「学問」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 学問とは

2022-11-21

PV目的いかがでしたでしょうかサイト群は、これからAI作成するオリジナル記事っぽいサイトに置き換わっていくのかな。

内容は精査されずに放たれ、それを学習したAIがまたオリジナル記事作成し、少しずつ変容を重ね、パラレルワールドニュース学問歴史が巻き散らかされる…

それを一掃するためのAIが開発されるも、時既におすし、正しい情報は紙の本にしかなく、人力添削必要とされるのであった…

anond:20221121034833

逆に言えば「食えるかどうかだけで進路を決めるな」みたいなこと宣ってる学者先生の目指すとこは紛れもなくそこなんだよな

学問とは最初から食うことに困らない人間けがやるものである、という世界観

anond:20221121002533

その学生試験を乗り越えて大学で過ごす権利を得てるので、明け渡すのも学生自由だよ

大学の全学生アルバイトせず、学問に励むとかあり得ると思う?君の主張は空論だよ、実態を見ろ

2022-11-20

anond:20221120093121

大学院まで行く右翼がいないのが悪いんじゃね?

その頭がないのか学問嫌いなだけなのか知らないけど。

anond:20221120195153

人は変わろうとするときにめちゃくちゃエネルギーがいるんだよ

その移行コストを全員が各自背負うことを厭わない空気を作る(オーガナイズする)のが文系仕事

文系学問は突き詰めれば「いか人間コントロールするか」だから

人間以外の世界法則を整理するのが理数系で、ルーティン最適化とか割り出すのはそちらが得意な仕事だとしても

それを実際に人間を含むシステム適用するには人文系素養かその方面人間の助力が必要

anond:20221120134740

学問的にキチッとした定義のある言葉ではなく、適当に都合よく使うための言葉なのだからむしろ正しい行為社会学方面(含む実務者上がり)の人、あまりにも言葉定義無頓着過ぎるとは思うが。

文系学問って

法学とかまあ必要そうなもの以外は基本的名家次男坊以下とか、金持ちの娘とか本人の能力的にはいらないけどコネとかなんとかのためにそれっぽい肩書きとかをつけとく必要があるってののためのものでしょ。

なんだっけ。忘れないうちにメモ


最近ゴッホ絵画など芸術作品トマトスープをかけたり、ウォーホルアートカーに小麦粉をかけたりする気候変動対策を訴えながら過激抗議活動が耳目を集めている。

ブクマもよくされているが、ほとんどが環境テロ、という認識で眉をひそめたコメントにあふれている。

もちろん許されない犯罪として国内外報道されているわけだが、しかし、海外メディアでは、テロという表現ラベリング)は少なく、抗議団体自称するCivil resistance市民抵抗)という表現を紹介していることが多い。正直、この種の活動で昔から有名なグリーンピースもそうだが、テロ呼ばわりされてもおかしくない運動ではあることは確かだが、報道ニュートラルに構えているのだろう。

そんなおり、斎藤幸平が、「ゴッホ名画にスープ投げ」を理解しないのは、日本人想像力の欠如だ、と述べてブコメから総すかんを食らっていたのをみかけた。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/toyokeizai.net/articles/-/631285

しかそもそもテロという認識日本では強いのはわかるけれど、実は欧米での反応というのはそれほど強くなく、むしろ彼らが自称するCivil resistanceへの一定の理解の上に立った報道も多く見受けられるように思える。

https://time.com/6234840/art-climate-protests-margaret-klein-salamon/

そして、よく考えると、そもそもテロまがいのデモというのは、現代人権歴史を振り返ると、一定程度、社会変革の不可避な副産物として、憲法などのシステムビルトインしてきた経緯がある。典型的かつ最初の事例は、20世紀初頭の資本主義社会における労働環境を前提とした社会権。

この問題は二つの視点から興味深く、注視している。

ひとつは、抗議のコンセプトの抽象性。

もうひとつは、抗議運動市民社会的な価値

抗議運動抽象性について。

https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/508によると、世界的な環境活動グループ「Extinction Rebellion」の共同創設者であり、ジャストストップ・オイル活動に加わっているサイモン・ブラムウェルは、アートニュースインタビューで、若い活動家がこの抗議行動のスタイル選択した理由を次のように説明する。

「これはアートの美しさを否定するのではなく、今の私たち優先順位絶対的おかしいということを言いたいのです。アートに美を見出しギャラリーを訪れる人たちがいる。にもかかわらず、消えつつある太古の森の美しさや、日々絶滅していく何百もの生物たちには目を向けないのです」

アートの美しさを否定しないといいつつ、美の概念の相対化というか、再構築といった意味では、形而上学的な禅問答である

この説明を聞いて、素直に納得できる人の割合が多いか少ないか、という視点でみると、ヨーロッパに比べると恐らく日本人は少ないだろう。

アリストテレス時代から愛だの美だの徳だのといったことをテーマに発展した形而上学から学問が枝分かれしてきた欧米と、近代以降のすでにたこつぼ化した個々のジャンルとして完成形をみた成果を受け取ってそれを解読して発展してきた日本では、こういう抽象的なテーマの抗議の趣旨理解できるのは圧倒的に少ないだろうと想像できる。

これは、作品の美の価値が分かればわかるほど、スープをかける行動の意図もわかる、という構図でもあり、実際、被害を受けた美術館環境問題の意義に言及するなどしている。作品に接したこともなく、それこそ「ウォーホル」だ、「ゴッホ」だと資産的な記号程度にしか理解していない人ほど抗議行動の意図自体を測りかね、なんじゃこの奇行は?という反応になっているようにみえる。

そういう意味では、当然、環境急進派の行動は、そもそも抗議の意図が分からない地域では成功しない(日本ではテロ以外の認識は生まれないだろうし、絶望的に無理だろう)。

しかし、欧米では、意外と功を奏しているのかもしれないと思える。感心はしないが、ああ、なるほどね、くらいの素養のある人は日本よりは多いだろう。

おおざっぱにいうと、日本人経験から教訓を得て社会設計をしていくのが得意。いわば帰納法的な解決が染みついている。一方、欧米、ひろくラテン系言語圏含めて、日本人とは比べ物にならないほど、なにかにつけ演繹的な入り方をする。言葉定義からまり指導原理を引き、タスクを明示する、という物事の進め方へのこだわりが強い(日本人自分からみると)。

組織でも、経験常識が共有できていないと不安なのが日本人

一方、構造化された概念ルール化された行動原理(法)にのっとって行動する、という相互の信頼がないと不安なのが欧米社会。そこに、デモ過激運動の機会に、自分たちが共有していない別の概念オルタナティブとして提示されたときにみせる反応というのは、おのずと異なる。


そのもうひとつ理由が、市民不服従という考え方や人々の認識の違い。

日本人社会迷惑をかけるのがとにかく大嫌いなのだ

欧米では、恐らく日本人想像している以上に、Civil resistanceというアプローチ自体価値社会変革のダイナミズムとして認めている。

それが今回の場合、限度を超えたものであり、法的に違法である、というときに、運動趣旨理解はするが違法である、という具合に飲み込みながら。

この違法性というのは、実は重要視点。それを理解するには、市民社会根本から支える憲法など、法について考えないとわからない。

近代から現代20世紀に法の考え方が近代法が大きくバージョンアップした際に、社会権が組み込まれたのは、中学生で習う話。

日本学校では昔から社会権を生活保護など、上から目線な形で教えてきた傾向があった。

しかし、社会権のうち、争議権を思い出してみればわかるように、実際はボトムアップな契機をはらんでいる。

他者危害禁止近代法の原則をはみ出した形で、ストやピケなど市民的な抵抗暴力性を認める市民権が存在する。

考えてみれば、他者に損害を与え暴力的な行動をとっていい、というのが「労働」に関してのみ例外的憲法に組み込まれている、というのは、よくよくなぜなのか歴史を知っておく必要がある。一歩間違えれば、革命トリガーになりかねないボトムアップ暴力。これをあえて憲法に明記するのは、明記することでコントロールしたいという、上と下のせめぎ合いのようなものも感じる。しかし、なんだったらいつでも政府おかしければ転覆して革命をおこせるんだぜ、と市民に思わせておく、オーナーシップ感覚絶妙バランスで持たせる機能果たしているともいえる。

マルクス時代、そしてワイマール憲法時代社会権を育んできた思想運動社会歴史のなかで、当時「労働」が最重要課題で、社会権の大きな柱として考えられたのは自然な流れだっただろう。抵抗暴力は、労働問題を争うツールであるというのが20世紀だった。しかし、抵抗暴力資本主義社会のなかで、たまたま労働キーワードになっただけであって市民社会としては、労働である必然性はない。20世紀には「環境」といったテーマシステムビルトインされなかったわけだけど、80年代後半にブルントラント委員会が「我ら共有の未来」といって今日SDGの原型となるコンセプトを立ち上げたときに、労使間に代わる、世代間の闘争といったことがテーマになりうることはうすうす予測がついていたように思う。

なので、抵抗暴力労働問題ではなく、環境をめぐる世代問題だとしても、その新たなムーブメント市民社会における意義が注目されるのも自然な流れだ。

ここで、はい違法です、はいテロです、といってしまうのは簡単だが、思考は停止する。


一方日本では。

労働」というキーワード戦後日本ははじめて市民不服従権利を手にした。市民社会における抵抗という考え方に「労働」というコンセプトが、時代要請でむすびついていた、というのは押さえておくべき文脈

GHQの五大改革から。勤労者から労働者への主体認識の転換。

しかし、その権利過激行使は、1950年代から60年代大衆の心を猛烈にイラつかせた。

日本高度経済成長を支えた大手企業は、大規模な争議に悩まされた。

民間では、1960年三井三池炭鉱紛争など半年を超える争議も珍しくなかった。しかし、ほぼ100%ユニオンショップで、従業員全員が労働組合員という会社組織風土のなかでは、会社家族みたいなものであり、労使一体みたいなのが当たり前であり、60年をピークに民間の争議はピークアウトする。そのなかにあって、国鉄だけは年中行事のように、順法闘争ストライキを繰り返して市民生活に甚大な影響を及ぼし、会社のみならず社会的に損害を与えた。さらベトナム戦争反対や成田闘争など、新左翼政治闘争が加わっていくなかで、日本人のいら立ちは頂点に達していく。

国鉄やら共産党やら新左翼にひどい目にあわされた、という日本社会のこの経験というのは、争議だなんだといっても社会迷惑をかけてはいけない、という教訓を強く残し、憲法に組み込まれ暴力的な契機をできるだけ抑制的にするべきだ、という認識支配的になるきっかけだったんだろう。1973年最高裁は、それまでリベラル保守裁判官の間で揺れ動いていた官公労組の争議権の是非について、完全に保守化の方向に舵をきり、封殺する結論に至る。公労協のスト権奪還スト(1975年)を時代の潮目に、公社民営化路線が進められていく。争議権だかなんだが知らないが、憲法に書いてあったとしても、市民としては正直、うんざりしてしまったというところだろう。戦後、長い間、政治闘争旗手として大きな存在だった総評、そしてその大半を国労が占めていた時代は終わる。

ということで「労働」をキーワードにせっかく手に入れた不服従暴力は、迷惑をかけんじゃねーという市民社会常識を繰り返し強化する経験を重ねることにより、空洞化した。

その後の日本社会では、エスタブリッシュメントと化して長い間、社会運動の先頭に走っていた労組が今度は勢いを失うと、どういうことになるか。

例えば、正規雇用非正規雇用ギャップみたいに新たな問題が浮上してきたとしても、ユニオンショップ非正規も入れてあげたほうがいいんじゃない?、という手続き的な、上から目線的な議論の仕方に収れんしてしまう。日本社会があまりにも保守化してしまって、そもそも争議という暴力的な手法は何のために憲法というシステムに組み込まれたのか、根本的な思想がわからなくなってしまっているようにも思える。言い換えると、憲法さらメタ視点からとらえる思想的な背景がさらに弱くなっている。

歴史を振り返ると、20世紀初頭、メタ視点があったからこそ、資本主義社会の現状と課題に即して、社会権という新しい権利が組み込まれたのだが、現行憲法を頂点とし、人権普遍性憲法の最高規範性を強調してしまうと、憲法思想根拠はと問われたときフリーズしてしまう。日本では制憲者の意思議論は起こらず、代わりに基本書読め、といってなぜか憲法学者に振られるのが定番。(制憲者があいまいなのも諸悪の根源かもしれないし、ステートに対するネイションオーナーシップの違いとも思える。)

欧米環境運動というのは、あるいはLGBTも同様だけど、恐らくそうじゃないんだと思う。

既存規範に書いてないものであっても、新たなムーブメント意味真剣に見極めようとする思想文化があるんじゃないと思える。

そのムーブメント暴力性を違法認識しつつも、時代ダイナミズムとしてとらえようとする、というか。

繰り返すと、

・美の概念など、概念の構想力、概念について深く考えたがる文化の違い。

憲法など国の根本的なシステムアップデートするのに必要社会ダイナミズムへの関心の低さ。

この二つをひとまとめにして、斎藤平氏のように想像力の欠如といってしまえるのかもしれないが、因数分解すると、社会設計をするのに基本的重要な2つの能力、この二つには欧米社会と大きく差があるように思える。

2022-11-18

学問に触れている方たちは、もしかしたら普通の人のことが理解できないのかもしれない

ときどき、「体育教師運動得意だから体育苦手な奴の気持ちがわからない」というのを見かける。


しかそうかもしれない

中学の時の走り幅跳びの授業で、自分の実力別に練習のやり方を変えていたんだが、実力が低かった俺のメニュー・・・

「空中に放り出される感覚を養う」

とにかく飛んだだけ。何もわからん


https://togetter.com/li/1231847

ここに書かれているようなフォームのチェックだとかは一切なかった

サッカーちょちょいと蹴る練習パーっとやって試合柔道最初からしっかりやってくれたかな。でも柔道はやったことないやつばっかだから当たり前か。


体育教師運動得意だから体育苦手な奴の気持ちがわからない」というのは、まったく間違っているというものでもないと思う。


しかしたら、これは体育に限らないかもしれない。


https://twitter.com/koichi_kawakami/status/1511583109116198917

ある研究者の人が、指数関数微積義務教育に含めろとおっしゃる


でも、たぶんだが先生の望むよう未来にはならない。

一般人間は働き始めたら、「微分?そんなのやったねぇ。」で終わりだ。

「x^nを微分するとnx^(n-1)になる」を覚えている奴が優秀レベルになる。


人間記憶力は無限じゃない。

働き始めたら学校で覚えていたこととは別のことを覚えなくちゃいけない。

取引先のお客さんの顔、名前など…

何かを忘れて覚えていかないといけないんだ。


微積とお客さんのことを覚えること、大多数の人間にとってどっちが大切だ?

微積は我々の生活に密着していて~」とかそういう言葉遊びしているんじゃないぞ。

考えてみろ。微積とお客さんのことを覚えること、大多数の人間にとってどっちが大切だ?


言い方悪いけど、ぶっちゃけブラック企業研修のほうがよっぽど役に立つ。

先生方の反応したら、ものの見事に「無駄!!」と断じていたけど。

でも、あそこでぶち込まれマナーやら仕事術のほうが大多数の人間にとっては大切なんだ。

あんなとこで微積指数関数が~なんて言ってたら「なに甘ったれてんだゴラ!」ってぶっ飛ばされるだろう。

学問を学ぶことで考え方が~」みたいなこと言っても無駄

学問を4年、6年、長くて10年ぐらいかじってきた人間一般企業で使おうとしても使えない。


それに、今の中学カリキュラム微積ぶち込んだら超詰め込み教育になる。

多分だけどこの手の先生は「もっと学問を大切にしろ!」だからさ、ほかの教科も増やせとかいうんじゃないか

超詰め込みが超超超詰め込みになる。

ぽやーっと理解した中学生が高校行って、中学で増えた分高校では難しいことやって…

今より「あ、俺勉強向いてねぇ」って学問あきらめるやつ増えるんじゃないか


まさかまさかまさか先生方「微積指数関数理解できないのか!」とか言わないだろうな。

そりゃ、学問を生涯の生業にしている先生方なら楽勝だが、

一般人には厳しい。


学問に触れている方たちは、もしかしたら普通の人のことが理解できないのかもしれない」な。

2022-11-17

anond:20221117170450

学問的な総合力が高いところは概して入るのも難しいし就職もいいぞ。地方国立大だって大企業中央官庁に行くやつはそこそこいるし、旧帝大あたりの大学院に進学するやつもまあまあいるぞ。医学部だと東大あたりの非医学部とさほど変わらない偏差値だし。

anond:20221117170021

そうかとしれん

ただ、学問的な総合力っていうより多くの人が気になるのは入試難易度と、就職のしやすさじゃないか

中には学問的な総合力が高いから入る人もいるだろうが…

anond:20221117164947

いや、それはない。

もちろん日東駒専にも国立大学には無い特徴があってそれは評価されていると思うし、東京にあるということだけでも有利な点ではあるが、学問的な総合力では明らかに地方国立大学の方が上。

anond:20221117163800

もちろんそういう意味さ。だから学問的な文章では普通に使われているわけで、大学出にとっては珍しくない語なわけだ。大学では嫌でもそういう文章を読まされるからな。

anond:20221102115128

ただ、実際それが進捗的だった時代もあったんだよね

実験的に

文系学問で、学問の体系化を斬新な()アイデアでやろうとした時代

フェミニズム男性中心の学問のあり方を見直し、各々の経験否定せずに主観を汲み取ることを方法論としようとしたとか

特定場合においてはそれも有用だと思うけど、使い所を間違ったら悲惨なことになるって当たり前のオチになったと思うけど

しかも結局「自分弱者です」と叫ぶ声の大きさ勝負なっちゃって

その時代の人たちや学問のあり方が、まだ学生運動のいろんな文化が残っているように色んなとこに残っちゃってはいから数十年前の進捗的を未だにやり続けている人もいるよ

実際ネットで見るフェミニズム、めちゃくちゃ古いでしょ

anond:20221117100352

その時点で判別できないウソに乗っかって非難してもいいんだけどさ、

それがウソだと分かった時にはそいつらは重い責任を負うべきなんだわ。

自分らがセカンドレイプに加担した以上は学問の職を辞するレベル責任を取ってもらわないと。

それが真実告発をエンカレッジしつつ、ウソ告発を防ぐ為の責任の取り方だよ。

きみらが司法結論無視して始めたセカンドレイプだろ?セカンドレイプなりの責任の取り方を示せよ。

2022-11-13

anond:20221113205631

経済理論は、現状を告発したり、政策の正しさを証明しようとする学問なので

数式が入っている訴状とか、答弁書みたいなもん

経済学って有名だけど誰も知らないよな

数学/物理学/生物学/化学学問として有名だし、高校で触って古典的な部分は知っている人がほとんど

工学学問としてはあまり有名じゃないけど学部名前としては有名、内容も多少想像余地あり

医学学問分野としてはそこまでピンとこないかもしれないが、医療生物学化学あたりから類推ができる人は多いかもしれない

哲学学問として有名だけど、近代的なものはあまり知られていない

史学学問として有名かどうかはさておき、歴史研究をしているさまはそこそこ想像やす

経済学学問としては有名。内容は誰も知らない。なんかお金数えてそう

anond:20221113132753

大学女性に対する環境を整えろ。

男ばっかりでむさくるしいか

「(理系学問においても優秀な)女性が求める快適な環境」のためには(少々理系学問が苦手かもしれない)女性を入れてキラキラふわふわにする必要があるんだよね(´・ω・`)

anond:20221113123732

数式に意味がないということは研究に対する批判であって、学問に対する批判としてはかなり漠然としてるよな

「このモデル重要な因子を捨象しすぎていて現実説明能力がない」とか、そういう批判なら然るべきだと思う

経済学かいう外部から批判されるナンバーワン学問

なぜなのか?

物理学化学に対してアカデミアの外から漠然とした批判が来ることは少ない(物理学化学研究に対する批判は、それぞれの研究単位存在する)

それに対して、経済学はなぜかアカデミアの外から漠然とした謎のお叱りをいただくことが多い気がする

なぜなのか?

2022-11-11

anond:20221110110413

(追記3)

この問題いろいろ考えていて、L型大学G型大学導入って話を思い出した。

平たく言うと、トップ層じゃない大学では、がっつりした学問じゃなくて地域即戦力になるようなことを教えろと。

経済学部弥生会計の使い方を。英文学科では外国人に道案内できるようにしろと。法学部では大型二種免許を取れ。工学部ではトヨタの最新鋭工学機械の使い方を覚えろと。


まあ大学先生ブチ切れてたよね。

俺も当時これ見たとき嫌だったよ。

なんかふっと餃子の王将管理者養成学校マナー講師平林都みたいなヤバイ研修が頭によぎったよね。

絶対どっかの大学研修会社連携して、ビジネスマナー社会人としての働き方を叩き込め!みたいなことやるなとも思ってたし。


でも、「おまえ大学生なんだからうそろそろ身の振り方は考えろよ。」っていうのは確かにあると思う。

大学が終われば働くか、大学院言ってさらに極めるか…大学院終わったらさら修士のほうにもいくのか…もうそろそろ覚悟決めなくちゃいけない年齢でもある。

海外では大学卒業しても数年間は自分が何をしたいのか考える期間があるじゃないか日本はすぐ新卒採用だの…!」とはいうが、

果たして日本にそんな余裕があるか…金の話にしても、富裕層国会議員給料減らして金かき集めてきても、足りなそうな気がする…

学問の道はいばらの道。L型大学に怒ってた先生も、東大出て学問の道に進んだけど、今は非常勤講師でやっとこさみたいな人だったなぁ。

anond:20221110110413

(追記1)

https://twitter.com/monosoi_akarusa/status/1590678156700430336

こんなん見つけた

要約すると「きっちり勉強研究をした人はそのポテンシャルを活かして全く知らない会計の分野でも1ヶ月で化け物レベルになれたよ」ということ


「そらみたことか!」と学問の諸先生方が大喜びしそうな話だが、これはこの人が良かっただけではないかと…


「さぁ、学問を!研究者を育て上げよ!」となるのは…

2022-11-05

それは確率(数学)の問題ではない

たとえば2つの封筒問題ってのがあるんだけど

Aさんの目の前には2つの封筒X,Yがあり、X,Yのどちらかにはもう片方の2倍の金額が入っている事だけが分かっている

そして金額が多い方の封筒がX,Yどちらなのかは分かってない

さて、AさんがXの封筒だけ開けたら中には1万円が入っていた

この時Yの封筒に5000円が入っているのか2万円が入っているのかAさんには分からないが

果たしてこのYの中身が分からない状態でXの中身とYの中身のどちらを受け取る方がAさんにとって得だろうか?

これの数学的な答えは「分からない」というしかない

Yの中身が5000円である確率が幾らなのか設定されてないんだから

じゃあここで「5000円である確率を幾つに設定するのが適切か?」なんて考えをする事も出来るけど

これは数学問題では無いと言うしか無いわけだ

こうやって現在数学数学的な設定が不十分の問題には「分からない」というしか無い学問になっていて

どういう設定を与えるのが適切かというのは数学以外の学問でやって下さいとなっている

…のは別にいいと個人的には思っている

設定が与えられた時に答えを導く事に全力を注ぐ事で、答えを導く方法が洗練されてきた歴史数学にはあるから

一方で統計学医学では上記とは違って「問題の設定をどう与えるべきか?」も学問の中に入っているし

もちろん「設定が十分な時に問題の答えはどうなるか?」も学問の中で扱っている

それが統計学医学って凄いなって思う

まぁ数学の方も応用数学の方で問題の設定をどうすべきかについても専門的な知識を持ってる人がいる

東大稲葉寿先生とか感染症モデルをどう考えるか・モデルが与えられた時にどんな数学性質が導かれるかの

研究者2人分の仕事やっててすげーなーって思ってる

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