はてなキーワード: セクシャルマイノリティとは
「小児性愛のカジュアル化」に問題があると考えるのは、対人性愛優位を自明視した認知の歪みでしかない。問題があるとしたら、「性愛のカジュアル化」にある。セクシャルマジョリティが主導して守ってきた性の規範を、マイノリティが拒絶することにより、「性愛のカジュアル化」が現象として起こっているという事実はあると思う。しかしそれ自体がセクシャルマイノリティの「政治活動」としての側面があり、一方的に断罪することはマジョリティの傲慢である。「批判するな」とは言わないが、慎重になるべきだし、そうした政治性に注目することなく「批判」に終始するなら「ただのポジショントークだ」との誹りは免れないだろう。
批判者が「小児性愛のカジュアル化」と呼ぶものの一つに次の事例がある。
「娘の成長を見てくれ」と言って筐体で遊ぶ小さい娘さんの写真を2枚貼ったツイートにも、リプ欄で「えっちです」ってのがあったんだけど、こういうコメントを気軽に送れちゃうのも社会で小児性愛がカジュアルになりすぎた結果だと思うんだけど— E (@nice_comp_net) May 29, 2020
しかし、これは所謂「キャットコール」と呼ばれるセクハラの一種であり、「対象が児童だから」問題なわけではない。批判者も、「対象がもし成人ならば何も問題はない」とは言わないだろう。このような事例は「性愛のカジュアル化」によって支えられる悪しき文化であり、批判すべきは「性愛」であり「小児性愛」ではない。これを以って小児性愛を批判するのは無理があるし、「小児性愛は悪だから悪なのである」というトートロジーに陥ってるようにも見える。では、なぜ彼らは小児性愛を殊更に敵視するのか? 以下は既存の議論焼き回しである。
小児性愛と成人性愛の本質的な違いはただ一つ、「児童との合意は(少なくとも現代の倫理規定では)成立することがあり得ない」という点である。児童との間に「合意のようなもの」がいくら存在したとしても、それらは全て「合意」とは見なされないし、見なすべきでない。(「合意」の定義と児童保護について慎重に議論を重ねた未来では何らかの変化があるかもしれないが、それについて議論するにはあまりにも論点がずれているし、ここでは触れない。)しかし、「故に小児性愛は許されない」と主張するには論理の飛躍がある。ここまでの前提の下で自明と言えるのは、「児童との性的接触は許されない」という一点である。
「児童との性的接触は許されない」と「小児性愛は許されない」はもちろん同値な命題ではない。彼らがこれを同値と見なすのは何故か?それは彼らが、「性的欲望とは常に性的接触によってのみ満足するものであり、それ以外の性的行為は全てその為の準備に過ぎない」という偏見を抱えているからであろう。今回、多くの人形性愛者、フィクトセクシャル、さらにはアセクシャルを自認する人々からも批判が殺到した理由はそこにある。
「(実在児童を対象としない、無機物を対象とした)児童ポルノは、児童との性的接触を実行するトリガーとなる」と主張する人々は、「成人と性的接触を行うことは、児童との性的接触を実行するトリガーとなる」とは言わない。なぜなら、彼らにとって「性的接触」はそのまま「性的満足」とイコールであり、それが「ゴール」であると無根拠にも信じているからである。
前節では、問題の本質は「小児性愛のカジュアル化」ではなく、「性愛のカジュアル化」であると言った。では「性愛のカジュアル化」は本当に問題なのか? 結論としては、確かに問題であると私は思う。うぐいすリボンの荻野さんも以下のように言っている。
逆に、実質、ポルノとしてマーケティングするものであるのなら、18禁でなくとも、広告だけでなく、表紙の陳列やらまで含めて、賢明にどんどんゾーニングして頂くというのが、多分最適解なんだけどねぇ。— 荻野幸太郎 / OGINO, Kotaro (@ogi_fuji_npo) November 13, 2019
その理由としては例えば、①性的プライバシーの問題、②依存性の問題、などが挙げられる。あるいは、「そのような問題を内包する言動」こそを「性愛のカジュアル化」と呼ぶべきである、という定義づけも可能だろう。
①を語る言葉として「性的自己決定権」「私の身体は私のもの」などがある。余談だが、これは、ラブドールのような性的表象、および自慰を愛好する人々にとっても重要な概念である。実際、他人の自慰を制限しようという試み自体が「性的自己決定権」の侵害であり、セクハラだという批判もあり得る。(参考↓)
「男女を問わず、自慰は最も内密の行為である。誰の権利も侵害せず、自分の性的趣向と欲望を満足させる行為であり、性的自己決定権の領域に入っている。女性を卑下するという理由で自慰道具を禁ずるとしたら、女性を卑下せずに可能な自慰行為とは何なのか?」 pic.twitter.com/3lyXymSaF0— NPOうぐいすリボン / Uguisu Ribbon Campaign (@jfsribbon) May 29, 2020
話を戻そう。性とはそれ自体が深くプライベートなものである。故に、他人の性的領域に、物理的にも精神的にも安易に踏み込むことは許されない。「性愛のカジュアル化」には、その越えてはいけないハードルを下げてしまう効果があるのではないか。自らのプライバシーを切り売りしている限りは「下ネタ」であっても、他人のプライバシーを暴いたり、そこに土足で踏み入るような言動は「セクハラ」になる。(「下ネタ」を話題にすること自体が話題への参加を強要し得る文脈において、それらの区別は曖昧だが、それを語り尽くす労力は私には残っていない。)お互いのパーソナルスペースを尊重する文化を守るためには、適切なゾーニングを守り、強行的な「性愛のカジュアル化」を防ぐことも大切だと私は思う。
②の問題は意外にも語られることが少ない。これは、「ポルノにはなぜ年齢制限が設けられるか?」の問いに対する答えでもある。逆に言えば、「未成年にポルノを見せるべきでない」理由として、「正しい性教育」的なものを挙げるのは、性のスティグマ化に資するのみで未成年に良い影響を与えはしないだろう。
ここまで、「性愛のカジュアル化」は問題であることを述べた。一方で、それらを安易に断罪することもできない事情もある。それは次節で述べよう。
荻野さんは次のようなことも言っている。
いわゆる2次元系の性表現が、本当に純粋に「ポルノ消費」されてるだけなら、こんなには揉めてないんだよね、というところを、表象を批判する側だけでなく、擁護する側もなかなか自覚できないというのが、この話の味噌なんじゃないかねぇ。— 荻野幸太郎 / OGINO, Kotaro (@ogi_fuji_npo) October 22, 2019
ここで、各国のゲイ・パレード、プライド・パレード(LGBTパレード)の様子を見てみよう。
https://www.huffingtonpost.jp/letibee-life/taiwan-lgbt_b_8448268.html
https://lifevancouver.jp/pride_parade_vancouver
https://rocketnews24.com/2012/06/30/224561/
https://www.youtube.com/watch?v=MWiZwUFWs5E
やはり、非常に過激でセクシーなファッションに身を包む参加者のことが目に留まるだろう。しかしだからと言って、彼らに向かって「ゾーニングを守れ!」と叫ぶことがどれだけ暴力的か、理解していただけるだろうか?
彼らがこのような「性」を明け透けに表現しているのは、それ自体が政治的意味合いを持っているのである。それ自体が政治的表現なのである。そして我々の「性」の表現にもまた、そのような側面があることは決して無視できない。対人性愛的なものに背を向け、「オタク」的な性表現をオシャレなものとして、隠語的なコミュニケーションのために消費する文化がウケた理由は、人々がそのような政治性を間違いなく見出したからである。それは単なる「ポルノ」ではなく、「我々の性のあり方」をありのままに表現した、アイデンティティそのものなのだ。
とはいえ、我々の消費する全てがそのような政治性を帯びているわけでもないし、また全てがポルノ的でないわけでもない。実際のところ、単なるポルノが悪ふざけで表に出てくることもあるだろう。しかし、それらの区別は決して容易ではない。物理的には全く同じインクの配列であるものが、文脈や作者の意図次第で、時にポルノであったり、時に政治的であったりする。それらは私やあなたが独善的な基準で決めつけていいものではない。「法的規制に反対する」という言葉は、私刑を推奨する標語であってはいけない。表現の正しい用法用量というのは、表現者と受け取り手一人一人の良心に委ねられるべきなのである。
さらに言えば、政治性とポルノ的であることが、多くの場合両立してしまっているところにこそ問題の複雑さがある。その区別について「語るべきでない」とは言わないが、本質的に「区別は不可能である」ことを前提に、慎重に語る必要がある。そのような必要な慎重さを欠いた言説こそが、「差別だ」と糾弾される所以なのである。
誤謬を見出して批判することは容易である。しかし、否定することが目的化した人々で集まって、こちらの政治性を矮小化するような言説ばかりぶつけられては、議論にならない。「我々が言いたいこと」は、この文章を通しても伝わるはずであると信じている。
だから「差別をなくしたい」なんてのはちゃんちゃらおかしい、ただ正義ぶりたいだけの阿呆どもばっか。
「差別をなくしたい」って言ってる奴は、全員差別主義者だと思って聞いてる。
もちろん、自分が具体的な実害を負う差別についてはなくしたいと思うだろう。
病気なら、障害者なら、セクシャルマイノリティなら、低学歴なら、ブサイクなら、オタクなら、特定の地域出身なら……
挙げたらキリがないが、何かしら自分たちに関する差別をなくしたいだろう。
世の中にあるすべてのあらゆる差別をなくしたい、みたいなことを言う人だ。
まず人間は相手をいじめたり見下したりすることに快楽を得る生き物だから、現実的に無理。
次に、こういう奴は当事者ではない事柄に簡単に首を突っ込む危うさがある。
例えば「腐女子がセクマイへ配慮しようとして、本人たちからかえって困惑されてしまう」などの事例がある。
競合する差別同士が対立してしまうことがあるという視点をよく見落とす。
例えば「男性差別を訴えようとして、カウンターで女性差別を訴えられてしまう」ということがある。
どちらか一方の差別を解消すればいいという問題ではないことに気付けない。
あるいは「女性蔑視を訴えようとして、ラブドールの規制を願う」というのもある。
個人的に、ラブドールが好きな人というのは一種のセクシャルマイノリティだと解釈している。
(性犯罪というがそんなに生身の人間が好きならラブドールなんか気持ちが悪くて手を出さないだろう)
結果としてある派閥への差別を強め、さらに強く糾弾することになるのだから。
beataraxia ゲイというだけでコンテンツとして腐女子に消費されるっていうのがゲイからするとなんかイラッとする。我々の恋愛はあなた達の妄想のためにあるんではないんです。
こういう言説毎度毎度みるけどなんかおかしくない?
別にお前を名指しにしたりお前のプライバシーを暴いてオカズにしたりしたわけではない訳じゃん。
それっぽっちで咎められるの?
じゃあゲイの皆さんはその程度の身勝手な妄想もせずに心の中まで清く正しく生きてるわけか?
俺の知ってるゲイはそんな修行僧みたいに生きてはいなかったが。
しょっちゅう好みの芸能人とかスポーツ選手とか妄想のネタにしまくってワイワイ楽しそうに語り合ってたよ。
それとも妄想で抜くたびに謝ってるわけ?
「警察官の職務は僕のオカズのためにあるんじゃないのに。えーんえーんごめんなさい」って。
謝ってねえだろ?(謝ってたら病気だが。)
ゲイだって普通の人間なんだから絶対身勝手な妄想しまくってるしネットにもバンバンそういうこと書いてんだよ。
「我々の恋愛はあなた達の妄想のためにあるんではないんです。(キリッ)」
とか言えるわけ?
このタイプのゲイさんがいったいどういう思考してるのか気になるんだよ。
(ゲイみんながこんな面白い感じじゃないことはもちろん知ってる。)
「お前ら」呼ばわりっていうのはどこから来たの。
だからそういう風に個人のプライベートに踏み込まれたり名指しされたりはしてないわけじゃんあのゲイは。
つかあのさあ、それまさに最初に潰してある反論ポイントなんだよね。
「別にお前を名指しにしたりお前のプライバシーを暴いてオカズにしたりしたわけではない訳じゃん。」と先頭に書いてあるの。
あーたていどが思い付きそうな詭弁はきちんと真っ先に潰してあるわけ。
kitassandro
コロナ患者の人が恋愛している話、身体障害者が結婚する話、とかさ、そういうのだったらどう感じますか?風俗嬢が、原発作業員が、とかだったらどうですか?
どう思いますかも糞もそういうのは既に大量にあるしな。
白血病で死んじゃう美少女とか、信長のとこにタイムスリップするやつぐらいにいっぱいおったぞ。ヒロインが耳聞こえんとか車イスとかいうトレンディドラマもあったし。「実は同性愛者」なキャラが葛藤したり自殺したりするのを感情揺さぶる要素として使ってる創作なんてのすらとっくに色々あるわいな。
質問の意図がわからんけど「どう思いますか」と言われたら「ありふれすぎてて今さら特段の感想はない」だな。
俺のすい臓でも食ってろ。
欧州に行くと、ジャップはうっすら差別されるね。レストランでいい席には通されないわな。自分が少数派になる環境を体験してみるのも面白いよ。
はあ?
あのさあ、俺の話を理解してるのか?
俺は「社会に差別なんてない!」とか「ゲイは差別被害を訴えるな!」とかそういう話してた?
ゲイにも腐女子にも恨みも恩も言いたいこともないし、まさにこういうバカについて言っているわけ。
こいつのブコメはなんか「社会の中の差別を指摘している」と言う点でポリコレポイントは高い。
でも相手の話と全く噛み合わない、問題文一文字も読まないで書いた答案のような頓珍漢コメントなので国語力とか論理性とかでは深刻なレベルの0点じゃん。
こいつやこいつに星つけたような奴らはもの考える能力が全くないわけよ。
一見お利口そうな真摯そうな姿勢を作ることだけは押さえてて、少しも真面目に考えてないよね。
ゲイに対して失礼なのはおめえらの方だよ。というかゲイに限らず誰に対しても失礼。
こういう頓珍漢なことしか言ってないけどポリコレ点だけ高いアホをきちんと見抜いて軽蔑できるようになりましょうということを、俺は言いたい。
ロリコンが女性や子どもの権利を守るのではなくむしろ都合良く利用する側であるように、腐女子もゲイの権利を守るものではなく一方的に利用する側。それを肝に銘じて初めて「同性愛(者)」に向き合えるのだと思うよ。
じゃあゲイもノンケを「一方的に利用する」側なので、更衣室やトイレを使うときなどは身の程をわきまえることが肝要だな。ノンケに対する一方的な性愛に引け目を感じ続けることを肝に銘じて初めてノンケに向き合えるのだと思うよ。
誰でも他人や他集団にどんな妄想を抱いても自由だし、同時に誰でも自分や所属集団について妄想を露わにされたらイラッと来てよい。考えるべきはその妄想の表象・流通の仕方には非対称性や権力性が伴うってことです
ゲイは腐女子をオカズにしないけど腐女子はゲイをオカズにするから?
ならゲイはノンケに対して権力性を持つんだなあ。申し訳ない顔で生きるべきなんだ。ほえー。
そこに座っててくれ。
自陣営の論理が壊れてても「権力構造ガー」「非対称性ガー」などと喚けばダブスタセーフだと思ってる考えるの苦手な身分制思考のバカ達にはいい鬼瓦として機能するだろう。
要するにあいつらは自分達のスペックの悪い頭を甘やかすためにそういう言葉を便利使いしてるんだよな。
困ってる弱者の誰かに優しいんじゃなくて自分の頭悪さに優しいの。
社会的に否定されがちだったりマイノリティであることの悲哀を、大衆の娯楽のために利用されるのは腹立たしい、という気持ちはあるのかもな。そういう気持ち自体は誰が何を言おうと否定することはできないと思う。
バカ達よりはまともな回答なので罵る気はないけどさ。
その「気持ち」はきちんと観察すれば成分を分解できるよね。
問題なのは「社会で否定されがち」ということでしょう?そこはゲイとしていくらでも言い続けていいこと。
けど妄想することはお互い様であって、それ自体に問題ないんだから、結びつけて抗議するのおかしくない?
その「社会的に否定されがち」と好きなときだけ自在にくっつけて抗議する論法を認めると、どんな恣意的な抗議も八つ当たりもやりたい放題になるんだよね。
それは違わない?ゲイがかわいそうな目に遭うシーンというのは社会のなかにまだまだあるし、そこで辛い気持ちをしたことは否定できない。
けどその気持ちを別の場面にくっつけることで非論理的な怒りを表明できるし周りはこうべを垂れるべき、というのは違うよね。
だってそれでなんかゲイの問題が解決されるの?されねーよ。そういう非論理的フィールドを発生させると、考えるの苦手なバカが寄ってきてさも倫理的風に頓珍漢な非論理論陣でいいこちゃん顔したり誰かをつるし上げたりして楽しむだけ。
バカどもが卑しい愉悦を楽しむための養分が生まれるだけなんだよ。
そこを考えてほしいね。
当たり前のことをどや顔で言うべきではないし
そうね。ストレートの人間だってヘテロ恋愛の漫画やらドラマやらAVやら楽しんでるわけだし一緒だよ。とはいえセクシャルマイノリティはまだまだ酷い扱いをされていると思うので増田みたいに雑に扱う気も起きないが。
あのさあ、よく読んでくれよ。
俺がいつセクシャルマイノリティを雑にあつかったの?具体的なこの部分だ、といえるなら言ってみ?
fukazawakyoko 腐女子フェミニスト「女性性への搾取だァァァァ!」腐女子フェミニスト「ゲイ搾取?おまえのことじゃないしキリッ」
そういう種類のフェミニストがおかしいと思うなら同じ論理で腐女子が叩かれてるときも擁護すべきだと思う。
これは女性が普段性的消費だの何だの言ってることの意趣返しなんだと思ったけどな。なんで自分達が消費するのは良くてされるのはダメなんて言えるんだ?
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/gendai.ismedia.jp/articles/-/72302
何?これ。
"未来のない""回復見込みのない"人間を"トリアージ"のために"見捨てる"のが"自然の摂理"だってさ。
ふーん、はてな民ってやっぱりそういう考え方だったんだね。優しいリベラル〜みたいな顔して命の選別はえげつないのってリベラル優生主義って言うんだっけ?
長谷川豊は人工透析患者を殺せ!と言った。かわいそうな長谷川豊くん。まるで岡村隆史みたいだ。考え方がまったくおんなじのお友達のはてな民は、自分は正義の側に立ちたいから、同志を内ゲバで炎上させたんだ。
植松聖はやまゆり園の障害者を19人殺した。でもはてな民の皆さんならそれを拍手喝采するよね???地面を踏み鳴らして踊ればいいじゃないか。最高じゃないか。ほら、"未来のない""回復見込みのない"人間を"トリアージ"のために"見捨てる"のが"自然の摂理"なんだろ?
オマエラよお??最低だな。人のツラした鬼だよ。悪魔なんだよ。それがリベラルなんけ?
じゃあさ、id:KoshianX ですらもう忘れたかもしれない「キモくて金のないおっさん」論だったらどうなんだよ?今ここに、かわいくて金のある少女と、キモくて金のないおっさんがいて、トリアージするんだったらかわいくて金のある少女なんだよね???まあそうだろな。はてな民はオタクや童貞を守る正義の味方なんだから、汚いおっさんより萌え萌え美少女を選ぶよな。まるで広河隆一みたいだな。「かわいそうランキング」が、キモくて金のないおっさんよりもかわいくて金のある少女の方が高いんだもんな?オマエラにとっての万物の尺度はかわいそうランキングだもんな。
自然の摂理に従えば子孫を残さない杉田水脈だってイイコト言ってることになるのかな?LGBTなんて自然の摂理に反する存在なんだろ?オマエラの中じゃ。
本題に入ればさ〜〜〜、差別は許さないよ?ぴえん🥺みたいなkと言ってる重あえあらはさ、ジジババだけは死んでもいいって思ってるんだろ?ユダヤ人見たく、ガス室に入れられればイイと思ってるんだろ?別にいんだよ。それでいい。ありのままのお前らでええんやで☺️。これはお前らに変わって欲しいために書いたわけじゃない。ただ、そうかそうか。お前らはそうなんだな〜と自分が納得するために、自分の怒りを治めるために書いた。
あいつ、誰だったっけ、hagexが殺されたとき、さんざん「無敵の人ガ`ー」みたいなコト言ってたな。なつかしいな。もう何年たったnだっけ?未来のない、回復見込みのない人間はトリアージして見殺せって考え方が社会を覆えば、そりゃ弱者は無敵になるわな。だからハゲっクスは死んだんだろうな。オマエラが HAGEXを殺したんだ!
結局キモくて金のないおっさん問題はどうなったんだ?クソフェミに対抗するためのただの道具だったのか?いつになったらお前らは弱者男性を救ってくれるわけ?ついフェミと論争を繰り広げて、そんでお前らはお前らが生んだ概念であるキモくて金のないおっさんをもう忘れてるじゃないか!!
読んでわかる通り、おれは障害者だ。手帳は申請中。あと一応セクシャルマイノリティ。ほら、お前らの大嫌いな"未来のない""回復見込みのない"人間だゾ〜〜〜。コロナビーーーーーっむ!!!コロナ付けちゃうぞ〜〜。ほら殺せよ!オレを殺してみろよ!お前らのにっくいにっくい弱者男性だぞ!オラ
っていうかもう何が言いたいって単純にキレ散らかしてるだけなんだけどさ。
そもそもフェミニズムって歴史からして「女性の人権獲得」がスタート地点で色々活動していく中で、そもそも「女性」って何? って言う壁は何度もぶつかってるわけじゃん。
古くは「白人女性以外は女性じゃないよね」みたいなレベルで白人女性しか想定していないような運動だったし、1970年代にはすでにトランス女性の排斥みたいな運動までしてた。
その問題を反省して、どんどん克服していった中で、一気に視界が開けたのがここ10年だと思うわけよ。
2010年代は本当に一気に変化していて、例えばHeForShe運動だって2014年の設立当初は「女性の権利向上活動を男性も理解してください」みたいな運動だったのに、その2年後の2016年には「そもそも男性とか女性とか古かったね、ジェンダー平等になるべきだよね」って運動に変化したじゃん。
一部のアンチフェミニストは2016年のエマワトソンのあの演説を意味わかんない文脈で批判してたけどさ。
1990年代後半に登場したLGBTだって同様に2016年に「LGBTTQQIAAP」って11種類にまで増えたじゃん。多すぎて意味わかんないけど。
こうやって2010年代は「男性VS女性」の対立軸を壊していって、「性差を超えるための運動」に変化していったと思っていたし、一人のセクシャルマイノリティとしてその流れを歓迎していただけに、一気に議論を20世紀に戻した千田論考は本当にショックだったし、それに対して「勉強になった」とか言ってる一部の人に対する絶望感が凄い。
私は女なんだけど、性への考え方が男性に近いと思う。
例えば好きな男の人が出来たとして、付き合うとしたらその先殆どの確率で性行為が待っている。
この人の事は好きなのだが、この人に押し倒されて股を開いて突っ込まれて……という事を想像すると酷い拒否反応が出てしまう。
そうではなくて「この人を押し倒して尻に突っ込んで犯してやりたい」と考えてしまうのだ。
前述の拒否反応は、例えるならば異性愛者の男性がゲイに抱く漠然とした恐怖心に近いのかもしれない。
自分が男側だと思っていたのに、突然女側の役割を持たされるかもしれないという地位を覆される恐怖。
ここでおかしいのは自分はもともと女性であるという事で、むしろ女側の立ち位置こそがデフォルトでスタンダードだという事だ。相手も全くそのつもりだろう。
しかし自分はそれに大きな拒絶を抱いてしまう。これに物凄く悩んでいる。
でもこういう時も感情移入するのも女側ではなく男側だ。こんな風に犯されたい、ではなくこんな風に犯したいという感情を抱いてそれを見る。
だから現実離れしたいかにも男を喜ばせる為のファンタジー演出も大好きだし、現実の好きな人とは別にそれはそれとして見る。
逆に女性向けのAVというのもあるがああいうのは全く「抜けない」。女側の視点に寄り添って作られたものなのだから、逆を見てる自分に合わないのは当然でもある。
ただ男性向けでもフェラのシーンだけはやっぱり実物がないのでイマイチ響いてこなかったりする。
自分は女だという確固たる性自認がある。性的な話題さえ離れれば一般的に女性が好きだと言われるようなものが好きだ。
可愛い洋服やアクセサリー、スイーツも好きだ。少女漫画もカッコいい男性アイドルも好きで、よくいる女性そのものになれる。
ただ昨今フェミの話題も多いがあの手の話題にも乗り切れない所がある。何故ならあの話題は「男が女を性的消費する」事が話の大前提だからだ。
自分は男も女も性的消費したいし、しているのだから、まず議論に立つ前に話の前提に乗り切れていない。
セクシャルマイノリティで無いのだとしたら、こういう考え方で生きている私は一体何なのだろう。
誰にも相談できなくて増田に書き出しているけれど、今はただ「そんな女はいない」「どうせ男でしょ」と存在そのものを否定されるのが一番怖い。
俺はヴィーガンじゃないし、普通に肉を食うがヴィーガンを批判できないし叩く気もない。
動物には感覚があって、動物を無闇に殺したらだめっていうのは周知の事実なのにそれでも俺たちは肉を食ってる。うまいから。つまり非ヴィーガンは倫理的な矛盾を抱えながら生きてるわけで、ヴィーガンを叩けるわけがないってことになる。
それなのにTwitter見たらオタクめっちゃヴィーガン叩いてる。正気か?もう少し頭いいと思ってたわオタク。オタクいっつもブラック企業とかいじめとかアニメ叩きとかに意見してんじゃん。それなのになんでヴィーガンは叩いたりバカにするの?わからん。オタクにはもう少し頭よくなってほしいな、頑張ってね。
てかオタク昔からセクシャルマイノリティ(淫夢)とか精神疾患患者(syamu)とかバカにして遊んでたわ。ゴミじゃんオタク。
(追記)
ごめん、はてな匿名ダイアリー初めて投稿したんだけど、ちょっと強い言葉使ったり針小棒大に書くだけでこんなみんな喧嘩すると思わなかった。バカしかおらんのやなw とか言ったらまた怒るんだろうな。ほんとは全然そんな事思ってないよ。
今から書くことは全部主観。私はいわゆるセクシャルマイノリティじゃないし
とにかく最近すっごいめんどくさい世の中だなって思う
LGBTに対する配慮しましょう~みたいな押しつけにうんざり。
該当の方には生きやすい世の中になったのかもしれないし
それに関しては素直によかったですねって思う
パートナー認定みたいなのが出来てマジョリティと同じように恋人と過ごせるようになったし
そういう面ではいい世の中だなって思うよ
けどなんかLGBTに対して寛容であることが素晴らしいみたいな風潮はなんなの
男の人に連れの話をされて、「彼女さんもそこ気にいっただろうね!」みたいな返しをしたら
女とは限らないのに非常識!恋人とかパートナーっていえばいいじゃんっていう意見が殺到したりとか
わざと中性的な名前を付けるのが配慮出来てて素晴らしいみたいなのとか
出産祝いのために子の性別聞いたら「この子が決めることだからまだ決まってない!」
って言ったの素晴らしいよね!みたいなのとか
いやもうめんどくさい!
例えば最後の例みたいに返されたら「は、めんどくさ。生物学上の性別いえばええやんけ」
って思っちゃうことに対して人権侵害だ~みたいな。生物学上の性別に苦しんでる人も居るのに!みたいな。
そんな すべての人に配慮してくださいね~~!っていう世の中がすごい息苦しい
別にマジョリティの人がそういう発言をうっかりしちゃっても仕方ないんじゃないって思っちゃう。
それを寄ってたかって人権侵害とかLGBTのこと考えてください!とかうるせえ~~~って感じ
こっちだって別に、「彼女じゃなくて彼氏なんですよ!」とか言われたら
うわ、きもって思うわけじゃないし、そこは自由な世界だと思うから、好きに生きたらいいと思う
一回その人がLGBTの人なんだって分かったら無粋な言い方はその人にはしないよ、
それでいいんじゃないの?
@misssfc2019_no7さん(ραοさん)と@54nano_fairyさん(なのさん)のTwitter上での会話を見て、漠然とジェンダー論に興味があったものの何も勉強してこなかったので少し勉強し、考えたことをまとめようと試みています。ややραοさんの発言を多く引用します。これは僕の感覚がなのさんに近く、ραοさんの発言の主張に納得しづらい部分があったため、それを解釈したいと考えたからです。
納得行くところまで整理出来ていないので、「その主張は◯◯の部分が誤りである」「せめて◯◯は読んでから出直せ」などの指摘をいただけると僕が嬉しいです。
あとアホほど長いので暇な人だけ読むと良いと思います。
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男性がフェミニストに対して「真のフェミニストかエセフェミか」と自分がジャッジできると思い上がってる時点で君はフェミニズムのことを何もわかってないのだねという感想しかないわ
というツイートに対して、なのさんが
これこそセクシズムなんじゃないですか?
と問うたところです。
このツイートから、任意の男性は、フェミニズムを理解しているならば(フェミニズム性を有しているならば)、あるフェミニストに対して「真のフェミニストかエセフェミか」ジャッジ出来ると考えない、とραοさんが考えていると僕は読み取りました。
これに対し、この主張には「男性が」ジャッジすることに非フェミニズム性がある、というような非対称性があるように見える、となのさんが疑義を唱えたように僕は読み取りました。
その後の議論でραοさんは
と述べられています。これはフェミニズムの話に限った際、女性がジャッジすることにも非フェミニズム性があるという主張と同値かは僕の目には明らかではないです(おかしなこと、というのがどのようなおかしくなさに違反しているのか自明でなくないですか?)。僕は議論の流れから、ραοさんは男性がジャッジする際の非フェミニズム性とはやや異なる「おかしなこと」と考えているのではないかとお見受けしました。
これは、なのさんの
「マイノリティの中でも一方的なジャッジをはおかしなことである」というのならば、なぜ最初の発言でわざわざ「男性が」「性的マジョリティが」と強調したのでしょうか?
という質問に対するραοさんの
マイノリティの中での話とはまた違う構造があるからですよ。これを同じと言ってはいけないと思います。マイノリティ同士のコミュニケーションにおいて生じる問題と、マジョリティがマイノリティに対し行う言動に生じる問題は異なります。
ραοさんの発言は、マジョリティである男性がジャッジすることはマイノリティである女性に対する圧力となるため非フェミニズム性があり、マイノリティである女性がジャッジすることは(圧力があるにせよ)非フェミニズム性とは異なるおかしさ(例えば他人の内面を決めつけることの失礼さ?)があるという意味ではないですか?男性と女性が非対称な権利を有している現在の規範を改めようとするフェミニズムに対し、マジョリティである男性が一定のフェミニストの主張は非フェミニズムであり新たな規範として認めるべきではないと主張するのは、女性に対する圧力として働くものであり、非フェミニズム性があると。
なので、女性に対する圧力の存在の暴露とその解消を目指す文脈で、(その活動における)障害の存在を批判する際に男性によるジャッジが強調されるのは非対称だが筋は通る(一貫した主張である)かなと思いました。(なのさんがのちに運動のための理論であるように感じて好きではないと言われていたのもこの辺りのことが引っかかってかなと思いました。)
この後ραοさんとなのさんの主張は最初の議論とはやや異なる内容の議論(女性がマイノリティであるということの意味、議論の進め方等)と共に一定の解決を見ずに終わったようで燻ったような状態に落ち着いたように見えます。他の内容についてはここでは触れません。
フェミニズムの議論はたびたび大きな話題になりますが、話題になるフェミニズムは(筋の通る通らないの程度によらず)やや論理的に整理されてない主張が目立つように僕は感じていました。今回の件でもいくつか整理が不十分だと感じる点はあり、例えばραοさんの最初のツイートの下で述べられる
これって普通に男女以外でも考えてみてほしい。マジョリティであるシスジェンダー異性愛者がセクシャルマイノリティに「この人は真のセクシャルマイノリティか、エセか」とか言うのめちゃくちゃおこがましくないですか?障害者に対して「真の障害者か、エセか」とか。何様なんだろうって私なら思うよ。
は圧力という考え方があまり見受けられないので良い例示ではないように見えます。これは他者の内面(あるいは属性、アイデンティティ)を決めつけることはおこがましい、自然な感情として(普遍的に)おかしなことであると主張する話になっており、「男性が」ジャッジすることの非フェミニズム性の話にはそぐわないように思います。何様なんだろうと思う、という自然な感情に端を発する主張のように記さず、セクシャルマイノリティや障害者の方に対する強い圧力として働く考え方である、というように記す方が合致するように思われます。
整理が不十分であること自体はよくて議論とともに整理していけば良いと思うのですが、その後ραοさんはやや早計になのさん(及びなのさんに同調する人々)のことをミソジニストと決めつけてしまったように見えます。早計というのは、議論が一定の解決を見ないまま、ραοさんに「つっかかってくる」人をミソジニストと認定しているように見えるからです。実際には一定の論理によりミソジニストと認定しておられるでしょうが、ここまで他者をジャッジすることのおかしさについて議論していたので、ダブルスタンダードに見えてしまいます。ダブルスタンダード自体は主張の正しさを変えるものではありませんが、信頼できる議論の相手かどうかという他者からの評価には影響するので。実際これのせいで感情に寄りすぎている(論理的に整理されていない点を整理しないまま自分の意見の正当性を主張しようとしている)とみなされてしまっているということがあるのではないでしょうか?
僕は最初追っている時はなのさんの議論の方が身に馴染み、かつ筋が通っており、ραοさんの議論はやや筋が通らないように感じていました。しかしそれはフェミニズムを全く知らないためである可能性も十分高く、少し調べてから判断しようと思いました。現状では、今ある規範の問題点を指摘し新たな規範を構築する際、新たな規範の正当性をどのように確立すればよいのか分からなくなり、整理がついていません。
舟場 保之(2007)「ジェンダーは哲学の問題とはなりえないのか」『哲学』58 号 pp. 61-78(https://doi.org/10.11439/philosophy1952.2007.61)に、次のような話が載っていました(p. 65)。
アイデンティティ・ポリティクスの主張は、その真理性なり正当性なりの論拠を最終的には当該のアイデンティティにおく。アーレントは、アイデンティティ・ポリティクスに反対していたにもかかわらず、レッシング賞受賞講演において「ひとは攻撃されている事柄によってのみ、抵抗することができる」と論じている。このとき、「抵抗」のひとつの形として「現行の法」に対する異議申し立てが行われるとすれば、その異議申し立ての論拠は「攻撃されている事柄」におかれることになるだろう。ある「抵抗」の異議申し立てに対して、、「あなたはなぜそのように主張するのですか」と問えば、最終的には「わたしは○○に関して攻撃されているから」と答えられることになる。しかし論拠がこのようなものであるとしたら、この言い分に納得できるのは同じように〇〇に関して攻撃されている者だけであり、異議申し立ては〇〇に関して攻撃されている者にしか説得力をもたないことになる。だからこそ、このような異議申し立てに無理解な者に対しては、「あなたは○○に関して攻撃されていないからわからないのだ」という言い方が(きわめてよく)なされるのだろう。アイデンティティ・ポリティクスの主張は、アイデンティティに論拠がおかれるかぎり、アイデンティティが同一の者には説得力をもつがそうでない者には説得力をもたないのである。しかも、論拠とされるアイデンティティが「反論の余地のない事実」であるなら、論拠を問題化することがまったく不可能になってしまうので、アイデンティティ・ポリティクスの主張は反駁される可能性を原理的にもたない絶対的なものとなってしまう。
例えば宇崎ちゃんポスターの話題などでも「普通に訴えてもお気持ち扱いされる」みたいな話を見かけました。これはまさに上記引用で触れられている、アイデンティティ・ポリティクスの主張がアイデンティティを論拠とするために反論を許さず、そのためにアイデンティティが同一でないものに対しては説得力を持たないものとなる(反論が不可能なものについては議論が出来ないので?)、という構造と同じものだと思います。
宇崎ちゃんポスターの例では「性別Aの者を性別Bに属するものがあげつらったり、その性を利用したりすることは正しくない」というような公理のもと、それがA=女性、B=男性として宇崎ちゃんポスターにおいて行われていると判断され、問題のあるポスターとして指摘されたと僕は認識しています。これに対し「この程度は性についてあげつらうほどのものではない」「これをあげつらいと考えるのはお気持ちである」という形で「お気持ち扱い」をされているのかなという印象です。
このとき、仮にアイデンティティ・ポリティクスに反対する姿勢を取っていたとして、宇崎ちゃんポスターの問題においてどのように主張の正当性を確立するべきなのでしょうか?究極的にはお気持ちにならざるを得ないのでしょうか……?僕には分かりません。何かうまく論理を構築する方法論が知られているのでしょうか。
またραοさんとなのさんの議論の中で、上記引用で典型的発言として挙げられる「あなたは○○に関して攻撃されていないからわからないのだ」と似た発言がなされていました。
男性がフェミニストに対して「真のフェミニストかエセフェミか」と自分がジャッジできると思い上がってる時点で君はフェミニズムのことを何もわかってないのだねという感想しかないわ
という発言もややアイデンティティ(あるいはポジショナリティ)を論拠にしているように見えます。これによりραοさんは、なのさんや一部の方から自分の正当性を疑わない人とみなされてしまったように見受けられます。
しかし、特に規範のようなものを考えるにあたり、アイデンティティやポジショナリティから自由になることは可能なんでしょうか?ραοさんはそれが不可能だと考えているか、相当に困難だと考えておられるのではないでしょうか?
自分は中立だと思いこむのとか、立場や偏見を取り除いて客観的なジャッジの目線で議論ができると思いこんでるのはなるべく高等教育過程に入った方には既に卒業しててほしいな…。こんなの哲学の初歩の初歩でしょ…。
自然科学の研究をしている身としては、実験だったり理論だったりの正当性の検証は容易ではないが常には原理的に不可能ではないので、メタ的立場から正当性の議論が出来る(なのさんの言葉を借りれば「パワーバランスに基づく議論はあくまで論理/倫理的な「正しさ」とは独立であるべき」)と考える方が身になじむものがあります。なのでアイデンティティ・ポリティクスに反対する姿勢もしっくりくるところがあるのですが、実際問題としてそれを回避することは可能でしょうか?自分がある程度アイデンティティ(あるいはポジショナリティ)を論拠としている部分がある、と自覚した上で正当性の議論を行うという所が限界なのでしょうか?今の僕には分かりません。
上に書いた話も、自分の感覚と整合性が取れるように論展開を進めようと思ったのですが、僕の「お気持ち」が何となく納得していない感じがあり、十分整理できてないなと感じています。
自分の研究が落ち着いた時に、時間をとってもう少し勉強して整理したいと思っているので、重ねてですが「◯◯の主張は筋が通っていない」「◯◯ぐらいは読め」みたいな指摘がいただけると幸いです。
今から4年前くらいのあるとき、私が「人を馬鹿にするような、差別的な表現は控えた方がいい」と言ったことに対して「そうやって規制ばかりしていたら面白いものは作れない」と反論された。
その反論に対して、私は戦えなかった。そんなの絶対に間違ってると思ったのに、何も言えなかった。それがずっと心にしこりとして残っている。
私は演劇が好きで、高校〜大学3年生までの6年間、演劇部に所属していた。
私が大学で所属していた演劇部は所属人数が多く、私の在籍中は40人くらいはメンバーがいたと思う。
その演劇部は毎年の秋、学園祭にて、1チーム2人〜の小さいチームに分かれて短編劇を作り、学園祭の間じゅう、交代制で絶やさず何かしらの劇を上演し続けるという企画をしていた。
私ももちろん友人たちとチームを作って参加した。
そしていくつか結成されたチームの中に「ホモクラブ」(※仮名)というチームがあった。
ホモクラブのメンバーは私の一つ下の学年の男子を中心に5,6人が集まっていた。
その名前の通り、彼らは「主人公も主人公の恋人役もゲイ」という設定の劇をやっていた。
設定がそうというだけで、テーマは「純愛」だと彼らは謳っていた。確かに細かい設定を無視してストーリーラインだけ見ればそれは「数々の困難を乗り越え主人公と恋人が結ばれる」というもので、少女漫画のような「典型的なラブコメ」を過激なギャグ調に演じることで揶揄するような内容だった。
ただ、彼らは劇中のキャラクターに「ゲイ」という属性を付与していた。
主人公は雄々しく熱血な性格の男性で、恋人役は「一昔前の少女漫画の典型的なか弱くて健気なヒロイン」像をかぶせられた男性だった。
「やめて!僕のために争わないで!めそめそ」といった感じの恋人を、主人公が「俺が守る!」といった感じで熱血に困難を乗り越え、ふたりは結ばれる。
彼らの演劇は「チープで典型的なラブコメが男どうしで、下ネタをまじえつつ繰り広げられる」ことにおかしみを見出すものだった。
私は彼らの演技が不快だった。
彼らの演技に、自分が同性愛者であることで苦しむ人々への配慮というものはなかった。
自分たちとは違う性自認、性的指向の人へのリスペクトは欠片も感じられなかった。
彼らが自分たちとは違う価値観の人を、キモイだとか直接的な表現で差別していたわけではない。
だけど彼らは普段の生活から「ホモ」という単語を仲間内で相手をふざけて馬鹿にする言葉として使っていて、そのノリがまんま舞台に乗っていた。
彼らに話を聞いてみたことはないけれども、きっと実際に自分たちが演じたいキャラクターと近い性的指向の人に取材をしたり、セクシャルマイノリティに関して勉強したりはしてないのではないだろうか。少しでも勉強していたら絶対にしないだろうという表現を、彼らはしていた。
現実に「やめて!僕のために争わないで!めそめそ」といった感じの男性が絶対にいないとは限らないし、そういう人はそれがその人の個性なので、否定するつもりは全くない。
現実の同性愛者が下ネタを全く言わないとも限らない。そういうのが好きな人もいる。
自分とは違う性的指向のキャラクターを描くときには必ずモデルとなる性的志向の人に取材をして、勉強しなければならないのかと言われれば、絶対にした方が良いと私は思うが義務とも言えない。でないと「どこまで勉強すればOKなのか」なんて話になりかねない。
そして私は「ホモ」という言葉を狩りたいわけでもない。文脈によって、それが実在の他人を貶めるために使われるのではないと明らかにした上でその言葉を使うのは、なんら問題ないと思う。
ただ彼らは仲間内で下ネタを楽しむノリをそのまんま、舞台に上げてしまっていたのである。
舞台ということは、少数だったとしても観客がいる。演劇は観客がいてはじめて完成する。
観客席を作って発表する以上、その劇は仲間内の下ネタ披露大会ではない、自分とは違う価値観をもつ観客に見せるものであるはずだ。
彼らは演劇そのものが好きなようで、部内でも特に精力的に活動していた。
あるとき、地域のお祭りの特設ステージで彼ら「ホモクラブ」が劇を上演することになった。彼らのいつもの芸風で。
私はこれはまずいと思って、彼らに「あなたたちの演劇は見てひどく傷つけられる人がいるから、やめた方がいい」と告げた。
チケットを販売してやる公演ならばある程度客層を絞れる。面白そうだと思った人しか見に来ない。
だけどお祭りの特設ステージとなると訳が違う。通りすがりに、何も知らずに観る人が大勢いる。
大通りが一本、歩行者天国になって展開されるような大規模なお祭りだ。年に一度の、市内の人間なら知らない人なんていないようなお祭りだ。
その歩行者天国と繋がっているアーケードに設置された特設ステージが、彼らの舞台になる。
いったいどれだけの人が彼らの演劇を目にするだろう。その中にいったいどれだけ、自分の性的指向に悩む人がいることだろう。
だけど彼らが慕うある先輩は「この世の人間みんなに配慮することなんて不可能だ。そうやって規制ばかりしてたら面白い舞台は作れない」と反論した。
私は何も言えなかった。その意見は絶対に間違ってると思ったのに。
「この世の人間みんなに配慮することなんて不可能」それは正しいと思う。きりがない。
「そんなことない、ハリウッドの作品とか、ポリコレに気を付けた上で面白い作品はたくさんある」と言っても良かったけど、彼らはハリウッドの巨匠じゃない。プロじゃない。そんなものを求められるレベルにない。
そして、どんなに観客のひとりである私が不快に感じても、本人たちが「馬鹿にするつもりはない」「真剣だ」と主張する以上、この人たちには何を言っても無駄だと思った。
だから何も言えなかった。ただ傷つく人がたくさんいると伝えることしか出来なかった。
それ以来ずっと、私は差別に荷担したという罪悪感を抱いている。
全人類に配慮することは不可能だけど、意図的にとある属性を面白可笑しく馬鹿にはしないようにするということは出来るはずだ。
特に、今までいないことにされていたセクシャルマイノリティの人々がネットを通じて手を取り合い発信し、ひどい差別を受けてきたことが顕在化してきたこの時代に、どうしてあえてゲイという属性をネタとして消費できるのか。
彼らはその「ネタ」で傷つく人がたくさんいる、今まで傷つけられてきた、やめてほしいという声を全く無視している。
そしてそういう声を知っていながら彼らを止められなかった私も、加害者だ。
私自身、自分の性的指向がよく分かっていない、揺らいでいるというセクシャルマイノリティのひとりだ。
それにもともとぱっとしない性格で、お世辞にも自分磨きに熱心とは言えないせいで、つまり暗くて不細工の陰キャなせいで、中学生の頃は息苦しい思いをすることもあった。高校に入ってからは、怖くて男子とは業務連絡以外で口をきけなかった。
だから他人の無邪気な言動で傷つけられる苦しさは人並みには分かるはずだった。それなのに、何も言えなかった。
先日、ネットフリックスにて山田孝之氏が主演のドラマが公開された。全裸監督だ。
私は山田孝之氏が好きなので迷ったが、結局not for meな作品だなと思って見ていないが。
全裸監督は宣伝で「規制ばかりで息苦しい世の中に風穴を開ける」的なことを謳っていた。正直、推しが主演の作品なのに素直に推せない、残念な作品だなと思った。
差別による抑圧と、差別を避けるための規制による抑圧。どちらも抑圧には変わりないけれども、どちらがより優先的に解決されるべきかというと、前者なのではないだろうか。
私は今も苦しい。罪悪感がずっと消えない。セクシャルマイノリティに関する記事やテレビ番組を見る度にそのことが思い出される。
どうしたら消えてくれるんだろうか。
ただこれから一生「規制ばかりで面白い作品がつくれない」という論調に反発し続けるしかないのかと思うと、気が滅入る。
良い「自分の許し方」があればぜひ、教えてほしい。
じゃあ対抗してセクシャルマイノリティの黒人女性(10代)を担ぐか
私もフェミ臭さがある方だし増田と同世代だけど、この内容は増田の「性」に対する志向が出すぎていると感じる。大原則については私個人は同意できるし、その後もある程度は同意できる面もあるが、全然同意できないところもある。
そもそも性(ジェンダー)に対する認識は、それこそ性自認やLGBT etc.というタームも含め、個別性がきわめて強い。
「性をこういう風に捉え、このような原則に基づいて取り扱うのがよろしいのです」などと受け取られかねない「方法」に向かいやすいのはダメだと思う。性(ジェンダー)の取扱いについての原則を立てるということは、やってはダメなことだと思うのだ。「アタクシが考える良きセックスを、ワークショップでさぁ教えてあげるわよ」という上から目線な雰囲気を感じてしまう。発信側がそういうつもりはなくとも、そう受け取られる可能性がある。発信者と受信者で性志向が異なっている場合、かつ発信者がマジョリティ寄りの場合、その発信はより強く悪意をもって糾弾されると思う。それはとっても危険なことだと感じる。
更に、肉体の成長スピードも個体差がある。もっと見えにくいジェンダーへの意識も性癖も性欲の成長スピードも、その人が持つ性欲の絶対量も人によって違うのに。
セックスファンタジーのくだりあたりは特に、気持ちは分からないでもないが、正直、全然ダメだろう。
性行為を理解していない可能性が高い子供に「セックスファンタジー」と現実の線引きを理解させるのは簡単ではない。それ以前に、子供だろうが大人だろうが、性(というか他者)に関するファンタジーと現実との線引きの位置はその人によって、そして他者(相手)によって、更には二者間(または一人(オナニーのケース)あるいはそれ以上(スワッピングのケース)もありうる)の相性や関係性によって、すべて異なる。
極端な例だが、痛めつけられることを求める人と痛めつけずにはいられない人が双方合意していたら、一般的なレンジからは外れてはいるかもしれないが、双方合意のもとに行われる素晴らしいセックスだとも言える。一方が抱いているセックスファンタジーにあまり気が進まないけまぁ良いかと他方が乗ってみたらハマったというケースだってある。増田から見たら精神的な疾患や犯罪的な問題をうかがわせるような愚かな行動に見えたとしても、それがその時点でのその人の最善の選択であるケースもある、それが人間の欲望やセックスの恐ろしく、難しく、そしてとても面白いところだ。
私が、元記事のブコメを見てて確かにそうだなと思ったのは、「男はそもそも自分の性について教えてもらえず放置される」という視点だった。男性の性器が外形的に明示されやすいことと、乱暴に大っぴらにしても元気がよくて宜しいと言われやすいジェンダーを背負っていることなどもあって、結果的に男子は「自分の中に眠っているかもしれない性への感情(繊細だったり乱暴だったり内向的だったり)」を発見できていない可能性があるのでは、ということだ。そしてこれはもちろん女子にとっても同じだ。
そもそも自分と向き合うことができてない人が、どうも多いみたいなのだ。
自分が持っている肉体と向き合うこと、自分の性自認と向き合うこと。自分の体や自分の性への感情をどうやって尊重するか、同じように他人をどのように尊重するか、そういうプロセスを踏んでいく必要があるんだろうと思う。
「こういうセックスは危険なセックス」「こういうセックスは犯罪」ということを理解するためには、社会的な合意形成を理解できなくてはいけないが、この社会的合意に従えない人はいるだろう。少数派の性志向を持っているほどしんどいと思う。もちろん法律では決まってて法律違反はしちゃいかん訳だが、法律を守れない人は必ず存在するしそういう人も、法律違反した後でも生きていかなきゃいけないわけですよ、性欲の飼い慣らしかたも教えてもらえないままに。本当に簡単ではないし、簡単ではない性向の人ほど、問題や性犯罪に近くなる。それをハナから排除する可能性がある性教育の意味はゼロだろう。
教条的なのはダメだと思う。すべからく具体的で、参加する人が主体的であれるように。カリキュラム以前ではあるが…
生理と出産にまつわること、性病や望まない妊娠についての知識など、生物的な肉体としての性(sex)への理解。
ワークショップ・・・主に社会的性(gender)について、および「sex×gender」について。「人によって違う」ことを理解し尊重しあえるか
WSのシナリオは年齢とか開催主体によって考えなきゃいけない、全く持って適当だが。
LGBTやニッチな性癖や、性関係なくそもそも自尊心の欠如した子や、もちろん一般レンジに収まってるマジョリティも含めて、それぞれ全員が自分の自尊心パーセンテージを高められるようにカリキュラム設計できたら100点なんだけどね…。まぁ大変簡単なことじゃない。相手を傷つける性行為や犯罪は、根本的なところでは多分、加害者自身に自尊心が満たされていないから犯すんだろうと思うのだ。