はてなキーワード: 学問とは
献体とは、死後の体を解剖実習用などの素材として利用してもらうことである
自分の人生は学問にあり、学問によって救われたと感じていて、死に場所は学問の場たる大学がいいと常々思っていた。東工大の使われていない建物で遺体が見つかったというニュースを見たときは、なんて羨ましいんだと思った。
しかし大学に迷惑はかけたくない。そこで献体である。なんと献体すると、学問の世界に文字通り身を投じてから死ぬことができる(すでに死んでるけど)。解剖後の遺体は大学で焼かれるのも最高(これは大学によって違いそうだが)。さすがに骨は保管してもらえないが、普通に葬儀場でしんみり焼かれるよりよほどいい。家族に、火葬場でボタン押す役割を背負わせるの嫌だなーって思ってたしさ。あれしんどいじゃん心理的に。死刑のボタン並にしんどい。
自分には二人の子がいるが、死んだ父親が晴れ晴れしい気持ちで(死んでるけど)大学に向かい骨になって帰ってくるのは悪くないのではないかと思うんだよな
うちの夫も博士号を持っているクソだ。
子育てもろくにしないくせにちょっと手を出してやったつもりになり
妻にあれこれほかの人はそんなに育児してないのに俺はやってる方
みたいな誤解をしたまま生きる歩くクソだ。
博士号を持っているということでそれなりに客観的に物事を見れると本人は思い込んでいるが
そもそも研究者ってそういうクソな性質の持ち主じゃないと務まらないよね。
だって周りがどんな理論を言っていようが、これが正しいと思い込んだことを追及するようなところがあるからね。
男の中でも高学歴で客観的に世の中を見る訓練をしているはずの男がクソだから
総じてそういう学問をやっていない男もクソだろうという飛躍を本人がしているのだ。
だから言うね。お前の夫がクソなだけで男がクソなわけではないよ。
書くかどうか凄く迷っているので、匿名のこちらで書かせて頂きます。
先週、ジャンプルーキーで、特別支援系地下アイドルユニット☆ハッピー障害児ガールズ1~3話を読み、感銘を受けて、それについてツイッターでツイートを幾つか投稿しました。
自分は主にオタク系の感想ツイートをしていますが、民俗学が好きなので、本漫画の感想として、柳田民俗学が天皇を偶像(アイドル)として日本を巨大な家族として捉え、それによって、そこに含まれない人々が日本の共同体から排斥された、非柳田民俗学が指摘した問題について書き、排斥された人々である障害を持つ子供達が天皇を目指すというのは、アイドルの包含からハンディを持つ人々が排除される矛盾に対して、排除された人々が自身が偶像となることで止揚を目指す意欲的作品と評価しました。
そうしましたら、それを投稿して次の日あたりから、ツイッターの通知欄が0になり(自分はフォロワーが数千程度でして、通知欄が1日20+ぐらいに毎日なっているのでおかしいと気付いた)、調べたら、シャドウバンというのが行われていることが分かりました(シャドウバンチェッカーで確認)。
すぐにツイッターのヘルプサポートに連絡しましたが、「ツイッターは投稿に問題があると判断した場合はそのアカウントに制限を掛けます」という明白に定型文のコピペ返答が来るだけでして、仕方なく、上記のツイートは全部消して、なるべく平穏なツイートをするようにしていますが、それでも直らないので、ツイッターに触れないようにしています。
シャドウバンされる前の数日の自分のツイートを見直しましたが、天皇について触れたツイート以外はあたりさわりのないツイートで、ツイッターが明示してくれないので分かりませんが、天皇について触れるとセンシティヴな危険な表現とみなされてシャドウバンされるのではないかと思います。学問的に、きちんと礼儀を持ってツイートをしましたが、日本語の「天皇」と「障害」というワードが同じツイートの中に入っているだけで、AIのフィルターに引っかかり、シャドウバンになるのではないかと推察します。
こういった形で、おそらくはツイッターのアルゴリズムにも菊タブーが存在するということに非常にショックを受けています。一週間以上経ちましたが、いまだに、Search Suggestion Banだけ解除されない形です。
息子の寝顔を見ててふと思った
2歳から使っているので器用なものだ、ゲームやYouTubeをサクサク操作している。
優しさではない
タブレットに「アレクサ」と呼びかけるとゲーム画面が消えアレクサコンソールに遷移する
割り込み中断され俺が怒るのが楽しいようだ、そのたびに腹を抱え足をバタバタ笑い転げている。
「ピッカピカピカチュー」
部屋を走り回り発狂して笑い転げる
これを何度も繰り返す、何が面白いのだか
「こらー」と叱ってやるのが最高潮で息ができないほど笑ってる
そんな息子との日々、寝顔を眺めていると俺はフワフワ幸せなんだけど、
はて、俺はこの子を幸せにしなきゃならんのだろうか。無理っぽくね?
飯は食わせ、常識や社会性を授け、習い事やら学問やら、適宜適切な機会は与えるつもりだが
知ったこっちゃない、俺の手で制御できるものではない、運もある、頑張ってくれとしかいいようがない。
「女性が陰部を見せることで魔を祓う」という伝承に関する、本しゃぶり(honeshabri)さんのエントリを拝読したので、それに便乗して、思い出した雑多なことを書き残す。先に断っておくが、かなりくだらない話が多い。
中田雅喜(なかた・あき)という女性漫画家がいるのだが、彼女の代表作の一つで、80年代に成年向け雑誌『漫画ブリッコ』に発表した連載作品を一冊にまとめた『空は女の子でいっぱい』というタイトルの単行本がある。作品そのものの別名は『真・ダ○ボ』シリーズとも言う。伏せ字にしても意味が無いような気もするが、とりあえず○ィズニーが怖いので、形式的に伏せ字にしておく。
○ンボと言えば、耳が普通の象よりも大きくて、それで羽ばたいて飛行することが出来る、子象が主人公の物語である。
この『空は―』の主人公である少女も、身体の一部が通常の人間女性よりも大きく、それによって羽ばたいて空を飛ぶことが出来る。ただし『空は―』の主人公の巨大な身体パーツは、耳ではなく陰唇である。
ある日突然、X-MENのミュータントのように陰唇が○ンボ状態になってしまった主人公。女性に悪さを働く暴漢を巨大な陰唇で退治したり、人類からの差別や迫害に立ち向かったり、同じダ○ボ族たちと巡り会ったり、ダ○ボ族と人類の戦争が起きて巻き込まれたり和睦したりと、奮戦する主人公の姿と、普通の少年との淡い恋の行方。これら全てを描き切った一大ファンタジックSFエロチックコメディ絵巻である。念のために言うが、嘘は言っていない。ろくでなし子以前に、ここまでポップに女性器を強調したキャラクターを創造したクリエイターが存在したことは、日本のアート史上に記録しておいてよいであろう。
この最高に馬鹿げた漫画を執筆した切っ掛けが、果たしてどのようなものであったのか。それは、同じ作者によるエッセイ漫画『純情ももいろ日記』に経緯が描かれている。
この『ももいろ―』についても説明すると、現在でこそ、女性漫画家が性愛などについて赤裸々に語るエッセイ漫画や自伝的漫画のような作品は、決して珍しくもないが、中田による『ももいろ―』は、そのようなジャンルの先駆的作品である。日本漫画史上、もっと高い評価を受けて然るべき作品であると、個人的には考えている。
『ももいろ―』の内容も少し紹介する。例えば、成年向け作品の執筆に関して、誌面では最終的にボカシで消されるとはいえ、生原稿では性器を描かざるを得ない。他にモデルもいないし仕方が無いので、作者である中田雅喜は、自身や彼氏の性器の実物を見ながらスケッチしたという。そういったユーモラスなエピソードの数々が『ももいろ―』では、ポップで可愛らしい絵柄で描かれている。ちなみに、性器スケッチのモデルにもなった彼氏は、後に中田雅喜と結婚して夫婦になるのだが、漫画で描かれている外見的な特徴を見れば、彼氏の人の自画像そのままなので、誰なのかは一目瞭然である。よく本人がオーケーしたな……。器が大きすぎる……。ダ○ボだけに。
それで『ももいろ―』によれば、若き日の中田雅喜は、隙間風が吹く風呂無しアパートで暮らしており、冬の寒さに難儀していたため、ガス湯沸かし器を購入する資金が欲しかった。ちょうどそんな時に、知り合いの編集者が成年向け雑誌の仕事を持ってきた。その依頼を受けたことが切っ掛けで、中田は成年向け作品を執筆するようになった。そうして傑作『真・ダ○ボ』シリーズが生まれた。なお、中田雅喜は、無事にガス湯沸かし器を手に入れたそうである。
成年向け雑誌の仕事を中田雅喜のところに持ってきた、その編集者とは、何を隠そう「オーツカ某」である。この呼称を覚えている人がいたら、その人は若くない。これは、現在の大塚英志である。大塚英志といえば、千葉徳爾や宮田登の教え子であり、その学問的な素養を活かして『北神伝綺』『木島日記』『黒鷺死体宅配便』など数々の傑作を生み出した人物でもある。当時オーツカ某だった大塚英志が、漫画『真・○ンボ』の内容にどれほど寄与していたのかは定かではないのだが、もしかしたら民俗学や神話伝承などについて学んだ経験を活かして、アイデアを中田雅喜に提供したりしたのかもしれない。何か情報を知っている人は、教えて下さい。
かなり前置きが長くなったが、ようやく神話伝承の話題に繋がった。中田雅喜の『真・ダ○ボ』では、物語の終盤において「牙が生えている性器を持つ、女性の姿をした怪物の伝承」「自らの手で牙の生えた性器を広げる女性の姿を描いた石像」について言及される。そして「この恐ろしい怪物に関する人類の伝承は、遠い未来に遭遇する運命にあるダ○ボという異種族に対する、未来の記憶による恐怖の産物だった!」という話になる。分かる人には分かると思うが、これは勿論、アーサー C. クラークのSF小説『幼年期の終わり』が元ネタのパロディである。
さて、牙の生えた性器を持つ女性の神話伝承については、金関丈夫が「Vagina Dentata」と題した論文(岩波文庫『木馬と石牛』に収録)で、台湾や東南アジアなどに分布するものを特に詳しく紹介している。この神話は、日本列島にも存在する。
この神話群は、おおむね次のような内容である。「昔、とても魅力的な女性がいて、大勢の男たちから求婚された。しかし結婚しても、初夜に夫が死んだり逃げ出したりして、夫婦生活は長続きしなかった。その原因を調べてみたところ、彼女の性器に牙が生えていて、夫の性器を食い千切って死に至らしめることが判明した。その牙を抜いたり砕いたりすることで、彼女は普通の女性となり、新たに夫を迎えて幸せに暮らすことが出来るようになった(バリエーションとしては、単なる怪物として退治されて死んだといったものも存在するようである)」
この物語の典型の一つが、江戸時代の奉行・根岸鎮衛(ねぎしやすもり)の著した雑話集『耳嚢(みみぶくろ)』に収録されている「金精神(こんせいじん)の事」と題する一篇である。これは、津軽で「カナマラ大明神」と称して祀られていた、黒銅(黒鉄)で作られた男性器型の御神体について、その由来を聞き書きしたものである。
この由来物語でも、やはり、牙が生えた女性器を持ち、それが夜の夫婦の営みの際に夫の性器を食い千切って死に至らしめるために、結婚しても夫婦生活が続かないという女性が登場する。その悩みを聞きつけた或る男が、この女性に結婚を申し込んだ。そして迎えた初夜、新しい夫は、自らのものを初めて挿入する代わりに、まず黒銅で作った男性器を妻の性器に挿入した。すると牙の生えた女性器は、黒銅の男性器に噛み付いたために、牙が砕けて全て抜け落ちた。それ以後、女性は普通の女性となり、つつがなく夫婦生活を送った。その時に夫が用いた黒鉄作りの男性器が、後に神として祀られ、今のように崇敬されるようになったとの由。
古今東西の神話や呪術において、男女のいずれの性器も、生命力や呪術的な力の源泉として神聖視される事例が数多い。その中で特に女性器は、妊娠・出産による人間の誕生という重要な役割を担うことから、生命の象徴そのものであった。しかし、それとは対照的に、Vagina Dentata神話で描かれている女性器は、牙を生やしていて、生命を生む存在ではなく、むしろ奪う存在である。これは、陰唇と口唇の形態的な類似と、性行為時に男性器を受け入れるという機能から、男性器を喰らう女性器という発想に至ったと考えるのが自然なことであろう。けれども、それだけではないように思われる。
Vagina Dentata神話の根底には「生命を生み出す魔力を持つ女性には、それと表裏一体のものとして、生命を奪う魔力もまた備わっているのが当然である」とする、呪術的な発想もあったのではないだろうか。ニギミタマ、アラミタマという言葉が示すように、聖なる力は、好ましい側面だけでなく、同時に好ましくない側面や荒ぶる側面を併せ持つとされることも多い。聖なる力が人間の役に立つ時には「カミの力」とされるし、人間に害を及ぼす時には「妖怪の力」とされる。こういった「カミと妖怪の間を振り子のように行き来し、変貌する超自然的な存在」という妖怪の有様は、京極夏彦作品に多大な影響を与えたことでも知られる妖怪学者・小松和彦の著作で、詳しく論じられている。女性器の神聖性に対して人類が抱いた、善悪判断を超越した畏怖の感情。それがVagina Dentata神話には残されているのであろう。
もう一つ。生命力の源泉という呪術的役割を巡る主導権争い、すなわち、女性原理と男性原理との間に生じた闘争や対立の記憶を、Vagina Dentata神話は今に残して伝えているのではないだろうか。『耳嚢』の金精神(こんせいじん)についての伝承は、生命を生むための呪術的な過程において、vaginaを重要視する女性原理から、phallusを重要視する男性原理が、地位や主導権を奪ったこと、男性原理の側から見た勝利の記憶を留めているのではないか。牙を失い、呪われた存在ではなくなった女性器は、その代償として呪術的・超越的な力を失って馴致されたとも読める。
しかしまた、こうも考えられる。生命力の源泉としての呪術的な力は、女性原理の場合、女性器の妊娠・出産の力として発揮されるが、男性原理の場合、男性器の種付けの力として発揮される。その一例として、田植え神事において、男性器を模した御神体を田圃の泥土に突き刺し、稲の豊穣を祈願するという儀礼が存在するという事例が挙げられる。金精神(こんせいじん)の由来物語も、新たな生命を創造する過程である男女の営みの中において、生命の根源に係る呪術的な部分で、男性原理の種付けの役割にも"平等に"重きが置かれるようになったことを示しているとも考えられる。そう考えるならば、つまり金精神(こんせいじん)の由来物語とは、男女双方の原理の二人三脚でなければ、人間は生命を生み出す呪術的な力を得ることは出来ない、女性原理だけ或いは男性原理だけでは決して呪術は成り立たないのだという「男女の共存・和合を説く物語」だと解釈することも可能である。対立や征服の物語として捉えるよりは、そのように考えた方が、建設的で平和的なのではないだろうか。
ところで、魔を祓うのとは少し違うが、男性器もまた、困難時に着衣を脱いで曝け出すことで窮地を脱するための呪術的な行為とするという事例がある。例えば、猟師が山で迷った時に、勃起した陰茎を山に向けて見せれば、山の神(女神)が喜び、その男性を助けて無事に下山させてくれるという伝承がある。
また一方で、女性器にも似たような発想の伝承がある。田植えをする時に女性が和装で下着を着けていないと、丸見えの女性器を田の神(男神)が見て喜び、田植え作業が早く進んで終わるように手伝ってくれるという伝承がある(そういったエロ話をしながら、田植え作業に勤しむ農村女性たちの活き活きとした姿を、宮本常一が記録に残している)。
このように性器を曝け出して超自然的な存在に祈願する人間の姿は、文明化した我々現代人の目から見れば、大らかではあるが、馬鹿馬鹿しく滑稽に映る。しかし、自らの肉体の恥ずかしくて重要な部分を曝け出すことができるというのは、相手が神(カミ)であろうと人間であろうと、それを捧げる対象に全幅の信頼や愛を抱いていなければ出来ないことであり、ある種の真摯さや敬虔さの証となる行為でもある。そう考えると、男女間の異性愛だけに限らず、全ての性愛行為の根本において、信頼や愛が何よりも大切であるとされることの原点が、これらの呪術的行為や図像には秘められているとも言えるであろう。
そう考えれば、魔力を持つ性器を曝け出すという古来の伝承や図像、それらの子孫として現れるポップカルチャー的な表現は、単にこれらを面白がるだけでも全く構わないとは思うが、改めて見つめ直してみれば、案外と我々現代人が真面目に学べる何かをも多く含むのかもしれない。
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数学程ではないが高度な識者同士の議論になると言語学でも何言ってるのか分からんもんなんだな
テレビでありがちなことわざや語源系の蘊蓄のイメージで言語学全体があんなんだったら程度が低い学問だろって馬鹿にしてたんだわな
71鳩摩羅童子(くまら どうじ)2022/10/15(土) 14:33:31.920
68へ
> キミの言う「山ほどある」という対応例を、2、3、ここで提示してほしい
まず、確認しておくが (b-a) という表記は、発音「b」が発音「a」に化けた、ということを表す。before-after の順番の並び。
例えば (b-p) の音通例。--- web 内 page 検索 (Ctrl+F) で 「b-p」と入れれば、在れば、引っ掛かる。
ex0. http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
ex1. http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_20.html
結果
[ハチ137] ◆へっぞ◆へっそめ◆へっちょめ◆へっつをめ (トンボ。)
【チベ】bu bla ma ni (= dragonfly [IW]) へっそめ (b-p, l-s)
ex2. http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_17.html
結果
18
↑ jepi₁ 窓枠 不明 oNpi₁ c. window, frame, sash 全てイマイチ。しかし、これ以外の候補は考えられない。 → やはり、有った。
【趣】ab (= : window; opening; niche 隙間, nook 〔部屋の〕片隅、引っ込んだ場所 (cf., aba) [AB archaic frequency; 384; concatenates 2 sign variants (sign also used for èš and aba - for this reading and meaning in Fara period, see Krebernik, Beschworungen]. ) あぶ/あば、おんぴ (+ん, b-pi), いぇぴ (a-ye)
32
↑ pu 火 武藏 pi, po₂ cf. スワデシュ・リスト 207 個の単語の検証(鑑定)167 番の fire
【趣】bul(4); bu(5) (=: to blow; to ignite 点火する, kindle; to sprout (onomatopoeic). ) ぶ、ひ (b-p)
2
↑ isajo₁p(i₁|u) 躊躇う 不明 isajup
【賛】dvaMdvIbhU (= to become joined in couples BhP. ; to engage in single combat MBh. ; to hesitate or be doubtful (cf. %{-dva-bhUta}).) いさよふ (d 無音, d-s)、いざよひ (d 無音, d-s, b-p)
ex3. http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_20_19.html
結果 --- b-p は、ナシ。
----
同一語族であることが証明されているインド・ヨーロッパ語族においてすら、s:s, r:rが常に対応しているとは限らない
74名無し象は鼻がウナギだ!2022/10/15(土) 17:46:55.180
71へ
2)規則にブレ(例外)があるなら、例外が起きる条件や機序を述べるべし
上の例で言うと、「s : s」が本来の対応規則なら、それから逸脱する、「bla : そ」、「d: s」、さらにキミが先だって書いた「ch : t/s」の例外がなぜ発生するのか、その条件と機序を述べよ
3)キミが先に書いた規則(s-s), (b-p), (b-p-m)と、新たに書いた(ch-t/s) (m 無音) (r-r) (p-p)のどちらが正しいのか?
もしも、どちらも成立するというなら、それは音韻対応規則とは呼べない
4)語義が、日本語、シュメール語、サンスクリット語、アッカド語の各言語でバラバラである点の説明もなされていない
5)最も重要な点だが、日本祖語、シュメール語、サンスクリット語、アッカド語の共通祖語について言及がないのだが、どうなっているのだろうか?
どうなっていくのかについては言及されても、何故合併するのかについての言及が少ないような気がしたので書いてみる。先に言っておくが、これから先に書くことに明確な根拠はない。最近の国の方針から俺が独自に推測しただけだ。
少子化に伴って大学も学生の獲得に躍起になってる。その対策として大学の統合は有効な手段だ。ただ、東工大も医科歯科大も超人気大学で少なくとも今後100年は安泰と言って良い大学だろう。
では、なぜ今回統合したのか。まず前提となる知識として、あまり知られていないが東工大、医科歯科大どちらにもリベラルアーツや教養部という名で文系の学問をする部門がある。当然だがそこには人文系や社会科学系を専門とする教員が在籍し教授の役職についてる人もいる。
そして今回の統合はこの教養科目の負担を減らすためではないだろうか?
今の日本は「選択と集中」という政策をとっており、その中で理系は優遇されやすく、文系は待遇が悪くなる場合が多い。そして東工大も医科歯科大も理系の単科大学であり、自分の大学内の文系の学問に対してあまり期待していないのだろう。ここの負担を減らすために今回統合に踏み切ったのではないかと俺は考えてる。
加えて、医科歯科大に関しての話をすると、医学を学ぶのに必要な自然科学の知識は実はかなり限定的だ。例えば医学を学ぶのに数学はいらない(医学部に入るのにほぼ必須なので実際の医者はほとんど数学できるけど)。この辺の医学には不要な自然科学系の教養科目の負担を東工大に任せられるのは願ったり叶ったりだろう。
東工大に関してはあまり詳しくないが生命理工あたりは医学部の知見を生かす機会があるのではないだろうか?
今回の統合は両大学にとって傍流でしかない文系科目を共有することで負担を減らし、それぞれの強みを合わせることでさらなる飛躍を遂げることになるだろう。
まず東工大生は医療費の負担が減る可能性がある。医学部のある大学は医療費補助があることが多く東工大もこの恩恵を受けられる可能性が高い。
次に医科歯科大生はあんまり変わらないように思う。強いて言うなら東工大の第二外国語にロシア語があるのでこれが選択出来るようになるかもしれない。
そして東工大、医科歯科大の教授はは変わらないのではないかと思う。ただし、医科歯科大生用の教養科目を東工大の教授が担当することになるかもしれない。
最後に、一番被害を受けるのが教養科目の教授らだろう。確実に予算が減らされる。東工大と医科歯科大の教養科目の予算の合計より合併後の大学で与えられる予算が多いことはまず間違いなくありえない。さらに授業が統合されることで非常勤の仕事は減るので、この辺の立場の人は今頃戦々恐々としているだろう。
最後に簡単にまとめると俺は今回の統合を理系分野を強くしつつ、文系分野を弱体化させる政策だと思ってる。個人的には東工大や医科歯科大は理系分野に集中してもらって、文系分野の研究はそれこそ一橋あたりにでもやらせておけば良いと思ってる。(余談だが一橋にも自然科学を専門とする教授がいるが、これも正直いらないと思ってる)
https://yoppymodel.hatenablog.com/entry/2022/10/12/165927
ちなみにこれは嫌味とかではなく純粋な質問として聞きたいのですが、
・レイプや殺人を裁けず(これは言い切って良いとは思わないけど。実際凶悪犯は日本の法律で裁かれて罰されてるので)
という部分については他の米軍基地(例えば横須賀)なんかもまったく同じなんですが、横須賀もやはり恒常的な暴力を受けている、という認識でしょうか。
ヨッピーさんから「沖縄と横須賀はまったく同じ状況」という前提をもとにした“純粋な質問”を頂いたのですが、正直、そういうとこだぞと思いました。歴史的・量的な背景を無視して国が振るう暴力とそれに抵抗する人の暴力を「同じ」にしてしまうたぐいの、自分の中立を信じるが故にあらゆる問題をどっちもどっちにしてしまうような鈍感さがここにも表れています。
沖縄と同じ状況の場所は日本にはありません。これがぼくの認識です。横須賀にも横須賀の現状をよろしくない、暴力をうけていると感じられている方もいるでしょう。しかし、それは沖縄と比較すると圧倒的に少ないでしょうし、融和的に過ごされている方の方が多いでしょう。何故か?沖縄とは歴史も状況も異なるからです。
また、“嫌味とかではなく純粋な質問として”を枕につければ、どんなに卑怯で嫌味な質問でも、嫌味でもなく純粋な質問ということに漂白してしまえるなんていうことはありません。ぼくは、このご質問はなんだかヨッピーさんを卑怯だと感じられるポイントがよく出ているご質問だなとも思いました。それはどういうところかというと、ご自分の本当の立ち位置や主張ををあくまでもぼかして中立を装うところです。沖縄と横須賀が同じ、の前提から導きたい暗黙の立ち位置や主張があるはずです。たとえば「横須賀にだって基地があるのに何で沖縄でたけ揉めてるんだろう。それは沖縄の人の態度に問題があるからなんじゃないだろうか?」というような。
付け加えると、他の方に暴力の定義を問うているのも同じように卑怯です。ぼくがブコメでざっと提示したような沖縄の現状について“暴力の定義が分からない”というような表現で問うのです。普通、我々は日常的にある行為を暴力だと定義してから暴力と感じることはありません。先立って暴力だと“感じる”し、暴力だと“思う”のです。暴力の定義を問う前に、まず、「ヨッピーは今の沖縄の状況を暴力を受けているとは思えません」というご自身の(中立からは程遠い)前提・立場を隠さずに明らかにしてもらいたいものです。
ぼくは、“暴力”を問題にしているにも関わらず、今の沖縄の状況を“暴力を受けている”と感じられないヨッピーさんの感覚をこそ問題だと思っています。また、「学問的に定義された“暴力”に合致するなら受け入れる準備はあるからな〜」みたいな態度も非常に問題だと思っています。そういう感覚や立ち位置の方から得る“理解”によって、なんらかの問題が解決に向かって前進することは、皆無だからです。
たとえ話を使うと議論が空転してしまうことを承知で、これらの件を目にして、ぼくが一番最初に感じた印象を書いておきます。家族を殺されてひどい思いをしている被害者が「犯人を殺してやりたい」と呟いた。それに対して「人を殺すとか言うの、やめた方がよくないっすか???殺すつもりないなら嘘だし、殺す気があるなら犯罪で、どっちでもアウトなんすよね!」とダブルピースしながら論破決めようとしたのがひろゆきさんで、「犯罪被害者の現状をわかってもらうためにも、人を殺すとかいう表現をしてしまうと部外者の理解が遠のく」とアドバイスしたのがヨッピーさんです。
数学は専門的になると専門家同士でもお互い研究する領域が違ってると相手がどんな研究をしてるのか話を聞いてもわけがわからないってことが起こる。そして当然素人は理解できない。
職人の世界でも、寄木細工でもいいし、バナナの束を吊るして回しながら素早く小売用の束に分割しちゃう人でもいいが、とにかくなんでそんなことができるのか、到底理解できない。
(バナナの例だと、回しながらカマで適当な束に分けてるけど、回しながらだとそもそも狙ったところに鎌をかけることが困難になるわけで、それなのにやつらは適切なところに鎌を入れ、バナナを傷つけず分割してるのだ)
まあ数学の方が言語化されてるだけましともいえる。言語を意味を辿っていける人なら誰もが理解できる。
ところが職人の世界は違って、たとえば大谷投手になんであんな二刀流ができるのと訊いても、練習あるのみという言い方で、その方法論・肉体の動かし方のメカニズム、の構築する方法をざっくりと言うばかりで、メカニズムそのものを言語化してはくれない。あるいはそもそも誰にもできない。必死に練習して構築できたらそれでいいし、構築できなきゃ終わりってだけ。
人の不合理性を悪用するタイプのことは、言い換えれば「詐欺師」「詐欺まがい」ともいう。「アノ人の言うことは信用できそう!」とかなんとかいって崇拝されるのは大抵詐欺師が多い。なぜなら馬鹿こそが多数派だからだ。
一方先行者利益というのは、その分野に対する参入者が少なくて早くにやったから成功したタイプだ。Microsoft, Google, Facebookなどはみんなこれになる。大成功した部分の利益を別の生産項目に投資できるから大企業化する。
レッドオーシャンでの勝者とは、ダイソンのことだ。掃除機なんて昔からあるが「こうやったらもっと効率的に吸引力が獲得できるんじゃね?」と素人が考える。専門家から「不可能だ」などと言われてもめげずに試行錯誤して実際に発明できちゃったのだ。
高IQの人たちが「信頼できる人」と呼ぶのは概ねレッドオーシャンでの勝者だ。高IQの人はMS-DOSも、初期Facebookも、初期Googleも技術的に簡単に作れるが、先行者ではないから参入しても遅いという自覚がある。
だが高IQでさえすごいと思うのは明らかにレッドオーシャンでの勝者である。なにせ、先行者がいるのにそいつらを追い越すだけの質のものを作ってしまうわけだからな。
そして高IQだからこそ「レッドオーシャンで画期的なものを作りたい」という夢を持つ。自分にそれができるという可能性を考慮するからだ。馬鹿は詐欺師の真似事以外で成功する夢を見ることはできない。
「価値のあるものを正しく評価する」とは、まさにレッドオーシャンに参入して勝ち抜いたダイソンのようなものを評価することだろう。あるいはそうでなくとも、先行者が十分に質の高いものを作っているならその分野も評価されるべきだ。
このあたりが高IQが世間の大多数のクズとの認識の差が生まれているのかもしれない。
「人を騙しても金持ちになれれば価値があり、能力も高い」と本気でそう信じている倫理観のかけらもない愚か者が、実は多数派であることに失望しているだろう。
Amazonや価格.comで買えば質も価格もマシなのに、テレビショッピングや広告でパチもんを売りつけて人を騙す連中がいる。こういうのは馬鹿が多いからこそ儲かるタイプの業種だからニセモンの価値なのだ。
本物の商品・財・サービス・コンテンツを正しく評価できれば、消費者余剰は増加するだろう。俺は「詐欺行為」さえも「生産者余剰」に含まれているのが気に入らん。質が低くて価格の高いそのパチもんは社会に負の効果しか生んでいない。
「デフレ」を騒ぐ前に、まずは経済学の基本として余剰分析を学べ。ああ言っとくが経済学ってのは儲かるための学問じゃねーけどな。
海外から安くて質の高いものが輸入された場合、それは消費者余剰の急激な増加を意味し、社会的余剰全体の増加を意味する。つまり国民が実際には幸せになるわけだ。
もちろん生産者余剰は低下するだろうが、そういうのは競争によって淘汰されるべきものだろう。
[追記]
仮にこの世のすべての商品を10円で売っている国があった場合のことを考えてみましょう、おおよそすべての労働者は首になるでしょう。
そのためその余剰分の安くなった商品を買えるのは、その中で従業員になった人間だけです。それって全体の幸せなんですかねえ。金持ってる人間にとって幸せなだけでしょ。
後すべての食べ物が10円で購入可能になった場合おおよそすべての食べ物の生産者は廃業となるでしょう。
仮に販売してくれる国が戦争にでもなって日本に輸入不可になったら日本って食品を買えなくなって飢え死にする人が多数出るような気がするんですけど大丈夫ですかね?
「この世のすべて」という仮定は極端だが、そういう世の中なら「少ない賃金で買える」状態だ。だから労働価格に下方硬直性がなければむしろ経済的な効率性は良くなるだろう。
完全競争市場が最も効率的というのは常識だ。むしろ関税をかける非効率性のほうが損失を生んでいることに気がついているかな?
そして「戦争」がどの国でも常に発生するようなことはなく、稀なリスクだ。もしある国から輸入できないなら別の国から輸入することはできる。貿易の価値を認めないのは時代遅れの発想だろう。
いやだからねえ。効率ってうたってるけど、実際に農業を行う場合にはノウハウのようなものってのがあるんだよ。
仮に穂が垂れた場合に刈ればいいと書いて文書化されていたとしても、実際に行う場合言葉と事実の差異を埋める努力が必要なわけ。
にもかかわらず経済効率の名のもとにそういったノウハウをすべて破棄した場合、何か、例えば戦争等が起きた場合即対応ができなくなる。
なんらかの労働者を即食べ物の生産者に変換することは出来ないからね。
戦争は起きないって言いますがウクライナで起きたでしょ。あなたがウクライナで戦争は起きると正確に予言で来た人間なら国際戦争は起きないという予想は説得力あるだろうけど
あなた馬鹿だからできなさそうできなさそうだし。(どうせお前効率的ではないからウクライナでは戦争は起きないとか思ってたんだろ?)
ちなみにアメリカは戦争ばっかしてんだけど知ってる?日本も戦争が起きてない期間ってたかが80年ほどなんだけど。お前が生まれてからないだけ。
部分的な参戦は行ってるしな。
農業のノウハウを素早く適用できるだけの比較優位を持っているかどうかという話ではないかな。
もしどこかの国にとって農業が実は得意ではなく、生産性が低いなら貿易によって淘汰されても仕方がない。
まあ安全保障上の問題と経済的効率性のトレードオフは確かにあり得る。しかしお前が「現実を見ている」のか、それとも「確率を過大評価している」のかは判断はつかないな。なにせ損失回避という不合理な傾向が人間にはあるからな。
読解力が低いようだから言うが「戦争が100%起きない」とは言ってはいない。お前はそれを90%起きる!ぐらいで見積もってるかもしれないが、俺は0.1%ぐらいしか起きない、程度で見積もってるって話だ。どちらの見積もりが正しいかお前は証明できるか?
この話で言葉の話は大事だよ?まあ伝わんなかったみたいだしいいんだけど。
近代以降何度も起きたことを存在しないように語るのってどうかと思うわ。
自分に都合の悪そうなことは証明できないって言ってごまかすあたり人生幸せそうだね。
データもあるので言っとくが、「発生確率が低い」は根拠がある。https://www.science.org/content/article/power-law-explains-insurgent-violence
人間同士の衝突は、衝突の規模と頻度において冪乗則に従う。お前の確率の見積もりより俺の見積もりのほうがマシな理由だ。
読解力の低い馬鹿のようなので言っとくが、俺は「証明できる?できるならしてね」という質問を投げかけたが、「こんなことは証明できない」とは一言もいってねーな。国語を勉強しろ。
そしてお前がソースすら示さないもんだから、俺がソースを示してあげているというわけだ。
あと「教授が言うから」「原発がー」「ワクチンがー」これ主題と関係ないしお前がイメージだけで俺の人格を決めつけてるだけだよな?そういうのいらんからw
『北斗の拳』が大ヒットした当時、学校の見学旅行でプラネタリウムを訪れたことがある。その際に、解説役の女性ナレーターが、おおぐま座・北斗七星について語る場面で「誰ですか?『死兆星が見える』なんて言っている人は」とジョークを挿入してきたことを、場内が爆笑の渦に包まれたことと共に、今でも記憶している。
『北斗の拳』がヒットして以降「北斗七星は死を司る星辰(星座)」という認知も、神話伝承にそれほど明るくない人々にまで普及した。特に、プラネタリウムでもジョークに用いられた「死兆星」は、たとえ天文学的な正式名称(ミザールとアルコル)を知らなくても、当時の少年ジャンプ読者で知らぬ者はいないと言っても過言ではない。
この北斗七星の柄杓の柄の端から2番目の星が、二つの恒星から成ることを見分けられるか否か、それを尋ねることで兵士の視力を検査するという手法が、古代エジプトでは採用されていたという。しかし、古代エジプト人が寿命の長短を判定するのにこの二重の星を利用していたか否かは、寡聞にして知らない。西欧の星座伝承の大部分は、古代エジプト以外で言えば、古代バビロニアや古代ギリシア・ローマ等に起源を持つと思ってさほど間違い無いと思うのだが、これらの方面でも寿命の長短を見分けるのに使われたという形跡は、今のところ見かけた記憶が無い。単に私が不勉強で知らないだけかもしれないので、有識者の意見を知りたいものである。
死兆星の元ネタとして、とりあえず直ぐに思いつくのは、この二重の星が日本では民俗的名称として「ジュミョウボシ」と呼ばれていたことであろう。この名称を個人的に初めて知ったのは、星空に関する多数の優れた本を著し、我が国における少年少女の天文ファンの数を増やすことに貢献した、作家・野尻抱影(SF作家・野尻抱介のペンネームの元ネタである)の本で読んだ時であった。野尻抱影の本には、次のようなことが記されている。
この名の由来は、二重の星を見分けられなくなった者は、それから遠からず一年かそこらで、御迎えが来ることから付けられたものらしい。主に、漁業従事生活者たちの間で用いられていた名称のようである。海上での航海が主要な部分を占める漁業において、視力の良さは要であった。そのため、視力の衰えは即ち食い扶持を稼げなくなることを意味し、そこから、星が見えなくなることで寿命が来たのを悟るという話になったのであろう、と。
つまり、ジュミョウボシは、死兆星とは正反対に、見えなくなることが死の予兆というわけである。おそらく『北斗の拳』の作者たちは、星が見えなくなるよりも、見えるように変化するという現象にした方が、視覚的に表現することが容易である(見えない星では絵に描けない)という漫画表現上の要請から、これを改変したものであろう。
これ以外に、北斗七星が人間の生死に関わる星辰として語られる起源を遡れば、中国は東晋の時代の人・干宝が著したとされる志怪小説『捜神記』に収められた物語に行き着くことになる。
原典の漢文を読んだわけではないし、若い頃に読んだ日本語訳(私は平凡社東洋文庫で読んだ)の記憶を掘り起こすだけだが、おおよそ次のような物語である。
「或る農夫が、息子と共に畑仕事をしていたところ、その傍らを方士が通りかかった。方士が、農夫の息子の相を見て『この子は、このままでは十六の歳で死んでしまう』と彼らに伝えた。驚いた農夫が、方士に『それを避けるためにはどうすればいいのか』と尋ねると、或る策を授けてくれた。方士の言葉に従って、農夫は、用意できるだけの酒と干し肉を携えると、南の畑の桑の木が植えられた場所へと赴いた。
方士が教えてくれたとおり、南の畑の桑の木陰では、二人の老人が囲碁に打ち興じていた。囲碁に夢中になっている老人たちは、農夫が傍に来たのにも気づかない様子であった。方士に言われたとおり、農夫は無言のままで、酒と干し肉を老人たちの手元にそっと差し出した。碁を打ちながら老人たちは、差し出されるままに干し肉を食べ、酒を飲み続け、農夫はお代わりを差し出し続けた。さんざん飲み食いし終えた後で、ようやく二人の老人は、農夫の存在に気がついた。
二人のうち、険しい顔つきの老人が『何者だ貴様は?いつから傍にいた?人間が儂らの傍で何をしておる?』と責め立てたが、方士に言われたとおり、農夫は平身低頭して無言を貫いていた。すると、柔和な顔つきの老人が『この者が振る舞ってくれた酒と干し肉を、儂らは楽しんだのだ。そう怒るな』と、怒る一人を宥めた。そして『この者に、酒と干し肉の返礼をせねばなるまい』と柔和な顔つきの老人が言うと、険しい顔つきの老人と共に何やら帳面を捲り、農夫の息子の寿命が『十六』と記されている箇所を彼らは見つけ出した。険しい顔つきの老人が、渋々それを『六十』と書き換えると『これでよかろう。もう去れ』と農夫に言い渡した。農夫は無言のまま、二人の老人に頭を下げて感謝の意を示すと、その場を去って家に帰った。
家で待っていた方士に農夫が一部始終を伝えると、方士は『これでお前さんの息子は、もう心配が無い』と言った。農夫が『あの人たちは何者なのですか?』と尋ねると、方士は次のように語った。
『あの者たちは、北斗と南斗である。柔和な顔つきの方が南斗六星、険しい顔つきの方が北斗七星である。人は南斗から生まれ、その生涯は星々の間を辿り、北斗へと還る。それで、人が寿命を延ばすためには、北斗に祈りを捧げねばならないのである』と」
現代人の目から見た感想を率直に言えば「これ、お人好しの農夫が、単に詐欺に遭っただけじゃねえか?」と思うところであるが、それは置いておく。
天空の天体、太陽や月や星や星座の動向が、地上世界で生きている人間に影響を及ぼす、或いは逆に、人間の運命その他の動向が、星など天空の現象に反映されるという考え方は、洋の東西を問わず広く見られる文化現象である。そういう意味では『捜神記』の物語も、ごくありふれたものだと多くの人は思うかもしれない。
しかし、私が『捜神記』の物語を面白いと思うのは、最終的に北斗七星と南斗六星のように夜空で目立つ星座が重要な役目を果たすにせよ、社会的に見れば無名の人にすぎない農夫の息子のような人間にも、個別に対応するような名も無き天空の星が存在しているという考え方を示している点である。
古代ギリシアには、現代の民主主義政治の源流があったけれども、無名の市井の人であっても天空の星との結び付きを得ることが出来る、という古代中国のような発想には至らなかったようである。してみると、天空の星との結び付きに関しては、古代ギリシア・ローマは、神話の登場人物レベルの選ばれた者にのみ許されるという選民思想だったわけである。そう考えてもらえれば『捜神記』の物語のユニークさを分かってもらえることと思う。
北斗七星・おおぐま座のように、明るくて目立つ恒星とそれらが形作る星辰(星座)は、自然と人目を惹くものだから、古今東西の人類の記録に残されている。金星・火星・木星などの惑星もそうである。太陽や月は言うまでもない。しかし、観測技術が発達するまでは、星辰(星座)の構成員になるほどの明るさを持たない目立たない星々のことは、一々観測して天球上のどの位置に存在するのか、動いているのかいないのかと確かめることは非常に困難であったことは想像に難くない。しかし、事実として夜空には、命名も位置確認も追いつかないほどの無名且つ無数の星々が存在することを、昔の人は知っていたのである。科学的な知識を持つ我々現代人よりも、むしろ昔の人々の方が、実感としてそれを知っていたはずである。現代の文明社会のように至る所に夜間照明がある条件下とは異なり、太陽が沈んで「本物の夜の闇」に包まれて空を見上げた昔の人々の肉眼には、文字通り無数の星々が見えたのだから。現代人も、もし口径が大きい双眼鏡の力を借りて夜空を眺める機会を得たならば、その時は、名前も知らない星々の多さを実感して驚くことだろう。私は今でも時々、双眼鏡で星空を見て感嘆する。
こういった、存在することは分かっていても昔の技術では天球上の位置を確定することが困難であった無数の星々については、占術師たちが「実は、天球上の無数の星々は、消えたり現れたり移動したりしているのだ」と主張したとしても、民衆も確認しようが無く、比較的簡単に信じてもらえたことだろう。恒星の間を動き回る「惑星」、何処からともなく現れる「彗星」、明るさの変化する「新星」など、変化を示す天体現象が現実に見られることも、占術師たちの主張を補強してくれたに違いない。
ただし、庶民が自分個人の運命専用の星を天空の何処かに持つことができたとしても、自分の意志でその星を動かせる訳では無い。天空の星の動きでも人生でも、同じことである。王侯であろうと庶民であろうと、現代人であろうと昔の人であろうと、人生を己の自由にするというのが困難なことに関しては、立場は同じである。自分の人生がままならず、自由意志で動いているのではなく、自分以外の超越的な何者かによって動かされているのではないかと感じるという感覚は、古今東西の汎ゆる宗教的な思索の出発点となる。
この何者かに動かされているという感覚を『捜神記』の筆者は、南斗・北斗の両老人が打つ囲碁の対局という形で表現している。つまり、ここでの囲碁の盤面に配置されている碁石とは、夜空の無数の星々の象徴ではあるまいか。将棋やチェスの駒とは異なり、碁石は没個性的である分だけ、名も無い星に擬えるのには都合が良い。囲碁という遊戯の起源がどのようなものであるか、それを現代人の我々が確実に知ることは不可能であろうが、もしかしたら、星々の配置を操作することによって人間の運命を変えようと働き掛けるような、呪術的儀礼としての遊戯にその起源の一端を持っているのかもしれない。
もっとも、これはあくまでも個人の勝手な空想に過ぎないので、南斗六星から北斗七星へと星空を動くというのであれば、この場合には囲碁よりもむしろ双六の方が象徴的な遊戯には相応しいのではないか、といった具合に幾らでも異論を唱えることは可能と思う。
それに、南斗と北斗の囲碁の対局結果は語られていないので、囲碁の対局によって星々が動かされ、運命が左右されるという仮説は、正直に言えば我ながら牽強付会であることは否めない。まあしかし、たとえ学問的専門家ではなく、実生活に役立つわけではなくても、こういった空想をすることは非常に楽しいので、なかなか止められないのである。
農夫が酒と干し肉を提供した行為が、祈願の対象である神への御供え行為であることは無論言うまでもないが、この他にも、無言を貫くという後代の神事や魔除けにおける物忌と通底する行為が見られる点や、南斗・北斗の翁神に邂逅する場所が霊樹の一つである桑の木の傍である点など、興味を惹くところがまだまだある。いずれまた暇を見つけて『捜神記』を再読してみようかな。