はてなキーワード: 雑文とは
これからお目にかける雑文は、データにもエビデンスにも専門知にも基づいたものではない。
むしろ一市井の人間の有限(どころか乏しい)観察と未熟な想念、そして「何か書かなければならない」という衝迫のみを支えとしている。昔風に言えば標題のとおり印象批評だし、現代風に言えば単なるお気持ちである。
それでも、虚言や流言、罵詈雑言が猖獗を極めるクソッタレインターネットへ供する一服の清涼剤たらんという意志を持って草した文であり、そのように読まれることを希う次第である。
以下に続く文章は、主語がデカすぎるだの、事実認識がお粗末だの、構成がなってないだの様々な批判に晒されるであろうことは最初から織り込み済みである。いずれも筆者の能力の至らなさに起因するので「ごめん!」としか言いようがない。
もっとよりよい認識や知見の給源は他にあると思うので、それらに接するのが一番いいと思う。そのような批判を恐れずにあえて書く理由は、まさに標題で仄めかした「民主主義を虚無に捧げてはいけない」という信念を擁護するために自分でできることをしようと思った、ただそれだけである。
この文を書こうと思った直接のきっかけは昨日の兵庫県知事選挙である。
つい1週間ほど前に太平洋の向こう側でトランプが当選し、「MAGAくんさぁ……」という軽侮の念を抱きつつも、どこか他人事の如く受け止めていた自分がいた。
しかし、メディアやネットでパワハラ野郎だの私利私欲を極めたゴミだのサイコパスだのさんざん叩かれた斎藤元彦がメイク・ヒョーゴ・グレート・アゲインした途端、愚かな民衆なる集合は爆弾ゲームよろしく我々にヒョイと手渡されたというわけだ。
尤も、自分の最初の認識がそもそも間違っていたというのは認めるにやぶさかでない。要は愚かな民衆も、賢明な民衆もどこまでいっても抽象概念で、そのような概念で語れる事柄には限界があるという単純な原則をしばし忘れて物を考えがちというだけのことだ。
このような間違った考えで一喜一憂しているのは筆者だけはないらしい。
選挙結果が出てから、兵庫県知事選は立花某にハックされたということや、あるいはネットで真偽不明の奇々怪々なフェイクニュースを浴びせられて正常な判断ができなくなった結果だとして、SNSと選挙の結びつきを否定的に見ている向きがある。
もちろん、我々はアメリカの大統領選にロシアやイランが介入しようとしたという事例を知っている。ならず者国家の裏工作を挙げるのが極端だとすれば、ケンブリッジ・アナリティカのような倫理観の欠片もない連中がいることも知っているはずだ。
しかし、現段階の情報でもって、兵庫県民は騙されたのだという前提で話を進めるのは問題だろう。それをもってしても社会の底が抜けたとか、もはや民主主義は終わりだという悲観的で短絡的な発想に至りがちということを見ても、この種の作業仮説は民主主義に有益どころか有害であることは明らかだ。そういう人たちがエピストクラシーを実現するのか、リベラルな思考をもった等質的な市民たちによる思想のゲーテッド・コミュニティを作るのかは知らないが、それはきっと非民主主義的な操作で行われるものではないか。筆者はリベラル嫌いだが、それでも自分たちの理念に後ろ足で砂をかけるような彼ら・彼女らは見たくないというのが嘘偽らざる思いだ。
各種報道を見る限りでは、兵庫県民は普通の民主主義国家における市民と同じくらいの能力や感覚を持ち、それなりに各候補者を比較考量した上で投票に臨んだと考える方が現実に近い、と筆者は考えている。
ここでは斎藤や稲村の政策についてどっちがいいとかいうことは考慮の埒外に置くが、少なくとも「何かいじめられててかわいそうだから!」とか「メディアの一辺倒な報道が気持ち悪いから!」だけで110万票も取れるんだとしたら、残念ながら民主主義以外の選択肢の有効性も検討すべき時期が来ているのかもしれない。もちろん、実際のところそうではないのではないか、というのが筆者の見立てだ。
何が斎藤元彦に再び県庁の敷居を跨ぐことを許したのか。それを考えるために補助線を引きたい。もちろん、論理的必然性をもった操作ではない。何故ならこれは印象批評にすぎないので。
少し前に国民民主党の玉木代表の不倫問題が報じられた。不倫の責任の取り方は様々だろうが、代表を続投しこれからも頑張っていくということが比較的多くの人に受け入れられているように思った。
その方策の是非はともあれ、手取りを増やそうというストレートな訴えが若者を中心に多くの支持を広げていて、それに水を差すような報道を苦々しく思っている、あるいはある程度「相対化」可能な事柄だとして脇に追いやってもいいという雰囲気があるように筆者の目には写った。
筆者個人はこの種の思潮には到底賛同できない。不倫するような人間に増やしてもらう手取りなんぞはこちらから願い下げである。議員辞職するまでではないとしても、代表を辞任し一兵卒として政策の実現に邁進するということだって責任の取り方としてありえたのではないかと思っている。
どれだけ政策を懸命に訴えても、政策を進める当事者の「人品」というのは、決しておざなりにしていいものではない、と個人的には思う。実際、自民党の政治資金収支報告書不記載の問題に端を発する「裏金」逆風はそのような考えから生まれたわけだし、与野党伯仲という結果に実を結んだと考えれば、個人的かつ奇異な考えではないとも思う。であれば、妻子ある男性が別の女性に懸想することを問題視しなくていいのだろうか(妻子にとっては経験しなくていい嫌な出来事であるし、相手方の女性が公党の代表者と不倫したことがバレればその社会的地位をも脅かしかねないという帰結を予想できなかったのであれば、政治家どころか責任ある社会人としても御しがたいレベルの不見識なのではないか。)。
とはいえ、上の筆者の考えは少数派に属するものだと思う。不倫は家族や当事者の間で解決されるべきでダメだったら家庭裁判所へどぞ、というような私的な話で、こんなことのために俺たちの手取りが台無しになってたまるか、玉木はきっちり反省してその後頑張れという意見が大勢を占めているのではないか。
そしてこれは、斎藤が公益通報制度を度外視して告発者を袋小路に追い込んだことや、トランプが弄する信じがたい人種差別的・性差別的言動によって当事者が傷つけられることを等閑視するメンタリティと相通ずるものがあるのではないか。
もちろん、そういった非倫理的な行いに諸手を挙げて賛成するダークトライアドガチ勢のような人間ばかりではないだろう。しかし、それはそれとして、というような相対的態度をとらざるを得ないのは、言い換えれば自分たちにとって焦眉の問題が別にあるということにほかならない。
このような相対化を導くに至る根源的な不満の存在それ自体は目新しい指摘でもなんでもない。ラストベルトの労働者も、閉塞感を感じてきた兵庫県民も、手取りが増えない若者のいずれも「古くて新しい問題」であり続けている。目新しいことでもないのに、定期的にこの種の話が出てくるのは、解決が困難なことの証である。そもそも解決可能な話なのか? 全てのステークホルダーに満足を与えられるほどのリソースがあるのか? 自分たちの満足のために誰かにふるわれる不正義もやむなしとする世界で、オメラスから立ち去る勇気を持つ者たちが果たしてどれだけいるのか? 我々はずっとこの問いかけの中に閉じ込められているし、この困難さを抱きしめることが民主主義の要諦なのかもしれない。
この文では、貧しくあってもせめて人並みの倫理ぐらいは持てよバーカ、とか、人民の悲しいまでの想像力の欠如を嘆かん、という倫理的お説教や慨嘆を述べ立てるつもりは毛ほどもない(そういうリベラルへの嫌悪感を筆者は多くの人と共有するものである。)。政治家に自分たちの方を向いてほしい、助けてほしいというのは当然だし、その願いが届くのが民主主義のいいところではないだろうか。
だが、その時、もしかしたら誰かを犠牲にしているのかもしれないという一抹の不安は感じてほしいなとは思っている。それが望蜀に属する話だとしたら、民主主義の皮を被った椅子取りゲームを続けるべく、我々はいつ鳴りやむか分からない音楽に耳をそばだて、減り続ける椅子を横目に生きていくのだろう。これがいいとは、筆者は決して思えないが。
「あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。」
大人になってから『のび太の結婚前夜』を改めて見た時に、「なんて当たり前のことを言ってんだ。よっぽど褒める言葉が見つからない時用の言葉って感じだ。」という冷笑的な感想を持った。しかし、今ならのび太が全くもって稀有な人間であったと痛感せざるを得ない。
立花が言うように元県民局長がどんなに酷いことをしていても(逆にどんなにいいことをしていても)、斎藤の拙速かつ強引な統治手法(このことは必ずしも立証されていないが、その後の百条委に至るまでの対応を見ればそう思わざるを得ない)に問題意識を感じて声を上げたこと、そして斎藤がそれをこれまた拙速かつ強引に対峙し、県政停滞のハードランディングに至ったのとは別の問題である。その対応に関する法的な問題などはこの際措くとしても、百条委で問われた道義的責任を「わからない」と述べた斎藤が、再選で得た民意を盾にこの問題を「相対化」しようとする危険性がないとは決して言えないだろう(当選後、記者団に対して「知事部局として一緒にやっていくのは公務員としての責務」と述べたのは、県職員に対して「俺は民意を得たんだからお前らがついてくるのは当然だよな?」と釘を刺した形とも言えるし、先行きは不透明だ。)。
斎藤に投票した人は、せめてそういう状況が棚上げになったままであることを認識した上で、自分たちの居心地の悪さに素直に向き合ってほしいと思う。(元県民局長が死んだのは別の理由であるという卑劣な矮小化をするのではなく、)たとえ拙速で強引でも斎藤が自分たちにとっていい兵庫県を作ってくれると信じて投票したのだとすれば、その結果誰かが痛い目を見ることになるかもしれず、それはひょっとすると顔見知りかもしれない。その時、その人の不幸を悲しみ、その人の幸せのために何かできるだろうか。そういった考えを頭の片隅に置き続けることが、民主主義のレジリエンスを形作る重要な要素だと筆者は考える。清廉潔白完全無欠な政治家が存在しない世界で、民主主義を選び取った全ての清廉潔白完全無欠でない我々にとって、「それがいちばん人間にとってだいじなこと」ではないだろうか。
日々の生活に汲々として自分の人生にやりきれなさを感じながら 「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむ」というのはそうそうできることではない。とはいえ、できていないなと思うだけでも、「あの時できなかったから次こそは」という思いにつなげられるかもしれない。
https://anond.hatelabo.jp/20220110111939
上の記事のその後の顛末と、そこから2年以上過ぎた現状を自分の備忘録程度にまとめる。
(注意:雑文、長文)
上の日記を書いたあと、なんとか気持ちを落ち着かせて、担当教員に泣きつきながら、卒論提出にこぎつけた。
ほぼ先輩のコピペだったけど、先生としても最低限の親身な対応はしてくれて、なんとか卒業最低ラインの卒論に仕上げられるよう、親身に指導をしてくれた。
2回目の院試だけど、卒論で精一杯だったのと、やっぱり全然勉強に集中できなくて、結局ほぼ1夜漬けで受けて、また落ちた。
受ける2,3日前に、初めて両親に現状について説明した。お金をかけて学校に通わせている子どもがそんな事になっているということで、それなりにショックだったようだけど、
怒られたり、理解できない!と拒絶されたりすることはなく、「大学院行きたいなら応援はするけど、別にいかなくてもいいんじゃない」というスタンスだった。
この対応には、正直すごく救われたし、自分は環境に恵まれているんだな、と感謝したのを覚えている。
院試に落ちたのが4年の2月中旬だったが、先生には来年以降就活浪人のような形でやっていこうと思うと相談して、大学の就職担当を紹介してもらった。
本当に運が良く、たまたまその年の4月から希望するような国内ニッチ産業大手のメーカーに勤務することができた。
今は、そこで働いて3年目。もともと興味があった業界で、やりがいはある仕事なのだが、
・時間拘束の長い業務が多い(24時間寝れない試験などがザラ)
ということで、拾ってもらった御恩はあるものの、また先月ぐらいから鬱再発症してメンタルクリニックでお薬をもらいつつ、過食症気味になりながらも欠勤と遅刻しながらの勤務中である。(テヘペロ)
なかなか人生うまくいかないダメダメな感じだが、幸い健康と引き換えに300万弱ぐらい貯金することができたので、
私にはキャパオーバーの仕事だったということで休職でもしながら、転職を考えているところである。
「『ごんぎつね』の読めない小学生たち、恐喝を認識できない女子生徒……石井光太が語る〈いま学校で起こっている〉国語力崩壊の惨状」などという雑文がある。石井光太というバカが書いた文章だ。
石井光太は「大きななべのなかで、なにかがぐずぐずにえていました」という一文に対し児童が死んだ母さんを煮ていると珍回答をしたことについて口を極めて罵っている。たしかに母親を煮るのはおかしいだろう。それに違和感を覚えた石井は正しいよ。
でもよ。
おまえ、鍋の中で何を煮ているか、わかってんのか。おまえもわかってないだろ。わかってないならお前もお前がバカにした児童と同レベルなんだよ。なにかの煮物を作ってる?そんなわけないだろ。バカかよ。バーカバーカ。
油揚げを煮ていなり寿司を作ろうとしてるんだ。兵十と兵十のご近所さんがいなり寿司を作ろうとしてるの。
「いなり寿司とは限らないだ。なにか煮物を作ろうとしてるんじゃないの?」という意見があろうがこれは誤り。
兵十はかあちゃんが死んだら一人暮らし。参列者がそんな家に上がり込んで煮物を食べますか。食べないでしょ。キモいでしょ。兵十。独身の中年だぞ。キモすぎてキモすぎるでしょ。独身の中年だぞ。
兵十が出すのはいなり寿司以外はありえません。石井は児童を侮辱し、中年独身男性も侮辱してる。最低だ。
ごんぎつねはゴンと兵十の重なるようで重ならない想いを描写した児童文学であるが、同時に独身中年男性の悲哀を書いた文学でもあるんだよ。それがわからない石井には文学や教育を語る資格はない。
30代男性。結婚して10年弱。子供二人(上が小学生、下が幼稚園年中くらい)。
年収X000万円くらい。手取りで言うと月90万円前後(ボーナス月は別)。
家計は一馬力でやってきた。新居、車、旅行、あらゆる金銭的負担は自分が負担している。全て妻が望むような条件のものを買っている。
女性にとって出産は大変なのでそのくらいは当然のことだろうと思う。
以前から家族カードを渡しており、お互い好きにお金を使えるようにしている。
自分の出費を見せないように邪な考えをもち、お互いの明細が見えない家族カードにしたところ、妻が毎月X0万円前後使うので、ローン等々で自分の貯金が増えることはあまりない。
むしろ想定外の浪費っぷりに、下手すると毎月赤字になることもある。ここ2年くらいようやく妻がバイトを始めて、おこずかいなどもあげなくなったが、カードの消費は変わらなかった。
普段の買い物は自分が行く、子供の送り迎えも自分だ。毎日のご飯や洗濯も、仕事をやりながら、全部自分がやっている。
妻はバイトから帰ってきたら疲れてソファーで横に寝ている。週2-3のバイトで、バイト休みでもご飯が準備されていたことはほぼない。
休みの日もソファーでゴロゴロしながら携帯をいじり、お腹がすいた、アレ食べたいこれ食べたいと言われたら、自分が子供の迎えのついでにスーパーで食材を買って、料理する。
そして、料理をしながら洗濯をしたり、風呂を洗ったり、食器を洗ったりする。
こないだは、自分が調理している横で、妻がお腹が減ったといいながら出来上がった料理とハシを自分自身の分だけ準備して食べ始めていた。子供の分も当然用意をしない。
妻は月に数回平日・週末問わず遊びにいく。自分も行くが会社の飲み会くらいでそれよりも頻度は低い。妻がいない方がいろんな手間が減ってありがたい。
自分が飲み会の日は、さすがに妻が子供のお迎えやご飯をやってくれるので、そこは感謝している。ただ、自分が帰ってきた時に、あらゆる食器が出しっぱなしで、洗濯なども行われていないので、夜中に後始末をしないといけないのがわかっているので、飲み会から帰る気力がでない。それ以外にも、出かけるときや夜寝る前などに出したコップなどは妻はそのままで片付けることもあまりない。
妻は、低血圧で寝起きが悪く、朝子供が騒いでいたり、妻のものをいじったりすると、普通にキレる。
数ヶ月前に、子供に昼ごはんを食べさせている途中で、妻が起きてきて切れたので、さすがにそれはいかがなものかと怒り返したら、臍を曲げる。
それからは会話はするが、性行為どころか身体的接触すらなくなった。
まあつらつら文句はかいたが、そんな細かいことはどうでもいいことだ。そういう相手と結婚したのだからそんなものなのだろう。
ただ虚しいのは、ご飯を作って出しても、妻からありがとうと言われないことだ
仕事を毎日して、家計を100%支えて、(ブランド物とかを好きにかえるわけではないが、)ある程度自由にお金を使えて、子供や家事を9割くらいやって(もちろん全部完璧ではないが)、
なかなかこんな男は少ないと思っている。
しかし、いつも仕事頑張ってくれてありがとう、とか一度もない。ご飯おいしいありがとう、と言われることもない。
妻が飲んで帰ってくるときにお腹がちょっと空いているわーと言われたら、夜食も準備してお風呂も沸かしているが、それに対してありがとうといわれたことすらない。
「上澄み」とはもともと、液体中の不純物が下層に沈んだあとの、上層に近い綺麗な部分のことを言う。そこから比喩的に「全体における良い部分」のことを指すようになった。
ところが、そうした用法は近年広まった誤用である、という主張がある。「上澄み」はネガティブな意味で使われるべきだ、というのである。
上澄みをさらう(すくう)、といった慣用表現があり、それは「表面的な理解」といった意味と認識していた。
用例:そんな上澄みをさらった程度で○○を理解できたと思うなよ
しかし最近よく聞く誤用なのか拡張なのか…逆の意味で使われているのをよく見る。
用例:葬送のフリーレンのクヴァールって、序盤に戦ったキャラなのに実はめちゃくちゃ強かったんだな。こいつ魔王軍の中でも上澄み中の上澄みだね。
「クヴァール 上澄み」で検索するとめちゃくちゃ出てくるこの用法。
強さの評価で上澄み、と言われると表層に位置する浅い存在、すなわち弱い存在のように感じたのだが、明らかに上澄み=みんな気づかなかった強いヤツ、みたいな意味で使われている。
おそらく字面のイメージで澄=よいこと、上=位置的に上、つまり上位であることという意味でポジティブに使われている。
液体の上澄みは、底に沈澱したものがあり、それを本質と捉えて「上澄み=表層的な浅い理解」と喩えた慣用表現だったはずが、完全に逆転してしまっている。
とりあえず葬送のフリーレンのクヴァールについて語る人以外では見たことがないのだが、クヴァールについて語る人はみんなポジティブな文脈で上澄み上澄み言ってるので気になっている。
この用法はすでに定着しているのでしょうか?— た介 (@BigotVinus) November 19, 2023
しかし、たとえば酒造や製油などにおいて「上澄みをすくう」のは、多くは底に沈む不純物を除くためであって、不純物を得るほうが目的だということは少ないだろう。その語源を考えれば、「上澄み」をポジティブな意味で捉えるほうが自然だと思うのだが。
実際にどういう使われ方をしてきたのか気になったので、比喩的な意味で「上澄み」を使っている古い用例を探してみた。
古人の名作 皆な下習いが有る 紫式部の源氏物語も 家筋だけに一体能文のうえ 日記も作り 歌の詞書もし 其外文や雑文に筆を練り 学は元より日本記の局と呼るる程までなり 其の上澄が彼の大作となッたのだ
調べたかぎりでは最も古い用例。上澄みが「良い部分」を指している用法だが、文章全体では上澄みを生むための「下習い」の重要性を説く。
アア世間は泥なるかな泥なるかな、吾独り澄めりと云う者も、矢張り泥の中の上澄を吸うの人なるのみ
上澄み自体は「良い部分」を指すが、文意としては「綺麗な上澄みも所詮は泥の一部にすぎない」といったところ。
明治39年 虚心窟主人『酔醒禅』
同じく泥と上澄みに喩えた用法。
然るに学期を分ち、試験を行い、小刀細工に類する形式的堀割を通して、之を流し込もうとすれば、肝腎な熱流の熱が失せ、有益なる含有物は途中に沈殿してしまって、児童の頭に這入るものは、ただ水のような上澄ばかりとなる。
翻訳書。上澄みよりも沈殿物のほうが有益だというので、明確に上澄みを「悪い部分」としている用法である。
常時百余名という寄宿制も、実は変らぬところは六七十人の堕落書生で、濁った水の上澄を酌むように、余の三四十人は、毎日新陳代謝、だまされて入社し、裸になって退社する者等を総称して見た話して、頭数は百でも二百でも其中に書籍を読む者は、只の一人もないので、只稼いで喰って寝て居るのと、只喰うや喰わずに寝起して居るのと、人の物を盗って喰って居るのと、夫等が下方の沈殿物で、入社即退社が上水の澄んだ所なのだ。
沈殿物が酷すぎるが、上澄みが優れているという書き方でもない。どちらかというと「上層は流動的・下層は停滞的」というイメージか。
快楽の上澄をのみ飽まで飲んで、渣滓の苦きには吸い至らず、花婿の其当夜に死んだ彼は永久に花婿である、彼を人生の最も幸福な者というも、強ち不当でない。
「美味しいところだけ味わって死んだ」という話で、やや皮肉めいた書きぶりだが、上澄みを「良い部分」とした用法ではある。
極端な理想主義と極端な現実主義の上澄みを取る、という話で、ちょっと独特の用法な感じがする。「良い部分」ではあるか。
苗字もなく、生きて居るのさえうんざりした者達の集って居る、暗い罪悪にまみれて居る世界では、そのような事は何でもない。三面記事にさえ、載せきれない「彼らのいがみ合い」の一つとして、世の中の上澄みは、相変らず、手綺麗に上品に、僅かの動揺さえも感じずに、総てが、しっくり落付いて居たのである。
上層は綺麗で上品で落ち着いているが、それは下層の濁りが上層まで伝わらないからだ、という用法。
単なる表層・深層の言い換えだが、「上層は流動的・下層は停滞的」のイメージが入っているかも。
とりあえずこのあたりで。
以上から考えるに、「上澄み」の用法はさらに4つに分類できる。
1. 上澄みは全体のなかの「良い部分」である。
1-a. 上澄みは「悪い全体」のなかの「良い部分」である。
2. 上澄みは全体のなかの「悪い部分」である。
3. 上澄みは全体のなかの「流動的な部分」である。
「上澄み」という語のイメージは「良い部分と悪い部分が上下に分離している」といったものであり、単純には1の用法なのだが、1-aの用法だと「実は悪い部分が底に隠れている」「実は沈んだ部分のほうが本質である」という逆張り的な文意になることが多いため、次第に「上澄み」自体に「うわべだけで本質的でない」ような印象がついていった、ということだろう。それが極まったのが2の用法。3の用法だけは独自な感じ。
最初の話に戻ると、
というのは2の用法であるが、これが「本来の用法」「正しい用法」であるとは言い難いと思われる。少なくとも、さらに古くから「上澄み=良い部分」とした用法は存在してきたわけで、今となってはどちらの用法も定着していると考えるべきだろう。
幼い頃から、小説をいつか書きたいと強く願っていて、文章読本や小説講座的な本などを多数読み込んできたけれど、それらが小説に変わることはなかった。
好みの文体やストーリーパターンはわかってきたのだけれど、それらを何らかの社会、何らかの人間関係に落とし込んで書くことができなかったからだ。
つまり、社会の仕組みやわだかまりをどう描いていいかわからなかった、会話や気持ちの移り変わりをどう描いていいかわからなかったのだ。
文章読本などで、文章というガワの部分を学んだとしても、そこに盛り込むものがわからなかった。
ストーリーとして導きたい方向に、社会や人間関係を配置する方法がわからなかったのだ。
増田ではわりと、ブックマークをいただけたりする自分ではあるが、書く文章は常に一人称で、自分の思ったことをエッセイ的にまとめることしかできない。
これを、背景装置としての社会や人間と絡めて、ストーリーとしての段階を踏んで、人々を驚かせる素晴らしい結末につなげる小説として昇華させることができない。
それなりの人気を持つ雑文に仕上げるためのアイデアはたくさんあるのだ。それを、小説として具象化できないだけ。
いや、なんだろう、プログラム的に組み立てることができないといった気分。
そもそもが理系なので、プログラムもそれなりに組んだことがあるのだが、小説としての文章の組み方がわからない。
結末に向かう伏線を社会のどの部分に絡めて描写し、物語の展開をどのキャラクターの変容に仮託するか、みたいなものがよくわからない。
文体やレトリックのような基本文法はわかるのだが、社会や人間を相手にした「組み込み関数」みたいなものが何なのかが見えず、途方にくれてしまう感じだ。
というか、そもそもだが、こんなにダラダラ文章を書く私ではあるのだが、小説は一行たりとも書けたことがない。
だって、結論に至るアイデアが思いつけても、そこに向かう「これは書けるぞ!」というビジョンが見えないので。
この小説ならプログラム的に書けそう、ああなってこうなって結論に至りそう、みたいなものが、私の場合、小説に対して浮かんでこない。
そうそう、プログラムでもそうなんだが、もっと言うなら、数学の入試問題のように、とりあえず三角比を求めるとかベクトル計算するとか、
この「とりあえず○○を書いてみる。そのうち、ストーリーがつながってくる」みたいなのを知りたい。
とりあえず手を動かして、作り出す小説を何らかの方向に進める方法を、まずは身につけていけたらいい。
この文章だって思ったことをズラズラ書いているだけなのだ。ビジョンで書いてない。
って、あっ、それが小説を書く前のキャラクターシート、世界観作成シートみたいなものなのか。
あれも苦手なんだよな。好ましい感情を抱けるキャラクターを造形できないというか。
いや、自分以外のキャラクターが描けない。世界観も、今自分が感じるもの以外組み立てられないし。
結局のところ、私は自分のことしか書けない。自分のことならそれなりに書いて、それなりに注目される文章が書ける。
自分の考え方を、ある社会やある人間関係に落とし込んで、世の中にその素晴らしさを理解してほしいんだ。
「私の気持ち」じゃ他人に届かないんだ。客観性というか、作者でない「キャラクターの気持ち」として描写しないと、私ではない誰かに届くことは無いんだ。
だから、ここに書くような、一人称の雑文じゃダメなんだ。物語に仮託しなくちゃダメなんだ。
そういった点では、私は「物語」というものに、論文のようなものを感じているのかもしれない。
つまり、物語の人間関係や世界観という客観性のもとに、自分のアイデアに向かって組み立てた文章を、誰かに対して発露し、評価を得たいのだ。
いや、誰かに届けばいい。個人的なアイデアなり感情なりが、誰かに届けば、無意識的にでも届けば、それで十分なんだと思う。
…などと長々と書いてきて、結局は今回の文章も小説にはなりえなかったわけだけど、まあなんだか、そんな気持ちなのだ。
ワイの影響力デカくて草
増田の読解力に不安があるので個人の日記(雑文)の文章書き直す気がしない。ガチで読めない子おるからなぁ
ちな、これは読んで理解できるか?出来るなら書き直すが
https://anond.hatelabo.jp/20231112111528#
まぁ、この増田(https://anond.hatelabo.jp/20231227092138#)には能力主義・共通善の面から返信はしますけどね
https://anond.hatelabo.jp/20231121183241
カネがないからクソみたいな記事書いて時間潰すしかない。なので誰が読むかもわからない雑文をかく
そもそもギャンブルやってる理由は快楽と現実逃避と金がほしい欲の3つなので、社会貢献がどうとかどうでもいいし法がどうとかは無視する。
それ以外で言うのであれば、多分世の中9割8割の人にとっては、公営ギャンブルよりオンラインカジノのほうが楽しいと思う。
というのも公営ギャンブルは走ってるカスの気持ちとか考えとか知能指数とか八百長具合とかそういうのを予想する遊びで実力とか二の次だから。
「出走表だけみると強そうだが、コイツは雑魚共相手にセコく勝ってるだけ」
「こいつはこの類のレースではやる気がない。やらず」
「こいつはレースの勝敗とか気にせずクソみたいな自己満走りをする」
とかそういうのを予想するのが醍醐味というか、そういうのがわからない人は相当な資金と覚悟と計算力で1日中張り付いてオッズ買いとかしないとまず負ける。
尚わかったところで
「カスと思ってが周りが論外過ぎて突っ込んできた」
「やる気あるだろと予想したがやる気0着に絡む気なし」
「勝ちを譲る気まんまん」
とかいうゴミムシ共の思いつきのお陰でクソみたいな内容で負ける。
競輪のモーニングなんかいいぞ。代謝(クビ)寸前、それこそそこら辺の体育会系大学生にチャリンコの乗り方教えたほうが
強いんじゃないかみたいなプロ選手たちが走ってる魔境だからな。
予想もクソもねぇ
なので1年365日朝から晩まで公営ギャンブルに張り付く類のギャン中じゃなければ、公営ギャンブルは当たらないロトくじと大差ないし、だったらはじめからほぼ二分1、知識なくてもまだなんとかなるオンラインカジノ方が楽しいと思う
あと普通に公営ギャンブルよりよく当たる。(勝てるとは言ってない)
競艇の単勝だって6分の1なんだからそりゃルーレットの赤黒のほうが当たる確率は高いのは当然。
控除率もオンカジのほうが低いしね
実際俺は公営ギャンブルではクソ負けしたがオンカジはちょいちょい勝ってるんだよ。だからやめられないってのもあるが。。。
客側として大金突っ込んだ側の意見だけど、ギャンブルの胴元はイカサマをする必要はない。
なんでって、そんなことしなくても勝てるから。
客がやればやればやるほど胴元が儲かる仕組みなんだから、基本的にはリスクを犯してまで客から小銭巻き上げる必要はない。
むしろ公正公平安心安全アピールや登録するだけで○○円ブレゼント入金キャッシュバックなんかをやり「もっと遊んで!」と客を呼ぶことに力を注ぐ。
これは公営もオンカジも変わらない。
競輪を中心に借金こしらえたカスだから比較対象が競輪の民間サイトになるけど、オンカジでやってるようなリベートやキャッシュバックは競輪でも普通にやってる
(控除率の都合かは知らないがオンカジのほうが大金ばらまく傾向にあるとは思う)
ただ、公営ギャンブルの場合、胴元とは別に選手や関係者の思惑が入る。
選手がヤラズ(わざと負ける行為)をやって事前に打ち合わせをした身内や仲間がそいつだけ外して投票をしたらいい
そういうことがないように胴元は公正公平なレースを、と言ってるが競艇や競馬でも八百長沙汰があったし、根絶は無理ちゃう。
というかむしろ相手格下人気背負ってそのカスみたいな走りすんのかてめぇ八百長のほうが疑われないように走る分まだマシやぞと思うことが結構ある
(オンカジでもライセンスがない胡散臭いところとか、即撤退小銭稼ぎ狙ってるような所は怪しい可能性あると思うけど、そういうの含めて自己責任の世界だしな。そもそも違法だもの)
・株やれ株
ギャンブル中毒の話題で定期的に出てくるけど、FXや株も依存症カテゴリに入るんだよなぁ。。というのは知られてないのかしらん
https://anond.hatelabo.jp/20231121183241
にコメントをもらったので追記しようかと思ったが話がそれにそれたので別で分ける
・ギャンブル依存症の会について
たしかに「こういう団体があるので」「こういう方法しかないです」と勧められた
勧められたんだがこれが遠い。2つか3つくらい隣の街にある。
というかそんな金出してくれるなら金くれ。
家から出てくわ。ギャンブル依存症治すには正直それしかないと思うが出てく金もねぇんだ
1まともな人生送ってた俺
2ギャンブルで転げ落ちる
4いまは(も)頑張ってます
という健康食品かなんかの胡散臭いコマーシャルみたいなパターンしかなく、
「はじめからカスな人間がギャンブルにはしりもっとカスになる」
という俺のようなパターンは想定してないのか期待されてないんだろうなぁ。
となり、ギャンブルはいいよな、カスでも受け入れてくれるもん。。
となる
がほしいだけなのでそういう問題じゃない。
厄介な俺を家から追い出す事もせず、かと言って借金建て替えてくれるわけでもなく、現状のまま
「キチガイだから仕方ないキチガイだから仕方ないキチガイだから仕方ないキチガイだから仕方ない」
と唱えて精神の安定がほしいだけなわけで、発達障害とか正直どうでもいいのだ。
なぜこういう事をいうかといえば高校生の頃いじめられて不登校になったとき、なぜか精神科に連れて行かれ
「学内でのいじめは精神科でどうにかできることではありませんから学校と相談してください」
なおその後なにか手段を講じたかと言えば(当時はフリースクールなんてハイカラなものはなかったしヨウツベで自宅学習もなかったとはいえ)とくに対策も行われずなぜか接骨にいかされた。
話では霊媒師的ななにかに見てもらったら姿勢がどうこう言われたらしい。それならどっか遠くの学校に転校させてくれよ。。と思ったが、金がかかるだろうからと言えなかった思い出
Twitterやネットをみてる精神科だのメンタルクリニックだの発達障害だのが流行ってるが、そのうち何割かはこういう
「自分や他人がクズな理由がほしい。精神病なら世間体が成り立つ。精神科に行く(送り込む)以上の対策を打つ気はない」
根本的な原因を治すために仕事や生活を変えるには金も労力も時間もいる
と唱えて暮らすほうが安く早く世間体もいいもんな。
まず初めに
そんな人間に言われたくないんじゃ! という方、いっぱいいらっしゃると思います。当然です。
スルーしていただいて大丈夫です。本当に、ただ思ったことを書き散らしているだけなので。
なんでわざわざこんな文章を公開したのかというと、私も数年前にいきなり推しの今後を揺るがすニュースが公開され、その後その人たちは解体されてしまったのを目の当たりにした経験があって、「頼むから後世には、二度とこんなことが起こりませんように…」と強く願ったことがあったからです。
オタからしたら、公開処刑、刑の執行に等しかった。まさか二次元でもこんなことが起きるなんて思わないじゃない…。
思ったことと、伝えたいこと
いま、とても辛い状況で、これからも不透明で、追い詰められてる人がいっぱいいると思います。
だってそりゃそうだよ。製作者がファンに悪い甘え方したり、現場の人たちを盾にしたりしてるわけで。
提携してる企業に一報入れないとか、ままあることなんすかね? 私の推しGもやられました。
製作側として、商業作品として世に出してるのに、あまりにもお粗末すぎんか? という憤り。わかるつもりです。つもりなだけかもしれないけど。
でも、だからこそ、製作側にひどい扱いをされている彼らを愛している人たちは、闇堕ちして推しの今後に暗雲をもたらさないように、すごくすごく気をつけてほしい。
もうね。こんな打算的なこと言うのも良くないのはわかるんだけど。
揚げ足取られないように深呼吸しないといけないよ。炎上しましたえーんとか、そういうことしてプリンセスやプロデューサーの面々には弱みを掴まれてほしくない。だってひどい仕打ちしてるの、製作側とか製作会社だから。
いや、パッと検索しただけで、めちゃくちゃひどい誹謗中傷をしてる人は見受けられないけど、もしかしたら探し方が悪いとか、ツイッターでそっと見えづらいようにしてるのかもしれないけど。
でも、誹謗中傷はだめだよ。取り返しがつかなくなったら、外野が引いてみたときに『加害者』にしかならないし、推したちが嘲笑の的になってしまうから。
この状況が続いて、改善もされなければ、それでひどいことになってしまう人がいっぱい出てくる。
いや元々私の推し界隈の民度があれだったのかもだが。オタ同士での分裂とか目も当てられない有様になってしまうし、他のファンの方から推しまで煙たがられてしまう。私はそれが一番つらかった。
だからね。揚げ足というか、落ち度とか弱みとか、握らせちゃだめ。
闇堕ちしちゃだめだよ。すごくすごく難しいことを言ってるけども。推したちのこれからを思うと、どうしようもなく憤り、悲しみを覚えるし、その憤り、悲しみを発散もうまくできないのも想像出来てしまうし、こんなの外野に言われたって、心に響かないかもしれないけど。
カフェインのオーバードーズに興味がある人多いな。誰の目にも止まらないと思ってたけど、見てくれる人がいて嬉しい。自分は企図をしてからメンタルを強くするために、誰にも期待することを止めたのだけど、やっぱりオーバードーズについて分かってくれる人がいたのも嬉しい。
分かって貰えないことが辛い。分かって貰えるなんて、相手に期待するのがダメだと分かってるけど。相手に配慮し過ぎるのに、自己中で繊細で。傷だらけの心身を引き摺りながら辿り着いた先、助けを求めて辿り着いた先。ここは砂漠のオアシスだと思っていたら、いつもと同じことだった。誰も分かってくれない。
心が折れてしまうかもしれない。誰を頼っても、どうせ無駄だと思ってしまうかもしれない。言葉では分かってくれない。じゃあ、実行しよう。
もしくは、もうこんな自分は生きていたら世間に迷惑がかかる。死んだほうがマシだ。じゃあ、死のう。
自殺企図、助けを求めるための、事を荒立てる方法としてはいいかもしれない。言葉で分かってくれない人間、言葉で上手く伝えられない人間には暴力的手段が効く。でもその暴力は自分に向かっている。最善の方法じゃない。現に自分の場合はあと一歩で戻れない所だった。(当時の自分は、こんな自分なんて死んだほうがマシだ、死なないといけない、と本気で思ってた節もあったけど。)
自殺念慮はもうヤバいからお気軽病院受診ひろまえー。病院にかかって相性も悪くて八方塞がりの時に死ねる手段があると、例え試みようとしなくても、心が軽くなるのは分かる。けどそれはまやかしなので、具体的な手段は書かない。自殺教唆もしたくないしね。色々なものを背負い過ぎて自殺念慮がある人たちは、死ぬより辛い生について向き合わないといけない。できれば楽しいと思える形で。できれば自分のやりたいことをやって。それが産まれたことへの責任なのかも。。
前回の引き続きの愚痴に近しい疑問。
これはあるシナリオを通過してる途中で思ったことなのだが、乙女ゲーをやっている感がすごい。
GMも演出というか展開のアドリブよりNPCの演技に注力していて、なんともまあNPCゲーなのだ。
基本NPCに振り回される
「こういうのが好きなんだろ?」というNPCからのあからさま乙女ゲー演出の展開(抱き寄せられる、壁ドンされる、守られる、気にかけられる)
自陣4人もいて話す割合がNPC>PCのせいで自陣に愛着が湧かない
基本NPC同士(またはNPCとPC同士)の会話が多いためPC同士となると会話が成り立たない(秘匿シナリオなので会話のネタがない、作っても限界ある)
NPC同士の会話をただ聴いているだけな時もある
PCが「大丈夫?」と手を伸ばしてビビられたのにNPCが「大丈夫?」と手を伸ばしたら懐く展開
感想がNPCの話だけ(というかそれぐらいしかいうことがない、今のところPCの見所さんがない)
こういう系のシナリオ注意書きして欲しい。
グロとかエロとか即死トラップより地雷。そもそも作者の質問箱自体が地雷。
このシナリオ、夢小説にして出した方が売れるんじゃね?とおもうほどで、自前に「NPCに狂ってるPC」を作成しないとシナリオに感情輸入できなくてキツい。
周りがNPCかっこいー!キャーー!ってなってる中、冷めてる自分がひどく嫌、全く楽しめない。
で、疑問点について話を戻そう。
平たくいうと昨今のクトゥルフ神話TRPG同人シナリオはこういう夢小説みたいな乙女ゲー溢れるNPCとキャッキャッするシナリオが流行りなのだろうか?ということだ。
流行りのシナリオの大概は行ったつもりだがその半分はNPCが活躍するシナリオが多かった、
自分の知っているNPCはもっと、こう、困った時に頼るような存在またはお助けキャラみたいな感じだったので乖離がすごくてついていけてないだけなのかもしれない。
前回アップデートしたいと言ったがいつになったらアップデートできるのか、私が知りたい。
マダミスとか手を伸ばしてみようかな……
あなた達二人にめちゃめちゃ共感してしまって、なんていうかもう、話したい事がたくさんあります。
育児と並行しながら文章をずっと考えていたらかなり日付が経ってしまって、もう見ていらっしゃらないかもしれないけど雑文を置いておきます。
とても長文になってしまって気持ち悪い自覚はあるのですが、よろしかったらお付き合いください。
産前でお身体も大変かと思いますので、面倒であれば最後にオススメのゲームを列挙しておきますのでそちらだけでもどうぞご活用ください。
◆
あなたの旦那さんみたいな人はスプラ1のころからずっと居て、3の出た今も変わらず沢山居ますよね。
かくいう私もあなたの旦那さんのように劣等感から——私の場合は出力されるのは他責でなく過剰な自責でしたが——周囲に迷惑を掛けたりしていましたし、
逆に、感情的に他者に当たり散らす人の存在が私の自責に拍車を掛ける形になったりしてかなりしんどい思いをしていました。
そんな私からひとつ言えるのは、今スプラ3を遠ざけてやらなくて済んでも、次に4が出るときにまた同じ問題が勃発する可能性が非常に高いということです。
それを運良く回避できても、子供が大きくなってスプラトゥーンをやりたがった時にはどうなりそうですか?
そのときにまた修羅場が起きることが目に見えていたら、今をチャンスと捉えて少しでも克服できた方が良いです。
というより、子供が産まれてからだと日常に追われてしまって、こういう事に時間を掛けて向き合うのって絶対に難しくなります。
私自身も完全に克服出来たわけではないですが、多少マシにはなってきているのでその考え方を少しだけ共有させてください。
あくまで私の場合の話のほとんど自分語りみたいなものなので、旦那さんにとって参考になるかはわかりませんが……きっと役に立つことを願っています。
◆
おそらく旦那さんと私に共通していると思われるのは、「自己肯定感の低さ」というよりは「強い自己否定」です。
人からの評価や発言を受け入れられないとか、自分自身の能力を過小評価するのは、とても強い自己否定があるからだろうと思っています。
感情的になっても不利益しかなく、なんの意味もないことも分かっています。
それでも、どうしても比べずにはいられない。比べて自分を否定せずにはいられない。
もう癖になってしまっているんです。
あなたの感じている通り、どの分野にも必ず「自分より凄い他人」は常に存在し続けますから、
自己否定の感情が強い人は何をやっても世界中でたった一人の1番にならない限りは「他人と比べて胸を張れるようなこと」に成り得ません。
でもこういうのって性分なので、完全に無くすというのはかなり難しいです。
そこで目指すべきは、自分の劣等感をしっかり認めた上できちんと感情の手綱を握るスキルの習得です。
◆
本来のポテンシャルが発揮できれば適切に自己フィードバックが出来て自然に上手くなっていくと思うんですよね。
実際に回りのゲーム仲間はそうなのではないでしょうか。では、旦那さんはなぜそうならないのか?
それは「感情的になるので冷静に自己分析や状況分析ができなくて勝てない⇔勝てないので感情的になる」のループに陥っているからです。
ことスプラにおいては、周囲よりスプラトゥーンの素質がないから上達しないのではなくて、
自分の感情をコントロール出来ていないから上達しないということをハッキリ認識するべきです。
これが理解出来れば、上達のために自分の感情を制御することが避けては通れないということが分かります。
ゲーム風に言えば旦那さんは今、経験値の入手をロックされている状態にあり、
これは「自分の感情を制御しろ!」のクエストをクリアしなければアンロックされないわけです。
具体的になにが出来るかというと難しいのですが、
アンガーマネジメントという側面であれば巷に色々なハックが転がっていると思うので、探して色々試してみると良いと思います。
あれを見れば自分・敵・味方の良かった点悪かった点、全部冷静に見返す事ができます。
ヒートアップしてしまいそうなときは、気になった試合のリプレイをじっくり全員分見ると良いです。
全部で30分ぐらいは掛かりますので、その間にクールダウンも出来ることかと思います。
眺めてるだけでも結構楽しいですし、試合中のように急かされないし結果も分かっているので落ち着いて状況をしっかり振り返る事ができ、上達にも繋がります。
どうにか感情を制御できれば、あっけなく自然と腕前が伸びるのではないでしょうか。
そしてゲーム仲間と遜色ないところまで追いつけたときに、ようやく劣等感が落ち着くのではないかと思います。
私の場合の話ですが、観測範囲内で誰よりも劣っていることがとてもしんどいです。
より下を見つけて一番下じゃなくなりたいわけじゃなくて、一番になりたいわけじゃなくて、
自分が気に入っている仲間達の中で価値が最小な自分が、自分目線でとても惨めでボロクソに自己否定してしまうんです。
「この人はこのゲームはあんまり得意じゃないんだな~」とか「この人でも苦手なゲームってあるんだ~」で済むのに、変な話ですよね。
それってやっぱり、自分で自分を否定する癖が付いてるからだとは思うんですよね。性分なのでどうにもなる気はしませんが……。
さて、ピンポイントに役立ちそうなことはほとんど書けませんでしたが、私もまだまだもがいている最中ではありますので、どうかご了承ください。
あなたのご家庭の幸福にとって、なにかのヒントになれば幸いです。
将来お子さんと一緒に家族で楽しくスプラトゥーンをプレイできていたら、一番理想的で素敵ですよね。
◆
おまたせ致しました。
旦那さんの趣味嗜好が全くわからず、戦闘・銃撃ゲー好きと仮定したうえで、
世間の評判と私の独断と好みで選んだものとを合わせて選んだオススメゲームリストをご用意しました。
入れそびれたものがまだまだある気がしますが、育児中で手が回らないのでこの辺にしておきます。
(マルチが楽しい系のものはゲーム仲間がスプラに夢中な今厳しいかもしれませんが、一応入れてあります。すみません)
・Super Hexagon
・Outer Wilds
・theHunter: Call of the Wild
・天穂のサクナヒメ
・Risk of Rain(2も良いです)
・Gunfire Reborn
・DEATH STRANDING
・Detroit Become Human
・Watch Dogsシリーズ(1・2が好きでレギオンは未プレイです)
・Borderlandsシリーズ(2が好きです)
・Forager
・Stardew Valley
・Warframe
・ARK: Survival Evolved
・不思議のダンジョンシリーズ(シレン64、ポケダン赤・青、魔物娘が好きです)