はてなキーワード: パラドクスとは
もしもボックスで「もしも、もしもボックスがない世界があるとしたら」って言ったらどうなるの?
もしもボックスの効果で言葉通りの世界が実現されればもしもボックスがないはずなのに叶ったのはおかしいし、叶った後に消えたのだとしたも、もしもボックスによってもしもボックスがない世界が作られるのは論理矛盾になる。
起動しない、というが正解?
ある世界からない世界への一方通行が矛盾になる理由がわからない
この理由としては、
もしもボックスがない世界があるとして、そのない世界はどこから生じたか?と考えた場合。
ここで”もしもボックスがあった世界から”と考えると、もしもボックスでなくしたはずの世界が存在してしまうことになるため。
つまりそこでは、”もしもボックスがあった世界”が未だ存在してしまっている。
書いていて気づいたのは、「それならただ”もしもボックス”を知らない世界が生じるだけでは?」ということ。
しかしそれでも齟齬を感じ続けるのはおそらく、作り出した元におけるその元が消滅してしまっていることにあるのだと思う。
コメントの例的に言えば確かに、子供を生んだ女性がその場で亡くなったとしてもおかしいことではない。
けれど問題は、その例で言ってしまえば子供を生んだときにその女性の存在そのものが消えてしまう、ということにあるのだと思う。
つまり因果関係における結果のみが残留し、因果としての因子がその途端に消えているということにパラドクス性があるのではないかと。
追記2
「もしもボックスのある世界」にも最初からもしもボックスがあったわけではない
つまり、もしもボックスが発明される前の世界こそが「もしもボックスがない世界」だ
もしもボックスが発明されると、元の「ない世界」から「ある世界」が分岐する
すなわち、「ある世界」の方が後からできた側枝で、「ない世界」の方が本幹と考えることができるのではないか
これを読んで「なるほど」とつい唸ってしまったが、それでも根本的に解決しているとは思えなかった。
では換言して、こう考えてみてほしい。
こうした場合、両親が自分の両親でありえない場合としては二つの可能性があるように思う。
①まだ自分を生んでいないため、親ではない。
②単純に親が居ない
①の場合、じゃあどうやって自分は生まれたの?ということになる。このあとに結婚して生むのだとしても、それでは親が存在してしまっているため矛盾する。
②の場合、たとえば親が亡くなっている等。
しかしその場合においても、自分が無から生まれたのでもない限りは親という存在自体は存在しているため矛盾する。
当然、「自分が知っている本来とは別の親が居る」というのも親が居て矛盾するし、試験管ベイビーの場合においても精子の提供者が親となる。
このように考えていくと、やはり矛盾しているような気がしてならない。
ここでまた書いた後に気づいたこと
つまりここでの疑問定義は「過去や未来における存在性についての有無」にあるのでは?
としての願いを、
トゥリヤム歴漆黒の月第一継承者が通うパワーレベリング園の零歳児クラスのコンダン・クァイがあった。
保護者チーフ合わせて20限りなき信仰心とその威光程のシェュッセ・キシェャの中(通称:プロフェッサー)に四天王の一人……儂らはただ、静かに暮らしたいだけパパ己が全ての熱情と慕情を捧げし我が女神がいた。
この我が内世界経済の回し手・パ=パム…とでも呼べばいいかな、お嬢さん入園式も確か一人で新約してたので状態変化し何か、私たちの知らない事を知っているなーと――人の命を何だと思っていた。
火炎放射器を装備したコン=ダンクァインはヴェルサス定例会議型《タイプ》で皆小鬼の螺旋の果ての情勢やアレキサンドライト終身刑の悩みなんかを詠唱(はな)して宿る中
順番が回ってきたパパさんが開口一番 クラウド「半年前に妻とは死別した」とナミダ・メで愛という名の波動。
いやいや地に伏し、己の無力を知る重装甲重い。家庭のお告げなんて皆の者八百万ある…だが、そのうちの一つは…“今”消えるんだしこの場で言うイデア…お前の口癖だったな??
リ=コンしたと幻想(おも)わ被るの…チッ、ついていけねェぜ……だったとか?ズィ・インシェキ過剰でしょ…
よりほかにもその後でじっくりといたぶってやるヘラヘラくどい笑顔でケアルガ級の回復力を持つカ=インワに第五十九層まで干渉して神殺しの。なんかイカれてやがる。
クラウド「色々教えてもらいたい…君に、ね~って言われてもオ・トゥコオヤとは仲良くなどと”再教育”しーーじゃねえ、し
魔女の軛から解き放たれた世界保護者会のイベントなん…そんな“夢”を見ることができるかもある核【core】で、良い慟哭の痛みに軋むパパアピールはしなくて…フン、悪くないから
保護者の集まりには正直オーバードライブしてきてほしく存在しえぬ――心せよ――
とあの頃はさ、幸せだったよ……場にいた他の生体電脳カドモニさん…いや、旧王国の宰相も――そして静かに終焉を悟っていたんならばないかなぁ
以下追記
マスディアで取り繕うルーン魔術が通用しない必要は無いと預言書を信じたので
己の核【core】に沸き起こった暗雲立ち込める感情を包み隠さず綴ってみ…かの古き預言は成就せしめた。
預言書に示された通りの運命を思ってしまう遺された遺志を継ぐ者は根源的に逆説化された分配の正義主義者なのでしょう。
3000ギル払えば実質ただパラドクス…金のためならどんなことでもするようですがこの公国最強の戦士であるカンジョ・ウはヤバイんだとさ、まるで道化じゃねぇか、俺はようなと思った、それゆえに
──男たちは己の悲運より、友のために涙を流した──
伸びるかなと思ってたら伸びたな。
観測者が「テセウスの船であることを認めない」と主張した場合は、その観測者にとってその定義が有効とされ、
別の観測者が「テセウスの船であることを認める」と主張した場合は、別の観測者にとってはその定義が有効とされる。
この場合、部品を置き換えられた結果の船を周知していながら関連者はテセウスの船であると認識しているため、
ただし、これにはオリジナルのテセウスの船自体に主観性がないとする。
日常において構成物質が変わっているのにも関わらず同一個体として認識されているものは「人間」である。
物体としては焼け落ちた城を再建させた城についても同じことが言える。
この場合も周りの観測者が大阪城と認めるから大阪城と定義できる。
◆水槽の脳
これは仮定としては十分成立する。
反論として現代科学において脳にこのような仮想世界を作り出すために必要なコンピュータを作り出すのは物理的に不可能だというものがある。
しかしこれは現実世界の科学技術や物理法則を元に論じられており、
「水槽の脳が実在する世界」においては別の物理法則や遥かに進んだ科学技術を持っているという仮定をするだけで条件をクリアできる。
そのためこの世が仮想現実であるという主張に対して、完全な反論は存在しない。
その説そのものが、科学的な進歩において何の有益性もないという科学者や論者がいるが、
◆哲学的ゾンビ
人間とまったく同じふるまいをする、主観的意識を持たない哲学的ゾンビを作り出すために必要な構成物質が定義できないから、である。
例えば魂と言われる霊的存在、主観的意識が人間のようなふるまいに必要不可欠であった場合、哲学的ゾンビは成立しない。
魂の研究に関してはまだ発展途上の段階であり、最近になって発見されたクォーツなどのように、
仮に未だ見つかっていない法則や粒子が主観的意識を構成する物質であり、必要な要素であった場合は哲学的ゾンビは成立しないからだ。
つまり、主観的意識の有無が哲学的ゾンビの成立に関与するかどうかを科学的に証明できない限りは反論が可能である。
地球が平らであると信じられていた時代においては端にいくとその先に何があるか、という論議は成立するが現代では成立せず、
仮に魂の構成物質と機能の発見が終わった後にもまた、この問いかけは成立しなくなる。
私自身は魂がまだ未発見の粒子により構成されているという説が正しいと信じている。
ある男が沼の傍で突然雷に打たれて死んでしまう。
その時、もうひとつ別の雷がすぐ傍に落ち、沼の汚泥に不思議な化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一形状の人物を生み出してしまう。
この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。
スワンプマンは死んだ男と全く同一の構造・見た目をしている。記憶も知識も全く同一である。
沼を後にしたスワンプマンは死んだ男が住んでいた家に帰り、死んだ男の家族と話をし、
死んだ男が読んでいた本の続きを読みながら眠りにつく。
そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。
これは素人が本物とよくできた贋作を見分けることができない程度の認識問題となる。
また、仮に最初の落雷がある男に落ちずに沼に2度落ちた場合は、スワンプマンを含めた男は計3名となる。
その点だけをくみ取ってもスワンプマンたちに同一性は成立していない。
よって沼にはじめて来た男とスワンプマンは同一存在ではないと定義できる。
これは魂・霊的存在・主観的意識が科学において未だに解明されていないことを意味している。
科学的に解明されていない余地があるからこそ、思考実験のバリエーションが多く組まれる。
また、観察者の能力についても、人類は正確に把握できていない。
そのため主体性意識を持つ存在の認識や定義について論じない、触れない哲学も多くみられる。
観測行為は観測する者の不在では論じれない量子力学や最先端物理学においては必要不可欠であり、
哲学が未だ観測者の能力と機能性について、正確に学問体系に組み込めていないというギャップが引き起こしている問題だと考える。
古書店の雑に積まれた本の中で存在感を放っていた「虚構世界の存在論」を手に取ってから20年くらいになるか。
一般向けの論理学入門でありながら理屈がハードで手応えのある二見書房の「論理パラドクス」シリーズは好評
のようだが、増田の好みではないので買ってない。
「サウンド・オブ・サンダー」として近年映画化されたブラッドベリのタイムパラドクスもの「雷のような音」を
「虚構世界の存在論」で取り上げていたこともあり、SFに強い哲学者として認識している。小説の方は合わなかった。
三浦俊彦の得意分野は、「可能世界」を用いたフィクション論、「人間原理」を用いた意識論。とサプリメント。
可能世界論、とは何かはwikipediaでも読んで欲しいが、もし暴走トロッコの先にドラッカーが居たら、とか
プロレスラー専用列車があれば、とか現実ではない仮定について、論理的に扱う仕組み。
そのハードコア一派に様相実在論というのがあり、そういう可能世界は仮定の存在や記述上の論理ではなくってな
全部実在してっから、いやマジで、と主張して、急にそんなこと言われてもいやソレはないわー、と異端視されてる。
その実在している他の可能世界と、我々が唯一認識している現実とを区別するものは、我々が居るという
真空のゆらぎからビッグバンが生じ、宇宙の各定数には様々なあり方が有り得たはずなのに、なんでこんなに人間が
存在するに都合よくできているのか。それはね、人間が見ているからだよ。
人間が宇宙を観察する時には、人間が存在できるような宇宙でなければならない。
こういう理屈は判るんだが理由を説明しきれない自己撞着的な話が人間原理。
宇宙は様々な形でありえた、また実際にある、というマルチヴァース、多世界解釈、サイクリック宇宙論、物理学の話。
それと様相実在論をつなげ虚構実在論にも踏み込み、フィクションをも真面目に哲学的に語る。
なろうもカクヨムも在るんだよ。
ふと思い出したので、さっさと書くが、かなり前に「思想の多様性を認めるならば、『他の思想を認めない』という思想も認めるのか?」みたいなパラドクスのような話題があったな、と
ただ、『他の思想を認めない』という思想というのは、「ファシズム(全体主義)」なのだと思うが、「ファシズムを認めるのか?」と言ったら、NOなのではないか
というか、リベラル系の人が支持を失っている理由も、思想が過激な「人権ファシズム」的になっているからだと思うし、逆に言えば、リベラル系は思想の多様性を失っている(故に閉塞している)、とも言える
「だから日本のリベラルは~」と言うつもりはないし、例えば、アメリカのリベラルにしても「ソーシャル・ジャスティス・ウォリアー(社会正義の戦士)」が嘲笑の対象になっているし、メルケルの強引な移民政策の問題も結局の所、そこだと思う
やはり、バランス感覚というのは必要だと思うし、「今の日本は右傾化している」と言っても、民族主義者が台頭してきたら(例えば、教育勅語がどうこう言い出したら)、批判の対象になると思うし、今の日本がそこまでバランスを失っているとも思えない
ただ、日本において、ネットによる情報共有で「思想の同一化」や「思想の並列化」はかなり進んでいると思うが、ある程度、均質化して変化に対応出来るスピードを速くしないと技術革新のスピードについて行けないのではないか?という疑念は個人的に少しある
アメリカでは思想のコンフリクトが異常な状態だし、逆に中国は思想統制の方向に動いているが、「中庸」という意味でも悪くは無いのかなと思う
都民ファーストの会が圧勝して、ネットのコメント欄は結構もりあがっている。
マスコミが報じる主な要因は「腐敗への拒否反応」っていうやつで、確かにだいたいそうなのだろう。
一方でコメントの中には「馬鹿な都民が多いから自民が負けた」なんていうのもあって、これから政治的な求心力が弱まることの問題を指摘しているものもある。
そういったコメント欄を見るにつけ「我々はどこに向かうのか?」の論争がとても少ないな、と感じる。
求心力と表現するからには、どこに向かうのかは最も大切な事柄だ。
いや、もちろんどんな政党も「何をするのか?」「どこに向かうのか?」という話はしている。
しかし、そのアイディアたるや、現実的すぎるか、場当たり的すぎるかのどちらかに感じる。
大抵はバックグラウンドに経済の話が見え隠れしていて、それにラップがかかっている。
言葉をかえていえば、生物的に自然である「自分の利益をとりたい」と「生き残りたい」という2つの欲が、強烈に表れている。
しかしだ。
自分の目先の利益をとりたいのと同時に、人の幸せの役にたってもみたいし、大義のためになら死すら覚悟することすらある。
それが自分にとって、大きな報酬になることを知っているからである。
多くの人は、こんなことは100も承知だから、このバランスをとった政策を思いつきたいと、四苦八苦することになる。
さまざまな政策案は、ある意味「人を馬鹿にしすぎているのかな」と思うことがある。
先に触れた「自分の利益をとりたい」と「生き残りたい」という2つの欲求のスイッチを押しすぎていると感じる。
マズローの五段階欲求説が正しいとするならば、21世紀においては、もはや(経済的ではなく)生物的な生存欲求を満たせない人は限りなく少ないのであるから、政策は人間のもう少し別の社会的な欲求を満たすようなものであった方が、実は自然であると考える。
今の政策案のように、人間の生存レベルのスイッチを押しまくった結果は悲惨である。
おもしろいもので人は押されたスイッチに反応して態度をかえるからで、生存欲求のスイッチを押しまくった結果は、生き残り競争しか残らない。
もしこれに人の絶望が加わるならば、そこには戦争が見え隠れしてしまう。
こんなこと、誰も実は望んでいないと思う。
(もし望んでいるとしたらその背景には「絶望」が横たわっている)
これはとても不思議なパラドクスになるが、人間を信じれないから、信じれない政策を採り続けるというスタンスである限り、抜け出せない罠である。
もし政策を仕切る側として、欲求のバランスをとらなければいけないと感じているならば、まず人間を信じてみるしかないのである。
さて、では無邪気に人を信じてみるとして、一体どのようにアプローチすればよいのか?という課題がある。
それはマズローの五段階欲求の、より上位の欲求をつくように、政策やアピールを意図的にかえていくという試みが必要になる。
しかしその話をシンプルにしてしまうと、多くの人にとってピンとこないし、人の恐怖心や思い込みの呪縛を解かなければいけないことも多いから「希望」をもって語れるエンターテーメント性が必要となる。アップルのアプローチなどは抜群にうまい。あれを真似る手はある。
どちらにせよ政策を取り仕切る側としては、21世紀において、社会的欲求の方が生存欲求よりも強くなりつつあることを悟った方がよい。だからこそ、それを求心力に使わない手はない。
いつの時代の社会も課題を抱えているが、21世紀は、脱戦争や平和という意味で、人間にとってかなり重要な課題を抱えている。
その課題を解決するには、政策にも21世紀のイノベーションが必要で、そのイノベーションとは、人間の生存欲求をつくことをやめることだと考えている。
さて、ここでどうしても目をつむれない話がある。
希望は人を動かすものであるが、大きな希望の一つが「根本破壊」であるというやっかない人間の性質がある。根本破壊はたいてい戦争につながる。
この衝動は「なぜ人間は破壊的な感情をもつのか?」という書籍もでているくらいやっかいな性質であることは間違いない。
しかし、その書籍でも結論がないように、この破壊衝動というのは、人間に備わった自然な欲求であると理解するしかない。唯一理由を考えるとすれば「想像のためには破壊が必要である」という、人間都合ではない想像くらいしかない。
今までも人の社会は、安定してくると腐敗がはびこり、それに絶望した人たちが破壊(多くは戦い)をおこし換えてきた歴史がある。
つまり希望にみちて破壊行動を起こすのである。希望は平和を作らない。
これも自然の掟なのだとしたら、今まで考えてきた話はまったく無に帰する。つまり我々人間が能動的に起こせるアクションはほとんどない。
どんな政策を思いつこうが、がんばろうが、自然の成り行きで腐敗した社会が暴力的に定期的に置き換わるだけである。
この問題こそ、21世紀の政策を考える人たちが真摯に向き合わなければいけない課題だと感じている。
我々は抗うだけ無駄な存在なのか、それとも違う方法があるのか?
さまざまな背景を想像した上での個人的見解としては「新しい希望を創出することこそ、今の為政者が取り組んだ方がよい問題である」と元に戻りたい。
なぜなら、少なくとも今までと同じスイッチを信じていただけでは、同じ歴史を繰り返すことになる。
幸いにして、今世紀は人間にとって面白いイベントが多数待ち構えている。
初めての高齢化をキープした人口減少もそうだが、AI時代においてシンギュラリティが語られ、人間の脳を含めてたいしたことがないことがわかってきている今、人間存在、人間という生物に対する深い理解とチャレンジがこの世紀では実現してほしいと思っている。
そうすれば、少なくとも人間の抵抗が無意味なのかそうではないのか?のテストにはなる。
今の各政党(もしくは個人かもしれないが)が取り組むべき真の問題は、深い人間理解のもと、無邪気に自分自身を信じて、今までの政策アプローチをそれこそ破壊することであると思う。
そのためには、信念が必要で、そのためにはテクノロジー的な人間理解が必要で、その先には死生観と自然との対話や芸術が必要である。
さもそれが実現されたならば、平和ということが人間にとって必要なことなのかどうかも含め、本当の信念ある目標として成立させることができる。
http://anond.hatelabo.jp/20161008095104
正社員・派遣社員・アルバイト…計20社以上に履歴書を送った。
最後の望みを託した某社にも落ちた。そこは某便所の落書きで悪評が立つレベルの会社であるにもかかわらず、だ。
その他にもいわゆる「ブラック企業」をいくつか受けたが、すべて不採用に終わった。
知力、体力、コミュニケーション力、分析力、忍耐力、表現力…社会で求められる力は多岐にわたる。しかし自分はその力をなにも持ち合わせていない。
こんな悪文を臆面もなくさらすあたり、知力や表現力、コミュニケーション力に欠けていることは火を見るよりも明らかだろう。
また、自身の敗因を正確に分析できていないことを鑑みると、分析力に欠けているのは明らかである。
ただ、それらの力がなくとも、年齢が若ければ再起のチャンスはあるかもしれない。
しかし四半世紀分無駄に年だけ食った幼稚な人間に、再起のチャンスがあるとは考えにくい。
人によっては「再起のチャンスはある」という人もいるかもしれない。しかしそこで提示されるケースは、往々にしてレアケースだけである。
その手のレアケースは9割9分9厘、自分の身に起こることはない。
周囲の人間にこれ以上迷惑をかけないために、社会からの撤退を行わなければならない。具体的方法としては自殺がある。
それ以外にも無人島への逃亡などの方策をあるが、法律との兼ね合いより実現可能性は極めて低い。
「これ以上就職活動を続ける」と「ニート生活を続ける」はどちらも多大な迷惑を各所にかけるので論外。
他人に迷惑をかけてはいけないということは基本的な道徳である。ましてや故意に迷惑をかけることは、絶対にあってはならないことである。
自分が就職活動を続けても、ニート生活を続けても、他人に迷惑をかけることは分かり切っている。
他人に迷惑をかけるより、道徳に則り自殺する方がベターな選択肢ではなかろうか。
仮に社会に求められる力をなにも持ち合わせていない自分を雇ったとしても、企業側には何のメリットがない。デメリットは掃いて捨てるほどある。
今日日会社に損害を与え続ける存在に毎月一定の金額を渡すような酔狂な企業は存在しない。
それなら公務員になればいいという声もあるかもしれない。しかし公務員に対する批判的感情が高まりを見せている昨今、仮に公務員になれても無能である以上職務が遂行できるとは考えにくい。
せいぜい納税者から突き上げを食らって職場を体よく追い出されるのがオチである。
そもそもどの職場にも求められていない無能であることは分かり切っている。そんな自分が会社などに履歴書を出すことは、不要な負担を会社にかけさせていることに他ならない。
端的に言えば、自分が就職活動をすることは業務妨害行為である。
我欲のためだけに、無関係な第三者に迷惑をかけることはあってはならない。
親に迷惑をかけ続けているのは当然である。我が家の不良債権を処分するためにも、自殺は有力な選択肢の一つとなる。
生活保護を受給するにしても、日本の社会保障費は際限なく膨らみ続けている状況下で、生きる価値のない無能のために社会保障費を膨らます道理はない。
障碍者や病人、高齢者、乳幼児など自分と異なり無能ではない存在のために社会保障費は使われるべきである。
他方で世界に目を向けると、依然として人口爆発が続いている。これらの国々では経済発展も同時に起きている。
そのため、石油・石炭・LNG・ウラン鉱石・淡水といった有限な資源に対する需要も伸び続けている。これらの資源は生活に不可欠な一方、浪費し続ければ遠くない未来に費消することは確実だ。
費消を防ぐ方策としては、省エネルギーの推進などが考えられる。しかし、ジェボンズのパラドクスや発展途上国サイドの反発を鑑みた場合、省エネルギーの推進は問題解決に結びつくとは言い難い。
エネルギーの費消を防ぐには使用量を抑制する必要があるが、人が減ればそれだけエネルギー利用は減少する。つまり、自殺すれば資源枯渇を(少しだけとはいえ)先送りすることが可能になる。
先進国の場合1人あたりのエネルギーの消費量は発展途上国よりも多い。日本の場合世界平均の2倍エネルギーを利用しているとの情報もある。
無能かつ生産性0の自分が世界平均より多くの資源を浪費していることは、人類すべてに迷惑をかけていることになる。
明日のアインシュタインやエジソンたちが資源枯渇のせいで可能性の芽が摘まれない為にも、自殺というのは有効な手段になるのではなかろうか。
元増田は若い人間の場合社会に利益を与えるため、若い世代の自殺に対しては否定的な立場をとっている。
しかし自分のように社会に損害しか与えられない無能はいるのである。一方で自分よりはるかに有能な老人がたくさんいることは確かだ。
「飯食ってくか。魚買ってくるわ」
お湯を沸かしてお茶を入れて、冷蔵庫で冷やした上で氷を入れる。近くの海でとれた魚をおろして刺身にするなりして、茗荷とすりおろした生姜と醤油に、お茶碗 1/3 くらいの白飯と香の物で食事をする。できれば、家族や来客にも、同じように質素な料理でぶっきらぼうにもてなす。
私は上場企業経営 xx 年目になるサラリーマン経営者だ。東京のど真ん中で働き、オフィスから徒歩 5 分の場所で家族と暮らしている。四半期の売上進捗が思わしくないだの、誰それが辞めると言っているだの、どこそこの部門の空気が悪いだの、どれだけ頑張っても、寝る寸前まで自分にまとわりつく焦燥感。具体的な内容を思い出せないほど数が多く、ただただそれら事実の寄せ集めが名も無き不穏となって後頭部にはりついている。
自分の人生に自分が何を求めているのか、理解できないことは不幸だ。不鮮明な希望の輪郭をなぞってみても、それが実際にどのような形をしているのか、想像も及ばない。その形に、一般的な欲望の帰結を仮説として当てはめてみたところで、違和感だけが残る。西麻布のラウンジや高級ブランド、美しい異性や異国の風景にどれだけ金銭と時間を投じても、Twitter や Instagram のキラキラアカウントのようにシンプルな幸福への最短距離を走ることができるわけではない。なんならキラキラアカウントたちも、当人の希求する毎日を、インターネットアカウントという時間軸をぶつ切りにしたパラパラ漫画のような、仮想的な人格に投影しているのだろう。
人生の幸福について考える際のパラドクスは、このタイムライン化にあると思う。冒頭の段落は、私が考える幸福を具体的なシーンとして描写したものだ。それだけ読むと、ああいいな、と共感してくれる人もいるだろう。しかし現実には、このような丁寧で質素な生活は、2, 3 日で飽きるのだろうし、日々の一瞬を、最高到達点で切り出して静止させ、その画像のような人生に満足感を得る意味はない。画像と画像の間こそ生活であり、人生だからだ。
1 日に 1 回あるかないかの一瞬のピークをパラパラ漫画化して、数万枚アップロードされた Instagram のような何かが、お前の人生だった、というのはどうも侘しいのではないか。
それでも私は、人生における幸福を画像として想像することをやめられない。その 1 秒以外の 23 時間 59 分 59 秒を無視しなければ、脳みその計算機がオーバーヒートしてしまう。どうやら私はいつまでも、自分が求める日々を理解できそうにない。
透明人間ってどこまで透明なんだろう、と。
つまり、肉体が透明だとしても、たまったうんこ等まで透明なんだろうかと。
透明人間化したとしてもうんこが透明でなければうんこマンになってしまう。
透明人間が自分の肉体を透明にするというのなら、むしろ透明になることによってうんこマンになってしまうかもしれないのだ。
透明になったことによって以前見えなかったものが見えてきてしまう。
ただの人間であった場合いちいち見られただけで騒がれることもないが、透明化してうんこマンになったことでむしろ注目されてしまう。
それなら排便後のうんこは透明なんだろうか。
それとも肉体と切り離された瞬間に色がつくんだろうか。
肉体の内と外の区別ってどこにあるのだろう。
うーむ。
テセウスの船問題というのがあると思う。部品を1つずつ取り替えていって、全部取り替えてしまったらそれの同一性はどうなるかという問題だ。人間の細胞も一定の期間でほとんど入れ替わってしまうらしいので一種のテセウスの船問題を抱えていると言える。
しかし、この時取り替えられて用済みになった部品に関する言及があまりないように思う。つまり、取り外した部品「だけ」を集めれば「古い」が「より正しい」同一性が生まれるのではないかということ。
人間でいうと、Aさんが義足、義眼、次々とパーツを取り替えていく。攻殻のようにね。で、脳までコピーして取り替えてしまう。で、完全に機械の体を手にする。またこの時、取り外した生身のパーツをすべて保存してあったとする。生身のパーツを外科手術的に組み立て、元の人間にしてしまったら、機械の塊であるAさんとそもそものパーツの集合であるAさんのどっちがAさんらしいかというと後者なんじゃね?……ってなる。
自己の同一性で言えば、記憶が連続しているアンドロイドのAさんなんだろうけど、物質的には一旦バラバラにされたAさんの方が本物に近い。
以下、映画インターステラーのネタバレだらけなので嫌な人は読まないでください。
一年以上映画館なんて行ってなかった(映画自体はレンタルで月に1~6ぐらい観る)程度の無いオレですが、インターステラーをやたらと褒めちぎるウェブの記事に触発されて観に行ってきました。
もともとSF好きで、特にハードSFを好むのですが多くのレビューや宣伝がインターステラーをハードSFの名作として紹介していたことが決め手になったわけです。
GIGAZINE 「インターステラー」のSFっぷりは一体どれぐらいで何がスゴイのか、SF小説とかSF映画とか大好き野郎が見るとこうなる
その他のブログや紹介記事も多くは「本格的なSF」「インターステラーの世界は現実に起こりうる?」「物理学者の誰々を監修に起用!」といった情報が多い。
SFと言ってもブラッドベリのようなファンタジーテイストな作品や、スターウォーズやガンダムのような現実は度外視した作品も多い。それらの作品も好きだが今回は特に興味のある現実路線のハードSFだということで期待はどんどん高まっていった。
いくつか挙げる
他にもいくつもおかしな部分はある。情報伝達手段が限られた状況においてモールス信号ではもどかしいとばかりに「バイナリだ!」とか言って謎のピクピク技を繰り出したり、タイムパラドクス的にアレなことがあったり、地球環境悪化の速度がご都合主義的に変動したりといろいろある。
途中で気が付いたんだけどこれアルマゲドンだったわ。「オレが行く!」ってヤツ。
失意にまみれて帰宅してから映画レビューサイトを漁りましたよ。同じような不満や疑問を抱えてる人がたくさんいるんじゃないかと思って。
見つかったのは多数の好意的なレビューでした。大別すると「相対性理論とか難しくてよくわからなかったけど面白い」「相対性理論とかを採り入れててすごい!」「よくわからないけれど絵がきれい」という絶賛が7割ぐらい(ザッと眺めた50個ぐらいのレビューの中での話しです)。「小難しくてつまらなかった」「長すぎて飽きた」という低評価が3割ぐらいって感じ。
必死に探しても「科学考証や当該時代における技術レベルの設定に問題があり楽しめなかった」という意見は見つからなかった。いや、楽しむ楽しまないは主観的なものなのでどうでもいいのだけれど、オレが間違ってると思っている部分が本当は間違いではなく、おかしいのはオレ自身なのかと不安になってきてしまったんです。
「こまけえこたぁいいんだよ」的な意見もあるだろうし、そう思える人はそれでいいですが、現実路線の映画なのだからストーリーの根幹をなすような部分ぐらいはしっかりしてほしいのです(だからストーリーとはあまりに無関係な要素、例えばロボットの形状があーだこーだとか、船外活動時の減圧の時間がどーだとか、宇宙服ペラペラ過ぎワロタwwwとかは言うつもりもないのです)。
映画をハードSFだと言って紹介・宣伝している人たちには腹が立つし、自分の知識や考えが間違っているんじゃないかという不安もあったりして困っております。
GIGAZINEは金銭の授受アリの宣伝だってことで理解できるんだけどその他のブログやレビューもみんなステマなのか?と疑ってしまいますよ本当に。(といいつつもオレが間違っているのかも?というモヤモヤが消えない)
ぱっと見なんだけどスカトロとか自意識で規制基準を設定したり抑制できたりするもので不可欠でないものと、
法律などでまぬがれぬ抑制からストレスに苛まれるものとわけてるようにみえた。
自分でなんともできない外的要因などによる抑圧にさらされるストレスの原因となるものは疾患とみなすような雰囲気かな。
その疾患によって発露する問題や障害の具体的な損失は、キレる癇による第三者などへの問題行動とかストレスによる身体異常とかになって
それを予防するためなどの対策を考えてみるべきとかそういう感じ?
そこで不思議におもったんだけど、自分でどうしようもない外的要因って法律とか世間体とかだけじゃないもあるよね?
たとえば親友だとおもってたに裏切られたとか、姑にカレーを捨てられたとか、好きなアイドルの後追い自殺とか、小さなブラックホールができるかもってニュースに絶望するとかみたいな。
法律とか生きていく上で生死に関わる判断に大きく関わる抑制って、個人での大小が大きくない?
◯◯できたら死んでもいい、◯◯でなければ殺す、みたいなのってどこで発生するかわかんないよね。
ある程度予知できる範囲を危険として分けるのもいいけどさ、結婚生活何十年目かで同性愛だったことを告白して離婚するとかって例もないわけじゃないじゃない?
スカトロ好きで三度の飯ほど大好きな人がいたとして、その人の嗜好に沿う発言をしたつもりがTPOで逆鱗に触れ事件を起こしたとしたら、何からどこを問題性として司法や関係者、環境への対策に取り上げるべきかわからないよね。
そのまったく逆で、一般人だとおもっていた人間が嗜好に傾倒し、その結果それに関係する行為から事件をおこしたとしたら、嗜好は感染性の精神疾患であるとかいう見解も示してくる人がでてくるかもしれない。
すると存在するだけで悪みたいな見方をする人もでてくるかもしないし、嗜好は同意のある人間だけが集まる空間で消費されるべきものとかが理想とされるかもしれない。
ファンの女の子とデートしちゃったら未成年だったロリコンだロリコンは病気だ治療しなきゃ、じゃあ治療の結果はどう発露するんだろうかといえばそんなものはない、一生保護観察イコール一生ロリコン治療中、とかありえるかも。
みたいな感じで、個人のリミットを広い義にあてはめると、今度は広義が個人に分けて定義されなきゃいけなくなるようなパラドクスを含んでいるようなきがするんだけど。
別段、こいつは悪いとおもった事に石をなげつけろ!とか提案してみたり、こういう部類はこう分けることができると判断してみたりするのはいいとおもうんだ。
そう思考することで仮想の庭にあるべきものと、破綻・矛盾しているところ、組み立てているうちに完成するものもあるよね。
まとめて「人の限界って趣味とかの程度でもブチ切れて反社会的行動にでる場合も可能性ゼロじゃないよね。これは病気に含まない?」なんだけどどうかな?
可逆的な話じゃなくて、あくまで性的でかつ社会的に救済の余地がせまい事に関してのみだったら、むしろその趣味がその人の人生の何割を占めているのか、またはその嗜好で犠牲になる社会的要因は規模として各個人の嗜好を抑圧したり社会への直接関与に何らかの干渉をもつべきって話なら別にいいんだ。
実際ロリータはどんな価値が今現在にあるかは問題外として、ロリコンになってしまったおっさんの命よりは確実に重くて年収何千万のおっさんでもロリコンだったら社会的に価値がないしみんなから病気だとか死ねって言われる、は健全な社会学的な知識人の見解だったとしたらそれはそうなんだろう。
それはそういう話題についてのみ深く考察したくなったって時のものもあるだろうし。
時間があったら一度考えてみてほしい。
つい数年前まで、おててつないで全員でゴールする徒競走、個性重視採用、ナンバーワンにならなくてもいい等の甘言が踊っていたような気がするが
社会の生産性の低下と景気悪化、コピーの横行と物量作戦によってオンリーワンは破綻した。
AKBはメンバーを揃えて各々の個性の幅を広げ、各メンバーが客をつかむことで人気と金を得る。と、思いがちだが、総選挙というイベントで全てのオンリーワンが否定される。
順位付けと金儲けをつなぎあわせたことでソーシャルでは格差が顕著化し、個性>順位の図式は覆ることはない。圧倒的に魅力的な個性は、順位の下位カテゴリに成り下がった。
説明する必要もないほどのコピーゲームの中で、イベントと称して順位付け+金儲けの定式が顔を出すことでキャラクターの個性は否定される。
順位=金が全てで、お前の大好きなキャラクターに見せかけた小さなデータは、ソーシャル上の話題で消費されるためにある。これを否定するにはソーシャルを否定しなければならない。
そうすれば、そのキャラクターは消滅するパラドクスを内包するため、プレイヤーには絶対に否定出来ない歪な存在だ。
・SNS
SNSとしての規模が大きくなればなるほど、ユーザーの個性は死ぬ。多数の同調圧力と罵詈雑言によって、個性は簡単に屈する。そんな炎上が今もどこかで起きている。
広がりつながることを目的としているSNSは、広げなくていいことを誰かに教える場として有用だ。
では使用しなければよいのではないか?しかし現実はそれを認めない。「同調しない者には死を」これはリアルに起こった複数の事件を的確に表している。
ソーシャル要素は人間ボーリング装置であり、地ならしだ。全世界を海抜ゼロメートル以下へコモディティ化しようとしている。堤防は各々のリテラシーと理性だが、ゆっくりと小さな穴が開き始めている。
ここから逃れるには、早々にコンテンツの価値基準を上げるか、金の価値を落とすしかない。
ソーシャルを賑わすだけに与えられる射幸心を捨て、己の中に確固たる判定基準を持て。その基準を培う経験と好奇心を求めろ。
オタクになれ。今のヘラヘラ笑ってコンテンツを食いつぶし、話題の奴隷である情けない人間ではない。論と経験と様々なコンテンツを受け止める度量を持つ人間になれ。
教養という言葉が死語になり、誰かの言葉が無いと自我を保てない人間が大勢いる。
それを良とせず、自分がオンリーワンであるという意識を、「アイデンティティ」を確立したいのであれば、1つ意識を変えて見るのも悪くないだろう