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2021-03-07

anond:20210307154744

のしいよ

はしゃぎ過ぎて反省することはあるが

 

いま1番回答が欲しいのはこれ

知的ボーダー』『重い精神障害』『受動的で依頼心が強く問題解決能力が皆無』

それぞれ誰もが問題だと思っていると思うよ。自分自身上記の該当者でなければ

 

ただそれらの問題に上からじゃなくて対等な人間として向き合うには

なんちゃってじゃない精神成熟度が必要だと思う

下手したら宗教家よりも求められると思う

 

しかし出来ない理由しよりも実現する方法を考える方がポジティブ

どうしたら保護する必要がありそうな人と対等に向き合えるか?

2021-03-05

anond:20210305005512

知的ボーダー』『重い精神障害』『受動的で依頼心が強く問題解決能力が皆無』

それぞれ誰もが問題だと思っていると思うよ。自分自身上記の該当者でなければ

 

ただそれらの問題に上からじゃなくて対等な人間として向き合うには

なんちゃってじゃない精神成熟度が必要だと思う

下手したら宗教家よりも求められると思う

 

出来ない理由しよりも実現する方法を考える方がポジティブなので

どうしたら保護する必要がありそうな人と対等に向き合えるかって投げかけだったらよかったね

 

ラーメンハゲ『上から優しくする人間は、容易に上から殴りつける人間に変わる』

2021-03-01

必読書コピペマジレスしてみる・自分オススメ41冊編(1)

日本文学編(anond:20210222080124)があまり注目されなかったけれども、記憶を頼りに続きを書く。

芥川龍之介河童

どの作品を入れるべきか迷った。古典翻案に見られる知性とユーモア晩年作品にみられる迫害的な不安、どちらの傾向を持つ作品であっても、元文学少年の心をひきつけてやまない。特に歯車」などの持つ、すべてのものが関連付けられて迫ってくる凄味は、学生時代に再読したとき、行き詰まりかけていた学生生活不安と重なり、ただただ恐ろしく、読み終わってからしばらくは寝床で横にならされた。

河童」を選んだのは中高生の頃で、河童の国を旅する要素に心を惹かれたことを思い出したからだ。それは、大学生の頃よりも不安が弱かったからなのか、この作品に潜む女性への憧れと恐れが自分に響いたのか、あるいは架空世界架空言語に魅せられたのか、その理由はわからない。

ハンス・クリスチャン・アンデルセン雪の女王

アンデルセン小説を読んでいると、きっとこの人モテなかったんだろうなあ、ってのがひしひしと伝わってきて、何だったら今晩一杯つきあうよ、的な気分にさせられる。一人寂しいときへの痛みと、女性への復讐心が入り混じっていて、読んでいて心がきりきりとする。

で、この作品の中でひたすら「いいなあ」と思うのは、悪魔の鏡のかけらが心の中に入ると、どんな良いものもその欠点ばかりが大きく見えてしまうという設定だ。

ところで、ディズニー作品価値貶めるつもりはないけれど、原作とは全然違う話に似たタイトルをつけて世界中に広げるのってどうなんだろう。デンマーク人は怒らないんだろうか(「人魚姫だって原作改変をやってるし……。いや、ディズニー普通に好きなんですけど、最近こうした異文化の扱いって難しいですし……)

グレッグ・イーガン祈りの海」

「白熱光」にしようかと思ったのだが、これはエイリアンニュートンアインシュタイン物理学自力発見していく過程が延々述べられるだけの話で、燃えるけれども物理学の基礎をかじっていないとちっとも面白くないのでやめた。ついでに、彼の欠点として「科学者エンジニア最高、政治家宗教家文学者は役立たずのクズ」という態度を隠そうともしないところがある。要するに理系の俺TUEEE小説なのだ。それに、しょっちゅうヒロインから説教されるし、作者はいったいどういう恋愛経験をしてきたか非常に心配になる。

そうしたえぐみ比較的少ないのがこの短篇集で、最初に読んだ本だから愛着がある。それに、上の隠しきれない欠点にも関わらずイーガンが嫌いになれないのは、科学的な真理に向き合う姿勢と果てしのない好奇心がかっこよく、さらに己に課した厳しい倫理に身が引き締まるからだ。

カズオ・イシグロ日の名残り

友人と富士山に登るときに持っていったこともあり、これも自分にとって思い出深い小説だ。これは、大戦後の新しい時代適応できない英国執事物語である

彼の小説の語り手は基本的には何かを隠していることが多いので、いつも歯に物の挟まった言い方をする。そのうえ、誰もが自分の信念にしがみついているものから登場人物同士の会話は勝手な主張のぶつけ合いになり、実のところ会話になっていない。

カズオ・イシグロはそうした気持ちの悪さを楽しむ作家だ。そして、「日の名残り」は自分の本当の気持ちに蓋をして生きている人、やりたいことよりもやるべきことを優先してしまう人に、刺さる作品であるに違いない。

ミシェル・ウエルベック素粒子

彼の作品不快だ。主人公のボヤキは原則として次の通り。俺は非モテから思春期の頃には思いっきセックスできなかった(2023年10月3日追記。「処女と金銭のやり取りなしでイチャラブできなかった」が近いか?)。中年になって女を金で買えるようになったが、ちっとも楽しくない。子供も老人もみんな大っ嫌いだ、バーカ! これはひどい

作中に出てくる西欧文明の衰退だのなんだの宗教への逃避だの一見知的に見える議論も、すべて上記の嘆きを補強するためのダシに過ぎない。それでもなお、なぜオススメに入れたのかというと、人をエゴ抜きで愛することの難しさを逆説的に語っているからだ。そして、自分が愛されておらず、必要ともされていないと感じたとき人間がどれほど孤独とみじめさを感じるかを緻密に描いている。皮肉なことに、これは性と愛について真摯思考した書物である

ただ、どの作品も言っていることが大体同じなので何冊も読んではいない。

ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人

僕がウルフのことが好きなのは、単純に文章が美しいというだけじゃなくて、迷っている人間の頭の中で浮かぶ複雑な段階が細かいところまでよく見えているからだ。例えば親しい人への憎悪が浮かび、言葉ではそれを否定して見せるが、態度にふとこぼれ出てしまう。そうした過程子供が貝殻を見つけたときのように、ひとつひとつ並べている。

そして、意識の流れとでもいうのか、ある人物意識から別の人物意識へと、外界の描写連想を経てシームレスに移行していく感じが、本当に巧みな脚本映画みたいで、やっぱり映画って文学から相当影響を受けてるんじゃないかって勘ぐったりするのだけれど、本当のところどうなのかは知らない。眠る前の自分意識もふと過去に飛び、すぐに現代に戻り、夢想し、眠りに落ちていく。

灯台へ」とどっちにするかこれも迷った。

ミヒャエル・エンデはてしない物語

さえない少年万引きした小説を読んでいると、いつしかその物語の中に取り込まれしまう。これは主人公異世界に行き、そこでなりたい自分になるが(まさに公式チートだ)、その報いとして自分自身が本当は何者であったかをどんどん忘れてしまう。何よりも面白小説なのに、その小説現実に向きあう力からではなく現実逃避の手段となることの危険性を訴えている。主人公が万能チート野郎になってになってどんどん嫌な奴になっていく様子は必見。また、後半で主人公を優しく包み込む人物が、私の与えたものは愛でなく、単に私が与えたかったものに過ぎない、という趣旨台詞を言うシーンがあり、これが作品の中で一番自分の心に残っている台詞だ。

ちなみに子どものころ映画版を見て、原作とは真逆メッセージストーリーになっているのにショックを受け、初めて原作破壊行為に対する怒りを覚えた。僕が大人商業主義を信用しなくなったのはこれ以来かもしれない。

円城塔文字渦」

基本的自分は何かを知ることが好きで、だから知識の物量で殴ってくるタイプの彼の作品も好きである。それでいてユーモアも忘れないところが憎い。フィクションとは何だろう、言葉文字物語を語るってそもそもどういうことだろう、そうしたことをちらりと考えたことがあるのなら楽しく読めるはず。「Self reference Engine」で抽象的に触れられていたアイディアが、漢字という具体的な文字によって、具体的な形を与えられている。

元々SFの人だけれども、最近日本古典にも守備範囲を広げ始めていて、SFが苦手な人も楽しいと思うし、慣れたらSFにも手を出してほしいとこっそり思っている。

遠藤周作沈黙

どうしてこれほどあなた信仰しているのに、手を差し伸べてくれないのですか。せめてささやか奇跡あなたがいらっしゃるということだけでも示してください。そういう人類が何千年、何万年も悩んできたことについて。神に関しての抽象的な疑問は、具体的な舞台設定を与えないと机上の空論になる。

以前も述べたが、ここに出てくる仲間を裏切ったりすぐに転向したりしてしまう情けないキチジローという人物がとても好きで、彼の「迫害さえなければまっとうなキリシタンとして生きられたのに」という嘆きを、情けないと切り捨てることができない。

ただただ弱くて情けない人物遠藤周作作品にはたくさん出てくる。だから好きだ。僕が文学にすがらねばならなかったのは、それなしには自分の弱さ、愚かさ、卑怯さ、臆病さ、ひがみを許せなかったからで、強く正しい主人公たちからは救われなかった。

イタロ・カルヴィーノ「冬の夜一人の旅人が」。

男性読者」という名の作中人物が本を買うが、その本には落丁があった。続きを探すために彼は同じ本を手に取った別の読者である女性読者」を探し求める。彼はいろいろな本を手に取るが、目当ての本は結局見つからない。枠物語の内部に挿入されるつながらない小説の断片は、それだけでも完成度が高く、まるで本当に落丁のある文学全集を読んでいるような楽しみがある。

世界文学パロディー化した物語のページをつないで作った「鏡の中の鏡」かと思わされたが、それ以上のものだった。語りの文と物語関係とは、新作と偽作とは、そんなテーマ物語レベルメタレベルの二つの層の間で錯綜して語られている。

ダニエルキース「アルジャーノンに花束を

知的障害者チャーリーゴードンが脳手術で天才になるが、その知性は長続きしなかったという悲劇として知られている。けれども、僕はこれをただの悲劇として読まない。障害者セックスについて正面から向き合った最も早い作品の一つだからだ。

チャーリー女性の裸を考えるだけで罪悪感からパニックになってしまう。それは母からの過度な抑圧と体罰が原因だったが、それはチャーリーの妹を彼の性的好奇心から守ろうとするが故の行動だった(チャーリーの母が、周囲からもっと支援を得られていたら、あれほどチャーリーにつらく当たらなくて済んだんではないか、とも思う)。

天才になったチャーリーは恋をし、トラウマを乗り越え、苦労の末に愛する人と結ばれ、やがて元の知的障害者に戻ってしまう。一見すると悲劇だが、彼にはセックスに対する恐怖がもはやなくなっている。彼がただの障害者に戻ってしまったという感想は、その視点が抜けているのではあるまいか

ナタリア・ギンズブルグ「モンテ・フェルモの丘の家」

素晴らしかった。中年の仲良しグループというか、ツイッターでいうクラスタの間を行き交う書簡を通して話が進む。居場所をなくすこと、愛情を失うこと、自分の子供をうまく愛せないこと。そして、友人の死。テーマは深刻だ。なのに、読後感は良い。それは視点距離を取っているからか、登場人物を公平に扱っているからか、それとも愛を失う/奪われる過程だけじゃなくて、そのあともちゃんと書いているからなのか。長い時間の中で、家族や友人が近づいたり離れたりする感じ、これこそ人生だ、みたいな気持ちになる。

アーサー・C・クラーク幼年期の終わり

子供の頃、太陽が五十億年も経てば地球を飲み込んでしまうと知って、非常に恐ろしかったのだけれど、それ以来人類運命について書かれた物語がずっと好きだ(H・G・ウェルズの「タイムマシン」も何度も読んだ)。

人類は滅んでしまうかもしれない。生き延びるかもしれない。しかし、宇宙に出て行った結果、ヒトとは似ても似つかないものになってしまうかもしれない。彼らは人類の何を受け継ぐのだろうか。そして、今しか存在しない自分は、果たしてこの宇宙意味があるのか。

人類運命が気になるのと同じくらい、僕はきっと遠くへ行きたいと思っている。だから、ヒトという形から自由になってどこまでも進化していく話に魅了され続けるのだ。


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2021-02-13

本と図書館になぜ価値が認められているのか

https://anond.hatelabo.jp/20210212190921

https://anond.hatelabo.jp/20210212214154

これらの問いに対して、人類が歩んできた歴史視点からの回答が無いので、記しておきます

 

お前らって本という物体に対してだけ異常に過保護じゃない?それにしてもお前らの「本を大事しろ!本を傷つけるな!」的な反応は過敏で異常だよ。宗教なの?

それは「図書館」っていうシステムが原因だと思う。なんで本だけ特別視されて、自治体無料で貸出しなくてはいけないのか本当に謎。

 

これは人類が、本そして情報を手に入れる為に、血みどろの歴史を歩んできたから。

その歴史の教訓によって培われた共通認識を ”宗教” と呼ぶならば、そうかもしれないが。とりあえずは、なぜこうなったのかを紐解いてみましょう。

 

古来、文字書物(パピルス木簡など)は特権階級軍人貴族宗教のものでした。なぜ特権階級が独占していたかというと、文字を記す為のパピルス木簡製造コストが高かった事や、地図軍事情報など機密に関する内容が記されていたなどが理由です。庶民識字率も低く、市民文字を使うとしても帳簿や資産管理としての利用が長年続きます

しか15世紀グーテンベルク活版印刷機の発明により状況が激変します。書物が大量複製できるようになり、庶民知識が行き渡るのです。

これまでの世界において、知識文化とは、口伝継承によって高いコストをかけて伝承されていく特権階級のものだったのが、複製された本を手に入れることでも誰でも知にアクセスできる時代が到来しました。

当時の特権階級宗教家達の心情を記した言葉が残されています

教皇知識印刷術を廃止しなければならない。さもなくば、印刷術が最終的には教皇廃位に追い込むことになろう。

From the Days of Great Dedications - John Fox's Book of Martyrs

 

その予言現実のものとなります

印刷術による本の普及により、知が民衆化した。それにより特権階級だったカトリック教会の力が弱まる。

そしてゆくゆくは18世紀ヨーロッパ市民革命に繋がり、ついに貴族統治する時代終焉し、民主主義が産声を上がった。

それまで特権階級が保存していた、価値ある美術品や博物品は、市民の手により Museum として共有される事になりました。(英語Museum博物館美術館の両方の意味を備えるのは、貴族から奪った貴重品をいっしょくたに展示した為、美術品や史物の区別をつけなかった事が定着したからとも言われている) 一方、図書館革命時代より一足はやくに制度化が進んでいたため、 Library という名前で普及していく事になります

 

概ね図書館および本という存在が、市民の地道な活動により普及し、普及した成果がさらなる民衆活動を促した。という見方ができるといえます

日本図書館協会の「図書館について - 図書館を支える理念」を引用します。これこそが、図書書籍歴史を端的にあらわしています

図書館は、それを生み出す社会の特徴や条件を色濃く反映してきました。戦時下では国家思想を広める役割を果たすこともありましたし、一方では社会マイノリティーの権利を守るために働くこともありました。社会の変化の中で、図書館はさまざまな状況におかれてきましたが、いくつもの波にもまれながら、いかなる状況の下でも、すべての人たちに情報提供するのが「図書館自由」(Intellectual freedom of libraries)なのだという理念を獲得するに至りますアメリカでは「図書館権利宣言」(Library bill of rights、1948年採択)、日本では「図書館自由に関する宣言」(1954年採択)です。これはあらゆる種類の図書館が守るべき自律的規範として、広く支持を得てきました。また、この原則を守るための専門職の行動規範として、「図書館員の倫理綱領」(Code of ethics for librarians)があります

図書館について

 

私のシンプル記述だと物足りず不満に思う人もいると思います。興味がある人の為に、図書館歴史近代ヨーロッパの歩みについての書籍を紹介するので、それで理解を深めてください(と逃げさせて頂く)

ヨーロッパ近代史 (ちくま新書) (日本語) 新書

書物の破壊の世界史――シュメールの粘土板からデジタル時代まで

本の歴史 (「知の再発見」双書) (日本語) 単行本

 

 

まあ総括して言える事は、本が重要だと長い歴史の中で認められてきた為、今の扱いの重さに至ってるって事ですね。

同じ理屈で、他の疑問にも答えられる。

米とかもそういう節がある気がする(平均的な食品大事にされ方を遥かに超越して大事にされてる)けど、どういう心情からそれが発生するわけ?

お米は長らく税として徴収されてきた歴史がある。つまりお金と同じ価値でした。

宗教なの?

同じ理屈で返すなら、あなたの財布に入っている一万円札。これはただの紙切れなはずですが、破いて捨てないのはどうしてですか。社会的・歴史的に一万円札価値と通念が形成されてるから、大切に扱うわけでしょう。ただの紙切れなのに。

それも宗教というのならば、宗教かもしれませんね。

本も、米も、お金も、同じことです。

図書館基準で考えるなら、体育館施設利用自体無料にしてほしい。図書館法律がそうだからというのは理解している。それなら体育館もそうすればいいのにってこと。オリンピック的な勢いでそうならないかなぁ。運動する人のことも考えてほしい。

図書館にも有料のものも多くありますが、まあ置いておくとして。この理屈は分からなくはありません。

しか図書館と同じように、社会必要とされる意味合いが重くなるなら、きっと体育館無料になるでしょう。

実は歴史の上でも先例が多数ありますオリンピック繋がりでスパルタの例を紹介しましょう。

古代オリンピック発祥の地にも近い、ギリシアスパルタ。7歳になった子供スパルタ国家の寮で生活し、毎日運動がさせられます費用はもちろんスパルタ国家が全部負担してくれます無料です。立派な運動教育のすえ、子供は屈強な戦士としてスパルタ国を守る存在となりました。めでたしめでたし

これはスパルタ教育という言葉現代にも伝わっていますね。大げさな例を出しましたが、このように社会必要とされ価値が認められれば、無料になる例には事欠かないと言えます

日本高齢化社会が進んでいますし、健康寿命を気にした予算投入も珍しくありません。スパルタ国ほどオーバーな例はないにしても、無料になるところは今後増えると思いますよ。社会必要とされていますから

2021-01-30

クオリアの違いを表現した作品が見たい

たとえばここにパンティーがあって、

ある人は「綿100%、普通に洗って大丈夫

ある人は「定価500円ぐらいの安物。勝負下着には出来ない」

ある人は「デュフフ……初音ミクと同じ柄なんだお」

ある人は「無印良品、いやしまむらか……」

ある人は「服をちゃんしまわない人類ゴミだと教えたはずだろう」

とそれぞれによって物の見え方が違うわけだが、どうも多くの創作物はそれをセリフ範囲まででしか表現できてねえ感じがするんだよなあ。

地の文目線の高さや分解能がどの人物フォーカスしてる場合だろうと同じっていうかさ。

人によって世の中の見え方って全然違って、それこそ宗教家にとっては自分のとこの御神体は神々しいしけど他の宗教のものに関してはそういう感情別に抱かないわけじゃん。

そういった違いをちゃん表現してる作品が読みたいんだが中々引き当てられねえ。

オムニバス形式になってて、キャラクターごとに世界を視るレンズを換えていってる作品、もちろん名作。

この条件でなんか知らん?

教えたがりでしょ君等。

2021-01-29

anond:20210129010146

それはそれで一つの正しい見方ではあるが

個人的にはやや単純すぎ怪しいと思う


一般に、反グロバリストは当事者性への立場とかやウチ・ソトの区別が単純で

グロバリストはそれがないということだ、という視点は一理ある


でも俺は余り支持していない

アメリカで行われた研究

支持政策グロバリスト的でもドメスティック的でも、ウチ・ソトの直感的な区別に起因する好き嫌いは強固で

グロバリストはその基準が国や見た目ではなく、知能指数道徳的振る舞い、会話の高度さなどで判定されているという結果が出ていた

その説明だと、要するに内集団と外集団判定基準

幼少期から文化的類似度できまってるだけであり

排他性はどっちも同じぐらいだという

例えば、キリスト教保守宗教家とかが彼らなりの問題意識社会運動すると

グロバリストが脊髄反射で「胡散臭い詐欺だ、偽善だ」と言うパターンはある

これは保守人間グローバル活動家を疑うのと似てる

集団判定基準が違うだけと考えれば説明がつく


問題を「偽善」の直感的な判定基準としよう

要するに、集団全体の利得のために、道徳規範や協力を説く相手

別に集団帰属してるんじゃないかとか、個人利益のためじゃないか、と直感的に反発するのが偽善を感じる機能

この判定が厳しすぎたり、単純すぎるのが活動家嫌いだろうか

一理ある


だが逆にグロバリスト活動家帰属集団人類全体にとっているだろうか?

当事者性のない問題にも常に純粋コミットしているだろうか?

これはかなり怪しい

帰属集団世界全体にとっているというお題目を掲げた、実際には一部の集団」に帰属意識をもっているだけかもしれない

というか教育や親、周囲の環境の影響を受けているだけならそのパターンは実際に多い

当事者性なんてもの所詮毎日その事を考えているかどうかだ

グレタさんが活動家になった第一要因は親が活動家だったからだろう

犯罪被害者の手記を毎日読んでいる人間被害者自己同一化してしまうことも多い

そうでない人間との違いは、心の傾向ではなく毎日手記を読んだかどうかだろう

活動家嫌いも幼少期から毎日環境保護活動してたら偽善だと感じなくなるかもしれない

決定しているのは生育歴やらの環境要因だ

そういった経験もなく、純粋共感性しやすさで行う人間も居るだろうが、それは詐欺に騙されるのと外形的には違いはない

共感性が高いと見るか知能が低いと見るか



というわけで俺なりの結論を述べると、特定活動家偽善だと思うのはごく普通、正常範囲内の心の動きであり

特定活動家を支持するような人間も、別の問題には偽善を感じている場合も多いし

それを分けるのは主に、その特定問題に幼少期にどれぐらいコミットたかとか教育歴とかなどで

心の性質による傾向の違いだけで説明すべきかと言われると否だと思う


何でも当事者性を感じて、他人活動偽善を感じない人がいたら

詐欺に騙されまくったり

しろ特定活動家にもなれず、様々な社会問題毎日気にして精神病になってしまうだろう

しかにこういうパターンも確かにネットを見ると散見される

こういう人に比べれば確かに他の人は共感性は低いかもしれない

だが正常な低さと言えるだろう

2021-01-22

神様信仰することのアホらしさ

タイトルで強烈な文言を述べたが、私個人神様信仰していない。私は神様ではなく自分幸福をもたらしてくれる縁や尊敬できる偉人信仰している。

私の家系日蓮宗であるが、それを意識することはほとんどない。葬式や父の実家仏壇を拝むときだけだ。クリスマス初詣もするし、お守りを持つこともある。

このような態度は無宗教と呼ばれ、日本人の多くはこれに分類される。中にはこれを宗教的態度の欠如である批判する人もいる。私が小学四年生の時の担任教師はこれをおかしいと非難した。

しかし、私はこのような「無宗教」が日本で起こったことや、無宗教の人が宗教恩恵にあずかれるのはおかしいことではないと思っている。

日本人宗教観は、この世には沢山の神様がいるという宗教である。この世のあらゆる事物にはそれぞれの神様が宿り、神様達の動きによりこの世界因果関係が決定されると考えた。それぞれの神様人間と同じく感情を持つものとして考えられ、祭祀信仰はその神様のご機嫌をとることに近かった。この宗教的態度は外国から仏教儒家思想キリスト教などが入ってきても変わらなかった。

このような宗教的態度が生まれた背景を和辻哲郎のエセー「風土」は日本(および東アジア)の雑多な生態系災害の多さに求めた。日本人古来より抗いがたい災害に見舞われ、それに耐える忍耐力を養った。そしてその気象条件は同時に命の恵みも与え、我が国植物動物の息吹があまねく見受けられるのである

こうした環境日本人精神を作り、その精神から人格を持つ沢山の神様を生み出したのである。これは自然環境が変わらぬ現在でも同じであり、欧米中東のような一神教的な絶対神日本征服できないのはこのような理由がある。一神教の神は、多神教神の国の一部として取り込まれるのだから

遠藤周作小説沈黙」では、日本に伝来したキリスト教の教えが日本根付かず改変されていることを元宣教師フェレイラが嘆くシーンがあるが、それは上の風土を考えれば当たり前のことなである

一方でキリスト教イスラム教などの一神教誕生したのは、砂漠の国中東からである。そこは日本とは全く異なる生命の息吹が皆無の殺意の大地である。そのような状況から砂漠の民のヒューマニズムへの関心はとりわけ高く、それが人間の味方である絶対唯一神への信仰を生み出した。

それがヨーロッパに入り浸透したのは、ヨーロッパ民族合理的従順だったかであるヨーロッパ生態系が単調で、人間からすれば自然は全部「役に立つ」ものだった。そこから古代ギリシャローマ代表される科学合理的思考がこの地で起こり、それはヒューマニズムに満ちた一神教を受け入れたのだ。

ここで、あらゆる神や宗教を吸収する多神教の国日本一神教が人々を統べる欧米中東差異が分かる。そして、これが日本無宗教を受容する態度と非難する態度の違いを生み出すのだ。

一神教宗教観は日本無宗教非難するが、それは無宗教神様信仰しないからだ。一神教の神は世界創造者で裁定者で救済者なのである。それを信仰することが彼らの人間として生きることの証なのだ。故に無宗教非人間的な態度であり、シリアルキラー同類存在なのだ。先の私の小学校先生無宗教人間として無節操な態度と考え、非道徳の理由無宗教に求めたのだ。

その上で私は一神教宗教家の方々の私の宗教観への批判反論したい。私が信仰しているのは神を持たない宗教であると。

先ほど私は日本宗教観ではこの世の事物にはそれぞれ神様がいると述べたが、それはあくまでいるだけであり信仰する神ではない。物事因果を神の所業と考えているが、それを起こす神が気まぐれでそれが沢山いる以上もうどうしようもないのだ。もしこれが人だったら早々と見限るような神々は沢山いるのだ。神は人を選ぶのだろうが、人間も神を選ぶのである

私も以前は神は正しいメッセージを授けてくださると思っていたが、いつまでたっても授けてくださらない。それは当たり前のことであり、雑多な風土に宿る神が雑多なメッセージ以上の何かを発信することは出来ないのだ。日本土地では裁定者たる神はいないのである。「沈黙」でも、主人公の前に裁定者は最後まで表れなかった。裁定者は日本という沼地で溺死したのだ。故に主人公は生きるという決意で生き延びたのだ。

沈黙」では神を心のなかで生きる存在と最終的に結論付けたが、私はその神の存在意義は最初から否定した方が楽なように思えるし、そちらが神様にとってもありがたいであろうと思う。そうでないと私は神様に対する「たかり」になってしま申し訳なさで死んでしまいそうだ。

何か危機に陥ったときにかつては祭祀加持祈祷に頼っていたであろうが、科学時代においては科学の方が日常生活では「烏合の衆」よりかは帰依出来る。

今のコロナ禍でも、精神的基盤を補強する役割以外では、神頼みよりも衛生的処置医療措置の方が遥かに大事なことはすぐに分かる。

では私は何を宗教に求めているかというと、私の心と世界とのコミュニケーションである。世の中には理不尽なことは沢山ある。そんなとき世界沈黙し私を嘲笑しているように錯覚することがある。

だが、それは私が世界とのコンタクト放棄しているかである世界は私を嘲笑していない、語りかける励ましの言葉はある。私がそれに気付くとき、私は心を開き癒されるのだ。その回路を開くことが私の宗教的態度である。私が信仰しているのはそうしたものである

私は長々とここまで語ったが、私は他人宗教的態度を否定するつもりは毛頭ない。私には私の納得する宗教的態度があり、それを大切にしている。故に他人にはここで語ったことに対抗しうるだけの宗教的態度があると考えられる。私はそれを侵すつもりはないし、相互不干渉を守りたいと思う。自分の守りたいものと同じように他人の守りたいものは守りたいのだ。

私の記事は以上だ。

2021-01-19

名のない哀れな箱男 無責任風評

日記と称して騙るため 真理を嘯く人気者 

神を偽る漫才師 倫理を問われぬ宗教家

若輩者を囲い込む 若輩者のペテン

インターネット餓鬼の道

2021-01-14

anond:20210114225222

あいつらは縁なき衆生ですから、って、それ宗教家が言う言葉かね?

ブッダ若造がエラそうに講釈たれよるわ」

anond:20210114171220

坊さんがご親族を悪しざまに罵るのはどうなんだろうね。あいつらは縁なき衆生ですから、って、それ宗教家が言う言葉かね?

リモート葬儀仏教台無しになりません」と僧侶立場から名言することには意味があるかもしれないが、そもそも元増田僧侶の説法なぞ必要としていない。当人の後悔や懸念は「親戚から非難された」「母親が落ち込んでいる」点がメインであって、故人の冥福仏教神聖性云々については特に心配していない。であれば親戚関係母親についてはもはや坊主の出る幕ではないので、ブコメに書いてる人もいるが、対話関係修復を図るしかないと思う。

で、それはそれとして、坊さんが「みんななかよく」みたいな話しかできないのはどうなんだろうね。下記とか。

仮にご親族が正しかったとして、実際に葬儀場に遺族知友が寄り集まり、そこで増田さんの危惧した通りに感染者が出たり、最悪死者が出たとしたら、どうでしょうか。お祖父様の死によって、お祖父様に連なる命がさらに失われてゆくことになってしまます。遺族知友が命を危険晒すリスクを負うことを心から望んで、お祖父様は何が何でも葬儀式を執り行って欲しいと願われたのでしょうか。

そうではなくて、「自分の死(一生)を大事に受け止めて欲しい」。それこそがお祖父様の本当の願いだったのではないでしょうか。

まずあなたがお祖父様の何を知ってるんだって話だし、こんな通り一遍の話しかできないならそもそも怒りを表明するべきではないんじゃないですかね。俺は友達いないか自分葬式についてはわからんけど、「旅立ちに際し大勢に見送ってほしい」という気持ち理解できるし、もし仮に俺が葬儀される側で、事前に「遺族知友が命を危険晒すリスクを負うことを心から望んで、何が何でも葬儀式を執り行って欲しいですか?」って聞かれたとしたら、「密を避け、換気を徹底し、感染リスクに注意して開催していただきたい」って答えたと思うよ。政治家みたいな言いぐさだけど、でもまあそうでしょ。そうした身勝手で不合理な欲望なり怒りなり悲しみなりに寄り添うのが、アウトサイダーたる僧侶しか果たせない役割なんじゃないんですかね。

東日本大震災の時に中島義道っていう人が新聞に書いてた話だけど、美談が覆う真実もあると。ちょっと引用すると:

被災した小学校から、泥だらけのランドセルが回収されたという出来事美談として報道されましたが、学校が大嫌いな子も級友からいじめに遭っている子もいるはず。それなのに、すべての子学校勉強友達が大好きだという「神話」が真実を覆ってしまます

目下メディアをにぎわしているのは "心温まる家族間の話" であり、そこに登場してくるのは、原発作業員と妻、妻を失った被災者の夫、祖母と声を掛け合って助かった孫など法的に認められた家族だけです。不倫相手を失った愛人とか、同性愛恋人を亡くした人などはまったく抹殺され、天涯孤独な人も、家族を激しく憎んでいる人も切り捨てられた「健全な」家族美談だけです。

もちろん、ほとんどの人は「健全な」社会を望んでいるし、メディアもそれに配慮して取材対象を選んでいるのでしょうが、それが「多数派」あるいは「普通派」の暴力であることを自覚してほしい。日本言論自由な国とされていますが、この点ではまったく違うのです。

(中略)

震災後、さまざまなイベント行事自粛され、それは他人にも同様の自粛を求める「他粛」の風潮になっていますが、みなそれを無自覚に受け入れて、互いに自粛し合い「いい人」しか出てこないいまのような言論状況が、私には不気味な感じさえします。

仮にお祖父さんやご親族が従来通りの、親戚が一堂に会する形の盛大な葬式を望んでいたとして、それは現在社会情勢からすれば批難されるべき欲望であるんだろうが、その欲望を「故人の死が自分たちに何を訴えているかも受け止めず」「ろくに理解もできていない宗教の『神聖さ』とやらを根拠に」「葬儀らしいことをやった気になりたいだけ」などと口を極めて悪罵しながら、増田に対しては「明日からまたあなたを続けてゆきましょう」「それもきっと、お祖父様がかつて願われたことのひとつのはず」程度の当たり障りのないことしか言えない、これは中島義道が言うところの「多数派暴力」というやつではないんですかね? いやいいんですよ、多数派は多数だから多数派なんであって、ほとんどの人は健全社会を望んでいます。大変結構。でもその多数派の代弁って坊さんがやる意味ありますかね?

2021-01-10

アラフォー差し掛かるにあたり、自分が好む異性の条件ついて分析してみた。なお二次キャラである

1.優しい

なにを置いても最重要

表情、仕草、物腰、全てから穏やかそうな雰囲気がムンムンしていると最高に良い。

育ちの良さは問わないが、言葉遣いも荒くない方が好ましい。

2.大きい

具体的に言えば口。

ご飯をたくさん、そしておいしそうに食べると良い。

大きなお口で柔らかく微笑むと素敵だ。

もちろん口を開けて無防備に笑っても可愛い

3.専門性がある

二次キャラである以上キャラ特性があるのは当然だがそれの所属が具体的に示されているといい。

職業萌えとも言える。

学者宗教家音楽家料理人などなど…

オタク的傾倒感も専門性と言えなくもない。そこから来る多少の偏屈さこそ愛せる。

メガネ白衣、各種装束などの衣装萌えも含む。

なおこういった温和キャラ付与されがちな腹黒暗黒微笑はNGである

優しさ、包容力安心感にほんの少しの頑固さ。このバランスが大切。

キャラクターとして爆発的人気が出るタイプではないが、そこがまた彼ららしくていいのだ。

以上。

2021-01-05

なんかヒロシって変な宗教家みたいになってきてんな。

2020-11-18

anond:20201118143652

そういう人はもう宗教家が救うしかない。救おうとした弱者から手をはたかれて迫害されて殺されても、むしろ神に従って生きたことに喜びに感じるタイプ宗教家に。

俗人は他人を救う時にどうしても感謝言葉などの見返りを求めてしまうからダメ

他人ではなく神の方しか見ていない人間必要だ。

2020-10-17

宗教家による物語の独占が気に食わない

数日前、『終末のワルキューレ伝説伝承に出てくる神と人間タイマンする漫画)』に対して、ヒンドゥー教聖職者シヴァ神を軽視しているとクレームをつけたというネットニュースを見た。

ジャパニーズポップカルチャーでは宗教上の神話登場人物(登場神物?)をキャラクター化するのは当たり前と化していて、その宗教に属する人々から批判を受けるということは今までもたびたびあった。

ただこうした批判自体宗教価値観特有傲慢さに基づくものに感じて、俺は昔から気に入らないと思っていた。

まず第一に思うことが、どれだけその宗教の人々が心から信じようと神話あくまでただの一”物語”に過ぎないということだ。

著作権国際的統一法はないが、何百年、何千年も前の物語著作権保護の期間の範囲内だと主張する人は流石にいないだろう。

であるならば、神話だって著作権の切れた他の創作物と同じように後世の人が自由に使って良いだろうと思うのだ。

そして第二に思うのは、現代宗教家は著作者本人でもなければ、委託を受けた権利管理団体でもなんでもないだろうということだ。

宗教なんて大抵どこも宗派で分裂したり争ったりしていて、神話創作された当初と同じ組織体系を維持しているところはほとんど存在しないだろう。

現代宗教家なんてキリスト教だろうが、ヒンドゥー教だろうが、イスラム教だろうが、どこも勝手に正当後継を名乗っているだけで、神話創作された頃の人々が自分たちの後継と認めるかどうかも分からない、その程度の集まりに過ぎないのだ。

そういう意味では彼らも日本漫画家と同じで、許可も取らずに勝手神話使用している”利用者”に過ぎないわけだ。

日本漫画家はキャラクター原案に神話を使い、宗教家は自分信仰に、あるいは統治神話を利用している。そこにあるのは使い方の違いだけだ。

物語というのは、過去物語が人々に読まれ、そこから発想や知啓を得た人々が新たな物語が作り、そうして連綿と生み出され続けるものだと思う。

かつて神話を語った人もきっと、それまでに聞いた物語を参考にしつつ、自分なりのオリジナリティを加えて神話を綴ったのだろう。

であればいい加減、宗教家は神話を独占して自分たちだけに使用権があるかのように主張するのではなく、次世代物語のために神話を開放するべきでないか


ちなみに一応、言っておくが、俺のこの主張は別に、例えば『終末のワルキューレ』のような神や偉人キャラクター化する創作物擁護するものではない。

個人としては「別に良くね?」と思うが、それはなんとなく世間で許されてまかり通っているだけで、論理的正当性を主張することは難しいと思う。

一次創作である神話に対するリスペクトが足りないという批判は当然あるだろうと思うし、だから宗教家の人たちが解釈違いとして文句を言うのならそれは一つの意見だと思う。

ただ逆に言えば、それは一つ意見だとしか思わない。

宗教家が、自分たちけが神話という物語の神を”使う”権利があると思って批判をしてくるのならば、それは大きな驕りだと断じたい。

宗教指導者風刺画見せられて相手殺した宗教家を見てると

逆カプ絵見せられて殺傷沙汰に発展してない腐女子は偉いな

まあ一年くらいしたら宗教替えする程度の信仰心だが

2020-10-10

ブラジルニワトリモロッコタコ

anond:20201009213934

太平洋のかなたのブラジル養鶏場で生まれ落ちたタマゴが,ブラジル従業員の手で育てられて,

また違うブラジル人の手でシメられて,毛をむしられて,精肉に加工されて,

これまた知らない工場冷凍処理されて,トラック運転手に運ばれて,船に積まれて,

数万キロもの船旅を経て日本上陸して,無数の倉庫工場を経てワイのレンジで加熱されて食べられるとか。

アフリカの左上の,ぶっちゃけ地図見るまで場所もわからなかった国の漁師が捕まえたタコが,

しかも現地人は食われないのでキモがられながら捕まえてて,

それを現地で頭とか除去して足だけにされて,

何語なのかもわからん言葉日本商社が買い付けて,

船に載ったら富豪からテロリスト宗教家のひしめくスエズ運河を通ったりアフリカ南端の喜望峰を経由したりして,

はるばるインドの沖合を運航してフィリピン台湾を経由して陸揚げされて,

スーパーで陳列して二日目の夜中ぐらいに半額シール貼られているのを俺が買って

いいぐらいのサイズに切り分けてしょうゆ・にんにくわさびなどなどで食べるとか。

目の前にあるモノに詰まったとてつもないドラマ空想ではなく現実なのだと思うと,きょえええええええええええってなるよな。

2020-09-23

8年前のメンヘラたち

宗教家毒親借金まみれの男と駆け落ち・出戻りして実家に金をせびる姉、半引きこもりの自分

そうしたコンプレックスを強く抱えていた10代後半の私が辿り着いたのが8年前のTwitterだった。

最初の頃は鬱屈した人々がこんなにもいるのだと、仲間はここにいるのだと喜びフォローをし、私も彼らと同じように「死にたい」「消えたい」を書いては誰宛でも無い文章を空に投げた。

フォロワーが増えると☆がよく飛んでくるようになり、返信もたまに来るようになった。

 

ちょうどそのころ、世間Line黎明期であり、日本中若者が挙ってアプリダウンロードした。

現実で「友達」が居なくても、Twitterで見つけた「フォロワー」は「友達」として登録され、私たち日陰者同士としての絆は更に強くなると思っていた。

 

しかし、Lineメンヘラ思想とは相性が良く、しか性質との相性は最悪と言って良かった。

 

当時のコミュニケーションツールといえば、Skypeのようにログインしないと文章が読めないとか、金を払わないと声を出して話せないとか、メールセンターに問い合わせをする必要があるとか、必ず何かしらの「返信が遅くなる理由」があったが、Lineはそれらの「不便」を一様に取り除き、あまつさえ既読」という機能を標準装備していた。

 

「読んだのになぜ返信をしないのか」

 

あなたも私のことを無視するのか」

 

「信じてたのに」

 

遠く離れた顔も名前も知らないメンヘラに、寝食に費やす時間を奪われ、私もまた誰かの時間を奪い続けた。

傷の舐め合いとは、痛みを持った人同士であれば理解できるという意味ではなく、返報性の原理を負の方面遺憾なく発揮した地獄を指していると、身を以て知った。

 

そうしていつの間にか限界が訪れ、現実ネット関係を断ち切った自分にあるのは独りの時間のみ。

 

必要に駆られて外に出て金を稼ぎ飯を食うようになったが、当時の彼らも自分と同じように、病んだ過去過去として扱っていると良いなと思った。

2020-09-09

anond:20200909201317

400年前にそういうこと考えたのがデカルトやな。

大体こういう疑問は昔の哲学者やら宗教家が考えついてるので特に目新しくもなければ突飛なわけでもない。

今でも大真面目にそういうことを考えている学者はいる。

2020-09-07

市を師と入れ替える

八千代市八千代師となりこれは踊りの師匠ですね

みどり市さくら市みどりさくら師となりこれは明らかに漫才師匠です

つるぎ市はつるぎ師で職人でいけそうだが平仮名の弱々しさがいけないですね何とかなりませんかね

それ以外はだいたい競馬調教師になる

宗教家になる市がないか探したけれども見つからなかった

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