はてなキーワード: 牟田とは
『女子高生』という男の欲望の詰まった年齢層の『萌えアニメ』という、女性の身体を性的客体化した
コンテンツは女性差別を促進する可能性があると牟田和恵氏や小宮友根氏によって指摘されている一方で、
差別を促進しないという証明はなされていないにも関わらず、地方公共団体がそのようなコンテンツの宣伝をすることは不適切だから。
萌えアニメのキャラを見るとそれに発情してハァハァしている醜いオタクを想像して不快になる女性が多数いるにも関わらず、
地方公共団体という公共性の高く「嫌だから見ない」という選択が取りづらい機関がコラボすることは不適切だから。
『小金井市はいかなる国民・人種・民族に対しても開かれています』と口では言っていたとしても、
「我々はナチズムを肯定しています。だからユダヤ人はここに来るな」という無言の主張になるし、
ネイサン・ベッドフォード・フォレスト(KKK創設者)の銅像が飾られていたら
「我々は黒人差別を肯定します。だから黒人はここに来るな」という無言の主張になり、
ウルバヌス2世の銅像が飾られていたら
「我々は十字軍を肯定します。だからムスリムはここに来るな」という無言の主張になり、
コロンブス像が飾られていたら「我々はネイティブ・アメリカン弾圧を肯定します。
だからネイティブ・アメリカンはここに来るな」という無言の主張になります。
同様に、市が萌えアニメとコラボするのは「フェミニストはここに来るな」
と言っているのと同じなのであり、ヘイトスピーチをしているのと同じであるから。
萌えキャラを見るだけで一部のフェミニスト、社会学者、弁護士や
彼ら・彼女らを支持する人は理性を失い、自分とキャラクターの区別がつかなくなり、
わけのわからない主張を始めるようになるという害が明らかに存在するにも関わらず、地方公共団体が宣伝するのは不適切だから。
5.人命尊重のため
女性の性的な部分だけを客体化した萌えアニメのキャラを地方公共団体がが使う
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わたるが死んじゃう!
そもそも日本は騎馬民族による征服者のトップであった天皇に従う者が被征服者の
被差別部落民、サンカ、隼人、蝦夷、アイヌ、琉球民族などを近代以前から搾取し、
近代以降は朝鮮人や中国人などのアジア人も搾取してその上に成り立ってきた
世界で一番罪深い民族であるから、民族意識・国民意識を捨て去り反日闘争を闘った同志(世界革命浪人)
以外の日本人は滅びるべきだという主張をする人もいるのに、
別に良いんじゃない?
オタク以外の全ての人は、オタクが牟田和恵、小宮友根、北守、新橋九段、墨東公安委員会、九郎政宗、瀬川深、勝部元気、てつまよしとうといった良識が服を着て歩いている人による耳の痛い忠告を受け入れたがらずに、「女が口出しするな」と逆ギレしていることに気づいていて、オタクから離れて行っているよ
https://www.bs.jrc.or.jp/ktks/yamanashi/2021/01/post-255.html
『女子高生』という男の欲望の詰まった年齢層の『萌えアニメ』という、女性の身体を性的客体化したコンテンツは女性差別を促進する可能性があると牟田和恵氏や小宮友根氏によって指摘されている一方で、差別を促進しないという証明はなされていないにも関わらず、赤十字という公共性が高い機関がそのようなコンテンツの宣伝をすることは不適切だから。
萌えアニメのキャラを見るとそれに発情してハァハァしている醜いオタクを想像して不快になるにも関わらず、赤十字という公共性の高い場所で「嫌だから見ない」という選択が取りづらい場所でコラボすることは不適切だから。
『赤十字の献血ルームはいかなる国民・人種・民族に対しても開かれています』と口では言っていたとしても、
入り口にヒトラーの銅像が飾られていたら「我々はナチズムを肯定しています。だからユダヤ人はここに来るな」という無言の主張になるし、
ネイサン・ベッドフォード・フォレスト(KKK創設者)の銅像が飾られていたら「我々は黒人差別を肯定します。だから黒人はここに来るな」という無言の主張になり、
ウルバヌス2世の銅像が飾られていたら「我々は十字軍を肯定します。だからムスリムはここに来るな」という無言の主張になり、
コロンブス像が飾られていたら「我々はネイティブ・アメリカン弾圧を肯定します。だからネイティブ・アメリカンはここに来るな」という無言の主張になる。
同様に、献血ルームに萌えアニメのポスターがあるのは「フェミニストはここに来るな」と言っているのと同じなのであり、ヘイトスピーチをしているのと同じであるから。
萌えキャラを見るだけで一部のフェミニスト、社会学者、弁護士や彼ら・彼女らを支持する人は理性を失い、自分とキャラクターの区別がつかなくなり、わけのわからない主張を始めるようになるという害が明らかに存在するにも関わらず、赤十字が宣伝するのは不適切だから。
5.人命尊重のため
女性の性的な部分だけを客体化した萌えアニメのキャラを赤十字という公共性の高い機関が使う
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わたるが死んじゃう!
そもそも日本は騎馬民族による征服者のトップであった天皇に従う者が被征服者の被差別部落民、サンカ、隼人、蝦夷、アイヌ、琉球民族などを近代以前から搾取し、近代以降は朝鮮人や中国人などのアジア人も搾取してその上に成り立ってきた世界で一番罪深い民族であるから、民族意識・国民意識を捨て去り反日闘争を闘った同志(世界革命浪人)以外の日本人は滅びるべきだという主張をする人もいるのに、そのような意見を考慮せず、日本人の人命を救うことは尊いと無条件に考えることは政治的に中立ではないから。
15歳のとき、ベル・フックスの「フェミニズムはみんなのもの―情熱の政治学」を読み、それが私のバイブルになった。そこに書いてあったフェミニズムの説明を読んだだけで、それが世界を変えるとわかった。地元の図書館にかろうじてあったフェミニズム書籍コーナーに潜り込むや否や、 牟田一恵や田嶋陽子の世界に浸りこんだ。私が進学先の大学を選んだ理由は、その時すでにTwitterで名を馳せていた北村紗衣先生が教鞭をとっていたからだし、ジェンダー論の授業があるからだった。大学を出て最初についた仕事では社内セクハラの撲滅に従事し、プライベートでもTwitterや消費者運動を通じて、男女差別と戦ってきた。ほぼ十年、このために使った時間は知れない。
何が言いたいかというと、フェミニストを名乗れる人間がいるとしたらそれは自分だということ。九州の田舎で育った孤独なティーンエイジャーにとって、フェミニストの冒険譚を読むのは震えんばかりの興奮だったし、目を見開かされる思いだった。周囲にこんな人は見た事がなかったけれど、ネットを通して自分と似たような人が他にいるとわかって希望が生まれた。大学に通い始めてからは、フェミニストでいることにひねくれたプライドをもつ人を他にも何人か発見した。けれどそれはまだ珍しかったし、社会の主流な考え方からはすっかり外れていた。だから、なぜせっかくそれなりの企業に就職した自分が、社内恋愛の末の寿退社ではなく、男受けの悪い反セクハラ活動に血道を上げているのか、誰も本当にはわかっていなかったし、私はフェミニストだと言うと、ほとんどの人が眉をしかめた。月日を経て、私は同じ志を持つ仲間の輪を少しずつ広げた。職場、教育、そしてマンガアニメなどの趣味の世界。それぞれの世界で活動する私たちを、フェミニズムが互いに引き寄せた。そんな仲間の助けがあったから生き延びる事が出来た。けれど仲間を探すのは難しかった。私たちはまだ、社会の中で傍流だったのだ。
でもこの十年、状況は様変わりした。映画やドラマはフェミニズムに則って制作されるのが当たり前になった。アナ雪や逃げ恥を通じフェミニズムは恥ずかしがらずに誰もが楽しめるものになった。
そして、たぶん一番重要なのは、今やフェミニストはカネを、そして権力や地位をも持っているということだろう。世界で一番大きな、そして一番勢い良く成長している企業は女性に配慮し、女性を雇っている。日本の大企業や省庁も女性差別をやめ敬意を示すようになった。強い女性はかっこいい。私たちは勝ったのだ。
そして、そこに問題がある。私たちは未だに自分達が反乱軍かのように振る舞っているけれど、今やフェミニズムは帝国だ。十年前までは私たちはおおむね正しく、批判は的外れで間違っていた。だから他人に耳を貸さない私たちの習性は深く根付いている。それどころか、フェミニストに向けられた批判をスクラムを組んでやりかえすのが絆を深めるためのちょっとしあ儀式になってすらいる。今までは誰かの批判を攻撃するのも、かつては大したことではなかった。一握りのフェミニズムに親和的な人以外にそうした論考が読まれる事はなったからだ。そんな内なる声も、今や大きな問題になっている。フェミニストが本当の権力を振りかざしているからだ。キズナアイやラブライブのポスターへの攻撃、宇崎ちゃんのポスターにまつわる献血ボイコットは、フェミニストの私にとって恥ずべき出来事だった。けれど恐ろしいのは、その暴力的な振る舞いが、フェミニスト界隈に常在する何かと同じ感じがすることだ。それでいいという空気があることだ。ただ驚くしかない。その空気はあっという間に、誰かが大切に育ててきた営みを、無造作に叩き潰すほどに膨張した。ファミリーマートのような主流の大企業ですら、私たちの突きつけた理不尽な圧力に巻き込まれている。今や私たちは、「自分を反乱軍だと思い込んでる帝国軍」なのだ。
だから「日本は未だ後進的な男性社会で、私たちフェミニストはそれに反抗するレジスタンスであり、いつの日か勝利するだろう」みたいな、フェミニスト界隈の通奏低音はすごく違う感じがする。たしかに私たち女性は、かつては家父長制にいじめられたり、大企業に無視されたりしていた。でもそれは、私たちにカネも力も無かった頃の話だ。今や私たちには権力があり、日本の資本主義社会は私たちを標的にするのではなく仲間とみなすのにやぶさかでない。20年前の男性社会は私たちをお茶くみや家庭に押し込めようとしていたけれど、今や私たちが仕事に学術に家庭に多くの選択肢を持つ一方で、文句も言わずに黙々と経済的な後ろ盾になってくれている。
フェミニズムの愛すべき要素の一つに、共感や連帯を大切にするという価値観がある。誰かが泣いている時、証拠や事実検証は、大抵役に立たない。いの一番に、「私もあなたのために怒りたい」と表明し、それを実行しなければ社会は変わらないのだと、痛い目に遭いながら学んできた。これはフェミニズム界隈を通底するルールだ。誰かが被害を表明すれば、ただちに飛んでいって守り合う。客観的なデータに基づく結論は、提示するのに時間がかかるし決まって歯切れが悪い。だからスピードと攻撃力が高い「お前は差別主義者だ。私は傷ついた」と言い切る思い切りが習慣になる。
なのに、フェミニストが自分たちの共感の埒外にある人々へ示す冷酷さには、思わず目を丸くしてしまう。知りうるほとんど全てのフェミニストが、自分より年収の低い男性や、性的魅力に乏しくオタク文化に逃げている(と見なしている)男性を嘲笑し、あるいはそういった言説を窘めもしない。逆に高学歴、高収入な男性や、容姿に優れるなど性的魅力が豊富なタイプは、あらゆるレトリックを用いて養護し、倫理的なお墨付きを与える。収入、学歴、容姿。共感で駆動するフェミニズムは、これら男性のステータスに対してどこまでもプリミティブな接し方をする界隈だ。フェミニズムが世間を席巻し、プレイヤーの絶対数が増えるにつれ状況は悪くなっている。
解決策を知っているというつもりはない。けれどどこかで何かが間違っていると意識することはできる。現に私より若い世代では、女性たちの間ですらフェミニズムへの忌避感が広がっていると感じている。しかし私たち現役フェミニストは、フェミニズムを忌避する女性に対してどんな態度をとってきただろう?ここで口にするのも憚られる、卑劣な言葉を投げつけては、仲間内での連帯を高めてきたのではないか?こう想像するのはおかしな事だろうか――この深く根付いたクソっぷりが、若い世代を遠ざけているのでは?
あたりを見回すと、私たちが育ててきたフェミニズムが、自由への革命から威圧的な権力へと姿を変えたのがわかる。私たちは確かに素晴らしいものを生み出した。けれど私たちは不注意で、普通の人々を傷つけないための安全策を怠った。私たちは不注意で、未来のフェミニストたる多くの若者たちを成長の各段階で追い出してしまった。私たちは不注意で、世界をアップデートしたとき失うものがある人を気にかけなかった。いい目を見る人のことをだけを考えていた。(だいたい自分達のような人々だ。)
古い世代の連中より高潔でありたいと、いつも願っていた。けれど蓋を開けてみれば、力不足ゆえに無害なだけだった。体に染み付いた被害者意識は、私たちがいじめ行為に至る際の非道な言い訳と成り果てた。
だから言いたい。フェミニズムは終わりにしよう。フェミニズムは素晴らしいことを色々してきたけれど、今のフェミニズムは歪んだ復讐心と暴力衝動に駆り立てられる怪物だ。まともな答えは、これを終わらせてもっと良い何かを作り出すことしかない。
もっと良い何かとはどんなものだろう?私たちが攻撃したラブライブには希望を感じる。私たちが巻き込むのに失敗した若い世代の女性をはじめから取り込んでいるからだ。どんな未来が来るにせよ、私たちは良き人物になることを重視する必要がある。今までよりずっと。
弱さへの憎悪と、強いものへの阿諛追従は終わらせなければいけない。これはフェミニズムとあまりにくっつきすぎている。だからこの星からフェミニズムを消し去るしか、確かな方法はないと思う。
「反対派はロリコン」への反発が強く、賛成派全体の意見というわけでもないので、分けました。
ただ、「反対派はロリコン」派は、実際に結構な人数Twitterで見かけられますので、消すことはしません。
議論も出尽くした感があるので、この辺で引き上げ賛成派と反対派(慎重派も含む)の意見をまとめる。
性的同意年齢とは、性交渉をもつかどうか同意可能な年齢のこと。
その年齢未満の人と性交渉を持った場合、状況や同意の有無にかかわらず問答無用で強制性交等罪に問われる。
性交渉がどういう意味を持ち、どのような行為をして、どういうリスクがあるのかわからない子どもたちを保護するために、多くの国で設けられている制度で、日本では「13歳」と明治時代に制定されており、中国の14歳よりも低い年齢である。
韓国でも13歳の規定が続けられてきたが、今年5月に16歳に引き上げられた。
日本でもHRNや日本学術会議などが、同意要件の追加などに加えて、性的同意年齢の16歳への引き上げを提言し、法務省と検討会を開いてきたが、どうも実現できなさそうとなり、Twitterで話題となっている。
大人と子どもの性交渉は、子どもの無知や力関係に付け込んだ性的搾取であり、許されない。
青少年保護育成条例はたった2年以下の懲役または100万円以下の罰金刑であり、軽すぎる。
強制性交等罪に問おうにも、暴行・脅迫によって抵抗できなかったことを証明しなければならず、恐怖心から抵抗するが著しく困難な子どもには酷である。
青少年保護育成条例で足りる。
足りないなら、青少年保護育成法のように、法律に格上げして刑を底上げすることもできる。
ただ、暴行・脅迫を伴う強姦と同格にするのが適切な量刑か疑問。
妊娠しても責任をとれないような年齢で、恋愛関係にあっても性交渉を持つ必要はない。
現在でも青少年保護育成条例はその文言上、中高生同士の性交もひっかかるが、実際にしょっぴかれるのは19歳以上のものばかりだ。
テキサス州の「ロミオとジュリエット法」のように、一定の年齢差以内であれば免責する手もある(HRNの提言では、2歳以内の年齢差での免責が盛り込まれていた)。
必要がないということと、刑を科すべきということは違う。現に子どもたちの間で行われていることを刑罰の対象にしても、子どもたちを保護することには繋がらない。
現に18歳時点での性体験率は5割(https://medical.nikkeibp.co.jp/inc/all/hotnews/archives/280555.html)。クラスの半分を刑務所にぶち込むのか?
青少年保護育成条例で中高生同士の性交が引っかからないのは、真摯な恋愛の場合に免責されるからであって、性的同意年齢を引き上げた場合には、問答無用で刑の対象になる。
それに、警察や検察の運用のさじ加減に委ねた立法は危険である。
年齢差要件については、そもそも「子どもは性的な知識がないから同意能力がない」というのが法の趣旨であるのに、年齢差によって有罪・無罪が分かれるのは筋がおかしい。女性が高校生だとして、相手が同級生かおっさんかによって、その女性の性的同意能力が変わるわけではない。
そもそも妊娠は命の危険を伴うものであり、15歳以下の妊娠は早産や帝王切開などのリスクが有意に増す。
それに、実際の性行為においては、避妊をしてくれない男性と、そうした男性に嫌われたくないから断り切れない女性といった状況は少なくない。
性的同意年齢の引き上げと、それによる厳罰化は、そうした状況において女性が断る力となる。
性的同意年齢は、性交に伴う経済的、社会的、身体的リスクを認識できる年齢のことであって、リスクがなくなる年齢のことではない。
リスクがある行為を、リスクがあるという理由で法的に禁止することは、悪しきパターナリズムであり、原則自由なこの社会においては避けるべき立法論である。
リスクがあるから禁止するのであれば、高齢の女性の性行為も禁止すべきとなるし、一方で男性は性的同意年齢を低いままとしてよいということにもなる。
そのためこの問題に対する対応は、十分な性知識を子どもに与えることであって、性行為を行った中高生を刑罰に処することではない。
もし同級生の彼氏を刑罰に処するということになれば、むしろ女性は彼氏を刑務所に入れたくないために今よりももっと妊娠を隠そうとして、手遅れになるケースが増えるのでは。
アフターピルも低用量ピルも処方箋なしでは買えず、ろくに性教育も受けられず、妊娠したら退学、露見するのが怖くてぎりぎりまで病院に行くこともできず、死産してしまったら逮捕。
アフターピルや低用量ピルを処方箋なしで買えるようにして、性教育を拡充すればいいんじゃない?
妊娠による退学の強制は、そもそも違法なんで、そんなことを強いる学校を訴えなよ。
露見しても問題なくなれば、隠して出産して逮捕される女性も減るんじゃない?
子どもの権利条約に基づいて、大人たちだけで議論しないで、子どもの話もまずは聞いてみましょうよ
13歳の子どもが、性的なことで自律した意見を言えるわけないだろ。ほんとに子どもの法的保護にかかわってるのか?
は?ロリコンか?
引き上げに反対とか言ってねぇだろ。
反対派はロリコン
黙ってろ
黙ってろ
引き上げには賛成だし、他の国では引き上げできてるんだから、日本でも引き上げできるんじゃない?
ただ拙速に引き上げると社会的混乱がでかすぎるので、性教育の拡充と、避妊手段への容易なアクセスを確保してから数年後とかが前提として必要だろう。
最初に書いておくが、これはフィクションだ。たとえ真実に近い部分があっても特定を避けるために変えてある。
こんなご時世に忘年会かよと思われるかもしれない。私もそう思う。人口密度の低い地域ならまだしも、東京のど真ん中で、しかも会社は現代的なウェブサービスのベンチャーだ。このタイミングで忘年会を開くなどという選択肢から最も遠いはずの環境だ。でもしょうがなかった。課長が「忘年会やろうと思ってるんだけど、幹事やってくれない?」と私に聞いてきたから。いくら年が近いとはいえ、「いや、いま忘年会はヤバいっしょw」などと返すことはできなかった。
参加者は部内の社員で合計二十人ほど。ベンチャーだけあって年代は多くが三十代前半以下。部長でも四十代前半といったところだ。たとえ感染しても重症になったり、それ以上になることはまずありえない、ということなのだろう。会社の方針としても特にこうした大人数の会食を制限するつもりはないようで、社内独自の警戒レベルは緊急事態宣言の解除以降はずっと最低レベル。十一月の急増を受けてもこれは揺らがなかった。勤務は仕事柄もあって基本テレワークが継続されており、希望すれば出社も可能だ。心配性の私はもちろんそんな狂気じみた希望など出さず、出社するのはどうしても断れないときだけなので月に一二度といったところ。同僚との食事や飲み会も辞退し続けてきた。こうしたことができる環境なのは非常に感謝している。
幹事を任された私は、課長に伝えられた条件に合うスケジュールや店をピックアップし、いつものように調整さんで出欠を取って、一番人が集まる日にちを選んだ。課長の条件にはなかったものの、店の絶対条件としては「換気の良いところ」を選んだ。私にできるせいいっぱいの対策はそれくらいしかない。それが忘年会の前週だ。緊急事態宣言が出ればさすがに社内的にも忘年会は禁止になるだろうと期待し、あえて直前にした。結果は周知の通りだ。
こんなときに忘年会かよ……とは思いつつも、私はいつもと変わらず幹事の仕事を進めた。なんせ、これは業務なのだ。課長から忘年会の開催を指示され、それに従っているだけだ。もしそこで感染が広がっても私のせいじゃない。後遺症が出ても私は関係ない。妊娠中の後輩がいた。まもなく結婚式だという同僚もいた。持病のある先輩もいた。老いた親と同居している同僚もいた。彼らはどういうわけか、出欠を取るときすべての日を欠席にしなかった。いやたしかに私が「参加してねー」って書いて出欠取ったよ! でも正直言って、おまえら本当にそれでいいのかと思った。その人たちが感染して、どんな結果になっても、私の責任ではない。もし彼らが私に損害賠償を請求しても、私は裁判の席で「課長に命令されました」と、感情のないロボットのように答えるだけだろう。これは私の忘年会ではない。だから私の責任ではないのだ。そう思うと、いや実際間違いなくそうなのだが、気が楽になった。(とはいえ、大学の心理学の講義で習った電気ショックの実験をまったく思い出さなかったといえば嘘になる。)
予定の時刻になり、荷物をまとめた社員がエレベーターホールに集まる。こんな時代でも金曜の夜はどこか浮足立つ。だがそこに並ぶ人々がどこか不安げな表情をしているのは私の気のせいだったろうか。
会社のビルを出て、二十人もの大人数で狭い道を駅前へと並んで歩く。通り過ぎる人々には私たちがどう見えていただろう。「こんなときに能天気な奴ら」「ニュースも見ない愚かな若者たち」「根拠のない楽観主義にまみれ、判断力の欠如したバカどもの行列」。それは私自身が一番、私たちに叫んでやりたい言葉だった。
「増田ちゃ〜ん、今日はありがとね」そんなことを一人で考えながら歩いているとき、課長が話しかけてきた。「今年は忘年会やめる会社が多いんだってさ。でもやっぱりこれがないとなんか物足りないよね」
「はあ」私はむしろこういうのは苦手なタイプだ。「私も本当は感染広がってるしどうかなと思ったんですけどね。でも課長がやりたいと言ったので」
「え?」課長が聞いたこともない素っ頓狂な声を上げる。まるで用意していたみたいに。「別にぼくは何も言ってないけど? 増田ちゃんが忘年会やりたいって言ったんだよね?」
頭が真っ白になる。私が……言ったのか? いやそんなはずはない。十一月の二人ミーティングのときに課長に指示されたから、幹事をやっているだけだ。この全力コミュ障の私が忘年会をやりたいなどと言うはずがない。
「課長が私に、幹事をやってくれないかって言ったんですよ。そうですよね?」
「うん、でも増田ちゃんがいいですよって言ったでしょ? だから主催者は増田ちゃんじゃない? お店選んだのも、出欠取ったのも増田ちゃんだし。何より幹事だし」おそらく課長もこの忘年会のヤバさについて薄々気付いていたのだろう。いや、最初から承知で私に頼んだのかもしれない。何かあったときに逃げられるように。彼の口からは前もって練り上げられていたようなねじれた論理がほとばしった。「ていうかさ、誰が何言ったかなんてどうでもいいでしょ。せっかくの忘年会なのにカタい話はよそうよ」
「つまり」私は言った。「課長はこの忘年会で何が起きても、責任を取らないということですね?」
課長は驚いたような顔をしたあと、笑いながら「責任ってさあ……忘年会の責任って、それギャグ?」と言った。
あたりを見回して部長を見つけると、駆け寄って尋ねた。部長の答えは課長と同じだった。
私は行列の先頭へ走り、みんなに叫んだ。
その後の彼らの様子は書きたくない。
みんなを返したあと、部長と課長と私は会社に引き返し、短い面談をした。この忘年会の件について私を擁護してくれる人は、その会議室にはいなかった。
うちの会社の社員に求められている資質に「決断」がある。増田は幼い子供のように、自ら決断することを嫌がり、責任を放棄し、多くの人々に迷惑をかけた。そんなことを二人は言った。
それが彼らに見えている、そして他の社員にも見えているだろう私の姿だった。
「リスクが低いことに大騒ぎして、迷惑をかけた」。だったらあなたたちが責任を持つと言えばそれで済んだのだ。そんなにリスクが低いというなら、どうして自分が責任を持つと言わなかったんだ?
「決断しろ」。私は中止という決断をした。それは苦しみに満ちたものだった。でも私にはそれ以上の決断などできなかった。どうしてあなたたちは「よしわかった、おれが責任を持って、開催するという決断をする」と言わず、代わりに「こんなときに責任なんて空気読めないこと言うなよ! それより早く酒飲もうぜWowhooo」などという答え方をしたんだ? 「大いなる決断には大いなる責任が伴う」という言葉を知らないのか。私も知らないが誰かが言っていてもよかったと思うんだ。誰かに言っていてほしかったと思うんだ。責任のない決断が尊ばれる職場で出世するのは牟田口みたいな奴だけだ。責任のトリクルダウンなんてまっぴらだ。
最初に書いたように、これはフィクションだ。私の人生にはどういうわけかこんなふうに、週末に何をしていても、愚にもつかないフィクションが頭の中を回り続け、どこかに吐き出さずにはいられないことがある。
だからこれを読んで「これはもしかしてあの人かな?」「うちの職場かな?」と思ったとしても、それは絶対に違う。
でももしそんなふうに思ったのなら、お願いだから、あなたが幹事であってもそうでなくても、どうかみんなのいる前で聞いてあげてほしい。
「それって誰の責任でやるんですか?」と。
改憲派の先鋒でありながら護憲の要石を地中深く打ち込んだ安倍総理が辞意を表明された。改憲に向けて日本がやってきた道のりをガキの泥遊びで全て台無しにした安倍閣下は護憲派にとって駐印イギリス軍にとっての牟田口に等しい。
ここにその輝かしい業績を記したい。
WWII以後も熱戦の時代は続き、世界は民族自決、植民地独立、冷戦下での大国介入に伴う戦争を経験してきたが、敗戦で武装解除された日本は関係のない話で、経済成長に邁進してきた。この路線を決めたのは吉田茂である(吉田ドクトリン)。
その冷戦下で9条の改正を目指すのが自民党、護憲が革新という図式が定着した。数で劣る革新だが思想的には優勢で、冷戦後期には自民党は改憲路線を表に出せなくなっていた。冷戦により国際政治的にも日本の専守路線が固定化されていた事と他国では熱戦が続いていて海の向こうでは若者の戦死が伝えられていた事もある。憲法学者と言ったらほぼ全てが革新で護憲派だった。
ところがここに「憲法フェティシズム」的な趣向が定着して行く。つまり現憲法は良いものだから朗読しましょう的な考えだ。反リアリズムである。
その為護憲=お花畑、空想平和主義という評価が出てくる。そして冷戦の終結により日本の立場は流動的となった。
そこに降って湧いたのが湾岸戦争で、ここで戦後初めて日本は戦争への協力を求められる事になり、世論は右往左往する事になった。秩序維持の為の戦争であるという大義名分もあるし、憲法9条が前提にしていたのは国連軍が結成されて国軍は縮小されるというカント的な世界観である。多国籍軍は国連軍とは違うが名分的には相似だから護憲派も一概に否定しにくい。
湾岸戦争を戦費拠出という形でお茶を濁した日本だったが、戦争に寄らず国際貢献をすべきとの議論が高まってPKO活動に自衛隊が参加するようになった。その第一弾はカンボジアの民主選挙の監視である。
また同時にそれまでタブー化されていた改憲の機運も上がり、護憲派ばかりだった憲法学者にも改憲派が現れ、メディアに出るようになってきた。その筆頭は小林節である。
先に書いた憲法フェティシズムのせいで、憲法学には「微妙」な空気が取り纏っていた。
憲法も法学なので法学部で扱う。だが法学一般は最終的に実学に接続しているのに憲法はそうではない。例えば国民主権の自由主義的な思想的意味が延々とこね回されたりする。
国民主権の主権は元は絶対王政の国家の正統性の為のフィクションであって、統治権、外交権、交戦権などを示すが、こういう肝心な事はスルーされて国民主権が思想的に称揚されるばかりだったりする。
例えば国際政治での人権の扱いなどが憲法学周囲から出て来ない。国際政治では人権は国家に対する対外的権力だ。
統治の問題は主権の壁によって外部から干渉できない。この前提が共有されないので人権がその壁を突破できる国際権力となっているという事が扱えない。特にコソボ紛争ではNATOの軍事介入の理由に人権が挙げられた。国民主権は扱うのにこっちに接続できない憲法論というのはリアルを欠いている。
コバセツはこんな左翼神学的な憲法学に割り込んで行って安楽椅子を蹴り飛ばして塗り替えたと言って良い。
改憲問題でエポック的な出来事があったので紹介しよう。2003年の朝ナマで西部邁がコバセツに追い返されたのである。
西部は改憲派のテーブルに座り「憲法9条や前文の精神が日本人に悪影響を」と長々語っていた。これはモロに憲法フェティシズムだ。憲法を唱える事で精神が浄化され理想的市民や国民が出来ると言う考えだ。
それでイライラMAXとなったコバセツは「そんなの相手にしなくていいから」と侮辱。衆前で面子を潰された西部は退出した。
これは左翼神学の単に裏返しで、コバセツはそういう神学的安楽椅子を蹴散らしてきたんだぜ。そんなを見たら撃てと訓練されたコバセツの前でそんな事言ったらバカ扱いされるに決まってる。
それでリアリズム的にもう9条一国平和主義は困難だし、ちゃんと改正しようという機運が高まっていたのだが、これに疑問符を付けたのがイラク戦争であった。
当初から戦争の理由は疑問視されていたのだが賛同者達は「アレは最初から予防戦争だった」等と誤魔化していた。だがISISが勢力伸長すると彼等も黙りこくるようになった。
これによって米国主導の国際秩序維持に付いて行くという路線を留保すべきという流れになるのは当然だ。しかも国連の影響を抑える為の政策を米国はしまくった。この為に国連路線を旨としていた日本の国際貢献もイマイチリアリズムを失ってしまった。国際貢献路線の空白である。
改憲の旗艦となった彼は新右翼の学生運動流れの学者を重用、党内の勉強会でコバセツは対立するようになった。
彼等の憲法観は嘗ての左翼神学の裏写しであった。コバセツが蹴散らした椅子に座りだして頭の悪い理想論を語るようになったのだから当然だ。
すると2007年にコバセツは自民党の憲法勉強会に呼ばれなくなった。パージである。
ここでリミッターが外れ、改憲論というのはお笑いでリアルと全く接続しない理想論を語るだけのものとなっていく。
例えば若者がチャラチャラして国家について考えないのは怪しからんので徴兵するなど。
日本会議の中枢に居るような新右翼の学生運動家には就職せずに大学に残った者も多い。また六本木にあった生長の家などで寮生活を送った者も多い。その集団的生活史が投影されている。
吉田茂は後に吉田ドクトリンは撤回して海軍力を増し海洋国家となるべきだと主張していた。これは日本の海岸線は長いので防衛力をそこに集中すべしという考えと、当時の日本が重厚長大産業国で造船がその筆頭だった事もある。
徴兵は海軍に向かず陸軍歩兵に向く。つまり海兵隊のような外地でのの占領などが多い事が前提になるが彼等にはそんな考えは無い。国家意識が希薄な若者は怪しからんから集団生活をさせろ、国を守るのは美しい行為だから戦争に従事させろというだけだ。
またいつのまにやら立憲主義は否定されて憲法は国民が守るべき事柄になっていった。
コバセツを追い出して何年も顔をつき合わせて「現憲法には国家を統制するような事ばかりかいてある、おかしい」とやっていたのである。
何年も何百時間も掛けてバカの思いつきを言い合って論議のつもりだったんである。機械ばらして直せなくなるガキかよ。
それに対する言い訳は「家族愛は良い事だ」などであった。良い事だから朗読しましょうというのが憲法だと思ってたんである。良い事を書くと良い国になると思ってるんである。
つまり彼等は憲法どころか毎日やっている立法の仕組みも判っていない。法律が肉付けされて権力を持つ仕組み=政令省令の事や閣法の提出過程も判っていない。
これは左翼神学的で実学に接続しないので憲法学者が微妙な扱いされていた20数年前の完全に裏焼きであろう。
そういえば日本会議の活動家たちが動いて成立させた国旗国家法や年号法などには政令が無い。普通の立法プロセスが付いていないのである。
こうして「改憲」は厨房タームとなり、現実に即した意見を言う人との評価が欲しい人は避けるようになってしまった。「南京虐殺は朝日新聞の捏造によるもの」とか「地政学的にナンタラ」と類似のコンテンツとなってしまった、
南スーダンの情勢が悪化し自衛隊がPKO活動をしている地域が危険に晒された。他国から派遣されている軍を置いて撤収していいのか?これは改憲上の一番重大な局面だ。
今回は撤収するにしろしないにしろ「国民の皆さん、憲法の枠内に納まるよう戦闘地域では活動しないという区切りでPKO活動をしてきましたが、コソボ以後のPKOは変化し、戦闘状況では積極的な介入により平定を維持するというポリシーになっています。今後もこのように情勢が悪化して危害射撃をする必要に至るでしょう。憲法とPKOポリシーを変える為の議論をする時です」というのが改憲派の筋である。そしてその時である。
なのにたかがその場の政局が荒れる事を忌避した聖帝閣下はそんな事に興味は無かった。日報を破棄させる圧力をかけたのである。現実に即した改憲に至る正統な道筋と思わなかった。改憲は既にガキ臭くて老害じみたルサンチマンを集合させる事でその手の固定票を集めるフワついた寝言であったから自衛隊と憲法の問題なんて気にも留めなかったんであるな。そしてその寝言化を成し遂げたのも聖帝閣下とお仲間の努力の賜物であった。牟田口閣下が前線から離れて芸者遊びを続けたような血の滲む努力の。
更にこの件では防衛大臣が辞任する運びとなった。
だが隠蔽の責任を率先して取ったのではない。後から無くなった筈の日報が出てきたのだ。
つまり自衛隊に後ろから刺されたのである。制服軍人をスーツの政治家が統制するのが文民統制であってこれが失われると国家は破滅に突き進む。そんな憲政上の大問題だ。
だがこの自衛隊が成した暴露は正当な行為である。やってはならぬ不正を成さしめそれを是正した事で文民統制上の問題となった。
しかも自衛隊の活動が蓄積された一部であって、改憲への正当な道筋ど真ん中の事を無きものにするという不正であって改憲派として正気の沙汰ではない。
だがこの時既にこの政権にまともな責任を取らせようという国民の意識は無くなっており、子供の間違いのように擁護されて忘却された。
ど真ん中改憲問題はこうして消え去り「家族は大事とか良い事が書いてある憲法を朗読しましょう」という流れは保護された。
アイドルのような還暦女性にポストを与えた防衛大臣が軍に後ろから刺されるという事態の深刻さにも晒されずに相変わらず神学徒達は安楽椅子でロリポップを舐め続けることができた。
だが集団的自衛権への移行に就いて憲法論議を国民に投げかける事はしなかった。
2013年に盛んに言っていたのが「戦後レジームからの脱却」だ。更に年末に靖国神社を参拝したところ、日米関係は戦後最大の冷え込みとなった。
太平洋地域の戦後レジームが米国のなした国際秩序という事に気が付かなかったんである。靖国参拝は英霊への感謝という言説に自家中毒になりA級戦犯合祀から問題化したという事を忘れていたんである。バカな…と思うがそれが聖帝閣下とその友達だ。
因みに日本会議中枢などの「新右翼」とは反米主義の右翼の事だ。戦後体制はYP(ヤルタ・ポツダム)密談による分割であるから打破するというのがその趣旨だ。
こうして2014年には聖帝はオバマに擦り寄るようになった。そんな中で米議会で発表されたのが集団的自衛権への転換である。
米議会であるのも理由がある。湾岸戦争以後、日本の憲法を改正させて米国の戦争をサポートさせるというのは共和民主問わず共同認識になっていたのだ。
集団的自衛権が必要なら当然改憲の重大な理由の一つになる。だが解釈変更という形で現憲法で合法としてしまったのだから改憲のカードは無くなった事になる。
PKOの歴史を知っていたらそのエポック性は無視できない。「日本が軍事的な国際貢献への一歩とした国であり憂慮している」ぐらいは言うべきだがそうはしていない。
尚、日本は民主選挙以前は外国に逃げたポルポト政権を承認していた。あの虐殺で国民の半分近くを殺しまくったポルポトを国家承認したままだったのだ。選挙監視にはそういう理由もある。
こういう風に改憲上の最大の障害は聖帝閣下とお友達なんであるが、この状態は方々に都合がよろしい。
護憲派は憲法9条が国際状況にそぐわなくなっている事を考えずに済む。あんだけのバカ草案を出したら改憲反対は当たり前であって、PKOポリシーの変化にどうするかなんて問いを考えなくて済む。コバセツ含む嘗ての改憲派の憲法学者も全て護憲派に寝返った。
一方、米国主導の軍事秩序賛同派はイラク戦争賛同の総括をせずに済む。ISIS支配地域にあの連中置いてくるべきだ、なんて意見に晒されずに済む。
そんな情況の空白地帯で先人の積み上げた蓄積の意味が判らんかった聖帝閣下は友達と泥遊びに明け暮れ、田んぼをぐちゃぐちゃにしてしまったが意味が判っていないからなんという事もない。お友達の稲田防衛大臣は制服に後ろから刺されたのににこやかに軍事パレードを行い、胸に手を当てて国家への忠誠を示したので上機嫌で去っていった。
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…吉野家で晩酌をする団鬼六のエッセイ。出入りする人々との一期一会、死んだ男への追想。