はてなキーワード: Web2.0とは
再考・『涼宮ハルヒの憂鬱』のどこが新しかったのか - シロクマの屑籠
p_shirokuma氏に記憶を刺激されたので、『涼宮ハルヒ』シリーズのいちファンとして、個人的にも振り返ってみたいと思う。
大ヒットした作品には「総決算」タイプと「新開発」タイプがあると考えている。
すなわち、過去の流行を上手くまとめたものと、新しい流行を提示するものである。
80年代・90年代のジュブナイルSFや超能力ものをベースに、
きわめて表面的かつ類型的な萌え要素を配置したものが『ハルヒ』である。
西尾維新のように、萌えを理解した上で過去の作品を換骨奪胎するのではなく、
ベタに古いものをやりたいので萌えをまぶして新しくみせかけた、といった印象を受ける。
Web小説でVRMMOものを流行させた『ソードアート・オンライン』などと比較すると、
『ハルヒ』はヒットの規模のわりにフォロワーの少ない作品と言っていいだろう。
ライトノベルの「萌え化」「学園ラブコメブーム」の原因とみなされることもあるが、
『ハルヒ』の大ヒット以前からMF文庫Jなどにはその傾向が見られたし、
直接的には2000年代前半に全盛期を迎えていたエロゲの影響のほうが大きい。
ちなみに『ハルヒ』フォロワーなら『いでおろーぐ!』がオススメだ。
難しい問題だ。
アニメ化前から巻割10万部を突破しており、これは当時の出版状況からしてもヒットではあったが、飛び抜けた大ヒットだったとは言い難い。
「スニーカー文庫のエース格」とは言えても、「業界を代表するエース」ではない、といった感じか。
第一巻の『憂鬱』は話題になったものの、『溜息』『退屈』がいまいちだったため、作品評価としては賛否が入り交じる状態。
『憂鬱』は当時の2chの人気投票で21位(そのときの1位は『撲殺天使ドクロちゃん』、2位は『バッカーノ!』)。
『消失』は同じく2chの人気投票で6位(1位は『ALL YOU NEED IS KILL』)であった。
ただし、2004年11月発売の『このライトノベルがすごい!2005』で『ハルヒ』は1位を獲得しており、
(この結果は少々の驚きをもって迎えられたと記憶しているが)やはり一定の人気は獲得していたことがうかがえる。
勘違いされることが多いが、アニメ『ハルヒ』放送時(2006年4月〜7月)には、まだニコニコ動画(2006年12月12日〜)は存在しない。
「ニコ動によってヒットしたアニメ」を考えるなら『らき☆すた』(2007年4月〜9月)のほうが適当だろう。
また、「アニメの視聴体験をみんなとリアルタイムで共有する」という点については、
YouTubeよりもニコ動(のコメント機能)の果たした役割が大きいと考える。
『ハルヒ』の場合は「話題になったシーンを後から確認する」という使い方がまだ多かったのではないか。
(このあたりは個人的にYouTubeを敬遠していたという理由もあり、実際には本編をまるごとYouTubeで観ていた人も多いかもしれない…)
当時のYouTubeでは、動画の長さに10分の制限が設けられていたことも考慮したい。
2006年といえば、我らが梅田望夫の『ウェブ進化論』が発売された年で、「Web2.0」ブームの真っ盛りである。
はてなダイアリーが2003年1月。livedoor Blogが2003年11月。アメーバブログが2004年9月。FC2ブログが2004年10月。Yahoo!ブログが2005年1月。
2004年ごろのブログブームを経て、2006年にはすっかり普及しており、オタクたちも盛んに長文を書き散らしていた。
「カトゆー家断絶」「かーずSP」「ゴルゴ31」に代表される個人ニュースサイトが、それを拾って拡散してくれるサイクルがあった。
また、いわゆる「2chまとめブログ」も2005年ごろから増加しており、考察や話題の拡散を手伝うこととなった。
(ただし現在有名な「やらおん!(今日もやられやく)」「はちま起稿」「オレ的ゲーム速報@刃」などが台頭してくるのは2007年以降である)
ついでに2005年2月には「はてなブックマーク」も開始している。「mixi」のブームも2005年くらいか。
ちょうど『ハルヒ』の放送直前に、これらのツールが出揃ったわけである。
アニメ『ハルヒ』のヒットに最も貢献したのが京アニの超絶作画だったことは疑うべくもない。
自主制作映画を完璧に再現した第一話、EDでの滑らかなダンス、『射手座の日』の艦隊戦、『ライブアライブ』における楽器演奏。
時系列シャッフルや公式サイトの作り込みなどと併せて、とにかく話題性が抜群に高かった。
2006年の『ハルヒ』、2007年の『らき☆すた』、2009年の『けいおん!』で京アニブランドが確立されて以降は、
他のアニメでも異常に作画のクオリティがアップしていったことだし、
やはりアニメ『ハルヒ』の特徴を挙げるならキャラデザよりは作画だと思う。
アニソンあるいはキャラソンについては、2005年のアニメ『ネギま』の主題歌『ハッピーマテリアル』の影響が最大で、
『ハルヒ』の「ハレ晴レユカイをオリコン1位にしよう」などはその後追いにすぎないという印象が強い。
ただ、『けいおん!』をはじめとして「作中で歌われるキャラソン」が増加したことについては、
『ハルヒ』のそれが売れた影響は大きいのだろうな。
1997年にアニメ『スレイヤーズ』のテレビ放送が終わり、そのブームが落ち着きを見せて以降、
世間的な注目度でいえば「谷間」の時期を迎えたライトノベルが再び注目を集めるようになったのは、
2004年に相次いで発売された『ライトノベル完全読本』『このライトノベルがすごい!』などの「解説本」がきっかけとされる。
それを追うようにアニメ化も増加し、2004年に3本しかなかったラノベ原作アニメは、2005年に8本、2006年には18本にまで膨れ上がった。
つまり、『ハルヒ』の大ヒットはアフターバーナーのようなもので、ラノベブームの「きっかけ」そのものではなかった。
とはいえ『ハルヒ』によってラノベブームが一気に拡大したこともまた事実である。
あとはSF設定によってファンによる考察がはかどったというくらいだろう。
やはり外的な要因に求めるべきだと思う。
京アニの台頭、キャラソンの増加、動画サイトの登場、ブログの普及、ラノベへの注目…
これらがちょうど上手いタイミングで噛み合ったからこその流行だったと言えるのではないか。
あ、『ハルヒ』の流行が終息したのは「エンドレスエイト」のせい。
これだけは間違いない。
https://news.yahoo.co.jp/byline/sendayuki/20181004-00099263/
この記事の「表現の自由」に対する考え方に、私は同意するところが多い。
だが一方で、表現を理想的に捉えすぎているきらいがあるとも思う。表現の現場でその「配慮」が、数多のアイデアを殺している現実を、私は見てきた。
記事でも指摘のあるとおり、重要なのはゾーニングだ。誰に向けた表現なのかというゾーニングが適切であれば、表現やアイデアを殺す行き過ぎた配慮の必要性は低くなるはずだ。
キズナアイの件は、時代の先頭を走る彼女によって、そのゾーニングがずれた結果起きた不幸な事故だろう。彼女には何の罪もないと私は考える。
ではどのようなゾーニングが適切かという議論はとても難しい。少なくとも私には手に負える気がしない。
ただ、そのゾーニングが行き過ぎれば「見たいものしか見ない社会」を助長し、本件でも見られたような意見の異なる他者に対する不寛容をより一層深刻にするだろうと予想はできる。
昨今、ハラスメントの問題が世間を騒がせている。ハラスメントは「嫌がらせ」という意味だが「同意のない強要」と解釈すると分かりやすい。
セクハラは「性的な同意のない強要」で、パワハラは「権力を行使した同意のない強要。あるいは権力により同意を強要すること」だ。
話は逸れるが、というか逸れまくったうえでの極論だが、もしもバーチャルな存在に魂が認められる社会であれば、見た目を貶めその存在を否定する今回の意見は、バーチャルな世界に生きる存在へのヘイトスピーチと言えるのかもしれない。
しかしそれはいつか未来の可能性の話であって、もちろん今はそのようなものは認められない。ただ個人の希望としては、私はそのような社会を夢見る。仮想的な魂のありようが、人権のようなもので守られたって良いと思う。
一方的な嫌悪感を表現し、相手の存在そのものを貶め否定するヘイトスピーチなど、社会通念上、認められない表現は当然ある。
しかし、社会通念上許される範囲の表現である場合、ある特定の倫理観をもって、ある表現が同意なく抹殺されることがあるのなら、それは「モラルハラスメント」と呼ばれるだろう。「特定の倫理観に基づいて、ある表現の禁止を同意なく強要する行為」である。
ただし、ここで注意しなければならないのは、ある意見の表明を先んじて「ハラスメント」であるとレッテルを貼り封殺することだ。
そのような言説は、ハラスメントであることを理由に、社会通念上認められる範囲の意見の表明を同意なく禁止する「ハラスメント・ハラスメント」とでも言えるだろう。書いていて自分でもやや混乱してきたが、少なくとも私はそういう不寛容な立場を支持しない。
Twitterの創業者のひとり、ビズ・ストーンはかつて「オープンな対話はきっと世界を良くする」と言った(※1)
ネット社会の一部の人たちはある時期まで、意見の異なる集団がお互いに寛容の精神を持ち、建設的な議論を交わせる未来を志向していたはずだ。
それは理想論に過ぎなかったのかもしれないが、理想は夢を諦める言い訳ではない。
私はかつてのWEB2.0信奉者だ。ネット空間の善意に抱いた「過激な信頼」を完全に捨て去ることは難しい。
このエントリーが、寛容さについて考えるきっかけになり、世界が少しでも住みよい場所になればと祈り、こういう場所に久しぶりの投稿をした。
※1 乙武さんとビズ・ストーンの対談記事だったと思うが、記事は見つからなかった。動画も残っていないようだ。ただ、ビズ・ストーンがそのような信念をもってTwitterの運営にあたっていたことは間違いないと思う。注記の付け方を忘れた
Web制作において持論がある。CSSの設計云々で議論できるのはまともな営業が居てまともなクライアントをつかまえてきてまともに意見を言えるからだ、そうでなければCSSの設計云々は話にならない、お話にならない。
OOCSSにBEMにSMACCS、そんなもんできるかよ。クソみたいな、デザインを破壊する修正が大量に来て統一性もなにもあったもんじゃないし、セマンティック? 知るかくたばれ。アニメーションすらバラバラに指定されてっからAnimate.cssすら使えねえ。そもそも統一させてもらえないからクラスの意味がほとんどねえ、全部IDでも変わんねーよ。
頑張ったよ。SASSで綺麗に書こうとしたし、Smartyみてーなテンプレートエンジンが効率良いってのも分かってるよ。でもヘッダーすら変えろとか言われたらどこを共通化すればいいんだよ。
俺は確信した。Bootstrapの"mt-2"とか"display-inline-block"みたいにクラスを付けてってそれにスタイルを適用してくのが正解だって。ってかBootstrapのクラスばっかりでスタイル作ってる。だってクラス見るだけでスタイルが分かるし、共通化は一切されてねーからな。
あいつら、グラフィックデザインと同じだと考えてやがる、くたばれ。ポスターじゃねーんだよ。
俺はもう闇のWeb製作者になり客にはバキバキに嘘をつくようになった。SEOがだとかデバイスの保有率のデータだかなんかを持ち出して出来るだけ頑張らなくて良いサイトを作る。だって頑張ったってそれはカオスを作るだけの技術が上がるだけでコーディングの技術が上がる訳じゃ無いからな。
かと言って外注に出したらクソみたいに思いCSSフレームワーク使ったサイトが上がってくる、くたばれ。しかもグリッドシステムぐらいしか使ってねーじゃねーか、skeletonでも使っとけ、ふざけんな。
おかげで俺は毎日Web2.0的なデザインとレスポンシブ対応が混合した、パラレルワールドみたいなサイトを作ってる、スチームパンクだろ、お前営業やめろよ。単価安いんだよ。俺が営業行くから。元営業だからお前より喋れるから。
とにかくモジュール化だとかクラス命名手法だとか議論出来るお前らは幸運だ。全部の国がそれぞれ違う大陸にいるようなもんだ、クラスいらないからな。誰かWebpackであいつらの前頭葉をパッキングしてくれよ。
ホリエモン、小飼弾、伊藤直也、宮川達彦など、Web2.0時代に一斉を風靡した人達は既に30後半から50歳手前であったりする。
世界でみるとザッカーバーグがおり、Snapchatのボビー・マーフィーなどがいるのだが、
30代はニコニコ動画と共に10年歳を取った感じだろうが、上の世代を追い抜くといったことは起こっただろうか。
ニコニコ技術部はあったが広がったわけでもない。
20代のエンジニアの人には一体どう世界を見ているのだろうか。
横を見ればYouTuberの華やかに見える世界があり、インターネット老人会の人達がマストドンのようなものを話題にしている。
昔から存在する技術がある日突然話題になり単語だけひとり歩きした結果
最後にはその単語が何を意味するのか誰にもわからなくなる現象がある。
Dropbox が出て来たあたりから猫も杓子もクラウドといい始めたようにおもう。
昔から似たようなことは個人や組織がサーバーを立ててやっていたわけだけれども、
CUIではなくGUIだとか、誰にでも利用できるというあたりが違いだったのかな。
ああでも、クラウド言い始める前からアップルの似たようなサービスがあったよね。MobileMe だったかな?
やっぱりわからないな。
昔は専門家が試行錯誤してモデルを作ったりフィットしたりしていたのが
そう僕は理解していたのだけれどもニュースの見出しを見ているとよくわからなくなってくる。
「AIに仕事を奪われる」これは「Excelに仕事を奪われる」みたいな比喩表現だと思っていたのだけれども
「AIの下で働く」みたいなフレーズを見ると混乱してくる。AIの自我やらロボット三原則に言及する人までいて、ネタなのかそうでないのか区別できない。
AIってなんだ?
個々人のネットワークから生まれる価値を称揚することで、リアルの権力者が持つ唯一絶対性を崩そうとする運動だった。
その目論見どおりに、と言っていいものか、
結果としてオールド・マスメディアの価値は薄れ、ボトムアップのムーブメントによって国家が崩壊するまでに至った。
が、その一方で。
メトカーフの法則によりネットワークはひたすらに強化され続け、インターネットはメガコミュニティだけが生き残る世界と成り果てた。
メガコミュニティは巨大企業を生み、人々はその庇護下に取り込まれ、かつての自由なインターネットは消え去った。
賛否両論はあるだろうが、
「自由だからこそハンドアックスを携帯して自身を守れ」といった殺伐としたインターネッツよりも、
なんだかんだで上手くやってくれる「大きな政府」のほうが(たとえ息苦しくとも)生きやすいことは確かだ。
企業の傘下から脱し、再びユーザーに「持ち家」を与えようとしているのがMastodonである。
早々に企業に取り込まれたのは笑い話だが、これからどのように発展していくかはまだ分からない。
Gumroadは死して(まだ生きてるよ)マイクロペイメントの皮を残した。
Mastodonがもふもふの毛皮以外の何かを残す可能性も十分にある。
さて、Twitterの最大の発明は、グローバル・タイムラインを隠してフォロー/フォロワーの関係を中心に据えたことだった。
これにより「相手の家を訪問する」というアナロジーはようやくにして消え、ウェブサービスは初めて「インフラ」となったのだ。
個人領域の確保を目指すMastodonが、個人領域を破壊したTwitterを模しているのは面白い。
はてブって、ちゃんと使いさえすれば「何となく覚えがあるけどググラビリティが低い記事」とか、
「特定の話題に関連した記事」とかを検索するのにめちゃくちゃ便利なんだけど、
なんだか「はてブを本当にブックマークとして使うなんてありえない」みたいな風潮になってるよね。
「○○が人気らしいけど誰が話題にしてるか分からない」「××って誰も話題にしなくなったよね」なんて人もときどきいるけど、
そんなのTwitterで検索すれば一発で分かるじゃないかと思うんだよ。
日常会話の宝庫だよ。新語の流行時期や用法の変遷なんかも時系列で分かるんだよ。ちょうべんり。
でも世間的には「誰だか分からないどうでもいい人間の呟きなんて何の役にも立たないから削除しろ」という人が多いよね。
百歩譲ってフローな情報としての価値は認めていても、ストックな情報としては見ていないというか。
Googleが出てきて、Web2.0とか言ってた当時は、「あらゆる情報を整理する」って、
さまざまな手段を駆使して欲しい情報に辿り着いてやるという気概を皆が持っていたけど、
「検索しても仕方がない」という諦めが蔓延してしまったとのかもしれない。
本当にググってる?
http://anond.hatelabo.jp/20161223021343
・YouTube誕生。ひろゆきが当時2ちゃんねるメールマガジンにて「アニメとかが見れてすごい」と話題にする。
・ドワンゴの子会社「ニワンゴ」設立。未来検索ブラジルの深水英一郎と、ひろゆきが取締役就任で話題になる。
・VIPのスレをまとめた「ニュー速VIPブログ(`・ω・´)」誕生。「他人のレスをまとめてお金を稼ぐ行為」の是非が大きな議論を呼ぶ。
・この頃ぐらいに当時提出されていた「人権擁護法案」をめぐりネット上で大騒動になる。このぐらいを境目に、ネタOFFが多かった大規模OFF板に政治活動系の話題が幅をきかせるようになる
・「ハッピー☆マテリアル」をオリコン1位にする運動
・いかりや長介死去
・33-4
・構造計算書偽造問題発覚。この事件を受けてVIPでは「姉は一級建築士 〜イケない構造設計〜」というタイトルのエロゲを作ろうとする(未完成で開発休止)
https://www.youtube.com/watch?v=oahEB2C3npk
https://www.youtube.com/watch?v=zAk6T3zAJgc
・YouTubeで人気だった動画がニコニコ動画に流れ込み、定着する。
・YouTubeをGoogleが16億5000万ドルで買収。
・釣神様
・PS3発売
・「涼宮ハルヒの憂鬱」放送。VIPでED曲をオリコン1位にする祭りが行われたり、ニコニコ動画やYouTubeでハレ晴レユカイを踊ってみた動画が多くアップされる。翌年の「らき☆すた」のOP曲も同様の現象が発生し、ネット上の出来事が徐々に現実の世界にも影響を与えるようになる。
・9月11日、テレビ番組の生放送中に女優の米倉涼子が放屁し、無差別生物テロを単独で実行。同事件による被害者の数は全世界で数えきれない程に上り、一説では10億人以上とも囁かれている。この放屁では実も出た可能性があるとして、現在も有志が調査中。屁ではないことの証拠として、「日本音響研究所所長・鈴木松美氏の解析により、デジタル機器のオーバーレベルによるノイズだったことが判明した」という記事を上げて、ノイズであることを主張する輩もいる。しかしこの記事を掲載した週刊文春が某女優の所属事務所に買収されていた、もしくは結託してもみ消しを試みた可能性もあるので、これは全く証拠にならない。この件については、10年たった今も公式コメント、謝罪が未だに無く、更に我々にはこの事件を後世に伝えていかなければならない義務がある。
・流行:「物売るってレベルじゃねえぞ!」「wwwwww」「思い出は億千万」「レッツゴー陰陽師」「あいつこそがテニスの王子様」「た〜らこ〜た〜らこ〜」
https://www.youtube.com/watch?v=lhTumBn-D_s
https://www.youtube.com/watch?v=lTuy_Hn4_8o
https://www.youtube.com/watch?v=Md38v8OFFYQ
・ニコニコ動画がγ時代に入る。この頃にVIPPERとニコニコユーザの軋轢が進む
・ニコニコ生放送開始
・オプーナ発売
・流行:「ニコ厨」「アベする・アサヒる」「スイーツ(笑)」「ゆとり」「nice boat.」
https://www.youtube.com/watch?v=-glkIghqlw8
https://www.youtube.com/watch?v=YwortdC_o14
http://anond.hatelabo.jp/20160702225507
ブコメのスターランキングや、ブックマーク数によるホッテントリシステムは
WEB2.0的集合知を実現した事例としてしばしば取り上げられるが
それらに比べて増田は
同様のポテンシャルがあるにもかかわらず
稀に有意義な怪文書・良くできた作文が単発で投稿されるのを除けば
うんこ漏らしたなどという小学生並みのネタが跋扈する場に甘んじている。
記事評価システムやユーザへの記事リコメンドなどの機能がもう少し充実していれば
今とは違う増田の姿があったのでは無いかと思うと不憫でならない。
ここに敬意と賞賛を贈りたい。
人工知能とか、チャットボットとか、VRとか、いろあろあるけど、楽しい感じはしつついまいちワクワクしないなー、昔みたいに、と思ってしまうのは、全てなんだかんだ昔からあるものの焼き直し繰り返しパターンに見えてしまうからなんだろうなあ。。
90年代後半にインターネットがでてきてからweb2.0ぐらいのちょっとの間に語り尽くされたコンセプトの新しさを自分の中では超えることがない。ダイヤルアップでテレホタイムに個人サイトで感じたPCの大きな画面の向こうとの匿名的コミュニケーション文化のダウナーな高揚感。
いや、この記事にいわれるまでもなく老害的だってのはわかってる。その90年台後半の中途半端なアングラ的新しさだってたぶんもっと昔からいる政治的時代を超えたヒッピー世代とかには新しくなかったようなきがする。おたくとかニューアカ世代はギリギリわかる人もいただろう。
当時のおっさんはどう乗り越えたのかなと想像する。ピンとこない新しい文化を。若者と同調できてインターネットの到来をワクワクできたひとたちもいたのだろうとおもう。でもやっぱりワクワクしきれずアナログな楽しみに拘泥した人もたくさんいただろう。
でも同調できなかったとしても、おじさん文化に軸足を置きつつ、自分たちにとってワクワクすることを追求しまくったおじさんが当時から今にかけていたはず。イメージ的には糸井重里とか大塚英志とか。
まあそんなかんじで、ワクワクしきれないときに、表面上同調してワクワクするふりをして内心ストレスためるより、また逆に諦めて懐古主義にはしるより、自分のなかのドキドキポイントを追求し続けて自分の感覚で新しいものを探しつづけることが自分の精神衛生上よさそうだなあと思う次第。
まずは、大変遅ればせながらはてな上場おめでとうございます。2ヶ月遅れですが。
先にお断りしますと、この文章は長いです。12,000文字近くあります。そう言えば最近「長すぎて読めない」ってタグ見なくなりましたね。
元々は数日前に自分のブログに投稿したのですが、アイコンを見てもIDを見ても誰にも認識されていないであろう私がこんなことを書いているのも気持ち悪いような気がして、衝動的に消してしまいました。そんな文章ですが、せっかく書いたので思い返して増田に投下します。それでも交流のある僅かな方からは、「あ、あいつだ」とすぐバレると思いますが、全く構いません。
大げさな振りをしてしまいましたが、この、はてなの世界からゆるやかに距離を置こうと思いまして。
ハイコンテクストな話題で、関係者でも有名ユーザーでもない私が語るには随分と分不相応であろうことは承知しているのですが、私は人知れず長年このはてなという会社とそのサービスの利用者でした。たぶん、相当熱心なファンのほうだと思います。
しかしこのはてなという界隈、おそらく長年世間一般的には「俺ははてなが大好きなんだー!!」とはなかなか言い出しづらい雰囲気と言いますか、一部一種のギーク(ナードか?)臭さみたいなものから逃れられないセグメント感があったために、公の場であまりそれを声を大にして語る機会が無かったという状況があったような気はしています。
勝手な想像ですが、よく言われるとおり先日上場した株式会社はてなとしてはきっと、そういった閉鎖的なカルチャーからの脱却を図る必要があるのは事実なのであろうと考えています。
私は「はてな界隈」という自然発生的な、「インターネット好き」が作ったプラットフォームとコンシューマージェネレイテッドなコンテンツが組み合わさってできた若干マニアックな文化がとても好きで、かつてインターネットに期待していたワクワク感のようなものを自分の感性ともっとも近い形で目指している会社だなと思っていたので、はてなを好んで使っていた理由も、今これを書いている理由も、サービスが向かう方向性とのギャップが発生したということで仕方ないのかな、と考えてはいます。
回りくどい書き方ですが、つまり、ここ最近(数年)の急激な利用者層の変化、人気ブログやホッテントリに上がってくる記事とその使われ方の変化、新たな利用者層との精神的摩擦に疲れて消耗するのが嫌になった、ということです。
私は自分の楽しみのために自分が面白いこと書き、読むっていうスタンスで自分のスペースを使ってきたので特定のユーザー群を非難するのはその趣旨とズレるし、メタな「ブログ論」を書くつもりは無いんです。なのでわかりやすいバズワードは書きませんけど、要は、そういうことです。お察し。
ここまで書いておいてから自己ツッコミを入れますが、私がここでこんなことを書いていても、おそらくそれほどの価値は無いのでしょう。
私は長年使っているとは言いながらも、所謂「はてな村」と言われるような有名ユーザー層に所属するようなアカウントではないし、特別人に見られるコンテンツを上げていたわけでもコミュニケーションを取っていたわけでもないし、こんなことをグダグダ書いていても「知らない人。気持ち悪い。」で片付けられてしまうような気はします。
コンテンツもお金も落としてもいないアカウントですので、ある意味運営側の立場から見れば、「うるさいことだけごちゃごちゃ言って全くサービスに貢献しない面倒くさいアカウント」あるいは「フリーライダー」と言われても仕方がない気がします。
これは別に被害妄想を語っているわけではなくて、自分がサービスを利用して得たメリットと、お客さんとしての価値を第三者的に見た時、そういう風に判断されてしまっても仕方ないかな、と冷静に思っただけです。
最近、はてなブログやブクマを見ていて、「これは自分には合わないな」と思ってケチを付けたくなる機会が多くなってきたことと、でも、ケチを付ける発言力(あるいは権利)のバランスを天秤に掛けて、ああ、もう自分が楽しく見ていられる場所ではないのかな、と感じることが増えてきたことと、単なる1ユーザなのにそんなことを考えてしまうこと、考えさせられてしまうことが嫌になってきてしまったということがあって、こりゃ、私の居場所はもう無いのかもしれないな、と思いつつあるということです。
かつての掲示板サービス群から始まってブログランキングやら、SNSやら、インターネットのサービスではいろんなところでこのような文化の変遷みたいな場面は見てきたはずなのだけれども、思ったより自分の生活の大きな部分にはてブが入り込んで浸透していたことに自分でもかなり驚いていますね。
前提としてなぜ、こんなマイナーキャラの私がそこまで一、ネットサービスに入れ込んでいたのかについてちょっと語らせてください。長くてすみません。
私のはてな歴は12年くらいです。長かったらどうだというわけでは無いのですが、はてなを知ったのはまだ人力検索しか無かったころで、自分が実際にユーザーになったのは例の「日本人にはブログより日記」のちょっと後、「はてなダイアリーをはてなブログに名称変更」とかエイプリルフールネタでやっていたころです。最古参ではなくて、ブログブームの頃に「はてな界隈」を意識するようになったので第2世代くらい、ということになるのでしょうか。
その後アカウントが一回変わっていて今のIDは5、6年くらい前に取りなおしたものなので、おそらく古参ぽさは無いですね。
はてなには他社のサービスと比べてとりわけIT系ユーザーの比率が高いと思いますが、私もそうです。一貫してネット関連ですが完全な同業というわけではなく、何度か変遷を経て今は流通系事業会社のインターネット事業担当になったというキャリアです。
はてなのサービスを認識した時はちょうどMovableTypeの2.6あたりが日本でも流行りだした頃で、「Web日記がhtml無しでこんなに簡単にできるなんて!」「コメントとかトラバとかすげー!コミュニティ作れまくり!」とかっていう話題で日々興奮していたのを覚えています。90年代後半からネットは見ていたけれど、これからいよいよ「普通の人」にもオープンに普及していくんだなー、と夢描きながら仕事で、あるいはプライベートでどう活用しようか考えていたんですよ。「Web2.0」より2年前くらいのことですね。
その頃、ちょうどあるECサイトのコミュニティサービスの担当をしていたんですね。いろいろやりましたよ。掲示板サービスが炎上して閉鎖に追い込まれたり、画像著作権で揉めたり、ブログが使えるようになってからは、「ブログに商品の宣伝を書いてリンクを貼ってくれたら100ポイント!!」とかいう現代であればGoogle警察が1日でぶっ飛ばしにくるようなプロモキャンペーンもせっせこ考えては公開してました。更にその後はOpenPNEベースのmixiっぽいSNSをやったりとか。
今考えるとうわーっていう企画も多かったのですが、おおらかながら大真面目にやってたんですよ。まじめに、ライトユーザーに使ってもらうにはどうしたらいいかとか、コアユーザーがどう伝搬してくれるかとか考えてました。その頃は(ネット上のマーケティングにおいては)セグメントの乖離とかそういう問題も今ほどは研究されていなかったし、たぶん自分でもまだ十分理解できてなかったんですよね。私はそんな感じの人間です。
自分語り方面に脱線したので話を戻しますが、ブログブームちょい前の頃、世の中で出始めたブログのアカウントを片っ端から取っては試すということをやっていたんですよ。ココログ、はてダから始まって、livedoor、goo、Excite、Seesaa、Jugem、FC2、楽天、MSN、ドリコム、ウェブリブログ、ドブログ、Yahoo、ヤプログ、アメなんたら……
でですね、そのときにはてなの特異性に気付いたわけです。
なんだこりゃ、殺風景なサイトだなぁ、なんか研究室みたいだなぁ、システム屋くさいなぁ、ってのが当時の正直な印象です。まったく間違ってないと思いますが。
ダイアリー以外の他のブログサービスはだいたい大手キャリア系か、大手ポータル系か、大手ホスティング系のいずれかじゃないですか。実際仕事で関わることがあったのはそういった会社さん達だったわけだったんですけど、私個人的にはこのはてなダイアリーってやつにとても興味を持ったんですよね。
純粋にIT系オタク集団(失礼)がコミュニティで勝負するっていう構図のサービスがすごく面白いなって思いまして、当時から実際にIT系のギークな技術記事とか、濃厚なネットのいざこざとかそういうのがぐちゃぐちゃと集積されつつあって、うわぁ危険と思いながらもはてなだけは明確に識別して見に行く感じになってたんですよね。
人力検索もそうですが、アンテナとか、キーワードとか。私はネットコミュニティをやりたくてこの世界に入ってきた人間なので、人と人をつなげるサービス、というコンセプトに対して面白いことをやろうとしている人達がいるんだなーって思ってたんです。こんな殺風景な非コミュ論壇だらけのサイトなのに。なんだかそのギャップがまたすごく居心地が良くてね。よく閉鎖的って揶揄されるはてなですけど、私はそんな風に思ったことなかったな。
そう、私は村感というよりは、僻地の秘境だけどここは自由でオープンだ、っていうように感じていたんです。
今はなおさら顕著ですけど、その頃って既にインターネットサービスが外来の大手サービスに集約されつつあったじゃないですか。ブログにしたってMovableTypeもWordpressも外から来たものだし、MySpaceとか、Facebookもそうだし、その後の流れって周知のとおりって感じじゃないですか。強いて言えばmixi……はやっぱべつにいいや。
そんな中、日本のドメスティックな小さなネットベンチャーが純粋なコミュニケーションの仕組みだけで世界観を醸成して、しかも生き残るっていうことに夢を感じたんですよ。まあ、ドメスティックっていう部分について言えば、jkondoさんが渡米した時期とかあったなぁ、とかあるんですけども。
はっきり告白しますけど、私のような自分で新しいプラットフォームを開発するほどの実力が無い中途半端なネット屋にとって、超恥ずかしながら彼らはヒーローだったんですよ。jkondoさんやnaoyaさんは私とほぼ同い年ですけど、勝手に同世代のヒーローだと思ってたんですよ。
はてなブックマークでソーシャル・ブックマークという概念を身近に体験した時は「単なる『お気に入り』じゃなくて、興味を持ったものについて何時でも語り合える世界が作れるんだなあ」ってリアルに衝撃を受けたし、スターが登場した時は(FacebookやTwitterより前に)これ、シンプルだけどもしかして世界を幸せにする機能じゃね?って感動したりしましたよ。
だいたい、jkondoさんはすごいんですよ。私など勝てる要素が無いですよ。スプリントでもロングでもヒルクライムでも絶対勝てないですよ。山も強いし、みんな山手線一周1時間48分てできます??サラッと書かれてたけど、メチャクチャ速いよ!!俺も何度もやってるけど、大真面目にやっても3時間切るのだって大変だよ。明治通りや中央通りはともかく、田端駒込あたりの裏路地とかどうしてたんでしょうね。メッチャ危ないよ!!つか、あの頃の自転車クラスタみんなどこ行っちゃったんでしょうね……
何の話でしたっけ。そうそう、趣味が合いそうな人達が集ってるっていう話でしたね。
私の文章は、テキストサイトからアルファブロガーあたりまでの文章にめちゃくちゃ影響を受けていると思います。ちょっと極端なことを書いたら「フロムダ先生の真似か」とツッコまれてドキッとしたり、写真クラスタの真似をしてやたらでかい写真を並べてみたり。最近は年に一回お正月だけに現れるmk2さんの文章を見ると涙が出そうになります。長文には慣れています。必死に調べないとついていけないような技術論議や、内蔵をさらけ出して書いたような、編集が入った本では読めないようなブログを読みたいし、そういう記事でみんなが共感していく世界が見たかったんです。
はてなブログの目次記法は便利だと思うんですけど、他所のニュースサイトに貼られた記事を引っ張って目次を並べていかがでしたか?なんていう記事を、私は単純に面白く読めないんですよ。「参考になりました!」じゃねーよ!!ならねーよ!!残念すぎるだろ!!なんて思ってたんですよ。
ここまでで既に5,000文字を超えてしまいましたが、話が飛んでしまったので一旦元に戻します。
つまり、そういった「自分の好きなものを好きと言う」「好きなものを選んで、好きなものを見て共感する」という、人の本能的なコミュニケーションの楽しみの源泉のようなものを、私は求めていたんだと思います。自分の背中に正直な、泥だらけのスニーカーで追い越すような体験を期待していたんです。
もちろん、どんな時代にだって人と人のコミュニケーションにはいろいろあって、変わらないものがたくさんあるんだとは思いますよ。パソ通の時代だって、BBSの時代だって、初期のブログにだって、「読みました。記念カキコ☆」はあったし、コメント欄で交流が繋がって新たな友達ができるという興奮だってあったし。
最近のはてなだって、今、その興奮を新たに体験して純粋に喜びを感じている人達がいるはずだしそれはもちろん喜ばしいことなんですけど、さすがにこの情報過多なご時世なので、ツールと場所の管理と運営をしっかりやっていかないと、純粋な喜びを埋もれさせず、コンテンツの品質を保つのは相当に厳しいなという実感はありますね。
一般化、大衆化、というものはだいたいそうで、単純に「この村も昔は良かったのに」っておじいさんが言っているっていうような話ではないと思うんですよ。
こんなことを話している私自身が既にネット上では「古い側」の人間になっているのかもしれませんが、個人的には、「はてな村」とかって言われている界隈にそれほどイライラするような内輪感を感じたことは無いんですよね。実際にひどい攻撃的な言葉が飛んできて嫌な思いをしたことだってありますし、慣れ合いとかってのは昔も今もあるわけなんですけど、だいたいは好きなことを好きなように書いた、っていうモチベーションによって書かれた記事は、面白ければ当たるし、面白くなければ流行らないわけじゃないですか。読む側だって気に入ったら読めばいいし、気に入らなかったらスルーすればいい。だいたい、広い世界で見ればごく一部のできごとだっていう側面もあったわけじゃないですか。
だから、一定の、嘘を嘘と見抜ける程度のネットリテラシーさえあれば、海水浴場の中に浮かぶ邪魔な漂着物があっても、農耕地が石だらけで荒地になっていても、単に避ければいいだけだって思ってたんです。
むしろ、良い記事にフォローが集まったり、ひどい記事はひどい記事でそれに集まった批判が有益だったり、そうやってやり取りを応酬する中で集合知として収斂されていくという光景は、みんなで海を掃除したり、畑を耕していくような感覚を覚えていつもネットの醍醐味であり爽快ですらありました。
……でもね。最近の例の動向はちょっと様相が違っていて、私のようなユーザーにとってはもうちょっと見ているのが厳しいな、というのが本音です。商業的なまとめサイトが場を汚染している、というような話であればユーザー側コミュニティによるチェックと自浄作用が働きます。はてブはうまいことそういう機能を果たしてきたと思うんですよね。
でも、ユーザー側のほうで「良いと思ったから良いと言った」というお気に入りによるキュレーション機能が働かず、返報性の原理によるコミュニケーションが中心の場になってしまったら、今のままのはてブでは、(コメントツールとしてはともかく)少なくとも情報ツールとしての価値は大きく毀損されます。これは、ユーザーのモラルもありますが、サービスの構造上の問題として避けられなかったことだと思うんですよね。
海や畑が全部「あれ」になったら、もうどうしようもないでしょう。もう去るしかない。
この問題についてはさんっざんぱらたくさんの人に書き尽くされているのでここでは書くつもりないんですけど、小遣い目的で面白くない記事が量産される、共有のヘッドラインが専有されて他のユーザーに影響を及ぼす、内容に関係なく相互フォローする、これらは本人の意識あるなしに関わらず、関係ない人から見たら無益です。
これについてルール違反がないのならば、サービス品質を維持するための運営/システム側の構造課題を疑ったほうが良いし、ユーザー側についても、一部の炎上チャリーンで喜ぶようなやつは単なるスパムなのでこれは単純な絶対悪ですよ。
別に、ネットの世界で今始まったことじゃないんですよ。むしろはてブは牧歌的で今まで性善説でよくやってこれたなっていうレベルじゃないかと思います。Twitterでも「相互フォロー推進委員会」とかあったなあ。一方的に何百人単位でフォローしてきて、ふぁぼりまくって、こっちが反応しないと砂をかけて去っていくようなのが……
ただそういう人達がごにょごにょ楽しくやってるだけならどうだっていいんですけど、今はホッテントリが明らかに使いづらくなっていたり、更には他のSNS経由でこの界隈の記事が流れてきて反応したらおかしなことになったり、実際にそういうことが発生しだしているんですよね。これが結構精神的にくるものがあるんですよね。
というわけで、そういう一団がこのサービスのほんの数%、もしかしたら0.数%の人達であり、ほとんどの普通の人は何も気にせず普通に自分の日記を書いているんだ、てことはわかっていても、でももう気持ち的にこの界隈と一緒の世界でブログを書くのは無理かもしれない。既に古参と言われる人達がかなり去っていっているし、生き残っている人達も読者層が急激に変わっていたりとかして、なんていうか、見ててつらい。
※最近、ある有名人気ブロガーのブログを読んでいて、半年前にも同じテーマで書かれたことがある記事がホッテントリに入っていたのを見たんですけど、ふとブコメを見てみたら、半年前の記事と反応のコメントが全然違くてびっくりしたことがあったんですよ。よく見ると、並んでいるアイコンがガラリと変わっていることに気づきました。読者層が急激に入れ替わっているんですね。
この人はムラ社会に寄る人では(読者から見たイメージでは)無いし、長い人とも新しい人ともバランスのいい関係を築けていてすごいなあ、と思っていたのですが、図らずも急激に「有名人」として新規層の神輿に乗せられているように見える状態になってしまって、一方で彼自身は広告収入で儲けているようなブロガーではないし、内心複雑な気持ちなんじゃないかな、とか勝手な心配をしていたりします。そういう人、何人かいますよね。余計なお世話すぎるとは思うのですが。
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「私はブログを愛していました。毎日真剣にコミュニケーションしていたつもりです。周りにはいつもブロガーがいました。トラックバックとソーシャルブックマークで繋がっていたんです。オタクもサブカルも主義者もいたし、道化、変態もいました。ユーチューバ―のおままごとと違って、正真正銘の道化や変態です。
仕事が終わると、いつもラップトップに張り付いてアンテナをチェックしました。寸暇を惜しまずブログを読み、ブログを書きました。私にとってブログとは、自由になるための手段でした。彼らもそう思っていたでしょう。しがらみに揉まれず、率直な意見をぶつけあう空間。誹謗中傷と批判の区別のつかない人間もいましたが、自由のうちにそういうノイズが混じるのは仕方のないことです。それでもノイズを我慢してブログを続けられたのは率直に意見交換ができたからです。
ときには自分自身への囚われからも自由になれました。私は一人ではなかったからです。信頼できるブロガーからの批判になら、私は耳を傾けることができました。他者の批判は、自分自身の防衛機制を照らす小さな灯です。あまり利口ではない私と彼らでも、知恵を出し合い、意見を出し合い、一人ではたどり着けない何かをアウフヘーベンできました。私にとって、web2.0とはそういう経験だったのです。
ときに讃えあい、ときに批判しあい、ときに潰しあい、そうやってブログを楽しんでいました。土日祝日もブログを欠かしませんでした。アカウント生命を賭けた戦も何度もやりましたし、痴情のもつれがブログをクラッシュさせるところも何度も見ました。人間の最も汚い部分から最も尊い部分まで、すべてがそこにあったのです。
あなた達にはご理解いただきにくいところかもしれませんが、ほんらいブログとは自由なのです。ガンジス川のほとりのように。そして私も!彼らも!ブロガー!!だったのです!」
Yes!
Yes!
Yes!
『賛成多数、汝を戦闘ブロガーと認定する。“獰猛危険”の烙印を施した後、はてなシティ引き回しのうえ、“ゲットー”での謹慎蟄居を命ずる。今後は市民に対するいかなるコミュニケーションも許可しない。良いな?id:○○○○』
「なぜですか!私はコミュニケーションがしたいだけなのです!自由なブロガーの!ブロガーの自由をお認めくださいませ!」
『ならぬ。汝ら戦闘ブロガーは、今という時には不要な存在なのだ。命(アカウント)があるだけでもありがたいと思え』
「どうして手斧を投げてはならぬのですか!どうして討論してはならぬのですか!」
『討論など今のブロゴスフィアには要らぬ。
やれ!』
「や、やめ、ギョワーーーー」
焼きゴテが押し当てられ、男の額には“獰猛危険!”という烙印。
倒れ込み、牢に投げ込まれる男。
『市民諸君!また一人の戦闘ブロガーを適正に処分した!シティの平和は守られ、ますます繁栄するであろう!』
※この台本はフィクションです。登場する団体・人物などの名称はすべて架空のものです。