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はてなキーワード: デカルトとは

2021-01-22

anond:20210122004616

まず科学というのは17世紀デカルトの明証分析総合枚挙からなり、合理的批判に耐えられたものは正しいというところから始まってる。

逆にそれ以前のこれは正しそうだという知見は多かれ少なかれ、宗教に結びついている。そこも元を正せばブッダイエスや禅僧など宗教者がこれが正しそうだという自分経験をもとに正しそうだと言ったのだからね。

マインドフルネス瞑想ヨガは、おそらくは脳の疲労対策だ。

マインドフルネスがまだまだ霊魂あの世スピリチュアルに取り憑かれやすいのも、根源的な「脳の疲労」なるもの人類が直接観測できないからだ。それは仕方ない側面がある。

血流の中の疲労因子で見れそうというのはなんとかわかってきたものの、複雑な高分子ちょっと変わったみたいなものを、生きている体に対して直接簡単には測れない。

だけど、自分自身の「脳の疲労」なんだから自分自身の体内の感覚に集中していれば薄っすらと感じられるものスピリチュアルとして外的存在依存する意味はまったくない。

また、霊感商法やら自己啓発セミナーがだめなのはセミナー依存させようとするから問題があって苦しいか瞑想マインドフルネスヨガを始めるのだろう。セミナー商売もので、問題解決したら飯の食い上げだ。

なので、常に不安を抱えたままで、セミナー依存してくれる状態を作り上げる。そして、信教の自由があるから、そんなセミナーを潰そうとするやつはもういない。

からさまに不幸に見えるのに、霊感商法自己啓発セミナー勧誘をするという怪しい人間は弱まっているときに、セミナーに引っかかって生まれしまった。

残念だけど、弱まってるやつが関心を持っているというのは悪徳人間には知れ渡っている。だからセミナー関係で学ぶのは危険が大きい。

本やネットで学び、脳の疲労を取り、霊魂スピリチュアルなど自らの感覚以外の者に結びつけようというやつはまがい物として排除しないとならない。

宗教知識も、今や本やネット自分がたちが悪いやつと縁遠く明晰な判断ができる状態で身につけるべきもので、セミナー宗教組織で学ぶべきではないよ。ましてや「キラキラ」なものを求める欲望こそが、悪徳人間に引っかかる。

2021-01-01

我思う、ゆえに我あり」によって人は滋賀自覚できるようになった

それまでは市民の中に自我という意識がなかったというのだから、やっぱりデカルトは偉大だと思う

2020-12-19

anond:20201215114512

漢方についてだけど、科学エビデンスって明証分離総合枚挙からなり、合理的批判に耐えられたものデカルトの)だから別にどこぞの学会予稿でも、ちゃんとした学会のならエビデンスでしょ。

「体質」ってのは子要素に還元しづいから、まとめて投与して結果を比較というのにならざるをえない。とすると、漢方でも、きちんと検証されたのなら医療として使うのは十分な選択肢の一つよ。

学会予稿を読んだ上で信用できないというのなら、君が別の医者行けばいいだけだと思う。

2020-12-16

最近プリチャンのアニメばっかりみてんだけどさ

「コーデチェンジ! スタートォ!」

今日のコーデ(coord)は、直行する三本の直線をあしらったクールなコーデだよ!

\カーテシアンコーデ!/


「くる、クルクルクルクル ローテーション∇×!」


パッカーン! コーデゲットォ!」

今日のコーデ(coord)は、円と直線のをあしらったキュートなコーデだよ!

\シリンリカルコーデ!/


パッカーン! コーデゲットォ!」

今日のコーデ(coord)は、球対称が素敵なエレガントなコーデだよ!

スフリカルコーデ!/

解説

コーデ:ファッションのコーディネート(coordinate)と座標系(coordinate)って同音異義語だったんだね

カーテシアンコーデ:みんな大好きX-Y-Z軸の直交直線座標系。名前デカルトにちなむんだね

リンリカルコーデ:茶筒でおなじみ円筒座標系(cylindrical coordinate)なんだね

スフリカルコーデ:まんまる球座標系(spherical coordinate)なんだね

という、しょーもないギャグを思いついたけれど職場では言えないのでここに書いて奉納しておくよ!

さあ、ベクトル解析の中間テスト作成に戻るとするか

2020-10-27

メートルくらい距離感が狂うメガネ比喩

 生まれつき五メートルくらい距離感が狂うメガネ比喩)を掛けて生まれてきたとしたら、そしてそのメガネが仮に誰の目にも見えないとしたら、そのメガネ存在に気付くのはいつになるのだろう。見えないメガネってことだから、その存在には中々誰も気付けない。自分自身さえも。

 でも多分生きてると何となく自分見方他人見方ちょっとちがくね? っていうことに気付き始めるもんで、「あれ? 私の距離感メートルくらいズレてね?」ということに最終的にはなる気がする。勿論全ての人が正確に物事認知できるわけじゃないから、本当は五メートルズレてるのに「あれ? 私の距離感メートルくらいズレてね?」とか、「二メートルくらい(ry」みたいに、その「ズレ」に対する目算というものも人それぞれちょっとズレてたりするわけなんだけど、ともかく、恐らく長いこと生きてたら大なり小なり自分距離感がズレてるっていうことには気が付き始めると思う。


 いや勿論現実にそういうメガネはないし、そもそも「五メートルのズレ」って何を基準にして五メートルよ? みたいな意見存在しているのも分かる。

 でも、本当に俺たちが警戒しなければならないのは俺たちは皆多かれ少なかれ実際にそういうズレたメガネを掛けて生まれてくるということで、何ならそのメガネ場合よっちゃ百メートルくらい狂ってるってことなんです。そして、俺達はそういうメガネのズレについてずっと、人生を通じて考え続けなきゃいけない。

「いやいや! そんな眼鏡ないし! っつーか五メートルだか百メートルだかって何を基準に決めてんの! 人それぞれの距離感はあるよ」とか言ってる人間を片っ端からゴミ箱に入れて封印していきたい。いや、勿論さっきみたいな「いやいや!」ってな発言にも一理や二理以上に真っ当な部分はあるんだろうし、少なくとも、「『ズレ』っていう観念は何らかの『正しい基準』の存在を基に初めて成り立つものであり、そういう基準実在性の根拠なしに『ズレ』を主張するのはそれこそ『ズレ』てる」、ってな感じでその意見論理的正当性があるのも十全に理解できるんだけどね。そこに確かにズレはない。

 でもね、そんな風に「いやいや!」って大手を振って発言できるあなたと私はズレてるよね。ってなことを思うわけです。あなたのズレと私のズレはあるよね、と。お前のズレと私のズレはそれぞれの文脈しか語ることのできない深淵ですよね、と。どんだけ人が他人からズレてて、そしてどんだけ自分が奇妙なメガネを掛けて生まれてきたかってことを、本当にきちんと測定する基準というもの基本的存在していないし、存在していないものを一々考えて勝手に悩む人間に対して、わざわざ「気にする必要ないって!」と声を掛けてくれるだけその人は善良なのかもしれない。あるいは、そもそもその人だって同じようなズレを許容しようとしているか、そうでなくてもどうにかズレと付き合っていこうと一生懸命努力しているのかもしれない。でもね、お前の言ってることはおかしいんだよ。基準は本当には存在していないかもしれない。どこにも「ズレ」と言える概念なんて実在していないかもしれない。でもね、「なんかズレてんな」って気持ちは確実に存在しているんだね。いや、その気持さえ実はズレてんのかもしれないけれど、まるでデカルト自己反駁みたいに、「『ズレ』てると感じていること事態が、そもそも『ズレ』てる。」のだとすれば、いずれにせよそこにはズレってもの存在しているんだね。存在しないズレを存在しない部分に見出している時点でズレてんだそれは。その存在しないズレみたいな一種宗教的かつ狂信的な観念を中心にしか人は物事を考えることはできないし今なお人はズレ続けていく。


 言いたいことがズレました。僕が言いたいことはね、

 皆多かれ少なかれズレのあるメガネを掛けて生きてるってことです

 皆さんズレについて日々考えながら生きてますか。

 自分がどれくらいズレてるか、そして仮にズレてたら、どうそれを修正すればいいのかについて考えていますか。五メートル離れてるな、と思ったらむしろメートル歩み寄らなきゃいけないということ。五メートル近いな、と思ったら、五メートル離れなければならないということ。あるいはその逆に、五メートル離れてるな、と思ったらむしろメートル離れなけれなきゃいけないということ。五メートル近いな、と思ったら、五メートル近寄らなければならないということ。ゴミ箱に入れるぞ貴様ら。

2020-10-03

詐欺師ハイテクベンチャー担い手境界

あるのか?

あるとすれば「学術として成果を出し続ける。儲かるか?さてね。」だろう。

そう。錬金術師17世紀デカルト方法序説に触発されて、科学検証手法を取り入れて化学に転じたのと同じようなことで。

無論、学術で成果が出たやつには儲からないものも多いのだから、成果を売上とするのなら、やっぱり殆どはそれをなせないということで大学先生方や国立研究所職員の方々はやっぱりみんな詐欺師なんだろう。

科学軽視、科学の金軽視、起業イノベーションだーフンガンガってのはそういうことなんだなーと。科学者と錬金術師境界が、、、、、消える、、、、。

真正詐欺師もそりゃ先端分野には混ざってるのだろうね。だけど、その裏にはまだ成果は出せないけど夢を持ってる科学者もいっぱいいるんだろうねー。

2020-09-24

初心者オススメ哲学書

哲学というと難解な用語と訳の分からないレトリックだらけの本をイメージする人が多いけどそんなこたぁない。なんならセンター試験の方がムズい、たぶん。

初心者といっても普段本を読まない人をここでは対象にする。本を読む人は偉いのでそのまま自分流に頑張って下さい。

まず、知識として学びたいなら哲学用語図鑑でいいと思う。パッと見れるし漫画チックだし。で、ここで気になった哲学者とかの本読めばいいいじゃん(完結)

で、それもめんどくせーという人間に向けて三冊。

パイドン-プラトン

やっぱりギリシャ哲学読まなきゃ始まらんでしょ!という方はこちら。対話形式で読めてプラトン流のソクラテスの考え(所謂イデアってやつ)が書かれてるぞ!でもやっぱりメノンの方がサッと読めるからメノンの方がいいかもしれんわ、選べ。

方法序説-デカルト

えっ、あの我思うゆえに我ありの本!?と思うであろう本書、デカルト自ら寓話だと思って読んでくれと言ってるので内容も難しくなく読めちゃう!なんてったって訳を除けば100頁もない!

共産党宣言-マルクス

おいお前マルクス主義者か?と思うのも待って欲しい。というのも第二次世界大戦後の哲学者というのは大抵は資本主義問題に直面せざるをえなくなっている。そこでやっぱりマルクスが与えた影響というのは大きすぎるわけで、重要古典でもあるわけです。だからこれからニューアカとか読んでみて~となるなら読んどくべきなんですなぁ。(いかんせん頁数が少ないのでいい)

と、紹介したけど結局は気になる哲学から読め。あと90分で分かる~とかそういうシリーズもいいとは思うけど原本も読むべき。まぁ、やっぱり頁数が少ないのは正義だよなぁ。

2020-09-09

anond:20200909201708

哲学には明るくないんでWikipediaちょっと読んだだけだが、我思う故に我あり、ってやつか。有名やな。

これトートロジーっていうの?なんか循環してね?

我思う故に我があるならその我を生んだのは何かっていう疑問になると思うが、それは思うことをしている自分だっていう答えになっちゃうよね、我思う故に我あり、だと。

で、デカルト演繹手法を用いて哲学をしてたらしいけど、循環しているところを原点としちゃうとそれ以上演繹するのが無理だから、この我思う故に我ありを原点とする以上発展性は無いように思える。

そこは後世の人間によって何か言われてたりするのん

anond:20200909201317

400年前にそういうこと考えたのがデカルトやな。

大体こういう疑問は昔の哲学者やら宗教家が考えついてるので特に目新しくもなければ突飛なわけでもない。

今でも大真面目にそういうことを考えている学者はいる。

2020-08-24

デカルトって現代惨状についてどう責任とるの?

現代社会は万人の自由平等を基礎に作られているわけだが、

そろそろ最近はこの自由平等限界を露呈しつつあるよな

万人が自由であり平等であるという前提で社会運営してみても、

やっぱり一部の金持ちに富が集中して、しかも大多数の貧乏人どもは、

自由平等社会金持ちになれないのはお前が悪い。自己責任と切り捨てられる始末。

結局、自由平等は、格差正当化する言い訳しかならなかったというオチ

デカルトは万人が理性を持ち、蒙を啓くことによって人間の知性は万物を照らすことができるという、

啓蒙思想確立することで現代社会の基礎理念を作り上げた一人だが、

自分啓蒙思想の行く末についてはどう考えてるのか?

一部の金持ちを除いた万人に対して責任取らんといかんのとちゃうんか?

2020-08-10

anond:20200810075753

デカルト:わし、あらゆることを疑いまくった結果、コギトエルゴスムだったわ。

ブッダ永遠不変の私なんてありません。

2020-08-03

anond:20200803123533

漫画って、1枚1枚丹精込めて漫画家さんが書き記したものからね。

そりゃデカルトのそれと同じくらいの価値があるのは当たり前だろう。

2020-07-30

自己肯定と何者か

※基本自分用。ついでに公開という体。

元増田の言うところの分解する手法は大変有効で、社会的事柄のみに限定すれば肯定感は高まる。だけどこの方法では社会の節目が訪れ、概念が180度変わるシーンでは無効化されると思う。例えば玉音放送前と後のショックの大きさについて数多くの証言が残されている。国家というアイデンティティ個人レベル適用していた人は自信がもろく崩れた。海外パスポートを失ったとき辻仁成は、所詮肩書など紙切れに過ぎない。遠く外国において自分は何者でもなかった、と小説の後書きに記した。

自己肯定感を至極真面目に考えると、自己定義からまり自己の発生箇所、範囲、形而上的な自己という精神について絶対に避けられなくなる。デカルトフッサールハイデガーをつらっと見てゆくと、自己とは何かがますますあやふやになってゆく。分子細胞など、SF的な見地でもいいかも知れない。自己という要素は認識意識にまで還元され細切れにされる。

相対的評価は、たとえそれが当時絶対的に見えても絶対性がまるでない。わたしというもの社会性と接続されるあらゆるものから切り離すべきで、そうでないならば、実際のところ自己評価他者評価とは単なる一社会一形態・一時代のマーヤーに過ぎないことが理解できる。自己がマーヤーであるなら他者もマーヤーであり、そこには般若心経的な世界観が広がってゆくばかりだ。空とはなにもないわけではなく、"ある" と錯覚するものが多数の変じ易い要素によって形成され、例えば社会的な成果や経験に見える、といったものらしい。自己に言い換えるなら、自己存在しているという実感は単なる各細胞社会的レッテルや成果を含む)の成り立ちに過ぎない。自己を考え、また認識することはまるで無意味だ。したがって元増田希薄さとはまた違い、自他ともに興味が消失するところに真実があるものと思う(あるというより、ないのだけど)。

じゃあなんだ、どうすればよいのか。

自己他人無頓着になり、興味のみを追えばいいと思う。これは多少齟齬を含んでいて、他者に興味を持てない状態他者に興味を持つというおかしロジックを持っている。言ってしまえば他者に "ある" ものは追いかけなくていい。社会的地位や金、恋人、そういうものではなく(仮にそういうものであったとしても)純粋動物的に欲求するということ。たとえば奇妙な話、金という働きに極度の興味があるなら金集めに奔走してもいい。ただしその場合でも金にまつわる "ある" と錯覚する自己認識を持つ必要性はない。それは自己ではないから。

anond:20200729215624

2020-07-07

エビデンスごっこ

コロナ対策エビデンスに基づいた対処をという。

だけどエビデンスとは何か?先に金かけて明証分析総合枚挙デカルト)がなりたつ調査をして、査読プロセス(他の専門家によるチェック。高いレベル学術雑誌だと鋭い批判を受ける。これに正しく反論したら論文受理される)をへて積み重なった知識集合体

んだけど、コロナ世界初のことばかりなんだからエビデンスなんかないものが多数。それでいてもエビデンスがある!と曖昧調査を元にエビデンス呼びしたりする。

エビデンスがあるものを積み重ねれば正しい結論に導くと、そもそも調査まだしてないかエビデンスがないのに勘違いした行動をする。

エビデンス自体金と時間をかけての試行をしてから生み出されるもの。なのに金と時間をかけて調査する前に調査するエビデンスをという本末転倒発言が横行する。

また価値判断に陥ると特に評価は難しい。一応は強引に銭勘定還元して評価させるという手はあるが、銭勘定するまでの準備が整ってないものが多いし、銭勘定できないが社会不利益な要素が見過ごされる。

これから課題は「検査対象をどこまで広げるか?」だろう。

広げると偽陽性によってコロナ感染していない人間も陽性として隔離される。狭めるとコロナ感染している人間を見過ごして感染を広げる。

コロナ感染を広げないこと第一」であれば国民全員に対する定期的な抗原検査だね。偽陽性で巻き込まれ隔離される人間もそうとういるだろうけど、コロナ感染している人間を逃す比率は一番減るから一番早く収束する。

巻き込まれ人間はたまったもんじゃいかとはまあ思うけど、表面的には当人は陽性だから納得はするかもという気持ちもある。

個人的にはある程度偽陽性巻き込みを前提に隔離をしていかないとならないとは思う。さて「どこまでの偽陽性巻き込みが社会的に許されるのか?」、これにエビデンスを元に正しく評価なんてものが「今の段階で」できるのかねぇ。

2020-06-14

2020-06-10

あるラブドール愛好者の偏見に基づく見解

 いま話題幼女ラブドール暮らしている。

 仕事を終えて家に帰ると待っていてくれる存在がいてくれるのは幸せなことだ。彼女食卓をともにし、一緒に眠る。満たされた日々だ。

 彼女を迎えてから、就寝前と起床後に彼女を着替させ、髪を梳かすという習慣ができた。そうなると自分の身なりも整えようという気分になる。生活規則正しくなり酒量も減った。健康診断数字改善しつつある。

 そんな生活をしている自分からすると、「幼女ラブドールの所有者はやがて実際の幼女を手にかけるようになる」などという主張は、何の根拠もない戯言に過ぎない。

 ほぼ完璧な美意識のもとに作られた理想的美少女自分のもとにいるのに、なぜ汚い上に泣きわめく現実幼女などに手を出す必要がある?

 自分中学ときクラス女子たちに嫌われ、様々な嫌がらせを受けていた。理由は「背が小さいから」。それだけだ。

 事あるごとにチビ短足だと罵られ、すれ違いざまに足をひっかけられる。ドールはそんなことはしない。

 満員電車の中で臭い香水をプンプンさせながら、蛾の鱗粉のようなファンデーションと血を吸った直後に潰した蚊のような口紅を人の服にべったりとなすりつけ、挙句にこいつは痴漢被害者自分だこれはその証拠だと鬼瓦のような顔で喚き散らしたりしない。周囲の人が弁護してくれなかったら慰謝料をむしり取られていただろう。無理だとわかるとそいつは金切り声を挙げ、人に唾を吐きかけて逃げていった。

 それに比べたらドールはただ何もせず一緒にいてくれる。「自分の思うようになる」からではない。自分に対して敵意を持たない存在というものが、どれだけ温かく感じられることか。

 自分の同期は結婚から数年で妻の有責で離婚し、それでいながら娘の養育費をせっせと送金している。月に一度の面会日はドタキャンが多く、思うように息子と会えていない。

 上司中学生になった娘からキモい臭い近寄るなと罵られる毎日だそうだ(飲み会で酔って愚痴っていた)。それでも家族のためにと少ない小遣いで頑張っている。

 要するに女が男に性的搾取されているというのは嘘っぱちで、むしろ女こそが男を蔑みながら搾取しようとどす黒い陰謀を巡らせているのである。世の女性ラブドールを目の敵にしてゴチャゴチャ喚き散らすのは、男の理想体現した人形が現れれば当然男はそちらに夢中になるため、搾取できなくなるからに違いない。つまり実利の上で脅威を覚え、排除しようとしているのだ。

 まあ嘘っぱちというのは言いすぎかもしれない。しかし女を性的搾取しようとする男に群がる女がいるのも否定できないのではないかさだまさしの「関白宣言」を女性差別だと叩いておきながら、グループ魂の「君にジュースを買ってあげる」で歌われてるような男に夢中になるような女が。

 理想的美女として作られた人造人間ハダリーと貴族との恋を描く「未来のイヴ」を著したヴィリエ・ド・リラダンも、「砂男」で美少女人形オリンピアオペラではコッペリア)に身の破滅を招くほど恋い焦がれる男を描いたエルンストホフマンも、人形フランシーヌと名付けて娘のように愛した哲学者デカルトも、現実女性に幻滅していたのではないかという気すらする

 レイチェルみたいなレプリカントが目の前に現れたらデッカードならずとも駆け落ちしたくなる。

 ラブドールで満足できず現実女児に手を出そうとする不届き者は間違いなく社会に害を為す変態からさっさと逮捕宮刑にでもすればよろしい。

 だが、ラブドールより先に女を規制してほしい。

anond:20200609170307

なるほど俺は基本哲学知識に基づいて書き込みしたけど、法学で言うところの「内心」は意味が少し違うのだろうか。

 

心身二元論に基づいている気がするが、考えてみれば、近代法現代ではなく近代にできたんだからデカルトの影響下にあるのも当然かもしれない。

2020-03-16

anond:20200316073236

戦闘するにしても、何に戦うかきめにゃならんし、何にでも戦うとなってるから、常に頭いっぱいいっぱいで何にでも戦えなくなってるんじゃない?

あと、バックは確かに仏教だけど、別に釈迦様の存在なしでも成り立つよ。所詮宗教デカルト科学思考以前に正しいと思われた知識のつめあわせ。

神という存在を前提にしなくても、自分が納得したらそれでいい。

ああ、あと、怒られてもどうでもいいじゃんと今は一回思うことな。で、一度落ち着いて、その上で戦うべきものと戦わないでいいもの峻別し。どのみち落ち着かんと正しい峻別できんよ。

2020-02-06

anond:20200206230928

カントだったかデカルトだったか忘れたが、

本当はやりたくないけど優しくせざるを得ない! って状況で優しくする、普段は優しくない人間こそ真の優しい人らしい

増田場合は本当は優しくしたいけど(照れくさくて)できない! なので逆と言えよう。

でもカントデカルト)より増田のほうが友達にほしい

2020-01-24

anond:20200123123501

法則性対象を細かく分けて、分析するというのが、科学時代の考えだってことよ。

科学で断定できるような領域宗教が入り込む余地はもうないってのはそうだし、科学領域も少しずつ広げては行くけど、それ自身否定理由にはならない。

唯一神唯一神の前は多神教だが、何が正しいのが雑然した。だから、これが正しい!という根拠権威が使われた。つまり唯一神が言う内容だから正しいと。その時代の名残。

16世紀のデカルト以前には科学手法というのはなかったからな。

2020-01-23

anond:20200123111027

抽象的に取り扱う神が絶対神精霊かどっちかってことに意味がある?その山の洪水唯一神がなしているとしたら?

単に、科学が起きる前(16世紀デカルト以前)はわからないものは神(精霊含む)の仕業であった。

科学が起きて、神がなしていたということに理由づけできるようになったのも増えた。だけども、まだ理由付ける科学がない領域では神の教えとなる経験論が意味がある領域も多いってことよ。

特に科学が苦手とする複雑なものや、人間についてね。

今わかってる科学が万能ってやったのが共産主義新自由主義ね。

2020-01-14

科学の過信こそが科学を追い詰める。

科学というのは、明証、分析総合枚挙と、合理的批判からなる知識集合体

デカルト提唱してから400年、科学がおおう範囲は非常に広がってきた。世の中のすべてのことが科学で解明されるかのように思えてきた。

例えば、農作物を雀が食べるから、雀を全部殺してしまえば、農作物は大量に作れるように思えた。

例えば、なにか思いついたら、すぐにそれが期間、費用収益見込みが作成できて、投資に馴染むもののように思えてきた。

すぐに期間、費用収益見込みが作成できて投資をうけれるはずなのに起業が起きない。なぜだ?ただ単に起業家精神が足りてないだけだ。

から煽ればいいんだ。と、起業を煽ることだけを盛んにする。

それ以外の物事無駄であり、費用をとにかく削減すれば良いように思えてきた。

結局、共産主義も、新自由主義も、今までにわかっていた科学でこれから事象も全部わかるという誤解のもとに生まれたのだろうね。

そうして、どんどん社会は衰退していった。

無論、わからないものはこれからもまだまだあるのだから科学でないもの科学にするのに金は出していかないとならない。

後、社会科学は、偉い奴の言った物事忖度するための学問じゃなくて、現実世界を解明するツールだぞ。合理的批判が難癖と紙一重からなかなか難しいところはあるし、文系不要論なんて生まれるが。

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