はてなキーワード: 人物とは
どうやってやってんだろうな
それって本人がどうかと関係ないよな
カードを持ってきた人物とカードの照合をどうやってやるんだろう
そんなパーなことするわけないか
それよりさ
例えば俺が記憶喪失になったとするよな
マイナカードと紐ついてるのは記憶を失う前の過去の俺であって今の俺じゃないよな
とすると本人とはなんだ?
本人は肉体に宿るのかな
人名だが、ロシア人が書いた沿海州の歴史の本の日本語翻訳者が満洲族の人物の名前の漢音表記わからなかったので許してクレメンスみたいなのあったな。今ならネットがあるから調べられるかもだけど
若草物語のジョセフィンの驚いた時に発せられる口癖。
姉からはお行儀が悪いわよと窘められるシーンもあり、「ジーザス・クライスト!」をもじっているのがわかる。
映画版では「すげぇな!」などと訳されていたりした。
この"Oh, Christopher Colombus!"はSOUL'd OUTのCOZMIC TRAVELから引用しているが
I love Elizabeth But 振る舞え like Jo = Josephin So, you say like this "Oh, Christopher Colombus!"
Elizabethは若草物語のベスのことで、内気で女性らしい人物。
Josephinは若草物語のジョー(Jo)のことで、活発で男勝りな人物。
私はエリザベスのような女性が好きだけど、ジョーのように男らしく振舞え、
そして叫べ。マジですげぇ!と。
くらいの意味合いになる。
新聞各社を見てみるとそうでもないような
習近平・国家主席の妻、幹部人事に関与で「ポスト習」に影響力か…専門家「毛沢東の晩年と似る」:読売新聞
https://www.yomiuri.co.jp/world/20240617-OYT1T50004/
「親中派で選挙は戦えない」 誰も拾わぬ「火中の栗」細る議員外交:朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASS6G2H3JS6GUTFK00RM.html
台湾IT19社、5月は17%増収 鴻海などAI関連の好調続く:日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM11E390R10C24A6000000/
ただ、地名や(首脳級や最大手に比べれば)メジャーでない人物名・社名とかはカナが振られてなかったりして、原則と世間一般の知名度等をまぜまぜにした変則ルールに沿って呼称してるぽくは見える
(1)平成28年4月の春に、晴生が、ポケットワイファイを中止し、BBIQに切り替えたため、それまで閲覧できなかったTwitterやYotubeの大量通信動画を閲覧できるようになった。
(2)当時、Twitterを閲覧していたところ、クソガキばかりで見るに堪えない、見るようなもんじゃねえな、ということで一時期放置していた。
(3) そのような中、 ぷちくら、というアカウントがあり、なんか臭いけど、お前でいいけん脱げブタ、という感じで、何回もリプライを送信したところ、相当数の者から、クソリプと言われた。
(4) 平成29年6月に、スカイプを通じた家庭教師の際には、ものとしては、社会保険審査官の中嶋康弘みたいな感じで、危険人物には見えなかった。
(5)その当時の私の頭の中にある教科書の世界では、全く矛盾がないし、整合するため、すち、というリプライをしたところ、とほほ・・・という返事になった。
以下、ぺちちゃんがうざくなってきた経緯
(1) ぷちくらは、平成28年10月30日に数検1級を受けて合格し、翌年、東大理1に合格して、杉並区に住んでいたが、平成31年2月25日に退去して、八王子に移動していた。
(2) 教養学部1年次は、自分の仕事は渋谷でちりしを配っているとかいう発言があるとともに、たまにくそうぜークソガキみたいなツイートがあったことから、そういう時は、クソガキが、と言っていた。
(3) その後、元々は、ぷちくら、だったにもかかわらず、いつの間にか、アカウントが、ぺち、に切り替わっており、アカウントがぺち、に切り替えられて以降、 およそ、ぷちくらとは思えないようなツイート
や行動が増加するようになり、次第に、以前の、自分の世界では矛盾せず整合するという状態ではなくなった。理由の1つとして、誰が本人であるかが匿名性により全く分からないことである。
結局本人が出てきたことは一回もない。
そこで、当裁判所は、次のような結論に到達しました。 最近のぺちは、意味が分からない。もはや、自分の教科書の中における専門知識を総動員して、技術を用いても理解できない存在で
ある。過去の経緯として、まず私は、 平成19年11月17日にインターネットのPearlに登場したMONO君に対し、その当時、一生幸せにするから結婚しろと、懇請したことは事実である。その
理由は、平成19年11月17日だったからである。 折から私は、 平成19年10月13日に、東大法学部が破綻して精神的に多少発狂していた時代でもある。
平成19年9月28日
OK、おれはこの件に関して最終的かつ不可逆な結論にたどりついてる。そして、俺以外の人間はそうではないように見えてる。
そんなことがあるかって?
もちろん、普通に考えればありえない。
だから俺はこのステキな結論を一晩寝かせることにした。ビールを飲んで、VNLで日本がストレートを喰らうのを見て、読みかけの「プロジェクト・ヘイル・メアリー」を進めてーーああ、もちろん、この文体はその影響ってわけだ、別にいいだろーー、たっぷり8時間は眠り、先ほど昼飯も食った後に、やっぱり、どうやら俺は正しいってことで、今ラップトップに向かってる。幾つかの議論を見ると、幸いにして、この考えは俺だけのものではないようだ。いや不幸にしてか?俺だけが真のヒーローだってチヤホヤされるチャンスを失ったわけだから。
さて、前置きはこれくらいにしよう。あのMVが炎上したのは、「相手の顔がサルだから」だよ。
例えばこんなことを言う奴らがいる。
https://rna.hatenadiary.jp/entry/2024/06/15/110134
とかだ。簡単に言うと「MVに登場する猿人はいい家に住んでるしマカロン食ってるしメンバーとの交流も一方的には見えないから、『コロンブス一行が文明を教えてやった』ていう筋立てじゃないじゃないか」てわけだ。
でも顔がサルじゃん。
顔がサルってことは下位であって自分が上位だ。サルにはそういう意味がある。
「そんなことない!サルの表象に上下や侮蔑の意味なんてない!そのことを証明するために俺は明日から同僚に親しみをこめて『エテ公』て呼びかけるし、アメリカのダイナーじゃ、『ヘイ、そこのモンキー!ビールを一杯頼むよ』なんて具合で行くぜ」
ていうなら、もちろんそうしたっていいんだけど、眉間をぶち抜かれる時には俺が止めたってことは思い出してくれよな。
あと、こういう奴らもいる。
「コロンブスって実は虐殺ヤローだったってのが定説なんだが知らないのか?」
https://lady-joker.hatenadiary.jp/entry/2024/06/16/011301
とかだ。
でも、これはまったく的外れ。だって虐殺ヤローだからNGってことは、してない奴ならOKってことだろ?そんなのバカげてる。
タイトルが「マルコ・ポーロ」だったら、その相手、つまり中国人(皇帝含む)がサルだったことになるし、「伊藤マンショ」だったらヨーロッパ人(法王含む)がサルだったことになる。どっちだってやっぱり問題アリだ。リンカーンに扮した大森元貴がサルと仲良くやってたら炎上しなかった、と信じられる理由は何ひとつない。
つまり、「実在の人物を出したら、その相手も実在(またはその比喩)と見なされるんだから、それをサルにしちゃダメだよ」ってことだ。ほら、虐殺とかは関係ないだろ?
じゃあサルじゃなかったら、コロンブスが人間たちとキャッキャしてるだけだったら?もちろん、それでも炎上したかもしれない。その場合は虐殺とかも関係あった。でも、それって無意味な仮定だろ?
いつだって、誰だって、実在する誰か(たち)をサルにしちゃいけないんだよ、何も複雑なことはない。作り手たちに不足していたのは、知識なんかじゃない。あのサルを見て「俺らのことか?」て考える奴がいるんじゃないか、て想像力だ。
俺が気に食わないのは、「実在する誰か(たち)をサルにした」っていう、このシンプルで疑いようのない結論を、ほんとうは誰もがわかってるんじゃないかってことだ。どう見たって明らかな理由に、「映像読解には一家言ある勢」とか「歴史認識には一家言ある勢」がワラワラ群がって、見当違いなことを書き散らしてややこしくしてる。彼らが、「顔がサル」であることが見えてないなら、その批判は的を射てると思う。顔がサルじゃなければ、MVの筋立てには啓蒙の意味合いはないし、炎上の理由は虐殺ヤローを脳天気に扱ったからだろう。
でも顔がサルじゃん。
見えてないわけなんかない。でも彼らはそのことを「そっと脇に置いて」自説を高々と垂れている。
いったい彼らは何がしたいんだ?
数十年前、子供向けの伝記でコロンブス読んでたけど、伝記読んだからといって憧れるもんではなかった気がする
そもそも、子供向け伝記って、徳川家康だったら幼少時代に子供たちの石投げ合戦を見てどちらが勝つか予言したとか、豊臣秀吉が信長の草履を温めておいたとか、野口英世はお母さんが息子のために頑張ったとか、毛利元就は子供たちに三本の矢で教訓を教え諭したとか、「大人になって何やったか」とは関係ないとこが盛り上がりポイントだし
そこが史実であるかどうかすら、あまり関係ない。毛利元就に実は三本の矢エピソードなんてなかったかはどうでもいい。コロンブスにしても、なんなら最大の盛り上がりポイントはコロンブスの卵エピソードで、アメリカ大陸発見はエピソードの重要度からいうと3番目か4番目ぐらいの位置づけだろう
いや、なんなら大人ですら、偉人なるものが何やったか、どういう理由で評価されてるかなんて知らない(大河ドラマ見て歴史上の業績評価ポイントがどう描かれてるか気にするやつなんて他人に知識披露してマウント取りたいイキリ歴オタだけ)し
たとえば秀吉だって、数十年前の概説書の時点で普通に批判的な書かれ方されてたりするけど、その後に出版され売られてる秀吉の子供向け伝記がダメって話にはならないよね。伝記の売りポイントは草履あたためや一夜城建設で、言いたいことは「「若いころ頑張ったので偉くなりました」だし
なので「昔と今では歴史的評価が変わったからコロンブスは今はもうアカン」という題の立て方は、まったくピンとこないし、今、起きてるMVの受け取られかたや批判とも、そこまで関わる話にはならんと思う
宮崎氏の原作レイプは今に始まったことではないが、風立ちぬだけはちょっと許せなかった
私小説的に自分語りをするために、実在の人物主に二名を都合よく切り貼りしてるのが頂けない
流石に遺族親族が面と向かって文句を言うということは、巨匠に対してできないであろう
しかし、視聴者は実在の人物もこんなだったのではないかと錯覚してしまう可能性が非常に高い
というか、意図的にそれを狙ってさえいる
自決は言い過ぎなんだけど、暴力的に立ち向かうよりは自決した方がいい、みたいなニュアンス
ガンジーは求道者であり、神への道への実現を政治の世界でやってた
そのユダヤ人の話は、「どうせ殺されるのなら、暴力で解決するのではなく自決して非暴力・不服従を示そう」という意味合いだろうね
理想主義というか
Disclaimer: 刺さる人に刺さればよいので、「こうすれば良かった」「ここが悪かった」という意図はありません
『トラぺジウム』が連日満員になるには、見終わった人が満足し、リピートしたり口コミでおススメ!と広めたりする必要があった。なぜそうならなかったか。
主人公の欲望が冒頭では謎、なのは構わない。東西南北集めたい、というのは観客を引き付ける謎だろう。
だが、なぜその欲望が生まれたか、源がわからない。 アイドルになりたいという表層の奥に、原始的・普遍的な欲望が存在する必要があった。
”すべての登場人物には、一杯の水でもかまわないので、何かを欲しがらせること。” という格言に含まれているのが、水を欲しがるというの原始的な欲望であることに注意すべき。
オフチョベットしたテフをマブガッドしてリットにしたい、という欲望の奥に、他人を幸せにしたいとか、自己実現したいとか、生き残りたいとか、そういった欲望がなければ観客は共感できない。
主人公は努力をしていない。計算ノートを書いたりテニスをやらされたりC言語の勉強してる人と会話できる知識を身に着けたりプールを借りたりダンス練習するのは努力にカウントできない。正確には葛藤・選択をしていない。
文化祭でライブを3人に見せアイドルに興味を持たせることを失敗するのも、ボランティアでグループが分かれてしまうのも、メンバーの恋愛バレも、失敗は天災のようにやってくる。(成功も青空のように自然現象のように迎えにくる。)
南の高校にダサい制服で入ったら死ぬ、テニスをやらされたら死ぬ、プールを借りられなかったら信用を失う、高専の萌え袖に付け焼刃の知識がばれたら仲間に入ってもらえない、アイドルになれなかったら〇〇しなくてはいけないとタイムリミット付きで母親に迫られる、メガネ男子に協力と引き換えに何か犠牲を払わなくてはならない…
そういった成功するかしないかわからない場所に立たされないし、選択もしない。観客が応援するポイント、ハラハラするポイントがないのだ。失敗は選択の結果であるべきだ。
そして成功したと思ったらさらに悪い事態に結び付くエスカレーションが望ましい。
1-C:悪人だった
東も完全な悪人ではなく、最後の方の回想で「小学生のころいじめられっ子を助けた」という観客には開示されていなかった過去が明らかになる。これをもっと前倒しし拡張する。
例えば、最初のガラガラのローカル線で(そこそこ露悪的な要素も入れつつも)困っているおばあさんを助けるシーンを入れておけば、いじめられっ子を助けたシーンも生きてくるだろう。
主人公が悪人の作品でもヒット作はある。主人公よりもっと悪い人物を出すという手段もある。芸能事務所とかテレビ局の大人にその役割をあてるとか。
仮説2:主人公が成長しなかった
誤った欲望が潰えて、正しい欲望に気づくというのが王道シナリオであろう
アイドルになりたかったのは子供のころ見たアイドルAさんが素晴らしかった>私もあんなアイドルになりたい>東西南北(仮)を踏み台にしてなるアイドルはAさんとは程遠いものだと気づく>間違いだった>初心に帰る とか
仮説3:
ハッピーエンドではなかった
実名でもない、実在の人物が特定できるわけでもないブクマカが意見を述べたところで、増田と変わりねえんだよ。
ベースの顔面は変わらず、ただ眼鏡かけてるとか前髪長いとかそばかすだとかの記号的差別化されてるだけで全然萌え萌えなキャラクターがブサイクとしてお出しされると暴れそうになる
ネットのチー牛叩き漫画的な、他の人物は人間にありえないような目のデカさをした萌えキャラ的な描き方をしてるのに男の方はチーズだったりするのは、まあ明らかに悪意があるからそこまでどうとも思わない
悪意というか、写実とマンガの顔で差別化するのはなんというかあまりにも違いすぎるからか
同じマンガの顔でも、フレームの時点で歪んで描かれてるとなんかいたたまれない気持ちになる
まあ架空のキャラクターなら別になんでもいいんだけど、前燃えてたお嬢様ずんだもんみたいに実在する特定人物や特定の属性の人を悪意ある描写しといて、「悪意を持って描いたつもりなんてありませんけど?これを悪意ある描写、醜いと思う方こそが差別的なんじゃないですか?」とか「写実的に描いてみただけですけど?」とか白々しく言うのってねっとりとした邪悪さがある
こんなものは理屈じゃなく常識的判断でしか考えられないのに、それを拒んだ時点でもう何も話が進まないし、なんなら苦言を呈した側を陥れる邪悪さというか
年収1億で募集して応募が1000人くらい殺到した際に「基幹システムが止まるような不具合を起こさない」可能性が一番高い人物をどうやって選定するか
あるいは事前にどのような条件を提示すれば確度高めにそのような人材を狙い撃ちできるか
ただし「過去にグリコの基幹システムをSAPに変えて1年不具合を出さなかった実績持ちの人材」はいないものとする
仮に条件をうまく記述できたとしても、その人が「このプロジェクトを成功させるために私の部下として年収2億のITエンジニアが100名必要です」とか言いだしたらどうするかまで考えよう
映画は見てないけど当時コロンブスの見方が大転換したのは「コロンブスが新大陸発見というのは大間違い!」って部分だけで「英雄ではなく残忍な侵略者!」って部分は注目されてなかったな
次回は35分拡大
ケーブルテレビSTBでは見られない場合があるようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・02 夏至 げし
・03 前島密 まえじまひそか
・04 テムズ 川
・05 [3択]1 番
・06 タイガー・ジェット・シン
・08 ビール(のむ
・13 横浜DeNAベイスターズ
・15 スペースインベーダー(の日
・18 扇状地 せんじょうち
・19 [計算]36(分
・21 モンテスキュー
・22 げた
・23 [ふるさとクイズ][鳥取県米子市]ドローンサッカー部
・26 エッシャー
・29 ヘロドトス
・30 [3択]テキーラ
・33 [2択]父 島
・34e 『ヒカルの碁』
https://anond.hatelabo.jp/20240619014605
本文)
キャンセルカルチャーの問題点は、「悪い・正しくない」と思う倫理が内発的なものではないことなんだろう。
どこかで知った聞きかじりの「教養」に発するものだから、キャンセルすることでなんとなく自分が「正しい側」にいることに内心満足してしまう。「正しい側」にいるというのは安全地帯なので、いくらでも無知な人を罵倒し、笑い飛ばせる。その教養は実際のところ、★のたくさんついたブコメかもしれない、その程度に知った教養でも安全地帯に入った感覚を得られる。
つまり、「いーけないんだいけないんだー、センセにいってやろ」のアレと大差ない。
その程度の教養と正義感で、MVを取り下げ、ミュージシャンを謝罪に追い込む社会なわけだね。
かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的な正義と感情的な正義を区別し、自分のことでもないくせに感情的な共感によって主語がでかくなるのが感情的な正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのを思い出す。
もうひとつ思い出したのは、2年くらい前、
のなかで、人権とかマルクス主義とか、外付けされた倫理は歯止めが効かず暴発する、ということを内田樹がいっていたこと。
コロンブスとナポレオンが他所に乗り込んでそこにいた猿を使役したり自分の文化を教え込んだりする描写になんとも思わんのかお前はw
というのがあるね。
正直、なんとも思わないね、というのが俺の感想だし、植民地主義への反省なんていっても、外付けの反省どまり。
俺の中では、このMVはたわいもなくみえている。そんな他愛のないものを批判したくなるほど自分のなかで植民地主義批判は内面化されていないわ。
そんなことをいうと、すぐにいろいろな知識を開陳して説教したくなるサヨクがぼうふらのようにわいてくるんだが。
むしろMVのなかで、不快に思ったのはそこではなくて、ナポレオンなどの人物たちが「Monkey Attack」というビデオを鑑賞するシーン。負傷していまにも死にゆくハチマキをした類人猿の兵士を抱きかかえる類人猿の兵士、その場面にビデオ鑑賞していた皆が涙する、という場面だが、このシーンは、旧日本軍の兵士を連想させられ、ビデオ鑑賞で感動ポルノを消費するという行動にはイラっとさせられた。
類人猿をベートーヴェンが指導したり、人力車にひかせたりというのには何とも思わなかったのに、このシーンだけは嫌な気分にさせられた。
そう、まさに「つまり解釈の余地があるんです。」という感じなんだな。モンキーアタックビデオへの不快感はあるものの、袋叩きにしてやり込めるほどのものではない。他愛もないMVだよ。
rna氏は、ネット上では一斉に右向け右で「文明的なコロンブスたちが野蛮な猿人たちに文明を伝え、教化し、啓蒙している」という構図が大勢を占めているようだが、そうは解釈できないと述べている。
Mrs. GREEN APPLE「コロンブス」MV 問題、マジわけわかんねぇ (追記あり) - rna fragments
もっとも俺も若い頃、20年くらい前までは、人権の歴史を教科書通りに学んで、それを教養として広めていけば、外付けされた倫理は共感を呼んで広まっていく、みたいに素朴に思っていた時期があった。
https://lady-joker.hatenadiary.jp/entry/2024/06/16/011301
みたいなことを素で思っていたというか、それこそ20年前のはてな草創期の「何とかidさんの日記」にはそういうのがあふれていた時代、、はてなにははてサと言われる人たちが多かったのだろう、そういう人ともつながった。
しかし、いつしか違和感を覚えるようになった。特に、歴史修正主義というドイツで使われた文脈の言葉を安易に日本の南京虐殺否定の文脈で使うことが一般的になり始めたころ、はてサという存在が疎ましくなっていった。
俺の違和感の正体は、結局のところ、歴史の文脈のなかで生まれた言葉には、その歴史に紐づいた反省があり、過去への抗いがあるはずなのに、いつしか「教養」として普遍化するなかで、その歴史の固有性が失われ、あたかもハンディな批判ツールになり下がることだった。
村上春樹が2009年、イスラエルの文学賞を受賞したとき、はてサは一斉に授賞式に出席しようとする村上を引き留めようとし、攻撃した。出席することは共犯を意味するとまで言った人もいた。そのとき、村上氏は自身への批判を受け、それらの情景を正論原理主義といった。パレスチナの人たちとの現実の接点をもたずに、パレスチナだ、ガザだ、人権だと漠然と騒いでいる、ごく普通のひとたち(私たち)の”寄り添い”は本当に軽いものだ。共犯という言葉も軽い。イスラエルに赴いて「高くて頑丈な壁と、それにぶつかって割れる卵の側では、私は常に卵の側に立つ」と現場で話をした村上春樹の言葉のほうがよっぽど覚悟が必要だ。それでも村上春樹を攻撃する様子をみて、俺はだんだん嫌気がさして、ブログからフェイドアウトしていった。
(追記2)なお歴史修正主義に関して、以下のブコメが目に留まった。
tick2tack ???/ 外付けの倫理の話なのに2行目で教養の話になってるのはなに。/ (歴史)修正主義という言葉は50年以上前からドイツ関係なく使われてる。
すまんが、ズレてるぞお前さん。こういうのってさ、ちょっとでもファクトチェックしてもらう手間を惜しまなければわかることなんだよ。ドイツで生まれた修正主義はその後、ソ連や中国などの共産主義社会で使われていった。イデオロギー的な対立が強い国では、ある視点や政策に「修正主義者」というレッテルを貼ることで、それを委縮させることを狙ったわけだ。
つまり信奉するイデオロギーから逸脱した奴を侮辱して叩く、こん棒として便利に使われるようになっていった、というのがお前さんのいう「50年以上前からドイツ関係なく使われてる」の実態だからな。それが90年代後半、新しい教科書問題以降、日本で使われ始め、00年代半ばには定着した、というのが俺の理解。完全にこん棒化した、っていうのが歴史修正主義の使われ方の変遷だ。「相手に対する敵意と侮蔑」そして「俺たちが正しい」以外なにも読み取れない用語になり果ててるわけ。そりゃwikipedia書き換え合戦になるわな。だから俺はこの用語が嫌いなんだよな。
(/追記2)
お前、そんなこともわからないのか、そんなことも知らないのか、といって得意げに歴史や知識を開陳する態度。
てめえだって大して現実味のないことに対して義憤を抱いてるにすぎないくせに、この尊大な態度。
サヨクに対する嫌悪感は、ここに尽きる。キャンセルカルチャーは、無力なサヨクが得意げに知識開陳して自己満足する場になってるんだよ。
言葉の軽さはどこからくるのか。ヒントになるのは、前述の内田樹の文章。
永井:それで言うと、私は本当に「人権」というものを外付けしたタイプだと思います。大学1、2年の頃、大学で平和学の授業を取ってたりしたのですが、そのときに、何が幸福なのか、他人が何を考えているのかなんてわからないと思ったんです。そして陳腐ですが、みんな正義も正しさも違うよねともやはり思いました。
じゃあ何を拠り所にしたらいいのだろうと考えた結果、「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。普遍性が高いなら、「人権が著しく侵害されているのであれば、これは問題だ!」と堂々とみんなに言うことができる。そうして私は良くも悪くも人権というか権利しか見ない人になっていったわけですが、それは本当に「外付け」だったと思います。
「これは問題だ!」と深く自分のこととして考えもせずに簡単にいえてしまう、ここにこそ問題がある。
そういう義憤の正体って何だろう。
最近、朝日新聞の人生相談に回答した野沢直子に対して、それを朝日新聞記者のコメントともに、冷笑と受け取って批判している記事があった。
[B! 報道] 読者を小馬鹿にする記者の態度にビックリ…野沢直子(61)の「悩み相談」騒動に見る“朝日新聞の冷笑主義” | 文春オンライン
https://digital.asahi.com/articles/ASS5K30WGS5KUCVL02MM.html?ptoken=01J0FYBDAZQF5YH5MPNMCJH3QA
「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」とかいう50代の男性の相談。
私個人は、野沢直子の回答の感覚に近い(あ、俺はトランプ支持者じゃないけれどね)。現地に行ってみろと。行けば当事者意識を持てるから。
これは冷笑でもなんでもない。正直、野沢直子の回答を冷笑と捉える文春の批判のほうが今の時代の病を表現していると思った。
新聞で得た世界の出来事をいかに正義の言葉で嘆いても、その切実さは現場の人の感覚とは何も通じ合っていないかもしれない。
かつて、北アフリカのスーダンで、ダルフール紛争と呼ばれる、政府系の集団による虐殺が国際問題となったことがある。
日本のブロガーも反応し、かつてFinalvent氏がこの知名度の低いこの問題を何度も取り上げ、意識を高めようとするべく、記事をお書きになられていた。
最初は、自分の啓発もかねて弁当氏の言説に注目していたのだが、しかし、その後、私自身が北アフリカ地域に仕事上関与するようになってから、スーダン人とも仕事をしたし数多く知り合いになった。自分なりに関心をもって現地で情報を集めてみると、国際的に展開されているセーブ・ダルフール・キャンペーンは次第に異なる運動に映じるようになっていった。
それは当時のバシール大統領の断罪をはじめ、現地武装性組織の悪業を過剰に喧伝する国際NGO特にアメリカのNGOのキャンペーンのやり方に対する違和感だった。紛争の実態はもう終わっているにも関わらず紛争が継続しているかのような言説が多く、過剰かつ単純な演出によって集められた資金は、NGOの広告費に回っているという話まで聞いた。
正しい、とみんなに思い込まされていることでも、プロパガンダが功を奏しているだけかもしれないということだ。
弁当氏がその後、一貫してスーダンに注目していたかどうかは知らないが、やがて同氏の記事の傾向が変わり、国際問題にはほとんど言及されなくなっていった。
今、現在、スーダンの置かれている状況はというと、2023年に始まった国軍と準軍事組織「迅速支援部隊(RSF)」による内戦により、ダルフール紛争の比ではない、深刻な国内避難民が発生している。2023年末時点で国内避難民が905万2822人。これはスーダン人口の2割に相当。2003年の世界最悪レベルの人道危機と言われたダルフール紛争のときですら国内避難民は100~200万人というオーダーだったので、それをはるかにしのぐ難民が発生している今の状況がいかに危機的かがわかる。
しかし、俺は思う。当時、弁当氏のスーダン記事を読み、義憤を抱いた人の何割くらいが、現在進行形の危機を憂いているだろうかと。エジプトとトルコはスーダン国軍支援、アラブ首長国連邦はRSF支援、このように中東の中堅国らは、自分たちに好意的な顧客を武装させながらも、和平を口にする、いわば代理戦争の様相を呈している。
ただ、一方で、外付けの教養には意味がない、とは思わない。しかし、植民地主義の歴史を知るとか、外付けの倫理をいかに理解しているかという意味ではない。
普遍的な価値として、人権を外付け実装してきた日本人である自分自身がいかに受容してきたのか、それを踏まえて自分の生きる社会をどうしたいのかを知ること。
そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要があると思っている。
表現の自由ひとつとってもそう。表現の自由って大切じゃないか?と少しでも思ったら、それを所与の普遍的価値だから、と思考停止しないでよくよく考えてもらいたい。
なぜアメリカの判事は歴史的な判決のなかで、空気が濁っているほうが社会は健全だといったのか。なぜフランスでは神を冒涜することが権利なのか。
なぜドイツではホロコーストの否定は表現の自由に当たらないのか。日本は公共の福祉の解釈としてそれらをどのように受容したのか。表現の自由が失われると何が恐ろしいのか、それはそれぞれの社会の文脈がある。少なくとも自分の社会ではそれは何なのか、それを知ること、それこそが教養というものだと思っているし、理性的な共感というものだと思う。
少なくとも俺が思うに、日本社会においては、冒頭のケシカラニズムが政府にとって都合よく操れる心情だろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会では、こういう感情的正義がますます膨れ上がるだろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会は、「これが正義だ!」とみせられるとすぐに無教養な人々を煽り立てることでき、簡単なプロパガンダで誘導することのできる、政府にとって都合の良い社会ということになろうかね。
MV叩いて知識開陳してマウントとってるサヨクもそれで満足ですかね。まあそういう奴はそういう時代がくれば、アカ狩りで共産党員と不倫していたことをネタに糾弾しているかもしれないし、体制寄りになってるかもしれないけどね。本格的な右派政党が台頭したらそいつらを味方につけるだろう。不謹慎厨の本質は正義の中身を大して気にしてないことだ。日本中が沖縄を踏みつけにしても気にしないが、よその国の自分とさして関わりのない先住民のことは気に掛けるふりができる。
世界中、世の中でいろいろと深刻で理不尽なことが起きているなか、そういう諸々には無関心で当事者意識もないくせに、「教養ある人」が突然ポリコレし始め、他愛もないMVの植民地主義的な傾向にかみついて、そうだそうだとみんなして一斉に同調した結果、MVの発表取り下げに至る、という構図は学級会のつるし上げそのものだ。
サヨクは知識マウントできて満足だし、日ごろのストレス発散になったことだろう。
朝日新聞に人生相談をした「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」という50代の男性も、MVをぼこぼこに叩いて満足するくちかもしれない。新聞を読んで中途半端なポリコレ意識をもてあましている、という輩に対する処方箋としては、野沢直子の回答はこれ以上ない的を射たものだと思った。
王族とかを探しても「完全に人任せだったおかげで官僚が自由に動けて発展した分野もある」とかになりそうな気がするんだよね。
まあ流石に処刑されるようなカスだと厳しい部分もあるかもだが。
当時の法律で犯罪にならず、でも当時の段階で「マジアイツカスやろwwww」と言われてて、その上で構成の評価も「こんなカスがなんで偉人扱いなんや!やったことは凄いけどカスやろ!」となってる人おるんか?
「アインシュタイン調べてくとヤリチンすぎるだろ!あの舌で何人をクンニしたんや!」みたいなしょーもない個人レベルの罪の話ではなくてね。
今日は偏差値が50以下の女子中高生にも分かるようにコロンブスの功罪について紹介するよ。
いやー、コロンブスって名前聞くと、なんだか冒険心が湧いてくるよね。
アメリカ大陸を「発見」したってことで、学校の歴史の授業でもよく出てくる人物だ。でも、ちょっと待って。
実は、彼の行動にはかなりの「罪」もあるんだよ。今日はその辺を掘り下げていくから、面白く読んでってね。
まずは功績から。
1492年、コロンブスはスペイン女王イサベルの支援を受けて、3隻の船(サンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号)とともに大西洋を渡ったんだ。
その結果、アメリカ大陸に到達し、ヨーロッパと新大陸の間に新しい航路を開いたってわけさ。
これがいわゆる「大航海時代」の幕開けとなったんだよね。
この「発見」により、ヨーロッパの人々は新しい土地、資源、そして文化に触れることができるようになった。
トウモロコシやジャガイモ、トマトなんかの新しい作物もヨーロッパに持ち帰られたし、これは確かに大きな功績と言えるね。
ヨーロッパの食文化や農業に革命をもたらし、人々の生活を豊かにしたんだよ。
さらに、コロンブスの航海は地理的な知識の拡大にも貢献したんだ。
当時の地図には存在しなかった新しい土地が記録され、地球の形や大きさについての理解も深まった。
この探検は、その後の多くの探検家たちに刺激を与え、新しい航路や土地の探求が続けられることになったんだ。
さて、ここからが本題。
コロンブスにはかなりの「罪」もあるんだよ。
まず、彼が「発見」したと言われるアメリカ大陸には、もともと先住民が住んでいたんだ。
でも、コロンブスと彼の仲間たちはその土地を「自分たちのもの」として扱い、先住民たちを奴隷として酷使したんだ。
コロンブスが初めて上陸した島、今のバハマ諸島にいたタイノ族の人々は、彼らによって大きな被害を受けた。
彼らは金を探すために過酷な労働を強いられ、多くの人が命を落とした。
さらに、ヨーロッパから持ち込まれた病気(天然痘やインフルエンザなど)は、先住民にとっては免疫がなく、壊滅的な影響を与えたんだ。
また、コロンブスの第二次航海以降、彼は本格的に植民地化を進め、多くの先住民が土地を奪われ、文化が破壊された。
彼の統治下では、暴力や虐待が横行し、先住民たちの人口は劇的に減少したんだよ。
コロンブスはインディアス総督としての地位を利用して、先住民から金や労働力を搾取し、自身の利益を追求したんだ。
さらに、彼の行動は他のヨーロッパ諸国にも影響を与え、アメリカ大陸全体での植民地支配と先住民の迫害が広がるきっかけとなった。
スペインだけでなく、ポルトガル、イギリス、フランスなども競って新しい領土を求め、先住民の生活と文化を破壊する結果となったんだ。
彼の冒険心と探求心は確かに歴史に大きな影響を与えたけれど、その裏には多くの悲劇があったことも忘れてはいけないんだよ。
歴史は一面だけじゃなく、いろんな視点から見ることが大切なんだ。
コロンブスの行動は、現代の我々にとっても教訓となる部分が多いんだ。
彼の功罪を理解することで、未来のために何を学び、どう行動するかを考えるきっかけになるといいね。
それじゃ、またね!次回は何について話そうかな?お楽しみに!
学生時代の友人が社会人なりたての時に年上の既婚男と不倫し始めたということがあった。
最近出会った年上の人に片思いしている、という話題から始まり、仲間内で応援して最終的に付き合えることになった!という流れを全部見守っていたのでみんなもちろん何も知らず素直に祝福した。私も嬉しかった。
そのあとからどうやら相手が既婚者だったこと、騙されたわけでもなく本人も最初から知っていたことが判明。
そもそも私がここでこんな文を書いていることからお察しかもしれないがこの仲間たちは陰の者集団だった。仲間内で笑える絵や漫画が描けたらそれで楽しいフレンズ。
そんな中、その子は社会人になった途端に趣味が自分のポートレートになった。花畑の中でふわふわワンピースで微笑む写真とかをインスタに載せるタイプのだ。急な方向転換すぎてみんな困惑したがまぁ悪いことではないし写真は綺麗だったのでいいねは押していた。
それを経てからの不倫騒動だったので、あぁこの子はもうすっかり変わってしまったんだな…と、誰も不倫を止めるようなこともせずやんわり距離をとっていった。
で、何年か特に個人的には連絡も取らず不倫がその後どうなったのか知らないが、次にその子を久しぶりに見かけたのはSNSでの結婚報告だった。
そこから幸せいっぱいの新婚生活!みたいな投稿をするようになり、妊娠出産、家族での写真、第二子…とそれはそれは幸せで仕方ない様子がSNSに流れてくる。
「本当に◯◯(旦那)のことが大事!運命の人!この人しかいない!」(出産後はここに子どもの名前も増えた)のような文が添えられているのを見るたび、アンタもしかしたら過去にどこかのそんな家庭を壊したのかもしれないよ……と思ってしまい、純粋に応援してた頃の気持ちを裏切られた感も思い出してなんか無性に腹が立つ。何やねんこいつ!
でも何も知らずに今の姿だけを見たら本当に良い妻で良い母をやって家族仲も良好、人物写真の腕もあるので家族の写真も見栄えがめっちゃいいという非の打ち所がない感じなのが本当にもう。何やねんこいつ!
これで今の旦那の愚痴でも言おうもんならじゃあ不倫でもすれば?(笑)、くらいの冷たい目で見られるのに、本当に今の生活が大事で幸せなんだろうなというのがわかるからこそ余計になんであんなことしたんだ、という怒りが湧くんだろうなぁと思う。というか今これを打ち込みながら思った。
最近の書き込みにも純粋にいいね押したかったよ。良い写真にはコメントもしたかった。その息子くんの写真最高!プロのカメラマンか?とか笑いたかった。
どうしてもこいつ不倫したんだもんなぁ…と思うと幸せな家庭を持ってることを喜んじゃいけない気になる。
かといって因果応報で今の家庭が壊れろとも全然思わないけどね。どうにもならないから今後もなんか腹立つな!と思い続けることになるんだと思う。