは引っ張られなさすぎる人が見ると良い

ほどよく共依存してみんな幸せになろうみたいな感じ


復学をした←大学に籍がある、籍を戻すためには本来診断書等が必要なことが多いけど今回は診断書なしで復学できた よかったね


業種解説


したいひと


気持ちよくしてくれる系

箱ヘ、サロン喫茶店扱いなので摘発リスクあり)、出張系、say感


建前はマッサージ

エステ


身体の上の部分だけのやりとり

セクなキャ


配信では触れてないけどキャ○とかコン○フェみたいなライトなところもある、これは広い意味での水かな)


こういうお店初心者店舗あってサービス多めのところからいくのが良いと思う

あとリピートする意志とか指名すると基本的にいいサービス得られるよ

あと男も女もキャッチにはついていくな!

調べてお店は決めていこう


行為したいひともお客様なので搾り取るとかではなく

傷つかないように指摘してお互いにwinwinになろうって話

そういうお店は、男も女もお互いが敬意を持つために色々知っておくといいか


Vのオタク勘違いしがちだけど最大手事務所の方ですら世間では知られてないことが多い

登録者が多いとかそういうことだけではなく、現実世界youtubeでは全然話が違う


あとは


薬とメンタルヘルス

うつとかメンタル友達の話とか近況報告の話

一度使うと手放せなくなるキッチングッズ〜12選〜を増田が見たらこう思った

https://togetter.com/li/2097240

 家事にてを抜いて20年のしゅうとめ増田だよ

ゆで卵 これイタリア製メタリックをもってたけど一度に6つしかできない(画像のはさらに小さくて4つだけ)のでスチームオーブンで8個いっぺんにつくることにした。収納場所取るじゃん。

 ※スチームオーブンスチームオーブンなりに水気を拭いたり多少面倒はある。がどこにしまたかさなくていいのがとにかく楽

・スポンジ 売ってないな…研磨剤がないやつだよね?ああポリウレタンと銀だけなら、よいね。研磨剤のないポリウレタンは意外と少ないのでみつけたらかってみよう。

 ※研磨剤があるものは鍋の内側などのフッ素シリコンの部分を洗えないし、おいておくだけで家族ゴリっとやっちゃうので一切置けない。

 ※一応以前から研磨剤なしポリウレタンはつかってるけど、本当に長持ちはする。黄ばんでボロボロにくずれだしたらさすがに変え時だけど1年半くらいはつかう。

ゴム手袋 つかわないな…食洗器さんおねしゃす… いやトイレ掃除用に一つかっとくかな(いやー出しっぱなしにできないから死蔵しそう)

貝印スライサー 定評ある貝印だけど「人参ラペも軽々」はうせやん…うちは人参シリシリを買いなおした。ほかの人は人参チンしてからやったりしてんのかな。

 昔貝印の千切り用スライサー買ったんだけど、めちゃくちゃ「すぐ詰まった」のでもうつかわなくなったし今となっては捨てたい。洗い方が悪かったのかもしれんけど。

シリコン調理シリーズ ナイロンのほうが耐熱あるよ。みんな大好きティファールとかで売ってる。ゴムへらと油塗りブラシはたわんでほしいかシリコンだけど色が見たいかカラフルノーブランドのをつかってる。

・ゆびさきトング あーもってる。ギザギザはいっててテーブルにおいてもちゃんと先がつかない工夫のやつ。たぶん貝印

ぶんぶんチョッパー 洗うのがひたすらめんどう。食洗器ないのにそれつかうんか… ※バーミックスはたまに使ってる

れいうごはん ノーコメント。48時間保温でも平気なので。

いわき 20年前からもってるけど蓋が違うな。シリコンプラの組み合わせの丸形のやつを引き出物でもらった。

 最近まりつかってないけどイクラ醤油漬け浅漬けは必ずこれ系にいれてるし食洗器であらえて便利。イワキ製品は500mlの軽量カップとボウルも好き。

味噌ポット プラのままつかってるわ… 一応紙はがしたあとラップで密着させてたけど今は上に適当な物をのせるだけでいいやってなってる

・皮むき うーん、研げない刃物は信用しねえんだぜ…人参ジャガイモ大根をむいていて、ちょっとしなびて弾力があるからって包丁がひっかかってしまい切れが悪くてケガしそうだとおもったらゾーリンゲン包丁を関の砥石で研いでる。すまん関。でもするする剥けるもん。

エコホルダー うちツケモノ用蓋つき容器にマック紙袋かしゃりしゃりビニ袋(ゴミ入り)を立ててるわ 紙袋はいいよ、自立するし、水気は通すからいい感じに乾いてくれるし

 

おわり

 

というのもなんだからかに候補あるかなーとおもった

・魚っ平

ねじの缶切り

コルク栓をあけられる万歳型の栓抜き

バーミックスイワキの500mlにぶっこんでガー。生クリームバジルソースがすぐにできる)

シリコン菜箸(竹は曲がる、反る、焦げる)

シリコン油ブラシ

・あまった油入れてすぐつかいきるためのジャムくらいのガラス瓶(からになったら食洗器)

・魚焼きグリルでつかえるトースター用のプレート(パール金属フッ素加工のアルミ

サーティーワンアイスでもらえる試食用とかカップ用のをもってかえってきたピンクミニスプーン(顆粒だしの袋や容器にぶち込みっぱなしにする用)(ながすぎたらハサミで切る)(プリンのは透明なので見失う)

・米を移すときクロソイド曲線のじょうご工学的にはブリッジがおきないダイス?)

・100円ショップカレースプーンくらいのサイズゴムベラ(ジャム瓶とかの中身を全部すくえる)

・100円ショップジップロックをきちんと閉められる指先サイズの白い器具(なかなかみつけられない)

・100円ショップ緑色プラスチックストロー(昔のスタバにいったつもりで自宅でプロテイン飲むために)

2023-03-09

anond:20230308232230

今2TBのバルクHDD5000円くらいで買えるからさっさと母艦うつせ~

でも今AI学習素材につかえそうな量があるっておもっちゃった

肖像権

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