はてなキーワード: 未来とは
土日祝日、大きな公園、イオン、パチンコ等の無料の駐車場に、別々の2台の車で来て、1台は置いたまま、1台に乗り合わせてコソコソ出かけていく不倫カップルがいる。たくさんいる。
そいつらの車のフロントガラスに、「住所名前不倫相手の情報全て特定しました。お楽しみに。」的なことが書いてある紙を挟んでおくんだ。
今もあるから結局何も変わらない
ブルスカに逃げた絵師の絵を保存して
Twitterに投稿するみたいなことが絶対起きます
未来から来ました— ポイント2倍 (@DoubleP0ints) October 17, 2024
それが嫌なの?いいの?コピペするほど大事な内容だと思ってるようだが何が言いたいかよくわからん
なんかたくさんブクマとコメを貰ったのですが、一部誤認されている方も多いので言っておきますと、すでに彼女達とは別れています。
一部の方々に強い賛同をもらえて嬉しいです。特に「増田はこの考えに至るまでにとても多くの時間を使ったんじゃないかな。彼女さんはどれだけ時間使ってくれてたんだろうね」と言ってくれた方、とても嬉しかったです。
お気づきのとおり、彼女は自分の気持ちを知って欲しいだけなので、相手側の立場に立って考えるということをしません。
少なくとも私は誠実に相手を理解するために、たくさんの時間を使いました。それこそ、一部の方々から粘着と揶揄される程度には、きっちりと相手を見ていたし、それに対する自分自身の反応も分析してきました。そのうえで、やはりこのコミュニケーションは駄目だと思います。詩への昇華や転嫁は自己解決の手段として使う事は出来ますが、それを使っても相手との関係値は深まることがなく、永遠に平行線が続くだけです。そうするしか選択肢がなくて追いやられた結果なら悲しいことですしそうするしかないのかもしれませんが、最初から相手と向き合うつもりがなく自分の精神的世界に引きこもって独り遊びをするのは、単に子どもで卑怯なだけです。
誠実なパートナーとして相手を信頼できるかどうかは、何か大きい障害や問題が起きたときでも、この人となら一緒に解決していけるという自信や確信が持てること。彼女たちの多くは、自分自身を理解されたがってはいましたが、自分の方が相手を理解しようとしたり相手とテーブルについて、同じ土俵で擦り合わせをする能力に欠けています。促しても教えても、受動的である限りこちらが相手をリードするしかない。それは見方を変えるとコントロールであり、立ち位置が変わればモラハラと表裏一体です。
私は彼女を支配下に置きたくはなかったし、コントロールするのもされるのも嫌でした。
私は自分が彼女に対してモラハラをしないため、自分を守るために彼女から離れるという決断をしました。
故に、私はモラハラでもパワハラでもないと自信をもって言う事ができます。
昔、私とのすれ違いか何かで彼女が詩か何かを作って投稿したのを見てた事があって、その詩が私が原因で落ち込んだ事と、その落ち込んだ自分の気持ちを詩で昇華してる事が傍目から見て私にはわかったんだけど、そのとき滅茶苦茶モヤモヤしたのを覚えている。別にそのすれ違いはすぐにでも解消可能なものなのに、勝手に落ち込んで勝手に詩を作ってsnsに投稿して反応もらって慰めてもらっている一連の状況が、私からすると私との関係性においてなにひとつ自分から努力も行動もしないのに、気持ちだけは慰めを欲して周りにぶつけているようにしか見えなかったからだ。本人が見えるところにそれを投稿することも含めて、語彙力を極限まで薄めて誰にでもわかりやすい言い方をすると「すごい嫌な感じ」だ。寂しさもすれ違いも、相手ときちんと向き合って自分で解決すればいいのに、それを詩に昇華して間接的に周囲から同調を買ったりこちらに訴えてくるやり方に、とにかくひたすらモヤモヤした。
もちろん私はその事を本人に直接伝えた。
ものすごくモヤモヤする投稿で、あなたは気持ち良いだろうが私は嫌な気持ちだ、と。
結局、彼女は投稿自体を削除するわけだが、そのときに「ここでは詩は投稿しない」(後に短歌も作らないということになった)という風に彼女は言ってくる。
今考えると、これは戦略的な無知だったのではないだろうか、と思う。
私がモヤモヤしたのは、仮にも交際している相手との間で起こったことをネタに詩を作って本人の見えるところで投稿し、自分自身にも改善することやできる事があるはずなのに、それをせずに投稿から同情や共感を買ってる姿に腹が立ったのであり、創作そのものを否定したことはない。そもそも論、創作自体苦手な彼女だったので、詩も短歌ももともとライフワークではなく、たまたま私が短歌を趣味としていたので向こうも関心をもって作るようになったという部分があるなかで、これみよがしに不安や不満を詩にして頑張ってる自分への応援みたいな形で出される事が、私にはあてつけのような行為にしか見えなかった。互いの間にすれ違いがあるなら、互いの間でシンプルに解決すればいいしそれが可能なのに、それが出来ない自分自身を見つめ直すことも相手と向き合うこともせずに、突然始めた創作にそれをぶつけて見えるところに置いておくというのが、たまらなく私には嫌なことであった。
そして何よりも嫌なのが「詩を作ること」をやめる、という解決手段を彼女がとったことだった。問題は、二人の間のすれ違いそのものと向き合わずに、外側にそれを向けて共感を買ったり同情を得ている姿にあるのに、根本的問題を「詩を作ったこと」にすり替えていた。そうすることで、「彼氏は私が詩を作る事を嫌がる」という認識のすり替えを起こし、まるで「詩を作る事を制限されている」かのように認識をバグらせていた。そうすることで、何か異常な要求を自分がされているような状態を引き起こし、それでも相手に合わせている自分という構図をマッチポンプのように作り出して、被害者意識を拗らせた上で自分の深層心理を守っている様子がまざまざとこちらからは見えた。それは自分自身が行った陰湿なコミュニケーションへの罪悪感から目を逸らすための行動だったし、恣意的に相手の発言に対してストローマンを作って詭弁を使って相手からの批判や否定を封じるための行動だった。
こういう戦略的な無知や詭弁は、相手とのコミュニケーションを破壊する。
自分にとって都合が良いときにボケて何もかも分からないふりをする老人のように、自分と向き合っている人の尊厳やあり方に対して、低いところからジリジリと行われる攻撃だ。
カヴァート・アグレッションの特徴は①はぐらかす ②問題をすりかえる ③真相を隠す ④被害者を演じる ⑤無知・混乱を装う ⑤人のせいにする といったところに現れる。当時は、それが隠れた攻撃性だとは認識していなかった。いま冷静になって分析すると、こういう見えない攻撃をたくさん受けていたなと思う。何故、かつて自分が付き合っていた人たちが、エネルギーバンパイアと化してしまったのか、それはどのようなところに現れていたのか。こうして形にして整理することは、未来の自分のために必要なことだと思った。彼女達はこういうコミュニケーションを取ることで、隠れた攻撃性を向けていたし、それを通して私をコントロールしようとしていたのだなという気づきが私にとっては大きな学びだった。
何故か運気がどんどん下がっていた理由は、こういうところに原因があったのだと思う。エネルギーバンパイヤの定義を調べたときに、彼女たちに対して抱いている認識とは異なる印象を持っていて、自分の中で彼女たちがエネルギーバンパイヤであるという確信を持たないでいたが、自分自身に起こった現象や状態はエネルギーバンパイヤと一緒にいるときとまったく同じだった。多分、意識していないだけで、本当はもっとあるんじゃないかと思う。ひとつひとつ向き合って見つけて、彼女達との関係性の中で受けてきた傷や絡まった糸を解いていこうと思う。
https://darioamodei.com/machines-of-loving-grace
・Behavioral interventions. I haven’t much mentioned it given the focus on the biological side of neuroscience, but psychiatry and psychology have of course developed a wide repertoire of behavioral interventions over the 20th century; it stands to reason that AI could accelerate these as well, both the development of new methods and helping patients to adhere to existing methods. More broadly, the idea of an “AI coach” who always helps you to be the best version of yourself, who studies your interactions and helps you learn to be more effective, seems very promising.
(Google翻訳)
・行動介入。神経科学の生物学的側面に焦点が当てられているため、これについてはあまり触れていませんが、精神医学と心理学は、もちろん 20 世紀を通じて行動介入の幅広いレパートリーを開発してきました。AI が、新しい方法の開発と、患者が既存の方法に従うのを支援することの両方で、これらを加速させる可能性もあるのは当然です。より広い意味では、常に最高の自分になれるよう支援し、あなたのやり取りを研究して、より効果的になる方法を学ぶのを手助けしてくれる「AI コーチ」というアイデアは、非常に有望に思えます。
・Everyday problems that we don’t think of as clinical disease will also be solved. Most of us have everyday psychological problems that are not ordinarily thought of as rising to the level of clinical disease. Some people are quick to anger, others have trouble focusing or are often drowsy, some are fearful or anxious, or react badly to change. Today, drugs already exist to help with e.g. alertness or focus (caffeine, modafinil, ritalin) but as with many other previous areas, much more is likely to be possible. Probably many more such drugs exist and have not been discovered, and there may also be totally new modalities of intervention, such as targeted light stimulation (see optogenetics above) or magnetic fields. Given how many drugs we’ve developed in the 20th century that tune cognitive function and emotional state, I’m very optimistic about the “compressed 21st” where everyone can get their brain to behave a bit better and have a more fulfilling day-to-day experience.
(Google翻訳)
・臨床疾患とは考えていない日常的な問題も解決されるでしょう。私たちのほとんどは、通常は臨床疾患のレベルに達するとは考えられないような日常的な心理的問題を抱えています。怒りっぽい人もいれば、集中力に欠けたり眠気を催すことが多い人もいれば、恐れや不安を感じたり、変化に反応しにくい人もいます。今日、覚醒や集中力を高める薬(カフェイン、モダフィニル、リタリン)はすでに存在していますが、他の多くの以前の分野と同様に、さらに多くの薬が開発される可能性があります。おそらく、そのような薬はもっとたくさん存在し、発見されていないでしょう。また、標的を絞った光刺激(上記のオプトジェネティクスを参照)や磁場など、まったく新しい介入方法もあるかもしれません。20世紀に認知機能と感情状態を調整する薬がどれだけ開発されたかを考えると、誰もが脳の働きを少し良くし、より充実した日々を送れるようになる「圧縮された21世紀」について私は非常に楽観的です。
・Human baseline experience can be much better. Taking one step further, many people have experienced extraordinary moments of revelation, creative inspiration, compassion, fulfillment, transcendence, love, beauty, or meditative peace. The character and frequency of these experiences differs greatly from person to person and within the same person at different times, and can also sometimes be triggered by various drugs (though often with side effects). All of this suggests that the “space of what is possible to experience” is very broad and that a larger fraction of people’s lives could consist of these extraordinary moments. It is probably also possible to improve various cognitive functions across the board. This is perhaps the neuroscience version of “biological freedom” or “extended lifespans”.
(Google翻訳)
・人間の基本的な経験は、もっと良くなる可能性があります。さらに一歩進むと、多くの人が啓示、創造的なインスピレーション、思いやり、達成感、超越、愛、美しさ、瞑想的な平和といった特別な瞬間を経験しています。これらの経験の性質と頻度は、人によって大きく異なり、同じ人でも時期によって異なり、さまざまな薬物によって引き起こされることもあります(ただし、多くの場合は副作用があります)。これらすべては、「経験可能な空間」が非常に広く、人々の人生の大部分がこれらの特別な瞬間で構成されている可能性があることを示唆しています。さまざまな認知機能を全面的に改善することもおそらく可能です。これはおそらく、神経科学版の「生物学的自由」または「寿命の延長」です。
発達障害持ちでスペックが低い上、達成感とかの青春な感情を体験できなかった自分からすると夢のようだが、同時にこういうのを人工的に作れて皆良い人間になれるのってなんか怖くもあるな
題名まんまだ
まぁそりゃそうなんだよ
でもとっくに覚悟がキマっていると思ってたんだもん
その赤ちゃんを見てる目よ
こちとらXで流れてくる「義理の姉」アレルギー的なヤツにおびえて近づけもしないのに
(まだ義理の姉じゃないってか、籍入れてないもんな)
「ずっと笑ってるよ!」ってこっち見て言うなよ。
知ってるわ。釘付けだわ
ご厚意で抱かせてもらった時も、ずーっと笑ってるの
人見知りってまだしないのかな、生まれたばっかりだと。
子供産まないと決めた時からその辺の情報シャットアウトしてたからわかんねーや
こっちみて笑って、抱っこ変わってってして
こんなの、私も、やりたかったにきまってるじゃん
匿名にかこつけて話させてくれ
治すのに3年かかったかな
元より完治する病気じゃないから、薬を飲みつつ症状抑えてまぁ生きていきましょやって感じ
まぁ薬も飲んでるし、
何個か飲んでる薬の1つは妊婦には飲めないらしい
要は子供を産みたければ「その1つ」を代用の効くほかの薬に変えてからね~的なヤツ
母子ともに健康に生まれてくる可能性は、ほかの元気な女性より低いわけ
(これ私がもし体調を崩したら、また何年も入院して治療するの…?)
がよぎるわけ
振り切って自分が優先されたの
だから医者にも「子供は産まないので、考慮されなくていいですよ」って伝えてる
どうしてかかるのか分からないわけよ
おばあちゃんはもう60を超えて、だったけれど
「元気になったけど、ごめん。ひ孫は抱かせてあげらんねーわ!ハハッ」って言った
初めて見たよ、おばあちゃんの涙。おじいちゃん死んだときも「涙出んわ」って言ってたのに
ひたすら、ひたすら
「ごめんね、ごめんね」って謝られた
その涙をみて、私が子供を産まないことがこの涙への答えだと思った
楽しい思い出も、社会人としてのキャリアも!目指しちゃおっかな!ガハハハッ」って思ってた
その医者の話を聞いた帰りにお母さんに言われた
「この人の子供を産みたいと思った時が、一番つらい時だよ」って言葉が今でも刺さってて
そんなときがいつ来るんだろうか~なんて吞気に思ってたら
突然の雷バチコーーーーンとんでもねぇなこりゃ
もうぜーーーーーーーんぶ思い出した
クラスのランキング的なのに恰幅がいい、という理由だけで「大家族になりそう」ランキング
堂々の1位だったこととか
そもそも子供大好きなくせに子供嫌いって言って自分をそう思わせていたりとか
母性本能強いことは知ってたけど、自分の心には嫌いだよってずっと言ってた
そのはねっかえりがあの2時間に詰まってた
今ならまだ間に合うのかな
まだ産める歳だもんな
私は、産んだ私を許せないと思う
私が子供だったら、謝られたって、許せないと思う
こんな堂々巡りばっかりしてずーっと泣いてるの
「妹の子を見て笑う姿」が「自分の子を見て笑う」姿が見れたのかなって
産まない決意をして10年近く経つけれど
こんなにつらいのは初めてだ
でもこんな話、だれにも聞かせられないからさ
ネットの海に垂れ流して、どうにか薄めさせてくれ~って思ってる
自分の家庭の未来を見ているようだ。我が家も負けていないぞー。
俺も妻もある程度実家が裕福かつ過保護に育てられた。また、自身がそれなりの学歴・収入のある共働き世帯。
大学時代にお互い一人暮らしをしてお互いにゴミ屋敷を作ってしまった経験がある。
そこからの親の対応が異なっていて、妻の方は母親が実家と行ったり来たりする生活をすることで定期的にゴミ屋敷を片付け、問題を解決したんだよね。
その結果、妻は家事を覚えるチャンスと意欲を逃し、俺は数年ゴミ屋敷に住みながら、もがきながら少しずつ家事を学び、大学院での引越しを気に片付けや掃除の習慣を確立した。
その結果、今は料理、洗濯、掃除、洗い物、ゴミ捨て、風呂掃除、洗車(妻の車も)といった代表的な家事はもちろん、ゴミ箱への袋のセット、郵便物を郵便受けから取る、宅急便のダンボールを開けて中身を整理、とかいった地味で名前のない家事、数ヶ月に一回レベルのレアな家事、などなども含めて基本的に100%俺が家事を負担している。
何なら食べたあとのお菓子の袋とかをゴミ箱に入れる習慣や、脱いだ服をカゴに入れる習慣もないので、俺が拾っている。
妻は自分の能力に揺るぎない自信を待っているし、仕事に誇りを持ってる。それだけの仕事をしているから家事に回す体力や気力が残っていないとよく言う。
でも本当に仕事のできる賢くて聡明な人って妻みたいな生活スタイルでは無いと思うんだよなあ。
途中交渉して家に入れるお金を妻の方が1万多くすることでとりあえず無理矢理自分を納得させたけど、本当は家事を20%くらいで良いから妻にも分担して欲しいんだよね。そのためなら俺が家に入れる額を倍にしてもいい。
70年前
いくらでも代わりはいるので実力のないやつ、気に食わないやつは補欠送り
補欠は草むしりや球拾い、準備、後片付けをして、
50年前
30年前
それでもやることは変わらずレギュラーは練習に集中、補欠が雑用とOBの世話
補欠は一人当たりの負担が増えて大変になり、辞める人が続出
15年前
今まで掃いて捨ててきたような無能までかき集めて何とか部員40名にする
レギュラーまで雑用やOBの世話をしなければならなくなったため練習の時間が削られ実力が落ちる
甲子園に出られない年も多くなってきた
有力な生徒は全部別の部活に取られ、野球部には運動が得意ではない生徒しか残らなくなった
しかもそのレギュラーが雑用からOBの世話までしなければならないので練習の時間が取れない
当然、実力が落ちて甲子園に出られなくなる
現役部員が「せめて練習に集中させてくれ」ということすら許されない
元々なかったものを無い状態に戻すだけなのに、自分の世話は自分ですればいいのに、なぜか「OBを殺す気か!」と怒鳴ってくる
このOBは現役時代に火炎瓶を投げたり傷害事件を起こしたり、現在でも多数の活動を行っている怖い人たちなので誰も逆らえない
野球部に入っても怒りっぽいOBの世話ばかりで野球が出来ないことが知れ渡り誰も入部しなくなる
廃部
AIあるのになんでそんなことしてんのってツッコまれやすそう。
原作モノのアニメ化とかだとAI無い前提で未来を描き切ってたりするのでそういうものとして描くしかないけど初見だとどうしても物足りなさみたいなものがある。
立憲は増税+ゼロ成長路線を打ち出している時点で論外。就職氷河期の再来または氷河期世代のリストラ旋風の未来しか見えない。
国民民主党は尊厳死の件が痛い。非正規氷河期などの生活弱者を尊厳死に追いやりたいのが見え見えだ。これは維新も同様。
共産党は事業停止しか言ってない。昔みたいに「次の仕事」に不安がない80〜90年代ならともかく、今はこういう話は失業不安を煽るだけだ。
働いたら負け理論やダンピング防止理論を感受性の豊かな時期に浴びて「俺もストライキに参加するぞ!」とニートになったのが20年前。
でもある日「プロレタリアの中途半端なストライキなぞ無意味だ。世界を変えたいなら自分がルールを作る側になるべき」と考え「官僚」になった。
Q.貴方は会社の人事です。転職エージェント経由で「長いニート歴のある高卒(しかも定時制だ!)。職歴は公務員のみ。趣味はネットとゲームのみ。特技もなく、前職の経験は役所の事務員」という非常に虚無い応募者が来ました。採用しますか?
ほぼ平成生まれなのにJTCの果ての果てみたいなお役所で働き続けること、それが俺に残された人生だった。
悲しい。
もしも思春期の俺がネットにかぶれず「いやーゆーて一過性のものでしょ?つうか散々個人的生存戦略を走ってきた世代の語る「今度こそ一緒に堕ちようね」とか信じるだけアホでしょ?」と考えられていれば。
俺はそこそこ頭がいい。
御三家よ旧帝は無理でも早慶マーチぐらいは狙えた地頭があるはずだ。
それを完全に無駄にした。
反ワクや嫌韓で人生を棒に振った奴らこそが俺の兄弟なわけだな。
あー辛い。
死ぬまでロクに残業代も出ないしスキルも身につかない仕事をするんだろうな。
メールソフトの使い方も知らない現場上がりの爺さんにEXCELを教えて、見返りに砂消しの上手い使い方を教わる。
これが俺の人生なんだな。
完全テレワークでクリエイティブな仕事を令和の倫理観ですすめる人生にはもう戻れないんだ。
後悔しかねえよ。
俺はさ、氷河期共に騙されたんだよな結局。
アイツラ吠えるだけ吠えておいて自分らはヘコヘコするだけじゃねーか。
レジェンドアサシンYの登場で目が冷めたよ。
本気の奴が一人でもいたら起きてた未来が起きないままの20年だったんだって。
お前らは結局本気で世界を変える気はなくて、ストライキさえも他人にやれというだけで自分はコソコソ告げ口するだけの太鼓持ちしてたんだ。
完全に理解したよ。
騙された。
本当に悔しい。
RX-12からRX-50へ飛びすぎだなあとやっぱり思ったので会話を続けてもう少し埋めてもらいました。
もう一個「RX-12からRX-50への変遷をもう少し掘り下げて教えてください。」というプロンプトを間に挟んでますが個別の型番についての言及がなかったので省きます。
(総括が途切れてますがそこで力尽きたようです)
RX-12からRX-50への進化に至るまでに、どのような技術や開発が行われたかを想像しながら、RX-13からRX-49の各機体について、その特徴と進化の過程を推測します。この架空の歴史は、移動手段から人型ロボット、そして最終的にはRX-78のような戦闘用モビルスーツへと至る技術革新の道を想定しています。
RX-13は、RX-12の空飛ぶスポーツカーの後継機として、完全自律飛行技術が導入されました。AIを使った自動操縦機能と安全システムが充実しており、都市間の高速移動がさらに効率化されました。また、個人だけでなく、貨物輸送や緊急救命用に特化したモデルも登場し、幅広い用途で利用されました。
RX-14は、垂直離着陸(VTOL)機能が大幅に強化され、狭い都市空間でも自由に発着できるようになりました。この技術により、ビークルの運用範囲が拡大し、個人用ドローン型車両の実用化が進みました。RX-14のエアタクシー版も登場し、都市交通革命の一端を担います。
RX-15は、空中移動車両としての最終形態に近づきつつ、人型への移行の準備段階となります。このモデルでは、脚部の簡易的な機能が導入され、着地後に短距離歩行が可能になっています。これは、限られたスペースでの移動や複雑な地形での操作に便利で、未来の人型ロボット技術の基礎を築きました。
RX-16は、完全な二足歩行ロボット技術の初期試験機です。歩行能力が大幅に向上し、人間に近い動作が可能になりました。主に都市部での警備や物流、救助活動に利用され、狭い場所での作業が可能な汎用ロボットとして評価されました。この段階で、移動手段から「作業補助ロボット」への変化が始まりました。
RX-17では、AIによる自律行動の精度が大幅に向上し、複雑な指示や状況に応じて即座に判断・行動できるようになりました。この機体は人間のパイロットが必要なくなり、救助活動や工事現場での作業に活用されるようになりました。自律型でありながら、状況に応じて人間が遠隔操作することも可能です。
RX-18は、作業用パワードスーツとして開発されました。従来の二足歩行型ロボット技術を取り入れながら、個々の作業員が装着して作業能力を拡張するための装備として使用されました。特に建設現場や危険な環境での作業に使用され、力を増強する機能が搭載されています。
RX-19は、軍事用途に適したパワードスーツとして開発されました。個々の兵士の戦闘力を飛躍的に向上させるため、強力な装甲と火力が追加されました。地上戦闘において、戦車やヘリコプターに代わる新たな兵器として登場し、兵士の機動性と防御力を高めました。
RX-20は、無人戦闘ロボットのプロトタイプであり、直接戦闘に投入される初の二足歩行型ロボットです。従来の兵器システムと連携し、地上戦の主力兵器としての可能性を試験的に評価されました。遠隔操作や自律型の戦闘アルゴリズムが搭載され、複雑な戦闘シナリオにも対応できるようになっています。
RX-21〜RX-29シリーズでは、戦闘用ロボットの技術が大きく進化していきます。主な進化は以下の通りです:
RX-30〜RX-39シリーズは、宇宙戦闘を主眼においたモビルスーツの開発が進み、以下の技術的な進化が見られます:
RX-40〜RX-49シリーズは、地球連邦軍の主力兵器としての役割を担い、戦闘だけでなく探索や開発、さらには救助活動まで多用途に使用できる汎用モビルスーツへと進化します。
RX-13からRX-49までの進化は、移動手段としての機能から、作業用、軍事用、そして宇宙戦闘用モビルスーツへと段階的に進化する過程を反映しています。それぞれの世代で新たな技術が導
衆院解散でまた選挙があるわけなんだけど、つまりSNS上で「選挙に行こう!行かないのはダメなこと!」みたいな話がされまくるようになるということでとてもつらい。
ただでさえ労働や自分の生活で精一杯なところにどの党がどんな政策を出してるかとか地元の立候補者はどういう人物なのかを調べる余裕がない。
家に帰るとクタクタで休みの日もほぼ寝てるかメンタル病んで引きこもるような生活にあるちょっとの行動時間をそれに費やすのがつらい。できるならばもっと寝ていたりできたら趣味に使って少しでも楽しい気持ちになりたい。投票自体もこのの理由で出かけるのがつらい。
仮に時間を削って調べても投票したいと思えるところがなかったらどうしようもない。白票は意味がない、入れるのは愚かな行動みたいに言われまくってるので入れられない。
そこまでする必要はない、気軽に投票すればいいとか言う人もいるけれど選挙で何も考えずに投票するのはそれこそ意味があるのか?と思ってしまう。
こういう生活を国に助けてもらうためにも選挙で参政活動をしなければいけない、という人もいるかもだけどぶっちゃけ政治で自分の生活がよくなったためしがない。
少しずつ変わっていくのかもしれないけど今の苦しい生活はすぐによくならない。よくなる頃まで生きていられる自信もない。
今の生活で少しでも自分を楽にするなら行かずに家で休んでいたりする方が特だと考えてしまう。投票で未来がどうなるかは不確実だけど寝れば確実に体力は回復する。
そんなこんなで行かないと思ってるんだけどこれをSNSで口にしたら確実に袋叩きにされ知り合いにも一見優しく諭すようにしかしキッパリと否定され最終的には人間関係は破綻する。
みんな選挙について考えられる余裕があるんだからこっちのこともその余裕を使って放っておいてくれたらいいのにと思う。
とてもつらい。
宇宙なのに「後方から回り込む」とかマジでいってんのな。逃げ道ありまくりすぎるw
あと宇宙なのに両陣営が上下(天地?)きれいに整列してそのまんま上下の概念引き継いで戦争が続くのもなんかシュールすぎる
あとさあ宇宙なんだからさすがにその密度にはならんでしょって思う。
直進するレーザーがバチバチ当たってて初期配置がアホすぎる。宇宙ぞ?
もっとさあこう宇宙なら「粗」だろ「粗」(「疎」?)。大艦隊でも絶望的な虚無を感じるくらいの間隔で並んでるはずだろ
まあ全体的に宇宙わかってねえし大宇宙の怖さが全然表現できてねえし政治パートも原作が大昔なんを割り引いてもなんか陳腐だったわ。
(追記)
※ネタバレ注意
てかなんでやねんそうはならんやろ言いながら37話まで見たwノイエのほう。
まあそれはそういうもんとして楽しむのも正しいけどツッコミながら見るのもまた楽しみ方よなwおもしろいよ。
まあさすがに上にも下にも宇宙空間ガバガバ広がってんのに「包囲されています!」「陣形に穴が」「突っ込めーーー!」とか言ってんのはちょっとやべー奴らとしかおもえないw
あとレーザーといえばあんだけ高出力のレーザーバキュバキュうって常時艦内の重力固定までできる超高性能リアクターあんなら食いもんくらい艦内でつくっとけwってなるよな
補給補給ってなに運んどんねんとw。800年もあって補給せんでいい研究してないの?みたいな。
でもそういやイゼルローンで野菜つくってたよな。やっぱあれか肉か?そんなに野菜キライなのか?
あとはゼッフル粒子?もおいおい剣が交わったら火花くらい散るやろというw
宇宙以外だとキルヒアイスに対して「やっぱお前しっかりボディチェックしますよー」ってシーンあんだけ描写しといてなんで直後にいきなり🚀バズーカが素通りやねんww敵ぞwとかあるよな
あとこれはワイだけだと思うけどスタジアムでジェシカがやられたプロレス技失敗みたいなやつな!!「うわエグっ!ジェシカあああ死んだああ😨」ってなったのになぜかふつうに立ち上がって「あら?」ってなったのになぜかそのあとの警棒でバチーンのほうでなんで死ぬねんみたいな。
エグさと死のバランスがおかしくてなんかちょい草だったわ。ツッコミた過ぎたけどかわいそうでちょいこらえたのにのそのあとのヤンウェンリー1日中サングラスのシュールさに耐えられんかった。ごめんジェシカ・・・
そもそもなんで宇宙戦争してるのってのもあるんだよな。あんな未来世界で宇宙は無限に広いみたいな世界なのに。シドニアみたいに食糧問題も人口問題も解決済みみたいなのもどうかとおもうが
それあるな。食糧問題で思い出したけどなんか帝国の一般ピーポー5千万人解放したとき食料がないー!って言ってたけど自前で生産してなかったんかい!ってなったのよな。
平時から自前で生産してないってことは常に帝国内のどっかから食料はじめ物資を輸送してきて成り立ってたってことじゃん?
ってことは連合側で物資不足が発生すると同時に帝国側では日常的に5千万人に物資を届け続けてきた商流がストップして超大規模なモノ余りと経済麻痺が発生してるってことよな。
そういうのって大混乱ならんの?みたいな。
(追記)
うーんせやろか?死体であっても敵さんが持ち込んだ棺桶だしふつうなんか隠して持ち込んでないかくらいチェックせん?
いうなれば機内持ち込み手荷物検査みたいなもんやん?まあそういってしまうとカルロスゴーンの例があるからなんともいえんが……
少子化の要因として「高齢者福祉の充実」と「子育ての不確実性」が注目されていますが、その背後には「老後の生活をどうするか」という視点が大きな影響を与えています。日本では長い間、子どもを育てることが、将来的に自分たちの老後の安心に結びつくと考えられてきました。しかし、現代ではその考え方が変化しており、老後の備えとして子育てよりも、経済的な投資や株式市場への投資の方が魅力的に感じられるケースが増えてきています。
以下では、子育てと老後の生活保障との結びつき、そして経済的な投資と子育ての比較という視点から少子化の一因を考察します。
かつての日本では、家族が老後の面倒を見るという価値観が広く浸透していました。特に子どもを持つことが、自分の老後を支える重要な手段と考えられていたため、多くの家庭で複数の子どもを持つことが一般的でした。この背景には、伝統的な家族制度の影響や、世代間の支え合いを重視する文化がありました。特に農村部では、家業を引き継ぐ子どもたちが老親の世話をすることが当然視されていました。
しかし、都市化の進行や核家族化が進むにつれて、子どもたちが親のそばに住み続けることは減少し、老後の面倒を子どもに頼るという考え方は薄れつつあります。現代では、子どもたちが大人になった後、自立して別の都市に住むことが一般的であり、また、介護施設や老人ホームの利用が拡大しているため、親が子どもの世話になることは必ずしも前提とされていません。
その結果、子育てが老後の保障として機能しづらくなっており、「子どもを育てる理由」の一つであった老後の安心感が薄れてしまったと考えられます。これにより、子どもを持つことに対する動機付けが弱まり、出生率低下につながっていると言えるでしょう。
さらに、現代社会では「子どもを育てることが老後の安定につながる」という考え方の代わりに、株式や投資信託、不動産といった経済的な資産に投資する方がより確実で、予測可能性が高いと考える人が増えています。
子育てには、多大なコストと時間がかかり、経済的なリターンが不確実であると感じる人が多いです。例えば、子どもが成人してから親の介護をどれほどできるか、あるいは経済的に支えてくれるかは予測が困難です。むしろ、子どもに負担をかけたくないという考え方も増えており、親世代が子どもに頼らないための資産形成を行う傾向が強まっています。
これに対し、株や投資信託、不動産といった経済的な投資は、リスクはあるものの、比較的自分でコントロールができ、長期的なリターンを予測しやすいと感じられています。資産を増やす手段として投資が認識される中で、子どもを育てるコストよりも、投資に資金を振り向ける方が賢明だと考える人々が少なくありません。
特に、資産運用の情報が広くアクセス可能になり、デジタルプラットフォームを通じて誰でも簡単に投資ができる時代では、この選択はますます一般的になっています。これにより、かつては子育てに投じていたリソースが、今では株式や資産形成にシフトしていることも、少子化の一因として挙げられるでしょう。
子育てがもたらすリターンには、経済的なものだけでなく、精神的・感情的な満足感もあります。しかし、経済的なリターンが不確実である一方で、現代のライフスタイルでは、物質的な豊かさや経済的安定が幸福感に大きな影響を与える傾向が強まっています。
このため、子育てが提供する感情的な満足感よりも、確実な老後の資産を築くための経済的選択を重視する人が増えていると考えられます。高齢者福祉が充実している現在、老後に必要なケアやサポートは、子どもに頼らなくても済むと認識されつつあります。その結果、子育てに投じるリソースを経済的投資に回す選択が、個人レベルでも社会全体でも増加しているのです。
少子化が進む中で、老後の生活をどのように支えるかという問題は、社会全体にとって重要な課題です。現行の高齢者福祉システムに依存するだけでなく、若い世代が安心して子育てを選択できるような環境を整える必要があります。
子育てが不確実な投資であると感じられる現状を改善するためには、以下のような政策が有効でしょう。
子育て支援の拡充:保育所や幼稚園の費用負担軽減、教育費の助成、育児休業制度の充実など、子育てにかかる経済的負担を軽減する施策。
長期的な経済的安定策:住宅手当や生活補助など、家族の経済基盤を強化し、老後の不安を軽減するための政策を導入する。
家族支援制度の見直し:高齢者介護や子育てに関する家庭内の負担を軽減し、世代間の支え合いを促進する制度の構築。
まとめ
少子化の一因としての「高齢者福祉の充実」と「子育ての不確実性」には、老後の面倒を誰が見るかという価値観の変化が深く関わっています。かつては子どもを育てることが老後の安心につながると信じられていましたが、現代では株式や資産運用の方がより予測可能で確実な選択肢と考えられつつあります。この変化は、子どもを持つことへの動機の減少につながり、結果として出生率の低下を招いています。
少子化対策には、子育てのリスクを減らし、経済的安定を提供するだけでなく、子育てがもたらす感情的な豊かさを再評価し、家族の大切さを再認識させるような社会的な取り組みも必要です。
地域一番人気の産婦人科にはまるでホテルのような待合室がある。
東の壁は一面天井までの高い窓が広がり背の高い青々とした観葉植物がそれを彩る。
体が埋まるようなふかふかとしたソファは背もたれも高く長時間座って待っていても快適だ。
スピーカーからは落ち着いたクラシックが流れ、最新鋭の加湿器がひっそり置かれているので湿度も大変快適。
一月ほど前ここを初めて訪れた時、緊張と高揚感でいっぱいになったのを今でも鮮明に思い出す。
40を超えて初めて妊娠した。
結婚したのは10年以上前だったが子供が欲しいという欲求が他の女性より著しく低かったのでズルズルこの年まで子を設けず生きて来た。
それがなんとこの年で。
初手は困惑。けれどすぐに子供部屋はどうしよう、と考えている自分がいた。
夫は元来子供が好きだから私自身が産もうと決心する前にもう心づもりは出来ていたようだ。
幸い仕事も安定しているし子供一人くらいなら十分育てていけるだろう。
6週目に初診、妊娠が確定した。
ただまだ心拍は確認できなかったから二週間後にもう一度、と医師に告げられた。
子供に興味がなかったはずなのに、時間があればぼうっと未来を考えた。
どうやって育つのだろう。
そうだ、性別はどちらになるのか。
私は腰痛持ちだから長時間抱いたりするのは少し大変かもしれない。
小学校はあの学校か、近くの公園はあそこにあったな、離乳食とやらはどうやって作るのだろう、アレルギーなと考慮するのだろうな。
ぼんやりとした霞のような始まりから気づけば気の早すぎる妄想まで延々と繰り返す日々。
いよいよ明日が二度目の診察だと待ちかねていたその日に出血した。
いや、妊娠初期にはそういうことも少なくないらしい。
少量ならば問題ないはず。
そう言い聞かせるのに必死になっている間にもじわじわと出血量が増えていく。
育っていない。
エコーの画面にはぽっかりと暗い穴だけが開いた胎嚢が映っているだけ。
育っていない。
出血もある、このまま運が良ければ自然に排出されるだろう、駄目ならば処置が必要になる、とりあえず来週もう一度来てほしい、再確認して確定しよう。
待って待って待ってくれ。
だってほんの昨日までこの子供が生きている未来を考えていたのに、そんなジェットコースターみたいに付いていけないような速度で進まないで。
まだわからない、出血が治ればもしかしたら来週には心拍も確認できるんじゃないか。
そう言った例もあると見聞きした。
焦れば焦るほど出血は酷くなる。
ドス黒かった血の色は次第に鮮やかになり量も増え下腹部が常に痛む。
3日もすればもう足掻く気持ちもなくなった。
今この瞬間に存在する物質的な空間についてはあくまで3次元だと思う。
でもそこに刻一刻と変化する時間が重なるので、表層的な部分でも4次元だと捉えるべきだと俺は間がている。
そこから更に人間が認識して解釈しようとすると必然的な個体差が発生する。
つまり、俺達が「これこそが俺の認識している世界なんだ」と感じる時、それは5次元のものなんじゃないだろうか?
さらに言えば、今この場で自分が認識している世界はあくまで自分がそう思っているだけで、あとになって振り返れば「あの頃そう思っていた」でしかなくなるんじゃないだろうか?
たとえば、「あの頃はユダヤ人が本当に悪魔だと思っていたが、ヒトラーに騙されていただけだった」といった変化が起きたとしても、当時の自分がどのように「世界」を認識していたのかは覆せないし、未来でどう考えているのかなんて予想までしか出来ないわけだ。
「世界」が5次元だと考えると何が変わるのかと言えば、「世界」の広がりに対しての認識が変わる。
世界があくまで3次元空間に広がっているだけだと思っている人間が「世界は広い」と口にした時、その時考えている広がりは実際の広がりと比べると全くもって全然小さいということだ。
たとえば20年に1度の周期で大きな災害に襲われる地域に住んでいる人でも、その被害を目の辺りにしたことがない人と、実際に被害にあった人では、その災害や地域に対しての認識がまるで異なってくる。
同じく災害にあった人でも偶然軽く済んだ人とそうでない人では全く認識が異なるだろう。
年配の人であれば2回3回と災害にあってそれぞれによって印象が違う人もいることになる。
つまり、同じ地域に済んでいる人間の中であってもそれぞれに認識の違う「世界」が頭の中に広がっているとういことだ。
そんな所にフラっとやってきた旅行者が現地において過去の爪痕や伝聞について情報を集めた所で、彼らと同じ用に「世界」を認識することは出来ない。
だが、「世界」というものは所詮3次元のものだと思っていると、今現在の資料や現場といった2次元・3次元の情報収集だけで十二分に彼らが見てきたものと同じものが頭の中に描けると思ってしまうのだ。
つまる所、世界の広さというものに対して次元が違う勘違いをしていて、致命的なレベルで世界の大きさを認識できてないということなんだな。
こんなのは当たり前のことなんだけど、「世界」の広さを大雑把にしか分かってない人はこの広さを勘違いして痛い目を見たりする。
普遍的なパターンの組み合わせで世界は仮想的にシミュレートしていけば、それなりの学習能力がある人間が50年ぐらい生きれば十分に世界のコピーを脳内に描けるのだと思い上がってたりもする。
そういった人達が「俺は世界を知っているんだ」と口にする時、それは多くの場合は何らかの失敗や不和への秒読みだ。
繰り返しになるが、「世界」というのは3次元空間にのみ広がっているのではなく、時間という広がりも持っているし、それが実際には個々人の頭の中でバラバラに広がっているものなのだ。
それを軽んじて「今俺の眼の前にあるものこそが世界なんだ」と思っていれば、それぞれの人間の頭の中に広がる齟齬や、時間の裏側に隠されてしまった過去の事実を取りこぼしてしまう。
傲慢は人間の持つ最大の罪とされているが、「世界」の広さの取り違えというのはその典型的な例なのかも知れない
SFなんかで「世界中の原子や素粒子が今持っている状態を完全にコピーすれば、記憶も含めて世界を完全に再現できる」という思考実験がある。
確かにこのような考えに基づけば人間の頭の中を流れる電気信号の一つ一つさえも物理的な現象でしなかく、3次元空間に広がる物理現象の一つなのだろう。
そしてそこに時間というスケールを加えれば宇宙の始まりから終わりまでとなり、「世界」は4次元の中で完結してしまう。
まあ、俺もそれは分かってるんだが、分かってるんだが、その場合における物理空間の驚異的なまでの情報量は俺達が普段使う「3次元空間」という言葉で表現するには荷が勝ちすぎるように思ってる。
だから俺はある種の思考実験的なものにより「人間が認識できる程度の物理的空間×それを観測する個々人の認識」という形での「疑似的な4次元」に時間をかけての「擬似的な5次元」を世界の形として考えているわけだ。