はてなキーワード: 担い手とは
https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1722329
7箇条めっちゃ叩かれてるけど、都会の自治会はまともなのかって話したいんだけど、
うちは、小学生が700人以上いる校区のそこそこ人口のいる自治会に所属してる。回転寿司やドラッグストア、牛丼屋が徒歩圏内あるような住宅地で老若男女そこそこいる。
けど、うちの自治会、コロナ前から地域の運動会以外の活動をしてなくて、ただの集金マシーンになってたよ。
二世帯も多いんだけどジジババしか自治会に出てこないし。引っ張ってく人もいないから、自分の班長が終わったら自治会抜けてく。自分が班長の時は、運動会お願いしますとかいって頼んできたくせに恩を仇で返された。
あと自治会を抜ける理由は、老人世帯は、老人会がしんどいってぬけてくんよね。いろいろイベントあるらしい。
それに比べてさ、池田町の区長さん達は実に田舎くさく旧来の価値観で行動してると思う。でも、自分達の地域を守っていこう意気込みはあるよね。
でも、行動している分区長さん達は偉いと思うんだけどな。
日本共産党が民主主義的な変革を通じて、ゆくゆくは社会主義を目指している政党だというのは知っていた。
ソ連や中国の方向性に異を唱え、社会主義の前に、まずは民主主義の確立を目指すという意味では、共産党は憲法の擁護者であったし、自由と議会制民主主義の擁護者としてふるまっていると思っていた。
そういうことを知っていたつもりだったけれども、このたび、異論を許さない態度で党首公選制を訴えた党員を除名処分にするニュースはあまりにも自由や民主主義の考え方と乖離する、という違和感が強い。もちろん、50年代、60年代に、ブントからさまざまな新左翼党派が生まれた経緯を反省すると、党の結束重視、分派につながる動きへの警戒は理解できるものの、なんとなく民主主義を擁護している風の皮をかぶりながら、やっぱり統制好きな人たちなのか?という印象はぬぐえない。
そこで日本共産党綱領を民主主義というキーワードがどういう文脈で使われているかを改めて読み直してみた。
まとめると、以下の特徴が読み取れた。
・民主主義的な変革(革命)は専制政治や覇権主義との闘いである
・変革(革命)の担い手は労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生からなる統一戦線である。
民主主義は設計された所与のプラットフォームというより、【変革】により戦った【主体】が勝ち取る動的な運動と認識されている。その主体が定義されリスト化されており、その【統一】には社会構成員全員が含まれているわけではない、というのも注目に値する。はっきり書いてないが打倒されるべき悪しき存在の匂いがぷんぷんする。昔よりマイルドになったとはいえ、人民が戦って勝ち取るぞ的な歴史観がすごい。
綱領は最後に、現在、日本社会が必要とする民主的改革の主要な内容として、国の独立・安全保障・外交の分野から憲法と民主主義の分野、そして経済的民主主義の分野で目指すべき方向性を示している。
この中には安保破棄といったおなじみのものから、ジェンダー平等など最近になって共産党自身が認識を改めたものも含まれている。
経済的民主主義の分野においては、労働規制、食糧安保などが強調されているが、自由主義経済の擁護はやはり、というか、やっぱり記載がなかった。
憲法・民主主義の分野の記載で、もうひとつ特徴的だと思ったのは、民主政にとって、ある重要なメカニズムが全く記載されていないことだった。
ははあ、と腑に落ちたところがあった。なぜ民主政にとって、もっとも重要な概念が抜け落ちてしまうのか。
共産党の考え方では、民主主義は、戦いと表現されることから象徴されるように、そもそも主体的に、イデオロギーの進歩として達成されるべきものと認識されており、しかもそれは社会主義革命に至る途上の段階とされる。
民主主義が革命に向かう運動と理解され、この革命の担い手「主体」がキーワードになるんだな、と改めて気が付かされた。運動主体が【統一】されるべきである、という共産党員の自画像が、今回の件で、党外発言を攻撃とまで罵る背景にあるように思えた。
というのは、いわゆる自由主義社会においては、「主体」について全く異なる理解をしている。多様な主体のもとで、社会が進展するという考え方のほうが支配的だからだ。
広い意味でのリベラリズムでは、リバタリアニズムやレッセフェールなど完全放任まで幅があるものの、経済や社会の進歩は、特定のイデオロギーによって達成されるのではなく、優れたものが自然に選択されるという淘汰圧が客観的な社会のダイナミズムとして理解されている。
表現の自由についていえば、特定のイデオロギーの正しさは、歴史が自然に結果を出すものであって、教会や政府が真理として押し付けるものではない、というのがヨーロッパでもアメリカの政治体制でも共通の前提となっている。
そのような認識の下では、多数の目から一見すると正しくない言論や行い、考え方についても、その考えが社会に存在することを排除しないのが美徳となる。
差別的言論しかりであり、正しくないと思えるものが一定程度、社会に蔓延するのを認容する、というのは、長い目でみて、社会が進歩するための副産物と考える。
したがって、雑にまとめれば、自由主義社会の制度設計では、ブルジョアやプロレタリアートといったイデオロギー的な主体の覚醒は必要とされないし、イデオロギー的な主体の覚醒や人民の団結を呼びかけるような政治体制は、資本主義的な搾取構造以上に、暴力装置である、というのがリベラル側からみた共産主義の問題点といったところだろう。自由主義では、イデオロギー的に多様であっても、そして無自覚であっても成立し、発展しうる社会設計を構想しているのに対し、共産主義では、変革の主体が強く意識され、その主体が統一(戦線)されることが変革のキーだと考えられている。
民主という言葉が登場するたびに、それは専制によって奪われてきた歴史であり、覇権主義との闘いであり、それに抗い変革を進める担い手が強調される。
そして、ひとたび担い手に注目するやいなや、担い手の気づきというか覚醒が求められる。革命は待ってても自然には起こらないということだ。
これは共産主義独特の進歩史観だ。ここに、担い手を教育し、同じ価値観やイデオロギーを共有させようとする契機がある。
これは、党首公選制を唱えた者を破門する、という最近みられた動きと表裏一体ということになる。
綱領に言論の自由の記載が一行も存在しないのも納得である。言論の自由のもつ社会のダイナミズムを理解しつつ、イデオロギーを啓もうすることは自己矛盾だ。
というわけで、社会の変革にとって、イデオロギーに共鳴する主体醸成を重視するか、
それとも自由のダイナミズムを重視するか、ここに分かれ道がある、というありきたりな結論に至ってしまったな。
政治体制 | 言論自由 | 進歩史観 | プレイヤー |
---|---|---|---|
自由主義 | どちらかというと放置 | 蓋然的・客観的 | 多様性重視 |
共産主義 | どちらかというと統制的 | 必然的・主体的 | 一体性重視 |
みたいなイメージになった。
しかし、共産党の皆さんに是非、戦後の世界の歴史をもう一度振り返ってもらいたいと思うのは、
言論表現の自由がもたらす社会の不協和音、暴力という副産物をある程度社会が許容できたからこそ、社会運動が大きく広がった。
この運動はもちろん差別と闘う社会変革の主体抜きには語ることはできないが、過激な言論を民主主義の副産物とする社会のプラットフォームがあることによって、運動の価値が昇華された。
暴力性という点では労働権の暴力性(争議権)も社会改革の進展のかぎだ。今では自明性に埋没して疑いもしない労働者という言葉、実は【労働者の概念】とその暴力性は、革命の概念と地続きり、出自はもちろん自由主義ではありえない。
異なる出自をもつ二つの権利、争議権と言論の自由は、社会変革のダイナミズムに伴う暴力という意味では実は共通項だ。
他者危害原則が基本の社会において、なぜ規範からの逸脱という暴力、そして異端の存在を、広く多様性という価値を認めて、一定程度、許容する仕組みを自由主義社会は構想しているのだろうか?同一コミュニティに閉じている限りは進歩も進化もない、という、それはやはり、進化のプロセスに対する直感が働いているといわざるを得ないだろう。
争議権というのは、学校が停止したり電車を全面的に止めたりと経済に甚大な被害を与える超暴力的な行為を時に伴うが、そのような痛みを社会が許容することによって社会が改善することがある。自由主義社会はこうした社会変革に伴う暴力を一定のコントロールに置いたうえで社会の進歩を進めてきたといえる。
ちょっと余談になるが、日本での社会権の受容はGHQ改革に始まって、やや独特の経緯をたどって欧米とは異なる展開となった。
敗戦直後、それまでの動員される勤労者から主体的な労働者へ突然、主体の変換が起きた。その結果としての、労働者階級の過剰な希望、そして暴力に伴う社会的な混乱は、失望と社会秩序維持へのさらなる圧力を生み、やがて国労と新左翼だけが残った。そして秩序を乱す奴イコール、テロリスト、という空気が蔓延した。
日本は国労が新左翼と一緒になって調子に乗りすぎた結果、争議権は骨抜きになった。日本では社会秩序と暴力が明確に対立概念となり、争議はなれ合いとなり、労使協調という言葉に象徴されるように、労使間の秩序模索にすぎなくなった。ただ一方、ヨーロッパではそんなことはなく、社会権の潜在的なラディカリズムが広く受け入れられている。病院だろうが航空機だろうが、誰が困って死のうがストが決行される暴力性が顕在なのだ。なんなら革命で政府を転覆させるぜくらいの勢いで。
ともあれ、自由主義社会が社会主義的な発想でラディカルな主体の考え方を一部取り込んでいる、という動きは、自由主義VS社会主義と単純に括ることができないことを示している。
絵画にトマト投げみたいな環境急進主義しかり。ヨーロッパになぜあれほどラディカリズムがパフォーマンスを繰り広げられる余地があるかというと、そもそも自由主義社会は社会変革の萌芽を言論統制などによって政府の力で摘まない社会設計になっているからだ。彼らはヨーロッパのニュース上ではResistantと表現されてもテロリストと表現されることは少ない。それは「労働者」という主体を仮構したうえでの争議権の意義とパラレルなのだ。
なんなら、「LGBT」しかり、なのだ。共産党は実は、長い間、同性愛者を差別してきた歴史がある。かつては「労働者」という概念が主役で争議権という武器が社会変革上、最重要な部分だったので性的マイノリティに考えが及ばない時代だった。LBGTというイデオロギー的な主体の意義に気が付き、公式に考えを修正したのはつい3年前の2020年のことだという。
https://www.sankei.com/article/20210706-L4MJ2RSGZFLHJLGW2LWKXILBGI/
LGBTの存在に気が付き、こうした修正が可能になるのは、自由主義社会が、ラディカリズムも含めて、多様な言論を放置できる社会だからだ。そのくせ日本共産党がLGBTをあたかも自分たちの応援団かのように仲間に入れようとするのは、労働運動が退潮し、運動の屋台骨が骨粗しょう症のようになってしまった日本の文脈を思い起こすと、図々しいという気もする。皮肉なことにこの記事を執筆した元板橋区議の男性も、党本部から除名処分を受けている。
結局のところ、共産主義においては、社会変革のための主体を重視し、その統一をもとめるがゆえに、主体そのものの議論が決定論的なものになってしまい、議論されにくい。
その結果、主体自身の変革は阻害される、というジレンマというか自己矛盾をはらんでいるといえるだろう。社会を変革したがるくせにね。これはある意味自らの正義の禍々しさに苦悩するヒロイズムのジレンマだ。自由主義社会でダークヒーローのドラマや映画のプロットが西部劇の昔から最近ではジョーカーに至るまで一定の需要があるのは変革の萌芽は必ずしも正義によって見出されるものではないという世界観の違いに由来する。
でも、自由主義社会にいる日本共産党としても社会の変化にも気が付かざるを得ない。
その過程で、弱体化した【労働者】を補完するべく、新興の主体、LBGTグループを統一戦線の一員として、ちゃっかりと追加したりする、ということが起こったりするわけだ。
であれば、社会主義革命を目指す共産党においても、内なるノイズをある程度、コントロールしつつ許容し、社会変革への考え方をより確実にする、という方向性もありうるんじゃないだろうか。その結果、やっぱ内ゲバをコントロールできなくなって、この調子じゃ人を教育して主体構成を前提とした社会主義化って無理じゃね?となって解散するならそれもよしなんだよ。
今回の除名騒動を受けて、党内で議論すべきことは党内で、というのが統治の基本、という主張が共産党から強調されているようだ。
一見正論だが、しかし、俺はちょっと違うと思う。それは、つまり【寄り合い】だ。
なぜなら、そのようなガバナンスの考えこそが組織の硬直化を招来し、日本の労働運動が労使間の秩序模索に堕落した一因であるし、日本的組織風土に風穴があかない最も大きな要因だからだ。寄り合いといえば、かつて日本の農村漁村を調査した宮本常一は、寄り合いによる時間をかけた合議の意思決定を観察し、他者の信頼醸成のプロセスが共同体のしきたりにない、外部社会の新しい事柄の受容のキーとなっていることを見抜いた。宮本はまた、共同体を飛び出し、放浪の旅を経て戻ってくるようなアウトローの存在を外部の知識をもたらす【世間師】として共同体が受け入れる様子も描写している。寄り合い的なコミュニケーションにおいても、異物を内部化するプロセスはあるということだ。
民主主義という視点に戻ると、言論の価値、そして、争議という変革の手法が組織どころか社会に迷惑をかけることを前提に行われることの意味をもう一度振り返ってもらいたい。
ここ数年,日本の経済が落ち込んでいるためか若者を中心に悲観論が蔓延している気がする.
こうなると「日本終わり」とか「嫌なら出てけよ」みたいな言葉が飛び交うのを見て少し悲しい気持ちになったりする.
地方からスタンフォードが出たとか,そういったニュースが取り沙汰されるのもそういった影響からなんだろうか.
メディアでも海外と比較するようなコンテンツが増えてきているような気がする.
実際,若者の一部は着実に海外に逃げる準備を進めていて,そして実行に移し始めている.
メディアでよく見るのは寿司職人だとかワーホリ等だが,実は理系学生も例外ではない.
日本人の留学事例に着目すれば,帰国子女やインターナショナルスクール卒の日本人学生が欧米の大学に行くという事例は昔から変わらずいた.
特筆すべきはこういった海外ルーツのある若者の進学ではなく,純日本人の理系大学院生が欧米に進学する例が増えている点だ.
将来のものづくりを担う理系学生が院から国外に行って,返ってこなくなるのである.
自身もかつて,地方国立大学の修士卒後に新卒で日系メーカーに入った後に退職し,米国の博士課程に流れ着いた身である.
コロナの影響で一旦は停滞したが,理系学生の海外進学の流れは着実に近年増加しているのを感じる.
国によって多少違うがほぼ例外なく,大学院生(特に博士課程)は学費無料もしくは格安で更に給料を貰いながら研究に取り組むことができる.
また学部生と違い大学院生は英語に加えて研究という共通言語を持ち合わせるため,英語能力が低めでも実績で挽回しやすい.
在学中に英語能力を鍛えて卒業後に国外で仕事を得れば,日本の同年代と比較して非常に高額な給与を得ることができる.
そんな実態が段々と浸透してきている.
近年では日本も博士学生への経済的支援の拡充を打ち出しているが,はっきり言って待遇は雲泥の差だ.
在学中に生活費と学費を自費で賄い,いい歳して学生と社会的に後ろ指を刺され,卒業後も職探しに困る日本で,一体いつまで学生が博士を取りたいと思うのだろうか.
分野にもよるが,これまでは日本の理系学生は修士を卒業した後にメーカー技術職という流れが一般的だった.
博士まで行くと一気にアウトロー感が増し,非正規雇用や就職難なんていう問題が噴出するのもあって,
実際に研究が好きでも修士で止めにして,就職後にメーカーで研究を続けるという人も珍しくなかった.
それが日本経済の停滞や給与・終身雇用問題等と相まって修士で卒業して就職するという選択肢すら影を落とすようになった.
優秀だけど就職のため修士卒で技術者になっていた層が一転,国外で博士号取得を目指すという選択肢が現実的になりつつある.
ものづくりで一時代を築いた日本から技術者の担い手が失われていくのは悲劇だ.
諸外国では既に,頭脳流出という将来を担う若者が先進国に引き抜かれて返ってこない事象が問題視されていた.
ただ日本は経済的に豊かであったこと,英語の苦手意識,保守的な思考等々から他の国ほど顕著ではなかった.
これらの障壁が近年ではすごい勢いでぶっ壊されているのだろうなと思う.
このままだと日本から理系院性,特に修士で研究成果が出せるような優秀層はどんどん減っていくだろう.
そして,卒業した後も可能な限り米国に居続けたいと多くの学生が願うだろう.
コンピューターサイエンスの院卒がGAFAMで年収○千万!みたいな事例はよく聞くが,自身の分野でも日本の会社員時代の上司(幹部職)を超える額が卒業直後から支給されるのが普通だ.
そして若者からすれば,払った税金に見合うリターンのある国で税金を納めたいと思うのではないだろうか.
はっきり言って若い内に日本で税金や年金を払ってもそれに見合うリターンがあると思えない.
税金をどこに納めてどんなサービスを見返りに頂くか,グローバル時代ならではの課題だと思う.
米国の保険が高いのも事実だ.この国は自分が支払う対価に見合った保険しか提供されない.ある意味究極にフェアだ.
将来自分に返ってくる保証もなく,勝手に給与から社会保険料が天引きされていて皆保険とは最高に皮肉である.
ただ単に,自分の環境をより良い場所に変えることを選んだだけだ.
根本的に社会構造から日本の大学院の仕組みと卒業後の待遇を改善しないと,研究ができる人からどんどん日本から消えていきますよ.
愚痴を3mほど通り越して悪態の領域に両足が着地したが、こうでも言わねばやってられん。
弊社は自社サービスを提供したりシステムを開発したりしなかったりして生きている小さい会社だが、
仕事に支障さえ出なければどのタイミングでどれぐらい作業をしても構わない極めて自由な働き方ができる。
昨今は例のコの字の煽りを受けて(サービスの提供先がモロに煽りを受けていてその飛び火と言った方が正しい)、
賞与が消し飛んだりしているがそれでも労働環境としてはかなり良いと思っている。
肩書だけな達者なトーシローばかりよく揃えた物ですなと言いたくなるレベルで、
自分が入社してから最初に来た役員は、何をしてんだか全く分からない人だった。
話を聞く限り、一応そこそこの経歴を持ってはいるようだったが、弊社で何をしてるんだかがさっぱり分からない。
それでいてこっちが「そのツッコミ入れた場所が気になる理由って何なんです?」と牽制してみると、
「いや、自分はあんまりよくわかんないんですけど」などと意味不明な事を言い出す始末であった。
社内向けの通知も退社の挨拶もなく、本当にいつの間にかいなくなっていた。
結局、彼が弊社で何の仕事をしていたのかはついぞ分からず終いになってしまったが、
それでも何もしでかさなかっただけ彼は優秀だった。
次に来た役員は、技術力と営業力はコモンで、人間としてはカスレアみたいな輩であった。
こいつのヤバさは最初にオンラインで面談を行った時に一撃で分かった。
その案件・会社でしか通じないタイプの用語を、さも一般常識であるかのように吹聴する人間だった。
もはや、ルー大柴さんの真似をしようとして盛大にスベるただのおっさんでしかなかった。
無論、彼にも良い所はあった。
弊社は社長が割とノリと勢いでどうにかしてしまうところがあるので、
その後始末をしないまま放置されていた種々の問題がいくつかあったが、
彼はその問題点を正しく指摘し、改善の方策をいくつか打ち立ててくれた。
「なんだ、癖は強いけど良い物持ってるじゃん」と思ったのも束の間、
こいつはとんでもないやらかしをして社内を大混乱に陥れた。
構想のレベルであって製品はおろか正式な企画としてさえ通っていないサービスを、
あたかも正式サービスしているかのように営業してしまい、最悪な事にそれで契約を取ってきてしまったのである。
当然開発部が黙っていない。その呪われた案件が社内に飛び込んできた瞬間にゴングは鳴った。
そしてその役員が「企画段階で製品を放置してる開発側がどうかしてる(意訳)」と言い出したらしく、
開発部は激昂したらしい。シラクスの市にやってきたメロスもかくやという激怒っぷりである。無理もない。
この孤独な王の邪智暴虐っぷりは開発部だけに留まらず、運用部にまで及んだ。
まず手始めに、性格的な問題で仕事を抱えがちだった人を会議漬けにし、
医師からぶっ叩かれて勤務日数を強制的に減らされる事態にまで追い込んだ。
更に最初から不仲だった人に対し、その人が参加者として名前が載っていない会議に来なかった事を理由に評価を下げると言い出した。
最終的にこいつは弊社の利害関係的に一番重要な取引先の重役に喧嘩を売って騒ぎを起こし、解任された。
外部的には一身上の都合による退任という事になっているらしいが、実際の所は懲戒免職に近い。
彼が残していったのは、ありもしない製品を提供しなければならないという無茶な契約と、業務改善の大義名分の元に生み出された多額の赤字だけであった。
そんなこんなで散々な目に遭った我々社員だったが、
社長が懲りずに拾ってきた今の役員がどうも前2人の融合体みたいな感じである疑惑が浮上していて大変に辛い。
誰が現実世界でモンスターを融合召喚しろと言ったのか。電網の落とし穴に落としてしまいたい。
この役員、普段何の仕事してんだかさっぱり分からない上に開発部と運用部の財務状況にはやたら口を出してくる。
その上、気に要らない奴に対して「自分のチャットに即レスをしなかった」という理由だけで解雇を仄めかしたりと前の役員以上の横暴を働こうとしている感があって大変に困る。
マジで社長はどっからこんな深淵の担い手を見つけてくるのか、まだダゴンを雇った方がよっぽど仕事をしてくれるだろう。
会社自体に不満はないので本当にこの辺どうにかしてもらいたいし、困るのが社長自体は別に悪い人間ではないという点だ(仕事面で有能かというのはまた別にして)。
何より「社長の人を見る目が無さ過ぎたので」という理由で転職するのもあまりに馬鹿馬鹿しい。どうにも頭が痛いところだ。
今の役員は来てからそんなに年数経っていないので様子を見たい所だが、その時間がもったいないような気がするのも事実だ。
こんな悪態を最後まで見て頂いて本当にありがとうございます。
もし、「本人は良い人だけどその人の周りがロクでもない」みたいな人との付き合い方みたいなのがあれば、こっそり教えてくださると幸いです。
電撃文庫創刊に際して
文庫は、我が国にとどまらず、世界の書籍の流れのなかで“小さな巨人”としての地位を築いてきた。古今東西の名著を、廉価で手に入りやすい形で提供してきたからこそ、人は文庫を自分の師として、また青春の想い出として、語りついできたのである。
その源を、文化的にはドイツのレクラム文庫に求めるにせよ、規模の上でイギリスのペンギンブックスに求めるにせよ、いま文庫は知識人の層の多様化に従って、ますますその意義を大きくしていると言ってよい。
文庫出版の意味するものは、激動の現代のみならず将来にわたって、大きくなることはあっても、小さくなることはないだろう。
「電撃文庫」は、そのように多様化した対象に応え、歴史に耐えうる作品を収録するのはもちろん、新しい世紀を迎えるにあたって、既成の枠をこえる新鮮で強烈なアイ・オープナーたりたい。
その特異さ故に、この存在は、かつて文庫がはじめて出版世界に登場したときと、同じ戸惑いを読書人に与えるかもしれない。しかし、〈Changing Times, Changing Publishing〉 時代は変わって、出版も変わる。時を重ねるなかで、精神の糧として、心の一隅を占めるものとして、次なる文化の担い手の若者たちに確かな評価を得られると信じて、ここに「電撃文庫」を出版する。
しかしさあ、「ヤングケアラー」って言葉、以前は子供が介護の主な担い手をやらされている本当にしんどい状況を指す言葉として使われていたと思うんだけど
最近は随分と気軽に使われるようになったね
先日の金曜ロードショーでもとなりのトトロのサツキがヤングケアラーだと認定されて作品が叩かれていたのは記憶に新しい
https://mobile.twitter.com/shinu_zZ/status/1557378774593081354
例えばこのツイートなんかも全盲の夫婦に対して、親が全盲だから子供は絶対ヤングケアラーだと決めつけ、
障害者は子供を産むなという優生思想丸出しだけど、これも書いているのはフェミニストなんだよなあ。
フェミニストと優生思想のこの妙な親和性って一体何なんだろ。介護を主に担わされるのが女性だから?
でも雑なヤングケアラー認定をする人達がみんながみんな家庭内介護を担わされているようには到底見えないんだが…
https://oogoda-law.jp/staff/oogoda-makoto/
しかも件のツイートで叩かれているのって夫の方は全盲というハンデを抱えながらも弁護士になった超優秀な努力家で妻の方も音楽家
トトロのサツキとメイの父草壁タツオはあの時代の大学講師で病気の妻のためにでかい家を買え、どう見ても社会的地位の高いハイソな階級なんだが
山里亮太と蒼井優という人気芸能人夫婦に対しても「高齢出産だから子供は絶対ヤングケアラーになる」と認定して叩いていた女性が大勢いたし
統一教会に対する批判として「人種差別」という観点から言及するものをあまり見かけない気がするな。
批判の担い手が主に被害者救済に携わる人たちだからかな。目に見える実害として経済的な被害や洗脳の重大性はもちろん理解できるし、被害者救済に携わる人たちに今以上の活動を期待しているわけではないよ。ただ、結局その被害の背後にも人種差別があるわけだよね。「サタン(悪魔)の国であるエバ国家日本はアダム国家である韓国と国内外の統一教会に全てを捧げなければならない」とか、「文教祖の恨(ハン)を晴らすためにエバ国家日本をアダム国家韓国の植民地にする」とか、「日本人女性を洗脳し、韓国人男性と強制的に結婚させて韓国人の血の入った子を産ませることで、日本人の穢れた血を浄化する」とか、人種差別的思考が教義の根本に組み込まれている。加えて「罪に自覚的な、目覚めた日本人」という信者の選民意識の醸成にもかかわってくる。さらに教団内で他の信者を搾取することに対する罪悪感を糊塗する効果もあるのではないかな。
にもかかわらず、現状はこの人種差別の部分が「反日」というやや党派的な語彙で扱われていて、教団に批判的な人たちも「安倍氏とその支持者は右翼のくせに反日団体と仲良くするなんて」といった類の皮肉や当てつけにとどまっているように見受けられる。仮に、日本でうまれた団体が「韓国人は罪深い」とか言い出したら人種差別として批判するべきだよね。
これ女がやると「これだからフェミは支離滅裂で話にならない」って言われるのに
その名残だと思う。
迷信を信じたり、頭が弱くて幼稚ですぐに癇癪を起こしていた。大人になっても小中学生みたいなもんだったんだよね。
子供の頃は育児の担い手で、学校にもろくに行けず、嫁入りさせて子供産ませて社会にもろくに出ないから。
責任を持って家族以外の人と関わり、仕事をする、みたいな機会に恵まれなかった。
今は逆転して男が馬鹿なんだよね。
みんなも薄々勘づいてると思うが、男は頭が弱くて幼稚で差別を内在化させすぐ癇癪を起こす感情的な馬鹿なのが多い。小中学生みたいなもの。
アンチフェミや弱者男性など特に、頭の弱い無能で支離滅裂で感情的で幼稚な集団だと感じるのは全く正しい。
ポルノ中毒で1日の大半をポルノで過ごす男が多いため、社会との接点が内在的な関心の薄さにより薄くなっており、家族以外の社会と責任を持って関わる機会が失われてるから。
人生100年時代における結婚と家族 特 集 ~家族の姿の変化と課題にどう向き合うか~
https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r04/zentai/pdf/r04_tokusyu.pdf
っていう、統計好きにはたまらない資料100ページ超えよくばりセット
気になった所まとめ
5ページ目
注目したいのは20代までは結構差はないこと、30代から差がすごい
9ページ目
このグラフ好き
初婚件数減りすぎ(39万件)
これって結婚という制度から離れてるのか、恋愛や共同生活から離れてるのかわからんね
11ページ目
好き
未婚者増えたけど既婚者のほうが多いよね、というのがよくわかる
不詳ってなに?
13ページ目
好き、でも見づらい
いずれ越しそう
ところでこどおじはどこに該当するの?
サザエさん型の家族はもう7.7%爺婆が孫と暮らせる確率低すぎワロタ
16ページ目あたり
こんな指標があるんだ〜
結構生きるよね
女90男85と見ておけばいいか
18ページ目
意外と主婦多くね??
ちょっと意外だけど、昭和60年代でも、共働き718万世帯もある
20ページ目
このグラフ嫌い
まず女性に限ってること
それにしてもフルタイム働いてる妻が20〜30%しかいないのすごいな
25〜34歳が一番少ないから、ここでそもそも正社員ルートから脱落してるのがよく分かる
22ページ目
これ好き
未婚女性の年収を知りたかった、それによって問題が性別にあるのか子育てにあるのかが分かる
400万円以上40〜44歳でみてみるか
・既婚女性 15%くらい
・未婚女性 25%くらい
・既婚男性 65%くらい
・未婚男性 38%くらい
未婚男性と未婚女性はかなり条件が近いと思うんだけど、13ポイントくらいの差がある
これは確実な性差だと思う
既婚女性と未婚女性でも10ポイントくらいの差があるから、性の問題と子の問題は同じくらい存在しているのかも?しらんけど
40〜44歳、既婚女性の年収100万円未満 → 33%くらい
こうみるとやっぱり男性が稼ぐべきという風潮は残ってるんだなと
30〜34歳でも大差はない
これ多分だけど、男性の方が歳上である件数が多いからってのもありそう
25ページ目
夫の稼ぎが悪いほど妻も働いてるのでは?的な統計
夫が200万未満でも妻が働いてないケースが結構あるのが闇深いんだけど、これ逆に資産家なのか?
300万円代なら大体妻が働いている率70%
1500万円以上でも妻が働いてる率56%(30代なら40%)
悲報:1000万円の夫を捕まえても専業主婦に慣れる確率は半分以下
26ページ目
30年で1.5倍っていうんだから全然増えてない、国民性かね?
母子家庭の平均給与 200万円(正規雇用の場合305万円) 闇深
27ページ目
同居人あり40%くらい、親が27%くらい
20代以下が30%くらい
30ページ目
貧困度が高すぎる
32ページ目
エグい
33ページ目
俺のことか
え、逆に寂しくない人すごくね?
あと既婚者でも寂しい人多いんだけどそれは
挨拶をする程度以下
半分ずつ分担派は年々増えている(男女とも)
最近は50%くらい
一方で「妻に丸投げ」派は案外減っていないし
「夫が多くやる」派は極小
どちらかというと「妻100%」が「妻+外部サービス+夫」になった感じ
まあでも徐々に良くなってきてると思うよ
42ページ
日本やべーって話だけど、韓国も似てるので個人的には地域性だと思う
43ページ目
妻が夫の両親の介護の面倒をみなくなってきている
44ページ目
1位 息子
2位 夫
45ページ目
明治時代のほうが高かったという話
48ページ目
これも似た話
49ページ目
僕はなしです
なんだかんだ言って7割以上はよろしくやってんじゃんね、ならいいじゃん
前にどっかで書いたけど
自然にパートナーが出来るのが1/3、マッチングアプリとか使ってパートナー作れるのが1/3、それ以外が1/3みたいな感じだ
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未婚女性は0人という人が24%しかいないから、喪女はだいぶレアだと思われる
未婚男性は0人という人が37%いるので、そこそこ居る
あと1人っていうのをどこまでカウントしてるのかも気になるけどね
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ほんぺん
案外少ない
どういう・・・?
減ってないw
こちらも減ってない
20代で全部決まってるんやなって
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なかまやで
この人達が出来るだけでだいぶ違うと思う
いい人が居ない、縛られたくない が多い
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案外多いね
60代男性 42.5%
案外少ないね
せやろな
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そこそこいるね
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俺は興味ないけど該当者はありそうなネタ
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これ面白い
「男性は外で働き、女性は家事をするべきだ」の賛成が男女で一致している
反対は女性の方が少し多いけど、思いの外男女で価値観は一致している
つまり男性が無理やりやらせているというよりは社会的にそういう空気になってるんだよね
これを変えようとする人らは大変だろうよ
ただ「仕事をセーブしたくない」と思ってる女性は男性より2割くらい多いっぽい
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これも面白い
「女性が◯◯すべきだ」って思ってる人、60代でも3割前後と少ないんだけど
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これ好き、なかなか出てこない情報
100人未満 48%
数百人規模 27%
1000人以上 25%
100人未満 36%
数百人規模 31%
1000人以上 32%
なるほどなぁ
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