はてなキーワード: 土俵とは
3日ぶりの風呂に入った時ふと
「あ、死にてえなあ」と思った。
私は所謂、一次創作同人女兼小説家志望兼漫画家原作者である。なんか漢字多すぎて読む気すら失せるけど事実なんだからしょうがない。(ちなみに漫画は売れてない)
漫画家になった経緯としては小説家志望やってたら何故か漫画原作の声がかかって流れに任せて、という感じだ。仕事は割と楽しい。
ちなみに私が漫画原作やってることは誰にも言ってない。みんな私の事を一次創作同人すら売れない小説家志望だと思ってるし、間違ってはないので訂正もしていない。
ネットで知り合って仲良くなった3人で文芸サークルを作った。リーダーはAに押し付けて、半ば無理矢理立ち上げた。今は後悔している。
私はサークル立ち上げ当初無職で暇だったから出版社に送る原稿のほかに、ゲームだとかポエムだとかに手を出していた。小説は本気で取り組んでいたけれど、その2つは完全に趣味だ。でも自分なりに全力で作ったものだった。
そしたら他のサークルメンバーも同じ事をし始めた。そして全てにおいて私より上を行きやがった。
まだランキングやファボ数で私が勝ってたら余裕こけた。でも問題はAもBも私と同じ土俵に後出しで来たくせに私をこえていったことだ。
これは嫉妬なのはわかってる。あと普通に私の作品は万人受けしないのもわかってる。出版社の評価シートにもめちゃくちゃ書かれてるから自覚してる。
でもさ、真似しなくてもいいじゃん。
私がブログ始めたら皆ブログ始めてさ、ゲーム作り始めたらまた皆ゲーム作ってさ、ポエム書き始めたらそれも真似して、終いにはペット飼い始めたらそれも真似されたよ。
私ブスで特技とか無いし、本当ガイジかってくらいなんにも出来ないからさ、正直真似される度に「私これも満足に出来ないのか」ってなっていくんだよ。
もう嫌だなって切ろうとしても友達としてはいい子だから切る事も出来ないし。
こんな思いするんなら痛くない範囲で死んで楽になりてえなあ。
ガンダムやマクロスやトップをねらえとの違いを一言で表すとしたらそうなる
ちなみに、エヴァのアクションパートのクオリティを感じ取れてない人は、話の土俵からこぼれ落ちてるのでお引き取り願います。クリストファー・ノーラン作品でもみましょう。
カプセルホテルの「女性お断り」は単なる経営上の都合。女性客との混在に対応させるための設備投資が経営上引き合わないというだけ。従って需要が増えれば、女性専用フロアを設けたりするカプセルホテルも当然でてくるわけで、それは社会構造に組み込まれた、人々の意識の問題としての「差別」とかとは、全然別の問題。
また、土俵や宗教的聖地が「女人禁制」となっているのは教義によるもので、それは社会に存在する「差別」的な物の見方を反映したものである場合もあり、これを批判的に検討することもあっていいとは思われるが、それ自体を「差別」と呼んで社会的に是正を図るようなやり方は適切ではなく、単に時代に合わない教義をもつ宗教からは人が離れていくという形に任せれば十分である。たとえば、土俵が女人禁制だというなら、それは尊重すればよいし、もしその教義に不満があるなら単に相撲を観なければよい。したがって、これも「差別」と呼ぶのは避けた方がよい。
いずれにせよ「差別」というのは、社会的に是正が図られるべきというニュアンスを含む相当に強い(批判の)言葉なので、軽々に用いるべきではない。
不公正な土俵に上がるつもりがないとか鼻息荒いけど要はお前らが萌え絵をダメだっていうならBLだってダメなんだからな!!!どうだ困るだろ!!て言いたいんだろ
困らんから。どっちも無くなっていいと思ってるよ。
フェミさんが萌え絵の撲滅に頑張るように、お前はお前でBLの撲滅に頑張ればいいじゃん。フェミさんに自分のために戦ってもらおうと思うなよ。
まず理解して欲しいのは、こちらはそもそも性的搾取論という不公正な土俵に上がる気がないんだよ。
フェミ(及びそのシンパ)の人たちは性的搾取論が公平な議論のルールだと思い込んでるみたいだけどフェミさんたち以外には眉唾だ。
だから性的搾取論の上での分類に乗ること自体が馬鹿馬鹿しいし勝手な類型にあてはめて矮小化されるだけとしか思えない。
それゆえに性的搾取論という枠組みそのものが有効かナンセンスかを検討することになって、
その検討過程において仮に性的搾取論とやらが公正であるとすればどうなるか考えることになるけど、
性的搾取論者の定義(セックスシーンなし性器乳首描写なしのキャラ立ち絵でも性的魅力を感じれるようになっていれば性的搾取だ)に従えば1はありえない。
その人たちのツールが仮に公正であるとしたら、BLもまた性的搾取にほかならないので4にならざるを得ない。
そうだとするとフェミの人たちは男向けの美少女ものもBLも包括して規制する何らかの自省的な枠組みを提供すべきだと思うんだけど、
でも性的搾取論者はBLの性的加害や性的消費を難癖つけて否定してるので、何らの公正さも実現できていないことになる。
つまり、性的搾取論者の言う性的搾取の定義そのものが間違ってるとしか思えない。
だからその問題点を指摘するために、BLやイケメンパラダイス作品をどう考えるのかをフェミの人に問いかけるのには重要な意義がある。
スタンスとしてはもう1つあるよ。
5.そもそも二次元創作に対する「性的搾取」理論なるもの自体が無用の長物であり恣意的攻撃の手段でしかないので語るに値しない
仮に性的搾取論とやらに意義があってこの意識を広めよう、高めようと宣伝しているのであれば、
性的搾取論の意識を高めた人たちがその人たちの定義によるところの性的加害を行わなくなる、という程度のプラスの効果が最低限あるはずである。
けれども実際には性的消費論者さんたちは、男オタクの美少女ものを叩くばかりでその人たちはBLやイケメン動物園を消費しまくっている。
そしてBLは性的搾取には該当しないのではないかという我田引水的なスタンスを取り続けているようで、「性的搾取」の定義すらガタガタな姿が散見される。
そうだとすると、結局(少なくとも二次元対象の)性的搾取論なるものには性的搾取なる害悪を止める能力はなく、また理論として傾聴する価値もなく、
単に自分らだけ甘い汁を吸いながら他人の趣味を叩いて気持ちよくなるための唾棄すべき詭弁であることが明らかになる。
そうやって言いがかりに等しいオタクコンテンツ批判を放置し続けた結果が現状なわけで
これからは同じ土俵でどちらかが死ぬまでネットで殴り合うべきだろう
むしろこの国のフェミニズムそのものを根絶するくらいの勢いでやっていいと思う
それくらいでやっと釣り合いが取れる
いや、二次を崇めて三次を叩くのって、本当に心からそう思ってるわけじゃなくて、どう足掻いても絶対に手に入らないものへの羨望とかが裏返って、自分に言い聞かせる為に言ってるだけだと思うんだよね。(この事を専門用語で"負け惜しみ"と言う)
「あんな葡萄酸っぱいに決まってるぜハハ、こっちから願い下げだYo!」みたいな言説周りからは「ああ、葡萄食べられなかったんだね…(笑)」としか思われないよ。
でも葡萄がそれにムキになって反論したりしてたら、「ああ、あの葡萄って…」と思われるよ。
思い出してどうしても書きたくなったので書く。
ベストセラー「十二国記」シリーズのエピソード0なのだけれど、独立して読めるのでこれにした。
この作品に魅了された理由は二つある。一つは、二つの異世界が出会うことで起きる惨劇がSF的に面白いということ。こちらの常識が向こうには全く通じず、逆もまたしかり。ホラーではあるが、コミュニケーション不全の悲しみもある。作中の大量死の原因は、たった一つの誤解が原因なのだ。
もう一つは、主人公の未熟さが残酷なほど明らかになっていくことだ。ある意味、ファンタジーに逃避しようとする読者に喧嘩を売る態度で、後述するが僕は作者に喧嘩を売られるのが好きである。
貧困による家族との別離、恋愛のもつれや政治的立場の相違によってばらばらになっていく幼なじみ、人妻による少年の誘惑、昔の知人との思いがけぬ場所での劇的な再会などなど、個人的に好きな要素が濃密に詰め込まれている。それは安易な娯楽に堕しそうでいて、何とか踏みとどまっている。
カミュの小説では背景に過ぎなかった人々を主役にしているのもいい。「異邦人」のアラブ人はまったくの他者というか、理解できない原理で動く人格を描かれない、あるいはそもそも持たない存在だったように記憶している。
同著者の「カブールの燕たち」も面白かった。イスラーム原理主義者により公衆の面前で恥をかかされたことで、妻は夫を軽蔑し、憎むようになる。タリバン政権下の苛烈な描写は読んでいて苦しく、告発の書としても読めるのだが、同時に、ストーリー自体はオペラのように派手なのだ。わざとだろうか?
壮大な時間と空間の中で行われる追跡劇で、歴史改変やタイムパラドックス、進化の階梯など、テーマのスケールが大きすぎてこの長さでそれをやろうとするのは完全な蛮勇なんだけど、でもたぶん小松左京の作品では一番好き。この作品にはエピローグが二つあり、そのうちの片方は比較的序盤に現れる。失踪していたある登場人物が帰ってくる場面だ。これを、小説の最後まで読んでからもう一度読むと、深いため息が出る。本当に果てしない旅を経て、帰ってきたのだなあと。
扱われた科学技術は古びるかもしれない。未来世界の女性観や社会の描写も今では受け入れられないかもしれない。でも、表現しようとしたテーマは古びていない。SFはいつだって宇宙と時間の果てに手を伸ばそうと愚直なまでの試みなのだ。
冒頭で、パリのどこを歩いていてもお互いに出会ってしまう恋人の話で始まったので、どんなロマンチックな話になるのかな、と期待したのだが、友人が服毒自死未遂したり恋人の赤ちゃんが死んだりしてもひたすらマテ茶や酒で飲んだくれている、こじらせ芸術家(ワナビを含む)たちのお話だった。
しかし、この作品には仕掛けがある。通常の順番通りに読む「第一の書」という方法と、著者に指定された順番で、巻末にまとめられた付録の章を挟みながら読む「第二の書」という方法、この二通りで読めるのだ。第二の書では章の番号が飛び飛びになり、まさに石蹴り遊びのようになる。そこでは第一の書で省かれていたいくつかの事実や、登場人物の秘めた行動原理が明かされる。そればかりか新聞からの脈絡ない切り抜きや、この本の著者と思しき人物の晦渋な文学論を含んだ独白が含まれ、そこでは一貫性を過剰に求め、受動的にしか読もうとしない者が批判される。要するに読者に喧嘩を売ってくるわけだ。
読者に喧嘩を売る芸術が好きだ。なぜなら偉大な作家と同じ土俵に立てた錯覚を持てるから。
「ダフニスとクロエー」並にこっぱずかしいイチャラブもの。誰だって一緒に育ってきた少年少女が迎える性の目覚め的なシチュエーションに萌えてしまう時期があるのだと思う。もっとも、村上春樹作品の場合、一緒に育ってきた幼馴染の男女は不幸な結末を迎えるのが常套なのだけれど。
少年が人妻に誘惑され先に性体験をするというのも、王道でいい気もする。とはいえ、昨今は少女が先に目覚めるパターンも読んでみたいと思うのである。
北杜夫の「どくとるマンボウ航海記」とか妹尾河童のインド旅行記にしようかとも思ったが、終着地のロンドンについてからのオチが笑えたのでこれにした(興味があったらこの二つも読んでください)。
元々はデリーからロンドンまでバスで行けるかどうかという賭けが旅のきっかけだが、「一人旅の海外は二十六歳くらいがちょうどいい、それよりも若いと経験値が少なすぎて、あまりにもすべてを吸収してしまおうとする」なんて趣旨のくだりがあり、初めての一人旅を読んでそうかもしれないとうなずいた。
少し前の時代の旅行記は面白い。今では身近なフォーやケバブがすごく珍しいものとして書かれているし、天然痘が根絶されていない時代の怖さもある。一方、アフガニスタンもイランが今ほど物騒ではなく書かれており、政変を身近な危険として感じることができる。
それはさておき、ほんと、スマホができて一人旅はずいぶんと楽になった。
強くてかっこいいことや、くじけずに挑むことに背を向けていた自分が気に入った数少ない強い人間の物語。「星の王子様」が気に入った人は、ぜひぜひこちらを読んでほしい。いや、星の王子様が子供向けに感じられた人や、表現が簡潔すぎたり抽象的過ぎたりしていると感じた人にこそ読んでほしい。あの物語の背後にあった、サンテグジュペリの飛行機乗りとしての経験がそこにある。
はるか未来の、中国の影響下にあるロシア。そこでは文豪のクローンに物語を執筆させることで、謎の空色の物質を生成する、錬金術的プロジェクトが稼働していた! この神秘の物質をめぐって繰り広げられる陰謀の周囲には、ロシアの文豪の文体のパロディあり、フルシチョフ×スターリンのイチャラブセックスあり、ナチスと同盟を結んだ並行宇宙のソ連あり。
筒井康隆と高橋源一郎と矢作俊彦を足して三で割らずに、ロシアの権威と文学を暴力とセックスでぶっ飛ばす。ちなみにラストは爆発オチ&ループオチだ。
章が進むごとに使える文字を一つずつ減らしていく趣向で、たとえば最初の章から「あ」の含まれる言葉を使えなくなっている。表現の自由と不自由について体を張って考える作品であり、使えない文字が増えるにつれ、新しい表現を開拓しなければならない。その中で語られる文学論や自伝は、片言だからこそ重い。また、使える文字制限がある中での官能表現も、表現の自由について鋭く問う。
筒井康隆のすごいところは、狂っているように見える文章を書く才能だ。それがなんですごいのかっていうと、正気を失った人をそれらしく演じるのがとても難しいからだ。というのも、精神を病んだ人のなかにも、本人の中では一貫した理屈があり、全くのでたらめではないからだ。また、倫理観の壊れた人間を書くのがめちゃくちゃうまい。かなりグロ耐性のある自分も「問題外科」だけは気持ち悪くて読めなかった。これも、人間の常識についてかなり深く考えないとできないことだ。
ちなみに、ジョルジュ・ペレックの「煙滅」はイ段の文字を一回も使わないで翻訳された小説で、これもただの遊びにとどまらない。語りえないホロコーストという事件をモチーフにしていて、あるべきものが不在なのにそれが何かわからない居心地の悪さをテーマにしている。これが気に入ったらオススメしたい。
ドストエフスキーはヤバいやつだが、トルストイもそれ以上にヤバいやつだ。家庭を顧みずに財産を国に残そうとする狂信者だ。正直、妻や子供たちがかわいそうだ。後期の「光あるうち光の中を歩め」もはっきり言って宗教の勧誘パンフレットであり、読んでいて内容が完全に予想できる。ヤバい新興宗教のパンフレットのほうが何が書いてあるか予想できなくてある意味でまだ興味深い。
しかし、そんな将来そこまで頭の固くなる人間が不倫の話を書いたのだから面白い。確かに、清純な愛を貫くいい子ちゃんなカップルと不倫カップルの対比はわざとらしい。けれども、まじめカップルの愛情の細やかさと、一時の感情に負けた罪のあるカップル、どちらも美しい文章で書かれている。物事は正しくあるべきと考えている人間が、罪を犯してしまう悲しみを描いているのがいい。
これは、プロットを道徳に完全に屈従させてしまう前のトルストイのすばらしさが詰まっている(そういうわけで好きな長篇の順番は年代順に「アンナ・カレーニナ」、「戦争と平和」、「復活」)。
あ、今思い出したけど、ソルジェニーツィンも好きだったんだった。
作品の根底には人間性への諦念が横たわっているのだけれども、初期の頃はそれが明確な暴力となって描かれていた。表現は淡々としているが、殺人や人類滅亡なんてよくある話だった。けれども、このころになるともっと表現が静かになっていった。悟りを開いた、というのとは違う。間違いなく諦念はある。けれども、苦い絶望とはまた別の感情がこもっている気もする。非SF風のものが多いのも面白いので、星新一の芸風に飽きた頃に改めて手に取ってほしい。
うーん、でも、世襲とかコネも金もある上級国民に、コネも金もない下級国民が同じ土俵に立てるのは受験ぐらいしかないと思うんだよなあ
受験勉強はスポーツと同じで、あるレベルまでは練習とか努力と結果は比例する
努力の方向を間違っていなければ
その努力の方向のノウハウを塾が持ってるのは否めないけど、塾に来ても真面目に授業を受けてなかったり寝てる奴もいるわけで、
塾でブーストはされても、試験というリングに上がるのは本人しかいないわけで、本人が努力しなければ意味がない
その塾のノウハウみたいなものも、今はネットがあるのでちょっとはリークしてたりする
あと、塾はペースメーカーの意味合いがあるわけだけど、塾に通えない経済状況の人はそこは自分で自分を律するしかない
と偉そうに書いてきたが、自分も習慣化、自分で自分を律するのは苦手でジョギングは3日坊主だったりする
最近は特にそうだけど、高学歴、高収入層ほど健康だったりスポーツが得意な人が多いイメージがある
そこで何に賭けるか?という話だと思う
だから逆に言えば、自分は学歴なんかなくても、これが得意だから上級国民と対等に戦えるぜ、という人は受験勉強なんてしなくていい
残念男だわ。
お互い身の丈に合ったところ狙っていかないと失敗するぞって言うのはある。
女が多いのは男では論外で参戦してこない層でも参加してくるから
(男は経済的に自立してると結婚にこだわらない人も多い)じゃないか?
それなりの大学を出てアラサーで年収500-700万円くらい、身長は170㎝前後で普通体形、身だしなみには気を付けているつもり、
これってネットでバッシングされている「そんなハイスペックが普通なわけない!」って言われている条件か、何ならちょっといいぐらいじゃん。
ってことは俺が婚活したらきっとすぐに出会えて彼女ができるんだろうな、なんて考えてる女性経験が少ないやつ。全然違うぞ。
確かにあなたの表面スペックは世の男性における平均を上回っている。
でも「婚活で女性を取り合うボリュームゾーンにおける平均」で見るとそうでもない。
婚活には主に年収面で劣るやつは存在せず、多少なりとも自分に自信があると思っているやつだけが土俵に上がる。
貴方よりももっとスペックの高い人(もしくは高いスペックを偽装している人)はたくさんいて、
そういう人たちと戦わなければならないという時点で表面スペックのアドバンテージはほぼない。
逆に言うと年齢が35歳以上とか、年収が500万円に満たない、身長が低い、太っているということがディスアドバンテージになるだけだ。
もう1つ言うと、あなたが平均を大きく上回るような、例えば年収1000万円プレイヤーだったとしよう。
年収だけで見ればネットで総叩きにあう「普通」の倍だ。じゃあ婚活は楽勝でしょ、っていうとこれもそうではない。
500万円と750万円の差は明確にあるが、750万と1000万の差は実はさほど存在しない。
何が言いたいか?結局婚活は相手がいて、相手に好かれないといけないってことだよ。
共通点があるか、一緒にいて楽しいか、会話のテンポは合っているか、
そういうところで他に同時並行している男性に勝っていかなきゃいけないんだ。
ネットで理想が高いといわれる普通の男の条件は満たしている(もしくは上回っている)のにうまくいかない、
って場合はだいたい驕りが見透かされているか、女性のことをちゃんと見てないか、身の丈に合ってない人にアタックしているかのどれかだ。