はてなキーワード: 機械論とは
「この世界は何者かが設計したかのように精密に動いている。その設計内容を理解しよう」という機械論的自然観から始まってる。
神の否定も、ニーチェあたりの神なぞに頼らず自分で考えろという論から始まる。
神を否定しようが世界は自分以外の外部からなる何らかの機構のもと動いていく。
たとえば、山の木を切り続けると洪水が起こる。それを「山の神」なる存在を仮定して「山の神が怒ったからだ」と考えた。なので「山の神が怒らないように木を切りすぎないようにしよう」と考えた。
その後科学で木による保水機能が解明された。だから森の保全が大事だと考えられるようになった。だけど、「山の神が怒ったから起きる機構」はそこに存在し続けている。ある意味山の神は未だ存在する。
抑圧とは感情を意識外に追い出して押し込めることで誰でもやってるごく自然な行為であり「自我を守るため」という文言で正当化されうるものだが、
その延長なのかどうなのか知らないけど無意識の存在すら抑圧する風潮があるよね。これは百害あって一利なしだから正直やめてほしいんだ。
なるほど無意識の話は何とでも言えるからオカルトや怪しい商法と結びつきやすい。だから無意識の話を持ち出した途端に地獄の業火のごとく怒り狂うのも分からないでもない。
人間簡単にレッテルを貼ってしまうからね。ところで業火と劫火と号火の違い分かる?だけど無意識はれっきとして存在するものであって、君達も意識しなくても自転車に乗れたり心臓が動いたりする。
心臓や自転車のような物理的なものでもそうなんだから、「無意識の思考・感情・イメージ・認識」といった心理的なものだって当然存在するのは分かるよね。
いや当たり前のことだと思うんだけどここから確認しないと存在を認めたくないがあまりに理解すら出来ない人がいるらしいんだ。
例えば、意識的論理的な思考に凝り固まっている人を一蹴するのには「人の顔を見ればその人だと分かるのは何故?」と問うことだ。
昔「人の思考は全て論理的である、一見非論理的に見えても深い理由があってその人なりの論理で考えてるだけなんだ」と主張する人がいた。
そこで僕はこうつけ加えた。「なるほど機械論だね。論理的と言っても意識的論理だけじゃなく無意識的論理も認める立場なわけだ」と。
しかし意識的論理の立場では人の顔の識別が一瞬で行えることをどう説明するんだろう?甚だ困難に思える。
かつての同僚はこう言った。「パターン覚えてるだけっしょ。顔データから検索するだけだから一瞬」と。しかし残念ながら人の顔は角度や表情や体調や老化や化粧で結構変わる。
そんな表記のゆれに即応するにはパターン覚えると言っても単純に顔画像を蓄えてそれと一致しているか否かを見るだけでは不十分である。
顔認知メカニズムの研究はそんな知らないけど聞いた話では人間が写真だけから誰であるか認識すると実生活を模した環境での顔認知よりも正当率がはっきり下がる。
だから精密な判定には文脈からの補完も関与してるという考えが主流になってて写真だけから画像処理で判定するのはある程度以上の正答率になると厳しいのではという意見も出ているらしい。
そういう話を聞いてるとやはり意識だけでそんな複雑な処理が行われてるとは到底思えないよね。カフェにいたから誰々だと思ったなんてほんとにいちいち「意識」してるのか?
ところでこの手の意識の話でよく人々が陥るのが意識と無意識は明確に区別できるとすぐ考えてしまうことだ。よくよく考えてみるとそうではなく「言われてみれば意識してた」ものや「うっすら意識してた」ものや「意識してた気がする」ものがあるだろう。
意識してたかどうかを他者はもちろん本人も明確に知る術は無い。だから「Xに対する意識の意識がないからってXに対する意識がないとは断定できない!」「俺は意識の意識が得意だから実はすべて意識してるんだ!」なんて強弁するのは容易く
それを他者がキッチリ否定するのは極めて困難なんだよね。極端な話「心臓すら自覚がないだけで実は本人が意識して動かしてるんだ。ヨガの達人が心臓を意識して止められる話はあれはもともと心臓も意識で動かすものだからだ」なんて言えるわけ。
こうなってくると意識という言葉がゲシュタルト崩壊してくる。実は意識しててもそれを意識してなければ意識してないと盲信する余地が至るところに存在するし、反対に実は意識してなくてもそれを意識してると主張すれば意識してると強弁する余地が大いにある。
こういうのを数学ではill-definedと言う。定義になってない、定義として不適切ということだ。だから生理学的レベルで厳密な(well-defined)定義ができるようになる時代が待ち遠しいのである。出来たとすればの話だが。
しかしこうも言える。Xに対する意識の意識があればXに対する意識があるのだと。錯覚かもしれないし本人にしか分からないが多分あるのだろうと主観的には明らかになる。
だからたとえ生理学的定義が無理でも人々が意識の意識をより正確にできるようになれば無駄に無意識をブッ叩くことも激減することであろう。悪意でねじまげて主張する人は別としてな。
我々としてはメタ意識の支援ツールやメタ意識を促すカウンセリング的会話術を開発していけば随分と世の中の混乱が解消されるのではないかと思うのである。