はてなキーワード: 退職とは
パワハラで追い詰められて…という痛ましいニュースを見るたびに、
気の毒に思う一方で、なぜそうなるまで辞めなかったのだろう、と疑問に思ったことは誰しもあると思う。
自分もその一人だ。
10人以下の小規模な会社で上司=社長という環境だから逃れようもない。
会うたびに自分の愚痴に付き合わされる友人たちは、そんなに嫌ならなんで辞めないのかと呆れ顔だった。
補充要員で採用された新人は入社時は陽気な人だったのに見違えるように陰気になって
新人の愚痴を聞き、自分と同じような道筋をたどっているのをみていると
やはり、なぜこの人は辞めないんだろうと考えてしまう。
パワハラにあっている人は良かったら読んで欲しい。
メンタルを病んでしまう前に、逃げる決心をする後押しになったらと思う。
パワハラの内容や具体的な理由については本題ではないので触れないけれど
【辞めなかった理由1】自分が仕事ができないせいだと思っていた
正直これはあると思う。
仕事ができないからパワハラを受けている、仕事が出来るようになればパワハラにあわずに済む、と考えて必死に努力してきた。
10年いる間に実力もつき、それは社長も認めていたが、だからといって自分が怒られ役ポジションであることには変わりがなかった。
自分の職務は専門職になるのだが、社長から「仕事(専門職)ができるから我慢してつきあってやっているんだ」と言われて「は?」となった。
10年働いている間には、仕事ができなくて自分以上にいじめられている社員もいたが(1ヶ月で退職)、
非常に優秀な社員もいた。
ところが優秀なら優秀でまた気に入らないらしく、社長は陰で他の社員にその社員の悪口を言っていた。
優秀で付け入る隙がないし、自分に自信があって叱責を受けても動じないのが気に入らないようだった。
その様子をみて、なーんだ、優秀だからといって認められる訳じゃないんだ、とバカバカしくなった。
その優秀な社員も3年位在籍して辞めた。
ぶっちゃけそれだけ優秀だったらこの社長の下で我慢して働く理由はないしね。
【辞めなかった理由2】良い時もあった
それほどでもない期間もあって、そんな時は「あれ、いけるかも?」という気持ちになってしまう。
例えば自分の関わっている仕事がメインストリームから外れて社長の意識が他の仕事に向く時、
パワハラの対象はそっちのチームになって自分は怒られなくなる。
あと新人が入ってくると、だいたいそっちが怒られ役になるのでその間は自分は怒られない。
怒られ役は常に一人で、社長の気分や仕事の状況によって常に変わっていった。
自分が怒られ役から外れると、それが自分の努力や工夫によるもので
でもそれは幻想で、時間がたてば怒られ役のポジションは必ずまた戻ってきた。
【辞めなかった理由3】社内に味方がいなかった
間違っていることは間違っていると社長にはっきりと意見を言う社員は壮絶パワハラに合うか、
残っているのは何を言われても「はい、わかりました」と答える選り抜きで従順な社員ばかり。
みんな一様に無言で無表情だった。
相談に乗ってくれる相手も「あなたは悪くない、おかしいのは社長だと」言ってくれる人もいない。
黙って見ているお前らも同罪だよと今は思っている。
自分がいなくなったらこの中の誰かが怒られ役ポジションになるんだろうな。
【辞めなかった理由4】誰もが怒られているわけではなかった
えこひいきがすごかった。
誰もに対しても理不尽に怒りまくっているならそういう人間なのだと諦めがつくのだが
自分や他の怒られ役に対しては怒っても、お気に入りの社員には怒らずにチヤホヤしている。
お気に入りと笑顔で冗談を言い合って、クルッと振り返って自分には叱責。
それを延々とやられると、社長とうまくやっていけない自分がどこかおかしいのだろうかと考えてしまう。
お気に入りの社員がミスをした時は、ミスをしないように気をつけてあげなかった自分のせい、
お気に入りがタバコの不始末でボヤを出したときでさえ、笑ってお咎めなしだった。
お気に入りはお気に入りで、ずっと社長からえこひいきされているうちに
確かに自分は正しい、自分がミスしたのはアイツのせいだと思うようになっていったように思う。
最初は普通に仲良くしていたのだが、最後の方は必要事項のみチャットでやりとりするだけの関係になった。
実際に仲良くしているのを見ると何故か気に入らないようだ。
大体片方にランチなどをおごって、仲良くしている相手の悪口を吹き込んだりしていた。
【辞めなかった理由5】持病があった
身バレするので詳しくは言えないが、入社後すぐに持病が発覚し、
闘病しながらの勤務が続いた。
社長も「こいつなら何をしても辞めない」と思っていた節もある。
病気から回復し、健康状態が良くなるにつれて精神状態も健全になった。
辞めると伝えた時に、社長からは「病気の時あんなに良くしてやったのに」と言われた。
もちろん感謝はしている。
でもそれを言われた時、映画の寅さんの「それを言っちゃあおしめえよ」というセリフが頭の中を流れた。
病気のことで恩を売るやつはプライベートでも仕事でもいらない。
【辞めなかった理由6】他では雇ってくれないと思っていた
思っていたというか思わされていた。
社長からはことあるたびに「(今回の仕事はうまくいったけど)それは俺のサポートがあったからだからね」
と言われ続け、繰り返し言われるうちに自分でもそうだと思いこんでいた。
年齢的にもかなり高いので、ここを辞めたら再就職は出来ないと思っていた。
仕事の特殊性や業界の人手不足もあって、一ヶ月ほどで採用が決まった。
多くはないがスカウトもいくつかあった。
10年近く続けて、正直このままずっと定年まで頑張るつもりだったのだが
思ったよりも精神的なダメージが大きいことに気づいて辞める決心をした。
辞めると伝えた時、社長が「君は役にたたないけど辞められたら困る」と慌てふためいているのを見て
なんかダッセーと思ったら洗脳が解けた。
逆に「なんかもしかしていじめられていたとか勘違いしてない?そういうの困るんだよねー」と言われた。
中傷や差別を楽しむ者と同じ場では仕事をしない、というさらに積極的な選択もありうるかもしれません。
何らかの形で「距離を取る」ことを多くの人が表明し実践することで、
実際の『処分』内容は
・処分対象の10人のうち、8人は当時の統計部門の室長以上の管理職。7人は減給1~3か月や戒告の懲戒処分、1人を訓告
・山田次官と石田優国土交通審議官の2人は組織の監督責任を問い、訓告
・処分は同日付だが、10人のうち1人は出向中のため同省復帰時に処分する。1人は退職しており「処分相当」として減給の相当額の自主返納を求める
→NHKニュースの見出しが「国交省統計データ書き換え 事務次官ら処分 大臣も給与自主返納」なせいで
とはいえ、Yahoo!主要ニュースの見出しも「統計書き換え、国交省次官ら10人の処分発表…斉藤国交相は給与を自主返納へ」だから、大した違いはない筈なんだがな
自主返納なんて、徹底した事実解明や厳正な法に基づいた処分の遂行から役職者が逃げるための、職務放棄から目を逸らせるためのやり口に過ぎんのに
ヤフコメと違って、ブコメは可哀想とか言っちゃう残念な奴らばかり
大学時代に付き合っていた相手の転勤をきっかけに退職して結婚。
そこまでは良かった。
子どもは夫とも互いに望んでいて、なかなかできなかったから不妊検査をしてタイミング法でようやく授かった。
妊娠後期までは平和に過ごしていたけれど、後期から体調不良に。
出産したら良くなるかと思ったら逆で、未知の生命体を生み出してしまって、
それを生かさなきゃいけない、もし死なせてしまったら罰せられるという恐怖感で、
それなら先に自分が死のうと首を吊って産後すぐに精神科に3カ月強制入院させられた。
未だに子どもは未知の生命体で、これが言葉を習得して、将来的に大人になるということが想像できない。
このまま子育てに戻れないと、子どもは夫の親権で離婚になると思われる。
その場合、現在専業主婦の私は単に育児放棄して親権を失ったクズで無職の母親になってしまう。
世間では、子どもが生まれたというニュースがあれば、当然そのあとは親がきちんと虐待もせず育てているのが当然で、
自分もそうできると思っていたのにできない。
今はとりあえず夫と二人暮らしをしているものの、自殺未遂騒動を起こしてから退院しても日常会話が一切なくなってしまった。
自分の親は家でずっと怒鳴ってる世間でいえば毒親だったけれど、それでも自分を大人になるまで育てている時点で、
うちの部下が管理者登用試験落ちちゃったんだけど、今回は幹部の大号令で女性の登用を拡大した割をくっちゃったんだよね。
その子から見たら全然レベルの違う女性が通ってるから納得できないみたいで、人事畑の噂話とかそんなのを引いてきて、もう大変でさ。
事実、めぼしい候補者がいなくて、女性だったら通過!みたいな感じもあって、そんな道理のない(給料も彼の学歴からすると安い)会社、やめる!って転職活動始めちゃった。
手塩にかけてきたから可能な限り慰留するけど、困った時代だよね。
以上、チラ裏
わたしは大学を卒業してから総合病院の医事課で働いた。職場の人はみんな優しいし仕事を覚えるのは苦労したが今思うととても充実していた気がする。だが、激務が続いたり少し特殊な病院だった事もあり、ストレスで双極性障害Ⅱ型と偏頭痛であると診断された。それでもなんとか働いていたが後に休職、そして退職をした。上司がわたしの事をとても努力して頑張っていたと言われたことがとても嬉しかった。
退職をしてすぐに家から近いクリニックで働き始めた。ほぼワンオペ状態の医療事務だった為大変だったが患者さんとの距離が近いクリニックだった事もあり、すぐに患者さんがわたしの顔を覚えてくれて世間話をしたりケーキの差し入れを貰ったりした事もあり患者さんのために仕事を頑張っていた。そして間もなく異常な偏頭痛に襲われ仕事を1日休んだ。この事がきっかけで職場に精神科に通院中という事がバレて正社員からパートになり、なんだかんだで退職して欲しいという内容の事を言われ腹が立ってすぐに辞めた。
その後、通院先の精神病院でWAIS-IIIを受ける事になった。そしてIQ63の軽度知的障害と診断された。わたしは少し嬉しかった。今まで仕事を覚えるのに苦労したり学校の先生や塾の先生に人一倍頑張ってやっと一人前になれると言われた事がありわたしは必死で頑張ってきたつもりだったが上手くいかない事の方が多くもしかして自分の障害のせいだったんだと思うことで今まで辛かったことが嫌な思い出にならなくなった。
そして、わたしは初めて障害者雇用で働く事になった。事務補助の仕事だった。働き初めてすぐに壁にぶつかった。すぐに就労支援センターという障害者の就労支援をしている施設に電話し相談をした。するとすぐに支援センターの担当と上司と3者面談になり、苦手な仕事はしなくても良いという事になった。わたしは最初はこれで仕事に行く時の憂鬱さから逃れられると思ったがそうはいかなかった。自分がわがままを言って上司や職場に迷惑をかけてしまった無能社員だという悩みに変わってしまたったのだ。そして、会社に迷惑をかけたくない死のうという思考に陥り退職した。
そして、どこかで働かなければならないという思いでいっぱいになりA型作業所で働いた。半年くらい経った頃突然作業所の責任者であるクソ女からうちの社会福祉法人でB型作業所を設立する事になったからそこに移って欲しいと言われた。わたしは驚いてしまい頷くことしか出来なかった。数日経って冷静になったわたしは会社都合退職という形で退職届を書いて提出した。しかし、クソA型作業所は自己都合でないと受け付けないと言い雇用保険の手続きもしてくれなかった。すぐに縁を切りたかったから仕方なく自己都合退職をした。労基やハロワに相談したが労基はあまり取り合ってくれずハロワでは今そのA型に行きたいと言う人には注意喚起をしてくれている、らしい。後で分かったことだがその設立すると言っていたB型作業所は役所によるとB型作業所が出来るという事実は無かったし未だに設立されていない。
なんだかんだで行く場所が無くなったわたしはB型作業所の体験に行った。工賃が700円近いという理由だけで。体験をしてる間は楽しかった、パートのおばさんが優しいし楽しい。喫茶店の厨房で仕込みをしたり一緒に働いている障害者もコミュニケーションに難があったが困った時はいつも助けてくれた。入所について案内をされた時、雨の日とかちょっとしんどいな〜って思ったら電話してくれれば休んでいいからねと言われた。わたしはその時はへぇ、そうなんですね…と言ったがそんな甘い考えで良いのか…と少し過ぎった。B型は雇用契約を結ばないしそんなもんかと考え自分を納得させた。それから正式入所になり何日か通所したが、時々一緒に作業をしている障害者にお前はやる気あんのかと言ってしまいそうになる事があった。厳しい環境で働いてきたからか仕事に責任を持ってやっていない人を見るとイライラしてしまう。障害者だからって怠けて良い訳では無い、もちろん鬱とか体調が悪いなら休息は必要だが。わたしはだんだん今の状況に腹が立ってきた。双極性障害がほぼ寛解状態になり、薬を一切飲んでない状態で次の障害年金が切られる可能性が大きい事もあり焦っているのかこんなところでぬくぬくしてていいのか不安になった。なにより自分より無能な障害者を見ていると自分の無能な社員時代を見ているようで嫌になった。だからわたしは今日作業所にしばらく休むと連絡を入れた。この先どうするか考えていない、働きたいが仕事が見つかるか不安だ。
障害者はしねばいい。無能人間、社会の荷物。本当に生きてる価値ないよ、努力しないで国から金もらって生活して幸せなの?障害者しね!
そしてわたしもしにたい。
頭に障害があるらしい。
27歳の時わかった。高卒で入った会社でパワハラといじめに負けて鬱病になって退職。それから5年の事だった。5年何をしてたかと言うと小説を書いていた。医者からもう普通の仕事は無理だと言われていて、就労不可だと言われてきたから障害年金で生きながらえていた。小説を書いてたのは文章を書くのが好きだったからと、もしかしたらデビュー出来るかも=職につけるかもと思ったから。25の時に別の媒体でデビュー出来たけど即打ち切りになった。その程度の実力。
その後生活保護になる。生活保護が嫌だったので医者に頼み込んで就労許可出してもらった。27歳の時だ。よし就活するぞの時にわかった。知的障害があると。
つまりは才能が無いってことだ。
知的障害と言っても重度じゃない。見た目は普通。質疑応答が出来ない。日常生活も無駄話したらあれ?こいつ変だぞ?って思われるレベルだ。結構大概。
でも障害者施設にぶち込まれるのは嫌だった。若い時に精神障害者に関わってとんでもなく怖い目にあったからだ。それも1度や2度じゃない。精神障害者と関わって実質住所不定になったこともあった。なので障害者専門の就職はしなかった。精神障害者ってめっちゃ怖い。俺も他人から見たらそう思われてんのかな。
小説を書くようになった。
これしかやれることがなかった。
受からない。
それでもやるしかなかった。
32の時、心が折れた。
友人がデビューしたからだ。友人は初めて書いた作品で、結構大きい賞を取った。友人は20代の時に結婚している。持ち家もある。
天は二物を与えずとか言うがアレは嘘だ。
別の友人を経由してそれを知った時、自殺をしようとした。薬が足りなくて未遂で終わった。ぐっすり寝ただけ。死ぬ才能もなかったらしい。
なあ、もう俺頑張ったよな?
もう諦めていいよな?
生活保護とか障害年金ってさ、すっっごく生きてるのが申し訳なくなるんだ。
でさ、働こうとしても皆止めてくるんだ。やめてくださいまた死ぬ気ですか!?ってさ。俺は普通になりたいだけなのにな。あと生活保護は働くと何故か返納金が大変な額になる。なんでだろうな。
国に飼い殺しってプライドがズタズタになるんだ。なんで生きてるんだろって思うんだ。最低生活の保証はされてるから、本当に何もしなくていい。そういう時、なんでか涙が出てくるんだ。
もうやめていいよな。
俺頑張ったよな?
税金で養う奴が1人減る、これが俺が出来る最大の事っていうか、俺はもしかしてそのために生まれてきたのかなと思うとなんだか笑えてきて、人生って案外意味ないんだな。
いや、既にやってるけど定年で首にしてから搾取的な給与条件で雇い直すというやり方で解決できる。 物理的に老害を職場から消し去ることが出来ていないが、役職も権限も退職時に奪われるので「文句があるならいつでも叩き出せるんだぞ、老害バイト君」って若い方から言えるようになるんだよ。
小学生。近所に住んでいた友達と些細なことでもめ、いじめられた。幼稚園までは親の転勤で新しい環境に飛び込んでもすぐに友達を作れるくらい明るかったが、いじめられたことで私の強みは潰された。自分が何を言っても誰にも聞いてもらえないが、言動で私を傷つけようとしてくる人があまりにも多く、少しでも人に話を聞いてもらいたくて異様なほどの早口で話したり傷つかないために自分に対する悪口を軽く受け流したりする癖はこの頃ついたと思う。
中学生。音楽部に入った。ピアノ等未経験の音楽初心者で入ったなりに努力して1年生の頃の顧問の先生にはたくさん褒められていたが、2年になってその先生が退職し、新しい顧問には嫌われ、3年生になっても自分だけ役職につけてもらえないなどの仕打ちを受けた。
家に帰ると勉強はあまりせず、全然楽しくない部活の憂さ晴らしとしてアニメばかり見て絵を描いていた。
そのせいで親にはよく怒られており、小学生の頃いじめてきた子を引き合いに出して〇〇さんよりいい高校に行きなさい、悔しくないのなどと言われ続けていた。
高校受験では3年夏には国際系の行きたい高校を見つけたものの、内申書と数学と理科が最後まで振るわなかった。本命1校の公立高校に落ちたら私立に行かなければならない県に住んでおり、私立に行かせる金はないと毎日気が狂いそうなほど言われた。やる気のない生徒が集まる塾に通っていて、講師もいかにも大学生バイトという感じであまり教えてくれないし、親に塾を変えたいと言ったものの、お金がかかると言われて叶わなかった。
最終的に家から近い、自分の偏差値で行けそうな公立高校を受験し、合格した。通っていた塾にも私と同じ高校を受験した人が何人かいたが、私以外は落ちたようだった。私より高い偏差値の高校に行った生徒はいなかったらしい。
高校生。トラウマと化した中学とは180°違う運動部に入った。先輩の中にも初心者で始めた人がいて、とても優しく教えてくれた。友達もでき楽しくて良い環境ではあったが、初心者だったこともあり周りと比べて体力もなく競技は全く上達しなかった。そのうち教えてくれる先輩とか友達にも引け目みたいなものを感じ始めた。先輩や友達は強かったため地区大会や県大会の応援に行くたびに交通費がめちゃくちゃかかり、お小遣いでは足りなくなった。親からは毎月のように応援に行くたびにそんなことをして何の意味があるのと言われた。もうお金は借りられないと思った。
親に黙ってアルバイトを始めた。部活と勉強との両立はとてもキツかったが、将来のために少しでも働いて、お金を稼いでいると思うと何か安心感のようなものがあった。この頃にお金を稼ぐことの楽しさを覚えた。
特に頭がいい高校ではなかったからか高校時代の友達は美醜の話で盛り上がる人が多く、昼休みのたびに誰が可愛いとか誰がブスとかそういった話ばかりしていた。ブスで恋人もいなかった私はそういった話を聞くのも嫌だったが別の話題に持っていく力もなく、適当に相槌を打つことしかできなかった。
高2の3学期に大学受験に対して危機感を持つようになった。前述の部活とバイトの掛け持ちで学校の勉強は疎かにしており、特に2年生の頃は学校をサボりがちで午後から高校に行ったり部活だけ参加したりしていた。そのため、親が最も期待していた指定校推薦は望めそうになかった。
高3になる直前くらいに部活もバイトもやめ、親に頼み込んで塾に入れてもらった。部活もバイトも辞めるのはすごく気が引けた。親のせいと周りには話したものの、全部自分で決めたことだった。子供の頃から学歴コンプや貧困などの話を読み漁っており、親から絶対に私立には行かせられないと言われたことも相まって絶対にお金のない大人にはなるまいという思いが強かった。
大学受験では入りたかった塾に入れたが、中学時代から得意だった国語以外あまり成績は伸びなかった。英検をとれば有利になる大学が多数あることを知り、受けた。検定には合格したものの一番行きたい大学の英検利用はスコアが足りず諦めざるを得なかった。
受験の前、大学に全落ちしたらどうするかの相談を親に持ちかけたところ、お前は女なんだし、落ちたら浪人しないで働け、結婚して早くいい旦那さん見つけろと言われた。自尊心がズタズタになっていた私はつらくなって泣いた。
その頃は12月だったためなんかもう全てのやる気を失ってしまったが、英検と得意だった科目を活かしなんとか2月、一般受験で世間的に有名な大学に合格することができた。
親も喜んでくれた。塾の先生も高校の先生も喜んでくれた。見返せた気がして嬉しかった。
大学が決まると以前働いていたバイト先に戻り、たくさんシフトを入れて働いた。その頃の店長や先輩がいい人だったこと、先輩に同じ大学同じ学部の人がいたことも私のバイト先への帰属意識を強めた。他のバイトを探すなど考えられなくなっていた。
4月になり大学に入学した。東京の大学だったためダサいのは恥ずかしく、今まで友達が本当に少なく親からあんた親友いないよね、と毎日馬鹿にされていたので東京でも生きれる普通の女の子になってみたいという気持ちがあり、大学デビューしたいとの思いから服や化粧に金を注ぎ込んでバイト代は一瞬で飛んだ。家では夜10時までに帰ってこいと門限が決められ、お金もなかったためサークルや部活の新歓期間は逃したまま結局入らなかった。
大学で最も楽しかったことは(私の周りだけかもしれないが)人を容姿で揶揄する子がいなかったことだ。周りはみんな頭のいい高校を卒業した子ばかりで、発言に強要が含まれていて聞いてるだけで面白かったし、オタクでも1人でいても陰口たたかれないし後ろ指を指されることもないしすごく快適だった。プライベートでは相変わらずバイトばかりしていた。
秋になり、バイト先では私がお世話になった店長が別の店に飛ばされた。そのころからバイト先の環境は少しずつ悪くなっていった。めちゃくちゃ気が強い先輩が何人も入ってきた。今思うとここで辞めておけばよかったのだが、当時のバカな私はそれをしなかった。
2年生になった。コロナが流行り、授業は全部オンラインになった。生活リズムはグチャグチャ、なんのために生きているのかよくわからなくなったが、2年から入ったゼミの授業が週2であり、カメラオンのzoomで同期や先輩と話ができたことだけが精神安定剤となった。この頃には授業とバイトの両立が不可能と親に訴えたことで門限はなくなり、2年生からやっとサークルに入り直せると思ったがコロナのせいでできなくなった。
というのも親はとてもコロナを気にしており1年くらいバイト以外の外出ができなくなった。友達と遊ぶというとものすごく苦言を呈され、一緒に住んでいる人のことも考えてと言われた。落ち着いた頃友達とチケットを取ったディズニーランドもバレて延期せざるを得なくなったし、成人式もそのあとの友達との軽い夕食の話も断らざるを得ず、そのあとだんだんと誘われなくなっていった。
唯一の息抜きはゼミの教授がきっかけで始めた昆虫観察だけだった。自然がたくさんある郊外に住んでいるため、邪魔されずに散歩だけはできた。自然の中を歩いて、虫を観察している時だけは面倒な親のことも溜まっている課題のことも忘れられ、癒された。そうして私のつまらない大学2年は終わった。
3年生になり対面授業が再開し始め、相変わらず親は文句を言っていたものの少しずつ大学に行くことができるようになった。
5月ごろに就活を意識しいくつかの長期インターンに応募したが全て落とされた。夏休み、やっと参加できた地元のボランティアの活動期間はまたしてもコロナが猛威を振るい、親にはまた文句を並べられた。東京に行くなんてもってのほかで、ずっと地元から出られなかった。ボランティアもコロナのせいであまり活動できなかった。
8月に親の職域でワクチンを打つことができ、9月からは感染状況の落ち着きもあって割と自由に出歩けるようになった。1年も延期していたディズニーランド、ゼミの同期との飲み、泊まり、1年生から憧れていた「大学生らしいこと」をやっとできた。
さらに転機が訪れる。大学でやっていた勉強会に参加し、そこで今まで会ったことないくらい頭がよく、私に色々な世界を教えてくれる人たちに出会った。そこで初めて勉強の楽しさを知った。なんでこんなに楽しいのに今まで気づかなかったんだろうと思った。高校受験で諦めさせられて以降嫌になっていた外国語も、友達と一緒に高校の時履修したけど知識は身についていなかった政治経済も学び直し始めた。遠くへ行って、知らない世界をたくさん見たいと思った。生まれ直した気分だった。
しかし、11月ごろから周りは一気に就活ムードに入りそれどころではなくなる。夏からインターンには応募していたが、1年次から興味のあることが一切できておらず、環境は最悪だったが6年続ければ何か足しになるだろうとしがみついていたバイト先でも、社員や先輩に嫌われ責任者にはなれなかったため、俗に言うガクチカも自己PRもなく、落ち続けた。周りには何人か休学して長期インターンやボランティアなどをする人も出始めた。私も一度きりの新卒就活、後悔しないように休学か就留か就浪して長期インターンをし自分のしたいことを見つけたい、ちゃんと何かに打ち込みたいと相談したところ親にこっぴどく怒られた。家を出てってくれと言われた。インターンも何も参加できず、就職先が決まらないかもしれないと言うと、女なんだからバリバリ働けないでしょ。就活なんか適当に地元ですればいい、それより男に好かれる、愛されて結婚するための努力をしろと言われた。あまりに呆れてしまい、返す言葉がなかった。私の人生ってなんなんだろう。
実は大学に入り、見よう見まねで都会の女子大学生としておしゃれをしてみて何か嫌悪感のようなものを感じるようになった。女として扱われるのが嫌だ。バイト先で自己肯定感の低い私をたくさん褒めてくれる先輩が入ってきて仲良くなったが、軽く肩を叩かれる程度でも体を触られたり、下ネタの話をされると途端に気持ち悪くなり、おまけにとんでもないクズだったので、関わるのをやめた。親とか同性の友達とかにも体を触られるのが嫌で喧嘩になったこともある。飲み会で酒が進み、恋バナや性行為みたいな話になっても嫌悪感があった。そのせいか恋人は今まで一度もできたことがないしまだ処女だ。
それなのになぜ女として振る舞い、男に好いてもらうために努力しないといけないのだろう。憤りしか感じなかった。自分のためだけに生きたい。
この間中学時代の友達と話す機会があったが、彼氏と同棲するなら〜とか、結婚を考えると全国転勤ありは嫌だよね〜とかの話をされ、私はやっぱりそういう考え方はできないなと思ってしまった。
年が明け、またコロナの感染者が増え始めた。親は毎日毎日感染者数をLINEで送りつけてきて、外出しているとどこにいるの早く帰ってきなさいと頻繁に連絡してくる。もう外食もできない。
こないだ休日のランチタイムにバイトしていたら普段は担当しないホールに回された。満席になった店で楽しそうに食事をする家族連れを見ているとなんだか辛くなってきた。コロナがなければ、もっと自由に生きられたのだろうか。誰も何も悪くないけど、涙を堪えながら接客をした。
人をまとめる力もなく、卒業見込みの大学に見合った頭もなければ普通に女として愛嬌を振りまくこともできない、これからの私はどうしたらいいのだろう。
今興味があるのはコロナ禍で始めた一眼レフでの写真撮影と昆虫と小学生の頃から好きだった自然、あとは自分が悩んだジェンダーとかお金とかの問題で、私みたいにやりたいことを諦めなければならない女子もいるだろう現状の社会には割と不満を持っているけど、別にものすごい性差別を受けたとかめちゃくちゃ貧しかったとかではないから何かの志望動機にするにしても説得力ないなと思っている。志望動機を書いていても自分ごとにできてないってキャリアセンターの職員には言われた。多分大学時代にあまり興味のあることも好きなこともしてないしどこにも行けてないからだと思う。
強みは今でも偏差値が70以上ある国語と、性格面では小学生の頃いじめられたからか自分と違う意見でも人の話をよく聞こうと意識しているのと最近いろんな友達との交流を経てやっと取り戻した明るさ、あと昆虫について詳しくなろうとする探求心だと、友達とか教授に教えてもらった。これが活かせるところがあれば知りたい。
それか生まれ直した私でもう一度勉強し直したい。もう4年生なので、そのためには社会に出てお金を貯めてからもう一回大学に入り直すか大学院に行くことかなと思う。
もう自分の人生において、お金にこだわる私はいない。今までは親の影響でコスパばかり考える気味が悪い子供だったが、たくさん遠回りをしてこそ学べることがあるのではないかと考えるようになった。
一度自立し、一人暮らしをしてからであれば親からはなにも言われないだろう。けれど1人で生きていくにあたってやっぱり職がないのは困るし、20代後半で大学を卒業してもちょっと貯金ができ、一人っ子なので自分しか頼れない両親の老後の面倒を見れるようなお金がもらえるところに就職できるかが不安だ。それかとりあえず行けるところに就職して、後々自分の興味関心があることができるところに転職するか。転職のことを考えると気が重くなる。新卒キャリアがどんなものでも、そこから転職ってできるものなんだろうか。
とりあえず早く親元を離れたい。
私の大学生活を返して欲しい。
本当に無知ですみませんが、向いてそうなものとか、どこに転職するにしても役立つスキルみたいなものがあれば教えて頂きたいです。
仕事でテキストコミュニケーションがあったんだ。相手が長文のコメントをくれたんだけど、僕にはどうも飛躍しているようにしか見えなくて、30分くらいかけて筋の通ったと思った読み方をみつけて、自分の解釈を確認するために、相手への返信に「〜ということですよね?」という質問を2つ返すと、2つとも相手の主張と異なる旨の返事が返ってきた。
今までもこの人の主張を読み取ることに苦戦したけどやっぱり今回もダメだった。
なぜか、この人の発言そのものがハイコンテキストという感じがする。会話ができる気がしない。抗不安剤を飲んでいるけど死にたいとまた思った。退職するか〜という気持ちになったが、そもそもコミュニケーションは難しいので退職に値しないという気もしてきた。それはそうとして死ねば全て解決するから死にたいんだよな。
この3点は私も共通している。両親については片親で過干渉ではあったが、しかし大切にはしてくれていた。それでもあなたと同じ思考から抜け出せない。これは、境遇、個人の努力を超えて、先天的な脳の作り(ADHD)が大きく関係しているのではないか。これに人間関係の失敗経験が積み重なりフィードバックとなり囚われの強化、すなわち脳の悪い思考プロセスのネットワークの強化になっていくと仮定している。
人間関係の失敗でさらにこの自己評価が補強されてしまい、どうにも身動きができなくなってしまったのだけど、ここから脱するためにやったことを書く。
"考え方"についてはプロに任せ、むしろ考えない方法を身につけたほうがいい。
まず、ADHDはワーキングメモリが足りないため問題を大雑把にまとめて考えてしまう。
全体を捉えて、最も期待値の高い解決方法を理性的に選べている自信はあるだろうか。あなたはある程度客観視できているだろうから落ち着いているときに考えればおそらく、高ストレス時に思っていたことが実は的外れだったという経験があるんじゃないかと思う。
例えば就労が困難だったというケース(あくまで一般論の例)を考える。そうなる理由はそんなにシンプルではなく大量の変数が複雑に絡んでいる。 しかし、"自分が馬鹿だから仕事ができない"という形で問題をカプセル化してしまえば、ワーキングメモリが節約できるため、ADHDは問題を単純化して自分を責める。一時的にはそれが一番ストレスが少ないのだ。本当は"環境が悪かった。定型発達でも仕事が原因で自殺していることもある"など、別の可能性が考えられるのに。
では、いつも正しい判断をするにはどうしたらいいだろう?これは、"自分の判断を常に保留する"が疲弊したADHDには正しい方針だと思う。判断は常にプロに任せる。それはどこに住んでどんな仕事をすればいいか、という大局的な判断だけでなく、"誰が悪いのか"、"なぜこうなったのか"、"どうして不快なのか"なども含めてだ。特性上、強力に単純化してしまうので疲弊してIQが下がっている今はどれも的外れになる。
寝て起きたら、デモデモダッテ思考が顔を出した。父と離れたいなんて、私のわがままじゃないかと疑っている。よく分からないから、今日、相談支援専門員さん(何回かソーシャルワーカーさんと書いてるけど、勘違いでした)に電話してみようかと思う。
だからこれで電話できたあなたはとても賢いし、自分を客観視するセンスがある。
マインドフルネス瞑想がよい。方法は適当にぐぐるとでてくる。(大きいトラウマがあると難しい場合がある。↓に追記あり) 浮かんだアイディアを0.5秒以内に棄却できるようになってくれば、鬱でも躁でも、脳の暴走状態を食い止めやすくなる。
人生史を書くとか考えたものをすべて紙に出すとか、自分のトラウマを再認識するようなセラピーは無理に実践しないほうがいい場合がある。プロのセラピストでない限り PTSD のトリガーになりかねないので、慎重に。
ストレスは回避反応を高める。ただでさえADHDは弱いとされる、長期的な価値を評価するための前頭前野が働かなくなり、極端な単純化をし始める。生存のヒントを得るために(存在しないかもしれない)脅威をあちらこちらに探し始める。
IQを上げる方法はたくさんある。有酸素運動と無酸素運動を組み合わせたインターバルトレーニング、読書、楽器演奏、人との会話、人と比べて自分が優れていると実感する、など。しかし、どれもそれができる基盤が無ければ成り立たない。基盤は、どんな形であれ"安心できる生活"だ。
プロに相談して模索しているのはとても素晴らしい。これこそ良い判断だと思う。
あなたの場合、愛着のある肉親だろうが、親元、実家から離れるのは最優先だ。トラウマ体験のある場所にいると記憶のトリガーが多く、思考のノイズが高まる。瞑想を頑張っていても考えの棄却という技術では捌ききれない量になる。例えるなら、イラク戦争でPTSDになった米兵が戦後もその戦場の脇で延々とセラピーを受けるなんてことがあるだろうか。アメリカに帰って湖で犬とキャンプでもしているべきだろう。
追記や他へのレスを見ると、同居した者と揉めた経験からグループホームや同棲に抵抗があると言っている。
↓もそう。私もこの囚われとは長年付き合っている。 自分の場合、親には愛されているはずなのに。
環境を変えても、私がダメだからダメだと、ずっと思ってた。愛されるためには愛される能力が必要で、残念ながら私にはそれが決定的に欠けていると思えるから。
ちょっとつらいかもしれないから今は受け入れられなくてもいいのだけど、これこそADHD特有の極度な問題の単純化の例になっている。あのときうまくいかなかったという一例を以って、だからあれはやめたほうがいいのだ、というように考えるとワーキングメモリが大幅に節約できる。実際は、相手が特別クズだったとかグループホームガチャとか色々分解できて、次の一手はまたフラットに考えることもできるはずなのに。
今は総括(判断)せず、プロに任せて、最善の環境に居れるまで模索するのがよい。次がダメだったとしても単純化せず、また次のチャンスを模索する。単純化のバイアスを除いて考えれば、定型発達でも転職、離婚、病気のような失敗は何度も経験するのだ。
人間のつながりが欲しいと思ったとき、そうできている人とのライフスタイルを比較するのがいいと思う。親族、家、お金、車などの財産ではなく、朝起きて何をしているのか、どんな本を読んでいるのか、どんなご飯を食べているのか、どんな娯楽を好んでいるのか。"考える"代わりに"行動する"のがよい。考えても考えても財産もライフスタイルも変わらないどころか極度の単純化で誤った判断をするのが疲弊したADHDの末路だ。
安全な生活が得られるようになってきたら、形から入る。脳は考えて変わるわけではなく、運動、適度な負荷(勉強、練習など)、食事で変わるのだ。脳に振り回されて困っていたのだから、脳を手なずけるのがよい。だから順番を変える。"まともな自分になれば孤独ではない生活が得られる"というのはやめて、"孤独じゃない人の生活を真似てみればまともな自分になれる"ということ。
私も自分自身そう思いたいという部分はあるんだけど、見ている文章を見る限り全然馬鹿ではない。というか文章のみのコミュニケーションであれば誰も重度の発達障害とは感じない。
これはこの番組の予告だけ見ても思った。もし道路で出会ったらまるで思考が通じない人にしか見えないのに、文章は物凄く理知的で美しいのだ。
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009050591_00000
我々は入出力や瞬発的な行動については困難があるかもしれない。しかし、中身までおかしいわけじゃない。
親さえもそれはわかってくれなかったかもだけど、今は世の中に知見が溜まってきているし、お互いこのようにネットで話すこともできるようになってきた。だから幼少期よりはまだ模索できる道は多いはずだ。
おせっかいかもしれないけど増田がきっかけで過集中に入ったので最後まで書きました。
スターがついていたので。
hamamuratakuo 個人的な見解だが、頭が悪い人に共通している特徴は「嘘つき」であること。全てを曖昧にしており、現実を直視できず、被害妄想に耽溺。それゆえ認識が歪んで知性も劣化している。嘘をやめることが改善のスタート地点
言っていることの大筋は私と同じだ。しかし、それを「頭が悪い」「嘘つき」という主観性の強い表現であえて言い直す必要は無い。今回で言えば頭が悪いのではなくワーキングメモリが小さいと言えるし、嘘つきなのではなくワーキングメモリの節約を無意識に行っている、というようにより具体性のある話にしたつもりだし、「嘘をやめる」に対応する極度の単純化をやめる方法も示したつもり。
これも脱線するが、自分は発達障害を自覚する前、定型発達的な人々に対してリスペクトを欠いた態度を取っていた。彼らは(今思えばADHDの私に比べれば、だが)会議で発言しない、積極性が無い、すぐ行動しない。「頭が悪い」愚鈍な人々だと思っていた。つまり自分が得意なことができない人を簡単に「頭が悪い」と言うのは主観的すぎる。特に今回の文脈では発達障害という特異な脳の状態について話しているのだから、少し配慮してもいいんじゃなかろうか(隙自語同士なのでまぁいいけど)。発達障害と知的障害は異なる。高IQの発達障害は大勢いるし、発達障害の診断時にIQテストを受けるのでむしろ発達障害者のほうが自分のIQを正しく理解している。
misarine3 嘘ではなく現実を正しく把握できなsので偏って間違った認識を伝えてしまうケースもある。あとADHDかと思ったら発達性トラウマ障害(複雑性PTSD)というケースもあるので一考してほしい。
programmablekinoko マインドフルは合わなかった。多動優先だとじっとしているのが難しい。有酸素運動で強制的に頭空っぽにするか、NBackやラジオ流しながら何かを音読するなど、脳内のノイズをかき消す方法が自分には良かった。
https://anond.hatelabo.jp/20220118124641
これはそうかもしれない。実は自分の場合は自己流の荒療治でトラウマの追体験を繰り返してみたり瞑想でつらいことを棄却する訓練をやってみたりと実験してみた。この中で瞑想が継続できたということなので、n=1 なのは確か。カウンセラーや精神科医などプロに相談しながらがよい。
本当は睡運瞑野がうまくかみ合えばいいのだけど、睡運瞑野ができるのは睡運瞑野がうまくいっているときだけという難しさがある。 瞑想の代わりに運動する、それもできないなら何もせず寝てしまうなどで、あまり考えないようにできるといい。
sisya 前提が少しおかしい。「頭が悪いから人に大事にされない」ではなく「考えが足らずに人が傷つくことをしてしまっているが、そのことに自分が気づけないので遠ざけられる」なので、相手にその旨先に伝えてくといい。
自分のアイディアはこれとも違う。そもそも「大事にされていない」「遠ざけられている」という認識が正しくないかもしれないというのが私の立場だ。元増田についても、すでにこのスレッドやブクマで多くの人から大事にされているのだから大きな反例になっている。 少なくとも汲める事実は「両親からのモラハラがあった」「グループホームで暴力を起こした人がいた」ということだけだ。これを「遠ざけられている」と読み取ることは、私が何度も言っている極端な単純化だ。
もし「自分の考えが足りず人を傷つけるのだ」というところに根拠を置いてしまうと、「自分の考えを洗練させなければならない」という出来もしない曖昧な課題が作られてしまう。私もおそらく元増田も、このような袋小路でさんざん自分を苦しめてきた。私の主張が伝わっていれば、期待値が高い対処は例えば「なるべく親元から離れる」「相性のいいグループホームを探し、医師など専門家の支援を受ける」などになる。的外れな自省をさせる意味は無い。
aox ASMRに限らず増田さんみたいにスパスパ考えられて実行できるなら誰も苦労しないのでは ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ
私も偉そうに書いてしまっているので労せずこれに至ったと思われても仕方ないが、これに至るまでは大変な苦労をした。自殺未遂をして警察に保護されそのまま措置入院(強制)というのを何度かやった。ずっと不登校だったが一念発起して就職した会社も、それで復職できず退職した。短絡的な行動で多くの人間関係を失った。何年も睡眠が浅く、悪夢で夜中に飛び起きることが多かった。今もギリギリのバランスでやっと立っているが、それでも以前に比べれば前向きに暮らせている。むしろ読む人がこんな苦労をせず役立ててくれるなら幸いだ。
仕事中に「あ、これはもうだめなやつ(自分の限界を超えるストレス)だ」と思った途端息が出来なくなった。
その日は金曜だったので無理矢理早退して虚無の土日をすごし、騙し騙し二週間ほど働いた。
心療内科にかかろうと思って調べてみるも、選べなかった。何を基準に選んだら良いかわからなくて、ブラウザのタブを行ったり来たり。口コミもあてにならない。どうしよう。
そうやって悩んでいる間に様子の異変に気づいたらしい友人から声がかかってしどろもどろになりながら状況の説明。だけど八方美人なので「まあなんとかなるでしょ」と笑ったら「何とかならなかったから今苦しんでるんだろ。この話を聞いたから距離を置く関係じゃないし、とりあえず思ってること話しなよ。支離滅裂でもちゃんと聞くから」と言われて号泣。
友人からも通院を勧められたけど、心療内科が選べないんだと説明したら「酷いメンタルの時でも通える場所」「なるべく移動が楽な場所」でとりあえず絞り込んで見たら?と言われてやってみた。
そして今日、月曜日になったのでいざ電話をかけてみたら「初診は今受けてないんです」と断られた。そうか、そういう事もあるのか、と思って2件目にかけた。2件目も断られた。3件目にかけた。3件目も断られた。心が折れた。
いつもの内科で出してもらっている入眠導入剤ももうきかない。これ以上強いものは専門医から出してもらってと言われている。どうしろと。
ごめんなさい、私もちゃんと調べればよかった。
紹介状なら、別件で通院している内科で相談してみようと思います。
常習バックラーなんだが今日仕事やめた。厳密にいうと明日から今月いっぱいまで有給消化。
いやー今まで仕事ってずっとバックレて辞めますって退職届を内容証明で送って離職票来るの待ってたんだが、今回は人間関係に頗る恵まれていたので正式な手順を踏んだ。
一か月前にちゃんと上長に伝えたら課長に話行って、課長と面談して、部長に話行って部長と面談して、その後最後に人事課長と面談して、正式に退職に必要な手続きの書類書いて、職場の先輩達に辞める旨伝えて、残念がられたりこの先の事根掘り葉掘り聞かれたり(ホワイトな現場だったけど20代最後のチャンスだったし別業界にチャレンジする為の退職だった)現場の引継ぎの準備と引継ぎしたり、協力会社の人達とかお客さんも仕事辞める話聞きつけて色々聞きにきて今後の事根ほり葉ほり聞かれたり、上司に「期待して折角手塩かけて育てたのに別業種に行くのは裏切られた気分(実際滅茶苦茶お世話になって色んなこと教えてもらった)」みたいな事言われてちょっと雰囲気悪くなったり、引継ぎも終わって、職場の人に片っ端から挨拶して菓子折り用意して、入館証返却の手続き済んで、ようやく終わった……。
バックレた時なんかバックレ決めてとんずらしたその日に履歴書作って職務経歴作って転職サイトで何個か求人ピックアップして全部応募して離職票届く前に内定貰ったりしてたんだけど、正式な手続き踏んで退職すんのくsssssssssssssっそ体力減るわ……。ヤバすぎだろすげえ疲れた、みんなこんな事してたのかよ、俺次回辞める時ぜったいにバックレようと思ったぞ。疲れすぎて転職する気マジで起きねえよ。やる気わかねえわ、マジでなんも気力わかん。働きながらだと転職活動なかなか難しかったから、有給消化中に転職先見つける気でいたんだけど辞めるまでが糞だるすぎてMPごっそり持ってかれた。倫理的によろしくないと思うけど、マジでバックレてればよかったわ。しんどい。