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はてなキーワード: 公的領域とは

2023-01-13

リベラル界隈ってこれまで自身公的領域炎上したことほとんどなく経験が浅すぎるから

炎上の際に延焼する最悪手である公表後の改ざんを平気でやっちゃうんだな。

自分らの行動で学べなかった愚か者集団

2022-09-23

自由恋愛「全振り」のマッチングサービスを作る

ここ数日、増田ルッキズム話題が席巻した。

私も興味深く読んでいたのだけど、最終的な結論としては元増田に似た考えに落ち着いた。

選択は、あまねくすべての動物で行われてる本能に基づいた自然行為だ。

から、美しさに惹かれる気持ち制限すべきじゃない。多様な美の価値観を打ち出していくべき。

現状のマッチングサービスの中には男性身長フィルタリングできる仕組みもあるらしい。

嘆かわしいこととして、はてブでは批判されていた。

自由恋愛、知らんの?

公的領域でのルッキズムによる選別は問題だが、私的領域では性選択の一つに過ぎない。

むかしから言うだろう、誰が誰を好きになってもいいんだよ、と。

辞書的な定義にこだわるなら確かに差別なのかも知れないが、それは言うなれば仕方のない差別とでも言うべきものだ。

本来恋愛はたとえ差別的な基準であろうと個人自由であるはずだ。

価値観アップデートなどと称して、長い歴史をかけて獲得した自由恋愛権利を手放してはいけない。

ポリコレだの何だの、問題の深くに立ち入らず表面の世間体だけ整えてクリーンさをひけらかす。

そんな正義ファッション流行っているようだけども。

現実で女は、「ルッキズム男性を選んだりはしないよ」と言いつつも「清潔感」を男に求める。

まさかバレてないと思ってる? 狡猾な欺瞞言い逃れしようとしても実態は外見差別そのままだ。

しかし気づいてない純粋無垢な男だけが泣きを見る。

そういう暗黙知文化みたいなの、そろそろ終わりにしませんか。社会に誠実さを取り戻そうよ。

私には計画がある。

人間の本性から目を背けず、本当の自由恋愛謳歌するための仕組みを作りたい。

あらゆるルッキズム的に禁忌とされがちなパラメータ入力させて、好みに合った異性を「何人でも」ストックしておけるような。

身長だけでなく体重スリーサイズ巨乳だとか貧乳だとか、猫っぽい顔とかタヌキ顔とか馬面とか、果てはペニスサイズまで、何でも入力可能にする。

本当の意味自由に好みの相手を選べるサービスを打ち出そう。真に多様な美しさの基準を打ち立てるために力を尽くそうと思う。過保護ポリコレを捨て、恋愛自由さに全振りしたマッチングサービス・・・「男牧場・女牧場(仮」というのを考えています

2022-09-22

anond:20220921225641

新婦に惹かれた理由オッパイでした」って言ってる奴いねーだろ。

披露宴とかの馴れ初めの説明でさ。

いまの空気感とかじゃなくて 昔からそうだったの。

公の場では、ルッキズムによる人間の選別はアウトっつー暗黙の了解があったんだよ。

だって当たり前だろ。差別なんだから

ただ、誰も私的領域には踏み込もうとしなかっただけ。オッパイで選びましたって明言してないなら恋人巨乳からって彼氏差別者とは決め付けられないからな。

でも今回、増田婚活で男だけ身長記入がある事実暴露したことで、話が進展した。

建前さえ守られてねー クソみてえな現状をな!!

追記

にしても、毎度のことながら、男性側の被害糾弾で話が進むのは皮肉だな。

フェミニズムやら反差別主義やら何やらがいくら思想をこねくり回しても、被害が明るみに出るまでは結局進まなかったってのと。やっぱり男性が声を上げるまで動かないんだ… ってのと。

別のところでトップになってる「公的領域私的領域を切り分けよう」ってのが今までの通常運転からはてブ増田も十年前から、その分水嶺を越えなかったんだよ。頑として私的領域については口を閉ざしてた。それが昨日、奇跡的にチョットだけ動いた。ボンクラどもが真実を認めた。

理屈だけで言えば、黒人だけパーティに誘わないとか、ロシア人クラスメイトだけハブにする、とかが差別じゃないかどーかを考えれば自ずと答えは出るだろ。私的領域差別フリーじゃねーだろーが。

2021-09-07

近い将来、既婚者差別が始まるだろう

https://ta-nishi.hatenablog.com/entry/2021/09/05/224050

記事を読んだ。

この記事に書かれているいくつかの点は私(20代男)の実体験と一致しない。

要約すると非モテ私的領域公的領域で辛さがある、といった書かれ方をしている。

私的領域では

・周囲から馬鹿にされる

自分が無価値人間と感じられる

と書かれているが、私の周りの同世代のことを考えると彼女がいる人自体レアなので馬鹿にされることはほとんどない。

会社の先輩などと酒の席で自虐的に「彼女できないんですよね~」みたいな話をすることはあるが、先輩の方も世の中彼女がいるような人ばかりではないことは分かっているのでそれについてしつこくどうこう言ってくることはない。

夜になると寂しさを感じることはあるが、朝起きれば忘れることだ。

記事では公的領域での独身者差別を憂いているが、私の想像では

これから表面化してくるのは公的領域で、既婚者の立場が悪くなることなのではないかと思う。

昨今の未婚率の上昇で社会の中での非婚者の割合が増加してくる。

すると選挙権関係社会の中で子育て支援などの政策は通らなくなり、企業でも既婚者向けの社宅の廃止扶養手当の廃止などが議論に上ってくるだろう。

「なぜ独身者が稼いだリソースを既婚者という特定属性の人たちに分配する必要があるのか」という当然の疑問が湧いてくる。

幸せという資産を手にした上に独身者から財産まで巻き上げていく。

そんなことが今後も許されるのであろうか。

子育てパパが話題になる中、出世の面でも仕事にフルコミットできる独身者に対して既婚者は劣位に置かれ、発言力が弱まっていく。

子供がいないと社会が維持できない。

それを誰もが分かっていても公の場でそれを口にすることはできなくなる。

みんなが自分だけのために働き、楽しみ、死んでいく。

回り始めた歯車はもとに戻らないのではないか

2021-08-25

フェミサイドに関するメモ

EU文書フェミサイド定義を書いていると言っている人がいるので、そのメモを書いておく。

まず話に上げられていたフェミサイド定義が書いてあるとされる文書こちらのこの箇所。

Official Journal of the European Union/ISSN 1725-2423/C 227 E/Volume 51 4 September 2008/149page/E.

URL:https://eur-lex.europa.eu/legal-content/EN/TXT/PDF/?uri=OJ:C:2008:227E:FULL&from=EN

抜粋したもの

“E. whereas the term feminicide emanates from the definition of violence against women which is laid down in Article 1 of the Convention of Belém do Pará as follows: any act or conduct, based on gender, which causes death or physical, sexual or psychological harm or suffering to women, whether in the public or the private sphere; whereas the punishment and eradication of feminicide is an obligation and must be a priority for any state based on the rule of law,”

↑を翻訳したもの

“E. フェミニサイドという用語は、ベレン・ド・パラ条約第1条に規定されている「女性に対する暴力」の定義に由来するものであるが、その定義は次のとおりである。すなわち、性別に基づき、公的領域である私的領域であるかを問わず女性に死または身体的、性的心理的危害苦痛を与えるあらゆる行為または行動である。”

ベレン・ド・パラ条約第1条を引用していることがわかる。

ベレン・ド・パラ条約はここに載っている。

URL:https://www.wikigender.org/wiki/convention-of-belem-do-para/

↑を翻訳したもの

ベレン・ド・パラのコンベンション

女性に対する暴力の防止、処罰及び根絶に関する米州条約

1994年6月9日採択

所在地 ブラジルベレン・ド・パラ

エントリー 1995年3月5日

条件 第二次批准書の寄託から13日目

パーティ 32 (全リスト)

預託先 米州機構事務局(General Secretariat of Organisation of American States

女性に対する暴力の防止、処罰及び根絶に関する米州条約通称ベレン・ド・パラ条約)[1]は、米州機構OAS)内で締結された国際人権文書であり、米州において女性権利保護擁護するためのメカニズム確立し、公私を問わず女性身体的、性的心理的な完全性に対する暴力と闘うことを求めている。

この条約は、1994年6月9日ブラジルパラー州州都ベレンで開催されたOAS24回総会で採択され、1995年3月5日に発効しました。2012年8月現在OAS加盟国35カ国のうち32カ国が批准していますカナダキューバアメリカ合衆国男女共同参画は未加盟)。90年代半ばにベレン・ド・パラの条約が採択され、広く批准されたことは、女性権利を守るための闘いにおける画期的出来事です。特に、この条約は半球の人権に関する他のどの条約よりも多くの批准を得ており[2]、女性に対する暴力問題を具体的に取り上げた歴史上初めての条約です。[3)条約の遵守を監督する機関は、OAS機関である米州人権委員会(IACHR)と米州人権裁判所である

目次を見る

1 背景

2 実質的規定

2.1 定義保護される権利

2.2 各国の義務

3 米州における保護の仕組み

3.1 ベレン・ド・パラの条約に見られるメカニズム

3.2 条約実施フォローアップするメカニズム(MESECVI

4 参考資料

5 参照

6 外部リンク

7 フィードバック

背景

ベレン・ド・パラ条約は、米州女性委員会(Comisión Interamericana de Mujeres:CIM)によって起草されました。1928年設立されたCIMは、女性人権認識保証するために設立された最初政府機関であり、OAS内の各加盟国代表者を置き、アメリカ大陸における女性権利ジェンダー平等について議論し、政策策定する主要なフォーラムとなっている[4][5]。

条約はその前文で、女性に対する暴力は「女性男性の間の歴史的に不平等な力関係の表れである」と述べ、すべての女性暴力から自由である権利には、あらゆる形態差別から自由である権利も含まれると認識しています。これは、女性に対する暴力問題の深刻さ、女性歴史的に受けてきた差別との関連性、そして暴力を防止し、罰し、撤廃するための包括的戦略採用する必要性について、アメリカ大陸全体で感じられている一様な関心を反映しています[6]。 この条約のもうひとつの注目すべき質は、米州人権システムの他の文書に含まれ規範創造的に組み合わせることで条約の強度を高めることができるという意味で、国連宣言提供する領域を超える広範な戦略執行メカニズム提供していることです[7]。

実際、2011年欧州評議会CoE)で「女性に対する暴力及び家庭内暴力の防止及び対策に関する条約」が採択されるまで[8]、ベレン・ド・パラの条約は、女性に対する暴力問題を具体的に取り上げた世界で唯一の国際条約でした。

しかし、2004年アムネスティ・インターナショナルが指摘したように、この条約女性に対する暴力の根絶に向けた国際的コミットメントであり、アメリカ大陸で広く批准されているにもかかわらず、条約採択から10年経っても、この地域女性に対する暴力行為は根絶されたとは言い難い状況にあります[2]。

実質的規定

定義保護される権利

ベレン・ド・パラ条約の第1章は「定義および適用範囲」と題され、女性に対する暴力を「性別に基づいて、公的領域である私的領域であるかを問わず女性に死または身体的、性的心理的危害苦痛を与える行為または行動」と定義し(第1条)、身体的、性的心理的暴力を含むと理解されています(第2条)。保護される権利」と題された第2章では、「すべての女性は、暴力から自由である権利を有する」(第3条)--あらゆる形態差別から自由であり、女性劣等感または従属感の概念に基づく固定的な行動様式および社会的文化的慣行から解放されて評価され、教育を受ける権利を含む(第6条)--、および「地域的および国際的人権文書に具現化されているすべての人権および自由承認し、享受し、行使し、および保護する権利」(第4条)を定めています締約国は、女性に対する暴力が、女性市民的、政治的経済的社会的および文化的権利自由かつ完全な行使を妨げ、無効にすることを認識する(第5条)。

国家義務

第3章では、この章のタイトルに沿って、「国家義務」を概説し、必要国内法や行政機構の導入に特に重点を置いて、「あらゆる適切な手段により、遅滞なく、このような暴力を防止し、処罰し、根絶するための政策を追求する」ことを締約国義務としています(第7条)。しかし、それだけではありません。続いて、プログラムを含む「漸進的に具体的な措置を講じる」という締約国義務概要定義が述べられています

a. 女性権利についての認識と遵守を促進すること。

b. 教育プログラムを通じて、男女の社会的文化的な行動パターン偏見、男女の劣等感優越感の考え方に基づく慣習や固定観念修正すること。

c. 司法行政に携わるすべての人々、特に警察官やその他の法執行官の教育・訓練を促進する。

d. 暴力を受けた女性に対し、シェルターカウンセリングサービス被害を受けた子どもケア保護を含む適切な特別サービスを、公的機関および民間機関を通じて提供すること。

e. 教育を通じて、女性に対する暴力問題とその救済策に関する認識を促進すること。

f. 暴力を受けた女性が、公的私的社会的生活に完全に参加できるように、効果的な再適応プログラムや訓練プログラムへのアクセス提供すること。

g. あらゆる形態女性に対する暴力の根絶に貢献し、女性尊厳尊重を強化するために、メディアが適切なガイドライン作成することを奨励すること。

h. 女性に対する暴力を防止し、処罰し、根絶するための措置有効性を評価し、必要な変更を策定し、実施するために、女性に対する暴力の原因、結果、頻度に関連する調査および統計その他の関連情報収集を確保すること。

i. アイデア経験の交換、および暴力さらされている女性保護目的としたプログラムの実行のための国際協力を促進すること(第8条)。

これらの措置採用するにあたり、締約国は、特に人種民族的背景、または移民難民避難民としての地位理由とする女性暴力に対する脆弱性、および妊娠中に暴力を受けた女性障害者未成年者、高齢者社会経済的に不利な立場にある女性武力紛争の影響を受けた女性自由を奪われた女性脆弱性特別考慮することが求められている(第9条)。

米州における保護の仕組み

締約国条約に基づく義務を確実に果たすために、特定保護メカニズムが設けられている。すなわち、(1)ベレン・ド・パラの条約自体に見られるメカニズム、(2)2004年に別個の法律によって創設された「条約実施フォローアップするメカニズム」(MESECVI)と呼ばれる追加メカニズムです。

ベレン・ド・パラの条約に見られるメカニズム

ベレン・ド・パラ条約の第4章「米州保護メカニズム」に基づき、各国が条約を採択または批准すると、OASはこの引き受けた義務を、人権の促進と保護に関する2つの活動分野で監督します。1)米州女性委員会(CIM)、2)米州人権委員会(IACHR)と米州人権裁判所構成される米州システム

CIMの監督役割は、2年ごとに発行される定期報告書[9]を通じて、「女性に対する暴力を防止及び禁止するために採用された措置、並びに暴力の影響を受けた女性支援するために採用された措置、並びにこれらの措置適用する際に観察されるあらゆる困難、及び女性に対する暴力の要因」(第10条)をCIMに更新する締約国条約上の義務の結果である。このような報告書に基づいて、CIMは、そのマンデート目的に沿って、女性権利ジェンダー平等の分野で政策策定し、締約国勧告を行うことができます[10]。

米州システム監督機能には2つの側面がある。第一に、このような機能は、締約国およびCIMが条約解釈に関して米州裁判所勧告意見を求めることができる限り、米州裁判所能力の下にある(第11条)。第二に、このような機能は、締約国条約第7条で定められた義務違反しているという苦情を受け取り、送信する権限を有する限りにおいて、米州機構能力に該当する。このような苦情は、OASの1つまたは複数の国で法的に認められた個人グループ、または非政府組織が提出することができます。「米州人権委員会は、米州人権条約および米州人権委員会請願書の提出および検討に関する規約および規則によって定められた規範および手続きに従って、かかる主張を検討するものとする」(第12条)。

司法国際法センター(CEJIL)が2006年に発表したポジション・ペーパー[3]によると、条約の発効以来、CIMは条約に基づく締約国報告書を受け取っていたが、限られた資源報告書に関する十分な議論の欠如、報告書独立した検証と詳細な評価不実施などの理由により、条約から生じる国家義務に対するフォローアップの影響は制限されていたという。この論文では、ベレン・ド・パラ条約の採択は、IACHRの機能に属する苦情処理手続きに関しても、最初10年間でIACHRに提出された事例の数が限られていたこと、IACHR事務局長のリソース不足、米州システム機関構成などの理由から、期待されたほどの影響を与えなかったと述べている。以上のことから、CIMとIACHRは、その任務遂行し、ベレン・ド・パラの条約批准した多数のOAS諸国が引き受けた公約の実現に貢献する上で、大きな困難を抱えていました。

このことは、条約発効後5年以内にCIMが調査を行い、条約目的が達成されていないことが明らかになったこから[11]、ベレン・ド・パラ条約フォローアップ・メカニズム設立必要措置を講じることが委任された。

条約実施フォローアップするためのメカニズム(MESECVI

2004年10月26日、OAS事務総長締約国会議招集した際に、ベレン・ド・パラ条約実施フォローアップ機構(MESECVI)の規約承認されました[12]。 MESECVIは、条約目的達成に向けた進捗状況を検証するための、独立したコンセンサスベースシステムです。MESECVIは、条約地域への影響、女性に対する暴力の防止・処罰・根絶における締約国の成果、関連する公共政策実施における既存課題検証するために、条約締約国専門家委員会(CEVI)との間で経験技術協力を交換する場を通じて、体系的かつ継続的評価を行うための方法論を提供しています[13]。”

↑のベレン・ド・パラ条約は”女性に対する暴力”の定義であって、フェミサイド定義ではない。

また、”Official Journal of the European Union/ISSN 1725-2423/C 227 E/Volume 51 4 September 2008/149page/E.”はフェミサイド定義説明しているのではなく、ベレン・ド・パラ条約第1条を引用して”女性に対する暴力”にフェミサイドも含まれるということを書いている。

さらに、”Official Journal of the European Union/ISSN 1725-2423/C 227 E/Volume 51 4 September 2008”の中でもフェミニサイドとされているのは女性殺人事件のみである

2019-08-14

TPOによって許容される差別と許容されない差別があるだろう?

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1388610

ここのブコメ見てて思ったんだけど、「刺青を入れた男と娘の結婚は認めたくない」ことを会いもせず判断するのは刺青に対する差別だ、

差別はいけないので少なくとも一度は会って人となりを判断すべきだっていう意見もちらほらあるみたいなんだけどさ、

いやこれは当然に差別なんだが、絶対に許されない類の差別ではないと思うんだよな。

というのはさ、人間活動には公的領域私的領域があって、それがグラデーションで繋がっているもんだと思うんだけどさ、

公的領域に近い所での差別ほど許されず、私的領域に近いほど差別は許されるって持論があるんだよな。

例えば役所手続きなんかは完全に公的領域で、刺青を入れているからって役所手続き受理されないなんてことはあってはならないし、

逆に人の内心は完全に私的領域で、外にさえ出さなければどんなクソみたいな差別をしても許されるだろう。

民間企業活動もかなり公的領域寄りだから刺青がある客がプールなどから排除されるのは差別ではあるし許容されるかは議論がいるだろう。

一方で刺青の客がいることで他の客が不快に思うことは差別ではあるが許容されるものになるだろう。(不快であるからといって排除することが許されるかは別)

さて、「刺青の男を娘の結婚相手にしたくないので反対する」、というのはかなり私的領域に近い所での差別ではないだろうか。

例えば「自分刺青入りの人と結婚したくないのでしない」という差別は完全に私的領域にあるために許されるものだろう。

これが「刺青入りの男が近所に越してきたが、不快なので地域コミュニティから排除する」になると公的領域に近くなって許されない差別になってくるだろう。

自分の身内にどのような属性を入れたいか、入れたくないか」というのは個人主義が拡大している昨今でもまだかなり私的領域を占めると考えるのが妥当だろう。

反対のあまり娘の結婚を何らかの実力行使で止めるのは差別なり自由権侵害問題があるだろうけど、単に会う前から反対するっていうのは差別ではあるが許容されるものだと個人的には思うね。

2018-03-04

エロマンガ先生』論:度重なる奇妙さとその正体について

※おれは原作を読んでおらず、アニメを全話視聴しただけ、つまり原作三巻までの内容しか知らない。
※『エロマンガ先生』という表記は、原作ではなくアニメ作品を指す。

この論考もどきの楽な読み方について

結論は最終項「みんな家族になりたい」に書いているんで、各項の見出しだけを読んでから最終項を読むのが最短ルートだ。

もちろん、全部読んでくれることにこしたことはないけれど、どこのだれが書いたかからない約6000字の論考もどきに付き合ってくれる人はまれだろうから全部読んでくれた人にはすごく感激しちゃうマジで


ラブコメ発生装置として学校を使わない=もう学校はいらない

エロマンガ先生』にはいくつも奇妙なところがある。中高生なのに小説家イラストレーターとして第一線で活躍しているのが奇妙だというのではない。現代日本舞台にした中高生ラブコメなのに「学校」がラブコメ発生装置として使われず、それどころか学校がほぼ出てこないのが奇妙な点のひとつだ。

エロマンガ先生』は「家」が舞台の中心であり、方向性でもある。これは長編ラブコメとしてはめずらしい。

1~8話、12話は和泉家、9話10話はエルフ大先生の別荘(家の延長)が舞台になる。出版社はたまに出てくる程度なのでラブコメ発生装置として機能しているとはいえない。

まりこれは、もう学校はいらないという宣言をしているということだ。

まったくもって小説家小説ではない

原作小説家小説家について書いている小説家小説だ。しかし『エロマンガ先生』は小説家小説として奇妙だ。

通常の小説家小説には、小説家あるある小説への熱意・展望愚痴小説論、作者自身体験談らしきもの、などが書かれるものなんだけれど、『エロマンガ先生』にはいっさいそういったことが出てこず、歯の浮くような理想論しか語られない(あんなことを本気で思っている小説家はいない)。また、さまざまなライトノベルが出てくるけれど、どれも超有名どころばかりだ。ふつうもっと自分の好みを推したり、もっとマニアック作品をあげたりするものだけれど、そういったことをいっさいやらない。

以上の二点からエロマンガ先生』は、本来的な意味小説家小説をやる気がないとわかる。

ストーリー人間関係は「小説小説」にたくし、恋愛はおいしいところだけを抽出する

では、なんのために小説家小説の枠組みを利用しているのか。それは話を二層仕立てにするためだ。

第一層目は、「小説小説」(作中でキャラたちが書いた小説)を媒介とした人間関係の構築とストーリーの起伏だ。

まず、疎遠気味だった正宗と沙霧をつないでくれたのは「小説小説」だ。正宗は、沙霧のために最高の妹萌えを目指して「小説」を書き、沙霧はその「小説」のためにイラストを描くという関係になっていく。

エルフ大先生、ムラマサ先輩とも「小説小説」によって関係が構築されている。正宗エルフ大先生の「小説」のファンだということでふたりは仲良くなるし、ムラマサ先輩にいたっては正宗の「小説」がこの世で一番おもしろいとまで言い、かなり積極的正宗アプローチをかけていく。

すべては「小説小説」でつながっている。

正宗が沙霧に告白するきっかけをつくったのも「小説小説」だし、ラノベ天下一武道会なんていう「小説小説」どうしの闘いがあったりするし、ムラマサ先輩が敵意を向けていたのは正宗本人ではなく正宗の新作「小説」だし、エルフ大先生の別荘で合宿をすることになるのも「小説小説」が根っこにある。

ストーリーの起伏は「小説小説」に依るところがとても大きい。

第二層目は、おいしいところだけを抽出した甘々な恋愛要素だ。

ふつうラブコメでは、主人公ヒロインとの関係性(恋愛要素)でストーリーの起伏をつくっていくため、ときには喧嘩をしたり、すれ違いがあったりとマイナス方向に話をもっていく必要もある。

エロマンガ先生場合は「小説小説」がストーリーの起伏を担当してくれるから恋愛要素で起伏をつくる必要がない。その結果、超ウェルメイドで、甘々な恋愛のみを抽出することに成功している。マイナス方向の恋愛要素がなにもないのにラブコメとして成立している。これはすごい

男女間の摩擦のない恋愛描写批判もあるだろうけど、こんなにうまく抽出できている長編作品の例はすくなくともおれは知らない。

やたらと凝っているエロシーン

ふつうラブコメエロシーンというのはおまけ要素だ。風でスカートがめくれて女の子パンツが見えて「ムフ」となったり(ラッキースケベ)、露天風呂ヒロインたちが「***ちゃんの胸大きい~」と会話していたり(サービスカット)、というものだ。

エロマンガ先生』のエロシーンは格がちがう。『エロマンガ先生』の場合エロシーンも「本編」であり、ストーリーの進行を補助していく。

たとえば、一話を思い返してほしい。エロマンガ先生の生配信を見ていた正宗エロマンガ先生が妹であることに気づき配信を切らずに着替えようとしているエロマンガ先生をドアを叩いて全力で止め、ネット上に妹の裸を晒すことなく済んだというシーンがあった。これはラッキースケベの応用で、一話でもっと重要なシーンだ。

三話の冒頭では、となりの無人洋館からピアノの音が聴こえてきて、もしかするとオバケかもしれないと怖がる沙霧の頼みで、正宗がとなりへようすを見にいくと知り合いの少女作家が裸でピアノを弾いていたというシーンがあった。これもラッキースケベだ。エルフ大先生名誉のためにも念を押しておくと、あれはエロシーンだ。エロと同時に話もすすむ。

このように『エロマンガ先生』のエロシーンは、ハプニングというかたちでストーリーの展開を補助する役割果たしている。これに加えサービスカット豊富だ。というかエロシーン・サービスカットのない回がなく、ものすごいサービス精神でもって甘々な恋愛を強化していく。

エロマンガ先生構造をまとめるとこうなる。

一般的な学園ラブコメの一例

学校――人間関係の発生―→恋愛要素(人間関係ストーリーサービス)←―サービスを強化――エロ

エロマンガ先生場合

【第二層】恋愛要素(サービス)←――――――――サービスを強化―――┐

      ↑                           │

     サービスを強化                      │

      │                           │

第一層】小説小説人間関係ストーリー)←―ストーリーを補助――エロ

学校は出てこないのに制服ちゃんと出てくる

あと、これはおまけ程度の話なんだけれど、この作品学校のシーンはほぼないのにヒロインがわざわざ制服を着て、主人公に見せにくるという奇妙なシーンがある。それも二回も。

普段は見られない、エルフ大先生とムラマサ先輩の制服姿が拝めるのはいい。けれど、ふつうだったら学校帰りという設定にでもしておけばいいのに、ヒロインふたり共に「男って制服が好きなんでしょう?だからあなたのために着てきてあげたんだよ」というふうなことを言わせる。

とても奇妙なシーンだけれど、つまりこれは、もう学校はいらないと宣言したけれど、学校生活の面倒くさいところを取り除いた女子象徴としての「制服萌え」は残っている、ということだ。

ここまでの話を三行でまとめる

エロマンガ先生』とは!?
学校なんていう公的領域は信じられない!!
信じられるのは己の仕事と、楽しい恋愛描写オナニーのためのエロネタ制服萌えだ!!というアニメ

でも、もうちょっとだけ、おれの話はつづくんだ……。

幼なじみキャラのあまり空気感山田エルフのお隣さん感のなさ

学校もいらないけど、「となり近所」もたいして重要じゃない。

智恵という幼なじみキャラがいる。この幼なじみほとんど活躍しない。「お嫁さんになってもいいよ」みたいなことを言うけれど、目立った活躍はそれくらいで、あとは正宗ラノベ談義に花を咲かせているだけだ。

また、エルフ大先生にお隣さんの感じがないことも気になる。お隣さんの感じがない理由はさまざまだ。初登場時にお隣さんではないこと、お隣さんらしい活躍を見せるのが三話から五話前半までの短い期間だけだということ、お隣さんのテンプレートをこなしていないこと(たとえば、朝起こしにくるとか、両親公認の仲になっているとか、いっしょに登校するとか)などが挙げられる。

幼なじみもお隣さんもさほど有効につかわれない。つまり、「となり近所」という公的領域重要ではないということだ。

みんな「家族」になりたい

学校」「となり近所」といった公的領域重要ではない。では、『エロマンガ先生』のキャラたちは、なにを支えに生きているのだろうか。みんな我が強いし、仕事成功しているから、自分ひとりの力で自立しているように見える。けれどそうではない。ましてや恋愛至上主義者の集まりでもない。

第八話「夢見る紗霧と夏花火」の終盤、こういうやりとりがある。

正宗打ち上げ、楽しかたか?」

沙霧「ふつう……」

正宗「この家にみんなが集まってくれてさ、みんなで同じもの食べていろんなこと話して、おれはすげえ楽しかった。その分みんなが帰ったらシンとしちまったな」

沙霧「兄さん、寂しかったの? あのとき電話、なんだかおかしかったから……」

正宗そうかもしれない。おれはね、ひとりでいるのが怖いんだ。おれの実の母親な、おれがひとりで留守番してるとき事故にあって帰ってこなかった。だから新しい家族ができて嬉しかった。情けないよな」

花火の上がる音)

沙霧「やっとわかった。兄さんは家族がほしいんだ」

正宗「うん、おれは家族がほしい」

沙霧「私は兄さんを家族だなんて思ってなかったし、兄さんの妹になんてなりたくない。でも、しょうがいから、ちょっとだけ妹のふりをしてあげる」

おれが『エロマンガ先生』のなかでいちばん好きなシーンだ。でも、いい話だというだけではなく、とても重要なことを言っている。

正宗は沙霧と「家族」になりたい。そして、沙霧も正宗「家族」になりたい。でも、いまふたり「家族」ではない。

複雑な家庭事情の結果、一軒家にふたりきりになってしまった正宗と沙霧が、どうやって家族になるか。それは第四話「エロマンガ先生」の終盤で提示されている。

正宗「なあ紗霧、おれにも夢ができたぞ。おれはこの原稿を本にする。たくさんの人たちをおもしろがらせて、バンバン人気が出て、楽勝で自立できるくらいお金も稼いで、そんでもってアニメ化だ!」

沙霧「それが兄さんの夢?」

正宗「ちがうちがう、こんなのは前準備だ。うちのリビングに大きな液晶テレビを買って、豪華なケーキにろうそく立ててさ、おまえを部屋から連れ出して、ふたりアニメを見るんだ。おれが原作で、おまえがイラストを描いた、おれたちのアニメだ」

正宗が熱心に語る「うちのリビングに大きな液晶テレビを買って、豪華なケーキにろうそく立ててさ[……]ふたりアニメを見るんだ。」というのは幸せな家庭のイメージのものだ。そして、「おまえ(沙霧)を部屋から連れ出して」というのは、沙霧の閉じこもり克服=ふたり家族になるための第一歩目という具体的なイメージ正宗はもっていることを示している。

まり正宗ヴィジョンはこうだ。ふたり作家イラストレーターとして協力して仕事成功させる、その成功は「家族になりたい」という夢につながる。
単純化すれば「仕事 → 家族」というヴィジョンだ。 

正宗と沙霧だけではなく、エルフ大先生やムラマサ先輩も家族の夢をもっている。

エルフ大先生は第九話で「結婚」を強調した愛の告白をする。両親がプロポーズをした場所で、両親の幸せ結婚生活イメージを、自分正宗が築くてあろう幸せ結婚生活イメージに重ね合わせる。ただ、父親とは幼いころに死別しているため、その幸せイメージは淡い。

ムラマサ先輩も七話で、正宗に「わたし専属小説家になれ」「印税のすべてをあげてもいい」と言い、後に愛の告白もする。セリフからは「ヒモ」のようなイメージが浮かんでくるけれど、見方を変えれば、世帯主の女が男を養うという家族といえる。

主要キャラはみんな家族の夢を支えに生きている。

ただし、正宗と沙霧が共有している「仕事 → 家族」というとても明確なヴィジョンに比べて、エルフ大先生とムラマサ先輩のもつヴィジョンは不完全だ。エルフ大先生のは曖昧すぎるし、ムラマサ先輩のは一方的すぎる(そもそも無自覚だ)。ついでにいっておくと、智恵(幼なじみ)は「お嫁さんになる」というフワ~ッとしたことしか言えてないので蚊帳の外だ。

ここまでの話で「仕事 → 家族」という考え方はおかしい。「仕事+恋愛 → 結婚 → 家族」と考えるのが常識なのではないかと思う人もいると思う。

率直にいうと、家族をつくるのに恋愛結婚をする必要はかならずしもない。『エロマンガ先生』において恋愛はおまけにすぎない。

前述したとおり、『エロマンガ先生』は小説小説仕事さえあれば人間関係を構築できるし、ストーリーがすすむし、家族の夢に向かって前進することができる。恋愛あくまサービス要素にすぎず、あってもなくても、なにも影響しない。つまり、おまけだ。

エロマンガ先生』における各要素の重要度は「恋愛 < エロ < 仕事 < 家族」というふうになる(学校、となり近所は除外)。

このなかで恋愛はおまけだから簡単に省ける。エロストーリーの補助をしてくれるけれど省こうと思えば省ける。仕事小説小説)はストーリー人間関係などさまざまに絡んでいるので必須だし、家族は最終目標だ。

よって「仕事 → 家族」が成立する。


結論エロマンガ先生』はこういうアニメだ。

家族になりたい」という夢を叶えてくれるのは学校やとなり近所といった公的領域ではないし、家族をつくるために恋愛をする必要はかならずしもない。家族の夢を叶えてくれるのは己の仕事のみであり、その仕事に耐えるために100%甘々な恋愛エロネタ制服萌えといった癒やしが必要だ。

おれは『エロマンガ先生』に共感してしまう。

家族をつくる=(常識で考えれば)結婚する、ということに恋愛はいらないんじゃないかとおれは思っているし、国や会社やとなり近所が直接的に手助けしてくれるわけでもない。会社がしてくれるのはあくま金銭的な補助のみであり、仕事をしていないとその恩恵あやかれない。国はほんとうになにもしてくれない。仕事こそが最重要だ。おれは会社に生かされている。そして日々の辛い業務から離脱すべく、おれはマンガアニメに没頭する……(宗教? 芸術? 知らない子ですね……)。

エロマンガ先生』はこういったおれの(おれたちの、おまえたちの)現実をしっかりと的確に描きつつ、荒唐無稽エロバカアニメを全力でやっているところがすばらしいところだ。

※追記 指摘のあった箇所を修正

2015-05-26

http://anond.hatelabo.jp/20150526162052

そもそも、フェミニストが「個人的なことは政治的なこと」とか言って、それまで私的領域だったもの公的領域に引きずり出してきたのに、

アンチフェミが「そんなら俺がモテないのも政治的なのかよ」と言ったら「そんなの個人的問題でしょ」と突き放したの。

2014-01-11

承認欲求とは 時が震える 月が消えてく 君が何か言おうとしても

http://masudamaster.hatenablog.jp/entry/2014/01/09/215828

より転載



はてなーが「承認欲求は悪くない!」運動を始めたようである

なぜ承認欲求自己愛が問題になるのか?

http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20140105/1388933903

承認欲求のものを叩いている人は「残念」

http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20140109/p1


お笑いである。次は「アフィリエイトは悪くない」運動でも始めるのだろうか?

金銭欲そのものを叩いてる人は残念?


アフィリエイト」と「承認欲求



「業者」と「ワナビー

というゴキブリネット繁殖させた歴史をまるで知らないのだろうか?

我々妖怪がそれを語らないとでも?馬鹿にするな。

他人がアイドルタレントになる手助けを何で我々がしなければならないのだ。

他人の金儲けを何で我々が手伝わなければならないのだ。我々はお前らの戯言や

自己実現よりも、人々の好きなもの、人々の日常でのささいな幸せ、彼らの黒歴史

日々の苦しみ、葛藤、悩み、その人が現実では言えないこと、そういうもの

読みたいのだ。それをアフィリエイト承認欲求なんかで見えなくされてたまるか。


妖怪がヘタクソなカラオケダンス動画を叩くのは

データベースが汚れるから

であって、「俺の方が上手くやれる」「褒められてるあいつが妬ましい」

なんて動機は一切無い。それがあるのは健常者(ワナビー)の方だろ。

ツイッター登場以降に急激に増えやがったよな。


中二病」「ドヤ顔」とかも健常者が意味ねじ曲げたり作り上げたりした

言葉だろ。妖怪中二病ドヤ顔も大好きだよ。それを表現したり摂取したりして

俺たちはネットで生きてたんだ。それがネットでどんどんできなくなっていった

のは、スカした健常者のせいだろ。


健常者は自縄自縛になってるんだよ。自分たちでワナビーをいっぱい作り出して

おいて、ていうかお前がワナビーなのに

「人を妬むのは止めよう」「承認欲求は悪くない」

じゃねーよ。マッチポンプだろ。お前らはネットで妬み嫉みしかできないんだよ。

インターネットで「何者か」になりたいのか?ネットでそんなもんになってどうすん

だよ。その限界ニコニコ動画タレントが見せてくれてるだろ。

「何者か」になりたい野心を持った健常者が大量にやって来たかインターネット

わけのわからん競争原理が生まれたんだよ。そんでカーストも生まれた。属人性

パーソナリティ重要視されるようになった。サードブロガーとかもそれの被害者

だろ。

「ぼくはアルファブロガーに勝てない」じゃねーよ。誰がそんなこと決めたんだよ。

勝てるかもしれないじゃん。自分を値踏みするな。好きなことを書けよ。

「さとりブロガー」じゃねーよ。そんなこと言ってる時点で悟れてねーだろ。

悟った人間ブログなんか誰が読むんだよ。

これはさ、健常者たち自身の生み出した毒で健常者たちが苦しんでるだけなんだよ。

表現欲求は無いのに承認欲求だけはあるんだろ?だから毒がどんどん染み出して

いく。そういう毒でネットが汚れるんだよ。一般化する前の2ちゃんねらーの観察眼

とはまた一味違う、いやらしい、人間の観察の仕方。小野ほりでいとかが生まれたの

もそういう背景からだよ。他人の自意識邪推したりカーストを作ったりしてる。

そんなことをして何が面白いんだよ。そんなことをするから、誰も自分本心

語らなくなったんじゃねーか。今や本心(?)を語るのは炎上上等の芸人

デリカシーの無いタイプの女だけになっちまったしか彼女たちはオブラートに包

むということを知らないから毎度毎度炎上するんだよ。

夫に話すと「愚痴」が「悪口」になっている

これが良い例だよ。こんな意識ブログ書いてるんだよ。読む人の心にナイフ

グサグサ刺してるんだよ。


承認欲求(笑)」「歌い手(笑)」「創作(笑)」「黒歴史(笑)」みたいな茶々入れが、クリエイターにどれくらい悪影響なのかそのうち語りたい。”そんなの気にすんなよ”ってアドバイスじゃ片付けられない何かがあると思う。中学英語の授業で、発音が正しいと茶化されるみたいなのに似てる。

@私がui_nyanだ



全部お前らがやって来たことなの。ワナビーを増やしておいて(競争原理を取り入れて

おいて、)「茶々入れが増えた」じゃねーよ。ワナビーが増えたかカーストが生まれ

て他人の自意識を意地悪に邪推する人間も増えたんじゃねーか。


俺たち妖怪は他人の英語の発音が巻き舌でも馬鹿にしなかった。議論を「くさい」

とか言って忌避しなかった。俺たちは本気とネタを見極めた。俺たちに上昇志向なん

かなかった。俺たちは何者にもなろうとしてなかった。

でも俺たちもゼロ年代の終わりと共に絶滅したんだ。今や俺や嫌儲最後の砦だよ。

でも俺たちもいずれ滅び行く。そうすりゃカースト作りと自意識邪推の上手い

健常者が今よりもっと幅を利かす。でもさ、そういう世界で一体誰が何かを本気で

語ろうと思うんだよ?インターネットからどんどん(ポジティブな)熱が消えて行って

るのはどんな鈍感な奴だって気づいてるはずだ。当たり前だ。金銭欲や承認欲求

人を自由にさせない。タレント志望や金の亡者世界面白くできるか?

承認欲求を叩くのはけしからん」とか言ってるお前の存在が、いちばん人の言論を

スポイルしてんだよ。


というかさ、そもそも承認欲求なんて私的領域で満たすものだろ。ピングドラム

そういう話だ。家族親友関係の中で傷ついたり喪失したり葛藤したり、そういう

少年たちのお話だ。

それを公的領域社会)で誰かに認められて云々というワナビーの話にすり替え

シロクマはオカシイ

ありむーが「ニコニコ動画ときで満たされるカジュアル承認欲求など要らぬ」

と言ったのは至極正しい。ニコニコ動画馬鹿にしてるわけじゃない。MMD杯には

いつも感動してるし、今でも探せば、お金承認欲求なんかに関係なく、

ただ「自分のやりたいこと」を本気でやってる人は山ほどいる。そういう作品を

見たり作ったりする営みは、作り手も視聴者もすごく満たされると思う。でも

それは「承認欲求」が満たされてるんじゃなくて、もっと別な何かである気がするん

だ。

まり創作表現で「承認欲求」を満たすことが目的の人って決定的に何かが間

違ってるんじゃない?という疑問が拭えない。


そんな疑問だらけの欲求、いや欲望と言おう。その欲望でネットをこれ以上汚すのは

さない。承認欲求は金銭欲と同じく、ネット上では忌み嫌われるべきものだ。他者

の口をふさいでしまうような作用のある「自己愛」など私は許容しない。

 
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