はてなキーワード: 成就とは
年末年始暇なんでブックオフで安売りしてたぼくたちは勉強ができない(ぼく勉)を買ってみた。
増田でボロクソに言われてたのは覚えてたけど、漫画を一通り読んでネットの感想も色々読んだうえである程度は言われてもしゃーないなと思った。
全体的に読者の期待を裏切った結果なんだろうなという印象。
せっかくなんで何をどう裏切ったのかについて自分が感じた感想をまとめる。
ぼく勉は見立てと対比を多く使っている。
具体的な手法でいえば緒方理珠が唯我成幸への恋心を明確に認識したシーンでUターン禁止の標識を同じコマに入れるという方法を取っていたり、桐須真冬と唯我成幸の指導方針が真逆であることについて、床の線と足の並びを平行に描いて「(お互いの指導方針が)平行線」などと言わせていたりする。
このような見立ては手法のみならず設定自体にも取り入れられており、例えば主要なキャラは童話やアニメのキャラクターに見立てられている。
キャラ | 童話・アニメ |
緒方理珠 | 親指姫 |
古橋文乃 | 眠り姫 |
武元うるか | 人魚姫 |
桐須真冬 | アナと雪の女王(エルサ) |
小美浪あすみ | ピーターパン(ティンカーベル) |
唯我成幸 | 幸福の王子 |
対比については例えば桐須(キリスト教)←→唯我(仏教)のような指導方針の違いや名前の由来の対比については作者が言及しているが、
その他にも将来の進路についてヒロインごとのグループによる対比が見られる。
将来の進路 | キャラ |
才能と希望が一致せず希望を選ぶ | 緒方理珠、古橋文乃、桐須真冬※1 |
才能と希望が一致せず才能を選ぶ | 武元うるか |
才能と希望が一致 | 小美浪あすみ※2、唯我成幸 |
※1本人の発言。また一生徒であり指導方法を学んでいない唯我成幸ですら達成できた緒方理珠と古橋文乃の成績を向上させることに失敗しているため。
※2小美浪あすみは受験科目の理科分野が苦手であるが、作中で患者の診断については得意であることが示されている。したがって研究側としての才能はないが、現場の医師としての才能はあるものと思われる。
追加ヒロイン枠である桐須真冬、小美浪あすみはそれぞれ同じグループのキャラクターの将来のロールモデルとして見立てられている。
すなわち桐須真冬の存在は緒方理珠と古橋文乃が自分の才能がある分野ではなく、自分が希望する進路を選んでも幸せになるということを示唆しており、
小美浪あすみの存在は父親のいない唯我成幸の代わりに、父親と対立したとしても父親の背を追うことは間違いではないのだということを示唆している。
この漫画のテーマの一つが幸せになることであり、この2つのグループは将来幸せになることが示されている。
では自分の才能と希望が一致しておらず、才能がある分野を進路として選んだ場合のロールモデルのない武元うるかは将来どうなのか、というのがこの漫画の結末に当たる唯我成幸から婚約指輪を送られる部分であり、これを以て将来幸せになるということが示されている。
この点、作者は古橋文乃ルートで武元うるかに失恋ごときで不幸にさせるなと言わせているが、将来ではなく現在での描写であり、また幸せとは言わせていない点に本旨があろう。
ぼくたちは勉強ができないというタイトルの通り勉強ができないというのは前提としてあるが、ここでいうできないこととは勉強以外でキャラクターが抱える問題であり、主として家族に関連する問題である。
キャラ | できないこと |
緒方理珠 | 人の気持ち(特に亡くなった祖母の)がわからない |
古橋文乃 | 父親や親しい人と向き合えない |
武元うるか | 恋愛をうまくすることができない |
桐須真冬 | 家族の反対を振り切って選んだ道が向いていないと思っている |
小美浪あすみ | 子供の頃から憧れた居場所(父親の診療所)を継げない |
唯我成幸 | 周りの幸せを優先して自分の幸せを追い求めることができない |
これらのできないことを各キャラの長編(①など番号を付された連話)で唯我成幸が尽力して克服するというのが基本的な流れになっている。(武元うるかと唯我成幸は長編がない代わりに本編の終盤がその流れに当たる。なお武元うるかは家族ではなく他人との関係であるが、これは将来家族になる相手との問題であることを示唆している)
この点武元うるかの恋愛ができないことについては他のキャラも同じではないかという批判があり、なんなら成就していないのだから他のキャラこそ恋愛ができないのではないかという指摘もあり得る。しかし武元うるかの場合は恋愛的なアプローチに失敗することが多々あるという点で他と差別化されている。
つまり他のキャラクターの場合、唯我成幸の気を引こうとして主体的にアプローチをした際にはドキドキさせたり意識させたりして成功しているが、武元うるかの場合は好きな相手を唯我成幸ではないと言ってしまったりプールで溺れさせたりするなど明確に失敗してしまうことが多々ある。つまり作中での描写の問題であり、そのため恋愛ができないのは武元うるかなのだ。(メタ的に言えば克服できなかったものをそのキャラの問題にするのは最後まで問題を抱えたキャラがいることになるため読後感が悪くなるという問題もあろう)
上記のようにして各キャラが進路を選び、できなかったことを克服することでぼく勉のキャラは幸せになり、その幸せになった将来の姿が本編最終話に当たる150話で書かれている。
この話が卒業後すぐではないのは、緒方理珠と古橋文乃と違って将来像のロールモデルがいない武元うるかにとってはこの最終話こそが将来の幸せを保証するものだからである。
つまり付き合い始めてすぐではなく数年後の将来においても、唯我成幸は他のヒロインたちからの誘惑を振り切って武元うるかを選び、お手製の婚約指輪を渡してプロポーズをする。
このエピソードを以て将来に渡って武元うるかが幸せであることが保証され、同時に将来においても唯我成幸にとって武元うるかを選ぶことが彼自身の幸せであることが保証される。だからこそこの最終話は恋人になってから数年後の話であり、恋人がいるにも関わらず他のヒロインから誘惑されるという一見陳腐な展開が必要なのだ。(あのような陳腐な展開でなければならなかったかは別として)
ぼく勉はこのように緻密な構造で作られている作品である。(構造を元にした話自体が緻密とは言っていないので誤解のないことを望む)
簡潔にまとめるならば、作品全体を通して周囲の人間を幸せにしてきた一方で自分の幸せをないがしろにしていた主人公が、最後の最後で今まで幸せにしてきたキャラに背中を押されて自らの幸せのために好きな相手に告白をして、恋愛がうまくできなかった女の子と共にできないことを克服した、という結末になるように作られている。
また見立てと対比の話に戻れば、人魚姫と幸福の王子という他の4作と対比して不幸な結末で終わった童話をモチーフにした2人が、童話と違って幸せな終わりを迎えたという形にもなっている。
作中のキャラの配置やモチーフなどを考えればこのようなストーリーを作者が想定しており、その結末になるように連載を進めていたことが読み取れる。
さて、ここまでぼく勉という作品の作りを辿ったが、最終的に作者である筒井大志は他のキャラのパラレルストーリーも描くことを選択した。
作者のインタビューを聞くと編集との雑談の中で増刊で描けないかと言ってみたら本誌でやることが決まったとのことであり、連載中に急に決まったことがわかる。
このような形で決まったものであるから当然様々な弊害が生まれている。
例えば物語の構造として今まで幸せにしてきたキャラに背中を押されることができなくなってしまっているため、主人公の告白の重みがなくなってしまっている。(武元うるかには幸せにしてやるという決め台詞を言っておらず、逆に幸せにできないかもしれないけれど自分の幸せのために付き合ってほしいという告白になっている。つまり幸福の王子というロールから脱却するというカタルシスがある)
また武元うるかには恋愛というできないことが残ったままになってしまっているため、上で書いたような克服できなかったものをそのキャラの問題にすると、最後まで問題を抱えたキャラがいることになるため読後感が悪くなってしまうという弊害がそのまま生じている。この点古橋文乃ルートのセリフを反例として挙げられることが予想されるが、上記の通り現在の時間軸であり幸せと言わせていない点に本旨があると考えられ、また結局のところできないままであるという問題は何ら解決していない。
これらの弊害は作中のテーマとしてそれまで書き続けていたことを自ら否定したものであり、それぞれの読者が気づいていたか気づいていないかは別として、無意識的に期待していたものを裏切ってしまった。
無意識的に期待していたものを裏切った上でさらに個々の話でも、特に緒方理珠と桐須真冬について、読者の期待を裏切ってしまった。このように読者の期待を繰り返し裏切ってしまったことが今も批判される原因だろうと感じた。
結果としては自分の考えたストーリーがどのキャラを好きな人にも受け入れられると信じきれなかった作者の敗北だろう。
作中で武元うるかに失恋ごときで不幸にするなと言わせていたが、好きなキャラが失恋したらファンは喜ばない、不幸になると作者自身が思いこんでしまったのは皮肉である。
・最終回で無限の未来があると言い、実際の作中のほとんどの女キャラクターが触れていると恋人になるというジンクスを主人公と成就させているのに、主人公以外の彼氏がいる女キャラクターは主人公に触れていないのは些か逃げ腰ではないかと感じた。
・単行本最終巻の作者コメントの僕(作者)が描いたぼくたちは勉強ができないはこれで終わりというコメントはあまりにも無責任過ぎる。お前以外に本物を描くやつも描けるやつもいないんだよ。
特に後者の点でボロクソに言われるのはしょうがないなって感じがした。あやふやな土台の上に二次創作は実らないんですよね。悪いけど。
もしそういう物語構造なら、うるかは1話から出ているとは思うが、それはともかく、これだけ独自に考察することが、まずもって素晴らしい。/「ボロクソ」は、うるか好きをこじらせた増田がいるから…。
冗談はさておき1話から出ていないというだけで否定することができる強度の構造ではない。あらゆる要素がそう物語っているので。逆に1話から出ていなければならないということもないだろう。
才能がある分野ではなく自分のしたいことをするべきというのがこの作品の主張なのであって、その点はセンター試験合格で緒方理珠と古橋文乃が衝突を繰り返していた桐須真冬を和解するという形で結実するのだから、衝突のない分野に進みその主張とは直接関わらない武元うるかが1話に出ていないのも不自然ではないだろう。
当初勉強と恋愛の二本柱で進めて行くつもりだったが勉強要素が不人気か何かで早々になくなったために、勉強要素を担っていた2人が恋愛要素も担っているという誤読が生まれたのではないだろうか。
後段の件はちょっと調べたけどうるか派はそりゃキレて当然じゃねえかな……。(私が読んでボロクソと言ったのとは違うので必ずしも恨みの結果ではないと思うが)
パラレルは完全に逃げだったけどなぜパラレルやったかって「真冬先生が一番人気になってしまったから」だよ。先生を真エンドにはしにくいので全員分描いて一番最後に真冬編を持ってきて読者の人気に応えた。
パラレルやった理由がそうなのは火を見るより明らか(順番通りなら桐須真冬→小美浪あすみになるはずなのに人気を鑑みて桐須真冬を最後にしているから)なので、この増田でも別になぜしたのかとか言ってないよ……
真エンドにしにくいもなにも、話を曲げて人気が高いキャラのエンドにするようなラブコメはほとんどない。ぼく勉の場合は桐須真冬人気を惜しんだ作者が話を曲げて描くことにして、その結果期待を裏切ってしまったのだろう。
これ(最終巻でヒロイン全員どのルートでも幸せになることを僕(作者)が保証するなどという作者コメントがある)は言われそうだと思っていたが、ではその幸せとは何なのか。
できないことはできないまま残った上で、それでも別の幸せを得られるよという話でしかないだろう。
それが今まで描いてきたこととなにか関係があるかといえば何も関係はない。
幸せになるのはそうなのだろう。でも漫画で書かれてたできないことはできないままだ。それが変わることはないし、代わりに見つけた幸せを得た姿を見ることもできない。
ではその保証にどんな意味があるのだろう? 私はないとしか思わない。
(そういった事情を考慮しないとしても、古橋文乃ルートの最後で唐突に今まで一切書かれていなかった平行世界解釈を語らせるなど言い訳をするような作風を鑑みると、読者に批判された言い訳として書いたものと見るのが妥当だろう。そもそも当然のこととして作中から読み取れないことを考慮する必要はないので本文では触れなかった。もちろんファンが作者コメントに救いを求めるのは自由であるが)
自身の対人性愛願望が成就されないことが苦しくて苦しくて仕方ないインセルの皆さんにとっては、「(憎き)フェミは性嫌悪である」とか「(憎き)フェミは行き遅れババアである」とか仮定しないと気が狂うのかもしれないし、それによって幻覚が見えてしまっているのかもしれないけど、実際のフェミは「しれっと"理解のある彼くん"が生えてくる」対人異性愛ナタリストとか、セックスパートナーを捕まえた「強いオス」であることを誇示したがるチンポ騎士とかの方が遥かに多数派だし、彼らにとっては他人の性経験の少なさを揶揄するのは何の矛盾もないんだよ。
インセルの人達って自分たちが差別する側に立っていると勘違いして「俺たちから差別する権利を奪うな!」と騒ぎたがるけど、実際には自分たちの方が上級国民フェミによって差別される側であることをちゃんと認めた方がいいよ。
クーロンジェネリックロマンス読んで眉月じゅんの同じ作者の漫画読みたいと思って読んだ
俺らの世界(現実)では確かに障害に思うけど別にたかが漫画の中なんだからはよ付き合えよって思う
違う漫画(違う作者)では年の差あってももっとスッと付き合ってるだろと思うし
どんだけ設定が凝ってて、乗り越えるべき高い壁があっても所詮漫画、所詮二次元だからねと思っちゃう
ただ俺がその漫画を見て思ったのが、そういう恋のきっかけって無いなぁって感じちゃう
ただ恋愛の経験はある。告白したことはなくて自然と流れでいった感じ。告白されたことはある。
絶対この人じゃないと駄目!っていうキッカケと、それを成就出来るような環境、会話できるタイミングなんて現実でどうやって作るんだろうね
例のコラボの件。
社会的な課題の解決を志向する団体活動のありかたについて、本邦の残念な現状が炙り出されていると思う。
トーンポリシングと言えばそれまでだが、その「お行儀の悪さ」はコラボやコラボ側弁護士の独善的な言動に一定の正当性を与える。
戦略としてやってるつもりなのだろうが、どっちもどっちで本当にいいのか。
そして「そこほじくったとて…」という明らかにショボいネタまで敢えて大仰に取り上げて犬笛吹きまくっている。「タイヤ交換が”久しぶり”ということは…!?」とかってさあ。勝手ファンネルどもには事の軽重は区別つきゃしないからな。何でも陰謀の尻尾に見えて「つながる…全部つながるぞ!」となってる連中を止める気は毛頭ねえのな。「女性差別を目的とする妨害行為」というコラボ側の主張を事後的に自己成就してしまってるがな。
仮に各方面からの疑惑の指摘の数々が事実だったとして、おそらくコラボなんて別段悪質なほうじゃないのだ。相対的に。
それなりに活動実績もあるし、寄付金着服で贅沢三昧しているわけでもない(だろう)。
一方で「大雪りばあねっと」のような大規模横領事件がかつて明らかになったことがある。
団体の専従者数名が就職せずに「善行」で飯食って行くのが目的の全てみたいな誰も得しないショボい自己満足活動は今もザラにある。
そういうところに公金をイージーに流し込む行政の問題がまず一つ。
池のかいぼりや、ゆるキャラやふるさと納税みたいにいったんブームに火が付けば小役人は右に倣えだ。惰性で乗っかっておけば仕事してる風のアリバイになる。ブーム前に提案されても耳も貸さない。責任とチャレンジのないミーハー行政。その時々の流行を追った、聞こえのいいネタさえ持っていけばチョロいもの。
会計の透明性や活動内容のクオリティについての説明責任、やりがい搾取問題、そういうことについてはガバガバなのがむしろふつうだろう。コラボばかりが特段悪質ではなかろうというのは、擁護ではない。界隈全体へのDISである。
社会の中で困ってる人に手を貸そう的な活動において重要な・必要なものは、まず実務的な知識・スキル。マンパワー。(金のことを含む)行政との連携。
でも実際に活動の現場にずっと残りがちなタイプは「世直しさん」である。理念を口にするばかりで実務軽視。無駄に好戦的な無謬の正義マン。好きな言葉は「心によりそう」「つながり」。仕事がデキる実務家タイプは潮時を見つけていずれ退出していく。
「困ってる人」の「心に寄り添う」ことがいかに高度にテクニカルでリスクをはらむ行為なのかということが正義マンにはわからない。
例えば宿なしの未成年を保護しておいて、「決して無理強いではなく、結果的に」別の政治活動にオルグしたりなんてこと、死んでもあってはならない。「そんな別におかしな活動ではないよ」そんなん関係ないんだよ。そこは鉄の壁で隔てておかないと全てが台無しなんだよ。わかんねえかな。わかんねえんだよな。
非営利団体の活動がガバガバになるのは「悪意でもって金をポケットに入れる輩ばかりだから」ではない。「営利」の原理と別のところでひとの金を運用するということの難しさをナメているからだ。
「自分たちは善意の団体なので、信じて任せてもらって大丈夫です」そこから躓きは始まっている。「本当か?着服してんじゃねえか?」そういう人が現れた時に「心外な!我々の正義に泥を塗ろうというのか、許さん」そういう方向でつっぱって、どこに行きつくと思ってる?
コンプライアンスという言葉の意味は、儲けが第一の営利企業なら「最低限のルールは守ってますよ」という単なるアリバイの意味になることが多いだろう。本当は違うけどな。
非営利の「社会的課題の解決を志向する活動」におけるコンプライアンスとは、もっと攻めの姿勢のものであるべきだ。
自分たちだけが秘密ヒーロー戦隊じゃダメなんだよ。全てをオープンにして「出資者」も一緒に運用を考えるんだよ。何にどうリソースを投じるべきか、それでその先どうなるか。コンプライアンスは桎梏じゃなくて指針なんだよ。
金の出どころが税金なのか寄付なのかというのも別に本質ではない。
私的な寄付だからどう使おうと文句つけられる筋合いはないというのは既に独善サイドに転んでいる。人の金預かって運用するということに違いはないので。
正義の旗手がアプリオリに正義を独占して正義を執行する。それにケチつけるものは即ち悪。そんな幼稚な世界観からいい加減脱却しないか?
「女の恋は上書き保存」などと言われるが、私はこれまで好きになった人たちの誕生日すら忘れていない。
30年間で12人。片思いや失恋がほとんどだが全て良い思い出だ。
今更誰かに話せるようなものでもないが、自分の中だけに留めておくのも勿体無いのでここに放流しておく。
幼稚園年中〜年長のころ
一人称が「オレ」なのがかっこよくて好きだった。
小学校に上がる際、親の転勤でどこかへ行ってしまい、好きと伝えることはなかった。
小学校1年生〜4年生のころ
顔がかっこよくてスポーツ万能で、いわゆるカースト上位の男の子だった。
小学校2年生の頃に仲良しの女の子に彼のことが好きだと内緒の恋バナをしたところ、翌日には本人にバラされてしまいとても嫌だった思い出がある。
そのときは「もう好きじゃない」などと言って誤魔化したが、結局クラス替えで離れるまでずっと好きだった。
小学校5年生のころ
クラスで1番可愛い女の子も彼のことが好きで、どうやら両思いのようだったのでそのまま好きでいることがつらかった。
このころ、自作のホームページに彼をキャラクター化した絵を載せていた黒歴史がある。
小学校6年生のころ
ガキ大将タイプで少し粗暴な、学内カーストトップの男の子だった。
小学生なのに「女子」ではなく「女の子」と言うところが好きだった。
このクラスではくじ引きで席替えをしていたのだが、先生のくじの作り方のクセを見抜き毎回必ず隣の席か同じ班になるようにしていた。しかしそれで仲が深まるということは特になかった。
高校生の頃、風の噂で彼が薬物か何かで少年鑑別所に入ったことを知り、少し切ない気持ちになった。
中学1年生〜2年生のころ
ある日廊下であくびをしている姿を見かけた時にキュンと来て好きになった。人生で唯一の一目惚れだった。
とにかく人望があり良い話ばかりを耳にするので、その度にどんどん好きになっていったが、ほとんど会話をすることもできないまま「憧れの人」で終わった。
高校1年生〜3年生のころ
同級生とは違う大人の落ち着きや優しさに惹かれて好きになった。
先生に気に入られたい一心で毎日勉強をして、定期テストや模試は常に学年トップだった。
勿論この恋が成就することはなかったが、たいして進学校でもないのに難関大学に合格することができたので、人生を変えてくれた恩人だと思っている。
大学1年生〜4年生のころ
サークルの同期。
とにかく話が面白く、顔が筋肉痛になるほどずっと笑わせてくれる人だった。
趣味も合いとても仲が良かったが、友達以上になる方法が分からず、彼氏がいる期間を除いてぼんやりとずっと片思いをしていた。
大学4年生の頃、クリスマスとバレンタインを二人で過ごせたにも関わらず何もすることが出来ずに終わり、ようやく諦めがついた。
大学2年生のころ
はじめてできた彼氏だった。
付き合って4回目のデートでTシャツから胸毛と背毛がはみ出ているのを見て、さーっと冷めてしまい別れた。
当時は「未成年の女子大生を狙う社会人男なんて気持ち悪いし別れてよかったよね!」などと思い体毛ごときで冷めた自分を正当化していたものの、4回デートしてもキスすらしなかったのでそれなりに誠実な人だったんだろうなと今となっては思う。
大学2年生〜3年生のころ
この人には私がいないとダメだ、と思わせるようなところが好きだった。
1年間付き合ったものの、色々なことがうまく噛み合わずお互いに疲れてしまい別れることになった。
納得して別れたつもりだったが、かなり引きずった。食事がほとんど喉を通らず、風呂も入らず、歯も磨かず、毎日泣いていた記憶がある。半年ほどで落ち着いたが、未だにほんのり未練がある。
今ならもう少し上手く付き合えただろうなあなどと思ってしまう日がたまにある。
社会人1年目のころ
会社の同僚。
かなり変わった人だったので告白をされてから少し悩んだものの、見た目が良かったのと猛アタックしてくれるのが嬉しくて付き合った。
愛情表現をたくさんしてくれるので私も出来る限り尽くしていたものの、日々重くなる愛に辟易し1年と経たずに別れた。
その後少ししてからメンタルを病んでしまったらしく、長期休職後に退職していた。私も原因のひとつだったのかもしれないと思いやや責任を感じている。
社会人1年目〜3年目のころ
会社の同僚。
頭が良く明るいので会話が楽しく、一緒にいて居心地が良かったので好きになった。
付き合ってから徐々に相手の気持ちが離れていくのを感じ、それを繋ぎ止めるのに必死だった。
結局1年ちょっとで振られたものの諦めがつかず、その後も1年ほどセフレの座に甘んじていた。
本気で婚活をしようと思い立ったタイミングでようやく断つことができた。
社会人4年目〜今
婚活を始めてからは「恋愛」よりも「結婚のための条件」に重きを置いて出会いを求めていたが、結局好きになってしまったのでふつうに恋愛をした。
同棲するとなったときにお互いの個人情報を共有したところ、仮に「結婚のための条件」だけで相手を選んだ場合でもきっと夫を選んでいただろうと思うくらいの人だと分かった。大好きな人にオマケで好条件までついてきて、私は大変運が良かったと思う。
ここからもう増えることはないと思う。
https://anond.hatelabo.jp/20221105115632
ぼく勉と五等分、かぐや様とではクオリティに差があるのだから、パラレルストーリーが悪いのではなくぼく勉が悪いのだという説が散見される。
これはぼく勉の話がつまらなかったから盛り下がったのだという趣旨で一理あるように見える。
しかしあえてぼく勉ではなくパラレルストーリー自体が悪いのだと私は主張する。
まずメディアミックスであるがぼく勉より単行本売り上げが低かったゆらぎ荘の幽奈さんですらゲーム化している。
単に人気が低いというだけではゲームより遥かにコストが低いボイスドラマが打ち切られる理由にはならないだろう。
またそもそもジャンプで2年以上連載していた作家に対してお前がうまく出来なかったから悪い、もっとうまくやれたはずだと言うこと自体傲慢極まりないと一蹴しても良いだろう。
そもそもの話として、ぼく勉に話の良さは求められていたのだろうか。
ぼく勉は元々1話完結を繰り返す構成であり、長編と言われるものでも4話程度の連続した話しかない。その中ですら粗が目立った。
そして本編終盤の強引さを鑑みればその後のパラレルストーリーの出来についても推して知るべしであったが、そのような中でも多くのファンはパラレルストーリーを歓迎していた。
同じ作者が描くのだから、話のクオリティが急に上がるわけがないのは誰しもがわかっていたはずだ。
つまりぼく勉は話の良さなど期待されていなかった。強引でもいいから自分の好きなキャラの思いが成就することだけが望まれていたのであり、実際にそれは叶った。
読者の求めていたことを叶えて、それでも盛り下がってしまったのだからこれはぼく勉が悪いわけではないだろう。
まとめると
ぼく勉に話の良さを期待していたファンなどほとんどいなかったのだから、話の出来が悪かったから盛り下がったのだという主張は失当である。
となる。
ぼく勉はキャラの可愛さで人気を獲得し、長編の話作りが下手であることもわかった上でパラレルストーリーが歓迎されていたのだから、ファンが望んでいたのもキャラの可愛さだけのはずだ。話の出来の良し悪しは関係ない。
作者は今まで通りキャラの可愛さを引き出していたのだから、十分にうまくやったと言えるだろう。(理珠ルートはキャラが出なかったのでまあうん)
もっともこれはぼく勉は話を期待されていない漫画だから、話の出来が悪いのが悪いという批判は成り立たないということに過ぎず、話を期待されている漫画であれば話が良ければ受け入れられたのかという課題が残る。
そこでぼく勉が仮にストーリー面も期待されていたものと仮定して、以下にパラレルストーリー自体の問題点を上げていくことにする。
読者が自分の推しキャラが終わった時点で満足して読まなくなることは想像に難くなく、読者が減るのも当然である。
ぼく勉の場合、頭3つほど抜けた人気のあった真冬がヒロインであった最後のルートですら大した盛り上がりを見せず(事実単行本売り上げが他より上回っているわけでもない)、最終回でもトレンド入りすらしなかった。
トレンド入り自体はジャンプの打ち切りになるレベルの漫画(例:レッドフード)でもすることがあるものであり決して高いハードルではない。アニメ化していない作品ですら円満終了なら最終回のトレンド入りは定番となっているので、ジャンプ連載作品ではむしろしないほうが珍しいと言って良いだろう。
読者が減少するということはすなわち作品が連載中であるにも関わらず、話が進むごとにどんどん盛り上がりが減っていくということになり、活気の減った漫画は余計に見向きがされなくなるという悪循環を生んでしまう。これはぼく勉に限った問題ではなく普遍的な課題だろう。
五等分の花嫁やかぐや様では作中の描写がどうだ、ここの描写がああだと言った考察が盛り上がっていたが、ぼく勉はパラレルストーリーが始まった時点でこれまでの描写が語られることがほぼなくなり、考察ブログも更新を停止することが目立った。
これはパラレルストーリーが本編の描写と連続するものでない以上、何がきっかけで彼を好きになったのか、何がきっかけで彼女を好きになったのか。そういったことを本編の描写から考察することが出来ないのだから当然だろう。したところで意味は無い。話を期待されていたのであれば、なおのこと虚しくなるだろう。
個別ルートは本編の描写と繋がっていない。であれば推しキャラを持つファンは本編の描写を語ることが虚しくなるだろう。それが個別ルートまでの間にあった出来事なのかどうかわからないのだから。
全く語らないことはないだろうが、以前までと同じ熱を持って語ることは出来ない。同じキャラを推すファン同士であれば個別ルートの話題で盛り上がれるだろうが、違うキャラを推すファンとはそれで盛り上がることは難しい。無意識にどこかで俺の好きなキャラのルートではその出来事はなかったという冷めた目線が生まれてしまう。
SNS時代の今、語られなくなることは作品にとって致命的である。パラレルストーリーは二次創作需要の先食いですらなく、ファン交流の土壌ごと奪っていることに等しい。
これは恋と嘘のように最初からマルチエンドにすると決めていた作品であれば回避できる問題ではあるが、現実的には難しいだろう。週間少年漫画誌で人気と伏線を両立させることは困難であり、ぼく勉のように途中でなんとなく決まることが大半のはずだ。
最後にたとえパラレルストーリーをやったとしても各キャラのファンを満足させることは難しいという最大の問題がある。
パラレルストーリーに対する各キャラのファンの主な反応はこうだ。
- うるか派 とにかく発表方法やその他の扱いにキレている。※
- 理珠派 ほぼ関城さんがメインで理珠がサブ扱いなので不満の声が目立つ。
- 文乃派 話自体にはそれなりに満足しているがパラレルがなければ本来は文乃が勝っていたはずだという幻想に縋って不満が渦巻いている。
- あすみ派 とりあえずやってくれたことに満足している。
- 真冬派 圧倒的な人気なのになぜか先生と生徒じゃなく先生と先生の恋愛になるという扱いにキレている。
※参考
作者に嫌われているキャラクターを好きになってつらい
https://anond.hatelabo.jp/20200724234926
【追記】作者に嫌われているキャラを好きになったら特典でも冷遇されてつらい
https://anond.hatelabo.jp/20210308181806
【替え歌】作者に嫌われている。
このように手放しに満足しているのはあすみ派だけだ。
なぜ満足しているのかといえば、登場が遅く人気も低いためエンドヒロインになる芽が一切なかったのに、奇跡的にヒロインになる姿を見ることが出来たから満足しているのだ。
この点真冬も同じく設定的にエンドヒロインになる芽が一切なかった。ではなぜこちらはキレているのかと言えば、パラレルストーリーをやること自体が真冬の圧倒的な人気を背景に生まれたものだと信じられているからである。
つまりパラレルストーリーをやるきっかけが真冬の人気によるものなのだから、当然話のクオリティも素晴らしいものであるはずだという期待があったのに、その期待が裏切られたから不満を持たれているのだ。
このように元々芽がなかったキャラのルートをやったにも関わらず、そのルートの出来が良くなければ恨まれてしまう。
芽があったキャラであれば、話が良くても悪くても本来は勝っていたはずなのに二番手以降に追いやられたという逆恨みをされてしまう。
元々なければ諦めがつくが、中途半端に与えられると足りないものが目についてしまう。半端な救済は逆に恨みを買ってしまうという、社会問題でもよく見られる現象と同じことだ。
結局のところ満足ができるのは元々芽のなかった不人気キャラのファンだけであり、人気キャラのファンは余計に不満を持ってしまうのである。
本来ルートがなければないであるもので満足できる。五等分の花嫁を見ればわかりやすい。
一花のあの思い出だけは嘘じゃないんだよの泣き顔で切なくなれるし、二乃のあんたを好きって言ったのよという告白で痺れることができる。三玖の私は私を好きになれたんだという独白に感動できるし、四葉が私の分の仕事をお願いしますという台詞をようやく言えたことも胸を打つ。五月の私は私の意思で母を目指しますという宣言が嫌いな人間はいないだろう。
(各キャラの台詞は筆者の趣味でピックアップしたものであり、あくまで例である)
結ばれようが結ばれなかろうがそれぞれのキャラに素晴らしいシーンは存在していて、通常キャラのファンはいいところを見つけて満足できる。満足出来ないファンもこういうルートがあればよかったと理想を追える。
パラレルがある場合それは出来ない。各キャラのファンが見たいのは結ばれるところであり個別ルートである。
すなわちそれまでの話にいくらいいシーンがあったとしても、個別ルートの出来が良くなければ満足されないのである。
そして一度公式に提示された以上、それは違うこれが正しいと自分の理想を追える気概のあるファンは少ないから、ファン活動のハードルもパラレルの有無で段違いになってしまう。
自分の好きなキャラの思いが成就する場面をやるのであれば、誰だって自分の中の理想の形で成就することを想像する。当たり前だが多くの場合理想通りに行くはずはない。
漫画である以上、あまり長い話数は出来ないのだからなおさらだ。
普通であれば期待外れに終わるのは一度だけ、一人のキャラのファンだけだが、ぼく勉のようにした場合はヒロインの数だけ期待外れに終わることになる。
作者に対する失望が増えるほど作品に対する興味も冷めていく。当たり前のことであってぼく勉に限った話ではない。
失望されなければいいというのは一つの理想ではあるが、それは全教科満点取れば入試に受かると言っているようなものだろう。
仮に話のクオリティが期待されていたとしても、パラレルストーリーを連載する以上
というパラレル自体の問題点があり、仮に万が一クオリティが高かったとしても盛り下がっていたと考えられる。
よってぼく勉が特別うまくやれなかったのではなく、パラレルストーリーという形式がそもそも悪いのだ。
なおパラレルストーリーという形式をぼく勉が選んだ事自体が悪いというのはそのとおりだろう。
ただその場合の批判は、作品ではなくそれを選んだ作者に及ぶべきではないかと考える。
これがまさにパラレルストーリーをやったことの弊害ではないだろうか。
作品の内容を評価される手前、パラレルをやった意義で評価されてしまうのだ。
この話題がぼく勉である意味は何もない。内容について踏み込まれないから作品の理解を深めることは出来ない。
少し気になったので、参考になるところがあればと。
こちらのネット環境が原因で思わぬ多重投稿が起きたので、一度消して再投稿。大変申し訳ない。
ほんとに幸せそうだったな。今思い出しても口惜しい。今まで恋愛に取り組んでこなかったことが。俺も恋愛と真剣に向き合っていたら、あの子が見せたような笑顔を向けてくれる女の子がいたのだろうか。それが何より口惜しい。
結局のところ恋愛をしたくてもやり方がわからないんだ。どうすればいい。
自分の顔を眺めてみるに、全くイケメンとかじゃない。女性を誘惑してメロメロにさせることなんてできない。
でも、努力を重ねてきた自信はある。辛いことはたくさんあったけど、もうすぐ社会人10年目になる。
女と話すのは普通にできる。上で挙げた同じ会社の新人の子とも、会社の行事でバーベキューをした時に小一時間会話をしたことがある。
で、増田自身におそらく人間力もあるし、女の子と話し続けられるコミュニケーション力もあるんだろ?
なら、恋愛の開始地点を、『自分が』相手に強く惹かれてときめく、にした方が良いんじゃないか?
以下は増田にそういう気持ちを持てる相手が居る場合のアドバイス。
まずは、自分の中の相手へのときめきを原動力にして、相手のことを丁寧に考え続けよう。頭の中を相手でいっぱいにするんだ。
そうすると、相手との会話の中でさりげなく動画を1つおすすめされただけでも、増田は嬉しいはず。
ときめいている相手の世界を知ることができる嬉しさだな。既に恋愛していると言っても過言でもない(過言か?)。
その嬉しさを原動力にして、動画を観るんだ。もちろん関連動画まで丁寧に観るんだ。
そして、自分が持っている相手の情報を基に、何故相手はその動画が好きなんだ?何故この動画は相手の中で他人に勧められるポジションなんだ?と細かく考えていくんだ。
自分の中で相手の思考をシミュレートすることで、相手の解像度を上げる。自分ももっと相手が気になってくる。
で、相手にその動画を観たと伝える時は、シンプルに「観ましたよ!」で良いんだ。
相手が感想を聞いてきたら、自分の中でシミュレートした相手が興味を持ちそうな(広い意味で誘惑されそうな)返答を軽くすれば良い。
ここの返答の精度が非常に重要で、体感的には成否の結構な割合を決める。
精度が良ければ、自分も『相手も』お互いに気になる度合いが自然と上がっていく。増田の恋愛成就が近づく。
一方、どうしても精度が悪いようであれば、その恋愛は諦めたほうが良い。お互い相性が悪い。
そして、どれだけ相手のことを考えたとしても、動画のことを考えたとしても、最初は伝え過ぎるな。
がっつきすぎるのはマイナスイメージに他ならないので、ときめいている中でも自分の行動をコントロールする必要がある。
で、相手が自分と同じときめきを持ってくれていると思ったら、相手の思考の温度に合わせて自分のときめきを出していけば良い。
そうすりゃ後はお互い盛り上がって両想いだ。
https://anond.hatelabo.jp/20221028175337
「自分は何をしても痩せている!太りたくても太れない!」
「世間一般では太っている事が評価される!ドラマや漫画も主人公は太っている人ばっかり!」
……このくらいズレた理論だと思う
実際にはドラマも漫画も例外もあれど基本的には痩せている事が評価されるし痩せている方がよしとされる世の中なのに
そりゃあ痩せている事は、お前個人にとってはコンプレックスなのかもしれないが
世間一般では人間は痩せている方がいいとされるし、努力しなくても痩せている人は羨望の目で見られこそすれマイノリティとして踏まれる事なんかないんだよ
アセクシャルはそれと同じ
そもそも恋愛感情そのものがないから片想いや失恋に苦しむ事もなく圧倒的な強者なのに。
恋愛至上主義の社会における嘲笑われる弱者は「片想いしても恋愛が成就しない」「パートナーが欲しいけれど見付からない」人間であって、「恋愛感情が無い」人間はそうではない。
富豪ではないが死ぬまで金に困ることもないし、好きなことをして生きていけるだけの蓄えも収入もある。
友人は少ないが、それでも慕ってくれる人はいる(と思いたい)
女友達もそれなりにいる。サシ飲みもするし、遊んだりもしなくはない。
鍛えているのもあり、体型も一般男性よりも筋肉質な部類だろう。メンズエステにも通って美容に興味がない訳でもない。
あまり自分から異性を求めなかったこともある。だが、求めて行動したとしてもそれが成就することはない。
金で大抵のものは買えたが、自分と対等の立場で話してくれる人も、家に帰って帰りを喜んでくれる人もついに買うことはできなかった。
だが、そこで現れるのは自分の条件が好きな人間であり、自分を好きになる人間と巡り会えるとは思えない。
金を稼ぐことのできる能力まで含めて自分の人格ではあるが、そんなものが欲しかった訳ではない。
誰かに押し付けられり無理難題を言われた仕事を何年も何年もやっていたら、気がついたらこうなっていただけで、頑張っただけだ。才能がある訳でもなんでもない。
毎日泣きたくなる。
って皆言ってるんすけど、そもそもなんでもウテナ言ってる奴もなんでもウテナ言ってる奴がいると言ってる奴も、どっちも少女革命ウテナ分かっとるんかい?って疑問があるんすよね。
ウテナって実はアンシーで、アンシーって実はウテナらしいじゃないっすか?
だってウテナとアンシーって一緒にもいるし別々にもいるじゃないっすか同じタイミングで。
そもそもウテナとアンシーってどっちが卵でどっちが鶏なのか分からなくないですか?
ウテナだったものがアンシーになったのか、アンシーだったものがウテナになったのかって話ですけど作中に答えどころかヒントがあったかさえ私は分かりませんよ。
でもウテナめっちゃ詳しい人に言わせれば「いやウテナ=アンシーでしょ」なんですよ。
は?
理解不能やろ
つうかそれだとどっちが偽物なんやねんってなりません?
アンシーという嘘なのか失われた可能性なのかも分からんものを卒業してウテナが学園を去ったってことなんすか?
それともウテナという二重人格だか集団幻覚だか分からんものが学園から追放されたってことなんすか?
少なくとも一人の人間が二人になれない以上はどっちかは偽物っすよね?
それとも一人の人間が選べる未来は一つしかないという世界のルールを叩き割ることによって運命に対しての革命が成就したってことなんすか?
は?
自分で言ってても何言ってるのかもう分かんねーよ
んでまあ改めて実質ウテナ言われてる作品見てくとどれも別に「ウテナ=アンシー」じゃないんすよね。
たとえば今一番ウテナ言われてるガンダムだって別にトロフィーワイフはたぬきじゃないしたぬきはガンダムじゃないしガンダムが女の子なわけでもないっすよね?
それともそうなんすか?
だとしてそれは物語の果てに分離をするんすか?
もしそうだったとしてもどうせ一体化して終わると思うんですよね。
分離して初めてそれはウテナなんじゃないっすかね?
あれそもそもウテナって分離してるんじゃなくて一体化したことを示すメタファーとして別れがあるんすか?
は?
分かる人います?
素麺といえば、個人的には島原半島産のものということになっている。これは単に、同地に私の知己の人がいるので、贈答品として頂戴して食べる機会が多いからに過ぎず、別に他の産地のものが品質的に劣ると思っている訳では無い。なお、頂くだけでなく、ちゃんと自腹で買うこともある。
最近では、女優の満島ひかりが南島原市の公式PR動画に出演したことが、彼女の怪演技の甲斐もあって、ネットでも話題になっていた。ひょっとしたら、それを観たことがきっかけで島原手延べそうめんのことを知ったという人も、世の中には存在するかもしれない。
島原半島の素麺作り産業については、以前に聞いた話だが、島原の乱によって人口が減少した際、江戸幕府が肥前の国の外部から移住者を募り、その中に瀬戸内の小豆島出身の人々がいたことから、彼らが島原半島に素麺作りの技術を伝えたとのことであった。しかし、それはあくまでも民間伝承であって、確固とした史料が有る訳では無いとも聞いた。
史料の有無や民間伝承の真実性は、専門家ではないから判断する由もないが、この小豆島由来説を何とは無しに信じている。それは、小豆島由来説が語られる際に、同時に「島原半島は、瀬戸内海と気候が似ているために、素麺作りに適している」と語られることにも一因があると思う。
中央部にある雲仙普賢岳や高岩山(たかいわさん)、島原市のすぐそばに在る眉山(まゆやま)、これらを除けば開けた土地が半島の大部分を占めるように見える。そのために、気候がカラリとしているように感じられる。これで「島原半島は瀬戸内海に気候が似ている」と言われれば、一定の説得力を感じて小豆島由来説も信じられる気持ちになる。特に海岸線の近くではそうである。
この島原半島の南部を訪れた時、島原鉄道を利用したのは、ずいぶん前のことになる。これは、諫早市と半島の北部〜東部〜南部を結ぶ、左右反転のC字形に半島の外周沿いを走るローカル鉄道路線である。あった、と言うべきか。現在は、半島東部の島原市までしか列車が走っておらず、島原市よりも南の地域は部分廃線となっている模様である。
現在は市町村合併によって南島原市の一部となっているが、旧名・西有家町という町が半島南部には存在する。この町で島原鉄道の駅に私が降り立ったのは、別に観光などが目的という訳ではなく、不覚にも乗り物酔いになり、気分が悪くなって一休みしたかったからである。
「そうめんの町」という文字が建物の壁に掲げられた無人駅舎のベンチに少し横になり、冷たいジュースを飲んで落ち着いたは良かったのだが、あいにく、次に乗り直す列車を一時間は待たねばならなかった。手持無沙汰の時間をつぶすため、駅の直ぐ傍にある神社へと行ってみることにした。境内へと登る階段は、文字通り駅舎の目と鼻の先にあり、その長さは数十メートル程と短かったが、勾配はかなり急であった。島原半島の南側地帯には、海の近くで小高い丘陵や崖になっているような場所が、幾つもある。この神社があるのも、そうした丘陵の一つであった。
別に有名な神社とかではなく、少し田舎ならば何処にでもあるような、何の変哲もない小さな神社である。境内へ登る階段を跨ぐ鳥居は、その神額に「天満宮」の文字があったから、主たる祭神は菅原道真公で間違い無い。これは、グーグルストリートビューでも確認可能である。確認した。技術革新、すごい。
よほど小さなところでない限り、神社は大抵、主祭神だけでなく配祀神も同居している。その天満宮で私は、時間だけはたっぷりあったので、主祭神・配祀神のいずれの社殿にも平等に五円玉のお賽銭を捧げて「この後、乗り物酔いが酷くなりませんように」とゴニョゴニョ唱えながら参拝した。それを済ませると暇つぶしに、私以外には人の姿も無い境内を、気ままにぶらぶらしながら鳥居などを観察したりして過ごした。どの鳥居も、冠木・貫・木鼻に沢山の小石が降り積もっていた。素朴な民間習俗を今でも伝える地元民が、願い事の成就のために投げ上げたものであろう。
配祀神は、鳥居の神額に「大神」という文字があったと記憶している。「大神」は「オオミワ」と読むのであろうと思った。残念ながら、天下のグーグルストリートビューでも、この天満宮の境内の中までは確認が出来ない。「大神」の社殿は、主祭神との差を感じさせない程度の大きさはあったように思う。
神社でオオミワといえば、その大元へ遡れば無論、奈良県・三輪山であるが、その地は素麺との縁が有る。素麺の祖先は、奈良時代に唐から伝来した食物・索餅(さくべい、見た目はチュロスに似ている)とする説が一般的である。これを模倣して作ることが、最初に我が国で始められた場所が、他ならぬ三輪山の麓周辺なのだと言われている。「すべての道はローマに通ず」ならぬ、「全ての素麺は三輪山へ通ず」といったところか。
それらのことを知った影響で「移住者から素麺作りの技術が島原半島に伝えられたのに伴い、我が国内における素麺発祥の地・三輪山から神も一緒に来たりて、分祀されたものであろう」と考え、小豆島由来説を信じる気持ちも補強されたわけである。
しかし、素麺伝来の機会や小豆島経由以外の理由でも、この地に「大神神社」が分祀される何らかの歴史的な要因があったような気がしてならなかった。結論から先に言えば、これは単なる私の勘違いだったのだが、兎も角そのような気がして記憶を手繰り寄せたところ、風土記の一つである『肥前国風土記』にある、次のような記述を思い出した。
景行天皇が、現在の熊本県玉名の辺りに行幸した時、そこから有明海を挟んで島原半島の方を見て『あれは島か、それとも陸続きの地か』と疑問に思い、使いを送って調べさせた。すると、土着の神が、天皇の使いを出迎えて歓迎し、天皇に服属する意志を示したという。
この時に派遣された使いの名前を「大神宿禰」と、私は誤って記憶していた。この覚え間違いが、大神神社の島原半島に分祀される歴史的な要因があったような気になった原因であった。しかし最近、自分の記憶を頼りに人魚の話やら南斗北斗の話やらを書き散らしたところ、ブコメ等で鋭い突っ込みを受けて大恥をかいたため、今回は手持ちの岩波書店・日本古典文学大系版『風土記』を参照した。その結果、私の記憶違いに過ぎなかったことが判明したというわけである。確認は大事。
残念ながら、天皇の使いの名前は「神大野宿禰」とあり、読み仮名も「かむおほののすくね」としてある。しかも「他に見えず系譜不明。ミワ(神)氏の支族ではあるまい」とまで注釈が付けられている。これでは、妄想を膨らませる余地も無い。
もしも「大神宿禰」という記述だったならば、その時は大変であった。きっと私は「もしかしたら、三輪山の祭祀を司るミワの支族に連なる者が、古代に島原半島を訪れていたのかもしれない。この縁によって、大神神社が島原半島に分祀されたのではないか」とか何とか、思う存分に妄想力を発揮していたことであろう。間違いを防止できたから安心しても良いはずなのだが、その気持ちよりもむしろ残念な気持ちが強い。それほど、自由な妄想とは魅力的なものということである。
さて、私は雲仙岳には登っていないが、その直ぐ近くの高岩山には、地元の人の案内で登ったことがある(この時は、まだ火砕流などの火山活動が沈静化したと認められておらず、雲仙岳の登山が再開されていなかった)。登山ルートの途中にある樹林の中や山肌には、家屋ほどの大きさがある巨大な岩石がゴロゴロと有った。これほどの大きさの岩石群であれば、それらを見た昔の人々が、信仰の念を山や岩石に対して抱いても不思議は無いと実感した。その時の私は、或る種の神秘体験に近い精神状態にあったのかもしれない。高岩山に登って同じ光景を見た人にならば、私の実感にも同意してもらえるものと信じる。
件の神大野宿禰を出迎えたという土着の神は「高来津座(タカクツクラ)」と名乗ったと『肥前国風土記』には記されている。日本古典文学大系の注釈には「高来の峰(雲仙岳)を居所(座)とする神の意であろう」とある。この「クラ」というのは「イワクラ」などと同じく「カミの宿る座・場所」という意味であることに疑いは無いが、何が「クラ」であるかまでは断言されていない。しかし、高岩山への登山で巨大な岩石を見た経験から、おそらくは岩石もしくは山頂・山体そのものが、高来津座と名乗るカミの依代や御神体だったのではないかと私は思う。もしそうであれば、三輪山の神体山信仰と類似しているので、面白い話である。「タカク」に「高来」という字を当てたのは、単に高さを表現しただけでなく、天空の高みから山頂に降り来る垂直移動型のカミであったことの顕れであろうか。
このカミの名は、高来郡(たかきのこほり、たかくのこほり)の由来となり、市町村合併以前は、島原半島の地名「南高来郡(みなみたかきぐん)」として名残を留めていた。しかし、島原半島が島原市・雲仙市・南島原市へと統合され、旧来の地名が無くなったことで、熱心な郷土史研究家などを除けば、いずれ遠からず名を忘れられるのかもしれない。
しかし、名は失われても、島原半島中央部の山に登山する人が絶えない限りは、高岩山に登った時の私が俄に古き神の気配を覚えたように、雲仙岳一帯の山岳や巨岩に対する素朴な信仰そのものは、これからも人々の精神の地下水脈として生き残っていくのではないだろうか。
【2022/10/10】続きを書いた。anond:20221010212603