はてなキーワード: 自助努力とは
『公助は削って、福祉は家族による相互扶助を基本とする』に対して、そんなことしたら社会が貧困化するよという主張が感想レベルだからダメですかそうですか。そもそも自助や互助で貧困は防ぎきれず、その貧困への対策が共助、公助なわけなんだけども。こんなことは常識の範疇と思っていたよ。
この自助・共助・公助という3分論は、自民党の綱領(平成22(2010)年)で政策の基本的な考え方として採用されている。「自助自立する個人を尊重し、その条件を整えるとともに、共助・公助する仕組みを充実する」とある。菅氏の発言は自民党員として、党の綱領に忠実であったともいえる。また、社会保障制度改革推進法の第2条には、「社会保障制度改革は、次に掲げる事項を基本として行われるものとする。一 自助、共助及び公助が最も適切に組み合わされるよう留意しつつ、国民が自立した生活を営むことができるよう、家族相互及び国民相互の助け合いの仕組みを通じてその実現を支援していくこと。」とあり、法律の文言にもなっている。
総理大臣になった菅氏が、この社会像としての3分論を具体的な政策の中でどのように生かしていくのかは分からないが、これまで、介護保険制度の創設と運用にかかわり、自助・互助・共助・公助という4分論を唱えてきた筆者としては、共助の主体に地域とともに家族が含まれていることと、地域以外に共助の主体が想定されていないことに若干のコメントをしておきたい。
われわれは、人生の途中で、老化に伴う日常生活上の困難や思いがけない病気、事故、災害など、さまざまなリスクに直面する。このように何か問題が生じて解決を迫られたときに、まず、本人が自助努力で対処する。しかし、それでは無理なときは、本人の身近にいる家族・友人・隣人などが手を差し伸べる。これがインフォーマルな支援、すなわち互助である。自助と互助ではカバーしきれない場合にはシステム化された地域・職域の自治組織が支援する(共助)。この共助システムではなお解決しえない場合に行政が支援する(公助)。この4分論も、いわゆる補完性の原則に基づく社会形成の考え方であるが、自助と共助の間に互助を考え、共助としては地域以外にも社会保険を想定している。
個人が直面するリスクを、その本人の自助努力だけで克服せよというのは無理な話で、社会は、何らかの形で共同してリスクを分担する仕組みを備えていなければならない。自助から出発するにしても、自助の次に互助を想定せず、家族の支えを「共助」に包摂してしまうと、例えば、いつまでたっても家族を老親介護の責任から解放できないのではないか。家族は大事だが、それに頼りすぎては家族が参ってしまう。
互助は、自発性とゆとりと思いやりに基づく支え合い活動であって、その活動範囲も支援能力も限定的である。それは、家族・友人・隣人が無償で行う支援活動であるからである。しかし、自助のすぐそばに、この互助が息づいていることが自助の励みになるのである。老いて心身が弱っても、自分の生活に関することは自分で判断し、できるだけ自分で行おうとする個人の自助努力を尊重し励まし支援する、それが互助の意義である。自然災害のときにも、真っ先に頼りになるのは自助と互助の結びつきである。新型コロナ禍の困難の中でも自助に寄り添う家族・友人・隣人の親身な支援こそが大事である。
わが国にはシステム化された地域の自治組織として、自治会・町内会があり、近年は地域運営組織が台頭し、これらは市区町村行政と相互関係をもって活動している。この地域が共助の主体として期待されている。ただし、同じ共助のなかに、リスクを共有するもの同士で助け合う社会保険制度が存在し、国と自治体の行政(公助)が関わっているから、共助の主体は地域だけではない。共助システムである医療や介護の社会保険制度は、経費の約半分を国と自治体の公費(租税)で賄っているし、介護保険では保険者を市区町村にしているから、この共助システムは共助と公助の混合型といえる。それだけに、公費負担をしている国から、システム運用を通ずる効率化圧力が絶えず加えられる結果、公助から共助へ、共助から自助へとリスク負担を逆流させようとする動きが出てきやすい。要注意である。
共助、公助の成り立ちと役割については、このリンク先の厚生労働省白書に良くまとまっている。https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/12/dl/1-01.pdf
(工業化に伴う人々の労働者化により、血縁や地縁の機能は希薄化した)
産業資本主義の社会では、企業が潰れたり、解雇されれば失業してしまい、また、けがや病気などで働けなくなった場合、労働者は所得を得られなくなる。その一方で、労働者が血縁や地縁の関係から一定程度独立した結果、それら血縁や地縁で結ばれた人間関係を基礎とする支え合いの機能は、近代以前の社会と比べて希薄化しているため、個人にとって、生活が立ちゆかなくなってしまうリスクは大きなものとなる面があった。また、産業資本主義の社会では、労働力の商品化の結果、モノやサービスの生産が「使用者-労働者」の関係を軸に展開するようになる。近代以前の社会と異なり、労働者は自己の労働力以外に機械や原材料などの生産手段を持たない。生産手段は使用者(資本)によって所有され、労働者はそれを借用しながら自己の労働力を提供する。この関係の下では、自ずと労使の力の差が生じる。使用者に比べて力の弱い労働者は、低賃金、長時間労働という劣悪な労働条件を強いられ、解雇のリスクにさらされるようになる。過酷で貧困な生活を送る労働者は増え、労働問題が大きな社会問題になっていった。労働者たちは、同業者の間で相互扶助的組織を設けるなどして生活上のリスクに対応してきたが、これらの組織に加入できたのは、経済的に多少の余裕のある熟練労働者などに限られ、多数の非熟練労働者などは、それらの組織に加入することができなかった。
(近代的な社会保障制度の創設はドイツから始まり、欧州各国に広がっていった)
近代的な社会保障制度が世界で最初に創設されたのは、大陸ヨーロッパのドイツであった。ドイツでは、19世紀終盤に、帝国宰相の地位にあったビスマルク(Otto von
Bismarck, 1815-98)により、法律上の制度として世界で始めての社会保険制度(疾病保険法(1883年)、労災保険法(1884年)、老齢・障害保険法(1889年))が制定された*3。社会保険制度は、事業主の負担と併せて被保険者(労働者等)自ら保険料を負担(拠出)することにより給付の権利を獲得するという関係があるため市場整合的であるとして、多くの工業国で社会保障の手法として第一義的に選好される傾向が強いものとなっていった。そして社会保険による給付は、市場経済的な権利関係の裏付けを欠くために、社会の負担、あるいは自助能力を欠く者との差別や偏見から逃れられず、受給にスティグマ(汚名)が伴っていた恩恵的・救済的福祉の給付とは異なっていた*4。また、あらかじめ生活リスクに備える点で、それまでヨーロッパ各国で主流であった事後的な「救貧」施策から事前の「防貧」施策への第一歩を踏み出した点でも大きく評価された。
(略)
(社会保障は、個人の生活上のリスクに社会的に対応する仕組みとして求められるようになり、産業資本主義の社会と国民国家の発展を支えていった)
このように、産業資本主義が発展する中で、血縁、地縁がそれまで果たしてきた人々の生活を保障する機能は限定的なものとなっていった。それらの機能を代替するため、傷病、老齢、失業などのリスクに公助又は共助という形で社会的に対応する仕組みが必要となり、現在に通じるような社会保障制度が求められるようになったといえる。
そして、社会保障が血縁や地縁の機能を代替*8することにより、人々は経済活動に注力することができるようになったという意味で、社会保障は産業資本主義の社会、国民国家の発展を支えていったともいえる。
(世界恐慌から第二次世界大戦までの間に、戦後社会保障の構想が練られていった)
1929年には、アメリカのニューヨーク証券取引所での株価の大暴落をきっかけに世界恐慌が発生した。その影響は大変大きなもので、1930年代には各国で多くの企業が倒産し、街は大量の失業者で溢れ、社会不安はますます増大した。
(略)
ケインズの理論によって完全雇用に近づければ、失業給付を激減させ、なお残る失業者に手厚い給付ができ、また、社会保障によって全国民に最低限度の生活を保障すれば、有効需要が増え、さらに失業者が減る。このように、ベヴァリッジとケインズの考えは互いに補強しあう関係にあった。これは「ケインズ・ベヴァリッジ主義(体制)」、「福祉国家の合意」などと呼ばれる。その後、ベヴァリッジは、第2次世界大戦中の1942年に、いわゆるベヴァリッジ報告(『社会保険および関連サービス』)を英国政府に提出し、「ゆりかごから墓場まで(Fromthe Cradle to the Grave)」のスローガンの下、新しい生活保障の体系*10を打ち立てた。このベヴァリッジ報告の影響を大きく受け、第二次世界大戦後には世界の多くの資本主義諸国で、経済の安定成長と完全雇用*11、国民福祉の充実を目指す「福祉国家」の潮流が広がっていった*12。
(戦後、どの先進諸国にとっても社会保障は不可欠なものになった)
(1970年代―オイルショック後の経済成長の鈍化等により、社会保障・福祉国家批判は大きな潮流になった)
(1980年代―新自由主義的な政策が採用され、社会保障・福祉国家の「見直し」が行われた)
(新自由主義的な政策は、経済のグローバル化の趨勢とも親和的だった)
(社会保障・福祉国家の「見直し」がもたらした弊害は大きなものだった)
(当初の「見直し」という目的が実際に達成されたかについても、見方は分かれる)
(1990年代以降、社会保障の重要性が再認識され、過去に指摘された問題点に応える努力をしながら、社会保障・福祉国家を再編成する時期に入っている)
(今日では、社会保障は様々な機能を持っており、私たちの経済社会に欠かせない重要な仕組みである)
今日では社会保障は、個人の視点からみれば、傷病、失業、高齢など自活するための前提が損なわれたときに生活の安定を図り、安心をもたらすことを目的とした「社会的セーフティネット(社会的安全装置)」という機能を果たしている。また、それを社会全体としてみれば、所得を個人や世帯の間で移転させることにより貧富の格差を縮小したり、低所得者の生活の安定を図る「所得再分配」や、「自立した個人」の力のみでは対応できない事態に社会全体で備える「リスク分散」という機能を果たしているといえる。
さらに社会保障は、必ずしも恵まれない人たちにも社会の一員としての帰属意識を共有してもらうことで社会的な統合を促進させる。また、消費性向が高い低所得の人たちに所得移転し購買力を高めることで個人消費を促進したり、医療、介護、保育などの社会保障関連産業における雇用の創出を通じて経済成長にも寄与する。こうした「社会の安定及び経済の安定と成長」といった機能も果たしている*20。
このように、社会保障は私たちの経済社会にとって欠かせない重要な仕組みとなっている。だからこそ、支え手である現役世代(働く世代)の人口が減る少子高齢社会において、どのようにして持続可能な制度を構築していくか、若年者等の失業問題や社会的弱者が孤立を深める状況(社会的排除)を改善するためにどのように社会保障制度を機能させていくべきか、経済のグローバル化に伴う国際競争の激化が雇用の柔軟性や流動性を要求する状況など社会保障が前提としてきた雇用基盤の変化や経済の低成長が続く中で、どのような所得再分配や雇用政策が適切なのかといった点は、先進諸国にとって、重要な政策課題となっている。
社会は貧困化するの件が感想でしかないので、感想に対する反論などありません残念でした
人生に遅いということはないよ
(※個人的な感想のため殴り書きに近いことをご了承していただけると幸いです)
日本の少子化対策に対して思うことはたくさんあるが、政府がやれることは十分に出来ている。問題は、民間がやる気があるかないかで解決につながるのではないかと私は見ている。
理由1.なんでも政治任せになっているため、他の人々に責任をなすりつけているのではないか。
これはあくまでも言論界隈や自称フェミニストに多く見られるのだが、やれ少子化対策をしろ給付金を増やせなどお上に対する要望が多い。真剣に考えてはいるのだろうが、市場経済の考えに倣えば、民間が需要を喚起しなければたとえ政府が何しようが効果は空振りに終わる。少ない需要に対して支援をしても費用対効果が悪ければ効果が出ないことは明白だ。
理由2.本来産むか産まないかのイエスorノーの問題なのに、環境のせいにする人が多いこと
企業が育休を取らせない、頼れる相手がいない等の環境的な問題が子どもを持つことを躊躇することもある。しかし、現代人はテクノロジーやインフラが充実した現代社会に甘んじて、人とのつながりが希薄になりつつある。私の親世代は子どもができたら周りに子供を預けるとなど自助努力はしてきた。もちろん、体調が必ずしもよくない人が子供をたくさん持たない理由につながることは重々承知はしているし、実際に無理なら仕方がない。
我が国は2010年以降人口が右肩下がりになり、今では全国の3割以上が高齢者になっている。出生率は100万人を下回り、人口が一時的に右肩上がりになったのは今の40代以降一度もない。こうした状況が続くと、経済の損失は計り知れない程に大きい。
内需の減少
将来の働き手が減少することにより経済成長が下がること。
最後に
少子化問題は我が国を揺るがす一大事であり、この状況を放置したら先代が築き上げた財産が全てなくなってしまいます。不妊治療の負担軽減など政府も最善は尽くしているが、肝心の需要(民間)が少なくなるのであれば、政府の仕事が無になることは必然ではないでしょうか。
人口を増やすには産むことが何よりも最善の策であり、悠長なことを言っていられる状況ではないと感じている。
なにより、人口が減少することで産む側の立場にある女性陣の立場が追い込まれる。手遅れになれば社会が女性や民間の人々に対して私権を制限せざるを得ない状況になる可能性だけは避けるべき。
「性欲の解消」手段として他者を与えられることを当然の権利のように言うなや。女性のセルフプレジャーが少しずつ認められている? だったら増田は男性が最初から認められているセルフプレジャーの権利を行使すればそれで平等じゃんか。
性別関係なく、他者を求める増田も、他者である向こうも、同じ人間だよ。増田が性欲の解消手段に特定の条件(自慰ではなく人間で、おそらく女性で、おそらく老人でない人で、でも妻ではダメ)を課しているように、相手も同じようにそれぞれ固有の条件があるんだよ。増田がどうしてもセルフプレジャーじゃなくてリアルな人間の他者を利用した「性欲の解消」を求めてるなら、増田自身の都合を他人に押しつけるのではなく、大多数の他者の「条件」に叶うように自分を変えるか、自分を「条件」に入れてもらえるような他者を頑張って探すしかない。
自分が相手の条件にあてはまっていない場合、自分が「性欲の解消」のためにその相手にセックスを求めること、あるいはそれを社会がシステム的に強要することは、当然その相手を「傷つける」ことになる(性犯罪を構成するかどうかに関係なく自由権の侵害だ)。そういう「他害なき性行為=条件が合致した相手との、合意にもとづく性行為」という原則をすっとばして「世間や社会が何とかしてしてくれ」というのは、結局は例の「女をあてがえ」論になってしまう。
自助努力ではなくシステム的に「性欲の解消」を補助してる例としては、身体障害者の性機能ケアNPOのホワイトハンズがあるが、あれはあくまで物理的にセルフプレジャーを得ることが困難な状況にある当事者の自慰の支援で、性欲解消の手段として他者をあてがってるわけじゃない。
増田が「誰もが傷つかない方法での対処」を望んでいるなら、まず自分のなかで、自慰という行為と〈性欲〉との関係を、そして自分は自慰だけでは何が不満なのかということを、きちんと捉え直してみてもいいんじゃないか。「自慰以外の何か」とは、リアルな肉体や人肌という他者身体(ハードウェア)を用いた射精なのか、それとも心の通い合う相手との情交というロマンティックな価値なのか。それらは果たして、社会がお互いの自由権を侵害しないかたちで、なお制度的・システム的に提供できるものなのか。そうした制度がありうるとしたら、それは結果として、性風俗産業(性行為を求める人と金銭を求める人をマッチングさせる仕組み)に限りなく近いものになったりはしないか。それについての増田の考えを改めて読んでみたい。
日本型弱者っていうのは、結局幅広い世界を知る機会がなかった人たち、あるいは知る機会を得る友人を持ち得ず、あるいはまた世の中に臆病で知る機会が活かせなかった人たちだと思っている。
弱者になる前のタイミングで精神的なつながりを失い、その結果が現実の不利として働き、本当は開花したかも知れない能力を眠らせている。
自助努力でどうにでもなる、という人もいるが、そもそも社会からこてんぱんにされたひとが自助努力でどうにかなると思えないのは明らかだ。そうした精神的要因がさらに自助努力の可能性も潰してゆく。こうして疲弊したそのひとが更に怠けているといわれて機会と人脈を失う。
まず前提として女性というカテゴリに属する弱者が『理解のある彼くん』という手段で救いを得やすい傾向にあるのは事実でしょ。
確かに理解ある異性を得るのにも努力が必要だろうだけれど弱者が自助努力により救済を得る方法の中では比較的イージーな手段であることも事実だし、男女の性欲差によって男性よりも女性の方が理解ある異性を得やすいのもまた事実。
そして、『理解のある彼くん』という手段を選ぶと選ばざるとに関わらず、不幸からの脱出手段の選択肢が一つ多いということ自体はやはり恵まれていることだよ。
その上で、アセクシャルという増田のような『理解のある彼くん』が救いにならない、あるいは所謂『穴モテ』ができないレベルのブスみたいに『理解のある彼くん』にすら救ってもらえない、そういう『女性でありながら女性の持つ優位傾向を活かせない人々』が「女性というだけで恵まれているかのように語るな! 私たちの辛さを矮小化するな!」と憤るのは、差別に対する正当な怒りだと思うよ。
ただまあ、増田がそうした差別を受けているという事実を認めた上で、それでも増田に対しては欠片も同情心は湧かないな。
だって増田も弱者男性にも女性に対して加害性のある人もいればそうでない人もいるという事実を無視して、弱者男性という属性を叩いているんだから。
おい、冗談だろ。
ヘイトスピーチやめろが「具体的じゃない」って本気か?
「何が差別か具体的に教えてもらわなきゃわからない」って正気か?
急なわからないフリ、属性によって主張すら変えるそのふざけた態度が差別だっつってんだろ。
もう正直、ここにきても差別的な言動を続ける奴らは手遅れなので、
如何に酷いコメントがあるかをまともな人に見てもらう場にでもなればいいと思ってる。
それにしても、「障害者」という弱者(あえてこう書くが)が「男性障害者」になっただけで「危ないから近づくな」という論調になった話まで書いてるのに、
「具体例が分からない」ってのはどういうことだ?
なに都合よく無視してんだよ
挙句、
「レディースデーとか女性専用車両が差別?」 「女性の万倍ラク」 「実は具体的なこと何も言ってない」
「結局むずかってるだけ」 「俺に優しくしろと言いたいだけ」 「勝手に被害妄想してるだけ」
「いや普通に女をあてがって欲しいんじゃないかな」だとよ。(ほんとに出たキチガイ!ね、嘘じゃなかったでしょ)
お前ら、逆に、ほかの場面でこういうことを言っても「差別なんかじゃありません」と、今まさに太鼓判を押したんだからな?よく覚えとけよ。
みなさんも「これは差別じゃない」と主張してるこの人たちの事を、忘れないであげてくださいね。
「それ、黒人差別の万倍ラクな悩みだな!被害妄想じゃね?」とか、
俺なら死んでも言いたくない。
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って、
お前、いい歳した大人だろ。
当たり前の事だろ。そんなことを指摘されてんじゃねえよ。
世の中にセンシティブな問題は色々あるが、「何が差別になるか、差別的にならないように言動に気を付けよう」、それを考えることが始まりだろ。
まずそれを考えろ。
「弱者男性の具体的な意見が見えてこない」「もっと説明するべき」とか、
てめえはどれだけ寝ぼけてんだよ。
ずっと「まずは差別的な扱いをやめてくれ」って言ってんだろ。
それに対して「なるほど、女をあてがってほしいんだな」って、キチガイかよ。
まさか、「弱者男性の意見はみんなバラバラだから、ヘイトスピーチがいけないことだなんて思わなかった」とでも言い訳するつもりか?
恥を知れ。
「具体的に可能な行動」がヘイトスピーチをやめる、デマを拡散しない、ぐらいしかないだろ。
属性問題なら誰もが真っ先に思いつく「ヘイトスピーチをしない」ってだけのことを、なんで守ろうとすらしないんだよ。
普通のマイノリティ(に限らず、他の属性でもだが)相手なら許されないような罵詈雑言が、
「男性」とついただけでありになる風潮は糞だろ。
「なんだ、悪口言うなって程度?やっぱり他の弱者に比べれば大したことないんだね」とか言い出すんだろうが、
これだけ「差別ダメ!セクハラ禁止!」という建前の世の中で、「性別」を理由にここまでオープンに差別的な扱いされてるのをおかしいと思わないのか。
それに建前の上ですらこの扱いなんだから、裏では推して知るべしだろう。
「男の自殺率が女の倍」って、そういう話だろ。
ネットで「サベツハンタイ!」と叫んでる奴にすら、フルオープンの場でも平気で差別されるんだぞ。
「それは差別だろ」って指摘しても、「じゃあ何をしてほしいの?結局女をあてがえって?ミソオスめ」とか意味不明なことを言われるんだぞ。
「自助努力」なんて、やる気力も湧くわけねえだろふざけんな。
そもそも「差別しないでくれ」と訴える集団に、「自助努力すれば」って、くっそヘイトスピーチだろ。
その一か月前は対象が「男性」障害者になっただけで「性犯罪が懸念される」「危ないから女性は近づいちゃいけない」って論調になったんだぞ?
「健常者がバリアを作ってる」「現代人は心が狭すぎる」なんて奇麗事、誰も言わなかった。
お前らが言ったのは、「障害者は特に危険」「障害者に近づくな」だ。
忘れてねえからな。
簡単なことだ。
簡単だろう。
普通なら言わないようなことを「あえて弱者男性の話題では大っぴらに言う」、その浅ましい差別心を少しは抑えろと言っている。
簡単なことだ。
馬鹿なの?
住民税非課税世帯なら緊急小口資金も返済不要だし子育て世帯のみに別制度を増やす理由ってなんだろ?緊急小口資金の拡充じゃダメなんか?
住民税非課税レベル=ほぼ生活保護受給できる水準ですがそんな子育て世帯がどれだけあると思ってるんですか??
子育て世帯にのみ手厚くするのは子育てにそれだけ負担があるからなのですが?
そもそもコロナ第1波の前から特措法改正を主張してたのを無視し、あまつさえコロナ禍での過重労働で苦しんでる看護師の待遇を危うくするような日雇い派遣法案を通す方がありえないですよね
「弱者男性はまずクロワッサンを読め。丁寧な暮らしをして、自分の機嫌を取れ。」
絶賛してる多くのはてな民と、ブチギレてる弱者男性擁護派に見事に別れたこの提言。
でもこれ冷静に考えると正論なんだよな。珍しくはてな民がマトモなことを言っている。
反発してしまうのもわかるが、全くの正論としか言いようがないのだ。
現代の弱者というのは結局の所、自分で自分の世話ができないことがストレスとなり
他人のリソースを注入せざるを得ないのに加害性が高く、コミュニケーションも高コストになる、というところに本質がある。
おとなしく機嫌の良い弱者ならなんとでもなるが、暴力的で不機嫌な弱者は支援もしづらく、相互扶助のリターンは小さく、支援者にも避けられ、ますます弱者になっていく。
社会関係資本という最も重要な資本を自ら失ってしまう。たとえば公的支援も後回しになり、金銭でサービスを受ける際にも追加でコストを取られる。
私的関係なんて当然言うまでもなく壊滅していく。それが弱者たる所以。
だから、「まず自助努力で丁寧な暮らしで自分の機嫌を取れるようになり、そこから支援を受ける」というのは理想的な流れと言える。
とはいえ、これを弱者に向かって直接いうと当事者や、同情している人々に激怒されるのも確かだ。むしろそれこそが真の問題である。
答えはわかっているのに、納得したくないというケースが非常に多い。
最近の別の典型例は車椅子クレーマーで、あれは弱者が敵対的コミュニケーションによって周囲に加害していた例だろう。
一般人の反感を買ってますます支援と理解を得られなくなるのだが、「あれが戦略的に正しい」という意味不明な擁護が左派の中で多かった。
もちろんそんなわけないのだが、当事者に寄り添うと、認知が歪んでしまい、客観的に物事を見られなくなるのだ。これ自体は仕方がない。一般的な話で、左右の問題ではない。
今回の件で言えば弱者男性擁護派もブチギレていた。全く同様の心の動きだろう。
そこにさらなる正論で反論しても、ますますヒートアップするばかりで、納得が得られる可能性は低い。
忠言耳に逆らう、というのは普遍的な話だ。最も重要な提言ほど、正面から言うと理解が得られない。
だからこそ、様々な弱者に対して「弱者はまず黙って丁寧な暮らしをしようよ」という正論を投げかけるのは有効だと思う。
障害者、マイノリティ、弱者男性、いろいろな弱者がいるわけだが、その全てに同情している人間はそれほど多くないだろう。
自分がまったく同情していない、あるいは嫌悪している対象ならば、「弱者はまず黙って丁寧な暮らしをしよう」という正論の合理性が簡単に理解できると思う。
もちろん同情しているとか、実際に当事者なら怒るだろうが、その場合にはまた別の対象を持ってくればいい。
弱者男性擁護派も他の弱者に対しては同様の論理を持ち出していることは多い。
そこからはじめて繰り返していけば、弱者一般に対しても全く同様の論理が成立することも、最終的にはみな理解できるだろう。
実際に今回、はてな民の大多数は理解できた。地道にやっていくことが大事だ。
そうすればだんだんと加害性の高い弱者が減っていき、協調性の高い社会にたどり着くことができるだろう。
今回の提言は図らずも多くの学びを得られた。
余談だが、以下のような論理は全く空転しているといいたい。
今まで言っていたことと矛盾している人間がいたからといって、今回の反応が間違いだ、というのはレトリックにしてもあまりにも短絡的だ。
むしろ、今までが間違っており、今回正しい結論に至ったと見るべきであろう。
https://anond.hatelabo.jp/20210503143456
(追記)
ブコメに明らかに文意が読み取れていないはてな民が見受けられる。
私は福祉を否定しているわけではない。弱者に助けが必要なのはそのとおりだ。読めばわかるだろうが、共助や公助を受ける「ために」自助努力が必要だという話をしている。
https://bunshun.jp/articles/-/44981
・文春やっぱり増田をキャリブレーションに使ってるな。まあ他のとこ(たとえばBBC)を参照する増田よりは相思相愛でいいんじゃないかとはおもうが。
・この「弱い人ほど弱さをみとめて悟りにちかづく」ってのは悪人正機説といってプロレスラーだったり受刑者(強さを使役する男性)が獄中で読む本として有名な歎異抄の教え。車輪の再発明やな
https://biz.trans-suite.jp/16081
ところで仏教って女性を救わない・救えない(と教祖が定義してしまった)三大宗教の一つなんだよね。どの宗教でも女性はけがれ、誘惑、悪の元。弱者男性とおなじような敵視を感じるよ。
とりあえず宗教者になるなら女犯禁止はどの宗教でもやるでしょ。セックスして生活費もらって子育てしてたらあと救いはいらねーよな的な。
結局女性は自助努力するしかなかった。それを「怖がる」とかマジ救えない。親によほど虐待されたのかね。そういうのってほんと自己解決してほしい
インドでは毎日30万人が感染し、日本はこの1年の累計で50万人である。
自分の仕事に影響があるとかだけの個人的な理由で政治家を批判するのは誤り。
実際に、中食(持ち帰り)にシフトして繁盛している飲食業も多い。
自分は努力しないで、政治にぐだぐだ不満を言っている連中が嫌いだ。
なんてことは百も承知だよ。
きのうTBSニュースみてたら、やきとんチェーンの女店長が、グダグダグダグダ政府批判して、
「補償金出すというなら考えますけど」みたいに締めくくってたのがムカついて、突発的に書いた。
豚やら鳥やら殺しまくってコロナ感染源提供してる立場で、なんだその物言いは?と思っただけ。
(追記2)
まあほとんどの国民は他人のために自粛協力してるし、こういう政府批判みたいな記事やインタビューは、
ごく一部の業種の、ごく一部の人間を切り取った報道ではあるんだよな。
エリートフェミは底辺女のことをどう考えているのかを聞いてみる必要がある。底辺女は自助努力せよ!とかだと、底辺女にはもう味方はいない、ということになる。その場合は擁護を装った男と共謀する必要がある。あなたのことは恨んでいるが、子供が成人するまで離婚はしない、と誓う忍耐強いマッマのように。
おっしゃることは全くもってごもっとも。この方面にももっと光を当てて欲しいですよね。
【1】オナニーの腕前をあげて、一回のオナニーで出来るだけ深い満足を得られるようにする。(大急ぎでチャチャっと射精してしまうと浅い満足感で終わりがちなので、ついついオナニーの頻度が増えがち。むしろ、ゆっくりじっくりやって深い満足を得た方が、より長く性的衝動から解放される。)
【2】早くセックスのパートナーを見つけて、じっくりセックスをして深い性的満足を得よう。結婚するもよし、恋人とセックスしまくるのもよし、女友達と定期的にセックスするもよし(セックスもする友達?)。どんな形であれ、安心して繰り返しセックスできる相手を見つけよう。
https://anond.hatelabo.jp/20210410152243
この話、概ね理解できるんだけど
じゃあ女性の地位向上問題や女性の生きやすさ問題とどこが違うのか、と考えると面白いと思う
資本というのは色んなものがあるらしいけど、生きやすさを構成する資本の中で、弱者男性=資本が少ない者に不足しているものは例えば人間関係のような、社会に要求してもしょうがないものが多いんだと思う
弱者女性が不足していたものって、お金や地位や権利のような、社会にアプローチして要求しやすいものが多いから社会的にも支援しやすかったと思う
弱者女性はまだ救いやすかったし(とか言うと怒られそうだけど)、女性が団結して勝ち取ることができたけど
現代の弱者男性は支援しづらいし、群れて主張してもキモいだけだし、自助努力でどうにかしづらい
そして堂々巡りになる