宗教家の毒親、借金まみれの男と駆け落ち・出戻りして実家に金をせびる姉、半引きこもりの自分。
そうしたコンプレックスを強く抱えていた10代後半の私が辿り着いたのが8年前のTwitterだった。
最初の頃は鬱屈した人々がこんなにもいるのだと、仲間はここにいるのだと喜びフォローをし、私も彼らと同じように「死にたい」「消えたい」を書いては誰宛でも無い文章を空に投げた。
フォロワーが増えると☆がよく飛んでくるようになり、返信もたまに来るようになった。
ちょうどそのころ、世間はLine黎明期であり、日本中の若者が挙ってアプリをダウンロードした。
現実で「友達」が居なくても、Twitterで見つけた「フォロワー」は「友達」として登録され、私たち日陰者同士としての絆は更に強くなると思っていた。
しかし、Lineはメンヘラの思想とは相性が良く、しかし性質との相性は最悪と言って良かった。
当時のコミュニケーションツールといえば、Skypeのようにログインしないと文章が読めないとか、金を払わないと声を出して話せないとか、メールセンターに問い合わせをする必要があるとか、必ず何かしらの「返信が遅くなる理由」があったが、Lineはそれらの「不便」を一様に取り除き、あまつさえ「既読」という機能を標準装備していた。
「読んだのになぜ返信をしないのか」
「信じてたのに」
遠く離れた顔も名前も知らないメンヘラに、寝食に費やす時間を奪われ、私もまた誰かの時間を奪い続けた。
傷の舐め合いとは、痛みを持った人同士であれば理解できるという意味ではなく、返報性の原理を負の方面で遺憾なく発揮した地獄を指していると、身を以て知った。
そうしていつの間にか限界が訪れ、現実もネットも関係を断ち切った自分にあるのは独りの時間のみ。
必要に駆られて外に出て金を稼ぎ飯を食うようになったが、当時の彼らも自分と同じように、病んだ過去を過去として扱っていると良いなと思った。