はてなキーワード: 私的領域とは
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1388610
ここのブコメ見てて思ったんだけど、「刺青を入れた男と娘の結婚は認めたくない」ことを会いもせず判断するのは刺青に対する差別だ、
差別はいけないので少なくとも一度は会って人となりを判断すべきだっていう意見もちらほらあるみたいなんだけどさ、
いやこれは当然に差別なんだが、絶対に許されない類の差別ではないと思うんだよな。
というのはさ、人間の活動には公的領域と私的領域があって、それがグラデーションで繋がっているもんだと思うんだけどさ、
公的領域に近い所での差別ほど許されず、私的領域に近いほど差別は許されるって持論があるんだよな。
例えば役所の手続きなんかは完全に公的な領域で、刺青を入れているからって役所の手続きが受理されないなんてことはあってはならないし、
逆に人の内心は完全に私的な領域で、外にさえ出さなければどんなクソみたいな差別をしても許されるだろう。
民間企業の活動もかなり公的領域寄りだから、刺青がある客がプールなどから排除されるのは差別ではあるし許容されるかは議論がいるだろう。
一方で刺青の客がいることで他の客が不快に思うことは差別ではあるが許容されるものになるだろう。(不快であるからといって排除することが許されるかは別)
さて、「刺青の男を娘の結婚相手にしたくないので反対する」、というのはかなり私的領域に近い所での差別ではないだろうか。
例えば「自分が刺青入りの人と結婚したくないのでしない」という差別は完全に私的領域にあるために許されるものだろう。
これが「刺青入りの男が近所に越してきたが、不快なので地域のコミュニティから排除する」になると公的領域に近くなって許されない差別になってくるだろう。
「自分の身内にどのような属性を入れたいか、入れたくないか」というのは個人主義が拡大している昨今でもまだかなり私的な領域を占めると考えるのが妥当だろう。
反対のあまり娘の結婚を何らかの実力行使で止めるのは差別なり自由権の侵害で問題があるだろうけど、単に会う前から反対するっていうのは差別ではあるが許容されるものだと個人的には思うね。
結局「ゾーニングが不要」だと思ってる人って多分ほとんどいないんだよね。
本当に議論すべきことは「ゾーニングは必要か?」ではなく、「ゾーニングとはどうあるべきか?」「個人の私的領域はどこに線引きされるのか?どこまでが不可侵の領域で、何をしたら侵犯したことになるのか?」「公共とは一体何なのか?どうあるべきか?」ということだと思う。
例えば、個人の服装は基本的には不可侵の私的領域に含まれるだろう。一方、全裸で街を歩けば他人の領域を侵害したと見做され逮捕されるだろう。それが正しい規制のあり方かどうかはわからないけど、私的領域と公共の違いって、それほど明確になってないよね。その辺りにズレがあるように思える。
毎回フェミが晒しあげられる光景を見る度にモヤモヤする。ブコメだけではではいつも言いたい事が何も言えず、一度そのモヤモヤを雑ではあるが増田でアウトプットしてみたいと思い、不慣れな長文を書いてみる。
フェミの主張の大筋は要するにエッチなものを世に溢れさせるなという主張だと何となく考えている。この問題は非常に議論しづらい難しさがある。例えばエッチなものとはそもそも何なのか誰が決めるのかという切り口だけでも大変複雑な難問であり、それに対して「表現の自由の侵害」「お気持ちを押し付けるな」という反論だけでは有効なカウンターになってないのではないかというのが俺の見解だ。後に詳しく説明するが、この問題において議論されるべきだと俺が考えているのは公共空間のデザインと表現の自由のバランスについてなのである。ところが当のフェミからもオタからもそのような議論がされている様子はほとんど見られず、見るも無残な中傷合戦に終始している。クリエイターからはそのような話が出る事が多々あるのだが、オタもフェミもこれらの問題に対して無関心を貫いていると言わざるをえない。ある意味で我々の価値観の過渡期であるにも関わらず、肝心の論点が置き去りになるその不毛な状況に対しての失望こそが俺が感じるモヤモヤの正体なのだ、とようやくこの文章を書きながら気づいた。
例えば近年、学校や官公庁や公園などといった公共空間に設置されている裸の少女の像や裸婦像の絵画などがフェミによって問題視されるケースがある。一見するとそれは荒唐無稽な主張かもしれない。しかし裸の女性というモチーフは西洋芸術の文脈においては古くからの一大ジャンルではあるが、一方ではエッチなモチーフでもあり、我々は単にそれをエッチなものと捉えてはならないと繰り返し教育を受けてきただけに過ぎない。パブリックアート、公共空間における彫刻や造形、絵画のあり方としては、すでにエッチなものには疑義が生じているという状況と考えてもいいだろう。
言うまでもなく公共空間というものは幾多もの他者と自分とが相互に関わりあう空間であり社会そのものである。そのような場にエッチな創作物がさも当然のように鎮座する事が保証されるのが表現の自由というのはいささか暴論だ。他者と関わりあう場だからこそ公共空間における表現は常に綱渡り的なバランス取りを強いられる。仮に頭のおかしなフェミによる病的なクレームであるにせよ、クリエイターは観客のリアクションを受け止めざるをえない。おそらく世の大抵のプロアマ含めたクリエイターはそれを十二分に自覚しているはずだ。つまり表現の自由は公共空間、社会という危うい綱渡りに最初から常に晒されており、真なる表現の自由というのはそもそもが幻想なのである。真なる表現の自由がもし完全に存在する空間があるとするなら、それは引き出しの中の鍵付き日記のような私的領域における創作という場において以外はありえず、フェミがそこまで創作行為を批判しているようにはどうにも思えない。公共空間に作品を送り出す以上、我々は常に公共空間にとってセーフかアウトかを社会に対して問いながら、あるいは喧嘩を売りながら生きていく他なく、現代においてエッチなものが忌避されるならばそれは綱渡りの判断材料の一つと捉える他ない。それは別に表現の自由の侵害でも何でもない。元から創作活動というものはそういうものなのだ。
そんな議論ができればいいなとは思うのだが、フェミもオタもそういう話には興味がないらしい。公共空間だからこそ快不快という主観のぶつかり合いが大切なのに、一番のキモである「お気持ち」が軽視されている現状は何なんだろうな。
ここまでヘイト扱いされてる小川杉田両氏の件について疑問を述べるとすぐ右認定されるけどみんなあれちゃんと読んだ上で批判してるの?
言葉遣いがかなり稚拙だったってだけで差別を肯定もしていないしLGBTを排除しろなんて書いてないぞ。小川氏が誤読っつってたけど主張を誤読されたのに憤ってるのはけっこう同情するものがある。あれは「差別的」であって「差別」ではないから差別主義者認定されたらそりゃ人間なら怒るのが当然だよ。
痴漢が云々はあれは書き手の代替表現における「ミス」であって論旨は政治的と社会的と私的領域を分けて議論しようといった内容だったぞ。あれはLGBTのことを語っているようで実際的には語っていない文章だった。ようするに議論が深まったろう系の文章だったわけだ。
まぁ杉田氏のあれは制度設計を考える政治家としては最低で公共の理念に反する内容だったわけだがあれも彼女なりの間違った「リアリズム」なんだろう。けっこう典型的な低次の現実感というか区別的というかまあなんにしろ褒められたものではないが。
そんなことよりこれらの記事の反応がもう絶対におまえらあれ読んでないだろって内容ばかりでなんつうかそういう文章を読まないでイデオロギー的に反射で批判する空気のほうが大問題のように見えてしまったよ。新潮45はいい試金石だった。文章を読まない人が批判するその直列乾電池みたいな逡巡のない反応はやばいと思うよ。こういう立場の人にはこうこうこういう反応をするみたいなプログラム的に何かをいうその世界のほうこそを警戒するよ。
だってあれ1万部も出てないんでしょ。ニュースになってから買おうとしても買えなかったし。メインの購読者は老齢の保守層でネット民であれをニュース前から知っていたとなるとかなり少ないはず。自分はネットの反応が気持ち悪いと思って図書館で読んでみたけどそこまでしてる人もなかなかいないでしょ。
特に人文系において、大学や研究を取り巻く環境が厳しいので、少し愚痴を書かせていただきたくお邪魔します。
* * *
研究生活が実生活、ことに家庭生活に対し極度の不安定性を与えることは、今日に始まったことではない。
例えばかの有名なマックス・ウェーバーによる1919年の講演の中では、「大学に職を奉ずるものの生活はすべて僥倖の支配下にある」と語られており、「精神的に打撃を受けることなくこうした境遇に堪ええたためしは極めて少ない」とまで言われている。
このような状況は、100年の時と洋の東西とを超えた今日の日本においても、同様である。むしろ、人口減少と学問に対する軽蔑——それはおそらく、ウェーバーが講演の中で強調した、学問がなんの「救い」も「啓示」ももたらさないということを、多くの人々が正しく認識したからに他ならないが——に直面している極東の島国の方が、研究生活を取り巻く環境は過酷であるといえるだろう。
博士号を取ったとしても多くの人々には就職先がなく、あっても有期雇用で、しかも低賃金であり、長期的な研究生活の途を描くことは全く不可能である。
日本より恵まれた研究環境を有する国、例えば博士課程から給与が出るアメリカや、高等教育がほぼ無償であるフランスの例を持ち出すことは簡単である。しかし、研究生活はその研究者が根ざしている言語、文化、あるいは人的ネットワークにある程度は依存せざるをえない。また、他国の研究環境は、一部だけを切り出せば外面的には羨望の的になりえるが、実際は、給与と引き換えに研究テーマの選択が制限されたり、あるいは無償で得られる研究環境には限りがあったりするのである。
当然のことながら、研究者における研究成果はそれぞれのおかれた研究生活の諸条件に左右されるのであり、それは資本的な制約を大きく受ける理工学系のみならず、人文系についてもそうなのである。
ハンナ・アーレントのように、生地での生活を根こそぎ奪われ、新天地で大きな研究成果を挙げる例もないわけではない。大学や官職への道を閉ざされてから活躍したカール・マルクス、そもそも学歴のなかったピエール・プルードンなども、偉大な思想家としてのちに崇められる存在である。しかしながら、すべての人が偉大な人、指導者のような人、あるいは預言者になることを目指して研究に励んでいるわけではない。実態はむしろ逆であり、陽が当たらない部屋で日がな一日、誰も読まないような古雑誌の1ページをどう解釈するかについて考え、その謎を解けた時に無常の喜びを感じる、そういう人が研究生活に入るのである。そのような、全くつまらないことこそ重要な研究成果なのであり、むしろ大きな社会的反響を呼び起こす御宣託が科学的な研究成果とは全く呼べないようなものであることは、ウェーバーの指摘するところであり、歴史が度々証明してくれたところでもある。いずれにせよ、研究生活とは社会的名声や富と全く関係がないどころか、資本主義社会ではしばしばそれらは相反するものとなるのである。
尤も研究者も所詮人間であるからして、研究そのものの「客観性」や科学の位置付けとは無関係に、それぞれの求める研究生活上のあり方というのは存在する。名声や富を求めて研究に取り組む人もいるのかもしれない。しかしそれは明らかに悪手だ。羽生名人でも挽回できないぐらいの悪手だと思う。
* * *
さて、反面、家庭生活はまさに「経済」の必要に駆られるところのものであり、十分な収入、定住可能な住居、そして可能な限り多くの家事労働(自動化が進んだとはいえなお労働集約的だ)が投入されて、初めて成り立つものである。
収入がないなどもっての外であり、亡命や収監、失踪や放浪なども、家庭生活とは相容れないものである。
歴史を顧みれば、自死や発狂、子捨て、虐殺に至るまで研究に身を置いた人々の末路は様々であるが、なんとかしてそのような事態は避けたいと誰しもが願うところであろう。
できれば平穏無事に、昭和時代に理想とされたライフスタイル、すなわち夫婦円満で子供と共にマイホームに住み、安定した立場で働き定年後は年金生活という人生を歩みたいところである(これは皮肉である)。
しかし今日の若き研究者は、子供はおろか結婚もままならず、マイホームもマイカーも持たず、年金制度の破綻を前に怯えながら年老いるのである。
もしあなたが結婚したとすれば、それはパートナーの全く寛大な心によるものか、パートナーが無知蒙昧で完全に誤った選択をしたかのいずれかであろう。
さらに子供がいるとすれば、当然あなたは研究生活を放棄するか、あるいはなんらかの安定した不労所得に拠って研究生活と家庭生活の両立を試みねばなるまい。(あるいは、あなたが非常に体制と時代に順応的な研究をなしていたとすれば、すでに十分な収入に恵まれているかもしれない。これこそウェーバーの言った「僥倖」である。そういう人には心から祝福を送ろう。願わくば同じような僥倖が数多の迷える研究者たちにあらんことを。)
多くの研究者たちにとって、結婚と出産は研究生活の首にかけられた縄である。
女性研究者の研究生活は性別的役割分業的発想や家庭生活に対する支援をパートナーから十分に得られないなどの理由によりすぐに縛り首になってしまうが、男性研究者の研究生活も同様に性別的役割分業的発想や金銭的支援をパートナーから十分に得られないことですぐにギロチンにかけられてしまう。
いずれにしろ、他者にとって金にならず有用性のわからない行為としての研究は、家庭生活に直面すると挫折する公算が大きいのである。
だからといって、家庭生活を全く否定してしまうことも困難である。穂積陳重以来日本の身分法学者は、日本国民の位置付けを次の三つの身分のいずれかあるいは複数に属するものと定義した。すなわち、夫婦、親子、親族である。
しかし、親が死に、結婚もせず、親族との紐帯も弱いとなれば、その人は社会的にも法律的にも、全く孤立した存在となってしまう。
その人は十分な社会保障の対象にならないことはもちろん、社会生活上の様々な面で制約や不利益を受けることとなる。
実際上の問題として、社会的要請として家庭生活に入ることを我々は求められており、多くの人はその生活が全く不幸であり耐え難く絶望的なものだと感じていたとしてもなお、家庭生活に甘んじているのである。
当然、研究をしていなければ家庭生活が楽になるとは全く言うことができない。しかし、少なくとも研究生活が家庭生活と激しく対立することであることは自明であることのように思われる。
あるいは「家庭」という理想像の崩壊、高齢者二人世帯や単身世帯、シングルマザーの増加、生涯独身者の増加などによって、家庭生活という名付け自体が空虚なものになっているという批判があるかもしれない。
しかし反面で、なお結婚と出産を経験する人は半数を占めており、「家庭」に代わるほど普遍化された結婚と出産を前提とした私的領域の生活のモデルはいまだに存在しないわけだから、やはり家庭生活という呼称を用い、特に若い研究者たちにとってはそれを重視せざるを得ない現状もあるのだ。
* * *
収入、定住、家事労働を求める家庭生活は、無収入、度々の転職と転居をもたらし、にもかかわらず時間の余裕を求める研究生活とは、完全かつ深刻に対立する。
では、この間の解決はどのようにしてもたらされるのか。非研究者であるパートナーの忍耐によってであろうか。あるいは研究生活の適度な抑制によってであろうか。
前者はこれまでの男性研究者がしばしば採用した方法であり、女性に人権がない時代であればよかったが、21世紀にもなってこの方法を採用しようと思っている人がいるなら、その人は妻を見つけることができないであろう。
後者の方法は、実際には採用し得ないものであり、つまりそれは相撲レスラーが炭水化物の摂取を控えるとか、プログラマーが1日3時間しかモニターを見ないようにするとかいう話であって、研究生活を「適度に抑制する」などということは単に研究生活の否定でしかない。
研究者はその人をして全的に研究に没頭せしめなければ、素晴らしい「霊感」を得られないものである。そうでなければ、特に人文学の研究においては、それは単なるジャーナリズムに陥るであろう。
そして、これもウェーバーと同じく声を大にして言いたいところであるが、そのような素晴らしい「霊感」、今日の言葉であれば「イノベーション」などというものは、研究のみならず仕事や様々な形の労働の中でも、それに没頭し専心していなければつかむことの能わざるものであり、行政府が旗をふって労働時間の長短や職業訓練の有無をいくら弁じ扇動しようとも、生まれてこないものなのである。
家事労働、ワークライフバランス、長時間労働の問題は、まさにこの没頭の可能性にあるのであり、特に家事労働は時間を細切れにしてしまうために人をして何かに没頭させることを妨げること大である。ワークライフバランスも、結局その目的とすることが明らかでないから低賃金かつやることのない中途半端な余暇をもたらすだけである。長時間労働を改善しても、人々が自ら欲するところのものに取り組めるような労働時間の設定でなければ、それが長かろうが短かろうが、人々の不満は変わらない。いくら労働時間が短いとしても過労死は起こりうるし、長く労働していても過労死しない場合があるのは、この理由によるのである。
とにかく、家庭生活の求めるものを根本的に否定しなければ、研究生活は成り立たないのである。
* * *
では、解決方法は何か。家庭生活の問題点は、それが夫婦という二者で成立するように想定されていることである。それゆえ、収入と定住を男性が支え、家事労働を女性が支えるという構図が出来上がった。
しかしこの想定は噴飯ものであり、シングルマザーは全て一人でやらざるを得ず、あるいは逆に親族からの支援で収入の不安が軽減されたり、実家を譲り受ければ定住も可能というように、家庭生活の諸条件の実現は夫婦という関係性の外部で決まっていることが多い。
もし家庭生活に関与してからも研究生活を継続するためには、家庭生活を成立するためのリソースを外部から調達することが最も望ましい。(逆にいえば、外部からのリソースが調達できなければ、ついにここで研究生活のお墓を立てるしかない。自分の研究というアイデンティティよ、さようなら、と。)
ただ、ここには二つの問題がある。一つは、リソースの調達先である。大川周明のように徳川家から調達したり、大杉栄のように政治家からぶんどってくることができれば最高だし、あるいは明治時代のように女中を置いたりできれば最高だが、なかなかそういうわけにはいかない。もう一つは、その調達が個人の能力に帰せられることで、研究の能力とは別にそれに取り組む環境が規定されてしまうということである。
この二つの問題を解決するためには、若い研究者同士で研究生活を支えるための生活ネットワークを構築するしかない。あるところには金がある人もいるだろう、あるところには手が余っている人もいるに違いない。
どうせ研究生活に勤しんでいる人以外に若い研究者に対して同情を寄せてくれる人はいないのである。
アカデメイアやリュケイオンがどうだったかはわからないが、古今東西大学に併設されている寮や大学街(カレッジ)では生活上でも学術上でも研究者のコミュニティが形成されていたはずだ。修道院のようなものである。
いま、若い研究者は官僚主義的な大学制度によって互いに分断され、地方に散住し、有能なものは国外へ出て行ってしまっている。もう最後のタイミングである。
いま我々若い研究者が団結して助け合わなければ、この国の研究はすぐになくなる。もし研究のなくなり方が緩やかであれば、日本語で達成された学術的成果を、多少なりとも国際的に、人類のために遺す時間的猶予が生まれるかもしれない。あるいは、国外から救いの手が差し伸べられるやもしれぬ。「タコツボ」を脱しなければならない。近くで助け合って生活し、なんなら雑誌なども出して(いまであればブログでいいのかもしれないが)、特に人文系では消え掛かっている研究の灯火を、なんとか引き継いでいかねばならぬ。ならぬと思う。
あのさぁ、ここで大事なのは元同僚Aと元増田がどんな関係だったかってことなの。もう退社して個人的に会う関係だからパワハラ関係これ全部関係なしね。
色恋ってのは、ある程度お互いの私的領域に侵入して共用にしていくこと。
けどさ、人間テレパシー使えんから、探りながら、伺いながら、考えてやっていかないとならない。もちろん間違いもある。間違いを修正して成長していく。
「私の意にそぐわないアプローチをわずかでもしたらぼこぼこに糾弾してつぶしてやる!!」
みたいなのがいたら男女ともに永久に独身だよ。噂が立った時点でもう異性からは距離置かれるね。
その辺の性がらみは、まあくくってしまえば「私の意にそぐわないアプローチ」に過ぎないんだよ。権力関係が混ざるのはさらに厄介ではあるが。
だけど、配偶者が欲しいのなら距離を近づいていかないとならない。
ハリネズミのジレンマって知ってる?近づきすぎると針でさされて痛い、遠すぎると寒い。距離を探らないとならない。
結果的に意にそぐわないアプローチなんてのは針そのものなんだよ。テレパシー使えんからうっかり刺すことあるの。
異性は針で刺すんだ!針で刺すなんて許せない!なんてのが欲しかったら異性と本当にかかわらずに過ごしたほうがいい。異性の友達とか絶対作っちゃダメ。
元同僚Aを完全に悪だといって糾弾したかったら、それ身の回りの人間にいいな。口頭では賛同してくれるはずだよ。で、「君を針で刺す人はいなくなるだろう」
ただ、私がモテの条件としてわかりやすさを提示したのは、それこそ、感情が言語的表現に向いてないからなんだ。
私たちが私たちの感情を表現するのは、他者にしめすためだけでなく、自分自身を納得させるためでもあるわけで、そうなれば、わかりやすさというのは、愛の表現のしやすさ、あるいは納得のしやすさというのにもつながる。
だから、ルッキズムや、差別による愛の肯定と否定というものがあると私は考えていて、そういったものを無視して恋愛できるというのも実のところ、自由だの輝いているだの、あるいは夢があるだのというわかりやすさに依存しているのではないかと思っている。もちろん、これが後付けならなんら問題ないのだ。しかし、いざ恋愛やジェンダーを語るというタイミングでは、これを前倒しにして語らなければならない。そうすると、清潔感だったり誠実さだったりの便利ワードに頼らざるを得ない。
非モテへの助言が、常に的を得ないのはこのせいだし、さらには便利ワードを使い一辺倒に言語化することで、自身の感情さえも捻じ曲げてしまう危険性がある。もっといってしまえば、非モテへの助言が疲れるのはこのせいで、いったん納得した愛を再定義しなければいけないからだ。
でも、しかし、だとすれば余計に私たちは、これを言語化していくべきなのだが、どうも愛はずいぶんと歪んでしまったようで、非モテに愛が体現されるようになるまで、愛をたたき直すのは時間がかかる。しかし、誠実さはどうだろうか。清潔感はルッキズムに根差したもので、外見によって愛を得られない人々にとっては厳しい現実を見せるだけだが、誠実さは違う。
たとえ精神病であっても、単に性格が悪いのだとしても、誠実さを示すことはできる。誠実さは実に便利な言葉で、他人を思い行動するというただそれだけで、誠実と表現できる。疑念があり信用を得なければならないとはしたものの、誠実そのものは実はかなりシンプルであり、ツーカーで行える、分かりやすい概念だからだ。
私は、競争社会から脱して共生社会へと向かおうとする流れを信じたいし、それが私的領域にあっても評価される、性愛の対象になるという言葉をとても信じたい。それが男尊女卑やあるいは経済格差によるルサンチマンによるものだとしても応援したい。
だからこそ、例えばジェンダーを語る際に提示される誠実さというものについて語っていき、その実態が何かを考えていくべきだと思っている。内省という言葉を使ったのは私の政治的な意味があるのだ。私は、「誠実さによる性愛を信じているし、そう語ったあなたはモテるに足りうる誠実さを示すことができますよね」「そして、それが誠実さでない場合に、あなたのルサンチマンによって、モテる定義をやっぱり外見であったり、金であったりというのに引き戻すことなく、私の言う誠実が違ったのだ、と内省できますよね」という脅しである。
実際のところ、私は一般的な意味合いで誠実であるよう心がけているが、同時にとんでもない卑怯者だ。レトリック死刑令ができたのなら私はすぐに市中引き回しだ。だけれども、繰り返しになるが、誠実さによる性愛も誠実さ自身も信じている。苦しい。混乱している。
だから、利己的な言い方をすれば、人類でもなく、男性でもなく、非モテでもなく、ただただ私を救うためだけに、モテる誠実さの解像度を上げてほしい。像が見えた瞬間、私は嗤うかもしれない、あるいは信じた私を喜ぶのかもしれない。少なくとも今、目の前にある靄は晴れていくだろうから、私は少し前に進めるし、少し先のことも見えてくるはずなのだ。卑怯にも、あの手この手で、私利私欲を満たそうとする私を許してほしい。これを読んでいる人の気を楽にさせる為に言うが、私はモテない。こんな人間がモテるはずがない。それどころか、私の本性を見抜いたと報告してくるような変わり者は少ししかいない。友人が少ないということである。当然恋人がいた期間もほとんどない。その恋人だって、私の論を証明するのと、私の“性的趣向”を実証してやるためにやった実験であって、実験は成功したが、そのような誠実さに欠けた遊びの後始末は悲惨だった。ご想像にお任せする。
それでも私は誠実さを信じたいし、私のような人間でなくても、多くの人が誠実さを信じたいのだと信じている。みじめだが、実際そうなんだ。
両足の間に足がもう一本生えた醜い獣。男女お構いなしの性欲の塊。
この大元の増田に貼ってあったリンクに鏡のたとえ話が出てくる。自分が何の属性を負っているか、というのが鏡に見えるのだそうだ。女性であれば女性、黒人女性であれば黒人女性。男性には一人の人にしか見えないそうだ。私には鬼が見える。やせこけた鬼がそこにいる。人に良くすればよくなると、信じ込んでいる惨めな異形がそこにいる。
私は私の思う誠実さを示してくれたあなたに告白する。そんなこと重いよと思うかもしれない、自己憐憫に浸るなというかもしれない。けれど、私の誠実さというのはこれなのだ。この短時間のうちについたくだらない嘘を明かし、惨めな姿をさらし、伝わりにくい方法で真実を要求する。それが今のところの(歪んでいるのは承知の上だが)、私の誠実さなんだ。
さっき電話で「別れて友達に戻ろう」と切り出してきた。相手は泣いていた。私も泣いていた。
なんでこうなったかはわからないけれど、各自に言えるのは、タイミングが悪かったことと私がまだ若すぎたことだと思う。
彼氏とは大学のサークルで出会った。ちょっとオタク気味のサークルだったけど、彼は顔がかっこよくて、性格も優しくて他のオタクたちよりも何倍も輝いて見えた。
彼は人と仲良くなるのは上手くても、人の私的領域に踏み込むのが苦手なのか恋愛をしたことがなかった。私はその時他の男にひどいモラハラを受けており、とにかく優しさを求めていた。
そこで、私は彼の家の掃除をするという名目に彼の家に遊びに行き、こちらから誘ってセックスして付き合った。
最初から恋愛的に好きだったわけではないと思う。ただただ、衝動で動いてしまったのだ。
それから2年間半本当に幸せだった。私が本当に辛い時はいつもそばにいてくれ、彼が辛い時は私もできるだけのことをして支えたつもりだった。お互い寂しかったのだ。互いの親にも紹介し、就職してちょっと余裕が出てきたら結婚しちゃおうか、という勢いだった。
でも、今の私は彼と結婚できる気がしなくなってしまった。今年から私は社会人になったのだが、その仕事が割とあっていたようで、会社の同期や他の会社の同職の人々に、私が頑張っている姿や私が作ったものを承認されるようになっていった。
私はどんどんその承認で満たされていって、彼のことを考える時間が次第に減っていった。
そこで気づいてしまったのだ、私は今までずっと、「恋愛がしたい」のではなくただ「承認がされたい」だけだったことに。
そして更に最悪なことになっている。会社の中で「気になっている人」ができてしまった。かなり年上の人で、仕事の姿勢についてはすごく尊敬できて、私のことをすごく褒めてくれる人だ。恋愛とか結婚したいわけではないけど、もっとその人のことを知りたいとずっと考えてしまっている。その状態で、彼氏と付き合い続けるのは私はもう耐えられなかった。
本当に申し訳ないと思う。ただただ薄情な人間だ。だけど、今は、仕事で成果を出すことや「気になっている人」にもっと承認をしてもらいたいということしか考えられなくて、結婚や出産といった「女性の幸せ」を考えられなくなってしまった。要領のいい人はきっと両立できるんだろうと思う。
こんなところでこんな個人的な話をするのは最悪だと思うけど、我慢できずに書いてしまった。
先ほど同年代の友人何人かにこういった経緯で別れた話をしたら、完全に同じパターンで別れた話を2件聞いてびっくりしてしまった。
あれを自称フェミまでもが擁護に回ったことの意味をもう一度よく考えてみよう
つまり我々は「私的領域だからあれもこれもセーフな!」と言い張れる根拠を得たわけだ
でも無理なんだよな、実際問題それをフェミが認めるわけがないんだから
なのでエマまでついでに責任を迫られずにはいられない地獄感がある
特に和製フェミ(これ使っちゃうよ)の節操のなさときたら異常で、
今日エマの擁護に回ったと思ったら、明日にはもう忘れて勝部元気とかのリツイートしてる
なぜこうなるかというと、あいつらは別にエマや勝部元気の何を理解しているわけでもなく、
あの発言は鰻の保護を訴えてた奴が実はこっそり蒲焼食ってたみたいな話で、
別に鰻を食うのは構わないし、仮に食ってようが論そのものに傷がつくわけでもない
では何が本当の問題かというと、自分が鰻を食う以上、他人にも禁止はできないことだ
自分が自由を行使して行動を変えないなら、他者の自由もまた尊重しなければならないし、
彼らに変化を求めることもできない
鰻を食うことを非難する人もいるだろうし、鰻保護自体の正当性を問う人も出てくる
前述の通りそれは無理筋だ
ただ、最大限好意的な解釈をしても、鰻を食わないという行動は誰にも強制できない
フェミニストってさんざん男性の私的領域、つまり男性の欲望に口を挟んできた。介入してきたんですよ。
しかしそういった手出し口出しも、「まぁジェンダーフリーに移行するためには必要なことなんだろう」と思って男性は受け入れて来た。
で、「じゃあ次は女性の私的領域(欲望)にもそろそろ手をつけないとね、女性の意識も改革しないとね。」という話になった途端に
「バッドフェミニズム」とか言い出して、「女の欲望には手をつけるな」って言いだした。それが許せない。
最近こういう女性増えてる。「女の子の再発見」「女性性の再獲得」 「女性ジェンダーに乗って何が悪いの?」っていう主張。
こういう女性が増えるとフェミニズムとしてもキツい。欧米でも「バッドフェミニスト」が猛威をふるった。
「ジェンダーフリーとかいうけどやっぱり男みたいにはなりたくない!」が先進国女性の本音。この本音にフェミニズムが打ち勝てるかどうか。
ロクサーヌ・ゲイの言うような、「女の欲望を認めつつ男女平等・ジェンダーフリー」みたいなのはありえない。
「じゃあ今まで(gender-freeのために)男の欲望にさんざん介入してきたのは何だったの?」という話に
http://b.hatena.ne.jp/entry/323571458/comment/masudamaster
http://b.hatena.ne.jp/entry/323633259/comment/masudamaster
http://b.hatena.ne.jp/entry/323712613/comment/masudamaster
関連URL(「フェミニストがフェミニストや弱者男性と結婚する義務はない」に対するmasudamasterの反論)
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20170221130104
「バッドフェミニズムをしたい、女の欲望は変えられない」って言うんなら、それでいいんです。
でも、ならば最後に一言だけ、「騙してすまなかった」って、謝って欲しい。
今までフェミニズムに協力してきた男性たちに対して謝罪してほしい。それだけなんです。
https://anond.hatelabo.jp/20170731152739
(文:masudamaster)
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最近、フェミニズムまわりがメンドクサソーな展開になるのは外野からは全体像が非常に分かりづらいことなんじゃないか?ということを考えてて、
たとえば絵を描くときって全体のあたりから始めて徐々に細部に向かっていくのが普通で、いきなり細部から書き始めると全体がゆがんだものになりがち。
同じようにフェミニズムについても、いきなりアクの強い人の本を読んだり狂ったツイートを見たりを繰り返してるとフェミニズム全体へのイメージがゆがんだものになっちゃうんじゃないか?
あとツイッターなんかでフェミニストを名乗ってるわりに結構フェミニズムについて分かってない人も居るよね?
ということを思ったんで、フェミニズムについてちょびちょび自分なりに調べて俯瞰できるようまとめてみようとしてたんだが
http://anond.hatelabo.jp/20160307231710
急に増田が来たので取り急ぎ便乗公開してみる。
フェミニズムとは女性を様々な抑圧から解放することを目的とした*思想・運動*を指す。
女性の解放を実現するための考え方や手法、問題意識は人によってさまざまであり、衝突し合うものも多いがそれらをまとめて「フェミニズム」と呼ぶ。
18世紀の終わりから始まったフェミニズムは最初は公的な権利の取得のための運動だったが、私的領域も含めより深いレベルでの男女平等を目指すようになった。家父長制を不平等の根源とした考え方が様々な領域へ適用され、現在は性差別以外の問題をも巻き込んだものになっている。
参政権、財産権、労働権、婚姻など公的権利の獲得という形であらわれた。
ファースト・ウェーブが公的な権利だけだったのに対し広い範囲における領域で平等を追及していった。
特に家父長制という男性主権な価値観の問題性が広く認識され、様々な領域で社会制度や規範への批判へと繋がっていった。
また公的な領域だけでなく私的な領域も扱うようになり、家庭内における性に関する問題などそれまで見えにくかったところまで踏み込んでいった。
セカンド・ウェーブに加え、人種、地域、宗教、階級階層、性指向など多種多様な問題領域を扱うようになった。
セカンド・ウェーブを置き換えたわけでなく、扱う範囲や深さを広げたかんじ?
社会領域(政治、経済、文化、家庭など)における主要な力を男性が持つ社会のシステム、価値観。
最初は男性優位主義などの用語が使われていたが、女性を抑圧する側に居るのは男性だけでないし、この構造により抑圧される男性も居ることから Patriarchyが使われるようになった。
あくまで思想の系統であり、フェミニストが所属するというものではない。あるフェミニストとある派の考え方の多くが同じである場合、その派のフェミニストと呼ばれることがあるだけにすぎない。
発生当時とは社会状況も違っており、現在では初期の考えと大きく違う部分もあると思われる。
セカンド・ウェーブ以降の主流となる、家父長制を性差別の根源とみなし社会から家父長制を排除することで差別の根本的な改善を目指すフェミニズム。
根源を改革するからRadical feminism(根本的なフェミニズム)。
なので関係する問題領域は社会全般のはずな気がするが、現代では主に伝統的なジェンダー・ロールや女性の性的対象化、家庭内暴力、生殖関連、性犯罪を扱ってるのを見かける。
これらの領域に対し政治的プロセスによる改善でなく、規範への疑問を社会に訴えかけることによる改善を模索する事が多い。
社会が不必要に女性の能力を低く見積もった制度になってると考え、女性が自由な選択や行動のため能力をふるうことのできる平等を重視とするフェミニズム。
ファースト・ウェーブの流れを汲んでる?っぽく、慣習や法による機会の不平等を打破するため、政治的プロセスを介して状況の改善、権利獲得を目指す。
法や権利など主に公的な形式を扱い、家庭内の権威関係など私的な面はあまり扱わない。
機会が平等であれば後は個人の能力次第であるという考えが、他のフェミニズムと衝突することも多い。
資本主義という制度や社会階級の対立が、女性の抑圧にも一役買ってると考えるフェミニズムの一派で、主に女性の労働問題を焦点とする。
昔は資本主義制度の廃止を唱えていたみたいだが、今はどうなんだろ。
家事や家族の世話など、家庭内の労働への評価の低さを問題視する。
報酬を得るための労働を「生産労働」、家庭内労働など自分たちのためにやる労働を「再生産労働」と呼び、再生産労働の責任を共有し、女性が生産労働にかかわることで再生産労働の価値が適切に判断されるようになると考える。
生まれや境遇などによって特権を得たり抑圧されたりと人生が変わってしまうことを問題視する。日本や米国でリベラルというとソーシャルリベラリズムのことを言うと思うが、それに近い考え方。
労働に関するマルクス主義フェミニズムの考え方に、ラディカルフェミニズムのジェンダー、家父長制の考え方を組み合わせたもの。ラディカルフェミニズムのように家父長制だけでなく経済的な性差も重視する。
リベラルフェミニズムとの違いがよく分からないが、調べてると、マルクス主義フェミニズムと一緒に扱ってるサイトが多かった。
性差別だけでなく、階級対立や性自認、人種主義などさまざまな問題は密接な関係であり不可分であると考える一派。
社会で女性の特性が過小評価されてると考え、男女の違いを肯定的に評価していこうとするフェミニズム。
元増田の「フェミニズムとは」の節を読んでちょっと気になったのでメモ
「この人はリベフェミだからこの人の言ってることはリベフェミの主張のはずだ」のような考え方をしたのかなと思うのだが、あるフェミニストの発言が特定の派の思想内にぴったり収まってるということは少ないので、そういう認識の仕方は危険かなと思った。
はてブ見てて思うのは、どうも偏ったフェミニストばかりを見かけてしまって変なイメージ付いちゃうよなー、ということ。フェミニストはその活動の仕方によって目立つタイプの人とそうでない人とが出てきてしまうし、多くの人にとっては目立つタイプの人が「フェミニストの典型例」となってしまう。
なのでまず「フェミニズムには多様な思想があるし、それらは常に変化している」ということだけ注意しておけば、いらぬいざこざを減らすことができる、、、かもしれない。
身の回りの人たち含めて、色々聞いてて思うのが、やばい上司とか駄目な上司とか、つっこみどころおおすぎる新人とか、基本男性なんだよね。
もちろんまともな人の方が多いよ。多いんだけど。
そもそも言葉が通じない、感情的、拗ねて不貞腐れる、どんだけ話しても論理が通じなくてやばい、って男に見られる傾向。
よく家とか私的領域では、女がやりがちと言われる特徴を、会社だと男がよくやってるのを見る。
一番特徴的なのに「少し前まで自分が言っていたことと違うことを、ずっと言ってたみたいに言い出して、もともといってた人を攻め立てる」ってのがあって、
これやっちゃう人がちょこちょこ見られる。
なんていうか、因果関係もよく理解できてないというか、自分がおかしなことをしゃべっている自覚もないので、どれだけ言い聞かせてもどうにもならない、という。
理屈が本当に通じない。
で、問題起こしまくって、同じチームが敵だらけになっては、辞めていき、そして定期的にまた別の人が入ってくる。
女性の場合、妙にさぼりが上手くて仕事量はぐらかす人とか、噂話が下世話すぎる人、とかは結構聞くんだけど、致命的に言葉が通じない案件抱えてる人、って会社では見かけない。
必然的に「仕事がマジで出来ない人。むしろぐちゃぐちゃにするから、いない方がスムーズ」みたいな人は男にばっかりいる。
(噂話で人間関係ひっかきまわして、婉曲的にモチベ下げちゃう女性とかはいるんだけど、本人の仕事自体はしっかりしてたりね)
これはまぁ、もともと職場に女性が少ないから、どうしても男の方がアレなのが混ざる、女のが優秀な人しか残らないせいなだけ。って思ってた。
ただ「昨今は無能でもなんでも、無理に数あわせで女を増やそうとするから、職場に問題が起こるんだ」と言う人がいて、それを聞いて考えが改まった。
無理矢理数あわせで入れた女性と、その女性に席を譲らされた男性、という比較なら、別に女だけが上澄み掬っているせいではない、ということになる。
数合わせでも女のが論理的でまともな人が多いなら、そりゃ根本的に性差で能力が違う、って話になる。
どうしたもんだか、と頭抱えてる。
http://masudamaster.hatenablog.jp/entry/2014/01/09/215828
より転載
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20140105/1388933903
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20140109/p1
お笑いである。次は「アフィリエイトは悪くない」運動でも始めるのだろうか?
金銭欲そのものを叩いてる人は残念?
が
「業者」と「ワナビー」
というゴキブリをネットに繁殖させた歴史をまるで知らないのだろうか?
他人がアイドルやタレントになる手助けを何で我々がしなければならないのだ。
他人の金儲けを何で我々が手伝わなければならないのだ。我々はお前らの戯言や
自己実現よりも、人々の好きなもの、人々の日常でのささいな幸せ、彼らの黒歴史や
日々の苦しみ、葛藤、悩み、その人が現実では言えないこと、そういうものを
読みたいのだ。それをアフィリエイトと承認欲求なんかで見えなくされてたまるか。
であって、「俺の方が上手くやれる」「褒められてるあいつが妬ましい」
なんて動機は一切無い。それがあるのは健常者(ワナビー)の方だろ。
ツイッター登場以降に急激に増えやがったよな。
「中二病」「ドヤ顔」とかも健常者が意味をねじ曲げたり作り上げたりした
言葉だろ。妖怪は中二病もドヤ顔も大好きだよ。それを表現したり摂取したりして
俺たちはネットで生きてたんだ。それがネットでどんどんできなくなっていった
のは、スカした健常者のせいだろ。
健常者は自縄自縛になってるんだよ。自分たちでワナビーをいっぱい作り出して
おいて、ていうかお前がワナビーなのに
「人を妬むのは止めよう」「承認欲求は悪くない」
じゃねーよ。マッチポンプだろ。お前らはネットで妬み嫉みしかできないんだよ。
インターネットで「何者か」になりたいのか?ネットでそんなもんになってどうすん
だよ。その限界はニコニコ動画のタレントが見せてくれてるだろ。
「何者か」になりたい野心を持った健常者が大量にやって来たからインターネットに
わけのわからん競争原理が生まれたんだよ。そんでカーストも生まれた。属人性や
パーソナリティが重要視されるようになった。サードブロガーとかもそれの被害者
だろ。
「ぼくはアルファブロガーに勝てない」じゃねーよ。誰がそんなこと決めたんだよ。
勝てるかもしれないじゃん。自分を値踏みするな。好きなことを書けよ。
「さとりブロガー」じゃねーよ。そんなこと言ってる時点で悟れてねーだろ。
これはさ、健常者たち自身の生み出した毒で健常者たちが苦しんでるだけなんだよ。
表現欲求は無いのに承認欲求だけはあるんだろ?だから毒がどんどん染み出して
いく。そういう毒でネットが汚れるんだよ。一般化する前の2ちゃんねらーの観察眼
とはまた一味違う、いやらしい、人間の観察の仕方。小野ほりでいとかが生まれたの
もそういう背景からだよ。他人の自意識を邪推したりカーストを作ったりしてる。
そんなことをして何が面白いんだよ。そんなことをするから、誰も自分の本心を
語らなくなったんじゃねーか。今や本心(?)を語るのは炎上上等の芸人と
デリカシーの無いタイプの女だけになっちまった。しかも彼女たちはオブラートに包
夫に話すと「愚痴」が「悪口」になっている
これが良い例だよ。こんな意識でブログ書いてるんだよ。読む人の心にナイフ
グサグサ刺してるんだよ。
「承認欲求(笑)」「歌い手(笑)」「創作(笑)」「黒歴史(笑)」みたいな茶々入れが、クリエイターにどれくらい悪影響なのかそのうち語りたい。”そんなの気にすんなよ”ってアドバイスじゃ片付けられない何かがあると思う。中学の英語の授業で、発音が正しいと茶化されるみたいなのに似てる。
@私がui_nyanだ
全部お前らがやって来たことなの。ワナビーを増やしておいて(競争原理を取り入れて
おいて、)「茶々入れが増えた」じゃねーよ。ワナビーが増えたからカーストが生まれ
俺たち妖怪は他人の英語の発音が巻き舌でも馬鹿にしなかった。議論を「くさい」
とか言って忌避しなかった。俺たちは本気とネタを見極めた。俺たちに上昇志向なん
かなかった。俺たちは何者にもなろうとしてなかった。
でも俺たちもゼロ年代の終わりと共に絶滅したんだ。今や俺や嫌儲が最後の砦だよ。
でも俺たちもいずれ滅び行く。そうすりゃカースト作りと自意識邪推の上手い
健常者が今よりもっと幅を利かす。でもさ、そういう世界で一体誰が何かを本気で
語ろうと思うんだよ?インターネットからどんどん(ポジティブな)熱が消えて行って
るのはどんな鈍感な奴だって気づいてるはずだ。当たり前だ。金銭欲や承認欲求は
人を自由にさせない。タレント志望や金の亡者が世界を面白くできるか?
「承認欲求を叩くのはけしからん」とか言ってるお前の存在が、いちばん人の言論を
スポイルしてんだよ。
というかさ、そもそも承認欲求なんて私的領域で満たすものだろ。ピングドラムも
そういう話だ。家族や親友関係の中で傷ついたり喪失したり葛藤したり、そういう
それを公的領域(社会)で誰かに認められて云々というワナビーの話にすり替える
ありむーが「ニコニコ動画ごときで満たされるカジュアルな承認欲求など要らぬ」
と言ったのは至極正しい。ニコニコ動画を馬鹿にしてるわけじゃない。MMD杯には
いつも感動してるし、今でも探せば、お金や承認欲求なんかに関係なく、
ただ「自分のやりたいこと」を本気でやってる人は山ほどいる。そういう作品を
見たり作ったりする営みは、作り手も視聴者もすごく満たされると思う。でも
それは「承認欲求」が満たされてるんじゃなくて、もっと別な何かである気がするん
だ。
つまり、創作や表現で「承認欲求」を満たすことが目的の人って決定的に何かが間
違ってるんじゃない?という疑問が拭えない。
そんな疑問だらけの欲求、いや欲望と言おう。その欲望でネットをこれ以上汚すのは