はてなキーワード: 否定論とは
性差を否定するといっても、当然ながら男性に男性器がついていて女性に女性器がついていることを否定する人間はいない。
だから彼らが「性差はない」と言うときには、何か具体的な「性差別」を想定して、それを否定しようとしているのだ。
対して、差別主義者はまず言及対象を大きく広げ、「否定論者は男性に男性器がついていることすら否定しようとしている」と言ってのける。
「女も肉体労働をやるのか?」「風呂も男女で一緒に入るのか?」などと揚げ足を取り、男女の肉体的差異をことさらに強調する。
そしてそこに「男脳・女脳」のようなフィクションを混ぜ込んでいき、最終的に男女の性差を(フィクションも含めて)全て肯定してしまうのだ。
若い人は知らんのかもだがニセ科学批判の母体である「と学会」がもともとネトウヨの巣窟なのよ
http://d.hatena.ne.jp/toroop/20090601/p3
https://togetter.com/li/248884
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20131123/p1
南京大虐殺完全肯定派っていうのはと学会の中でも会長くらいで少数派
http://www.tobunken.com/diary/diary20031116000000.html
あと菊池誠の放射線医学関係のブレーンになってるbuveryも有名なネトウヨ。
http://twilog.org/buvery/search?word=%E5%8D%97%E4%BA%AC&ao=a
結婚して2年になる。
3年間付き合った末の結婚ということだが、2年目からは同棲していたので新鮮味はないが、今でも毎日「こいつと結婚できてよかった」と感じる。
妻は私を「気が利いてなんでもしてくれる優しい旦那」というようだが、そんな自分になったのも、これまで付き合った2人のメンヘラ元カノたちのおかげだろうと考えている。
1人目は高校生の頃だったろうか。
背丈は小さいが、しっかり者でクラスのまとめ役をこなせる、適度に発達した胸が特徴的な女性だった。
彼女と付き合いはじめた当初は、部活終わりに一緒に帰って彼女の家の近くの公園で談笑したり、週末に繁華街へ出かけたりと、普通の生活をしていた。
私はしっかり者の彼女が時折見せる甘えた表情が好きだった気がする。
そんな彼女を(高校生ながら)愛おしく感じ、日々一緒にいる時間を増やしていった。
そうして付き合ってから数ヶ月たったある日、家に呼ばれる。可愛らしい妹が迎え入れてくれ、「実は両親が共働きしているが離婚寸前で家庭内DVも当たり前なのだ」というを話をされた。
ショックを隠し切れないながらも話してくれたことに感謝し、泣きそうな顔をする彼女を受け入れると「あなたなしでは生きていけない」と言われ、そのままベッドへ。
そこからは毎日、電話なりメールなりは必須で、連絡を少しでも怠るとすぐに着信が10件ほど入る。
これは困った、と思い別れを告げると、「今すぐ話がしたい」と言われ、よく訪れた公園に呼び出される。
最後だからと向かうと(その日は確か夏で、大雨だった)、裸足で泣き崩れている彼女がいた。
さすがに鬼畜野郎ではないので落ち着くまで隣にいて、その場はとりあえず収めようと、別れないという選択肢を取ったが、そんなものは一時的なそれなだけであって、
すぐに別れた。
彼女もまた、小柄で胸のふっくらした子だった。顔は少しきつく、その顔に見合った性格であった。
1人目と同様、対大勢と対自分での態度の違いに優越感を感じていた。
そんな彼女とは大学が同じで、かつ彼女は大学近くに一人暮らしをしていたので、彼女の家に行き泊まることも多かった。
しかし、情緒不安定というか、自分の思い通りにならないことがあると、すぐに不貞腐れする部分に、少し疲れを感じざるを得なかった。
ある日、私が自宅から大学に向かっている途中、彼女が寝坊をしてしまったようで、自分の遅刻してもいいから一緒に大学へ行こう、というと、
「先に行って」
と言われ、そのとおりにした。すると、10分後くらいに
「どうして先に行っちゃうの?」
という。
仕方なく大学の講義は諦め、彼女の家に行くと、それはそれでイライラが募るようで怒り出し、しばらくしてから泣いて詫始める。
そんなことがあった。
ただ、それでも可愛らしく見えてしまう自分もおり、なんだかんだで2年は付き合った気がする。
2人のメンヘラ(一部の人からするとメンヘラではないと思われるだろうが)を通じて、この程度が女性のスタンダードだと感じるようになり、
相対的に軽度であれば耐えられるし、それが女性側の期待値であれば、比較的良好な関係を作れるようになった。
自分は女性経験が豊富にあるわけではないが、優しい彼氏としての立ち位置をしっかりと確立できるようになったのは、彼女たちのおかげと言っても過言ではない。
ただやはり、女性経験が豊富にあるわけではなく、セックスも一人の女性と何度も、というスタイルが多かったので、その点においては改善する余地があるだろう。
今の妻はメンヘラとは程遠いも、やはり女性は甘えたい生き物なのだろう、甘えたいときには思いっきり甘えさせてあげるようにしている。
妻を見ていても、元カノたちの付き合う前を思い返しても、メンヘラに落ちるまでのあと一歩というのがあり、その瀬戸際を見極めるのは、男性側にも責任が大きかろうと思うのである。
つまりは、メンヘラは男を育てることに寄与する部分が多分にあると考える。
はてなだけではなくネットの全ての物が詭弁という卑劣な行為について再確認をする必要がある。
それは詭弁から自分を守るだけでなく、卑劣な行為を自分がやってしまうという事から自分を守る事にも繋がる。
まずは基本から。
「犬は果たして哺乳類か?」という議論をしている場合、あなたが「犬は哺乳類としての条件を満たしている」と言ったのに対して、否定論者が…
「犬は子供を産むが、もし卵を生む犬がいたらどうだろうか?」
ごくまれな反例をとりあげる
自分に有利な将来像を予想する
「何年か後、犬に羽が生えないという保証は誰にもできない」
主観で決め付ける
資料を示さず自論が支持されていると思わせる
「ところで、カモノハシが卵を産むのは知っているか?」
「それは、犬を哺乳類と認めると都合の良いアメリカが画策した陰謀だ」
知能障害を起こす
「犬が哺乳類なんて言う奴は、社会に出てない証拠。現実をみてみろよ」
ありえない解決策を図る
「結局、犬が卵を産めるようになれば良いって事だよね」
レッテル貼りをする
決着した話を経緯を無視して蒸し返す
「ところで、犬がどうやったら哺乳類の条件をみたすんだ?」
勝利宣言をする
「犬が哺乳類だという論はすでに何年も前に論破されてる事なのだが」
「犬って言っても大型犬から小型犬までいる。もっと勉強しろよ」
「全ての犬が哺乳類としての条件を満たしているか検査するのは不可能だ(だから、哺乳類ではない)」
「確かに犬は哺乳類と言えるかもしれない、しかしだからといって、哺乳類としての条件を全て持っているというのは早計に過ぎないか。」
自分で話をずらしておいて、「話をずらすな」と相手を批難する。
「現在問題なのは犬の広義の非哺乳類性であり、哺乳類であるかどうかは問題ではない。話をそらすな」
権威主義におちいって話を聞かなくなる。
“息を吸うように交わされるホモ行為。もう男同士で手を繋いだりハグをしたり顔を近付けたりは日常茶飯事で、最初は「これユーリやなくて、ホーモやないかーい!」と陽気なツッコミでエンジョイしていた自分も、回を重ねるごとに露骨になっていく描写に耐えきれなくなり、10話でエンゲージリングに見立てたペアリングを贈って疑似結婚式を始めたところで、完全にドン引きしました。このシーン、今思い出してもめちゃくちゃ気持ち悪かったです。
こうやって「気持ち悪い」とはっきり述べてしまうと、私はLGBT否定論者の差別主義者だと受け取られるかもしれません。しかし、私はゲイそのものに拒絶反応を感じているのではなく、ゲイではないくせに(認めていないくせに)ゲイを気取っている男どもが気持ち悪いと感じただけ。そう、これだけ勇利とヴィクトルの2人は同性愛を匂わせていながら、互いがゲイであることに一切言及しないのが問題なんですよ!
断言できますが、もし勇利がヴィクトルのことを真剣に愛した上で指輪を贈っていたのなら、私は気持ち悪さなど微塵も感じることなく、2人のことを祝福していました。セクシャルマイノリティであろうと、周囲に何ら引け目を感じることなく、実直に求愛できるのは大変麗しいこと。でも、勇利がヴィクトルに指輪を贈った理由には、「お守りだから」「お礼だから」という苦しい言い訳が入り、これだけ直接的な行為に及んでいながら、2人がゲイである事実から頑なに目を背けようとするから腹立たしくて。
10話放送後、作者の久保ミツロウさんはTwitterで「この作品を現実の皆さんがどのように思われても、この作品の世界の中では絶対に何かを好きになることで差別されたりはしないです。その世界だけは絶対に守ります。」と、差別主義者には屈しない! というスタンスで反論されていましたけど、作中でゲイであることを認めていないからとても滑稽に聞こえます。
本当にこの世界が、あらゆる愛情のカタチに差別が入り込まない世界であるなら、「その世界だけは絶対に守ります」と豪語するなら、どうして彼らはゲイであることをはっきり認めようとしないのでしょうか? 同性愛を肯定しながら、一方で師弟愛や友情を隠れ蓑にしてゲイである事実を誤魔化そうとするやり口は、とても卑劣で悪辣だと私は思います。ゲイに対して不誠実ですし、これこそ差別です。
結局、本音ではホモを匂わせて腐女子を釣りたいだけのくせして、差別がどうのこうのを持ち出して正当化させようとするから気持ち悪さを感じるのですよ。ユーリ!!! on ICEという素晴らしいアニメに対し、私はただひたすら絶賛だけがしたかったのに、こんなくだらないことに長文を割かなくてはならないのが何よりも残念です。“ttp://ndsk.net/anime/yurionice.html
本人はこれを差別だと自覚していないようですが、なぜ勇利らが「ゲイ」であることを認めなければいけないのか考えが足りなすぎるのでは
そもそも恋愛や性愛について「同性愛」「異性愛」「両性愛」「汎性愛」「全性愛」「無性愛」「ホモフレキシブル」「クエスチョニング」「ポモセクシャル」「ポリセクシャル」「バイキュリアス」「デミセクシャル」「オブジェクトゥムセクシャル」、、、、、と数限りない愛の形があるのに勝生勇利とヴィクトルは自分たちを「ゲイ」と認めなければいけないのかよくわからない
5話で
【僕の愛。それはわかりやすい愛や恋ではなくて、ヴィクトルとの絆や家族や地元に対する微妙な気持ち ようやく自分の周りにある愛のような物に気付く事ができました。はじめて自分でつなぎ留めたいと思いたい人、それがヴィクトルです その感情に名前はないけど、あえて愛と呼ぶことにしました】
彼の気持ちは「既存の愛ではない」と語られているのに、浅生大和(あそうやまと)氏はゲイかゲイじゃないかというふうにしか二人の関係を考えられないってこと?
【この作品を現実の皆さんがどのように思われても、この作品の世界の中では絶対に何かを好きになることで差別されたりはしないです。その世界だけは絶対に守ります。】
これについて
【と、差別主義者には屈しない! というスタンスで反論されていましたけど、作中でゲイであることを認めていないからとても滑稽に聞こえます。本当にこの世界が、あらゆる愛情のカタチに差別が入り込まない世界であるなら、「その世界だけは絶対に守ります」と豪語するなら、どうして彼らはゲイであることをはっきり認めようとしないのでしょうか? 同性愛を肯定しながら、一方で師弟愛や友情を隠れ蓑にしてゲイである事実を誤魔化そうとするやり口は、とても卑劣で悪辣だと私は思います。ゲイに対して不誠実ですし、これこそ差別です。】
一体どう解釈すればこのような文章を書けるのか疑問。てかホモ、ゲイと書いている時点で立派な差別なんだがな、、、
同性愛について見識深いみやきち (id:miyakichi) さんの意見も伺いたい
https://www.amazon.co.jp/七二-仮-高山直人-ebook/dp/B01DDAUVMA
貴方は読んでいるかどうかも怪しいかもしれないが、かつて、私は七二(仮)という電子書籍で文化カーストXというものを提唱した。
詳細は実際に書籍を読んでほしいので省くが、早い話が、エリート、ヤンキー、オタクのいずれにも属さない文化階級で、わかりやすく云えば、理性と精神的価値を重んじる階層で、エリートとは正反対の性質で、精神的価値を重んじるお宅と、理性を大事にするヤンキーを足して2で割ったものだ。
大企業が仕掛けたり、ましてや政治や行政が実施するわけではないのに、ネットと連動する形で自然と大きく盛り上がった文化現象と言う風に考えれば2000年~2010年代の「オタク」も今の「デモ」も類似している。そしてどちらも、世の中の支配的な構造に圧迫された人たちが参画しまくったのだった。
OOAだけでなく、高齢のネット原住民がファッション関連の騒動で活躍したこと、東海道新幹線から「和製自爆テロリスト」が生まれたことなどを考えると、日本の主流もノンポリ優勢の構造ではなくなりつつあり、むしろ今の左翼のパルチザン化の流れに合流するような兆しを私は感じている。
いずれも社会の日陰者扱いされた鉄道オタク文化とバイクオタク文化を大衆文化にぶち上げた「流れ」の当事者たちがもしも左翼に合流するとどうなるだろう。すでに日本でも韓国の10分の1の規模のデモは頻発している。「自分がでネット原住民で流行に煩い大人だから、無意識にバイクお宅にはまっていた人」がこれに加わるとどうなるだろうか。
日本社会の抱える相次ぐ問題である、汚職、裏社会、スパルタ労働(ブラックなんて可愛い言葉はもうやめよう)に続いて、鉄道業界にも政治イデオロギーがらみの黒い噂が立ち込めているという。所謂ネット原住民空間はともかくとして純粋な鉄道オタクさえ右翼バッシングが多いのは、単に右翼憎しという日本人としての公憤や鉄道の印象を悪くされたオタクとしての義憤だけでなく文化への干渉があるからだと思う。裏社会沙汰で自身が影響を被ったり、私鉄が解体されるために遊び場所が鉄道からなくなることもあると思う。
既にJR北海道とか認知症や右派団体がらみの大炎上があるわけで、今後もこれに匹敵したり凌駕する騒動や汚職が続くことは必至なんじゃないかと思われる。そういう繰り返しがあれば、不満によって私鉄否定論が支配的になり、ネオリベに怒りの矛先が向かうようなこともありえなくないだろう。
ポストファミコン世代とかリア充世代とか、30代以上のオタクからすれば「自身の弟子の左派かぶれ」な人間がすでに左翼の側にある。同じく強烈な文化発信地であって同じように1980年代~2010年代時期にトップダウン的な潮流のもとで大衆文化化が進んだ「デモ文化とオタク文化と左翼(リベラル含み、ネオリベ除く)が手を結ぶ」可能性もありえなくはない。
そういうものを「公のお墨付き」と位置付けて、往年の西側諸国のように大衆文化を国民のコントロールを円滑する道具にしつつ、対外PRのための政策芸術として用いようとしていた日本の政治からすると、サブカルや大衆文化という大きな文化軸に矛を向けられることだけは避けたいと思われる。
2000年代の福知山線事故以降、日本のエスタブリシュメント層は鉄道オタク的な文化を嫌悪するようになり、それまで叩く側にあった車・バイクサブカルチャー文化を急に持ち上げだした。そしたら2000年代後半にエスタブリシュメント層によるノンポリ・道路文化迎合政策と鉄道文化・政治思想家潰しが激化し、1990年代には等しくのいかがわしいとされた両者は全く別の道をたどった。
一方は冷遇されたためにプロテストの積極的な集団となり、一方は厚遇されたために御用化したが、この二極構造が、今まさに変わっているさなかにあると思う。それがどうなるのか気になっているため、最近の社会運動やテロシーンの動向にはずっと注目しているのだ。
「先生に怒られないことが目的になっている部活」を書いた元増田です。ちなみに私は母親です。やっぱり怒鳴っている男の人は怖いです。
部活否定論者ではないです。息子が言うには部活の仲間も楽しいし、正顧問のいる時の部活は厳しいなりに筋が通っていて経験者だけに納得のいく指導のようです。息子は副顧問のような理不尽な大人に対して、うまく立ち回れないまでも冷静に柔軟に対応できているようだし、私もいつでもフォローできる体制を整えつつ、なるべく感情的にならないように冷静に見守っていました。中には不器用な子もいるので、そのふてくされた態度がますます副顧問の癇に障っているんだよなぁ、とりあえず大きな声でハイ!ハイ!言っていればこういうタイプは気がすむのになぁと歯がゆく思って見ていました。こういう場合は正論で指摘しても振り上げた拳のやり場に困ってますます逆上するので注意が必要です。
別に怒られることに関しても否定はしません。放っておけばつけあがる中学生男子ですから、睨みを利かすのも教育のテクニックの一つとしてあるでしょう。ただ理不尽な怒鳴り声の中に、詳しく内容は書けませんが、男の嫉妬、ひがみのような発言があったので、ドン引きしたのです。このことを教育熱心なママ友たちに言えば、きっと、共感の嵐が吹き荒れ、無責任に先生をやめさせようとか、教育委員会に言っちゃえとかヤンヤヤンヤ大騒ぎになると思います。でもそれが正しい選択だとも思えません。
自分の気持ちを整理するために日記を書いたのですが、実はこの裏にある本質というか、私がこの件で心を痛めているのは、真面目でやる気のある部員たちが割りを食うことです。
その副顧問に反旗を翻した他学年の部員が部活に来なくなってしまいました。その問題が解決するまでの間、副顧問は部活に真面目に来ている子たちにいつもより数段厳しい罰ゲームのようなトレーニングを与えたようです。連帯責任ってなんなの?なんで休まず来ている子が本来の練習時間を削られ、説教されて、罰を受けなくちゃいけないの?
体育会系だからそうなのか、よくわかりませんが、大事なことだから二度言います。
なぜ、休まずに来ている子が本来の練習時間を削られ、説教されて、罰ゲームを受けなくちゃいけないの?
これだけは納得がいかないです。連帯責任こそスポーツ界の悪習ですね。
この件では正顧問(こちらの方が話しやすい)に一言伝えようと思っています。正顧問もバリバリの体育会系なので、副顧問の横暴も良しとしているのか、安からず思っているのかも知りたいです。このままでは部員が減って、結局はみんなで試合をやりたい子たちが割りを食うのです。ほんと悲しい。なんとか食い止めないといけませんね。逃げればいい、やめればいいと簡単にいうけれど、息子は部活はやめたくないのです。途中でやめる子がいると、残っている方はものすごく寂しい思いをします。今までも色々とありました。息子は仲間が一人一人減っていくたびに悲しい思いをしてきました。でもその競技が好きだし、厳しい練習でも残ったメンバーで切磋琢磨してきたからこそのかけがえのない友情も築いています。
理不尽な大人のおかげで息子は心身ともに成長しているんだと思えば溜飲が下がりますが、聞き捨てならぬ言葉を聞いた以上は看過できませんので勇気を出して頑張ってみようと思います。
もちろんこの世界の種は神が創造なさったのだ的な強固な信念じゃないんだけど、なんとなーく「中間化石って見つかってないんだよね」「サルから人間に進化したっていうならサルがまだいるのって変だよね」「進化論って実は今のまともな科学者たちから支持されてないよね」「進化論の証拠ってないよね」辺りのテンプレ的な間違った否定論をリアルで知人から聞いてしまって、内心いやいやいやいや……!て思った。
繰り返すようだけど彼は別に熱心な否定論者でもなく、また「じゃあ別のどの論理が種の多様性を説明するのか」という答えも特になく、もっというなら進化論の具体的な説明もできないほど怪しい理解だけど、ただ本当に漠然と「ダーウィンの進化論あやしい」という発想をどこからともなくインストールしていただけな様子。あとついでに言えば、彼はどちらかというと科学的思考のほうに好感を持っているというか、例えば「血液型性格診断」とか「神の存在」とか「超能力」とかに関しては、恐らく否定的な傾向を示すと思う。
ネットで有名な、詭弁の特徴のガイドラインは良い物だと思います。
ただ、少しの欠点と思われるところもあります。あの例は単純化されていて、実態と少し合わない気がします。
確かに言いたいことは分かりやすいのですが、実際の議論ではあそこまで分かりやすい感じであることは多くは無いのではないでしょうか?
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%EB%CC%CA%DB%A4%CE%A5%AC%A5%A4%A5%C9%A5%E9%A5%A4%A5%F3
例えば下記です。
「ところで、カモノハシは卵を産むのを知っているか?」
実際の議論では詭弁のガイドラインの6条だとぱっと見て分かることは多くないでしょう。
相手の論者は、それこそ読者が一見惑わされるほど、書いている本人が「これは話が逸れている」と自覚していないが如く、
前の文章から巧妙に話を逸らし、あたかも関係のある話に見せかけることもあります。
特に、「ところで」などという親切な前置きが付くことは希ではないでしょうか。
下記も同様です。
2.ごくまれな反例をとりあげる
「だが」などという親切な前置きが付くことは希ではないでしょうか。
4.主観で決め付ける
犬自身が哺乳類であることを望むわけがないという言い方は常識的に違和感があります。
それより、学会がその分類を認めるはずが無い、哺乳類であるという分類にすれば他と整合性がとれなくなる・・などという発言が多いのではないでしょうか。
「犬が卵を産めるようになれば良いって事でしょ」
実際にはここまで変な言い方はしないと思います。
犬の例で言えば、あなたがあらゆる本を調査して、犬がどういう分類になっているか確認してはどうですか、学会で発表してはどうですか・・程度では無いでしょうか。
ところで、履歴書は手書きにするべきかどうかの話で、アメリカ型の雇用習慣にするか、日本の慣行で行くかの2択を持ち出した人がいたのですが、これも「ありえない解決策を図る」の一つだったのでしょうか?
「確かに犬は哺乳類と言えるかもしれない、しかしだからといって、哺乳類としての条件を全て持っているというのは早計に過ぎないか。」
「哺乳類としての条件を全て持っているというのは早計に過ぎないか」というのも分かりやすい例ですね。
実際には「哺乳類としての条件を全て持っているわけでは無い」という感じが多いのでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%EB%CC%CA%DB%A4%CE%A5%AC%A5%A4%A5%C9%A5%E9%A5%A4%A5%F3
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詭弁の特徴15条
あなたが「犬は哺乳類としての条件を満たしている」と言ったのに対して否定論者が…
「犬は子供を産むが、もし卵を生む犬がいたらどうだろうか?」
2.ごくまれな反例をとりあげる
3.自分に有利な将来像を予想する
「何年か後、犬に羽が生えないという保証は誰にもできない」
4.主観で決め付ける
5.資料を示さず持論が支持されていると思わせる
「ところで、カモノハシは卵を産むのを知っているか?」
「それは、犬を哺乳類と認めると都合の良いアメリカが画策した陰謀だ」
8.知能障害を起こす
「犬が哺乳類なんて言う奴は、社会に出てない証拠。現実をみてみろよ」
「犬が卵を産めるようになれば良いって事でしょ」
「ところで、犬がどうやったら哺乳類の条件をみたすんだ?」
13.勝利宣言をする
「犬が哺乳類だという論はすでに何年も前に論破されてる事なのだが」
「犬って言っても大型犬から小型犬までいる。もっと勉強しろよ」
参考:18条パターンの追加項目
「全ての犬が哺乳類としての条件を満たしているか検査するのは不可能だ(だから、哺乳類ではない)」
「確かに犬は哺乳類と言えるかもしれない、しかしだからといって、哺乳類としての条件を全て持っているというのは早計に過ぎないか。」
18.自分で話をずらしておいて、「話をずらすな」と相手を批難する。
「現在問題なのは犬の広義の非哺乳類性であり、哺乳類であるかどうかは問題ではない。話をそらすな」
これに付記するものとしてKusakabe(void)論法がある。
追加項目
「生物学の権威じゃないおまえには犬について議論する資格が無い。生物学者に意見を聞きたい」
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例1「犬が哺乳類だと言うのは、恐竜が哺乳類だと言うようなものだ。」
例2「では恐竜は哺乳類扱いされているだろうか?されていないだろう。犬の件もそれと同じ事である。」
また、昔2ちゃんねるで見かけたスレでも、比較対象を誤っている論者がいるなどと注意喚起されていました。
ありえない解決策を図るについては、「犬が卵を産めるようになれば良いって事でしょ」は大げさにしても、
今、ちょうどExcelを使っている所でこれを書いている。
何故書いているかというと、XMLのデータのインポートを待っているからだ。
若い時は、Excelで全てをこなそうとする日系企業、はたまたドメ会社を心の底からバカにしていたのだが、年月が経ち、結果としてExcel最強説を私めが、提唱させていただきたい。
昔Excelが嫌いだった理由は、1 ダサい 2 ダサい 3 ダサい 4 経理じゃないんだから 5 これだけ洗練された仕組みがあるのにExcel使ってるの? 6 ダサい 7 重い
昔の自分へ、反駁を試みたい。
Excelの素晴らしい所
・大抵の会社と人が使っている (若しくは互換性のある仕組みを使っている)
大学の研究室であれば、実験的なものを使うことでもよかろう。しかし社会はそうなっていないのだ。近所の八百屋も取り敢えず使い方は分からないまでも、Excelが入っているものなのだ。
これは大きい。
逆に言うと、これだけ日本で浸透しているからこそ、ダサいとも言えるのだが。
よくExcel方眼紙否定論者を見かける。こういう奴らは、Excel方眼紙の利点を理解していない。Wordでやってみろ。計算がスムースに出来ないではないか。結果Excelで良いのである。
Excel否定論者は、否定したいがあまり、過去のExcelのイメージしか持っていない。実際長いこと使っていると、Excelが表計算ではなく簡易的なデータベースとして大きく進化していたり、フォーマットの違うファイルを取り敢えず一回Excelに入れて吐き出しをさせるなど、文字列の扱いが遥かに得意になっていることに驚きを禁じ得ない。
・VBAや数式など
以前はマクロ信者をただの狂信者だと思っていた。今でも一部はそうである。なぜならマクロ信者や数式教徒は、可読性を一切考えないオナニーしかしないからである。
しかし中級程度まで熟達すると、多くのオフィスワーカーを不要にしてしまうすぐれものである。
そろそろ30M程度のXMLを直感的に操作するためにインポートも終わる。もちろんこれだけ言ってもExcelはダサい。ダサいがゆえに枯れている素晴らしい仕組みなのである。
#加筆
しかし、逆に汎用的なツールになってきた事で、かなり重くなりつつあり、複雑な事をしないものはGoogleスプレッドシートに最近移管した。色々難しいもんである。
これを見ると、はてなには中絶禁止論者がけっこういるとわかる。
marony0109 もし障害児を堕胎する自由が認められたとしよう。大体の親が堕胎するなか、勇気をもって産んだ親に対して世間はきっとこういうだろう。「障害児を産んだのは自己責任なのだから障害者福祉に頼るな」と。嫌な世の中だ
cider_kondo 一見「親が決める」は正解に見えるが、実際にはid:marony0109さんが指摘する問題は間違いなく存在しており(社会状況が大幅に変わらない限り)、正解どころか胎児殺しを親に強要する暴論の一種と思える。本当の正解は不明。
こういうの、妊娠中絶自体を「悪」と見なしている。米国の共和党の保守派と同じだ。進化論の否定論者に似ている。
はてなーって、進歩的な人々が多いと思ったが、いまだに中絶を批判する保守派が多いのか? 女性の権利などは認められないのか?
Adblockそのものをそんなに正当化する必要はないが、明らかに間違っている言説はただしておこう。
テレビの見すぎなのか、インターネットの仕組みを知らないのだろう。
テレビの「広告」は放映料の一部として払っていて確かに「広く知らせている」と言えるかもしれないが。
インターネット上の「広告」はそもそも「広く知らせて」などいない。
テレビの放映権は「放送」していて、その周波数の利用料を独占して払っている。個人は何も払ってない。
逆に、インターネットの使用料は、各個人が払っている。「宣伝」している方と各個人の違いは特にない。
インターネットの場合は「各個人が対等」というところが一番違うところだ。
「各個人が対等」ということは、「インターネット上」に「宣伝」を「強制的に」置く論理的正当性はない。
「インターネット上の広告」はいわば「車が通る公道のど真ん中に立て看板を置く」行為と同義だ。
その立て看板自体を「公道」==「インターネット上」に転送「しなければいけない」論理的正当性はない。
なので以下の言説は明らかに間違ってる。正当な対価は十分払っている。インターネット接続料という形で。
そもそも、Webサーバの設置は「無料」だろうに。もちろんテレビの広告での「放映権料」と比べれば、だ。
Webサーバの設置はDCに払う料金以外のものは何もない。そんなものは無料に等しい。
そういう意味で、テレビの意味の「広告」と同じ論理を導入してはいけないのだ。
Webサーバの「広告」は接続者に対して不当なデータを送信する権限はない。
なお、「正当」は否定するが、「なんらかの対価」を接続先から欲しければ、セキュリティを強化して、
だれもアクセスできないようにすればいい。
技術的にはとても簡単だ。法的にも保護されてる。だれも止めてない。
そうすれば、私は見ないけども。
adblock否定論者が当初言っていた「広告がないとサイトが成り立たない」は必ずしも真ではなくなっている。
全く間違った言説だ。何も類似してない。
この点について、まさしく重要なのは法律で、他はかなりどうでもいい。
Winnyでファイルを大量にアップロードしたものが捕まっても、ダウンロードしか行っていないユーザーは捕まらないので割れを続けている状況に似ている。
インターネットに接続する「正当」な行為をWinnyといっしょにしないように。
あ、そう。では、広告を否定する権利そのものは否定しないのね。
だとすると
その論理はテレビのように放映権を買って「広告」しているときのみに適用できる論理で、
Webサーバの持ち主ごときが「不当」なデータを送る権限はない。
上記に書いた通り、「何らかの対価」が欲しいという言うことは否定しない。
ただしだからと言って「普通の」インターネット接続を否定するのは論理的に無理がある。
広告がウザいからブロックして問題ないという主張は、どう考えても割れ厨の自己正当化(どうせ買わない作品をダウンロードしているだけだから問題ない、など)とあまり違いがない。
だから「正当な対価」(ソフトウェアの使用料)を払うべき割れ厨と、インターネット接続料として「正当な対価」を払っている宣伝ブロック者を同じにはできない。
しかも、割れ厨の対策は難しいという問題があるが、「コンテンツ」で「何らかの対価」を得たいとするなら、
宣伝ブロック者は合法だが、コンテンツのアクセス制限を破ったら明らかに違法だ。
一応言っておくが、私は「インターネット上の広告」を否定しているわけではない。
私は大昔に美術大学グラフィックデザイン科を卒業し、デジタル以前から現在まで、デザインで飯を食ってきたが、
いつの時代でもデザイナーというのは(就業人口の少なさという意味で)マイナーなので、
一般からは業務の実際を知られていないなあと思う。
オリンピックのエンブレム問題から派生した諸問題に、周囲のデザイナー界隈は今、みんなウンザリしている。
そんな中で、とある記事のブコメに典型的な「普通の人」の意見を見つけ、
ああ、残念だなあと思った。
曰く、「デザインという感性の世界の作品に、コンペで優劣を付けることが可能か?」
私の答えは「はい。優劣の評価は可能です。点数を付けることだってできます。
ただし、一定の得点を越えると”感性”の差ではなく、一種の”政治的判断”で得点が変わります。」となる。
デザイン=感性みたいなふわっとした物言いに、とても違和感がある。
「感性」とは置き換えればカッコイイ・美しい・訴求力があるものの選択能力だが、
商業デザインのプロは、それらを理論化・数値化・データ化して考えるものなんだ。
上記のブコメのような質問は、プロフェッショナル否定論につながる。
デザインを構築する要素の大部分は、実は厳密な理論や、歴史から学んだハック、
わりと理系寄りな教養とトレーニングの積み重ねがないとプロになれない。
また、そうでなければ、安定した職業として成り立たない。
例えば、話題の多摩美術大学の、2014年度履修科目の中から『共通基礎教育科目』を見てみるといい。
絵ばっかり描いているわけじゃないのだ。
一部抜き出すと、
心理学/芸術心理学/造形心理学/歴史学/日本文化史論/文学/美学概論/美学/考古学/文化人類学/民俗学/芸術と科学/図学/日本美術史概論/東洋美術史概論/西洋美術史概論/宗教学/人間工学/色彩論/芸術材料学/近代デザイン史/染織史/文様史/写真論/社会心理学/マスコミ心理学/映像メディア論/情報論/情報工学演習(コンピュータ基礎、情報機器の操作、3DCG)/総合講座デザイン論/現代工芸論/服飾文化論
基礎学問を学んだ上で、自分の手を動かして作品を作る実践授業を受ける。
(特に「造形心理学」「色彩論」あたりは、自分が学んだ頃よりずっと進化している学問分野だろう。)
すると、おのずと他人の作品を見て、「こういう背景をふまえて、こういう意図で作ったな」という
「プロなら分かる」って、どこの分野でも同じだろう。
プログラマならコードを見ればわかる。八百屋なら野菜を見ればわかる。
でも「何をどうわかってるか」を他人に伝えるには、膨大な説明が必要になる。
しかもいざ説明しようとすると「長い、3行で」となって聞いてくれない。
多くのデザイン関係者が今でも「オリンピックのエンブレムは盗作に当たらない」と断じているのは
まさに上記のような、職業人としての訓練の結果(及び法的手続きの結果)だが、
そもそも歴史修正主義という言葉はもともとは歴史学において、歴史を叙述し直すことを主眼とした、歴史学における試みの一つを表す。
一般には、伝統的な歴史解釈に対し、別の可能性(仮説)や、可読性(読み方)を提示する試みをいう。
つまりただ単純に新たな資料から考えなおしてみることを指しておりそこにイデオロギー的な意味等は含まれていない。
有名なものとしては以下の様な物が歴史修正主義の立場から新たな観点として持ち込まれた。
鎌倉時代の始まりについてはニュース記事などになっていたりするので知っている方も多いと思う。
いい国(1192年)つくろう鎌倉幕府という覚え方をした方が多いと思うが現在では1185年の成立説が優勢になっており
中学や高校教育での教科書などでも1185年に改定されている場合が多い。(らしい
というように主に歴史学において使われる言葉ということになる。
ホロコーストは存在していなかったという言説を声高に掲げる勢力が台頭してきた際に、彼らは自らのことを「歴史修正主義者」と名乗った。
つまり、正しく歴史を認識しているのは我々であり正しい形に修正するというような意味合いで彼らは使ったわけだ。
そしてこれらに反発した人たちが当然出てくる。
そして彼らもまた、ホロコーストのように広く知られた事実を否定する「歴史修正主義者」たちを悪し様に言うようになった。
といったような内容を発言する人もいる。
しかしながら私はこの歴史修正主義という言葉そのものが非常に危険なフレーズだと思っている。
通俗的な意味としてwikipediaには以下の様な意味で記述されている。
ある特定の歴史家が、反対者の歴史観に対して、否定的な印象を広く一般に植え付けるためのレッテルとして用いることがある。
この用法による「歴史修正主義」とは、「客観的な歴史学の成果を無視し、都合の良い過去は誇張や捏造したり、悪い過去は過小評価や抹消したりして、
自らのイデオロギーに従うように過去を修正するもの」であったり、「既に修正された歴史観の再修正をするもの」という意味で使用される。
特定のイデオロギーを持つグループが反対グループに対して使用される。
「慰安婦が存在しない等というのは捏造だ。歴史修正主義者はこれだから」
ただ、現状のイメージとして、左派が慰安婦否定論等を使う右派(ネトウヨ)に対して使っているイメージが非常に強い。
特に安部総理に対して使っている記事やはてなブックマークのコメントでもで散見される。
Twitterなどでの論説を見るとレイシズムなどと歴史修正主義を結びつける人がいたり、非常に安易かつ混同した使い方をする人がいる。
もちろん、慰安婦が存在した資料をしっかり示したり、きちんとした言葉で反論するのであればそれは非常に健全であるし、どんどんして良いことでは有ると思う。
しかしながらこの言葉を安易に使いすぎると非常にまずい状態になってしまう可能性があるのではないかと思うのだ。
特定のグループ内で共有されている歴史的に正しいとして考えられている事と正反対の意見を述べるグループに容易に
歴史修正主義者という非常に「ネガティブ」な意味合いを持つ言葉でレッテルを貼るという行為がもし広まった場合、議論が成立しなくなってしまう。
歴史学は基本的に異なる説がいくつも存在しており、その中で多数派であったりするものが教科書などに採用される。
だが、そこには明確な証拠や、非常に練った方法で歴史を調査・推定しているのだ。
ただ、その場で相手を悪し様に歴史修正主義等と批判したりすることが容易に行われた場合どうなるのか? 当然反対意見がのべづらくなってしまう。
なにせ歴史修正主義という言葉のバックボーンにいつの間にかレイシストという意味がはびこってしまっっており、反対意見を述べたに過ぎないのにレイシスト等と罵られる事と同義になってしまうのだ。
もし、南京事件が存在しないという論が日本国内で多数派になった時どうするのだ?
今度は劣勢になった側が歴史修正主義者、つまりレイシストと言われるようになるのだ。
そうなってしまった場合どんなに資料や証拠を突きつけても覆すことが非常に難しくなる。
「正しくない歴史を主張するものは差別主義者であり、キチガイなのだから当然だろう?」
こんな使い方を考えなしにのべつ幕なしに使っていれば自分の首を締めることにもなりかねないだろう。
もし反対の意見を述べるのであれば安易なレッテル貼りを行うのではなくきっちりと資料や発言等を引用して反論することを強くおすすめする。
便利だからってアホみたいに使っちゃ駄目よ。
以上。
ブコメで答えられれば良かったんだけど、ちょっと100文字じゃ無理そうなのでここに書く。
近親婚についての↓の記事がホッテントリに上がってて、そこのブコメで意見が分かれている。
http://irorio.jp/daikohkai/20150118/196586/
それに対して「なんで同性婚を引き合いに出すんだ」という人も何人かいる。
後者は近親婚に否定的なようで、「一緒に否定されたくない」という意味で反発していると読めたので、
同性婚を引き合いに出した一人として、答えておく。
私の答えは、
「同性婚を許容するのと同じロジックで、近親婚も許容されるから、決定的な違いがあるというのならそれを示すべき」
というもの。
私は今でこそ同性婚は許容しても良いと考えているが、
一時期論争が盛り上がった時の前半は、否定論者だった。
否定的だった論拠は、「同性婚が出来ない事で蒙る不利益が、独身者が蒙ってる不利益を超える事はなく、婚姻による社会的利益を享受する正当性は無い」と判断していたから。(この認識自体は、今も変わらない)
許容派に考えを変えた理由は、ある論客が述べた論理が、納得いくものだったからだ。
「大人である当人2人がそれを望んでいて、誰の迷惑になるわけでもないのだから、受け入れるべき」
近親婚の是非を問うた時に、私が同性婚を引き合いに出した理由は、もうお分かりと思う。
上記の同性婚肯定論者のロジックが、そのまま近親婚に当てはまるからだ。
大人である当人2人がそれを望んでいて、誰の迷惑になるわけでもないのだから、私は近親婚を許容する。
許容しないなら、同性婚が良くて近親婚が悪いその理由を述べられよ。(もちろん、「どっちも悪い」という人もいるだろう)
リンク先の記事を読む限り、遺伝子の問題はクリアされていて、かつ、虐待による強制・半強制の可能性もないと判断している。
そもそもそれらは、近親婚でそれが発生するリスクが通常より高い、というだけの物で、それらの問題をクリアした上で婚姻を望む2人を認めない理由にはならないだろう。
以上。
もちろんだけど、「He and other nationalists」は安倍を含んでるじゃん。
安倍自身が南京大虐殺の存在を否定したってのと、彼の取り巻きに否定論者がいるってのは全然意味合いが違うよ。
たぶん、この筆者は、「安倍は否定してるに決まってる」と思い込んでるか、
あるいは、安倍自身が言ってるのか、その取り巻きが言ってるのか、その違いは大したことじゃないと思ってるから、筆が滑ったんじゃないのかなと思うけど。
つまりは、この問題に関する記者の知識というか感覚がそのレベルってこと。これが環球時報じゃなくて、NYTimesだから、ちょっとやばいなぁと思ってる。