はてなキーワード: 一部の人とは
横だけど是非とも聞きたいわ
元増田ではなく、増田(anond:20201211214709)に言ってるよ
文化教育資本の差とか脈々と受け継がれる判断価値基準や情報格差の話なんだよ。
たとえば職業選択ならつきあいのあった取引先の人知れず儲かってるとことか上位上流階層の仕事に就かせるように仕向けるんだよ。
一応、「世帯の所得がその国の等価可処分所得の中央値の半分に満たない人々(相対的貧困率)」とかいう謎の指標がある
さて冒頭に戻るんですけど、純粋に疑問。
前提条件として、全ての男性が子育てに興味がないという意味ではなくあくまで一部の人ということ。
これを疑問に思ったのは海外のホームビデオ(YOUTUBEとかで)等をみると男性が子育てに積極的に参加しているように感じられる。
よく聞くような子育て中にスマホをいじって子供を見ていないというような感じはしない。
なぜなのか?
歴史的に見ても日本は亭主関白で家事をしたり、子供の面倒を見たりすることは女の仕事で家庭科が学校の授業として取り入れられたのも最近の話である。
子供は親がどのように子供に接するのかを学習して、自分が子供ができた時に自然と同じように子供を育てていく。
最近は夫も子育てを積極的にやろうという風潮があるが、少なくともネットが発達する以前、つい最近まで日本はずっと女性が家事を行い男性が仕事をするという強い流れがあった。
その中で育てられた子供たちは子育てをしない父を見て育って、子育てのやり方を知っているだろうか?
大人になったのに彼らが子育てに対して関心がないのを本人の甘えだけで片付けて良いのだろうか。
何故ミスコンは問題視されているのか。とある記事を見てふと思ったことをここにつらつらと書き連ねておこうと思う。
元来見た目の美しさは望んで得るためにはあまりにも失うものの多いものであり、もって生まれた人々はそれを活かして何が悪い、作家が本を出して賞を貰うのと本質的には変わらないのではないか、というのが私の基本的な意見である。大体美しい人々はその見た目を誇り努力も重ねているのではないか。
「ブサイクコンテスト」のような見た目で人を貶めましょうというコンテストというわけではなく、持って生まれて努力した人が自分の努力や美しさという才能を評価されたい、つまりは自分を更に好きになりたいという願望の現れが「ミスコン」なのだから、いいじゃないか、べつに。どこがダメなんだろうか。「お金持ちは必ず募金をしなさい」くらい違和感がある。
そもそも人という生き物は、美しい見た目をしている方がより社会に適応しやすい。例えば、就職活動だとか、友達作りだとか。
就職活動に関しては「容姿端麗」を必要とする仕事も多くあるし、目立つ人と友達になりたいという気持ちは割と多くの人が持っているものなので、それも不健全とは言い難い。
ミケランジェロの「サン・ピエトロのピエタ」という作品を皆さんはご存知だろうか。
とても美しい彫刻作品で、私は初めて見た時に本当に衝撃を受けた。
今までは全く興味を持っていなかったのに、私はピエタを知って初めて彫刻について調べたのである。ピエタがどうやって作られ、なぜ作られたのかを。
美しいと思わなければ調べようとは思わなかっただろう。見ても数十秒後には忘れて、きっと別のことを考えていた。
この人類の長いようで短い歴史の中で何回も言われていることだろうが、結局見た目、最初の印象で心惹かれなければその人のことを知ろうとは思いにくい。ふとした時にその人が持つ良さなんかを何かで知って興味を持つことはあるけれど、見た目が100%好みの人間のことの方が知りたくなりやすい、と私は思っている。そう、これはどう足掻いても拗らせた高校生の拗らせた思想の切れ端で、ここまで読んだ方はお気づきだろうが、私は美しさとは程遠い見た目をしており、美しい人々に尊敬の念を抱いている。
多くの人間にとって相手の見た目というものは、相手を判断する大きな材料である。
最初に述べたように、所謂ルッキズムのようにそれで差別され、不利益を被るのならそれはもちろん是正されるべきである。
しかし、誰もマイナスにならない、一部の人間がプラスになる、というのであれば別にそのままで良いのではないだろうか。
その人がもって生まれた長所がたまたま見た目だったというだけで、その長所がなかった事にされては気の毒だろう。長所はどのようなものであれ平等に評価されるべきである。
当方20代後半、都下(いわゆる23区外の多摩)に生まれ、22歳で都内の大学の文系学部を卒業し、ストレートに大手メーカーに総合職として就職。配属は社内情シス。
転勤先は東海道新幹線のとある駅まで数kmの田舎の工場で、工場情シスということで仕事の内容自体は東京の本社とあまり変わらない。サポートデスク的なあまり難しくない仕事だ。
が、転勤して半年ほどたって耐えられなくなってきた。本当につらいし、地方転勤を心の底から舐めていた。東京で生活できることのすばらしさを舐めていた。住環境というものを過小評価していた。
就活してる時に戻れるなら、地方転勤があり得るメーカーなんて絶対に受けない。なまじ偏差値高い大学だったため、同期も大手企業にバンバン内定を決めていることが焦りにつながり、俺もブランド重視で大手メーカーを選んでしまったが激しく後悔している。面接で「地方転勤もあるかもしれないけど、いい?」と聞かれ、都会の生活に飽きが来ていたと思っていた自分は「地方の生活も経験してみたい、東京以外の生活も面白そうだ」というぼんやりした理由で承諾してしまった。今は転職エージェントを使って全力で転職活動している。
俺と同じように実家も東京でずっと東京で生活していて地方の生活も悪くないかもと考えている都内の大学生は多いと思う。そいつらに全力で警告したい。
・東京の生活に飽きたから地方で生活してみたい、は絶対後悔する
・そもそも地方転勤がある会社を受けるな。もし受けるなら40歳平均年収が1000万円以上のところだけにしておけ。平均年収600万円程度の会社で地方転勤させられたら都内勤務で平均年収600万円の会社に絶対勝てないし自分の愚かさを心の底から呪う羽目になる。
・地方転勤は年収換算マイナス300~500万円くらいだと覚えておけ。つまり年収300万円上乗せするから地方に転勤してくれない?と言われて初めてフェアな交渉になるという意味だ。給料据え置きで地方転勤を打診されたら速攻で転職活動しろ。
これを読んでいる都内在住の人は、新幹線に乗って遠出したことが一度はあると思う。東京から新幹線に乗車し、富士山を眺めつつ、新大阪や名古屋に到着し、旅行を楽しむ。ありふれた旅行の一つだ。
都会から都会を結ぶ線路の途中でふと窓の外を見ることもあると思う。眠くなるような代り映えのない田んぼだらけの景色。
想像できるだろうか、新幹線の窓辺から見える田舎の工場で働く人の生活を。俺はまともに想像もしていなかったのに安易に転勤を受け入れてしまった。
地方転勤の想像と現実のギャップやありがちな勘違いを、東京育ちの若者目線でつらつら書き残しておく。
23区外に住んでいると、しばしば「ここは田舎だから」と自虐を宣う人を良く見かける。
こんなのは嘘だ。本当の田舎を知らないから言える虚言そのものだ。
駅までせいぜいバスや自転車、徒歩で心理的負担なく気軽に出かけられて、駅周りの喫茶店やカラオケ、ネカフェ、松屋吉野家なんでもありの活気がある場所にすぐ行ける。
この「心理的負担なく気軽に」行けるかどうかの違いは東京の郊外と、本当の地方の田舎じゃ天と地との差がある。
地方に住んでいると、駅までちょっと出かける、というのは遠足みたいな準備と気合が必要になってくる。
明日は何時に家出て駅まで行って、そこから~時の電車に乗ってでかける、といったようにだ。
東京に住んでいたら、休日に時間を気にする必要なんて全くと言っていいほどない。終電逃しても最悪タクシーがすぐに拾えるし、どんな時間にバス停や駅につこうがすぐに乗車できるからだ。
東京の場合は、財布とケータイだけもって適当にぶらぶら歩きつつ思いのままに東京タワー行ったり新宿で買い物したり美味しいラーメン屋とか書店で思う存分休日を楽しめる。
コンビニも近いからちょっとビール飲みたいなと思ったら思ってすぐに家出て買いに行ける。
それが田舎では全くできない。
田舎に住んでいると、外出するのにかなり気合が必要になる。というか、外出する目的が必要になる。東京に住んでいる時には外に出る理由なんて一切必要なかった。外に行きたいから行く。これだけで十分だった。
だが田舎は違う。目的も無しに玄関出て外に出たところで、何も起こらないのだ。田んぼだらけの道をふらふら歩いてコンビニまで30分かけて行って弁当や飲み物買って帰ってくるくらいだ。田んぼの田園風景は引っ越し初日で飽きる。何にも面白いものなんてない。だって変化がないんだもの。当たり前。
俺は思いっきりこの勘違いにハマっていた。もともと友達もあまりいないし、ネットサーフィンしたりPCでネトゲやったり読書したりとインドアな趣味が多かったので、東京に住もうが田舎に住もうが大した変わりは無いと思っていた。むしろ田舎の方が光回線の帯域を占有できるからネットのスピードに関しては東京より快適だった。
だけど、田舎の周りが田んぼだらけのアパートの一室でゲームやったりネットサーフィンやっていると、孤独感が本当に半端ない。東京に居たときとレベルが違う。東京の外で生活したことがなかった俺は、これが一番堪えた。逆に、東京にただ住んでいるだけで孤独感がほとんど無かったというのは新しい発見だった。実家が近いとか、地元の友人にすぐ会えるからとかじゃなくて、人が多いところにただ住んでいるというだけでこれほどまで孤独を感じないものなのかと再発見した。日中に玄関から出れば東京だと絶対人間に出くわす。ママチャリで買い物してる奥さん、学校帰りの子供、スーツ着たサラリーマン、作業服した作業者、とにかく人間がいる。
対して田舎は本当に人がいない。外に出ても出なくても人がいない。部屋の中で心臓痛くなって倒れても助けは呼べないだろう。俺はアパート住まいだが、隣の部屋は空き室で、数室離れたところによくわからん人が住んでるという感じだ。俺がゲーム中にくらっと来て倒れても誰も気にかけちゃくれないだろう。地方の田舎の、新幹線から見える工場に勤めてる若造が、周りが田んぼのアパートの一室で倒れて苦しんでるなんて、誰にとってもどうでもいいことに違いない。そういう絶望的な孤独を、田舎では強烈に実感することができる。それはインターネットやアマゾンでは全く埋め合わせることができない。
アマゾンは確かに配達される。だけど物欲自体が無くなるわけよ、田舎に住んでると。だって自慢したい相手がいないんだもの。いくら高価なグラボを買ってTwitterで自慢しようにも、自分が惨めな田舎のアパートぐらしってだけで気持ちが強烈に萎える。
で、これ。
住めば都って言うじゃん。どんな田舎でも何年か暮らしてみたらそこが故郷になるって話。あれは絶対嘘。まあ実家がもともと他の田舎にあって田舎→田舎の転勤ならそうなるかもしれない。
だけど東京育ちの若者が田舎に何年住んだって絶対都になんかならない。人がほどんどいない無人の都なんてあるか?何年たっても田舎は田舎だし、人は増えない。当然都にふさわしい店や活気、おしゃれな建築物なんて絶対に作られない。都なんかになるわけがない。
だから、上昇志向のある人間は必然的により良い環境へのクラスチェンジというか移住が目標になる。田舎の工場で工場長や支社長になったって、多分東京で平社員やってる方が圧倒的にQOL高いよ。
田舎のトップになるより、東京の底辺の方が100万倍マシ。なぜなら優秀な人はみんな都会を目指すわけで、田舎で昇進を重ねて偉くなろうが、部下になる奴は救いの無い田舎者とか上昇志向の無い現状維持の変化を嫌う奴らだけ。優秀な奴は結局東京みたいな都会を目指すわけよ。
だから、田舎で昇進して成り上がるなんて人生の目標になるわけがない。偉くなれば東京に上がれるかも、って希望だけが向上心の持っていき場になる。
偉くなって、東京に行くんだ、ってなるくらいなら、最初から東京の会社でキャリア積んだ方が100,000,000倍マシ。地方転勤は本当に虚無。
お盆休みに実家に一週間ばかり帰ったが、田舎暮らしには何の意味もないことをさらに実感することになる。
UberEatsとか、なんだよこの便利なサービスは。外出しなくてもレストランのメニュー注文できて自宅で食えるとか神かよ。
図書館はそこら中にあるし、本屋もまだまだたくさんある。ふらっと気軽に家から出て本屋で立ち読みしたり気に入った本を買って喫茶店で3時間くらいコーヒー飲みながら読書したりとか、最高かよ!!
映画館も多くて、プロスポーツ観戦もちょっと気が向いたらすぐに行ける。ラーメン屋も地方と違ってめちゃくちゃレベルが高い。
「生き物のようにぐにゃぐにゃ生きて動いている街」のど真ん中に自分がいるということがどれだけ楽しく活気に満ち溢れている状態なのかとても強く実感する。
東京戻ってきて思ったのは、東京って行こうと思えばすぐに、海、山、湖、川、都心、港、渓谷、果ては島にすら日帰りで気軽に行けちゃうっていう、人が多くて買い物し放題なだけじゃなくて東京近郊でアウトドアレジャーも超簡単に楽しめちゃう最高の地域だってこと。
箱根や富士五湖、横浜の港、アクアラインで千葉に行ってマザー牧場とか海岸線ドライブとか、狭山とか五日市の秋川、高尾山も超気軽に行ける。調布飛行場行けば日帰りで伊豆大島にすら行ける。井の頭公園、代々木公園、新宿御苑みたいな緑にあふれたところもさくっと行って帰ってこれる。つまり東京に住んでれば自然も楽しめるし都会も楽しめるし、文化、芸術、スポーツも最高に楽しめる。
東京で不足する要素が本当に見当たらないのだ。
お盆が終わり、誰も待っていない田舎のアパートに戻ると半端ない孤独感が波のように押し寄せてくる。同じ大学の同期で東京勤務の奴は、田舎暮らしの辛さなんかこれっぽっちも知らないんだろうなあ、と思い心底うらやましく感じる。都会のおしゃれな店で貴重な20代を合コンや会社の先輩とかとの飲み会で楽しんでる中、自分は音のしない孤独なアパートの一室でやることはネットサーフィンやネトゲだけ。
大手企業だから20代なのに残業代込みで500万円近くもらえてはいるのだが、ぶっちゃけ20代なんて年収300万円の都会住まいで全然十分だし、早くこの地獄から脱出したくてたまらない。。。
年収600万円での地方生活 = 年収300万円の東京生活だ。
地方転勤命令なんて人権無視の非人道的行為そのものだ。好きなところに住む権利は基本的人権の一つだ。
転勤命令を出すなら、最低でも年収300万円は上乗せしないとフェアじゃない。それを会社側の負担がせいぜい数十万円の引っ越し代でほぼノーリスクで転勤命令出せるなんてありえない。
俺と同じ無知による悲劇はもう起こってほしくないし、何よりノーリスクで転勤命令出そうとするクソ企業を心底呪っているので、転勤ありの会社に新卒が全く集まらないような社会になってほしい。
転勤ありの会社は地元から社員を募集するか、年収300万円以上給料上げて募集しないと人が集められない、そういう社会になってほしいと思ってこのエントリーを書いている。
だっておかしくないか?企業は企業で土地代の安い田舎に工場や事業所を作るわけだから、土地の負担額は数十億円単位でセーブできているわけだ。だったらそのセーブした分を人件費に積みかえることで地域が活性化してお金が地方にも回るのに、都会で人を集めといてそのまま地方にぶん投げる、こんなのありえないだろ。せめて金銭的に地方に行ったら得になるようなインセンティブを出せよと。
どうか、人の人生をなんとも思っていないクソ企業にまともに人が集まらず、人事が苦しんで苦しみ抜いてバッタバッタと倒産しまくりますように。
コメント拝読させていただいております。賛否両論あるようで、共感いただけるかた、いただけないかた様々なようです。いくつか共通する提案や質問があったので回答させていただきます。
■車を買ってはどうか
この質問とても多かったですね。ですが、車を買ってしまうと少なくとも数年は田舎に居住することを自分の中で追認してしまう気がして買っていません。
なので、転勤の引っ越し先も工場から徒歩30分ほどの場所にアパート借りています。なお東京に住んでいる時は親の車を借りたりレンタカー使ったりしていました。免許自体は持っています。
田舎で数か月勤務して東京の実家に戻った時の衝撃があまりにも強く、「これ以上田舎で生活するのは無理だ」と白旗を上げたので車は今後も買う気はありません。
すみません、訂正させてください。一番近い新幹線駅に繋がっている最寄り駅まで数kmですね。
新幹線駅までの距離はちゃんと測っていないですが、20km離れているほどではないので数km~十数kmの間です。
地方の田舎、という言葉が聞く人によってだいぶイメージが違うんだなと実感しています。観光でしか行ったことはありませんが大阪、名古屋、仙台あたりの地方都市に住んでいれば
今回みたいな田舎の絶望は無かったと思います。少なくともそれらの地方都市は東京郊外に匹敵する人の往来や活発さがあると思うので。
新幹線に乗って、田んぼだらけの眠くなる景色にたま~に見える工場、そこに自分が勤めるとしたらどういう生活になるだろう、というのをイメージしていただければと思います。
ずっと東京に住んでいた身としては、首都以外の都市は全て地方都市だという認識でした。
老人が昔語りする。
バブル景気の時、「株は下がることもあるが土地は絶対に下がらない」っていう謎の言説があって、みんな理由が謎だなと思いつつも実際に下がらなかったからそれに乗ってたわけだ。あれを「土地神話」って呼んでたんだよな。
今、〇〇景気なんて言葉が出ているわけではないけれど、「個々の株は下がることもあるがインデックスは長期的に下がらない」って言説があって、まあ確かにコロナ下でも米国インデックスはなんでか上昇傾向にあって増田でも、乗るしかないこのインデックスにみたいな言説が出てる。
なんかこの2つに類似感をおぼえるというか、既視感を覚えるというか、いつかきた道のような気がするのよね。
そして最近なんかあれだな、と思うのが、自分の回りでもインデックス投資の話題が出てきたこと。こういうネット上じゃなくてリアルでそういう話をする人が増えてきたのね。
この辺は流行最後端の街で、まあ全国的に流行っていたのがここにくると大体ブームは終わり。タピオカもこの間やっときて1ヶ月くらい行列出来てたけど今じゃ閑古鳥で、出来た3軒目のタピオカ屋は速攻でイチゴスイーツ専門店に鞍替えした。たぶん全国的に見てもタピオカは流行ってないだろうから大体ブームが終わってる。
もちろんこれは単なる感覚であって、自分にも「ここがだめだからインデックス投資はやばい」なんて話は出来ない。でも土地神話も渦中にいた時はそうだったんだよな。そしてあの時も、アブク銭で楽しんでたのはごくごく一部の人間で、多くの人は高くなり続ける土地にため息をついていた。なんか今の状況と似てるんだ。
まあ、老人の繰り言だけどね。
ハズキルーペのCMの攻めているところは、一部の人から反感を買うことは覚悟の上でやってることだと思う(舘ひろしのときもそうなったんだし)。
ハズキルーペ的には購買層は「金持ち」な人であって、「貧乏」な人は全くお呼びではないし積極的に切り捨てようとしている。むしろ「貧乏人」からの反発を利用して、「金持ち」な購買層を獲得しようとしている。
企業メッセージとして格差社会はいけないと言いつつも、「金持ち」vs「貧乏」の分断は(利益に繋がるから)煽っていくスタイル。流石はグローバル企業様ですわ。
ナイキのCMの攻めているところは、一部の人から反感を買うことは覚悟の上でやってることだと思う(キャパニックのときもそうなったんだし)。
ナイキ的には購買層は「リベラル」な人であって、「保守」な人は全くお呼びではないし積極的に切り捨てようとしている。むしろ「保守」からの反発を利用して、「リベラル」な購買層を獲得しようとしている。
企業メッセージとして人種差別はいけないと言いつつも、「保守」vs「リベラル」の分断は(利益に繋がるから)煽っていくスタイル。流石はグローバル企業様ですわ。
転売は非難すべき行為なのか?という点よりも、はたして日本で暮らす自分に転売を非難する資格があるのか?という点が気になっています。
別に、転売は避難されるような行為じゃないとか言いたいわけではなくて。非難する資格が自分にあるのかな?という話です。
よく転売屋のせいでPS5が買えないという人がいますが、今PS5が買えないのは、供給量を遥かに上回る需要があるからです。転売屋が居ても居なくても、世の中のPS5の数は変わりませんし、入手できる人の数も変わりません。1人の転売屋がPS5を100個買い占めたとしても、最終的には100人の金持ちの手に渡るわけですから。変わるのはPS5の値段だけです。
仮に転売屋が一切居なかったとしても、今回のように需要が供給量を超えると、買えるのは一部の人間だけでになります。この場合、PS5を買えた人と買えなかった人の差は、「他の人より早く店に行けたかどうか」「抽選に当選したかどうか」だと思います。
ところが、転売屋によって買い占められると、PS5を買えた人と買えなかった人の差は、「他の人より多く金を払えるかどうか」になります。本来なら先着順や運が入手できるかどうかを左右しますが、転売屋が買い占めると、全てが札束の殴り合いへと変化します。お金がある人は、行列に並んでいなくても、抽選に当選しなくても、PS5を手にすることができます。
たまに駅前で「〇〇ちゃんを救う会」という看板を掲げた人たちが募金をしていますが、あの人達がやっていることも本質的には同じです。彼らの求めている募金の金額は大抵の場合2~4億円とかなり高額です。何故こんなに高額になるのかというと、アメリカにおいて臓器移植の順番待ちをスキップする、いわばディスニーランドのファストパスのような枠が設定されており、その権利を世界中の患者がオークションのように競っている状態だからです。
要するに、PS5だろうと臓器だろうと、お金持ちは行列に並んでいなくても、金の力で入手することができます。対してお金を持っていない人は?
なかなか臓器移植の順番が回ってこないので、そのうち死にます。そもそも、順番が来たとしても、手術を受けるお金がなければ死にます。これを不公平だと思う人は少なくないと思います。もし私が臓器移植を待っていて、生きるか死ぬかの瀬戸際でようやく自分に回ってきた臓器を金持ちにぶんどられたら…… そんなの死んでも死にきれません。でも死にます。う~ん辛い。
こんなの絶対おかしい! と思ってしまう一方で、はたして日本で暮らす自分に、「お金を持っている人しかPS5や臓器を入手できない」ことを非難する資格があるのか……?
と思い、私たち日本人は世界的に見てどのような生活をしているかを、昔チェーンメールで流行した「世界がもし100人の村だったら」で考えてみました。
仮に世界が100人の村だった場合、村人100人の1日の収入は下記のようになるそうです。
1人が90ドル以上(1万円~)
https://www.youtube.com/watch?v=QFrqTFRy-LU
村1番のお金持ちの収入は1日1万円以上、2~7番目は1日5560円~1万円となっています。
国税庁の民間給与実態調査によると、2019年における日本人給与所得者の平均年収は441万円になります。ちなみに中央値はだいたい360万円~370万円辺りだそうです。つまり、中央値で考えてみても、一日当たりの収入が約1万円はあることになります。
つまり、仮に世界が100人の村だった場合、一般的な収入の日本人は、村で2番目くらいの金持ちであると言えると思います。(違ってたらすみません)「日本終わった」「日本人は貧しくなった」と盛んに言われていますが、年収200万円のフリーターでさえ上位8位辺りに入るほどですから、世界的に見たら相当な金持ち国家です。
以上を踏まえて、考えてみました。とてつもない額の収入で村で2番目に裕福な暮らしをしている日本人が、「お金を持っている人しか物を手に入れられないのはおかしい」と言っていたら、他の村人たちはどう思うか?
村で2番目に裕福な日本人は、下位15人の村人が一日で稼ぐ金額を5分で稼ぎます。
村で2番目に裕福な日本人は、下位15人の村人が1日で稼ぐ金額を、ソシャゲでガチャを回すのに使います。
村で2番目に裕福な日本人は、下位15人の村人の年収よりも高い金額のiPhoneを、中高生が持っています。
村で2番目に裕福な日本人は、途上国の子どもたちの命を奪うはしかの予防接種用ワクチン2500回分の金額を、5万円のPS5を買うために使います。
そんな村で2番目に裕福な日本人が、「お金を持っている人しか物を手に入れられないのはおかしい」といったら他の村人はどう思うか……
私は日本の中では貧しい方に分類される人間ですが、そんな自分でさえ、あまりにも歪に偏った経済格差の富める側に属しているんだなと再確認させられました。自分は「金を持っている人しか入手できない」という資本主義システムと、金という圧倒的な力を最大限利用し、普段の(あくまで世界的にみたら)豊かな生活を手に入れているのだなと。
お金を持っている人しか物を手に入れられないのはおかしい? それじゃあ、物やサービスを手に入れる必要条件をお金から先着順や抽選制にしたらどうなるか――
そうなった瞬間、私は圧倒的に不足している食料や水を、地球上の77億人と奪い合うことになるわけです。行列の先頭集団に入れないと、抽選に当たらないと、その日食べるものもなければ、医療サービスを受けることもできません。抽選に運良く当たり、PS5を手に入れたとしても、目の前の栄養失調で死にそうな家族のために、PS5を売って食料を買うこともできません。だいぶ辛いです。
別に、こんなに不公平な世界はおかしいとか、ユニセフにもっと募金しようとか、そんなこと言うつもりは全然ありません。「金を持つ人しか物を買えない」というシステムを利用して、(世界的にみたら)裕福な暮らしをしている自分が、同じシステムを利用して稼いでいる転売屋を非難する資格がはたしてあるのか。そこがモヤモヤしてます。自分も転売屋も、自分たちの生活を豊かにするという利己的な理由でこのシステムを利用しています。どこに違いがあるのか。他人に迷惑をかけているかどうか?
転売屋が居てもPS5の数は変わりません。お金を持っている人は相変わらずPS5を買うことができます。コレを迷惑だから平等に分配しろと行った途端、日本で一般的な暮らしをしている人は、自らの資産を平等に分配する側になってしまいます。転売屋からPS5を買える人はお金を持っている人だけですが、そもそも定価5万円のPS5が買える人だってお金を持っている人だけです。100人の村では、上位10位以内の人でないと、定価5万円のPS5を買うことは難しいでしょう。
残りの村人90人からすると、普通に定価5万円でPS5を買っている日本人は、「お金がある人しかPS5を買えないなんておかしい」と思われている側の人間です。転売屋からPS5を買っている金持ちに対して、「お金がある人しかPS5を買えないなんておかしい!平等に分配しろ!」と思うのなら、定価5万円で買ったPS5を下位90人の村人から「お金がある人しかPS5を買えないなんておかしい!平等に分配しろ!」といわれたら、せっかく手に入れたPS5を手放さなければなりません。
みんなで公平に抽選なり早いものがちでPS5争奪戦をしなければならないわけで、自分が入手できる可能性は低くなります。実際はそんなことしませんよね? 私はしません。下位90人の村人がなんと言おうと、PS5は自分で使います。何故そんな事が可能かというと、それは「金を持つ人しか物を買えない」というシステムを、他人に迷惑がかかろうと構わず利用しているからです。「〇〇ちゃんを救う会」と同じように。
「お金がある人しか物を買えないなんておかしい」と思うのなら、「お金がある人しか満足に食事ができないなんてなんておかしい!」と最貧国の人達に言われたら、自分の食費を彼らに渡すのか?
「お金がある人しか物を買えないなんておかしい」と思うのなら、「お金がある人しか学校に行けないなんておかしい!」と最貧国の人達に言われたら、自分の大学の学費を彼らに渡すのか?
自問自答してみますが、もちろん答えはNOです。まだ奨学金払い終わってないし。
別に、自分で稼いだお金は自分のために使えばいいと思います。1万の寿司を食ったっていいし、推しに100万使ったっていい。家族のために使ったっていいし、もちろん募金したっていい。私は世界で一番、自分の事が大切です。1本20円のはしかワクチンで救える命があると知っていても、のどが渇けば自販機で100円のコーヒーを買います。ケチなので躊躇はしますが。
1本20円の予防接種用ワクチンが買えなくて死んでいる子供がいるこの世界において、「金を持つ人しか物を買えないなんておかしい」と思ったら、定価でPS5を買うことも、子供にランドセルを買ってやることも、1本100円の缶コーヒーを買うことだってできなくなってしまいます。
あなたがこの文章を読んでいる間に、75人の子供が栄養失調で亡くなりました。
という現実を私は知っていますが、たまに気まぐれでコンビニのお釣りを募金箱に入れるくらいで、お金は自分の好きなように使います。ゲームもお菓子も買います。見たい映画を見て、読みたい本を買います。
でも、だからこそ、「お金を持っている人しか物を手に入れられないのはおかしい」なんて、そんなことは言える立場じゃないよなあと、そう思いました。
フェミニストといっても、真っ当に差別を憂う人間からただ不快なものを叩きたい人間まで千差万別なのだ。しかし最近は後者のミサンドリーな印象が強くなりすぎて、「フェミ」はもはや過激な人種と思われてしまっている。
「フェミニストは○○だ!」なんて言っても、主語がデカすぎるカテゴリーなので該当するのは一部の人間なのに、その一部がフェミニストの定義のようになってしまっていて悲しい。過激なフェミニストと過激なアンチフェミニストが、対立と憎しみ合いを続けた結果、本来の定義が捻じ曲がってしまった。
北米のリベラルな地域では若者も社会人も気軽にフェミニストを名乗るけど、日本では特殊な思想のように思われているので名乗りづらい。フェミニストの定義が世界と日本で解離してしまっている気がする。
正直、フェミニズムという名前が女性主体・女性中心的な印象を与えてしまうのは今後の課題だと思う。男女同権がまるで無かった時代には、女性解放思想=男女同権思想だったのでこれで良かったのだが、格差解消や性犯罪・セクハラの糾弾が一般に浸透した今となっては女性優位な印象を生んでしまっても仕方ない。男性要素も含めた名称に変えられるなら変えたほうがいいのかもしれない。どんな名称になっても、本来の目的が大事なので。
増田の言うこと半分わかる。
自分もいわゆる原作者的な立場で、アニメ化もされたしありがたい?ことに二次創作もされてるけど、ちょっと嫌だな〜って思う部分はある。
大半の同人誌は原作領域侵してこないけど、たまに僕(もしくは特定の同人作家)の解釈が正解!とか本来の創作意図をねじ曲げられた二次創作をみると、ちょっと複雑な気分になるなあ。
いやいや原作こっちだし。お前らの100万倍キャラ理解してるし、正解はこっちだぞ〜^^;って気分になる。
とはいえいわゆる関係者(出版社とか委員会とか)の大半は二次創作歓迎だし、一部の人間に至っては勝手に腐女子が喜ぶ宣伝とかブッこむし、原作の立場からあんまり嫌とは言えない風潮あるのは確か。
基本的に自分は二次創作してもらう分には構わないし、顔出ししてないのをいいことにオンリーイベントにもこっそり行った。
作品が愛されるのはすごく嬉しい反面、変な解釈を声高に叫ばれるとなんだかちょっぴり気分悪い。
まあね。そんなこと、口が裂けても言えないけどさ。
でも一つ言えるのは、二次創作してる側の人間が、正当性とか権利とか叫んで欲しくないんだよね。
黙認してるだけであって、法律違反してるし、正直何割かの作品は自分たち原作者の気分害してるし。
「いけないことしてる」って自覚だけは持っててほしいな。
最近盛り上がってるので書いてみる。
「”選択的”なのだから別姓にしたいやつだけすればいい、同姓にしたいやつには関係ない」とよく見るけど、本当にそうか?
俺はもう既婚で同姓のオッサンだけど、めちゃくちゃ関係あると思ってるよ。
現行だと姓は家族を表す単位になってる(例外はあるかも。少なくとも最高裁判決ではそう言ってたハズ)
でも別姓OKにしたら家族という識別子としては使えなくなるよね。
じゃあ姓って何なのってならない?名前の一部?それって意味あるの?
姓を廃止しろって過激派もいるけど、識別子として機能しなくて、単なる名前の一部に成り下がるなら俺も「意味ねーしいらね」って思うよ。
だからそもそも「姓の定義を変えましょう」って話だと思ってるわけね。
だから別姓にしたい一部の人だけじゃなくて、日本人全体に影響はあると思う。
「変えたい人だけ変えればいい、自由!」というのは非常に浅薄に見えるわけ。
とはいえ改姓の手続きが非常に手間というのは解消すべきだとは思ってる。
個人的には旧姓の通称利用の効力を戸籍上の名前と同じレベルに引き上げる案に賛成です。
銀行口座とか旧姓名義のままでOKになればそもそも改姓手続きしなくてよいよね。(この辺詳しくないので現実的かどうかはわからんけど)
そうすると戸籍だけは同姓になるけど、戸籍なんて頻繁に目にしないし、そこは同姓でも良くない?(俺は自分の戸籍は1回しか見たこと無いわ)
別にショックを受けてもいいのよ。
それで訴えてもいいけど、作者にしらばっくれられたら別人の死にダメージ受けてる人になっちゃうのよね。
第一、これは私だ!と思うならまだしも
これは私かもしれないけどもう一人の友達かもしれないって思ってる時点で、いろんなエピソードが交わって作られたキャラクターじゃないの。
そうしてそのキャラクターとの別離としてその死を描いて、それが主人公の成長の一助となった。じゃもう扱いが違うじゃない。
「お、私はコイツの糧になったのか」じゃん
そして主人公のセリフも「素敵な漫画家になったよ」なら勝利宣言でもなんでもなくもう二度と会えない人に対する餞の言葉じゃん。
意味合いを持たせるにしても「これから先君たちと会うことはないけど、素敵な漫画家になれるよう頑張るよ」にしかならないじゃん
一部の人にしか伝わらない勝利宣言じゃなくて、一部の人が勝利宣言と曲解して怒ってる。じゃん。
これは元増田じゃないよって言うのよ。
私は有名漫画家と友達だった?ああそうなの。それで私がモデルにされて殺された?そうか〜、じゃあ今日はあったかいお風呂に入って早めに寝な、なのよ。
だからめんどくさがらずにアレは私なのか?って聞かなきゃわからないし、めんどくさがるから早めに寝た方が良い人にしかならないのよ。
現時点で、国際語となっている英語には、すでに多数のバリエーション(つまり方言)が存在しているのだ。イギリス英語、アメリカ英語、オーストラリア英語が違うことはよくネタにもされるので普通に知っているだろうが、英語を母語とする話者が一定いる地域が誕生すればそこには必ず方言が誕生するのだ。仮に日本が公用語を英語と定め、数世代あとに日本人が英語を母語とするようになっても、気候、歴史、文化等々が他とことなるこの地で話される英語は必ず「日本的英語」、ジャパニーズイングリッシュ、英語の日本弁になってしまうのだ。つまり「統一」など最初からできないのだ。(そして、極めてリアルに想像すれば、方言である「日本的英語」は、英語話者の中では、おそらく社会的に差別される方言になるのだ。日本でも、方言話者がどのように扱われるかを見れば、それは簡単に理解できるのだ。)
なぜなら、言うまでも無く、日本という地や文化、歴史等々についてこれまで書かれた文献はそのほとんどが「日本語」で記されているのだ。日本に住む者にとって極めて重要な情報源のほとんどが「日本語」なのだ。にも関わらず、それらの文化的リソースを、数世代後の我々の子孫はそれを母語レベルで理解することができなくなってしまうのだ。これはものすごいロスなのだ。もちろん、「その代わりに膨大な英語圏に関する文化的リソースを手に入れられる」じゃない?と反論したいのだろうが、それは怪しいのだ。なぜならば、言葉と文化はセットだからなのだ。文化的な背景、自然、文物に対する理解がない中で言葉だけを習得しても、それは月面で育つ地球人のようなもので、言語的文化的資産の十全な継承などおぼつかない、それは単に「全く新しい文化を一から作る」のとほとんど同じことなのだ。それは「古文・漢文」がかなりの割合で読めなくなってきている現代の日本が抱える問題でもあるのだ。
移行期間といっても、切り替えるだけなら実はそれほど時間はかからず、おそらく数世代で完了するのだ。上で触れた「文語→口語」の切り替えなど、一世代もかからなかったのだ。つまりそういうことは大した問題ではないのだ。ただ、その先に誕生するのは、上で述べたように「日本語的英語を使い、英語文化のバックボーンはなく、かつ過去の自分たち自身のリソースへのアクセス力までも失った、新しい文化を一から創出しなくてはならない1億人」なのだ。人口1,000人の小さな島で起きたことなら、その悲劇を理解する人すらやがていなくなるだけで終わるだろうが、世界に大きな影響を与えるそれなりの規模の国家で行ったらどうなるか、想像するだに悲惨なのだ。まあ、日本が没落することで喜ぶ国があるとすれば、その国にとっては喜ばしいことなのだ。
英語が公用化された第一世代は、日本語が入り交じった、たどたどしい英語を使うのだ(これを「ピジン」という。)一部の人は、留学などを通して「正しい英語」を身に付け特権階級化するが、だいたいの人はピジンの方を使うのだ。そうして次の世代になると、最初からピジンを母語として使いこなし始めるのだ(これを「クレオール」という。)上の方で、日本の公用語を英語にしても、使用されるのは「日本語的英語」になる、というのは、つまりこの「クレオール」のことを指しているのだ。
たとえば「洋食」。カツ。カレーライス。いずれも食のクレオールなのだ。仮に「正しいカツレツとは○○である」とか「カリアー&ライスは一バリエーションであってそもそも英国式はカリアースパイスドシチューだ」みたいな蘊蓄を並べて啓蒙しようとする人がいても、残念ながら世間では「かつ丼」やら「カレー」が登場し、オリジナルの「カツレツ」や「カリアー&ライス」とは全く別の料理が定着し文化になってしまうのだ。かつ丼もカレーもうまいから仕方ないのだ。言語でも、それと全く同じ事が起こるのだ。仮に最初に一所懸命カツレツを作るフランス料理人を招いて教えてもらったところで、最終的に定着するのは「かつ丼」なのだ。従って、「日本語を廃して英語を公用語化しよう」なんて主張しても、「日本の食を全て『フランス料理』にするために和食を廃止する」ことにはならなくて、単に「日本の食を全て『かつ丼』にするために、和食を廃止する」みたいな訳分からないことにしかならないのだ。そもそもかつ丼がうまいのは、和食がうまいからなのだ。つまり本末が七転八倒なのだ。
ここまで書いて何だが、元ネタの話に戻るなら、結局「言語は滅ぶもの」なのだ。これは避けられないことなのだ。日本語だって、10年前と現在ではかなり違うのだ。むしろ、言語は日々滅びており、そして日々滅びることをやめたとき、言語は「死ぬ」のだ。方言が生まれるのも、見方を変えれば「標準語の滅び」だし、方言が消えるのも、見方を変えれば「標準語(という新たな方言)の誕生」なのだ。そこに貴賤はないのだ。だから、言語学者は「言語が滅びてはいけない」というような価値判断をもって言語に向き合うべきではないのだ。もちろん、自分が研究対象としていた言語の話者が絶滅したら途方にくれるのは理解するが、それは文化史論的な見地から言うと、一つの現象に過ぎないのだ。たとえば、関西では最近TV等の影響もあり、日常的にかなり関東風のイントネーションで話す姿を多く見かけるようになってきているのだ。これは、一種の「滅び」でもあるし「誕生」でもあるのだ。なのに、「滅び行く関西弁を守れ」とか言い出したら、それは愚かなのだ。そういうのは、たとえば生物多様性が失われる……といった話とは全く違ってただの懐古厨なのだ。そのあたりを勘違いすると、元ネタの言語学者のように妙なエッセイを書き散らすことになるのだ。
日本語廃止論への反論は、上に書いたように政策的にマイナスであり、そして現実的にも不可能だという話に尽きるのであって、「滅び行く言語を守れ」みたいな感情論に落とし込んではいけないのだ。感情論は現実の利の前には極めて無力なのだ。