「デカルト」を含む日記 RSS

はてなキーワード: デカルトとは

2022-08-14

anond:20220814005555

いや違うな。こう生きれば楽になるとキリスト釈迦など開祖が考えた知恵の集合体科学的じゃないのじゃなくて科学自体17世紀デカルトが明証分析総合枚挙からなり合理的批判に耐えられた知識であり科学のほうが遥かにあとの時代のものだ。

昔は宗教がすべて語れると思っていたが科学で語れるもの科学で語れるから宗教から出ていっただけのこと。それでも行き方については宗教が語れるものがある。最も有意義宗教は迷って解を得たら宗教不要になるものだけどな。

仏教儒教は神の存在を前提としていない(仏教毒矢の例え、儒教怪力乱神を語らず)

その上で山上母が騙されて献金しなければ山上は高度な大学に行けただろうから人生は全く別のものだったな。

あまえんなと言う言葉は神に献身なんて求める統一協会を始めとしたクソッタレ霊感商法にこそふさわしい。ましてや少し助けを与えて、その後依存させて餌にする霊感商法が増えすぎたため、いまの時代宗教知識は本だけで学ぶべきだと思うが。

2022-07-23

anond:20220723111246

そもそもいまは心療内科+付随のカウンセリングからな。

様々な苦しみも依存症で片がつくようになってきて、該当する依存症心療内科の門を叩く形になった。

昔は正しいことの基準がなかったため、宗教権威のもと正しい知識をになっていた。17世紀聖書が正しいか聖職者が正しいかの答えが出せず、その戦争兵士デカルト科学を作って400年。

様々な苦しみも科学として正しさの指標が与えられ、依存症と言えるような内容は心療内科の薬とカウンセリング解決する時代となった。

2022-07-22

オカルトカルトだと思うけどデカルトってカルトなの?

デカルト代表的哲学に「方法的懐疑」が挙げられる。 この哲学手法は全てのものを疑い、疑わしいものを全て虚偽として捉える。これらは例えば「5 + 6 = 11」といった、一見して自明に思えるような数学的な命題に対しても行われ、このような数学命題などに対しては神(悪霊)が我々を欺いて、偽を真実と思わせているかもしれない、という理由で懐疑した。

こんなクレイジー野郎が今でもなんか崇拝されてるのおかしくない?

2022-07-20

教養」とは何か

教養を身に付けられる本を教えて欲しい。

anond:20220720124155


この問いに答えるには先に「『教養』とは何か」ということをクリアにしないといけないと思うが、これを抽象的に論じ始めると喧々諤々の議論となって、増田の「本を教えて」という望みにたどり着かない。

ブクマトラバがもうそんな状態になりつつある)

しかし、日本の「教養人」と言われる人/自称している人たちの中で「教養」の範囲は割と共通していて、だいたい以下のラインナップに自分の専門や好みを付け加えたものになるのではないかと思う。

ほぼ全員が「教養」と認めるであろう分野

(1) キリスト教

 これはもう間違いない。およそ西洋で発展した学問は深掘りすればすぐにキリスト教にぶち当たる。

ただ日本キリスト教について知識を身に付けようとしてもなかなか良い本が無いのが現状。(その辺で売ってる入門書は表面をなぞってるものばっかりなので読んでも誤解して終わりだと思う)

個人的には内村鑑三の一連の著作から入るのが分かりやすくて良いと思うが、古くて読みづらいかも。田川建三から入るのも面白いかもしれないけどどうかなぁ。

なお、「教養人」といえど聖書は誰も通読していないので、上記の本で引用されたところを拾い読みしておけばよい。

(2) マルクス主義

 ひと昔前までマルクス主義はすべての学問を包括する「グランドセオリー」と言われていて、どんな問題でも切れる便利なナイフのように活躍していた。

その残滓が今でもあって、社会科学においては今でも学生が知らず知らずのうちにマル経用語を覚えさせられていたりする。

むかしは手に入りやすくてわかりやす入門書不破哲三のものしかなかったが、数年前のマルクスブームでたくさん良い本が出ており、個人的にはデヴィッド・ハーヴェイ入門書お勧めしたい。(ただ抵抗が無ければ不破哲三著作は今でも分かりやすくてよい)

みんなの憧れ『資本論』も上記入門書の傍らに置いてちびちび読んでみると良い。そこらの難解な哲学書に比べればぜんぜん読める。

だいたいの人が「教養」と認めるであろう分野

(1) 歴史

 マルクスをやればみんな歴史がやりたくなる。マルクス主義史観学校で習った日本史/世界史に当てはめて、その切れ味を試したくなるからだ。

好きな時代や分野をやれば良いと思うが、「教養人」はみんな網野善彦と遅塚忠躬の著作が大好き(偏見)なので、ぺらぺらめくっておくと良いだろう(マルクス主義史観の多少の解毒剤にもなる)。

ウォーラーステインも読みたくなるが、長すぎて誰も通読していないので、川北稔のアンチョコを読んで、読んだふりをしておくと良い。

なお、第二次世界大戦については最近川田稔昭和陸軍全史』という誰でも読めるすばらしい本が出たので、知ったかぶりができなくなった。

(2) 文学

 文学となると何を読むか、ということになるが、サマセット・モーム先生が『世界の十大小説』というすばらしいアンチョコを出しているのでまずはこれを読むと良い。

そこで採り上げられている小説のうち、『カラマーゾフの兄弟』と『戦争と平和』は「読まなければ人ではない」という風潮があるので、せめて読んだふりはできるように。キリスト教知識がここで生きてくる。

日本小説では、夏目漱石についての柄谷行人の論考を読んで、日本近代について一席ぶてるようにしておこう。

それと『失われた時を求めて』はとりあえず買って挫折するのが大事

(3) 哲学

 わが国では哲学について昔からデカンショデカンショ半年暮らす、あとの半年寝て暮らす」という有名な言葉があり、デカルトカントショーペンハウアーが昔の「教養人」の必須科目となっていたらしい。

ただショーペンハウアーがここに入っているのは少し不思議で、今ならニーチェが入るのではないかと思う。

どうせ正確な理解なんて無理なのだから適当アンチョコを読んで知ったかぶりができるようにしておくと良い。

なお、なんか知らんが日本人はヘーゲルが大好き(な割に誰も理解していない)なので、一応挨拶だけしておこう。

教養」として挙げる人が一定数いる分野

(1) 法律学

 「教養」として名前が挙がることが多い一方で、まともに条文を運用できる人がほとんどいない分野。

上述してきた分野と違って、本を読むだけではだめで、指導教官のもとで実際の事例にぶち当たってトレーニングを積まなければならないので難しいのだろう。

下手に基本書を読んでも本職に知ったかぶりをすぐ見抜かれるので、時折ネットで話題になる法律問題について法曹解説を読んで都度勉強すると良いだろう。

(2) 中国思想インド思想(仏教含む)

 ここまで挙げた学問はいずれも西洋で発展したものなので、「日本にはなんもねぇのか」という気分になってくる。

こうした「教養人」が抱えるコンプレックスについて内田樹が『日本辺境論』という本で書いているので、ちょろっと見ておくと良いだろう(Amazonで1円で売っている)。

ここらで本居宣長とか丸山真男とかを読み出す人も多いのだが、どうせ不毛作業になるので、視野を広げて中国思想インド思想辺りに目を向けるのが良い。

個人的には森三樹三郎の著作が分かりやすくて良い。

(3) 自然科学

 「教養人」というのは大概文系であり、自然科学についてはからっきしな奴が多い。

自然科学話題になると、トーマスクーン科学革命構造』をそれらしく引用して逃げ切りを図る人が多いのだが、本職に馬鹿を見抜かれるので素直に勉強しましょう。

ヨビノリをはじめとした学習コンテンツYouTubeに転がっているので、せめて高校数学物理ぐらいはやっておかないといけない。

人によっては「教養」として挙げる分野

(1) 詩

 上述してきたような分野をやっていると、唐突に詩が登場したりして困惑する場面が多々出てくる。

論理的(笑)な「教養人」の中にはこれを不得手として敬遠する人が多いのだが、どこかで対決しなければならない。

幸いなことに最近詩人渡邊十絲子という人が『今を生きるための現代詩』という詩についての分かりやすい概論を出したので、一読した上で適当な詩のアンソロジーでも買ってくれ。

(2) 映画

 なんか知らんが「教養人」は映画好きな人が多いので、ある程度は観ておかないといけない。

イギリスエンパイアという雑誌が「史上最高の映画500本」という特集をやっているので、上から適当に観ておけば良い。


 とりあえずこの辺を押さえておけば周囲からは「教養がある」という認定を受けるのではないかと思う。

ただ教養があったとしても「教養人」からマウントを取られる可能性が低くなるだけであり、「他人との会話が盛り上が」るなんてことはまず無いから気を付けて呉れ給へ。

2022-07-17

anond:20220717110205

いや?外形的に金の動きと他人への勧誘を抑えるしかできないだろ。加えて、カルト宗教なしでも救われるように金銭公助と、精神医療につなげること。

科学が馴染むような振れがすくなかったり、統計処理できる案件じゃないんだから

キリスト教聖書が正しいかプロテスタント)、聖職者が正しいかカトリック)にすら解を出せずに大戦争となった。最もその戦争従事した兵士デカルトで、明証分析総合枚挙からなりと、合理的批判に耐えられた知識は正しいと科学を作ったが。

でもデカルトでもプロテスタントカトリックかどちらかには答えを出せてない。

2022-07-10

anond:20220710154226

多分そこら辺のものをみても仏教儒教に比べたら対してないといえるけどな。

そもそも1200年前に仏教習合して、さら儒教も混ざってちゃんぽんになったのを、ドイツを真似て強引に国家神道として天皇を中心とした宗教を作っただけのこと。

まあ今の御時世仏教儒教神道も、それこそ偉人言葉ちゃんぽんになって、ただ、周りの様々なもの相互作用して生きて行くとそれだけのこと。

僕はデカルトの神の存在証明の逆バージョンとしての神だから。世の中の現象抽象的に扱うために仮定した存在が神だと。

anond:20220710150144

普通のことだぞ。

ちなみに、僕の神というのは、デカルトの神の存在証明である「この世は何かが作ったかのように精密に見えるから神は存在する」を逆にみて「何かが正確に動いているもの抽象的に扱うための存在を神と呼んだ」

から宗教団体にいってそれを崇めることにはあまり意味を持っていない。程よく逃げて休んで判断力取り戻してどこを進んでどこを逃げるか判断していくだけだ。

一休宗純の「世の中は起きて稼いで寝て食って 後は死ぬを待つばかりなり(逆にそれ以外は些細なこと)」の気持ちでもあるな。

2022-07-09

anond:20220709133056

理性哲学だけではどうにもならないよ。

聖書が正しい(プロテスタント)と聖職者が正しい(カトリック)の戦争従軍した兵士デカルトが明証分析総合枚挙からなり、合理的批判に耐えられた知識は正しいとう新しい正しさを作った。

しかし振れが多いと明証がすぐにはできない。統計を使って振れを踏まえても明証をしようとするが、統計がなじまない個体差が多い問題には対処できない。

から自分が正しいから正しいという余地は残しておかないとならない。問題はつかれると判断力が落ちるというのと、判断力が落ちたやつに誤った「自分が正しい」を教え込む連中はいる。それがカルト

今の時代宗教団体に属する意味は無い。しか宗教の知見や過去の人歴史は多く学んでおいたほうが良い。その上で、判断力が落ちる状態にならないようにしないとならない。

2022-05-23

anond:20220522211634

デカルトは徹底的な懐疑の果てに「我が思うことだけは懐疑できない。だから自我だけは確実に世界存在する」と言った、これが独我論だが。

科学の発展と、またデカルト批判の果てに見えてきたのは、デカルトの考えとは違って、普通に「我思う」ことも懐疑できるということだ。

独我すら存在しないかもしれなくて、それは誰にも証明できず、故に独我論世界への懐疑は空虚である

2022-01-03

THE WORLD WAS MINE.

"THE WORLD IS MINE." 誇張なしにそう思っている。

自分が何か優れた人物ではないということは自覚している。

高校大学会社 どこにいっても自分より優れた人間には常に触れてきた。

能力の優劣だけではない、共感性、倫理観義務を全うする精神など社会的に求められる要素が一部自分に欠けているということも理解している。

しか能力が劣っていようとも、社会的必要な要素が欠けていても、それらは何ら問題ではない。自分認識する世界を最終的に律するのは自分認識だ。

自分認識する世界において自分特別となるのはなんの能力裏付け必要でない、と少しひねくれたデカルトのように考えていたわけだ。

このような自分性格自覚的になったのはここ数年のことだ。

社会人になり金銭的・社会的にも余裕が出来た状態でふと思索をめぐらす機会に恵まれ一般的人間より思考する際に自分認識に重い比重をかける傾向に気づいた。

例えば自分基本的社会的・暗黙的ルールを守ることが多い。

しかしこれは "ルールがあるから守る" と考えているわけではなく "俺様ルールを守ると決めたから守る" と心の中では思っているわけだ。

そのルールの成り立ちや必要性を理解共感しているわけではなく、"自分が守ろうと思ったかルールを守る" と考えているわけだ。

価値判断が極めて自己中心的なのであるしか結論として下される判断標準的判断と大きく外れていなければ端から見たらわからないだろう。

そしてこのような傾向は大なり小なり人間にはあるものなので程度の問題だとこれまでは流してきたわけだ。


さてここで終わればいつも通りの年がまた始まったのだが、年も開けたことだしと "2021年 匿名ダイアリーTOP200" を読んでいた所 "自己愛パーソナリティ障害" という言葉を目にした。

端的に言えば自己を極端に賛美、特別視するような人格を指す言葉のようだ。

これはまさしく自分の症状そのものであると思う。大なり小なり人間に備わった傾向だと思っていたが、それも極まると病気と判定されるようだ。

最初に "自分が何か優れた人物ではないということは自覚している。" と表現した。

これは一見自己愛パーソナリティ障害とは矛盾するようであるがそうではない。

自分が何か優れた人間でないというのは、蓄積された経験から導きだされた経験的推論だ。(そして残念なことに事実でもある。)

この事実理解は出来ている。しか共感あるいは自分で受け入れることは出来ていないのだ。

論理的にはその事実を導き出したものの、その事実を認めることは出来ていないのだ。

からこうしている間にも心の奥底では "自分には何かとてつもない才能が眠っているはずだ。" と思い込んでいる。

これが回り巡って、何を考える際にも "自分はどう認識しているか?" というステップを挟み込むことになり、自己愛パーソナリティ障害となるわけだ。


病気であることはわかった。病気であること自体別によいのだが(← ここでも既に自己中心的価値判断が発動している)、この性格により自分が損害を被ることはないかと改めて考えてみた。

ひとつに、自己中心的価値判断が標準を大きく外れた際に、標準的判断修正する速度が極めて遅くなるというのが考えられる。

損害を回避するには下記のどちらかが必要になる。

病気を治す

自己中心的価値判断標準的判断と同一にする

気取った言い方だろうか?端的に言えばこうだ。

・ 腐った性根を治す

・ 間違えない

整理したうえで思い返してみれば、これに該当するような指摘・注意は人生で 2 度受けたことがある。大学生、社会人でそれぞれ 1 度だ。

指摘をまとめると、 "最初自分で出した結論固執する傾向があり、アウトプットの質に問題がでていることがあるのではないか" ということだった。

その時は確かこう答えた "自分最初の出した結論固執するのは性格なので治りません。なので最初に出る結論が間違えないようにします。" と。

結局時間を惜しまずひたすら知識経験を詰め込むことで当時の問題は解消して、指摘を賜った人にも "大きく成長した" という風な言葉を頂いた。

しかし腐った性根はそのままだ。


圧倒的なインプット経験により、標準的な(適切な)価値判断自分エミュレートし続けられれば理論上は問題は発生しない。

しかしそれが死ぬまで続けられるほど才には恵まれていないこともわかっている。

そろそろ腐った性根を治す時期が来たのかもしれない。

2021-08-08

三次元で抜けなくなった

おっす俺アラサー(34)。

小学校で教わった「オナニー」という言葉意味オヤジパソコンで調べて以来かれこれ24年間ソロ活動

小学生当時の俺にとっては18歳(自称)のAV女優であっても肌のきったねえオバサンだったのでもっぱら二次元でシコった。

たまに気まぐれで三次元でシコることもあったが、基本的には二次元でシコってきた。

今までのオナニーの回数を雑に「365日*24年/2日おき」で計算すると8000~9000という所だが、そのうちチャンポンも含めて三次元でシコったのはせいぜい500。

純粋三次元だけでシコったのは200もないはずだ。

俺のチンコ二次元をシコる対象とみなし、三次元あくまで二番手とみなすように調教されてきたと言っていい。

最近性欲が衰えてきたのか、ついに三次元で全く興奮しなくなった。

素人自撮りは肌の汚さやカメラワークの雑さが見ていられないし、女優男優の演技が棒すぎるのもアニメばかり見てきて身にはキツイものがある。

特に若くて可愛いだけの三次元女優は演技を一切しなかったりやたりわざとらしかったりで股間に訴えかける物が少ない。

30すぎているような女優と比べると肌が綺麗に見えるが、二次元と比べればサメトカゲのような革っぽさすら感じてしまう。

静止画場合三次元場合は単なる写真しかなく、二次元ポルノが持つキュビズム抽象画のような時空を歪めながら性欲に訴えかけようとする趣が一切ない。

そもそも文化が違っていて、三次元エロというものはある種の盗撮趣味のような世界の上に構成されているのだろうが、私の股間はそういった覗き見だとかリアリティだとかいったものに対して興奮するようには出来ていないらしい。

結果、私は三次元で抜くことが出来なくなった。

こないだ試しにDMMで人気上位のエロ動画サンプルを順繰りに見ていったが、どれも私を興奮させることは出来ず息子は下を向いたままだった。

人生とは積み上げてきたもの、味わってきたものによって構築される。

誰が最初に言うでもなく誰もが自然と知ることになる人生本質である

これは性癖にも適用される。

二次元で抜き続けたもの二次元で抜き続ける。

慣性の法則

性欲とは刷り込みによって構築され、刷り込みによる性欲の構築こそがフェチズムの本質であるデカルトフロイトユングサドマゾ?)は言ったらしい。

まり、そういうことなんだなあ。

俺のチンコはいつの間にか三次元を「シコれないもの」として感じるようになってしまった。

2021-07-13

善悪二元論は興味ないけど、物心二元論デカルトから始まっていまだに解決できてない。科学進歩した結果、脳科学などを用いて人間精神物質観点から解釈できるようになったけど、やはり精神存在はどうなるのかという問題は残ると自分は思ってる。神なき時代物質精神の融合は可能なのか。

2021-07-08

anond:20210708100100

デカルト「は?この世界のすべてが存在しないとしても俺は存在するが?」

2021-06-30

anond:20210630001444

時々思うんだけど無神論自明考える人たちは神の実在だけでなくデカルトのように人間実在も疑ってみるべきなのでは?

「我思うゆえに我あり」という有名な言葉が示すところは、人間にとって自明なのは自分自身実在だけだということだ。

他人実在すると信じられるなら神もまた同じくらいのフワフワした理由実在すると信じていいかなと俺は思うんだよな。

2021-05-31

反出生主義と神とフロイト

まとめ


デカルトから始まる近代的自我

デカルトといえば有名なのが「われ思う故にわれあり(コギト)」。ここから近代的自我が始まった。

あらゆるものを疑ってかかったとしても今思考している自分のこの思考自体存在否定できない。

よって思考している自分存在している。



自我というもの存在確立したデカルト三段論法西洋に影響を与えまくったが、特に注意しなくていけないのは神の存在を使わなくても自我存在規定できるという点だった。

でも実際のところデカルト自体はコギトから神の存在証明を行っている。神の存在証明する時代要請があったのだけれどそれについては後で触れる。

フランス革命と神の死

時代は流れてフランス革命が起こり国民国家誕生する。国民国家誕生すると神が死ぬ

どういうことかというと、それまでの王による国の支配がどういう理屈正当化されてきたのかということを説明する必要がある。

王権神授説」というやつだ。それまでの王族による支配権は神が王に与えた権利だった。

神がこの世界を作って人間も作ったのだから神には人間支配する権利がある。王は神に権利を与えられたので国民支配する権利がある。



中世神学者たちが大真面目に神の存在証明に邁進した理由がこれでわかるが、

彼らは頭の体操をしていたのではなく、国家の礎として必要公共事業として神の存在証明し続ける必要があったのだ。ご苦労さま。

ところが、王が打倒されて国民自分たちの代表によって自分たちを支配する国民国家が生まれると、神は必要なくなる。

これがいわゆるかの有名な「神は死んだである

そして神に変わったもの国民自我と理性のみとなり、国民は唯一絶対ものであるそれらによって自分自身の足のみによって立つことになる。

これにて「近代的自我」いっちょあがりだ。

神と反出生主義になんの関係が?


神が存在すると反出生主義は成り立たない。

なぜなら人間が生まれてくるのは神が「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」といったからだし、日本で言えばイザナキ神が妻ともめて「いとしい妻よ。あなたが千人殺すなら、私は、一日に千五百の産屋を建てよう。」といったためだからだ。

これには同意意志確認も入り込む余地がない。

神様が決めたことだから仕方がないのである

なので神がいる前提だと反出生主義は成り立たない。

フロイトによる無意識発見


更に時代は進みフロイトが登場する。

フロイトといえば精神分析だが、あとで精神分析手法全然間違ってたということがわかったせいで、その功績についても一般的には忘れられている気がする。

フロイトの偉大な功績は2つあって、1つ目は「精神科学まな板の上に載せたこと」それ自体

2つ目は今回話題にしたい「無意識発見」。

フロイト夢分析過程人間が表層意識には浮かんでいない、既に忘却している過去トラウマに影響されて現在の行動を選択していることに気がついた。

患者自身自分理性的に考えて選択した結果だと思っていても実は意識に登ってきていない「無意識」によって人間の行動や症状が変化する。

これはすごい発見だった。それまでは人間の行動は意識、つまり自我コントロールしているとされていたのだから

フロイト無意識の例で言うと、チャップリンの「ライムライト」という映画がある。

あの映画オチヒロインは忘れていた過去トラウマを思い出し、それを乗り越えることで身体的な症状も克服する。

これはフィクションだし、ちょっとフロイト的すぎるので、もっと卑近な例を出すと、

犬が苦手だなあと思っていたら、実は記憶にないくらい小さな頃に犬に噛まれたことがあった、とか

梅干し写真を見たら、「梅干しをこれから食べよう」と意識しなくてもつばが出るとか(パブロフの犬)。

映画映像の途中で肉眼では認識できないように一枚だけコーラ写真を入れておくと映画館でコーラの売上がのびるだとか(サブリミナル効果)。

こういう感じで無意識人間の行動に大きく影響を与えるということは、今では常識にまでなっているけれど、これを言い出した始めの人がフロイトというわけだ。

フロイト原始的欲望とかが無意識の正体だと考えてなんでもそれで説明しようとして失敗したわけだが、(夢分析の本とか何でも性欲で説明しようとしていてやばい)。フロイトの後続の研究者たちは無意識概念さらに発展させていった。

不随意運動からエス

表層意識に上らないのに人間の行動に影響を与えているもの、といえば「不随意運動」だ。

たとえば、眩しい光みたら瞳孔が小さくなるとか、膝を叩いたら足が上がるとかが有名だけどそれだけじゃない。

心臓が動くのを意識して止めたり動かしたりできる人はいいから鼓動も不随意運動には入る。

呼吸も意識すれば止められるけど意識しなくても止まるわけじゃない。意識しているとき随意運動意識していないとき不随意運動といえる。

表層意識には上らないのでこれらも無意識だ。

ところで人間意識は脳の一部である大脳新皮質で起こっている反応であることもわかってくる。

脳のその部分以外で起こっているこのと大半も無意識下で行われている。細胞代謝とか。

さらさらに、全ての行動に当てはまるわけじゃんないみたいだけど、「人間がある行動をとろうと表層意識で考える一瞬前に、既にその行動を取るためのニューロンが発火している」なんて話も出てくる。

さてそうすると、どうなるかというと、人間自分意識自分の体をコントロールしているという考えは実は間違いで、人間活動の大部分は無意識コントロールしていることになる。

意識が肉体(無意識)をコントロールしているという従来の主従の逆転がここで起こっている。

ここまで来ると「無意識」を拡張しすぎて「無意識」ってなにって話になってしまう。細胞代謝のことを「無意識」という言葉でまとめるのは違和感があるから

ここでいいたいのは「表層意識下に上らないすべてのもの」みたいな意味であり、一般的言葉の「無意識」とはちょっと違うものになってしまうので哲学者はこれに「エス」とかい名前をつけた。

なんでコギトが間違ってるのか


意識ではなくエス人間の行動を決めるのである。というか人間が何を考えるのかもエスが決めているといえるのだとするとコギトがおかしなことになってくる。

「われ思う故にわれあり」ではなく、「われ思わされているゆえにエスがある。われはあるかどうかわからない」に修正しなければならない。

反出生主義は全てを理性で説明しようとしすぎる


反出生主義の理屈を雑にまとめると、

「生きるのは苦痛である苦痛でない場合もあるが生んでみないと分からないのでいわばギャンブルである

「生まれる際に両親は子に生まれてもいいかという同意を取っていない」

「よって生むのは無責任であり生むべきではない」

理屈の通った三段論法に見える。

しか人間の9割は無意識下の存在であることを踏まえて見ると、見え方が違ってくる。

第一登場人物である「子」は産まされるという受動的な立場ということになっているが、同意を取るべきタイミングには意識存在しない。つまり無意識である

無意識相手に無理やり生まれることを強制するのかと反出生主義者はいうのだが、これまでの議論無意識エス)こそが人間の大部分であることをこれまで延々と説明してきた。

で、重要なことはその「エス自体は生まれてこようとする方向性を持っている、ということである

今だに現代人は意識がなければ何も決定することはできないと思っているが、むしろ無意識が先にあって意識が後から形付けられたといえる。そして人間の肉体の不随意運動は生き残ろう、という方向で行動を起こす。

精子の蠕動だって不随意運動だし、卵子排出だって不随意運動なのでこれらはエスである

胎児は産道を通るとき自分の体をねじって頭蓋骨を変形させながら外に出てくる。生まれてこようとする意志がそこには感じられるが、もちろん意識自我もない。

だがそれらの反射が自分自身ではない、というのもおかしな話である

それらはエスであり、自分自身である


それらが全て生まれてこようという方向に方向付けられているのに、「本当は生まれてきたくなかった」というのはどういうことなのだろうか。

自意識肥大化


自意識、理性を過大に評価するのが現代人の病巣であってこれは単に、いまだにデカルト呪いがとけていないのだと思う。

「生まれてこないほうがよかった」という人間だって、それはそれで大変な状況なのは間違いないのだけれど、ひざを叩けば足が上がるし、急に熱いものに触れられたら自分を守るために手を引っ込める。

生きたくないとか言うけど呼吸は止められなければ、心臓勝手に動いている。

体中の細胞栄養を取り込んで代謝をせっせと行っている。

どう見ても肉体は生きようとしている。

やっていることと言っていることが違う。

でも不思議なことは何もない。自意識なんて人間のほんの一部でしかいかである

自己境界定義自我から少し広げることをおすすめする


自己定義自我に狭めるべきではない。それは単にその方が精神衛生上いいというだけの話ではなく間違っている。

エス定義自意識に上がらないすべてのものと書いたが、哲学者によるとこれはつまり自我」以外の「世界全て」のことを指すらしい。

流石にそこまで悟ることは難しいが、自己定義自分不随意運動、や無意識の習慣程度にまで広げておけばデカルトの作った罠にはまらないで済む。


哲学やっとこうぜ


若いうちに哲学やっとくといいよ。

2021-05-27

ホロコースト否定論活動をやってて陰謀論者に思う事。

またお前か、って思われるだろうけど、滅多に増田に書かないから許して。

 

「要するに凄まじい馬鹿ってこと」

私が言ったんじゃないのです。ネット情報を拾い集めている最中に、私でない反ホロコースト否定論ぽい意見を見つけて、その人が言ってたのです。その人曰く、いろんな証拠を示しても、例えば「イェーガー報告書」というリトアニアでのユダヤ人虐殺を報告する文書があるのですけど、あるネット否定派はこう言ったそうです、「そんなものタイプライターがあれば捏造できる」って。

イェーガー報告書って、旧ソ連が持ってたのですけど何故か、ニュルンベルク裁判には提出されなかった証拠でして、1963年になって初めてドイツに公開されたものなのです。なぜそんなに遅くになって? というのは、詳細は知りませんけど、一説によれば旧ソ連って特にスターリン時代がそうなんですけど、「ユダヤ人虐殺された」って主張するのを嫌がったのです(なのでアウシュヴィッツ博物館犠牲者数400万人を刻んでいた石碑には、ユダヤ人とは一言も書いていませんでした。現在の石碑は冷戦後修正されて150万人(ユダヤ人犠牲者数は110万人)になっています)。イェーガー報告書はまさにそのユダヤ人を集中的に殺戮して、「ユダヤ人もっと殺したかった」のようなことまで書いてある報告書なので、旧ソはあまり出したくなかったのではないかと。そうした出自を考えれば、捏造される事はあり得ないのですが、否定論者にとっては非常にまずい報告書なので、どうにかして捏造ということにしたいわけです。

イェーガー報告書|蜻蛉|note

しかし、いくら何でも「タイプライターがあれば捏造できる」とか、めちゃくちゃにも程があります。そんなこと言い出したら、世に存在するありとあらゆる文書捏造可能性があり信用出来ない、とまで言えてしまます。これでは、デカルト方法的懐疑でやった「悪魔に騙されているかもしれない」レベルにまで至ってしまい、議論にすらなりません。

 

ホロコースト否定論陰謀論

こちらのチャートでも堂々のトップ領域入りを獲得しています

ネットで話題の「陰謀論チャート」を徹底解説&日本語訳してみた | ハーバー・ビジネス・オンライン

「我々は(陰謀組織に)騙されている」のようなのが陰謀論の一つの特徴ですので、ホロコースト場合連合国であるとかユダヤ人であるとかですから、十分すぎる程陰謀論です。ちなみにですけど、よくある「でも600万人は多すぎだろ、絶対盛ってるに違いない」と言った主張も陰謀論に含まれます。何故なら、600万人説は純粋調査組織研究者たちが独立して調査した値で、それら値が概ね同じになってるだけだからです。これも素人なりに調べているとわかります。大体で少なくとも500万人以上はユダヤ人犠牲者がいないと計算が合いません。何れにしても、「盛ってる」ならば、そうした研究を裏で操っている(私もか?w)人がいるという示唆なのですから、結局それも陰謀論になってしまます。「盛ってる」的批判戦後割とすぐぐらいか予測済みだったようで、ジェラルドライトリンガーという1950年代研究者は、可能な限り低く見積もって450万人程度のユダヤ人犠牲者数を主張しました。

ともかく、ホロコーストには裁判でも膨大な証言もあります証拠文書なども提出されてますし、裁判以外でも同様に証言証拠などもあるので、それらを全部否定しないことにはホロコースト否定は成り立たず、結局、陰謀見立てなければならなくなります。そうするととんでもない話になっていきます

 

ホロコースト否定荒唐無稽なほどの陰謀

これの例を挙げると本当にキリがないのですが、例えば、ユダヤ人世界人口の推移を見ると少しわかります

1880 7,800,000

1900 10,600,000

1914 13,500,000

1922 14,400,000

1925 14,800,000

1931 15,700,000

1939 16,728,000

1945 11,000,000

1948 11,500,000

1950 11,297,000

1955 11,800,000

1960 12,079,000

1970 12,585,000

1980 12,819,000

1990 12,868,000

2000 13,150,000

2010 13,854,000

2018 14,606,000

2019 14,707,400

Vital Statistics: Jewish Population of the World

ホロコースト否定論者によれば、ホロコーストの600万人ユダヤ人虐殺は起きていないので、今もなおこのユダヤ人世界人口捏造されているという話になってしまます。確かに、この値は研究者によって調整されたものであり、1945年などは特に終戦年でもあってセンサデータなどありませんから戦前の値からユダヤ人消失数の推定である約600万人程度を差し引いて、切りのいい1100万人にしている可能性がありますが、1947年くらいからはセンサスが始まっており、それらの調査データを用いていると考えられるので、このように2019年に至っても戦前人口回復していないのであれば、延々と捏造がなされていることになってしまますグラフ化すると何を言っているのか一目瞭然です)。

戦前の値は、戦前書籍などに記述があるため、ホロコーストが起きていない時期の人口数は捏造のしようがありません。さらに実際には、ユダヤ人世界人口は細かい国や地域ごとの値を積算したものであり、ユダヤ人世界人口捏造しようとするとそれら細かなデータ整合性を取る必要があり、不自然人口推移にならないようにしなければなりません。例えば、アメリカユダヤ人人口戦後に一気に500万人減るなどという事は不自然過ぎてあってはならないわけです。しかも、ユダヤ人人口の細かな数値は、各地のシナゴーグやあるいは役所が持っていたりするので、それらの辻褄さえ合わせなければならなくなり、はっきり言って人口数値合わせの陰謀だけで気が遠くなります

なお、古くは一部のリビジョニストが「ユダヤ人ソ連に囚われている!」とバビロン捕囚のように言っていたようですが、冷戦が終わってもそれらユダヤ人は全く現れませんでしたので、残る主張は「ソ連が殺したんだ!」となりますが、もちろんそんなの何の証拠もありません。付け加えると、もし仮にそうした主張の通りにソ連ユダヤ人を隠していたのなら、「ユダヤ人を隠していた」のですからそもそも人口数値は捏造されておらず、発表されてきた人口数値は普通に合っていたことになります。ちなみにソ連普通に住んでいたユダヤ人戦後にどんどんイスラエル移住が進んだのは周知の事実であり、人口推移的にも完全に裏付けられていて不自然な点は全くありません。

ホロコースト否定派の大難問:一体ユダヤ人はどこに行ってしまったのか?|蜻蛉|note

こうした証拠がらみの荒唐無稽捏造話もあれば、どうでもいいようなところにまで捏造は行き渡っています。例えば、私は『アウシュヴィッツの子供たち』という本を持ってますが、これはアウシュヴィッツ奇跡的に生き抜いて生存者となった何人かの子供の足跡を追って本人にインタビューするなどしてまとめた本ですが、ごく普通にガス室」の話が書いてあります子供たちだった人たちは普通に色々な形でガス室の話をするのです。ホロコーストに関連する本を出版する際には、ユダヤ人陰謀組織のチェックを経て「ありもしないガス室の話」を記述するように変更を迫られるのでしょうか?

あるいはまた、戦時中に、アウシュヴィッツ司令官だったルドルフ・ヘス告発したある文書があるのですが、ルドルフ・ヘス囚人女性の一人を愛人として収容所内に囲っていた、というものでその話は非常に下衆なのですけど、それはさておき、その文書の中にたった一箇所だけ「ガス室」の話がサラッとフツーに出てくるのです。その囚人女性が他の囚人と混ぜられてガス室送りにされそうになった、という話なのですけど、別にガス室証明する証拠資料でもなんでもありません。そんな細かいところにまで陰謀組織は目が行き届いているのでしょうか?

アウシュヴィッツの様々な議論(18):ルドルフ・ヘスの不倫・愛人問題と戦時中に書かれた「ガス室」。|蜻蛉|note

あと、今思い出したのですけど、ニュルンベルク裁判以降も、ナチス犯罪関連裁判は近年まで数多く行われておりますが、ガス室否定した証言者や被告は一人もいないのです。「知らない」と言った人はそこそこいますが、「ガス室などなかった」と言った人は本当に一人もいません。例えば1960年代に当時の西ドイツで行われたフランクフルトアウシュヴィッツ裁判がありますが、250名以上の証言者や被告が出席して、ガス室否定した人はゼロなのです。99%が伝聞ないしは直接目撃者として肯定的証言しており、残りが「知らない」だけなのです。これも、否定論者によれば陰謀だと思いますので、多分全員が脅迫されているか金もらってるかだと思われます。もちろん積極的証言した人たちの話が辻褄が合うようにきちっと細かくサポートされているでしょう。そしてそうした陰謀者の働きが暴露されたことはこれまでないので、陰謀組織は素晴らしい働きをしていることになります。一体それどんな凄腕陰謀組織???

アウシュヴィッツのガス処刑を否定した人は当時の関係者にいるのか?|蜻蛉|note

というわけでホロコースト否定論者のいう通りであるならば、こんな荒唐無稽陰謀話が数限りなくあることになってしまうわけです。否定論者にとっては600万人虐殺や、ガス室絶対になかったことと決まっているので、それらの全てについてこうした荒唐無稽陰謀蔓延さなければなりません。しかし、ホロコースト否定論者はその荒唐無稽さを言い立てることはありません。陰謀から全ては可能!なのでしょう。

 

ネットホロコースト否定派の特徴

えー、例外なく、陰謀論者でした。出会った全員に確認したわけではありませんが、確認が取れた人は全員、反ワクチン派、または、9.11テロ陰謀、または、例の大統領選不正なのだそうです(どれか二つ以上です)。流石にフラットアース信者はいませんでしたが。

で、それ以外の特徴としては、その全員が、非常に自意識過剰というか、尊大な態度を取られました。どう考えても、自分でこう言っちゃなんですけど、明らかにホロコースト関連議論では私の方がはるか知識豊富なのは明らかなのに、私をバカ扱いするのです。もちろん私の妄想が入ってるとは思いますが、どう考えても、ディスプレイの向こう側でニヤついている否定者の顔しか思い浮かびませんでした。ある人は、コロナワクチンについて「君はあんなの打つ気なのか? バカじゃないの?」とまで言い放ちました。打つ・打たないがその人の価値を決めるわけではないと思いますが、私は正直内心で「じゃぁさっさとコロナに罹って治療も受けずに死ねばいいのに」とまで思ってしまいました。その人は例外的かもしれませんけど、あの陰謀論者の独特な上から目線は、他のタイプの論争議論では見られないものです。昔ですけど、ある有名な新興宗教信者とやり合った経験がありますけど、それと似ています。どうやら彼ら・彼女らにとって「陰謀」こそ宗教なのだと思います。彼ら・彼女らにとっては「陰謀」への揺るぎない信仰があるので、自分たちは絶対に間違っていないという確固たる自信を保てるに違いありません。

 

そんなホロコースト否定者さんたちは、あなたの知らない世界かも知れませんが、欧米ほどではないと思いますけど日本人にもめっっっっっっっっっちゃ多いですよ。

おっと、特徴で言い忘れてはいけない。ホロコースト否定者って「凄まじい馬鹿であることは疑いようがありませんです、はい増田にも何人かいる、と思われますケド。

 

迷惑がられているホロコースト否定

実際そうなんです。否定ではなく普通にホロコーストそれ自体に興味を持つ人は結構いらっしゃいます。やはりそれなりに人気コンテンツ的なテーマからでしょう。ですが、必ずと言っていいほど、例えばYouTubeホロコースト関連動画があると、コメント欄否定者のコメントがつきます。酷い時には大半が否定者のコメントになったりします。『否定と肯定』の予告編動画なんかがありますけど、かなり酷いですよ。Youtubeにはそうした人向けに人気を博している『ホロコースト論争』なる否定論そのもの動画チャンネルもあり、これがまた素人目には良くできてるように見えてしまうので、もしかして一定程度否定者を増やしている気配があります。内容は酷いんですよ、実際。欧米では使い古された否定論の焼き直しみたいな構成しかなくって、オリジナリティの欠片もありません。でもYouTubeですからねぇ、信者がつくんです。ちなみに私は、いくつかコメントしましたけど、動画主にコメントブロックされてしまいましたw

 

ともあれ、そうした状況のコメント欄にはちらほら「否定論酷いなぁ」的コメントをする人も見かけますAmazonプライムに『アウシュビッツ ナチスホロコースト』ってBBC動画シリーズがあるんですけど、そこに秀逸な修正主義レビューに対する反論レビューがあって、今のところ「参考になった」数でトップを走っていますAmazonレビューあんな長いレビューたことないですけど、修正主義的レビューを完全に論破しているという興味深いレビューです。「参考になった」数でトップってことは、それくらい修正主義的レビュー迷惑がられてるってことだと思いますTwitterで流れてきたあるツイートには、「修正主義が完全論破されててスキッとした」というコメントさえ見たことあります。同動画レビュー欄にも「修正主義のレビューAmazon責任を持って削除すべき」とレビューする人もいます

 

私自身は、言論の自由が保たれている方がいいと思っているので、あっても別に構わないと思ってますけど、日本ホロコースト情報があまりに少なすぎるのとあまり関心がないのとが合わさって、申し訳ない言い方だけど、無知な人が大半なのである程度は否定論に傾倒してもやむを得ない面もある気もします。でも、ちょっと知るだけで、ホロコーストへの懐疑がどれほど荒唐無稽なことであるかがわかるので、少しは勉強して欲しいなぁと思ってます。舐めんなよ!ホロコーストを!どんだけ膨大な情報量だと思ってんだ!どんだけ学んでも知らんことだらけじゃ!ゴルァ!ってなもんです。

 

せめて、中公新書の芝健介氏による『ホロコースト ナチスユダヤ人大量虐殺の全貌』程度はパラパラめくってくれたらなぁと思います

 

追記陰謀論根本矛盾

単純な話ですけど、陰謀って「バレないように」企てられ密かに実行されるものであるはずなのに、なんでそんなにあっさり「陰謀だー!」と発覚するんでしょうね? ・・・ああそっか、それで陰謀論者はあんなに超上から目線なんですね、「私たちこそ世界真実を知っている優秀で選ばれた人間なのだ!」と多分思い込んでいるに違いありません。ああそうだ、9.11テロ陰謀だと言っている人に聞いたんですよ、「ビル飛行機が衝突しただけであんな崩れ方はしない!」って仰るんで、それどこで見たんですか? って聞いたら「テレビで」って・・・。てめーら、テレビとかは陰謀片棒担いでるマスゴミじゃなかったのかよー!w

 

返事欄

id:daydollarbotchタイプライターがあれば捏造できる」に対しての「そんなこと言い出したら〜」がよく分からない。こっちの増田https://anond.hatelabo.jp/20201008002119で書いてたような何らかの文脈があるんだと思うけど

そのその増田を書いた頃より、知識は相当増えてるので、それはちょっと気恥ずかしいものがありますが、グリクシュ報告書場合はその文書それ自体を徹底的に検証してあることを無視して「捏造」と言うのはおかしいと言う趣旨でしたが、イェーガー報告書ちょっと違います。ていうか否定者のいう捏造主張全般ですけど、この主張には大きく二つ問題があります

<続く>anond:20210528221325

2021-05-17

anond:20210517101605

全てを疑ってかかるとどうなるかに関しては、既に何百年も前に(近代科学の祖の一人であるデカルトが一応の答を出しているじゃん。

2021-03-12

いまスピノザライプニッツは「前世代のダサさの象徴」としてかつてのデカルトモンテーニュのように一部の若者に嫌われている?

流石に中年ぐらいになって趣味レベルでも作曲するようになると温故知新というのが分かるようになると思うのだった

2021-02-28

anond:20200706082437

科学の探求の始まり

「この世界は何者かが設計たかのように精密に動いている。その設計内容を理解しよう」という機械論自然から始まってる。

ニュートンデカルトあたりね。

神の否定も、ニーチェあたりの神なぞに頼らず自分で考えろという論から始まる。

神を否定しようが世界自分以外の外部からなる何らかの機構のもと動いていく。

たとえば、山の木を切り続けると洪水が起こる。それを「山の神」なる存在仮定して「山の神が怒ったからだ」と考えた。なので「山の神が怒らないように木を切りすぎないようにしよう」と考えた。

その後科学で木による保水機能が解明された。だから森の保全大事だと考えられるようになった。だけど、「山の神が怒ったから起きる機構」はそこに存在し続けている。ある意味山の神は未だ存在する。

神というのは、山の神の例のように自分の外の世界抽象的に取り扱うツールだと思うよ。

2021-02-22

必読書コピペマジレスしてみる・哲学

日本文学編→anond:20210222080124

追補編→anond:20210218080224

プラトン饗宴

おっさん飲み会真実愛について延々語るだけなので、哲学書の入門編にいいんじゃないかな。楽しそうにしてるおっさんはいいぞ。

アリストテレス詩学

どうしてフィクションで人は感動するかについて述べた本の走りで、後半は散逸しているんだけど、カタルシスについてはなるほどなあ、とは思った。作家になりたいんだったら普通にハリウッドの三幕構成の本を買ったほうがいいかもしれないが、この読書リストを読んでいる人は実用的な知識よりも読んでいて楽しいかどうかを求めている気もする。

アウグスティヌス告白

読もうと思ったまま長い時間が過ぎてしまった本で、まだ読めてない。アウグスティヌス若いころややりたい放題やっていた時期のことも書いてあるらしいので、宗教書として以外にも楽しめるんじゃないだろうか。

マキァベッリ『君主論

塩野七海エッセイですごく推していたから読んでみたけれども、普通に面白い。例えば、中途半端に生かしておくと復讐されるから、いっそとどめを刺しておけ、みたいなことが書いてあって、優しいと人から言われてしま自分には大いに刺激になった。ところで「孫子」もそうだが、戦争政治学について書かれた本はたいてい「そもそも戦争は大悪手で、戦争になる時点で何かやらかしてる」という趣旨言葉があり、全くその通りだと思う。

モア『ユートピア

未読なんだけど、結婚とはある種の契約なんだから、まず処女童貞がお互いに裸を見せ合ってからだ、みたいなディストピア的な描写もあるらしく、ディストピア文学好きの人は楽しめるんじゃないかな。あとは非モテ界隈の人とか。実際、完全な平等社会を目指そうとするとどっかしら歪みが出るもので、それについて考えるのにも使えそう。

デカルト方法序説

自然科学的な考え方、ロジカルシンキングマニュアル。長くないのですぐ読める。得るものがあるかどうかはわからないけど、逆に普段している論理的思考そもそも存在しない時代があったことは、実感しておくと歴史を学ぶ上で面白いかも。

カント純粋理性批判

平凡社の上巻を読んで挫折純粋な理性っていうけれども、ヒトの心にはデフォルト時間とか空間とかの枠組み、基本的概念が組み込まれているよね? 的な話をやたら細かく述べていく内容だったように記憶している。長いので三行でまとめたくなる。

この本に限らず、いくつかの哲学書は「この本さえあればあらゆる哲学的論争をおしまいにできる」「この本からあらゆる結論が導き出せる」的なスタンスで書かれたものが多い印象。

キルケゴール死に至る病

エヴァヲタなら読まなきゃという謎の義務から読んだ本。要は、どうすれば自分を信じることができるか、について語った本であったような気がする。自分は救われないだろうという絶望から、それでも神を信じるという境地に至るまでの道筋を延々と語ったようなものだった、はず。

自分特定信仰を持たないが、どうせ自分なんてと己を見捨てた境地から、まあ自分自分だよね、的な気分に至った経験がある人が読むと楽しめるだろう。

ニーチェ道徳の系譜

善悪の彼岸」と「ツァラトゥストラはかく語りき」なら読んだ覚えが。自分カトリック中高一貫校出身であったせいかキリスト教思想にある欠点を指摘したこの本を面白く読んだ。キリスト教になじみがなくても、たとえば来世があると考えることで現在を生きることがおろそかになるといった指摘は、興味深く読めるんじゃないだろうか。あとは、増田で定期的に出てくるルサンチマンがどうこうとかいう話が好きな人にもおすすめマッチョぶってるところはあるが。

フロイト快感原則彼岸

新潮文庫の「夢判断」「精神分析入門」「トーテムとタブー」「一神教起源」なら読んだ。フロイト自身はヒトの心を脳から探りたかったらしいのだけれど、当時はMRIやら何やらはまだないので対話式の治療法を導入したらしい。

彼の理論は今となってはツッコミどころがたくさんあるのだろうけれど、クラインだとかビオンかについて触れるなら頭に入れておきたいし、心理学特にパーソナリティ障害について読むなら知っておきたい。自分フロイトアドラーよりもユング派だが。

ラカンについては新書を読んだがさすがについて行けなかった。

ブルトンシュルレアリスム宣言

ラブストーリーの「ナジャ」だけ読んだ。謎めいた女のあるある的な話だ。

ウィトゲンシュタイン哲学探求』

論理哲学論考」だけなら読んだ。これもカントみたいに「俺が哲学のくだらない争い全部終わらせてやる」的な立場で書かれている。定理がずらずら並んでいるだけで、余計な表現がなく、簡素

ただ、言語限界について今の人が持っている感覚ってのは大体この時代の人が言っていたことだった気がするし、そういう意味では面白いんじゃないかな。この辺は数学ともかかわっていて、ペアノとかゲーデルとかヒルベルトとかその辺興味があったらいかがでしょう。

ちなみにウィトゲンシュタインポパーとの議論でキレて火かき棒を振り回したヤバいやつだというのは哲学界隈では有名らしい。

レヴィ=ストロース野生の思考

シン・ウルトラマン予告編でちらっと映っていたので読んだらいいかもしれない。

この本そのものは未読で「悲しき熱帯」ともう一冊なんか専門書を読んだことは覚えている。面白かったエピソードの一つは、ある民族身分入れ墨にするんだけど、入れ墨のない人間白人たち)を見て面食らう。要するに身分証明書を持ってないようなものから

定期的に異民族と共に暮らすドキュメンタリーが読みたくなる性分なのだが、それはたぶん、自分のやり方や考え方が絶対じゃないってことをよく教えてくれるからで、これも本を読む効用の一つだろう。趣味なので効用なんて本当はどうでもいいが。

サイードオリエンタリズム

面白い。僕自身スタンスとしては、日本人海外で誤解されていることを批判するんだったら、自分外国に対する偏見無知を減らそうと努力するのが筋だと思っていて、それの理論的な補強をしてくれた本。身近に外国人の多い環境ではないが、すぐに役に立たないからと言って読まないというのはなんか違うんじゃなかろうか。自分イスラーム世界インドについて、どれほどわかっているのだろう?

上田秋成『胆大小心録』

雨月物語しか読んだことがない。「雨月物語はいいぞ。

九鬼周造『「いき」の構造

どっからがいきでどっからが野暮なのか、直方体を使った図があった気がするが忘れた。

柳田國男『木綿以前の事』

遠野物語しか読んだことがないし、それも「マヨヒガ」のことしか覚えていない。

おまけ:いしいひさいち現代思想遭難者たち

自分現代思想に出てくる名前がわからなすぎて最初に読んだ本の一つ。四コマ漫画だがかなり本質をとらえており、いしいひさいち本業は何だったのかよくわからなくなる。素直に笑っておきましょう。勉強ってのは楽しみながらするもんだ。

おまけ2:ローラン・ビネ「言語の第七の機能

上のリストでは省略した20世紀哲学者が実名で登場するミステリなんだけど、フーコーサウナ美青年イチャイチャしたり、七十年代音楽を聞きながら薬をキメたりしているので、現代思想だのポストモダンだのをかじったことがあるならおすすめ。著者がやりたかったのは、たぶん上の世代の脱神話化というか、強すぎる影響の破壊なんだろうけれども、ここも素直に笑っておくのがいい。


以上。

2021-02-21

anond:20210221080633

ある意味科学」の副作用だね。科学は近視眼に陥りやすくなる。

科学デカルト方法序説提唱された考えで、明証、分析総合枚挙からなり、合理的批判に耐えられた思想は正しいという考えだ。

ただし、大規模であれば大規模であるほど明証が難しくなる。例外も増える。なので、近視眼に陥りやすくなる。

それでも統計をきちんととってやればいいのだが、金や時間もかかるし、例外が増えるから明瞭に物事を語るのは難しくなる。

それでも頑張っていかないとならないんだがねぇ。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん