はてなキーワード: 怠惰とは
努力しない怠惰な者を想定してないってのもその通りだけど、さらに言えばはっきり物を言えない人を気遣う社会では絶対にないんだよな。
そもそも察する文化がないので全て言葉にしてはっきり物を言って初めて尊重される。
日本でリベラリズム的なことをしようとするとはっきり物を言えない人が大多数なのでどうしたって向こうのリベラリズムとは異質になる。
言葉にして伝えられてないことまで気を遣わないとハラスメントになったりポリコレ的にNGな扱いになってしまう遥かに制約だらけで息苦しい空気が出来上がるわけだ。
日本人が知るアメリカというのは海岸線に近い一部の地域(サンフランシスコとかニューヨークとか)で内陸部のことは知らないことが多いというのは定番ネタだろう
更に言えばネトウヨから出羽守なんて言われている人たちが思想的影響を受けているのは西海岸の一部の地域であることが多いのも定番ネタか
しかしそんな出羽守も実際のところ北米西海岸のリベラリズムをよく理解せず、なんだかんだで日本文化の尺度で北米西海岸のリベラリズムを解釈してはガチ勢にツッコミ入れられてしまうということが繰り返されてきた
何故そのようなことが起きるのか?
理由は単純で北米西海岸のリベラリズムの正体が「努力し続けることによって自分自身を磨き上げ人間レベルを上げようというマッチョな思想」であるということを理解していないからだ
北米西海岸のリベラリズムは個人が置かれている環境の影響によって努力することすらできない者のために努力できる環境を作り上げるということはする
これは言うなれば「スポーツジムが存在しないのであれば高性能なマシンが完備されているスポーツジムを用意する」というやり方であり、当然ながらそのジムでマシンを動かして筋力や心肺機能を高めるのは個人自身の努力によって行われなければ"ならない"のだ
口を開けていれば降ってくる恩恵なんていうものは北米西海岸のリベラリズムからすると資本主義をリードするステイツの敵である共産主義でありアカなのである
一緒に努力しよう!努力するアナタは素晴らしい!より一層努力することでアナタの人生は豊かになる!
四肢が欠損していようが、遺伝子異常を抱えてようが、難病に罹患してようが、アナタ自身が今できる努力をしてレベルアップしよう!努力するための環境サポートは任せろ!
もちろんその様子はテレビで放映し努力しようとする仲間たちに伝える!アナタは多くの人から称賛を得て名誉を獲得する!(北米の)社会に認められるんだ!
これはスタートに過ぎない、明日はもっと高いレベルへ挑戦しよう!!!
北米西海岸のリベラリズムは大真面目にこのようなことを考えており、自分の努力の結果をFacebookやInstagramで公開するのである
だからこそ鍛え上げられた引き締まったボディを高く評価し、そこには男女のエロシチズムすら内包する美しさがなければならないし、北米で活躍する俳優やモデルはそういう人物が選ばれる
北米西海岸のリベラリズムの表層に感化された日本の出羽守がいくら男女平等や人種差別反対を訴えようとも表層しか理解していないので(北米西海岸のリベラリズム的に)おかしなことを言い始めるわけだ
BLMだってシンプルに考えたら良い。白人が黒人の努力する権利を奪うなである
なぜ死刑反対なのか?死んだら努力できないからである。それ以上のレベルアップが見込めないからである
北米西海岸のリベラリズムは努力しない怠惰な者は想定されていない。それは共産主義だからだ
北米西海岸のリベラリズムへシンパシーを感じるのであれば、アナタは日本社会へ様々な分野のスポーツジムをたくさん作る訴えをし続け、アナタはそのスポーツジムで鍛え続けなければならない
最近全くやる気が出ない。仕事だけでなく、生きること全般にやる気が出ない。
コロナのせいで外に出るのも憚られるし、もともと出不精なので、外出しようという気にならない。気合を出して自転車で街を走っても何も気が晴れない。食欲もかなり減っている。睡眠は取れてるもののかなり不規則だ。
タイミング的にコロナのせいにしているが、恋人とうまくいっていないとか仕事で認められるのが難しいとか、そもそも自分には何も無いなとかがいっぺんに積み重なってくる。
生きるための食事や家事が本当にめんどうだ。楽なのでウーバーイーツがあってよかったけど頼んでもあまり食べられない。
コロナの前はもっと楽しみが多かった気がする。お酒の席が好きな自分は友達と他愛のない話をして、グラスの氷を転がすのがストレス解消だった。恋人とも時折映画を見に出かけた。
友達や恋人との交流が減り、リモートワークで代わり映えしない家にこもるばかり。ダラダラと同じゲームを延々としたりYouTubeを見るくらいしかできない。まるでゴミ。
うまくパッケージの袋を開けられないとか些細なことでもいちいち落ち込む。仕事に手を付けたらいつもやっていることのはずなのに、マルチタスクの業務を何からどうやっていいかわからず数分混乱した。
単に生来の怠惰とダウナーになる時期が重なっただけなのだと思っているが、仕事を始めようにも頭痛と吐き気が出てくるし、なんだかなーと思っている。
医者にかかるのはただの怠惰判定されそうで怖い。病気であっても怖い。でもこのままの状況が続くと自分を責めてどんどん陰鬱さが増していきそうだ。
保守派というものは伝統を重んじる価値観のみならず、軽佻浮薄に流されない知的態度こそその特徴であるように思う。しかるに今の保守派はどうだろうか?
けして保守的ではない安倍政権に盲従し、対立意見への難癖に終始しているように見える。保守を自認するならば国家の規矩を壊す安倍政権の不誠実と欺瞞とを批判すべきではないだろうか?
保守が動揺したその最たるは第二次世界大戦での敗戦であろうが、その過程で「黙って処した」小林秀雄は「銃をとらねばならぬ時が来たら、喜んで国の為に死ぬであらう。僕にはこれ以上の覚悟が考へられないし、又必要だとも思はない」とも述べていた。
歴史を超越的なものと認識していた小林であり、自らを歴史に対し無力な人間であると自覚していたからこそ二つの発言は矛盾しないのだろうが、しかし戦時下に一定の発言力を有した人間の言葉として考えると、知識人、文化人として怠惰であったと思えてならない。
小林は朝鮮満州中国を訪れ、その凄惨な現実を目の当たりにしたのであり、現在の歴史修正主義者が目を背けたくなるような情景を、戦争に賛同した人間が書いている。とくに「蘇州」は冒頭に慰安婦に関する記述があるなどしたためか内務省による検閲を受けてもいる。
事実目を背けたかったのであろう。だからこそ「杭州」で「第一線には行くまいと」決めたし、彼の記したものが従軍記というより紀行文の体を成しているのもそのためだ。
小林秀雄は、好む好まないに関わらず卓越した理知者であり、戦争という野蛮を嫌った。だが同時に、戦争という現実の激動に対し、肯定的にーいや、むしろ判断を停止して、身を委ねたことも事実である。
恐らくは現在賢明なる保守派は、安倍政権の不正欺瞞を否定しながら、同時に政権そのものに対しては判断をすることなく、身を委ねている。それは彼ら保守が徹底的に内在的であり、外的なものに対しては「黙って処す」以外の術を持たないためであろう。しかし黙って従うべき現実が醜悪になればなるほど、彼らは愚か者にならざるを得ない。
あれ?
からあげクンは?
紙箱をテープで止めただけで置かれている。
え! マイバック持ってきているのに、有料って。
でも、お前が手にしている、取っ手付きのビニール袋は、からあげクンが1箱だけはいるのSSサイズではないか!
そ、それで3円取る気なのか!?
どうする俺?
このエコバックは、新調したばかりだ。いきなり唐揚げ臭でいいのか?
いや、匂いだけではない。
ここは、やはり有料でもいいか。いや、待て。SSサイズだぞ!あれに、3円払うのか!?
いや、いや。ここでもめたら、せっかくの怠惰セットが台無しになってしまう。
俺「じゃ、じゃあいいです。」
これは、勇気ある撤退だ。3円を失うこともなく、からあげクンは手で持って帰ればいいのだ。けして、敗北ではない。
そして、怠惰セットは最高だ。増田のタイトルを書き始めた時のもやもやは、もうすっかり消えてしまった。
みんなは、どの味が好みかな。
この増田のブコメで、「美しくあろうと思うのは良いこと」という感じのが多くて
まあ別にそれは否定しないけど、美しくなりたい欲が全くない女はやっぱり日陰者だよなあ、と
何て言うか女性には、美=努力みたいな意識が共有されてて、人並みにさえ美しくなりたくないって呆れるほど怠惰なことだと思われてるっぽいんだよね
さして文章が上手いわけでもないがつらつらと書いていこうと思う。
他人の希死念慮が好きだ。増田でもnoteでもブログでも、タイトルに「死にたい」だとか「自殺に失敗した」といったような希死念慮を匂わす記述があると心が躍るし、自殺した人の最後のツイートは保存してたまに見返している。同様に拒食症や精神疾患など死に近づいている人の記述も好きで、つまるところ追い詰められた人が見たいわけだが、「慢性的に死にたい」というタイトルを見て本エントリに興味を持ってくれた誰かの中にも同じような嗜好を持つ人がいるのではないだろうか。私の独り言がそのような同志の一瞬の暇つぶしにでもなれば僥倖である。
昔から中途半端な人生を送ってきた。特に受験勉強もせずにそこそこの成績で中堅の高校に合格し、そこで何かに熱中することもなく、まずまずの成績で指定校推薦をもらって大学に進学した。やりたいことも学びたいこともなかったから今は文理もよくわからない宙ぶらりんな学科で毎日を過ごしている。(学科・学問を貶める意図は全くなく、高い志をもって勉学に励む方のことは尊敬している。ひとえに私の受け取り方の問題である。) 就職のサポートが手厚く、どこかしらには就職させてくれることを売りにしている大学でもあるので、きっと就職活動もつつがなく適当なところで終わらせることになるだろう。
そう、ここまで読んでいただけたらわかるように私は努力も挫折も全くしたことがない。いまさら努力の仕方なんかわからない。というか人生に目標がないから努力もクソもない。わたしの目の前は常に真っ暗で、でも押されて足を出してみたらなんか道があったから一歩進んでみる。これを繰り返していたらいつの間にか成人を迎えようとしていた。積み重ねてきた努力も明るい未来への展望も私にはないから、大事にできる自分なんかないから、私はいつも死にたいなあって思っている。
そんな中で、もしかしたら自分が誰かにとって価値ある何かになれれば生きたいと思えるのでは?という仮説を立てて、手っ取り早く価値を高めるために整形をした。ちやほやされれば死にたくなくなるのではと考えて水商売をやってみた。誰にも内緒だけど、風俗もやった。風俗を始めたあたりで、病んだ勢いで自殺するかな?なんて思ったが、今日に至るまで私の手首には傷の一つも付いたことがない。思えば、人生の中でいじめだの一家離散だの身内の自殺だの十分に自殺を考えそうなタイミングは何回か巡ってきた。それでも今まで自殺を図ることがなかったことを考えると、結局のところ、私は死にたいのではなくてただ生きていたくないだけなのかもしれない。タイトル詐欺になっちゃう上になんとも中途半端だな。持論ではあるが死にたいと生きたくないは全然違う。死ぬことにすら希望を見出せないから積極的に死のうとは思えないけど、生に執着がないからいつ死んでもいい。もし今この瞬間に通り魔に殺されたとしても、私は欠片も恨まず笑って成仏する自信がある。死ぬ時まで人任せとは我ながら怠惰なことだ。
自殺を考えることはよくあるよ。でもそれを実行できるとは思えないから、やっぱり私に死ぬ気はないんだと思う。一昨日は銃で自殺するとしたらこめかみか咥えるかどっちにしようか考えたし、昨日は自殺配信するとしたら最後に居もしないリスナーになんて声をかけようか考えながらお風呂に入った。今日は自分の葬式で泣いてくれそうな知り合いについて考えながら寝ようと思う。おやすみ!!こんなまとまってなくて厨二臭い文を読んでくれてありがとう。目を覚ましたくないなあ。
自分は妻子持ち男。妻は出産後仕事を辞めて専業主婦をしている。
言われなくても家族の経済的な面倒は当然すすんで見るんだけど、問題なのは妻が経済的に自立しておらず、私がいなければ子育ても教育もその他諸々全く経済的に立ちいかない事。
女性は子供を産む可能性があり、産んだら一時的であるにせよ働けなくなる可能性も充分あるという事実は子供の頃からわかっていたはずで、そこから今に至る間の充分すぎる長い時間の中で、その状況を最悪一人でも切り抜けられる準備をしていない事が理解できない。
つまり「充分予想し得た事態を、最悪一人でも切り抜ける」という覚悟がないわけで、最初から誰かに何とかしてもらおうという依存マインド。
老いたら心身ポンコツになりお金に頼らないといけなくなる局面が激増する可能性が高い、という事は子供のうちからわかっているわけで、ゆえにそれまでの長い時間を活用してそのための充分な準備をしておくのは当たり前だし個々人の義務であるはず。それと全く同じ。
私は例え今日妻が突然いなくなっても、一か月くらいは混乱があるだろうが、シッターなり家政婦なりを雇って生活を維持する体制を作れるし、なんなら自分が仕事を辞めて子育てと家事に専念してもいい。働かなくても子供の教育と家族の生活を永続的に十分維持できるだけの資産を既に構築してあるし、家事子育ての生活スキルも意識的に身につけてきた。
そういう準備を若い頃から意識的にしてきたからこの状況を作れたし、だからこそ言えるが、よっぽどハードモードな状況でない限りそういう状況はやる気さえあれば誰でも作れる。
もし自分が女性だったら、ものごころついてから出産するまでの充分な時間を使って、少なくとも主産してから10-20年程度は働けなくても最悪夫無しで子育てが可能な状況を必ず作っておく。
家族や仲間で助け合うのは当然だが、その存在を前提として物事をプランするのはあまりに安易でかつ他者に依存しすぎている。
特に、子育てとか生活基盤の維持とか、ファンダメンタルで重要なものごとに関しては、最悪一人でも何とかできる力を得ておくのは義務。
当然、義務が諸般の事情で果たせない人は一定数おりその人々には支援があるべきだが、特段の事情もなくただ怠惰で依存的な事だけを理由にその義務が果たせない者には、つける薬もない。
妻は文章にも天真爛漫で能天気な性格がそのまんま表れててすごいなあ。
(小学生みたい、とか猫かな、とかコメントに書かれてるけど、リアルな妻もそのままで頷くばかり)
たくさんのコメントを読んでて、思うことがあったので妻に便乗して書いてみようと思います。
「本当に働かなければならないのか?」と「2人の関係の多様性」について。
まず妻は僕の良い面ばかり書いてくれているけれど、実際他の人から見ても良い夫かと言うと微妙だと思います。
幼少期から何か突き詰め続けていくようなことが得意だったので、自然と勉強に熱中して東大に入れたけど、まぁコミュ障なので、
周りに興味を持ったり、人との関係を自分から作りに行ったりとかはすごく苦手で、能力の出来不出来が激しいので(勉強も含む)、
普通に合わせろと言われるとやや生きづらい、そんなタイプです。
仕事や勉強に特化した人間で、薄い人間関係は得意だけど心の壁が高いので、恋愛は苦手で、
学生時代はずっと彼女がおらず「生涯このままなんじゃないだろうか…」と孤独感に怯えながら、毎日過ごしてました。
勉強が人並み以上にできる反面、自分にとって「心を開いて好きな人と過ごす」というのが、途方も無く難しいことだったんです。
一方、妻は気さくで話しやすく、人の懐に入るのが上手いタイプなので、関係を深める苦労が大分軽減されてすごく助かってきて、
甘えん坊でかまってちゃんで、そんなところも自分には嬉しいです(たまにうるさいけど笑)。
コメントで「専業主婦」について今時どうなの?とか、その幸せはずっと続くのか?とか、フェミが~とかありました。
また、夫が収入を妻の家事を提供してる、と見られるのも分かるなぁ、と思うけれど
そういったステレオタイプな推測と我が家の実態は少しずれがあります。
本当にずぼらで部屋が汚くても全然気にしないので、家事はあんまり重要ではないです。
僕にとって、孤独感を感じずに家で素のままで安心していられることがなにより大切で、
賑やかで明るくて、能天気で天真爛漫な妻のおかげで、結婚してから寂しさを感じたことは一度もなくて幸せです。
妻は「働かなければならない」(と思っているタイプ)のに、実際自分はそんなに働けなくてダメな奴だっていう気持ちが大きいみたいです。
僕は「人は働くべき」な思想が嫌いなので、それは違うよとよく言ってます。
そんな僕といることで、妻も働かなくても、そのままの自分でいるだけで肯定してもらえるから嬉しいみたいです。
妻は、世間体や親族の目から「ちゃんと働かなければならない」という強迫観念や罪悪感を感じるそうです。
でも、本当にそうでしょうか。働くことをって、僕にとっては、歯磨きと同じなんですね。
磨かないと歯がボロボロになっちゃうからめんどくさいけど仕方なく毎日磨く。労働なんてその程度の意味しかないと思うんですね。
勿論、皆が働かなくなってしまったら、世の中や経済は成り立たない。
もし、労働に歯磨き以上の意味を感じているとすれば、世の中にとって都合が良いように刷り込みを受けた結果の産物でしかない、と僕には感じられます。
「労働」を「成長」に置き換えても一緒です。成長の努力なんて、部活の筋トレと一緒でしょ?好きな人が勝手にやればいいんですよ。僕にとってはスマブラのトレーニングモードでのコンボ練習ですね。
この僕の感覚は普通の人とは違って新しい、って妻には言われるんですが、普通の人の感覚っていうのがさっぱり分からないです。
妻が変わっているのか、自分が変わっているのか、両方なのか、どれなんだろう?
そんなこんなで我が家は妻は僕の持つ孤独感を、僕は妻の持つ労働強迫観念を解消してる、っていうwin-win関係になっている、というのが実態だと思います。
我が家は専業主婦家庭だけど、フェミニズムとも考えは矛盾しないと思っています。
男が専業主夫で良いと思うし、共働きだって当然いいし、結婚しなくてもいいし、なんだっていいのにね、と話してました。
二人の関係は「win-winで公平とお互いを思える関係」ならなんでもいいんじゃない?という思想です。
勿論、働けたり、家事ができたりした方が選択肢は増えますが、それ以外が他人から後ろ指を指されるべきではないと思う。
多様な価値観を受け入れれば、多様な幸せがあるのにな~、世の中そうなればいいのにな~。
「生産性のないものは時間の無駄だ」とか「生産性のない人は存在価値がない」みたいな価値観も恐ろしくないですか?
「音楽は役に立たない。 役に立たないから素晴らしい。 役に立たないものが存在できない世界は恐ろしい。 坂本慎太郎(ゆらゆら帝国)」
僕の一番好きな言葉です。昨今のニュースもありますが、生産性や成長を強要する世の中の空気が変わっていくと良いのにな。
こんな性格の上、そもそも普段周りに女性の友達が皆無なので、現実的ではないですね。
仮に誰か良い人が現れたとしても、今の安心できる幸せな生活が壊れるリスクと
新しい関係を築く不確実性を天秤にかけて、浮気をする行動を自分は選択しないと思います。
性欲は普通にありますが、勢いで行動するタイプではないので、ありえないですね。
仮に、その天秤が逆に傾くようなら、すでに夫婦関係が壊れているということで別の問題だし。
【小遣い3万円のコメントについて】
これも2人の公平感で決めています。
妻としては遊ぶには足りないだろうけど、働けばいいだけだし、それは本人の気持ちで選べばいいだけだと思ってて、
僕としては、子供もできるかもしれないから、貯金をしておきたい気持ちもあるし。
子供ができたら、僕の家事のできなすぎは家族で困るかもしれないので妻に習って練習中。子供はできてもできなくてもどっちでもいいと思ってる。
ちなみに妻は自分で言うほどそんなポンコツじゃないです、性格はアホっぽいけど(笑)
話し合いは対等にできるし、メリット、デメリットを分かったうえでいつも行動してて、
生活能力も高いと思うし、料理がうまくてすげー!と思ってます。
最後に本当に余談ですが、夫婦といえば、福満しげゆきさんの漫画のファンでして、非常に面白いので「僕の妻シリーズ」など増田のみなさんにもぜひ読んでみてほしいです!
ある友人に我慢できず、他の友達に話すのも気が引けるので筆を執ることにした。
私の自分語りを多分に含んだ愚痴のような物なので、肩の力を抜いて読んでいただければ幸いだ。
私はしがない字書きの大学生である。中学生の頃には仲の良い友人二人と、自分たちを模したキャラクターを架空の世界の中活躍させる創作を交換ノートの中でやっていた。元々絵を描くことも好きだったが、どう足掻いても上手く描けないことに諦めを感じ、気付けば文章ばかりを書いていた。
高校に入ると文芸部に入った。入部届けを提出するまで、入ったことは親には黙っていた。シンプルにそれまでやっていた吹奏楽に嫌気が差しただけなのだが、高い楽器(丁度自分の貯めていたお年玉やらお小遣いやらの全額程度だった)を買ったというのに吹奏楽を続けなかったので、父親は後にも先にも無いほど激怒した。当時の私は相当にショックを受けたが、まあこれは関係の無い話なのでやめておく。
とにかく文芸部に入ったのだ。正直本当に楽しかった。気の合う友人もできた。文学という架け橋が無かったら話すことも無かったような、私とは系統の違った部員と一冊の本を作るのは刺激的だった。空が白んできても何も浮かばず空虚な日の出を見たり、締切の為に定期テストそっちのけで徹夜をしてキーボードを叩いて編集をしたり、高校生なりの熱量で部活を、書くことを、“創作”を、楽しんでいた。
恐らく想像がついている方もいらっしゃると思うが、私はオタクである。とはいえ、二次創作をイラスト等の投稿や閲覧が楽しめるSNSに投稿を始めたのはつい最近で、それまでは内輪のオリキャラでの創作小説を書いたり、時には友人を主体にした夢小説を書くこともあった。
そんなこんなでここの所二次創作を楽しんでいる私であるが、どうにも腑に落ちないことがある。
端的に言ってしまうと、あまり好かない友人がいるのだ。彼女は高校1年生の頃からの友人で、ありがちな書き方ではあるが彼女をAと呼ぼうと思う。(A以外にアルファベットは出てこないので、特に気に留めて置く必要はない。)
Aは自信家だった。帰国子女のAは英語を始めとして成績優秀で教員にも好かれる模範的な生徒だった。本人はそれを隠すこともなく、「私は天才だから」「と言うより、努力型の秀才なんだけどね」と言ってのけていた。努力を惜しまない姿勢は素晴らしいし、怠惰な私は純粋に尊敬したが、その努力をひけらかす行為はいただけなかった。受験期にはキーワードをページいっぱいに書き連ねたノートやボロボロになった単語帳を常に持ち歩き、志望校の赤本まで隠さず机の上に置いてあった。私は「落ちたら恥ずかしくないのかな」とぼんやり思っていたし、本番当日にもAは「Twitterしてる場合じゃないけど不安 報われなかったらどうしよう」だの「爆死」だの呟いていたが、最終的にAは無事合格し、その大学へと進学した。
思うに、Aはオープンな性格なのだ。未だにTwitterの鍵垢同士で繋がっているのだが、課題の進捗やらをよく呟いている。「自称天才だから(オンデマンド)授業明日の分全部受けてレポートまで書いた」「虚しいから労って(レポートの画像)」などなど。活きの良い大学生である。
さて、本題から離れてしまったが、私がお話したかったのはAの創作についての話である。
実はAは高校在学中から一次創作を嗜んでいた。Aはもう一人の友人とタッグを組んで自作のゲームを作ろうとしているようだった。所謂ファンタジー物で、次々とキャラクターを生み出してはストーリーの核となる部分を練ったり、キャラクター自身の掘り下げをしていた。
なぜ私がそれを知っているのか。それは彼女が片っ端からTwitterに放流するからである。興味が無いので完全にスルーしていたが、AやAの周りの友人はいつもAの生み出したキャラクターの話をしていた。
彼女はゲームのシナリオとなるその“創作”の本筋を書いて、もう一人の友人は立ち絵や背景を書いていた。
Aのそんな旨の呟きをよく見かけた。
そのうち、Aの周りにいる友人は、そのキャラクターのイラストを描き出した。漫画にせよ小説にせよ映画にせよ、ストーリーを追ううちにキャラクターの個性を見出す私にとっては、設定や性格が書き連ねられた一枚絵を見せられても特に何も思わなかったが、友人たちは違ったようだ。確かに毎日それらのキャラクターの話を聞いていれば興味を持つのも自然だろう。
最初こそAは大いに喜んでいたが、そのうちさして大きなリアクションをとらなくなっていった。そのうち、「おまえらのファンアート15溜まったら本編まじで進めるわ、ケツ叩いてもらわないと無理かも」といった旨をツイートしていた。
Aとタッグを組んでいた友人は、徐々にTwitterに浮上しなくなっていった。その代わり、Aは自分のことを“字書き”と自称することが増えて、ゲーム制作の話は一切しなくなっていった。
Aはよく産みの苦しみの類いのツイートをする。
そう言って一通り喚き散らした後、「やっぱり今日は書けないから寝よう」と言って日付の変わる前には就寝している。
なるほど、AもAなりに書くことを楽しんでいるようだ。いつか自分の創作を完成させて、それが大々的に二次創作される日を夢見ているらしい。丁度今、絵の上手い他の友人に描いてもらっているように。
四の五の言わずに書けよ。
一発当てたいなら本気で完成させろよ。
甘えてんのか。
もちろん私は今の文壇をリードするような大作家でもなければ、新進気鋭の小説家でもなんでもない。しかし、Aよりも文字を書くことは数こなしてきた。適切な表現が思い浮かばなかったり、心苦しくても大部分を削除してエンディングを書き直したり、寝食を忘れて夢中になって書いていたこともある。もちろんそれが重要なことでないこともわかっている。
「わたし、○○(私の本名)ちゃんのことすごいと思うよ。文芸部に入ったら、締め切りとかそういう重圧で死んじゃいそうだもん。自分の好きな物上手く書けなそうじゃない?」
私はこれに何と返したかは覚えていない。しかし、文芸部は私に書き終えることの大切さを教えてくれた。
オープンな彼女は書いている最中の苦しみを漏らすことを抑えていられない。しかもそれをやたらと文学的に表現しようとする。浮かんでこない、降ってこない、突然書けなくなる……、そういったありきたりの表現で。Aはやたらと“創作”や“小説”という言葉を使いたがった。自分が今しているのは“創作”で、“小説”を書いている。その行為に酔っているように見えた。けれど言葉が固くなってはいけないと思っているのか、進捗状況が載ったスクリーンショットに映る文はなろう系を模したような劣化させたような文体なのである。
「私の文幼稚なのはわかってるんだけど、かっこつけた描写はしたくないな。児童書目指してるし」
子供が読みやすい文、単純に砕けた文、そして口語ばかりで仮名遣いの怪しい文。難解な表現を使うことと、状況を説明するために上手く言葉を組み立てること。これらは明確に分けられていると思う。斜に構えた描写を、子供には解しがたいと思っているのだろうか。私は自身の素の書き方がかなり固いこともあり、まるで自分が“かっこつけた描写”をしているような気がしたこともあり、なんだか頭にきてしまった。
また、数日後にはこんなツイートもあった。
「承認欲求足りな過ぎて手っ取り早く誰かに褒められたいけど、二次創作は書けないからなぁ」
私は、自分の書いた二次創作を「承認欲求を得るための行動だ」と言われたように感じたのだ。書いた物を貶されるのは嫌だけれど、書く動機をAのようにあからさまに「誰かから評価されるため」にすり替えられるのが耐えられなかったのだ。ネットに公開している以上、何らかの反応があることはもちろん嬉しい。しかしそれ以上に、頭に浮かんできたシチュエーションを練ってひとつの話を作ることが楽しいのだ。
今思うとAはそこまで考えて発言したように思えない。恐らく私の考えすぎだ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いし、何を言ったかより誰が言ったかが気になる質なのかもしれない。
SNS上でのAとの繋がりを消そうにも、そのアカウントには共通の友人が多く、彼女たちが気を利かせて私の転生後のアカウントをAに伝えてしまうことは想像に難くない。かと言って「繋げないでくれ」とあからさまに嫌う素振りを見せて友人関係にヒビを入れたくもないし、ログアウトしてしまうと他の友人の呟きまで見れなくなるのも寂しい。そういうわけで今でもAとはFF内で、表向きは仲良くやっているわけである。
さほど苦ではない。しかし確実に自分がストレスを感じていることはわかるので、いつか縁を切ろうと思っている。
結局これはさして大きな問題ではなく、周りからチヤホヤされている人間を妬ましく思っている私の醜さが露呈しただけなような気がしたので、この辺で筆を置いておこう。自分の“創作”のスタンスに口を挟まれて気分を悪くするのは、私自身もそうだから。
ですので句読点とか、とにかく誤字脱字が酷いです、文章も怠惰な人間が書いたガチのクズです。
18歳です
絵を描いてます
端的に申してしまうと、今の状況がブルピの芸大編の八虎とそっくりで困っています。
しかも八虎よりタチが悪い事に、自分の実力の無さを実感して、前期の最終講評会が明日なのに、展示作業を全てやめて、逃げ出しました。助手さんからも「また明日ね」って言われたのに。
自分で言うのもなんですけどリアルブルーピリオドと言うべき経歴です。ですが八虎の明るさを引き抜いた陰キャです
高2から本格的に絵を書き始めました、絵画という名のジャンルをです
それまでは高校時代イラスト漫画部とか入ってて下手くそなアニメ絵しか描いてなくて、ニコニコ動画とかひたすらみてたオタクです、絵画に興味もないし展覧会とか美術の展示も全く行ったことありません。
わたしには、技術もセンスも本当に何もなかったし、芸大生という現状の自分に溺れて身に付けるつもりもなかったんです。
私はその称号に溺れていました
でもそれって称号を貰っただけで、私自身は芸大生でもなんでもない、受かっただけのただの絵の趣味が発展したオタクに過ぎなかったんです。
予備校はもちろん基礎的な画力とかぶっとんだ発想を身につける事が求められます、でも、でも、教わっているのはどんなに素晴らしい絵でも結局「受かる絵」で、決して「良い絵」ではないような気がします。
私は趣味で創作でストーリーとかを考えてて、漫画に出来たら良いなぁとか、芸大受かったら漫画家目指そうかなぁ、いやゲームも作ってみたいなぁ、とか小学生レベルのとりあえず漠然とした創作意欲しか持たないまま芸大に入学しました。
自分にとっては、別に書きたいものがないって訳じゃないから困らんだろ、みたいな感じで。
それで今はコロナ、オンラインなので陰キャの私は安心してイきり散らして怠惰な生活を送っていました。
何も考えずにヘラヘラとして、ただ腕を動かすだけで生まれた作品、とりあえず表面をなぞっただけのインスタレーション、とかやりました。
何も考えずに。酷い出来です。
ゼミ、二回受けました。
ウィキペディアに名前が載ってるような大層な教授達に、失望と落胆の声を浴びせられました。
でも、その時の私はなんやかんや傷付きながらも、(でも私は漫画家になりたいし〜wアーティスト?とかなる気ないしわろわろ)って、別に漫画の方では創作意欲あるしって、失敗を踏まえて次の一歩に踏み出すことすらしませんでした。
それで待ちに待った前期の最終講評会です、前期の半年の期間に描いた作品を持っていって、アトリエに展示して、初めて同学年の人たちと顔合わせする事になりました。
初日は何人かとお話しできたり、もともと仲良かった子と一緒に居たのでヘラヘラしてましたが、
2日目、みんなが制作した作品を眺めて、愕然としました、一つだけとんでもないゴミが並んでるんです、私の作品です、あれ、あれ、あれ、え?え、なんか、え、待って、え、なんでこの中に私が居るの?なんで、え…………
芸大生の作品って、上手いとか下手とかではなく、情熱とかとにかくセンスを感じられるっていうか………だけど私の絵は本当に酷いものでした
ただぐちゃぐちゃにキャンバスを燃やしたような焦げた絵、白と黒のアクリルでひたすら画面をグチャグチャした絵。ただそれだけです、周りの人たちが大小形を問わない作品で鮮やかに展示作業をする中、私は1人、この現実に耐え切れずスマホをいじってました。
1日目に話した人達が話しかけてくれませんでした。絵が、表現が、作品が、全ての大学です。私の作品が私の本質を表しているようなものです、初めて会う芸大生たちの会話が弾む中、私だけ1人透明人間のように佇んでいました。
絵でカーストが決まるのです。
八虎はコミュ力強のリア充人間ですけど、私は、根暗で、引っ込み思案で、前述する通りすぐにあぐらを掻くような人間です。
この空間に居るのが辛くなって、トイレに篭りました。アトリエに人が居るのが怖くて4時間ぐらい篭りました。
この時は焦りしかなかったです、そもそも前期にあまり作品を描いてなかったんです。それに対する苛立ちも含めて頭の中がパニックになっていました。
私は油絵が苦手です、デッサンもそこまで上手くありません。2次試験の試験の数日前直前にアクリル絵の具とモデリングペーストを使った絵画表現で行こうと決めたぐらいです。発想や構図やスケッチ用紙のアイデアは全部自分で決めましたが、絵画表現のタッチは数年前の参作の丸パクリでした。
そして、今更気が付いたのですが、漠然とした創作意欲は、創作意欲ではなくただの妄想止まりのものでしかなかったです。
今まで、私が本当に描きたいものを具体的に形にしていませんでした。
私が持っている創作のアイデアというのは、形にする程度のものでなく、形に出来るものでもなかったのです。
私は見つけていませんでした。
見つける気も無かったのです。
仮初のプライドの正体に気付き、音を立てて壁が崩れ落ちました。
私は、ブルピの八虎よりはマシだろとか思ってたんです、でも、ブルピの八虎以下だと気が付いてしまいました。
努力もせず、学歴に溺れ、ただずっと肥えて、ありもしない才能とセンスに体を委ねていました。
ある時、助手さんに「〇〇さんは絵を描きたくないの?描けないの?」と聞かれました。
多分どっちもです。
自己が定まってないから無いから描けないし、無い自分を曝け出すのが怖くて描きたくないし、そもそも絵が上手く無いから描きたくないし描けないし、本当は描きたいコミックアートやアニメ絵も、描きたいだけで上手く無いから描きたくないし描けないです。
自分に言い聞かせるように描いたこの文ですけど、情けなくて仕方がないです。
前期の最終講評会も逃げてしまいました。
これから、私は創作テーマをしっかりと探さなきゃいけない、美術館や展示も沢山行きます、ドローイングとかデッサンとか思い付いたらたくさん描きます、腕をとにかく動かします、とにかく、学びます、今はこれしか思い付きません。闇雲になんでも挑戦してみます。
創作者という職業は、この世界に対して批判と肯定の思考を、諦めずにずっと考え続ける、考えなきゃ負けの世界だと思ってます。
でも、思考停止していた私が、また動き出せるか不安で仕方がないです。
追加
涙が止んだ後、今いざ冷静にこの文章を読み返してみるとえらいナヨナヨしてるなって思ったから普通に頑張ります。いくら自分に言い聞かせる為に書いたとしても、読み返すとややポエミーで恥ずかしくて単純に文章がキモい。先輩に相談とかして普通に元気出ました、でもこれは忘れてはいけないから当時の記録として残す。
一応これ再投稿の文章なんだけど、再投稿前の文章に寄せられてたコメントでボロクソ叩かれてたので段々悩んでるのがアホになってきました、お前らぶっ叩いてくれてサンクス。
週数回、月数回、決まった書類を作る、メールを出す等の事務的なルーチンワークが嫌いだ
物事を後回しにする、期限ギリギリにやるというADHD特有のアレである
Googleカレンダーでリマインダーをセットしても通知が来たところで
私は大学受験で二浪した。失敗したことを失敗と素直に受け止められなかったから、こうなった。結局得られたものは一つもなくて、二年の時と可能性、健康な身体と思考を失っただけだった。二年目はとくに酷かった。勉強なんて遠くに行ってしまって、わずかなコンビニバイトを除けば、そこにあるのは静かな絶望だけだった。“静かな絶望”と書いたが、何も詩的な耽美あるわけではなく、Youtubeの本当にくだらない動画と、過度な自慰行為と、コンビニの廃棄弁当と、周囲からの痛い視線、嘲笑、侮辱、偏見があった。怠惰に怠惰を重ね、惰眠を貪っているだけなのに、自分には何かあるはずだと、救いのないことを心のどこかに置いて、何もせずに過ごした。
ここまで来るとと、おちおち眠ることさえできない。ある時、急に、胸が締め付けられ、呼吸がうまくできなくなって、身体中の神経が痛み出し、何も吐くことのできない嗚咽と、どす黒い鉛を頭の中に詰め込んだような頭痛が同時に訪れる。堪らなく怖くなって目を閉じると、まぶたのうちの仄暗い深淵から、黒い人魚のような、おどろおどろしい悪魔の幻覚が姿を見せる。その無数の手が伸びて私を闇の底へと引きずり込もうとする。堪らない不安と寒さに凍えながら、吹き飛ばされそうになりながら、ありもしない幻覚と戦い、二時間ぐらいすると呼吸が戻ってくる。支離滅裂、荒唐無稽に思われるかもしれないが、たしかに私は一年間こうして苦しんだ。自殺した方がよっぽどマシだと何度も思った。
今はなんとかやっている。小さな仕事を与えてもらって(というよりはまだまだ教育期間だが)、恥ずかしい、情けない思いをすることも多々あるが、周囲の支えでなんとか立つことができた。この忌まわしい記憶はいつまで私を苦しめるだろうか。それとも一生亡霊のようについて廻って私を苦しめ続けるのだろうか。一方で、やれやれ、もうどうでいいことじゃないかと思う時がある。だとしたら、最初から苦しむ意味なんてどこにもなかった。
そういう人は逆に、ほかの人が居ないと働けないんだ
自分ひとりきりだと怠けてしまってやる気も出せず、ただただ呆けて何もせずに時間をすごしてしまう。
大学1年生です。別に大きい課題ではないけれど、課題提出に間に合わなくて泣いた時に感情の整理のために書いた文章です。(今)
気分が落ち込んだ時には具体的に文にすると良いって聞いたことがあったけれど、今回初めてやってみたのでネットに記録してみます。
結果としては40分程度で落ち着いたので、効果あるのかもしれません。
提出に間に合いませんでした本当に馬鹿 推薦で周りより馬鹿だから頑張らないといけないのに提出さえもまともに守れない生きてる価値がない
勉強じゃなくてもいいところあるよ別のところで頑張ってるから勉強だけじゃ測れないじゃないんだわ何もないんだよ
オンラインだからって〇単位しかとってないから別に課題多いわけじゃない自分の管理能力がないだけ本当にご愁傷様でした私は無能です
今日寝不足でしかもズームで先生に反論されて悲しかった、あと課題出さなかったら諭されたそれに重なって出せなかったのが過剰に悲しいだけだから 勘違いするな
私は勉強頑張ってるのに結果がでない努力の人じゃない怠惰だからやらないだけの人間だと自覚しろ 自覚したところで何になる自分のためとかもうわからない親と奨学金と将来の職のために頑張らないといけないのに 奨学金なくなったら通えないどうすんの 今危機感ないけど絶対後悔するだろでも全然実感わかないごみ人間
友達いたら比べて劣等感感じるからつくらないのに人と関わらな過ぎてメンタル病むとかなに人間ばぐってる 思考したくない私も○○みたいに揺るがない何か持ちたかった 平等であるべきとか思ってるしこの考えだけは大切にしてるけど何も実行に移さないだって平等であるべきと訴えると出る杭は打たれるから今日も周りから穴をつかれないように何も言わないことでやりすごす もっと泣いて発散したいのにもう全然でてこないねこれ一種の自傷癖だろ
しゃくりあげるときの息苦しさで生を実感sるってかがはは 指も足も爪噛んでボロボロだねずっと治らないわ どうせこんな病んでも元気になる自殺することはない
誰かに相談してみたいがあるのは自分のことしか考えてない自己愛と劣等感 自分が行動しないと何も変わることはないので胸のうちを明かしたところでなにもないだって怠惰だから 自分かわいそうの考えの元生きている自分恥ずかしい でも自分に価値が見いだせないから劣等感から見出す
誰かのこと見るとき劣等感ばかり感じるが逆に他人みてるのに自分のことばかり考えてるから自分はちゃんと自分が好きだと安心させる
一部伏せました。
私は心が狭いです。
そんな私はツイステッドワンダーランドのリドルくんを推していました。
現在、ツイステッドワンダーランド内で開催されている「ゴーストマリッジ」というイベントにおいて、リドルくんのSRカードをイベント報酬で入手することができます。是非、みなさんツイステットワンダーランドをプレイしてリドルくんをゲットしてください。
ツイステッドワンダーランドの魅力のひとつとして、カードのグルーヴィー化というものが挙げられます。
グルーヴィーとは、特定の条件を満たすことにより、もとより美しいイラストのカードがさらなる素敵絵柄にメタモルフォーゼすることを言います。
私はこのグルーヴィーが、ツイステッドワンダーランドのシステムの中でなによりも好きでした。
推しをゲットしただけでも嬉しいのに、カードを重ねることなく2種類の美麗絵が楽しめるなんて贅沢なことだからです。
しかし、そんな素敵システムを備えたツイステを満喫する生活に突然終わりが訪れました。
その日、SNS依存症の私は、朝起きてまずTwitterを開きました。寝ぼけ眼をこすりながら、TLを眺めていました。穏やかな朝でした。その日は1日用事もなかったし、ふとんの中でぬくぬくでした。
フォロワーが少ない私のTLは静かでしたが、ひとつひとつのツイートにしっかり目を通しながら、フォロワーのおもしろツイートや萌え語りを楽しんでいました。そこに突如、リドルくんSRのグルーヴィー後のスクショが現れたのです。
私は音速でTwitterをタスクキルしました。サムネだけで済んだのは不幸中の幸いです。誰が挙げたのかわからないくらい、一瞬でタスキルしました。なんとなくイラストの雰囲気を掴んでしまいましたが、ギリセーフです。
心臓はいつになくうるさく、口から飛び出すかと思うほどでした。嫌な汗が止まりません。
今日はTwitterを控えようと思いました。いつ目に入るかわからない。TLだけでなく、「リドル」の3文字で検索するだけで危険が伴います。己の危機管理のガバ加減にうんざりし、自力でグルーヴィーさせるまではTwitterは辞めておこうと思いました。賢明な判断だと思います。
目覚めの悪さに顔をしかめつつ、私は次にInstagramを開きました。
ストーリーチェックは日課です。Instagramのリア垢にはツイステオタクはほとんどいませんし、安心安全です。グルーヴィー後が目に入ることはあり得ないでしょう。
そんな私の脳天にイカヅチを落としたのは、一発目、仲のいい友人があげたストーリーでした。彼女がオタクであることは知っています。ツイステをやっていることも知っていました。ミュートさえしてりゃあこんなことにならんかったと思うと悔やんでも悔やみきれません。(ていうか普通リア友ミュートしない)
私がいけません。イベントを走っていれば、今頃彼女のようにリドルくんのSRを入手してグルーヴィーさせ、その素敵なイラストをにやつきながら眺めていたと思います。
怠惰な私は推しイベを走らなかったのです。「まだ期間もあるし明日でええか」とツイステにログインすることをサボったのです。
その友人は、ストーリーにグルーヴィー後載せてやがったんだよ。
まさか、インスタのリア垢で?普通やるか?TwitterでもFFですから、きっとTLで見たリドルの残像もこの女の仕業でしょう。
腹の底から怒りが湧き上がりました。
冒頭でも言いましたが、私は心が狭いのです。なぜお前の「リドルくんじゃないみたい。オス顔ぴえん🥺」という文言とともにリドルくんのグルーヴィー後を、お前のインスタのストーリーで見なければいけないのか。
本当に無理でした。グルーヴィー後を載せてはいけないという規約も、暗黙の了解みたいな隠れたルールもありません。彼女のしたことは犯罪ではありません。ただ私が気に入らないだけなんです。でもな、別のところでやってくれよ!
せめてストーリーだけには載せないでくれよ。なんなんだよ。
言葉にならない無力感、自分の不甲斐なさ、友人を恨む気持ち、友人だったはずの彼女に憎悪を向けてしまう自分への苛立ち
みなさんは、グルーヴィー後のイラストをTwitterやInstagramにアップロードするのは、いつからOKだと思いますか。
みなさんはグルーヴィー後を載せるとき、スタンプで隠しますか。
リドルくん、心の器がハムスターのうんちくらいちっさいこんな女が一瞬でもあなたを推してしまってごめんなさい。
夢を見せてくれてありがとう。大好きだったよ。