はてなキーワード: 中庸とは
民主主義にバグがあるような気がするけど、どこにバグがあるのかわかんなかったんだけど、やっと思い至った。人に投票する制度にバグがあるんだ。
政党政治は人に投票するよりモダンだけど、政策のカバレッジが低い。(投票を得るために中庸によるから)
とはいえ、政治と金は切り離せないから、どんな政策をとるにも金はいる=政策ごとの投票はそれはそれでバグの温床。
そうすると戦略オプションを機械的に走査して、これを取って、これを捨てる。みたいなそのオプションへの投票がいいんだろうなー。
機械的にやらないと、すぐ中庸の総論OK的な先送りすが人気になりそうだし、できればオプションの検討には人が介さない位がいいな。
最近燃え盛ってる「カルチャー顔」の記事を通じて、自分の嫌な内面に気づいたので少し書く。
※ネタを知らない方へ:現在記事そのものが取り下げられてるみたいなのでTogetter載せときます
https://togetter.com/li/1343957
◼️カルチャー顔、好き
記事に書いてある表現のほとんどは賛同しかねるが、わたしはカルチャー顔はすごく好きである。
どこか影のある顔立ちを好む性質があるので、普通に小袋成彬とか好きである。
(なのでATSUSHIと殴り合う必要性は全く感じないしみんな平和に生きて欲しい)
ただ世の中でいう「塩顔」とか「ソース顔」みたいなのにくくれない概念だから、他人に異性の好みを問われた時に何と説明したらいいかよくわからないまま過ごしていた。
なのでふっつーにこの記事を見て膝を打ってしまったのである。「これで説明できる!」と。
しかし世の中はルッキズムに反応したし、小袋成彬本人がTwitterで激怒した。記事は炎上し、灰となって消えていった。
まあ正直「飲み屋でやっとけ」的な記事だし筆者のドヤ顔が裏に透けて見えて何とは無しにムカつくし、
なによりカルチャーを愛する人ほどカルチャーの濫用を許さない文脈を知らずに自己発露のために悪口めいた記事を書いたのはアホだなと思っている。
ただその概念自体は世の中に汎用性がある話で、たぶん表現が違えばもう少し許容されたんだろうなと思っている。
つまり「ふつーに浸透する道はなかったんかな」と思ってしまう時代遅れ脳の持ち主なのである。
◼️こんな女が出来上がるまで
そんなわたし自身はその辺にいるただのアラサー女で、顔は可愛くもブサイクでもない中庸だと自己認識している。
ただそのテイで振る舞うと「あなたは可愛いのだから〇〇(ここには【もっといい男と付き合える】とか【自分を大事にして】などが入る)」と周囲に怒られる。
それを鑑みると自分はルッキズムの中では守ってもらえている側なのだと思う。
なぜなら瓶底メガネをかけて小デブでクソみたいな性格をしていてモテるわけがなかったからだ。
モテたいのにモテない苦しさは凄まじかった。好みの男と付き合いたいのに話すことすら叶わないのだ。
そこから外見に関して自分でできる範囲の努力をした結果、どうやらわたしは派手な顔だったらしくチヤホヤされるようになった。
(整形などをしたわけではない。コンタクトやらメイクやら、一般的な努力である)
長くスクールカースト最下層にいたのでコミュ障もだいぶ拗らせていたが今は社会人としてなんとか生きている。
◼️今ルッキズムがすごく叩かれているけど
つまり、わたしはルッキズムにボコられたが反骨精神で外見を磨いてチヤホヤされるところまできた、という経緯がある。
見た目が多少左右する(一般には綺麗な女性が就くと認識されている)仕事にも就いていて、見た目を足がかりに社会で成り上がろうとしている。
つまりわたしはある程度のルッキズムが世の中に残ってくれていないと自分のアイデンティティが証明できないのだ。
だから「カルチャー顔」記事をきっかけに凄まじくルッキズムが叩かれていてちょっと狼狽えている。
いや、俗に言うブサイクがこの世にいてはいけないなんて全く思っていない。
わたしの周りにもいろんな友達がいる。みんな好きだし健やかに生きて欲しいと思っている。
ただ自分が見た目に関して努力をしてきたことに対してプライドがあって、勝利した誇らしさを「ルッキズム」の一言で片付けられたら単純に傷つくのだ。
◼️これ書いたら何言われるのかな
自分が時代遅れな脳みそを持っていることは十分に理解している。
ただこの「ルッキズムの存在を少し庇いたい」気持ちは何となく殺したくないと思った。
わたしのどうしようもない人生の中で誇れる数少ない成功体験が「ルッキズムへの勝利」だからだ。
けもフレ大好きだった
そのころ忙しくて病んでたからサーバルちゃんとかばんちゃんが癒しだった
ペパプはCD売るためにぶち込んだのかなって思ったし大空ドリーマーは歌詞が陳腐で嫌いだった
でもけもフレは大好き
一期が終わった時は、うわあこれ2期来年かな?待てない。楽しみ。かばんちゃんがんばえー!って気持ちだった
んでゴタゴタしだして、ムク崎説が出始めたけど、騒動の真相が全然辿れず、キャラデザやっただけの人じゃないの?なんで憶測で叩かれてるの?って?マークの連続
ただたつきのけものフレンズが見れないのがわかってガッカリした
2期始まった頃は
お金かかってそうだな
キュルル可愛くないな
と思った
めっさはねえわ
最初の頃ってみんな、2期は可もなく不可もなく只の子供向けで無難にまとまったなって言ってたよね?
始めはみんな中立保ってる人多かったよね?
だんだんTLが2叩きで荒れ始めてびっくりした
↓包括
[くだもの(みかん){(りんご)][(消防車)}(パトカー)くるま]
↓簡略
象限ⅠⅡⅢⅣ
[x>0],{y>0}
↓
[Ⅳ{Ⅰ]Ⅱ}Ⅲ
↓? 補集合の表現が分かり難い?
【[Ⅳ{Ⅰ]Ⅱ}Ⅲ】
[x][y]{プラス}
↓
[Ⅳ{Ⅰ][Ⅲ}Ⅳ]
用例>
↓
ネトウヨと形容される一群は保守を自称しがちだが左翼的価値観を振り回す事が多く、
彼らが攻撃対象として選ぶサヨクと批判される対象は、左翼的価値観に添わない部分が主に攻撃されてる(利権、弱肉強食、エリート、格差欺瞞etc)。
↓
真性保守と呼ばれる対象も、漸進的保守ではないので保守に含まない方が良いか?
その行いは革新右翼に近い。
↓
[右翼{真性保守][維新}中庸保守{ネトウヨ][サヨク}左翼]
…既に、パット見で分かり難い。
右派左派の論争が雲鼓なのは何でも乱暴に左右の軸でまとめようとするからだよバーカバーカみたいな話はよく見るけど、じゃぁ乱暴じゃない軸分けって何なよの?ということで愚考してみた。最初はツイに書こうとおもったんだけどいつもチンコとかしか言わない垢なので思い直してここに書く。
所詮素人の思考実験なので粗が目立つし、要素のプロットには自分の政治的はポジションにおける感情がどうしても入るのであんまり参考にならないかもしれないけどまぁそれはそれとして。
欧米で左右というとまずこの価値観になるよねという奴。社会インフラ的なものを政府が運営するか民間に移譲していくか的な理解でええのかなと思う。同時に、再配分の強さを表すパラメータでもあるので、大きな政府になれば労働者側に有利、小さな政府になれば資本家側に有利ということになる。
軸としてはこんな感じ
保守と改革って左右関係なくね?と思うのですよ。これは政策実行のスピード感とかコミュニケーションとかでの政府の態度問題で、改革はスピード重視だけどトップダウンになりがちで対話をおろそかにするし、保守は対話をスピードよりも利害関係者間の対話を重視するので民主的だけどクソ鈍いという特性を持っている。
三つ目は外交パラメータで、自由貿易と国際機関の調停を重視する路線と、自国のブロック経済圏を重視する路線もしくは他国のブロック経済圏を排除するための孤立を行う路線。
協調←-----------------------→覇権/孤立
通貨統合--市場開放---保護貿易・民族主義--植民地主義・鎖国
EUの通貨統合を市場開放の進んだ形と見るのかブロック経済圏と見るのかは素人なのでどうプロットしたものか悩ましいんだけど、国際協調の極端な形として置いてみた。極端なものは破綻をきたしやすいという点では妥当だと思う(ぁ
また、民族主義の扱いをどうするか悩ましいところではあるんだけど、排他性の強さを考えればこの軸に組み込んでしまってもいいかなと思う。
軍事的なパラメータ(タカハト)というのは独立パラメータではなく、基本的には協調vs覇権・孤立の軸に付随して発生するものと考えていいのではないかと思う。つまり覇権や孤立に傾けば自動的にタカになるし、そうなると周辺国も警戒して軍事拡大を行うという関係なので、軍事ありきでのタカハトは有り得ないというのが妥当かなと。
以上の3軸を使うと、ステレオタイプな左右像は
ということになる。でも実際の各国の状況を三軸で分析してみると…
ということで基本的にステレオタイプな左右像にはまるような国や勢力というのは有り得ないのじゃないかと。これを乱暴に左右という一本の軸で考えようとしたらそりゃ当然の様に理屈が破綻しますわね。
中庸と呼ばれるポジションを確保するのに、通常は大きな努力が必要だということを我々は大いに知っている。
増田は今それが死後読まれることを想像してワクワクしているんだろう?そのワクワクが生きることだ。人生の興味だ。
俺が小学生のころに遺書を書いたときもそうだったよ。人生に絶望しているのに、不思議な高揚感があった。
死ねなかったけどな。
懸命に凡庸な生を生きてきた自分を、その裏にある凡庸でない考えを。
そしてそれは、生きてるうちでもできると思うよ。
まあどうせあなたは死なないよ。自殺なんかしたら凡庸じゃないもの。それはあなたのポリシーに反する。
非常に言いにくいことで,しかしながら,ずっと言わなければならないと思っていたことを,伝えなければならない人(もしくは人たち)に,過不足なくそしてタイミング良く伝えることは皆が思っているよりもずっと困難である.
特に私のようなやらなければならないことを後回しにする癖を持っている人間にとってみれば,直接伝えることよりも間接的に目的の人(もしくは人たち)が伝え聞くように,その計画を時間をかけて用意し,数十年のスパンで実行する方がたやすいことのように感じられる.
最初の,そして最も基本的な伝えたいことは,齢30を過ぎてから最近気づいたことだが,
私は,私の人生に興味が無い.
私の生きている理由はたった一つ.生まれてきてしまったからである.そして,私がこれまでに生きてくる上で大切に守っていたルールもたった一つ.敵も味方も作らず,ただ平穏に,喜びや悲しみや,それに付随して生じる感情の起伏もただひたすらに最小化することに腐心することであった.善を追い求めず悪を憎まず,ただ単純に生まれたから生き,死ぬまで低空を水平に飛び続けること,それのみを望んできたのである.それが単純に楽であったから大学に行き,職を得,とびぬけた業績を上げるわけでもなく,落ちこぼれるわけでもなく,常に可もなく不可でもない中庸の目立たない位置を確保してきた.そしてそれをこれからも続けていくつもりの私にとって,向上心とは人生において最も必要でないものの一つに過ぎない.悟りと言えば悟りなのかも知れないが.
妻と結婚したのも,それが単純に楽だったからである.両親から結婚をせっつかれ,それに嫌気がさしていたちょうどそのころに,同じような境遇だった妻と偶然にも出会い,お互いにお互いをよく知らなかったが,これ幸いにと入籍をしたのである.特に好みの女性のタイプを持たない私にとって,彼女の見た目や性格,育った家庭などが,良い方向にも悪い方向にも極端に偏ることなく,全てにおいて中庸であったことが,私の世間体を満足させるのに必要十分であった.
子供が生まれたのは,入籍してから1年が過ぎたころであった.入籍の後の数回の性行為のあと,妻が体調が悪いと病院に行き,一旦,単純な風邪であろうとの診断が下ってから,妻も思い当たることがあったのであろうか,産婦人科を受診し妊娠が発覚したのであった.特に問題もなく自然分娩で生まれたのち,これまで大きな病気もなく育ってくれていることはありがたいことである.
だが,しかし.私はこの辺りで私の人生を終わらせたくなってきたのである.自分がうつ病などの精神的な病気に掛ってしまったのだろうか考えてもみたが,特に私の精神状態が変化したかというと何も変わっていない.特に悩みもなければ,うつ病にありがちな心的疲労が蓄積しているわけでもない.ここ数か月,これまでの人生を振り返り,現在の自分の心境を把握し,そしてこれからどうしていきたいのかを考えてきた結果,人生を自分の手で,自分の好きな時に終わらせるのが私にとって最良であり,その理由として私が唯一自分で納得できるのが,私は私の人生に興味が無いということだけであった.
私には妻子がいる.愛していないわけではないが,最愛の人たちかと問われるとよくわからない.最愛であるべきだ,と心で感じるのではなく,頭で理解している.
それでも,私には責任がある.妻子を養い,自立させ,彼女らが(子供は娘である)一人で生きていけるようにする責任がある.それまで少なくとも14年,すなわち西暦2033年まで私は生きていこうと決意した.
そのあとは妻には申し訳ないが,妻と離婚し,海外にて消息不明になった後,自殺をしようと思っている.
もちろん,それまでには色々不測の事態もありえるであろう(妻から離婚を言い渡される,妻,もしくは娘と死別するなど)から,これはあくまでも予定である.この人生の予定を記録するのがこの日記の目的である.いつまではてなのサービスが続くかどうかも不明だが,いつの日か,願わくば私が死亡した後に,私の知っている人がこの日記を読み,そして私のことだと気付いてくれるかも知れないと考えるとき,私の心拍数は僅かではあるが大きくなるのである.
ネトウヨは徴用工は大日本帝国がやったことで日本の現体制と関係ないと言うのに
ネトウヨはいっぽうでは拉致問題では何十年も前のあったかなかったか分からんけど
しつこく日本が言うからキムが仕方なく認めたことを永久に言い続けている
集団の規模がでかくなると頭が意図してないし命令もしてないことを部下が勝手にやる
慰安婦や南京虐殺がそうであるように記録に残ってなくて命令書がないけど起こったことを結果的に金正日が責任追及されることはどこの国にもある
だから怪しくても一部の証拠があったら全体もあったと仮定して謝罪する
外国は日本に善意で接して当たり前だというくせに自分は相手を疑って突っぱねてかかる
清濁併せ呑むことを北に要求したなら自分らもその寛大な方針を受け入れるべきだろう
一部は事実だがすべてが事実かは怪しいことであっても責任を持てと北に要求して北は受け入れたのだから
だったら関係ない南朝鮮から徴用工の話が出たらば自分たちも同じ判断で一部が事実なら残りも受け入れるべき
それが道理
医療サービスが買えないということはすなわち「何も悪くないのに苦しんで死ぬ」ことである。また、大昔は宗教がそうであったのかもしれないが、代替サービスも少ない。よってある程度価格が高くても買われるサービスである。一方、人間年をとるとあちこち悪くなるので、価格が一定程度安いと需要が爆発的に増えるサービスでもある。
要は、価格がニーズや需要を反映せず、言い換えれば価格感応度が低く非常にいびつな需要曲線を形成するサービスである。
(更には、供給が滞ると社会不安を招くので採算度外視で供給されがちであるとか、需要者たる患者と供給者たる医師とのサービスに関する情報格差が激しい、等の特徴もある。)
以上から、医療サービスは自由に市場で売り買いするのが難しいサービスである。米国を除く多くの国では、医療サービスは規制され市場の仕組みに寄らない形で供給されている。
人間年をとるとあちこち悪くなるとはいうものの、壮年までは健康な人の方が圧倒的に多い。一方、医療サービスは決して安いサービスではない。よって、「多くの人から少しづつお金を集め不幸にも病気になった人に支払う」という保険の原理に良く馴染む。
医療サービスは市場の仕組みに寄らない形で供給されており、その供給量は保険金の総額で決まる。保険料が十分安ければ上述どおり需要は増えるので、保険金の総額=供給量=需要量となる。
医療サービスは一般的に決して安いサービスではない。供給側も多くの資源を投入する必要がある。専門性が高く、収入が少なくなったからといって別業種に転換するのは難しい。一方で、ニーズの総体ではなく保険金の総額という制約のもと供給が決まるので、国が医療保険を運営している場合、どうしてもサービス価格に下押しの圧力が掛かる。価格がニーズや需要を反映しないことは供給側資源価格でも同じなので、すなわち、何もしなければ「医師が離散しない程度」までサービス価格は下がることになる。実際、冷戦期の東欧諸国では上記の事態に陥った国もある。
医師会が強力な政治力のもと、(医師の品質管理的な意味合いもあって)医師数を抑制気味に保ち、よって個々の医師の収入を高止まりさせることに成功した。
一方で、価格がニーズや需要を反映しないので、供給者サイドでの人や資源の配分に価格情報(≒優秀な人は高い収入の場所へ、そうでない人はそれなりに)は使えない。よって、基本的には厳しい上下関係の下、医局が各所のバランスを取って独善的に決めていた。個々の医師に自由は少ないが、「若い時には医局に居て激務に耐え年を取ったら開業医になって高収入と余裕を得る」というキャリアパスで報いていた面がある。但し、このキャリアパスの仕組みは本質的にヤクザの鉄砲玉と同じである。
また、このキャリアパスでは常に開業医が大学病院勤務医の先輩になるので、医師会は開業医の発言力が圧倒的に高い組織であった。
医師に自由がなく医局が独善的に全て決めるということはさすがに前近代的だということで、この仕組みは弱まった。
そうなると、医療サービスの特殊な需給構造の中で、個々の医師が自らの経済合理性・医師としての信念でものごとを決めていくことになる。価格がニーズや需要を反映しないこととは、供給者サイドでいえば優秀な医師もそうでない医師も一件は一件で受け取りは同じ、ということである。
ここで生じたことは「中庸への集中」であった。保険金総額の制約があり、品質を過度に磨いても固定価格であることから、リスクを抑えながらその中で品質を保ち十分な件数をこなすことが多くの医師の最適行動になる。
最新情報に数年遅れをとる若いうちの僻地勤務はダメ、高収入でも業務はきつく医療訴訟のターゲットにされやすい外科はダメ、必要性は高くても医療訴訟のターゲットにされやすい産婦人科はダメ、等。これらは社会的意義もニーズも大きいが、そもそも自由に市場で売り買いできない医療サービスでは、「リスクに見合う価格」はもとからない。個々の医師がこれらを行う合理性は全くない。
結果として、個々の信念に頼るか、負担は大きくなっても別枠で予算を確保して充てることになる。
女子が外科等を選ばないということは、女子の方がより合理的な選択をしているということである。もしくはリスク許容量が少ない状況であるということである。
美を追求するコンテストを廃止するなんて美を賞賛する事もダメなのか!
知識量を決める事と何が違うのか!
みたいな知性のかけらもないブコメ並んでてブクマカって馬鹿しかいねえな〜と思った次第。
馬鹿には分からんかもしらんが、一応説明すると人の外見において、何が「美しい」ものなのかってのがもう人に決められるもんじゃないって時代に来てんのよ。
自分の美、の基準は自分で決めよう、自分のありのままの姿を自分で認めよう。
他人が優劣をつける事はやめようって話ね。
背が低くても足が短くても、美人。
ニキビがあっても、肌がきめ細かくなくても、お尻にセルライトがあっても、それも美しいじゃない、って話よ。
もちろん建前でもあるよ?
大っぴらに
肌がきめ細く色白でニキビもなく足が長く髪がサラサラで艶があって額が狭すぎず広すぎず姿勢が良くてお尻が垂れてなくて二重で目が大きくて鼻が高くてどこかに気になるアザも大量のホクロもないって子
を、美人として優劣をつけ評価する事は、そういう美の基準を作るって事になるんだよ、分かる?
持って生まれたアザやチリチリの髪や短くて太い手足を否定して、その昔ながらの美の基準を目指そうって価値観自体がもう古いって話。
そしてそれこそそうした価値観から遠い人が傷ついて苦労して来たって話ね。
もちろん芸能みたいな商売はまだまだ利用すると思うけどさ、それとこれは違うやん?
あんな人間を売り物にするような業界自体が普通じゃないんだからさ。
知識とか運動みたいに明らかに多い少ない速い遅い強い弱いで優劣がつくもんじゃねえんだよ、美ってのは。
誰かが勝手に決めてきたもんなんだ。
んで苦しんできたもんなんだよ。
その水原希子もケツのセルライトを修正せずに出して一部ではなんで汚いものをって言われたんだよ。
それが美だよ。
まあ水原希子だって顔小さいし足長いけど、そうじゃない子だって少しずつモデルとして活動出来てきてるじゃん。
それを認める事なんだよ。
何であんなのが、って言うのは間違ってんだ。
そうなんだよ、もはやモデルって何って話で良いんだよ。
いやそれでもそれなりに色々あるだろうけどね。
リスクがあってもね。
それを否定は出来ないよ。
でもな、そうして整形願望を持つ子たちの根っこには、過去に形成されてきた画一的な美の基準があって、それに伴う世間の評価が存在してるからなんだよ。
ありのままの姿でずっと評価されて認められてきてそれが世間で当たり前になってりゃそんなリスク犯さないんだよ。
鼻が高いのが可愛いよねって価値観が男女共になければ、そんな事しなくて良いんだよ。
よくよく考えるとさ、健康を害してまでウエストを締め上げたコルセットの時代からまだそこまで進歩しちゃいねーんだよ人類。
だから少なくとも大っぴらな美の基準を固定化する行為は否定されて然るべきなんだよ、わかる?
ちなみに俺は高校生の時に学校のミスターコンテストで優勝した事あるけど、この流れは素晴らしいと思う。
これは冗談で言うけど、おまえらブサイクブスばっかのくせになんでルッキズムの片棒担いでんだよ。
というかそこにコンプレックスあるやつほど執着すんのかもな。
あれだけ従わされてきたルールが突如変更になるって、俺私のこれまでは何だったのって。
でももう楽になろうぜ。
そんで自分達の子どもの代では過去の美の価値観から解放してやろうぜって思わんのかね。
追記:アノニマスでもなんでもないけど読んでくれてあざす。
だいぶ煽ったおかげで読まれた気がするけどもその部分の反発やご指摘は仰る通り。
自分の云々は蛇足だしどうせ僻みだろみたいな反応への予防線なんか張る必要なかったし馬鹿だったと思う。
多分自分がブコメするほうでもそこ一言嫌味入れると思うしのっけから馬鹿だなんだという部分で不快になった人には申し訳ない。
ただ揚げ足取りや内容への言及なしなものが大半になっちゃったのも否めずなんつーか諸刃だった感もあって。
全部いちいち注釈入れて全方位配慮型で中庸に仕上げた文章読まないでしょ?という気持ちは今もなくはない。
重要なのは美の基準の話だけど、生理的なレベルの好き嫌いに関しても俺は後天的なものだと思うんだよね。
生まれた時から周りに自然にいる人に対して自発的に生理的嫌悪は起こさないんだよ。
いわゆる顔面うんたらみたいな障害持ってる人とかも、出会ったことがなければ衝撃を受けるのは自然な事だけど、仮に身近に当たり前にいれば生理的嫌悪も起きないわけよ。
現代の美的感覚も西洋の文化からの受け売りのものが多数であって、心理的なものですら必然的な現代生活の刷り込みあっての後天的な環境要因あってのものだと思うわけ。
現代文明に触れてないジャングルの奥の少数民族が同じ美的感覚持ってると思うか?って話。
だからそれらも刷り込みであって、その土壌を作ってきた1つの美の様式を小さなとこから解体していくべきと俺は解釈してるわけ。
それはある種文化を壊すことにもなるけどそれがあるべき人間の進歩には間違いないわけよ。
海外の流れがそういう考えを元にしてるとは思わんけど、自分の美の基準を自分で決めるべきってところを掘ってくとそういう話にもなるわけ。
今までの基準を壊していく事、刷り込まれてるものを一旦全部リセットしてっていう。
ファッションだって黒人がヴィトンのショーを数日前にやって、ストリートの手法がどんどんラグジュアリーにも本格的に受け入れられて、まあそっちはマーケットベースで動いてるけど、そういう一連の流れと多様性と価値観の進歩は全て共鳴してんのよ。
藝大みたいなとこは、って言ったのはアートとかそういうのは価値観を先に進め時代を牽引するものであって、だからこそ表のミスコン?にはそういう意図があった中、保守的な従来型のミスコンをやるってのがそりゃ違うでしょってなるのは必然って話。
あと運動能力や知識量は明らかな勝敗がつけれるものであって、生まれ持ったものに左右されるのは確かだけど、美の基準が後天的に作られてるっていう前提からすると同列には語れない。
それも比較するな、となったら努力を否定する事になるってのは分かるけど、運動能力や知識量は目指すべき方向性が決まってる。
それに対して美への努力は何を持って美とするか、を誰かが決めるものではないって話。
あと芸術点のある競技の話に関して鋭いツッコミあったけど、これは競技に限らず芸術作品、文芸、ファッション、音楽とか全てにおいて権威が評価を決める事への反発の動きもあって時に変動するからこそ基準に対して流動性があって良しなわけ。
それにそれらは人が作った競技だから基準を人が作っても良いわけよ。
でも美人の基準は流動性がなく(ほんとは若干あるけど、流行りの顔とか。でも生理的なものとか言われるくらいだから根底はあんまずっと変わってない)、なおかつ人の外見なんか人が生み出した競技ではなくその美の基準だけ人が生み出して、それで苦しむ人がいるわけやん。
んでミスコンはそんな外見の優劣なんて競技に参加したつもりもない人間を判別する基準を制定する事になる行為だって話。
だから取りやめる事は必然であって、他の競技も出来なくなるとかつまらない時代とかって批判はおかしいっしょっていう。
この辺が話の本題で本質ね。
ブコメが本質の話にあまり至ってないのは俺の責任でもあるけど、少しでも気にかかった人はこの追加まで読んでくれると真意は伝わると思う。
再追記:タイトルや煽りで損してるのも分かってるけど敢えて改変はしないつもり。
キモい、とかそういう内容に言及しない批判はどうでも良いし、的外れな批判を取り上げて持論を補強する卑怯なやり方もしないっす。
でもブコメの意見がめちゃくちゃバラバラでそれは良いのかなと。
勢いで書きなぐったのでまとまってないのは申し訳ない。
誤解を生むのも自分のせいかなと思うけど、未だに「黄金比みたいな美の基準は決まってる」みたい論は、それ後から決まってきたものであって、例に出してる現代文明に触れてない人間には通用しないんじゃない?=文明の影響で黄金比を感じる土壌が出来てるのであって後天的なもんだからそれを普遍的な美だと決めつけて人様の顔に当て込んで評価するのやめようぜって話。
で、そうした美の基準は多様で良いって前提なら従来型の画一的な美の基準に照らした評価を継承するミスコンは無用で過去の価値観を補強し定義する害悪って言ってる。
美以外にも努力は否定してないし、ただ美の努力の方向性を勝手に誰かが決めてくのは終わりって話よ。
肌が綺麗とかどーとかよ。
ありのままでええやん、が本旨。
何回も言うけど、他の運動や芸術などのコンテストや競技は競技自体を作ったのが人間であり、何かを行ったもの、を評価するものだから評価基準を人が作って良い。
一方、顔やスタイルなどの造形は生まれた時にある程度決まっており、何かを行ったもの、ではなく存在する外見そのものを評価する事でもあるから、評価基準を人が作るべきでないって事。
努力っつっても外見に関して何に向かって努力すべきかを他人が決めるなって話。
そこからデフォルトで遠い人間がネガティブな評価を受けるから、以上。
だったら中身だけでやれって話になるので。
余談だけど俺はめちゃくちゃ性格悪い自覚はあるから言及しなくて良いっすよ。