はてなキーワード: 行使とは
自民党は1700万~1800万ぐらいで安定して得票している。
それは数万から数十万規模の業界団体組織をていねいに束ねているからだ。
そしてこの小規模組織、中規模組織しかないところが強みでもある。
特定の業界団体が極端な影響力を行使できない。それは自民党議員が八方美人的にあらゆる支持団体にいい顔をするということでもある。
統一教会にしろ日本会議にしろ集票力という点では高い能力は持っていない。
ただし、統一教会は見返りよりも関係性の構築を優先して選挙支援をしていたのだろうと思う。
これは他の業界団体にはできない。一般的な業界団体は、あくまでも御恩と奉公の関係であり、一方的に奉公することはありえない。
創価学会を自民党の集票組織としてみなすなら圧倒的な大規模組織となる。ひとつの塊で自民党のために数百万票を動かせる組織は他にない。
自民党のように創価学会が小規模中規模の信徒団体が組み合わさったような体制であれば、自民党は間違いなく切り崩しをおこなっていただろう。
公明党を潰して自民党直属の業界組織とするなら、これこそ自民党が乗っ取られるという表現になる。
自民党を牛耳るというのは創価学会ほどの集票力と結束力があって始めて可能性が生まれることであって、統一教会程度の規模ではできるはずもない。
また日本会議が一枚岩の組織でないことは宗教の歴史を少しでも知っていればわかること。自民党議員は上手く付き合っているに過ぎない。
自民党に対抗できる自民党と似たような組織動員ができる唯一の政党だった。
旧民主党がもう少し踏ん張っていれば、財界でも二大政党制を睨んだ恒常的な組織再編があっただろうと思う。
政権についている最中に次々と御恩を蔑ろにしていったのが解体されてしまった原因だろう。
原発の稼働停止、行き当たりばったりの行政改革、円高の放置などは政権の獲得を支えてきた御家人たちを切り捨てるような行為。
消費税の増税を決めたからから下野したのではなく、支持団体をことごとく蔑ろにした結果でしかない。
連合は創価学会に相当するような集票組織ではあるが、創価学会とは違いひとつの塊ではない。
様々な利害が絡む産業別労組や公務員労組が組み合わさっている団体である。
旧民主党は自民党と同じようにコントロールできると踏んでいたんだろうと思う。
自民党の優れていた点は、郵便局長会や農業団体などの紀伊藩尾張藩クラスの集票組織にダメージが伴う政策を実現するときに、雄藩たる外様大名公明党との関係を良好に保っていたことである。
旧民主党にとっては連合内の各労組は、御三家クラスの支持組織にも関わらず粗末な扱いを続けた。代わりもいないのにだ。
良い政治は理念だけでも実利だけでも達成しえないが、理念のために実利を無視すればそれはもう政治ではない。
宗教ですら理念と実利の両輪を信者に提供することで成り立つ。統一教会のようなカルトが悪なのは理念だけで洗脳し搾取するからである。
旧民主党勢力が実利を無視するからと自民党や公明党に接近する連合内組織は、自由意志を持ったまともな状態の人たちの集まりと言えるだろう。
民主主義国で業界団体や宗教組織などの集票に頼らない政権政党などない。
社会観を共有できない人間同士がどうやって同じ政治的目標の実現に向かって歩んでいけるというのか。
無党派層のような浪人だけを大量に集めたとしても豊臣のように滅亡するだけである。
恩顧の大名とそれにつらなる家臣群や領民たちを敵に回して勝てるとでも思っているのだろうか。
自民党が政権政党たりえるのは、自らがその機能でしかないことを自覚しているからだ。
政権を目指すなら政党は調整スキルを高める必要があるし、支持者は社会観の共有できる最大限の大きい塊を作り支持政党の調整に期待しなければならない。
理念と実利の両方を同時に重んじるということは、他の社会観を持った組織の理念と実利も尊重するということ。
SNSで浪人を大量に集めても一発逆転の改革志向革命志向に毒されていくだけだ。
自民党は調整機能に特化した政党。理念はそれぞれの集票組織が持ち、そのそれぞれが理念に基づく実利を自民党に要求すれば、それを勝手に取り込んで調整していく。
自分たちの理念と実利は少しも譲らずに他組織に譲歩ばかりを迫るような団体が集票組織の中心となる政党は機能停止となる。
これは賃金上昇を目指す組織一択である。実利先行で理念後追いの組織とも言える。
ただのお題目でもなく綺麗事でもない、実際的な健康で文化的な生活の実現が可能となる。
特定の属性の弱者の力が強くなるから賃金が上がるのではなく、賃金が上昇するから弱者の力が増すのだ。
賃金が上がれば物価も上昇するが、それはさらに賃金上昇を目指す圧力にもなる。
今の日本には賃金の上昇を目指す組織がないので、たいして上がってもいない物価を下げようとするという相も変わらぬマインドで乗り切ろうとしている。
そんなことはない、私が参加している組織は賃金上昇を目指しているぞという人がいるかもしれないが、それはただ単にSNSでバズるためであり、浪人を集めるための釣りである。
集められた浪人は賃金上昇のためではなく、空虚な理念のために奴隷のように扱き使われるだけだ。
気づいたときには統一教会の信者のように家族も財産も失い、人生も失う。
大坂の陣のような時代であれば集められた浪人は華々しく散って歴史に名を残すチャンスもあるが、今の時代は裏切られた失望感を抱えながら生きていくことになる。
経団連でさえ中長期的には恩恵を受ける。被害妄想にとらわれるのは老い先短い高齢の経営者だけだ。
弱者属性を抱えている組織にとっては参加している人々の生活力を格段に上昇させる。
それは日本からしか買えないものがたくさんあるからだ。日本すごいでもなんでもなく少々高くても日本から買いたいというブランド力はまだまだある。
こういうと日本を評価することが微塵も許せない人たちがワラワラと湧き出てくるが、そういうイデオロギーの問題ではない。
高くても売れるものを自信を持って売ればいいだけのこと。
そのためには賃金を上げて生活力を向上させて、さらに付加価値を高める能力を国民が身に着けないといけない。
自民党にたくさんある小規模中規模の集票組織、公明党の創価学会、旧民主党勢力の連合内組織、どの団体でも賃金上昇を一丁目一番地に掲げるチャンスはある。
どれもがSNSでバズりたい欲求はなく、実利志向の強い組織でもある。一発逆転狙いではなく、要求と譲歩を積み上げることで成果を生み出すことにも長けている。
今もっとも票が集まる政策でもある。たいして上がってもいない物価を下げることにお金を使っても、また税金を増やされるだけだ。
← そもそもこういう現実には有り得ない(言葉の本来の意味において)状況を設定すること自体が無意味だと思うので、その点を最も強調したいと思う。たとえ思考実験のための仮想的な想定だとしてもね。
それに加えて、安倍氏が殺された時点やそれより前の時点では、いわゆる統一教会に関する問題がこんなに大きくなる(というか大きいものである)ということはわかっていなかったので、その点を考慮に入れてその時点でどう判断すべきだったかを考えるのは輪をかけて不毛な議論だと言わざるを得ない。
そんなことを考えたり議論したりする時間と労力を、現時点での所与の状況下でどうする事が最善なのかだとか今後似たような状況に備えて今何を成すべきなのかを考えたり議論したりすることに振り向けることの方が有益で賢明だと思う。
一般的な考えっておそらく、
「殺人は絶対に正当化できない、許されない。ただし起きたことはどうしようもないし、今見えている問題(旧統一教会とか)に対応しない理由はない。」
あたりだと思うんだけど、じゃあたとえばなんだけど、
「安倍氏を救う力」みたいなものを自分だけが授かって、それを行使すると自分にはノーリスクで歴史改変されて安倍氏は救われるんだけど、それ切っ掛けの旧統一教会への追及とか諸々もなかったことになる、として、
絶対に殺人行為を否定するためには、ここで胸張って「安倍氏を救う」と断言できなければならないんじゃなかろうかと思ってて、そこいくと自分は、結果的にあんなことでも起きなきゃ今の問題追及に至らなかったことを思うと、正直、安倍氏を救う選択をするという自信はないんですよね。
どういう人であれ撃たれて殺されるというのは気の毒でならないが、正直身内でもない一人の死を切っ掛けに結果世の中がよくなるなら、自分はそっちのほうが良いと思わずにはいられない。
それを「殺人の正当化」と指摘されたら、自分はうまく反論できる気がしない。
・追記
・追記2
ご指摘通り色々と曖昧だしフェアじゃないクソ設問かとおもいます。
安倍氏殺害からの流れの形で旧統一教会問題が追及され始めたころ、太田光が「これじゃ山上の思惑通りだ」って懸念して、それに「殺人事件と旧統一教会問題は分けて考えろ」「殺人を肯定はしない」って反論がたくさんついて、自分もまあそうだよなって反論側に納得したかったんだけど、もしこの先問題への追及が更に進み救われる人が増えていくとしたら、それ自体は望ましいことなんだけど、結局それは殺人が”成果”を生んだ形になってしまう側面から逃れられないんじゃないか、というモヤモヤがあった。
じゃあ「殺人を肯定しない」ってどういうことなんだ?「仮に”成果”を失うとしてもそのキッカケとなった殺人を否定すること」か?とか考えて、こういう問いになった。
どう見ても倫理的にマズい問いに、たくさん答えてもらって若干焦ったが、参考になった。
特急で考えたらだけど、大正ポリコレ時代は、裏では治安維持法や起訴便宜主義ができて司法権が強くなり、のちには政党解散命令、多数死刑などの積極的な司法権行使が行われた
令和では消極的な司法権行使「警察等が手を抜く」が問題になってて、安倍暗殺事件もイテウォン圧死事件もそう
で相変わらずポリコレ派活動は存在するが、彼らは司法や宗教には殆ど口を出さず、いわゆる「腐った司法」などは変わりがない
そうするとポリコレ派は司法業界や宗教団体から生じていると思われる(だから左派、右派、LGBT派や夫婦別姓派、名誉毀損事件派、親台派などのアイコンも取り揃えられているのかも)
と思うので、彼らが内輪のイイネを集めて世論を惑わすのは粉飾決算と変わらんと思うし、「特定弱者を養護する声のでかいアイコン」は不快という意見は同意
なんで文化交流がうまくいってるからといって政治問題までカバーできると思ってるの?
たとえ1割でも反日と嫌韓が双方の国に残ってれば暴れまわって影響力を行使できるのが政治じゃん
もし変えたければ政治問題で落とし所を作るしかないけど過剰な否定か過剰な妥協かを双方に求めるバカな勢力がいるんだからできないじゃん
大前提として、非実在青少年のころに規制反対の立場でロビー活動をしていた腐女子の人も大勢いた。腐女子が表現規制に無関心だった、とはとても言えない。彼女たちの尽力を踏みにじることになる。
ただ、同時に、「男性向け」表現に対する攻撃の先鋒に立ってきた腐女子の人が大勢いるのも事実だ。
たとえば、これまでBLの路地裏レイプ妄想を楽しんできて、『グラップラー刃牙』のBL妄想が書籍やドラマになったりしてるのに、当の『グラップラー刃牙』作中での性暴力描写に異議申し立てをした人とか、『BLの教科書』という書籍の中で男性向けエロは「モノ化」だが女性向けBLは「モノ化」ではないという超理論を展開した研究者とか、そういう「BL無罪」を掲げる人が目立ってきた。
もちろんフェミニストと腐女子を兼任している人はあくまで少数派なのだろうけど、男性向け表現を攻撃するツイッターフェミニストのbioを見ると高確率でBL愛好家だったりする現象があるわけだ(まあこれに関しては、ミソジニーを撒き散らす自称弱者男性アカウントもかなり高確率で男性向け表現を愛好するオタクなので、お互い様かもしれないが)。
そして、「男性向け基準なら一発で18禁とされているようなエロさの本が、BLではゾーニングせずに本屋に並べられてきた」という現実があり、現在はBLにも「男性向け」並の基準が適用されるようになってきている。
「公共広告」にしても、たとえば「レイプしてきた相手を好きになる」という展開(当然セックスシーンもある)を描いたBL漫画はアニメ化されただけでなくアドトラックまで走っているのだが、まったく問題にされることはなかった。他方で、男性向けは、セックスなど一度も描かれていないような作品を使った広告が、スカートの皺だの巨乳を強調する構図だの夜這い設定だのを理由に(BL愛好家も含むフェミニストたちから)叩かれてきた。これはあまりにも不平等だ。
もちろん、理想は、男性向けも女性向け並みの「緩い」規制に戻ることだ。これなら、男女平等と表現の自由を両立できる。
しかし、男性向けが「乳揺れ」や「巨乳JKとのラブコメ」程度のものに対して国連やら議連やらを動員した攻撃を受けている状況では、その理想はしょせん理想に過ぎない。過激なフェミニストにも表現の自由があり、彼女たちの攻撃を抑圧することはできないし、大学教授レベルでの攻撃が行われている(=次代のフェミニストたちにもその理屈が継承されている)ことを考えると、そのような攻撃が数年できれいさっぱりなくなるとも思えない。
そうすると、現実的な男女平等を求める人たちは、「女性向けにも男性向け並の規制を」と主張するしかない。しかし、それは表現の自由の理念に背いている。
図示するとこうなる。
- | 男女平等 | 男女不平等 |
表現の自由 | 男性向けも女性向けもおおらかに(理想論だが実現は困難) | (この立場は想像できない) |
表現規制 | 女性向けにも男性向け並の規制を(女性向けへの規制強化、現実に起こりそう) | BLはよいが男性向けはダメ/男性向けはよいがBLはダメ(ダブスタクソ親父!) |
左上の立場は理想だ。理想だが、近い将来にこれが叶うとはとても思えない。だったら、近い将来に実現できそうな男女平等を目指そう、と考えて規制派に転向する人が出てきても不思議ではない。
増田は表現の自由という理想を信じているし、理想を高く掲げることを重視する理想主義者だ。だから左下のような立場は支持できない。しかし左下に転んでしまった人たちの気持ちもわかる。だって、現実的に左上なんて無理だもの。男女平等を支持する現実主義者は左下に行くほかない。
私たちは表現の自由という遠い理想を掲げてBLなど女性向けの性表現を擁護するか、男女平等という実現可能な目標のために女性向けの性表現への規制を唱えるか、どちらかを選ばざるを得なくなってしまったのだ。
なんか図が変だなと思ったので書き直した。
- | 男女平等 | 男女不平等 |
夢想的 | 男性向けも女性向けもおおらかに(表現規制反対) | 男性向けの消滅/女性向けの消滅 |
現実的 | 女性向けにも男性向け並の規制を(表現規制支持) | BLはよいが萌えはバッシングする/萌えはよいがBLはバッシングする |
こっちの方がマシな図になっていると思うが、改善案があれば聞きたい。
自由の限界は他者の自由の侵害、他者への迷惑をかける地点なので、「(男女)平等でないこと(性別なりなんなりで差別があること」はそれを発生させる「自由」を制限して当然。選ぶも何も、自由の定義でそうなるのよ。
タイトルだけ見て本文読んでないでしょ。
そのどちらかを選ばないといけないと増田が思うなら、『「表現の自由」を「男女平等」では守れない』し、『「男女平等」を「表現する自由」も守れない』となる。表現と男女性別は必ずしも競合するわけじゃない。
タイトルだけ見て本文読んでないでしょ。
表現の自由より、男女平等より、比べ物にならないくらい大事なのは「おもしろい」ことです。すべては「おもしろい」に使役すべきと思ってます。「おもしろい以外勝てん」です。
タイトルだけ見て本文読んでないでしょ。
エンタメ業界の労働者・経営層の半数以上が女性+マイノリティーになれば、自然と落ち着くべきところに落ち着くんじゃね?歴史的に制作現場もビジネス層も男社会だったのは事実なんだから、そりゃ男目線になるだろ
これを二者択一にしてしまうと、「女性の自由を奪ってでも男性の自由を守れ」という暴論になってしまうんだが、それでも、問わないと答えが分からないのか?
タイ本読
表自的な意味での表現の自由と、誰も可能な限り傷つけず、そのなかで広く意見を認める表現の自由はまず違う。男女平等があるならおのずから後者は達成されている。
タ本
”これまでBLの路地裏レイプ妄想を楽しんできて(略)当の『グラップラー刃牙』作中での性暴力描写に異議申し立てをした人と” ←フェミ系社会学者金田淳子のこと。少年ジャンプの萌え漫画を18禁にしろと主張した。
左下の実例さんオッスオッス。左下に宗旨替えするのは理解しますけど、だったら規制派って名乗って表現規制陣営に鞍替えしませんか? あなたのような、左下に宗旨替えしたのに自分を表現規制反対派だとアイデンティファイし続けてる人が、フェミ腐女子と同じくらいには現状の分断を加速させてるでしょ。
『乳揺れ・巨乳バッシングは過剰だがどこかに18禁のような線引きは止むなし』みたいな立場の存在が議論の中に見えてこない。勿論増田に言わせれば表現規制派になるのは分かるが一まとめにするのは雑ではないか?
そういう人たちが声を上げた結果、「あれだけ表現規制反対って叫んでた男オタクがBLの話になるといきなり規制って言い出した……表現の自由戦士の男オタクは信用できない!」となって分断が加速されています。
細かいところに突っ込んで申し訳ないが、アドトラックと駅、公共施設での広告とはだいぶ毛色違いませんか?。バニラとか、あれ他県からトラック回して審査回避してるよね。アドトラックはかなりダーティなものでは。
えっ? 公道を走っているという点では誰もの目に触れる可能性があるわけでしょう? たとえば購読者じゃないと読めない日経新聞の広告より全然「公共」の広告ですよね?
先日の『月曜日のたわわ』バッシングでは、広告それ自体だけじゃなく、巨乳JKとのラブコメという程度の内容の原作も、東工大准教授の人が国連女性機関の権威を持ち出してバッシングしてたじゃないですか? 『ラブライブ!サンシャイン』のみかんポスターは、原作にはまったく性行為の描写は登場しないのに、スカートの皺が卑猥、という理由でフェミニズム研究の大家からバッシングされて、一部のフェミニストからはエロアニメ呼ばわりされてたじゃないですか? その基準からいくと、男性に対するレイプ描写が普通にあり、性暴力の被害者が加害者を好きになるという展開のBL漫画の広告が公道走ってる時点で、どんな抑制的なデザインだろうがあり得ないっしょ? 『宇崎ちゃんは遊びたい!』のポスターのときは、ポスターのデザインだけじゃなく原作にまでケチつけてるフェミニストの人が大勢いたんだから、仮にそのバッシングを正当だとするならば、当然、アドトラックだけじゃなくて原作の『抱かれたい男一位に脅されています。』も叩かれないとおかしいっしょ?
いや、もちろん『だかいち』が叩かれる必然性は何一つないし、仮にだかいちバッシングが起きたら反対しますよ。でも、あのトラックに公共性がないみたいな理屈はおかしいし、萌えアニメのポスター程度を問題視してきた連中が『だかいち』に何も言わないなら、「BLは特権階級なのか」という不満を持つ人も出てくるでしょう。簡単な話だと思うんですけど何でわかんないんですか?
このBLのアドトラが問題視されないのはトラックの絵には性的な描写がないからだと思う。作品の内容は公共の場には出てないので広告絵単体の比較。もしチンコを強調した絵なら問題になるはず。
「広告絵単体の比較」ならなんでスカートめくりとか夜這いとかの設定をパネルじゃなくてウェブに書いてた温泉むすめはあんなに叩かれたんですか???
たかだかスカートの皺が、ボタンを持って振り向く少女が、デカいリボンの後ろで微妙に揺れる乳が、大学教授やら国連女性機関やらフェミニスト議連やらが出てくるほどの騒ぎになったのに、なんでこのトラックの絵には何も問題がないことになるんですか???
ゾーニングが適切に行われればほとんどの問題は解決するので、ゾーニングを「規制」って考えるんじゃなくて「自由を守る盾」って考えるように発想を転換することから始めてみればいいんじゃないかなあ。
そもそも宇崎ちゃんポスターも高海千歌のみかんポスターも交通安全啓発のご当地VTuberもたわわ広告もゾーニングの必要なんて存在しない程度の表現だったのにあんなにバッシングされてたし、温泉むすめはパネルに書かずにウェブに書いてた設定をわざわざ検索して文句つけたフェミニストの人もいましたよね。服を着た胸のでかい女子大生が煽ってくる広告やスカートに皺の寄ったJKがみかん持って微笑んでる広告や制服JKがボタン持ってこっちを振り向くだけの表現にまでゾーニングが必要、というのなら、それはもう普通に表現規制でしょ。ゾーニングゾーニングって言う人は結局規制論者じゃん。
増田は一発18禁レベルのBL本をゾーニングせずに本屋に並べて、小学生も自由に読めるようにすべきだという考えなの? 表現規制に反対している人でも、ある程度のゾーニングは必要だという意見が大半では?
本屋が自発的にそうするなら止めませんが、法や条例で陳列方法を強制されるのはどうかと思いますよ。そういう書店があってもいいでしょう。親御さんは書店を選ぶ自由を行使してもらえれば……
性犯罪セクハラ被害への理解が進んで減るなら男性向け規制も本来不要でそっち行くべきなのに行かないなら「男性向けだけ規制」だよ。女性向け放置でも現状の女性が受けてる性的消費ダメージを男性は受けないし
マジでBL無罪って考えてるんだ……じゃあBLは性的少数者をモノ化し彼らへのステレオタイプを助長している性的少数者差別コンテンツだって話する? 性的少数者の人たちを「受け」「攻め」というセックス時のポジションで分類するのは彼らの存在をセクシャライズし彼らの人間性を貶める表現なので、性的少数者への偏見がひどいうちは規制されても仕方ない、って話もしよっか? 少なくとも同性婚すら実現してない国でやっていい表現じゃないよね? 私はもちろんこんな主張には賛成しないけど、あんたらの理屈を敷衍するならそうなるよな?
ところで、容姿端麗な女性しか採用しないと明言している劇団が仮にあったとしたら、女性に対する容姿差別を助長するわけだから、女性差別劇団として攻撃されても仕方ないんじゃないの? 仮にその劇団がBL的な演目をやってたら、それは性的少数者への文化の盗用だから、欧米の基準ではありえないよね? 仮にその劇団が濃い目の肌色になるようなメイクをして『アイーダ』を上演してたら、それはブラックフェイスだからアメリカでは一発でキャンセルされるやつじゃん?
え? その劇団に女性ファンが沢山いればセーフ? ラブライブにも大勢の女性ファンがいたけど焼かれましたよね? 女性ファンの存在はそのコンテンツが女性差別的であることを何ら免罪しないってことでしょ? まして性的少数者からの文化盗用やブラックフェイスは、女性ファンの存在では免罪されないどころか、むしろ他者への客体化だから余計に罪が重くなるんじゃないの?
もちろん私は仮にそんな劇団があったとしてもそれを攻撃するつもりも規制を主張する気もないけど、男性向け文化は有罪だけど女性向け文化は無罪、っていう態度をいつまでも採るなら左下に闇堕ちするぞ。性的少数者のモノ化やブラックフェイスという誹りから女性文化が逃げられるだなんて思うなよ。死なばもろともだ。
巨乳女子大生がウェイトレス姿で注射が怖いのかと煽ってくる献血ポスターが女性のモノ化で女性蔑視、胸元のリボンの後ろでよく見ると胸が揺れてるヘソ出しルックのVTuberは性犯罪の誘発なんでしょ? 仮にそれらの理屈を是とするなら、MSMの人たちをステレオタイプに描いたジャンルであるBLは差別扇動だし、美女ばっかり集めた劇団が濃い目のドーランで『アイーダ』やるのはルッキズムとブラックフェイスの合わせ技でキャンセル一択でしょ?
貧困、飢餓、抑圧、教育機会の喪失などは社会制度や国際システムの所産だと考え、人間が本来持っているはずの寿命、可能性、活動領域などが、社会構造や南北格差の中で損なわれ制限されている状態を「構造が暴力をふるう」と比喩的にとらえた概念。J.ガルトゥング(1930〜)は、暴力とは「人間が潜在的に持つ可能性の実現の障害であり、取り除きうるにもかかわらず存続しているもの」と、概念の拡張を試みた。彼は通常の暴力を直接的暴力(direct violence)と呼び、それのない状態を消極的平和と規定した。これに対し、例えば工業国で牛肉の消費が増え、途上国から大量の飼料を輸入するようになり、そのため途上国の作付けが、自国民の消費用穀物から輸出用飼料に切り替えられ、子供たちの食糧が失われて飢餓に苦しむという場合には、結果は直接的暴力と同じだが、因果関係は複雑で暴力行使の主体は特定できず、しかも他者から食物を奪ったはずの人々はその自覚を持たない。このように、社会関係の非対称性を介して間接的に生命や人間の可能性を奪い去るような行為をガルトゥングは構造的暴力と呼び、制度や構造に内在した暴力の解消を積極的平和と定義して広範な論議を呼んだ。◇Johan Galtung(1930〜)オスロ生まれ。平和研究創始者の1人。59年オスロ国際平和研究所創立。著書『構造的暴力と平和』(1991年、中央大学出版部)など。
単なる事実の話しかしていないし、理解出来ないなら無理をしなくていい
なんか毎度毎度繰り返しだよな
長文も理解出来ないし、ワンステップずつ短く区切っても理解が出来ない
ただ下記のようには思っているよ
俺、実は投資家でとか石油王でとかネトウヨプリンスみたいな虚言を吐くことはあるかもだが
バカや無能は尋常じゃなく学歴・知的コンプが強いから自分が頭がいいとは勘違いしないぞ
むしろ、彼らが本心から自分が頭がいいと思うことができたらなら立ち振る舞いが変わると思うよ
能力主義の呪縛は社会全体に深く浸透し、多くの人々の自信を失わせている
運良く勝ちの席に座った連中は幸運を忘れ驕るし、席を得れなかった人たちは怒り腐る
JASRAC vs 音楽教室 最高裁判決が二審と同様「先生の演奏は使用料徴収対象にあたる。生徒の演奏は徴収対象にならない」ということで決まったと話題でして、やはり案の定「カスラック結局金とるのかよ!」のシュプレヒコール状態となりました。
ヤフーに載ったCX系「イット!」の書き起こしには「曖昧でわからない」とか中見出しがついて、取材に応じた(たぶん個人の)音楽教室の方が「レッスンじゃ弾けないってことですか?」とか言ってて、ヤフコメだと「未来の音楽家を潰すのか!」などと書き込まれており、まあいつも通りの流れ
とりあえず「今JASRACに楽曲の管理委託してる音楽家が、著作者として正当に権利行使をして『先生の演奏ならちゃんとお金払ってね』と言った」場合にちゃんとお金を払うか、「感情論とか将来への投資論」以外の批判か、この仮定された音楽家の曲はレッスンで弾かないかという選択肢をとれないならば、結局カスラック批判もただの利権アレルギーに過ぎないのですがいかがでしょうかね
この問題は何度も世に出てきていると思うが、法治国家のことを勘違いしている人がけっこういる。
表現の自由界隈からも「法律を超えたら表現の自由はない」ってのが無邪気に言われまくってるけどさ、じゃあ、「本日から漫画を描いてはいけない」って法律ができた瞬間、漫画を描く表現の自由はなくなるの?逆なんだよ。表現の自由が先にあって、それを侵さない範囲で規制が許されるだけ。
これに対して
自由を侵害する法律が作られたら法の手続きに基づいて侵害されないように法改正をするのが法治国家の自由の行使なのだ。
法治国家原理は、法律の法規創造力の原則(国民の権利を新たに制限し、義務を課す法規範は国民代表議会のみが作ることができ、行政が立法してはならない※)、法律の優位の原則(行政活動は議会制定法に反してはならない)、法律の留保の原則(国民の権利を新たに制限し、義務を課す行政活動は、法律によって授権されていなければならない)から成り立つ。これらのどこにも、自由を侵害する法律が作られたら、法改正を待つべきであり、あえて規制に逆らうべきではない、という議論は含まれない。
※これは行政に関する原理であるというのがミソで、私人同士で新たな義務を課すのは、原則として自由である。たとえば、100万円を借りるという金銭消費貸借契約を結べば、あなたはカネを返す義務を課されることになる。それに先だって国民代表議会の授権規範が必要であるというのは馬鹿げている。しかし、原則が自由だからこそ、社会における事実上の力関係によって一方的に立場が弱い契約を結ばされるということが起きる。そこで、契約の自由を制限する法律が制定されたり(例えば借地借家法を思い浮かべよ)、裁判所の判例法理によって調整が図られることがある。
二番目のツイートは、法治国家を(古代中国の法治国家の伝統もあって)遵法義務の問題と取り違えているだけで、些末な揚げ足取りではないかと思われるかもしれない。しかし、遵法義務の問題として考えてもおかしい。もちろん、国法は自らに従わない者に対して制裁の仕組みを用意することが多い。刑法にせよ、行政上の何らかの義務履行確保の手法にしても。刑罰という結果を避けるために従った方がベターであるというプラクティカルな議論としては意味があるだろう(事実としての強制秩序の問題)。しかし、それと服従義務とを混同するべきではない。たいていの法学者は、不正な法に対して服従する義務はないと考えているのではないか(例:ラートブルフ「法律による不法と法律を超える法」)。ラズなんかは、それを超えて、一般論としては国法への服従義務などない、と言っているようだ。
ただ、これは難しい問題で、誰が不正かどうかを判断するのかという問題がある。万人が自らに都合の悪い法を不正であると判断すれば、アナーキーとなり、宗教戦争の再来である※。しかし、実定法にただただ服従するべしと言えば、ナチスの法にも服従する義務があるのか(事実として強制されるからやむなく従うのではなく)と言われてしまう。結局、個々の法規範に則して個別的に判断する他あるまい。上記のツイートでいえば、一般論として漫画という出版様式の禁止を無視したからといってアナーキーに陥ると考えるのは馬鹿げているであろう。
現代の違憲審査制は、こういった正義と実定法のジレンマをなるべく起こさないようにするためにある。憲法に人権という形で示された一般的正義の原則に照らして裁判官が実定法を審査し、不正な法と認定した法規範の適用を拒否するという仕組みが我々の社会には導入されている。ただ、裁判官の目をすり抜けてどうしようもない実定法が作られることがないとは言えない。立法者と裁判官にさしあたって頼らずに正邪を判断する視点を持つことは、自由な民主的社会の市民であり続けるために必要なことである。・・・自分の頭で考えた結果、おかしな結論に到達する人もいるかもしれないのが頭の痛いところだが、それが自由であるということである。
悪法といえども国法に従う義務があり、悪法をただすには法改正に賭けるべきという態度は、肉屋を支持する豚と言われてもやむを得ない※。
※ひょっとすると熱烈なホッブズ主義者なのかもしれないが、ホッブズ主義者なら、本当に当該禁止によってアナーキーが避けられるのかをもうちょっと真面目に検討するのではないか。
参考文献
長谷部恭男『法とは何か[増補新版]』河出書房新社、2015年
おまけ:
それに反する法律は作れません。
こうした見解に対する批判は本文中にも書いた通りだが、この人の中では、薬事法(古い名前だ)の薬局距離制限規定が作られたことはなかったのだろう。薬事法は、自分に関連する分野ではないのか(薬剤師ではないから、違うかな・・・)。
フェミニストです。ウマ娘のときから『表現の自由の戦士』の態度に疑問でした。
でもそれなら『表現の自由戦士』は間違ってたってことになるよね?
フェミニストは「女性の権利と尊厳」を守るために、必要なら声を上げる勇気を持つけど。
『表現の自由戦士』が守護してるのは別に表現の自由ではないってことね。
だって、「なんの権利も持たない外野が辞めさせようと口を出してきた」と仰るけど、クレームを入れるのも表現の自由権だもの。
あなたたちが守ってるのは、何?
私も考えてみようと思う。
かつて私もこんな風に読んでいたことがあった。
だけど、ウマ娘やUSJに「このくらい受忍限度だろうが」とか「アウトの境界線が曖昧なお気持ち」と突っ込んでいかないところをみると、この呼び名は誤りだ。ごめんね。
今回もフェミニストの一発言に食ってかかってるし、アンチフェミでいいのではと思った。
でも、スポーツ大会のレギュレーションだとか女子トイレ更衣室問題で必ずしもTERF、フェミニストの敵側に回ってるわけではないようなので、この呼び名も誤り。
多くの『表現の自由戦士』が声を上げた女性に対して露悪的に振る舞うので、ミソジニーが動機なのではと訝しんでる。でもアツギなどの女性担当者を庇うこともあるので、必ずしも当てはまるとは言えないし、言動の表れる第一活動実態と内心の動機は別に判断すべきだ。活躍してるフェミニストだって動機がミサンドリーの人も結構多いし。
ローレンの「ファビョる」発言が炎上したとき、ほとんど『表現の自由戦士』は反応しなかった。
増田も"権利者"と言ってることから、彼らは著作権に関する何かを重視してるんだと思う。ただ、けものフレンズ2が猛非難されたとき(好きなのに…)まったく『表現の自由戦士』は動かなかったよね。ヘイト創作のようなものも、お祭り騒ぎで楽しんでいたようだ。彼らは、罵倒・ヘイト・冷笑・否定と、やめてほしい・注意・クレーム・怒りを分けて扱う。しかし、萌え絵のこの描写が性的消費だ、というレビューには強く反応する。奇妙だ。これは前者のカテゴリーではないのか。
ひょっとして、フィクションや広告も含む芸術に触れるとき、心の中の真面目さを刺激されるのがイヤなのか? それが社会の弱者にダメージを与える可能性を考えたくない、とか。ノブレスオブリージュを放棄して、マジョリティの既得権益である心理的安全性を謳歌したい、と。だとすると『反ポリコレ』の呼称が適切だ。ディズニーやマーベルら、著作権の権利者が自分たちの意思でキャラクターに多様性をつけようとしたり、アニメの聖闘士星矢のキャラの女体化も権利者の同意があるにもかかわらず批判された。批判者と『表現の自由戦士』は層が被っているのではないか。
USJ内での下着のみ着用しての入場に対して、USJ運営からの「お断り」についてのブコメ
表現の自由戦士たちはエロはダメと言うフェミニストには食ってかかるが、エロはダメと言う企業にはダンマリ。 企業に凸までして現状を変えていくフェミニストとはパワーが桁違いだなぁと感じる。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4726882915127762979/comment/nakanuki
これにスターがたくさんついて上位ブコメになってる意味がわからない。
まず、「表現の自由戦士」という独自用語を皆に通じる一般用語のごとく普通に使ってるが、
これは「キズナアイのNHK出演や、赤十字献血ポスターの宇崎ちゃんイラスト等に凸し中止・取下げを求めてたフェミニストのパワーに対し、批判した人たち」という趣旨でいいかな?
(こういう「表現の自由戦士」「表自戦士」みたいに自分や仲間内の狭い範囲でしか通じない独自用語(他にも「パヨク」「ゴリホーモ」「日本軍・反日軍」「ギフハブ」等)を作り出し、皆に通じるかのごとく前置きなく使うのを「造語症」と言って、頭のおかしい人たちによく見られる症状だと言われてるね)
本題だが、今回の事例は「私有地内・私有施設内での行為について、その持ち主である施設管理者が○○は禁止と決めた」という事であり、
フェミニストたちがやっていた「そのコンテンツの持ち主(権利者)や、コンテンツ権利者と契約して正当に利用している組織に対し、なんの権利も持たない外野が辞めさせようと口を出してきた」事例とは全く違う。というか180度逆でしょこれ。
無理に今回のを過去の事例に当てはめるなら
『権利者であるUSJが園内で下着姿でいていいよと表明したのに対し、フェミニスト達が「子供もいる場所で過度の露出は害がある、やめろ」「下着女はTPOわきまえろ」「園内で下着姿を認めるUSJは女性への性的消費を許してる!現代の価値観に合ってない!」と訴えて禁止させようとしたのに、”表現の自由戦士”がダンマリ決め込んでる』
という状態になるだろう。それで上記のようなブコメがつくならまだわかる。
ウマ娘でもディズニーでも、エロい二次創作はダメよと決めてる例はあり、そういう権利者が決めたことに対しては”表現の自由戦士”は何も言ってない。
自らの権利物のエロ表現を発表したり、逆にエロ表現は禁止と決めるのも、どちらも自由の行使。だから何も言わない。
権利を持つものが正当な権利行使として表現したことに対し、権利をもたない外野が圧力かけてその表現を撤廃させようとしたときだけ批判してる。
今回の事例とは全く違うの。
こんな的外れ筋違いピンボケの揶揄にすらなってないブコメに対してスターが集まるってことは、はてブには思考能力が欠如した感情一直線 脊椎反射の低能フェミニストが一定数いるということで、恐ろしいことだと思いますよホント。
はてブのフェミニストどもには、言っても無駄だろうけど「ええかげんにせえよ」と言いたい。
☆追記
「統合失調症と特定の思想を結びつけたり、統合失調症を罵倒語のように使うのはやめてください。」
笑かすな。ネットの一部フェミニストが作り出して仲間内のみで使ってる単語なのに「ネットスラング」って、これネット中で皆が使ってて知ってる単語だと思い込んでるの?
というか前置きにすぎない造語症の部分にだけ言及して批判してるブクマが複数見受けられるけど、
これって本題部分には反論できないから反論できる前置きだけ取り上げてます、という本題部分への消極的賛同、白旗として見ていいのかな。