はてなキーワード: 完璧主義とは
別れてから少し経ってようやく落ち着いてきたから、なぜ別れたのかをここに書いておく。
別れた原因は、言ってしまえば自分の傲慢さと完璧主義的な性格、他人の価値観で生きすぎたことだった。
自分を持っていて、学ぶことが大好きだった恋人。共に苦楽と長い時間を過ごしてきた。
これまで側にいてくれたから、何があってもずっと側にいてくれると思っていた自分は、本当に傲慢だった。
もともと自分はいろんな物事に取り組むのが好きで、でもそれはどこかで他人の価値観の中で認められる自分にずっとなりたかったのだろう。
将来やりたいことのために修行をしたいと新卒で入社した会社だったが、配属先の上司との反りが合わず、業務量も多く、通勤時間が馬鹿みたいに長い。
でも、社会人になったばかりで自分は新参者だから、慣れていないからそんなもんだろうと思って自分の気持ちにずっと蓋をしていた。
まだまだ頑張れる。まだやれる。
そうしたら、仕事中にネガティブな言葉が頭を占拠したり、帰宅途中や帰った家でいきなり涙が溢れてきたりした。
それでも頑張らなきゃと思って毎日を必死に過ごしていたけど、最近やっとわかってきた。無理をしすぎていた。自分はまだできる、とか自分に期待しすぎていた。
そんな数ヶ月を過ごすうちに、自分にとって大切だったものが大切にできなくなっていった。
疑って、疑って、疑った。
身体が気持ちについてこなくてセックスができなくなり、自分が責められているように感じた。
次々と押し寄せる「やらないといけないこと」に取り組むのに精一杯で、自分の気持ちは無視し続けたままで大切にできないから、もちろん側にいる人も大切にできない。
でも渦中にいるときは自分に何が起きているのか認識できなかった。
じっと耐えていたら、いつかどうにかなるんだとどこか他人事のように思っていた。
もし自分のような人が身近にいたら、自分も側にいたいとは思えない。なんなら逃げ出したい。
だから、別れを告げられたのは当然だと思う。
自分が大切にしたいものは大切だって言っていいし、思いっきり大切にしていい。
休みたいときは休んでいいし、愚痴も悪口も言いたければ言っていい。
人の顔を伺うことから離れられない
自分が決めたことも全員納得するわけないのに、全員が認めてくれないとすぐ不安になる
そして、どんどんやらなくなる
もちろんオレが悪いのはわかる
自分の人生は自分の人生とかいうけど、自分の人生がもっとよくできるし、よくしたいのに、口だけでまたはちょっとの行動で終わる
わかるよ
変なとこで完璧主義者なんだよ
できもしないてかそんなものないのに完璧にできる以外はやらない
卑怯だ
臆病だ
ただただ羨望の眼差しでみる
自分はやってるつもりになる
世の中のやってる人は死ぬほどやってるのに
何者かになりたいんだ
認められなたい
何かができるって思われたい
なにもできない自分がやだ
だれか助けて
自分を認めたい
オレはオレの人生を生きていいっていってくれ
全部中途半端
体も勉強も仕事もプライベートも何もかも何一つやり遂げてないよ
かならずにげる
もともとオレはこれはできなかったんだって決めて
やらなかった自分を守る
そうじゃなくてやらなかった選択をしたのオレ
全部オレ
みんななりたい自分になるために頑張ってるんだ
やればなれるんだ
やれよオレ
なんで途中でやめるんだよ
今回はほんとに失敗したくない
てか失敗て何よ
感情を爆発させたい
なにもできない自分が許せない
でも時間がたつと許す
このループを抜けたいほんとに
だれかオレを認めてよ
いや他人は認めてくれるかもだけど素直に受け取る心をくれ
オレに関わる人は全てがオレを見下してるように感じるよ
なんでそう思うか?
健常者じゃないから?
情けで友達になってくれてるとか思ってるのかなオレ
ある趣味のサークルに入っていて、毎月のように作品を提出する必要があり、それを皆の見ている前でプロの先生に講評されるという日々を送っている。
一見そんなに大変なことに見えないかも知れないが、熱心な人は休みのすべてを注ぎ込んでいるんじゃないかという勢いであちこちに出かけ、作品のストックを作っている。だいたいつでも納得の作品ができるわけではないので、こだわりの強い人ほどお金と手間をかけることになる。
が、やっぱりそういう努力をしている人はどんどん腕が上がっていき、「趣味なんだからほどほどにやればいいじゃん」という緩い感覚で活動している私とはレベルの差がどんどん広がっていく。
おかげで最近全然先生に作品をほめてもらえない私は活動がつまらなくなりつつあるが、ちっぽけな肩書きがあって毎回やらないといけない仕事があるので、参加しないわけにいかない。幹部に「最近活動に熱意が持てない」と言ってサークルを辞めることも可能だけど、ただでさえ友達やプライベートの予定が少ないのにこのサークルを辞めるのは私生活に対するダメージが大きすぎる。
趣味なんだから、日々の仕事や生活に支障のない範囲でやれば良いはずなんだけど、上級者たちの取り組み方はどうやって家事やその他の雑事をこなす時間を捻出しているのか理解不能だ。ちなみに私は休みの日に寝過ごすことが多く、家事の要領も悪くて時間がかかるので、趣味に割ける時間が少ない。
家庭もちで家族の面倒をみなくてはいけない人々に比べて百倍自由なはずなのに時間が確保できなくて悲しくなる。あと、あまり完璧主義ではないので、それほど細かいところにこだわらず、雑な部分が残りやすいのでどうしても残念な作品になる。センスの良い努力家たちの作品の完成度の高いこと。毎回集まりのたびに彼らの作品を見て凹んでいる。
何でそんな飯の種にもならないことに情熱を注げるのか分からない。飯の種にならないがゆえに、上司につべこべ言われることもなく、自分の趣味嗜好を発揮できるのが楽しいのかなと思うけど、私はアイディアが貧困で、作品作りにあたって斬新なイメージを持ってアタックすることができないので、さほど欠点のない作品であっても何か面白くない代物になりがちである。
皆のあまりのレベルの高さと熱心さに、趣味が苦行になりつつある。私の作品が平凡だろうがレベルが低かろうが、誰にも迷惑はかからないんだけど、とにかく自分がつらい。他に長続きしている趣味がないので、休みの日にやることがなくなるのもなんだかなぁ…。
「君って普通だね」と言われて嬉しい人は少ないだろうけれど、「君って普通じゃないね」と言われて嬉しい人もまた少ないんじゃないだろうか。
大学進学のために上京してから悩まされていた不眠症。無計画が引き起こす学期末のレポート地獄。いつまでたっても片付かない部屋。ストロングゼロと煙草。
僕は地元の田舎では周りのやつらのようなガリ勉をせずともそれなりに勉強ができた。やる必要がないと思う提出物は出さなかったし、学校もサボりがちだったから高校の成績は悪かったけれど、大学受験では苦労せず希望の大学に合格した。今思えば僕は周りとは勉強の方法が少し違っていた(周りが1ヶ月かけてする試験対策を3日徹夜すればできた)。でもそれはむしろ僕自身の美点のように感じていた。もしかすると、時間をかけて勉強した結果僕より点数の悪い同級生をバカにしていた節さえあるかもしれない。と同時に、コツコツとした努力のできない自分自身を恥じてもいた。
それが、大学に行ってみたらどうだ。確かにガリ勉で努力をして入ってきたやつも大勢いる。でも僕みたいな一夜漬けを少し大掛かりにしたような受験勉強で大学にきているやつもたくさんいるじゃないか。それでもいいんだな。
大学3年間。将来の目標に向かって努力をするやつらをとにかく視界に入れないようにして、遊んで暮らした。レポートも学部2、3年までのレベルのものは一夜漬けとその応用みたいなやり方でなんとかなる(なんとかならないものは、それを察知した瞬間に取り組むことを放棄する)。試験が重そうな理系や法学部に行かず、文学部に進んで本当によかったと思っていた。
ところがどっこい、僕を待ち受けていた卒論は、そうはいかなかったのだ。いや、適当に済まそうと思えば、ギリギリ通る具合のものを提出して卒業できたようにも思う。ただ僕は変なところで完璧主義なのだ。テーマ設定のまずさと彼女との仲がこじれたこととそもそも外国語の読解が不得手であったことやらで、去年の12月に全てを投げ出し、引きこもり、学生証に留年シールを貼り、今に至るのである。
去年の冬から部屋に引きこもりがちになった僕を心配した研究室の教授に勧められて訪れた保健センター。大学にこんな施設があったとは、4年間通った大学だが知らなかった。診察室に待ち構えていたのは柔和な表情をした丸眼鏡の精神科医。質問票に答えたり、テストを受けたりと何回か通った後に医者が発した「ADHDですね」という言葉。
そんなことってあるだろうか。23歳にもなって。僕以外の人はもっと楽に生きているってわけか。自分が発達障害ということに気づきたくなかった。
「君って普通だね」と言われて嬉しい人は少ないだろうけれど、「君って普通じゃないね」と言われて嬉しい人もまた少ないんじゃないだろうか。僕は普通がよかったのに。
再投稿です。
そして人の愛し方が分からない。
親からも誰からも愛されたことがない人間なのだから仕方がないのかもしれない。
そもそも、私が、性同一性障害で他者から恋愛対象として見られず、また、女性に惹かれることが多いため、女性として過ごしてる私は、出会いがないからなのか。
私が発達障害やBPDの症状を軽度ながら持っていることがいけないのか。
死ねば楽になるのかな?
助けて欲しい。
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以下は、乱文であるが、私の過去を書かずにはいられなくなったので、ここに書こうと思う。(多少のフィクションは含んでいるが。)
日常生活は女性として暮らしていて、初対面の人と話したり、ショッピングや空港等で元男性と見抜かれることはほぼ無く、また容姿もそこそこいい方であるという自負はある。(ガタイが無駄にいいのはコンプレックスだが。)
幼稚園児のときに母と父が離婚した。その時の母と父の喧嘩を記憶していて、私にとっての一緒に暮らしていたこのろの父親像は母親に向かって怒りをぶつけているところと、仕事で疲れて寝ているところしか残っていない。そして、離婚後、親権は母親に移った。
そして、仕事に一辺倒になった母からは面倒を見てもらえず、妹と共に子供会の保護者と祖母に面倒を見てもらっていた。
祖母は優しい人ではあるものの、愛情表現をする人ではなく、また同じ家にいたわけではないので一緒にいる時間は限られいた。
私はこの頃、植物に興味があり図鑑をよく読み漁っていた。また、ピーターラビットシリーズを好んでいたことを記憶している。
小学生に上がったとき、ピアニカの色やランドセルの色が"私の望む色"出なかったことを記憶していている。
小学生2年生になると強迫性障害の症状を起こすようになった。ともかく、家の外のすべての物が不潔に思えた。1度病院に連れて行かれた記憶がある。幸い、小2のうちにだいぶ良くなり日常生活に支障をきたさないレベルには回復した。ただし、潔癖症自体は中学生くらいまで強い意識が残った。
また、この頃から学校でオカマとヤジされることが増え、友人は決して多いとは言える状況にはなかった。
この頃でも父親とは電話を通して時々話しており、またたまに合うことがあった。(よく上野の国立科学博物館と鉄博に連れて行ってもらった。)
ただ、一度、ファインディング・ニモに連れて行ってもらった。はじめての映画館で見た映画だったのだか、個人的に楽しめなく、父はそれに対して非常に怒っていたのを記憶している。
また、この頃から母親と父親の間で伝言を伝えるような役割となり、お互いの悪口を聞かされ、また経済状況についてと揉め事を聞く立場となっていった。
相手は子供が3人いたが1人はインフルで亡くなっていた。(ただし、継父に親権はなく未だに継姉・兄と顔を合わせたことはない。)
母はTVを厳しく時間を決める人であったが、継父はそうではなくよく妹や従姉妹にテレビを見せていた。それについて、母親と揉めることが多く、私がママっ子であったため母親側についた事により、私は継父から見せてもらえなくなり、次第に顔を合わせるだけで睨まれるようになった。
小4になると母と継父の間に子供が生まれ、何もしない継父と仕事しかしない母の代わりに祖母と私と妹がよく面倒を見ていた。
そして、この頃から、継父と私の関係は更に険悪になり、私が継父から身を隠すように家で過ごすようになった。
幼稚園児のころから高いところから飛び降りたらどうなるのだろう、という気持ちはあったものの、この頃には明確に死にたい、という気持ちがあった。
また、夢の中で継父を刺し殺す・絞め殺す夢を見るようになるようになった。(この夢は大学生1年の頃あたりまで続いた。)
小5になると母親の仕事が軌道に乗り始め、経済状況は一気に良くなるが、継父との関係は最悪になり、一度私が勉強机の下に逃げたところを継父に顔を蹴り飛ばされたことがあった。(ここらへんの記憶は曖昧で正確な時期を覚えてない)
また、私は元々書物を読む子供であったが、学校で男子からはオカマや(容姿を指して)キツネと呼ばれ、女子からは女子の中心グループと犬猿の仲だったため、更に書物を読み漁るようになった。(ハリーポッターを1日の放課後で2冊を読みきる勢いだった。)
小6では学校はだいぶ落ち着いてきたもの、継父との関係は相変わらずだった。
また、妹もこの頃から継父との関係が悪化してきており、不登校気味となっていった。
中学では寮生の少人数の学校に入った。これにより、家族とも同級生とも離れることができ、私にとっての人生の転換点てなった出来事であると思う。
ただ、男子は野球部に、女子はバレー部に強制的に入部であり、内心でバレー部に入りたいと思っていたが、叶わぬ願いであった。(幸い丸坊主は避けれた。)
中2になると寮の中で私が最年長となったためリーダーシップを取ることとなった。
完璧主義だったため自他ともに厳しく、今では後輩にもっと優しく接すればよかったなと感じる。
中3では男子として野球することが嫌で地元の中学に戻り、そこで小学校の時の数少ない友人と家庭科部をしていた。
またそれ以外については受験勉強をする日々であった。受験に関してはもともと勉強はできていた為もあってか、地域の公立高校の2番めに良いところに合格できた。
家での生活はこの頃、継父は単身赴任であったため、実家が一番平和な時期となっていた。(また、妹も私のいた寮にはいった。)
寮で過ごしたことにより、色路学べたおかげもあってか、継父と小学校の時ほどは酷い関係ではなく、お互いに最低限以外の会話をする程度にはなっていた。
高1では理系クラスであったため、いわゆるオタクが多く、私にとって天国のような環境であった。また、寮の時の後輩と文通をよくしていた。(寮は電話・メールは基本禁止だったため。)
また、中学生の頃から留学に興味があり、そのための準備をし始めた。
高2,3ともそれなりに優秀な成績で学校生活も楽しめたが、学校が福音派の学校でありLGBTに対して差別を行うというほどではないものの、聖書を引用して厳しい態度をとったこと、食事が不味いこと、男子寮で生活すること(アメリカで大学では基本寮生活)にストレスを感じ、アメリカの大学を受験はしなかった。
進路は迷ったものの帰国した年度中に大学の工学部に合格しそこに入学することとなった。(親元にいたくなかったので実家から通えない距離の大学のみ受験した。)
大学の学業については、アメリカの授業の進度が遅く苦労はしたものの、なんとかついていくことができそこそこの成績を収めることができた。
ただ、1年目に男子寮に入ることとなり、それで精神を病み、このままでは学業に支障が出たり自殺しかねないという事で、精神科(ジェンダークリニック)を尋ねた。
また、この頃に同じ性同一性障害の彼女が遠距離であるができた。(ただし、どちらかというと共依存のほうが近い関係であったと思う。)
B2になるとアパートぐらしに移り、またホルモン注射をするようになったため、見た目も女性的になりつつあったため、精神的に非常に安定するようになった。
学業についても学科の上位1割に入っており、勉強の遅れを鑑みれば非常に良い結果出会ったと思う。
ただ、この頃に彼女との関係が共依存に近いものであったこともあり、それが崩壊し分かれることとなった。
大学3年生の現在、自己の労働力や頭脳以外の"人間としての価値"を自分自身で見出だせなくなってしまった。
他大の友人との交流もあり、より良い環境の院に行きたいし、自分のやりたい研究・仕事もある。けど、それ以外の人間的な将来について何も想像ができないし、強い希望を持つことができない。
自分自身の事なのに自分だけではにもできない事でつっかかかってしまった。
来年までに戸籍の変更もできるだろう。だいぶ恵まれている方だ。
けど、戸籍を変更したら私は結婚という選択肢を捨てることとなる。(そもそもパートナーなぞできないが)
変更しなければ就活で奇異の目で見られ苦労し、キャリアに影響が出るだろう。
なのにどうしたらいいのか分からない。
ホルモンバランスの崩れのせいもあるのだろうが、また自殺願望が湧いてきてしまう。
薬物への知識も多少あるため合法な乱用の仕方も知っている。そこに逃げてしまう可能性が否定しきれない自分が怖い。
精神科・心療内科に行ったところで薬が出るだけだろう。それで一体何になる。
どうしたらいいのか。
助けて欲しい。
なんか、すごい唐突に「私生きてもいいんじゃないか?」と思えて、明るい未来を描けて、根拠のない自信に溢れて、涙が止まらない。
運動をしたからか、甥(5歳)と二人きりで過ごさせられたことが思いの外楽しかったからか、色々理由はあると思うけど、唐突に「なんか、これからの人生なんとかなる気がする!」「楽しい人生を送れる気がする!」という楽観視が出来るようになってる。
今まで「楽しい未来」を想像することがマジで本当にできなくなっていたのだけれど、なんか、漠然と「楽しい未来」が想像できる。帰り道とか、食後とかに「幸せ」を感じている未来が想像できる!すごい!!「幸せな妄想」ができる!感動!!
私、今まで自分のことをうつではないと思っていたのだけれど、冷静に考えてうつに片足突っ込んでいたのでは?と思う。
・「自分は生きてはいけない人間」「自分はダメ人間で悪い子」「どう頑張っても幸せにならない」「幸せになってはいけない」などと無自覚に考えている
・ゆえに肉、甘味、酒などを接種しない(食べるときは罪悪感を感じながら食べる/食べた後に罪悪感に襲われる)
・何か楽しいことがあったあとは「私には楽しい思いをする資格がないのに…」と罪悪感に襲われる。
・やりたいことが見つからない。食べたいものが分からない。正確に言えば私のなかに色々な願望はあるのだけれど、無意識に私にはそうする資格がないと諦めている
・死にたいな、死ぬべきなんじゃないかなと思いつつも死ねないことに絶望している
この辺、全体的にうつの症状では…?
・頑張ることが怖い、しんどい、つらい思いをしたくないと口癖のように言っている→うつは頑張っている人がなるから、頑張っていない私はうつじゃない
という思考回路で自分のうつ思考を全然自覚できていませんでした。上にかいたことも全体的に「今思えばこう考えていた」です。
例えば、母に働けと言われたときに、私は職場で上司に出来が悪いと叱られ、同僚に感じが悪いと白い目で見られる妄想しかすることが出来なくて、そんな思いをするくらいなら絶対に働きたくないと思っていたんだけど、今思えばなんか、そんなことなくない?
人を人として扱えない人もそりゃいるけれど、心の優しい人はそれなりにいるし、仮に嫌な目に遭えば、転職すればよくない?
ーーー
基本的に悲観的な考えが頭を占めている時は、楽観的な思考はどこかに行くし、そもそも自分が悲観的だと自覚できていない。
理想は悲観的な私と楽観的な私が同じくらいの分量で話し合う脳内だろう。
でも、今はなんだかすっごい躁モードな気がするから、はやく落ち着きたい。後でガタがきそう。
おそらく私はゼロヒャク思考が強めなので、鬱モードになったときに「躁モードの時と同じだけ頑張れない私」が許せなくて、いっそなにもしないということをしてしまいがちなのだけれど、「必要最低限頑張れた私」「そこそこ頑張れた私」を認めてあげるところからはじめるべきでは。「100点以外は0点と同じ」という思考ではなく、「60点もとれた私偉い!すごい!」という思考にするべき。あと、躁鬱の概念すごく便利。「今私は鬱モードだから」と全力馬力を出せない自分を許せる。というか「全力馬力は躁モードの私だから、本来の実力ではない」と言い替えた方が私にとってよいかも。私はおそらく躁うつ(双極性障害)ではないのだけれど、そのスペクトラム上にはいると思う。
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ねえ、もしかして私「頑張らなくても"良い"」んじゃない?頑張っているかどうかで、私の良し悪しとか、変わらなくない?
別に頑張る必要がないわけじゃなくて、頑張ろうが頑張らなかろうが私は私なんじゃない?「私」に頑張るか頑張らないかなんて、関係ないんじゃない?
今はまだ半信半疑で「本当に頑張らない私も私としてしまっていいのか?」と思っているけれど、頑張っている私も私だし、頑張っていない私も私なのでは?頑張っていない私を否定する必要はないんじゃない?むしろ否定していると、先に進めないんじゃない?
そう思えると私は随分生きやすくなるなあと思うのだけれど、どうだろう、本当にそんなことおもっちゃっていいの?大丈夫?後で取り返しのつかないことにならない?取り返しつかなくなったその時に考えればいいのかな。本当に大丈夫?
頑張ろうが頑張らなかろうが私は私だからこそ、思う存分頑張ることができるのよ。
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優等生であろうがなかろうが、完璧であろうがなかろうが、私は私だからこそ、思う存分優等生を目指せるんだよ。
私、自分のことをたいして頑張れる人ではないし、完璧主義者ではないし、優等生でもないという評価だったのだけれど、自分でそういう評価をするということは、その実自分が誰よりも優等生で完璧で頑張れる人に憧れ、なりたいと思っているということなのでは?そんなものになる必要、なくない!?
人間は失敗する生き物なんだよ。失敗した自分を否定しないで受け入れて。失敗しても成功しても、私は私、どっちでも同じなのよ。で、どっちでも同じなら、成功した方が嬉しいよね。
「頑張らなくても"良い"」の対偶を書くなら「頑張らないは"悪"ではない」でしょ?(厳密には違うけどこの際気にしない)頑張らないことは悪いことじゃないんだよ。頑張らない子は悪い子ではないんだよ。頑張ろうが頑張らなかろうが、みんな等しく「子」なのよ。
私、たぶん頑張ろうが頑張らなかろうが幸せになるわ!そんな気がする!頑張ろうが頑張らなかろうが私の未来はそんな変わらない気がする!
頑張るのと、頑張らないのとで、未来が一緒なのであれば、頑張った方がいい、と思えるメンタルを継続していきたい。なんか、気を抜くと「なら頑張らない方がよくな~い?」とか言いそう。
しかしながら!頑張るかどうかに私の良し悪しは関係ないのだから、「頑張らない」を選択しても、良いのだ!
これで、良いのだ~~~!!!
それって犯罪なんだろうか?全ての人間に蔑まれる程の悪事なのだろうか?
https://togetter.com/li/1243424
ここでは、発言を纏められて、ブコメでも散々にバカにされているけれど、
40代独身には寂しい思いをしていることを呟く資格すらないのだろうか?
そう思うと、なんだかやりきれなくて眠れない。
この人ほどじゃないけど、自分の境遇もあまり人に自慢できるもんでもない
41歳で未婚だし彼女もいない、これまで付き合った女性が居ない訳じゃないし4人ほどとお付き合いさせてもらったけれど
その期間も合計して10年に満たず、最後は必ずフラれて終わってる有様ですよ。
妹には既に3人も子供が居て長男は高校生になろうかという年で、婚期を逃していた末の妹も昨年、目出度く結婚して
二言目には結婚しろと言っていた両親も、ついには何も言わなくなり、その心遣いがむしろ痛い
多少、アピールできる点があるとすれば東大卒で、修士時代の研究が国際会議で高く評価された位なもんで
仕事はと言えば、大学で学んだ内容を活かした研究開発職とかいいつつ、40にもなって年収800万弱のサラリーマンでしかない
同窓会では肩身の狭いことこの上ない
安月給の割りには多忙で遊ぶ時間もあまりないのに、趣味と言えば土日祝日使って勉強することや
ロードバイクに乗って遠出することで、ますますお一人様が捗っている始末だけど、それが楽しくてしょうがない
そんなもんだから一人でいる事になれてしまって、今や生きてる間にトップジャーナルに採択される論文を5本出す事が
人生の目標だったりして、ますます自分の事にしか興味がなくなっていくから、女性とはどんどん縁遠くなる
この数年で女性との会話やデートなんかは、行きつけの居酒屋やコーヒーショップの店員としかしてないし
良い感じになっても最終的には失恋で終わる位、女性とは縁がない
料理もするし潔癖の完璧主義が祟って家事全般で困らないから、一人で困るという事がないのは確かだし
幸い自分自身の金融資産と両親が残すと言ってる遺産で生涯年収程度の資産はあるから
老後に困る事がないというのも、焦って結婚をしようとしなかった理由だけれど
それでもやっぱり、幸せそうな夫婦や家族を見ると羨ましいなと思う
妹の子供が出場する試合に応援に行ったり、妹の子供と遊んだり、勉強を教えたりしていると
自分にも子供がいればなぁ、なんて思って寂しくなるし、仲睦まじい妹夫婦を見ていると
やはり愛する人が居て、子どもがいる幸せは羨ましいなと思うんだよね
年収なんて半分でもいい、学歴もそこらの駅弁でいいから、子どもの居る家庭を持ちたかったよ
何も人並みの幸せが手に入らなかった自分が情けなくて、思わず一人嘆いてしまう夜だってある
それを笑われてしまうのって、ほんとやるせない
https://anond.hatelabo.jp/20180704211952
億万長者でもない41歳未婚彼女なし、それって罪なのかなぁ
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みなさんは6月2日が何の日かご存知ですか。
私もそれを知ってから今年で2回目。
せっかくの日なので、私も少し、摂食障害のことをみなさんに知ってもらえたらという思いで書き綴ります。
自己満足です。
ただ自分の過去をこの機会に振り返ろうと思って記す備忘録です。
ある程度道が拓けたと感じている今の思いも綴れたらと思います。
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でも摂食障害はそれだけではありません。
大量に食べては吐く過食嘔吐、
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きっかけは1kg増えてしまった体重を落とさなきゃとダイエットを始めたこと。
たったそれだけです。
でも何も食べなかったら4kgくらい落ちたのが気持ちよくて、
また何も食べず体調を崩してしまったのを周囲に心配してもらえたのが嬉しくて、
どんどんハマっていきました。
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当時は難関の大学を目指しており、寝るとき食べるとき意外は言葉どおり全て勉強に費やしていたりして知らず知らずにストレスが溜まっていたこと。
母親から強く責められることが多く、もともと自己否定感が強かったこと。
色んな私の性格に、ダイエットというきっかけが合わさって、拒食症の世界に引きずり込まれて行きました。
大学合格とともに手に入れたのは、身長164cm体重37kgの身体でした。
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当時は自分が大好きでした。
大学合格のため一日中誘惑に負けず勉強できる自分もすごいと思いました。
もちろん口には出しませんが、自分の周りの人たちはそれができない心の弱い人だと内心見下していました。
今思えば、一番心が弱かったのは自分自身です。
摂食障害でドーピングしないと、生きていけないほどに心が弱かったんです。
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完璧主義だった私に、一人暮らしや大学は、良くも悪くも色んなことを教えてくれました。
授業でSを取らなくても、単位がもらえること。
勉強のため毎朝5時に起きなくてもいいこと。
夜遅くまで友達と飲んで、ときには昼の12時に起きたっていいこと。
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そんな中で完璧主義は多少和らいで、そのせいなのか体重も5,6kg自然に増やすことができました。
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そこで、私がどんなに高校生の頃自分の首を絞めて生きていたのか、思い知りました。
母から色んなことを言われました。
「〜ちゃんは少食だから、このお店の定食全部は食べられないでしょ?」
「〜ちゃんは今でもきっと朝早くから起きて勉強してるんだよね、えらいね」
「部屋いつも綺麗にしてるのね、えらいね」
自由に生き始めた自分を押し殺して、少し高校生の頃に戻って「いい子」で過ごした4日間はとても苦痛でした。
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このあたりから父と母の関係が更に悪化したこともあって、家族とは連絡を極力取りたくないと思うようになりました。
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そして時は流れて12月。
忘年会シーズンで、色んな団体の忘年会に参加しなくてはならず、体重は更に増え、拒食になる前の体重をついに超えました。
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もともと、飲み会など食べ物がたくさん出る場は、何をどう食べていいのか分からず、苦手でした。
飢餓から解き放たれた獣のような感じで、たくさん食べて、翌日後悔します。
だいたい今までは、その翌日に断食をする事でなんとかやり過ごしていました。
そう振り返ると、大学に入ってからも完全に拒食症から解き放たれていたわけではありませんでした。
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12月は飲み会続きで、翌日断食をすることもできず、不安と恐怖だけがつのりました。
自分で自分の制御が効かなくなり、気付けばコンビニやスーパーで大量に買い込んでは、一度に食べるのが習慣になりました。
その頃新しく始めたバイト先で、毎日暴言を浴びていたストレスも原因にあったと思います。
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ここで忘れないで頂きたいのは、非嘔吐過食に苦しむ人たちは、いつも頭の中は「痩せたい」でいっぱいなのだということです。
行動と照らし合わせたら、信じていただけないかもしれませんが、誰よりも痩せたいと思っています。
いつも「痩せたい」で頭が支配される病気、それが摂食障害なのかもしれません。
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拒食症の時から一変、非嘔吐過食の時は何もかも頑張れなくなりました。
朝起きるのもつらく、おしゃれをするのもつらく、化粧もしなくなりました。
勉強も頑張れませんでした。
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そして拒食症の頃、自分で内心バカにして来た対象が自分そのものとなりました。
ダイエットすら頑張れない。
勉強も頑張れない。
過食して家にこもって涙を流してばかり。
そんな自分が大嫌いになりました。
高層の建物に忍び込んで、飛び降りようとしたこともありました。
すべて死に切れないことが怖くて、最後まではやり遂げられませんでした。
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医者にも行きました。
初めて行った医者では摂食障害は専門には診ていないところだったからか、個人的に心が傷つくことを言われ、薬を出されて帰されました。
そしてまた誰もわかってくれないという思いで、過食が酷くなりました。
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ただそんな私も、色んな人に支えられて、あれから1年以上経って、普通の食事を取れる日は増えて来ています。
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2回目はすがるような思いで専門病院を訪ね、そこで良い先生と出会えました。
「過食しないと生きていけないくらい、心が辛いんだよ。過食は悪じゃない、ないと生きていけない大切なものなんだよ。」
そう言われてからスッと心が軽くなり、過食は減ることはありませんでしたが、罪悪感で心がはち切れそうになることはなくなりました。
今は授業の関係上、病院に通うことはできていませんが、今でもたまにまた話を聞いていただきたいな、と思うことがあります。
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また大学を休みがちになった時、1人だけ熱心に私に電話をかけたり、家を訪ねたりしてくれた友人がいました。
その子は私とは対極的の楽観主義者で、今はどんな状況でもその子に励ましてもらって頑張ることができています。
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今の自分の体型はとても、嫌いです。
今でも痩せたいといつも思っています。
特に生理前は特に気持ちが崩れやすく、学校に行けない日もまだまだあります。
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でも私は摂食障害を経験できて良かったと、心の底からと言ったら嘘になりますが、少しだけ、思っています。
もし摂食障害にならなかったら、私は挫折を経験せず、自分より劣る人の気持ちなんて考えず、内心バカにして生き続けたでしょう。
そんな私の心を広くしてくれました、また人の気持ちがよりわかるようになりました、思いやりを持てるようになりました。
神様から「お前はこのままではいけない」と与えられた試練だったのではないかと、今は考えています。
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先ほども述べましたが、私もまだまだ万全ではありません。
身体は健康的になりましたが、時には辛くて辛くて仕方ない日もあります。
まだまだ自分が大嫌いです。
人と自分を体型や成績、全てのことで比べがちです。
摂食障害と私のおつきあいは、きっとこれからもしばらく続くんだと思います。
それでも平穏にお付き合いをして、いつかはお別れをしたいです。
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一番伝えたいのは、「一見健康そうに見えても、摂食障害と闘っている人は沢山いる」のだということ。
これは摂食障害の9つの真実、というものにも取り上げられています。
http://peerful.jp/articles/eating-disorder/7255.html
あなたの周りにももしかしたら、闘ってる人がいるかもしれません。
気づいたらそっと、見守ってあげてください。
辛そうな時は寄り添ってあげてください。
それだけできっと救われます。
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自傷行為(じしょうこうい、self-harm、以前はself-mutilation)とは、意図的に自らの身体を傷つけたり、毒物を摂取する事であり[2]、致死性が低い点で自殺とは異なる。リストカット、ライターやタバコで肌を焼く(根性焼き)、髪の毛を抜く、怪我をするまで壁を殴るなどの行為がある。虐待のトラウマや心理的虐待及び摂食障害、低い自尊心や完璧主義と正の相関関係があると考えられている。また抗うつ薬や、他の薬物などが自傷行為を引き起こすことが知られている。
本来の意味を曲解して正当化しようとしてる時点で、弱者に攻撃しても良いってマイルール脳内に作ってるのだなと理解したよ。
なるほど、精神病んでる人の思考というより犯罪者に近そうだね。
良かったじゃないか。
長いけど、原因と対策とをまとめた。自分用メモでもあり、誰かの役に立てばそれはそれで幸い。
まず、世の中の構造が機能不全だと認める必要がある。なんでも自己責任自己責任と言っているのは思考停止。
生きづらさを感じる人は、なぜ、この社会はかくも病んでいるのか、を理解する必要がある。
が大体の機能不全の原因だと考える。
・自分と他人が別の人間だという意識が弱い、自分がこう思うのだから他人も同じという同一視が激しい(単一民族国家が原因。見た目に差がないから中身や考え方まで同じといった、「みんな同じ」幻想が強い
・専業主婦や終身雇用など、他者や組織に依存しないと生きられない仕組みを作った、安定はあってもそれは依存であり自由や自立を奪う(不安遺伝子が原因。自由や自立よりも安定を好む人間が多いんだろうけど、他者や組織に依存しないと生きられない、共依存社会なのは不健全
・減点主義で完璧主義な働き方を良しとする。いくらやっても褒められず、真面目にやればやるほど合格点がどんどん高くなり、自分で自分の首を絞める(不安遺伝子が原因。不安が強いと完璧主義になるけれど、それを社会全体でやらなくてもよい。完璧主義な社会は他者への寛容さがない。だから、迷惑をかける人間が悪とされる。赤ん坊やベビーカーや、迷惑をかけて当然なのに。寛容さがなくなった結果、自己責任論が強くなる
・上記の完璧主義と同一視が行きすぎたからか、思考停止をしてマニュアル通りに動くことを求められる。「相手によって求めているものに違いがある」という前提がない同一視の激しさと、完璧主義な接客を求めた結果だと思う。
マニュアル通りに動くこと、は、自己主張をせず自分を殺してロボットのように振る舞うこと、に繋がる。
・上記のような働き方が原因で自己主張が良しとされず、自己主張が良しとされない風潮ができ、自己肯定感が低く不安遺伝子が強い日本人は、他者に嫌われないために自分を抑圧するようになる。(日本社会が周りに合わせる、空気を読む、同調圧力の強さ、などと言われるのは、抑圧の強さから)
日本人の自己肯定感の低さについては、国の調査がソース。子供を対象にした調査で他国より圧倒的に低かったけど、子供がそうなんだから大人も高いわけがない、という解釈。
「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ」とか「ありのままで」とかって抑圧を嫌うフレーズが流行りながらも、その風潮は変わらない。(社会構造が変わらないから)
こういった、生きているだけで大きなストレスの原因となる、社会構造・風潮があることを認める必要がある。
そして、このストレスの原因が、パワハラやセクハラといった社会問題を起こしていることを認める必要がある。
パワハラやセクハラを減らしたいなら、こうった社会構造を変えないと、無理。個々の対処療法では、ストレスが別の矛先に向くだけ。
(最近の例なら、女の記者を男に変えたところで、男記者へのパワハラが起こるだけ)
今の社会構造では、支配-被支配が連鎖してその中で暴力が連鎖していってるから、支配-被支配に陥る構造を変えない限り、パワハラやセクハラといった暴力はなくならない。
既出の、専業主婦や終身雇用などの他者や組織に依存しないと生きられない仕組み、が、支配-被支配の原因。
現に、パワハラ的ではない労働環境の方が少ないという異常なことが起きている。労基法を守らないのが当たり前、という労働環境が多すぎるのは狂っている。
日本の問題は、労働環境が異常という点は認識しながらも、そこから先を考えていないこと。その異常が原因で数々の諸問題が起こっていることを認識していないか、わかっていても見て見ぬ振りをしていること。
セクハラ、痴漢、DV、レイプなど、性暴力が減らないのは男が被支配のストレスを溜めているから。労働者として会社に支配されパワハラ的な働き方を強いられることにストレスを感じ、弱い存在に八つ当たりしている。八つ当たりは許されないけど、性暴力が減らない背景にはこういった事情があることを理解した方がいいと思う。
会社-労働者といった支配関係の中で被害者の男が、男-女といった支配関係の中で加害者になっている、ということを理解した方がいい。
男が長時間労働前提の働き方で父親不在の家庭が多く、それ故に母子密着になることが多いのが日本の家庭の問題。(同じく長時間労働前提の韓国でも母子密着が激しそう。母親の過剰な神聖化と、男尊女卑の強さと、長時間労働が前提の社会だと共通項がある)
社会としても、過剰に母親に責任を求める風潮がある。そういう社会からのプレッシャーと実際の1人での子育て(以下ワンオペ育児)に、余裕がなくなり「毒親」となってしまう母親は多いと思う。
毒親経験者の体験談を読んでいたら、ほとんどが母親のワンオペ育児の結果だった。父親と母親の両方がいるケースにも関わらずワンオペ育児という概念があることが不健全だということに、社会が気づく必要がある。
主婦にしろ主夫にしろ、不健全。(相手に経済的に依存することと、ワンオペ育児という親と子の両方に負担があることをすることが)
ワンオペ育児が当たり前となった社会をやめるためには、長時間労働前提の働き方を変えるしかない。
そして、子供の中で家庭環境にストレスを抱えた人間が学校でいじめをしたり、動物や虫を殺したり、暴力の連鎖、八つ当たりの連鎖なのが、この社会。
暴力・ストレスの原点である、会社-労働者の支配-被支配をやめれば、長時間労働前提の働き方ではなくなり、女が労働市場で不利になることがなくなり(長時間労働前提で終身雇用前提の現状は女が圧倒的に不利)専業主婦という経済的に他者に依存する生き方を選ばなくてよくなり、男も育児参加できるようになり、ワンオペ育児が原因の機能不全家族も減る。
要するに、会社-労働者も男-女も親-子も、対等な関係性になれる。
労働者が終身雇用を人質にパワハラ的な働き方を強いられることがなく、専業主婦が生活費を人質に家事育児を押し付けられたりDVを受けることもなく、そういった親側のストレスやワンオペ育児にならざるを得なくなる環境がなくなり親子関係も今より健全になる、と。
なので終身雇用をやめて中途採用前提の社会にすべき、と私はずっと言っているが、いつになることやら…。
自民党は、支配者(会社)に都合が良い政策、経営者などの雇う側に都合が良い政策しかできないから、いつまで経っても会社-労働者の支配-被支配の関係が変わらず、その結果、男-女や親-子の支配-被支配が再生産されることも変わらず、ずっと、機能不全社会のまま。
さて、原因については終わり。
社会を変えるという方向性ではなく、機能不全社会でどう振る舞うかという自身の態度についての方向性で考える。
ここ数ヶ月、この機能不全社会でどう生きれば幸せを感じられることが増えるのか、それをずっと考えていたけど、そこまで難しいことではないのかも、と思えるようになってきた。
女性は結婚をしない(自分が相手と同等か相手以上の収入がある場合を除く。自分の収入に問題がなくても、家事育児を手伝う気がない男とは結婚しない方がよい。稼ぎは同じなのに家事負担は不公平といった理由で不仲な夫婦しか周りにいないため)
これによって、他者や組織に経済的に依存して、意に沿わぬことを強いられる状況を避けられる
(意図的な選択ではないにしろ、結果的にこの状態を選択する人が増えている。未婚率の上昇と自分の意思で非正規や無職を選ぶ人間の増加と。このまま、結婚や終身雇用の正社員という立場を拒否する人が増えたら、システムは変わるのかな…?
・同一視を強化させるような情報に触れないこと
一番はテレビ、私個人は何年も見ていないけれど、価値観の押し付けという面で、一番タチが悪いのがテレビだと思う。街頭インタビューとか、価値観の押し付けの極みかと…。
ネットも、使い方によれば、毒になる。
似たような価値観の人が集まる場所を選択して見えるからこそ、視野が狭くなるのが、ネットの怖さ。
他人と自分とは違う、1つの物事に対しても多種多様な見方がある、と常に意識してネットができたらいいけど、それができないと、多くの情報に触れているつもりでも、自分の価値観・偏見が強化されているだけで、視野が狭くなっているだけのこともあるので、注意が必要…
価値観なんて宗教みたいなもの、人間には偏見がある、考え方は人と自分で違っていて当たり前、と理解した上で、似た人の集まりを選択するのは良いかもしれないが、それを理解せず、自分の価値観が正義で他は間違っているというスタンスでネットをするのは、同一視が激しいのでやめた方がいいと思う。
そういったスタンスでネットをしている人間も多いように感じる。
機能不全社会でシステムに適応をして抑圧をしてストレスを溜め込んで生きている反動で、ネットで喚き散らす人間が多いのかもしれないけど(病んだ社会ほど、匿名の空間が荒れてる、日本にしろ韓国にしろ
他者と自分を同一視せず、あくまで、人は人で自分は自分で違っていて当然だという前提を持つこと。(社会的にこのコンセンサスがないから、機能不全社会なんですが)
たとえネット上でも、そういった前提がない人間が多い場には近づかないこと。
個人的には、多くの人間が集まる場所、SNSやポータルサイトなどは、そういった前提を持たない、同一視が激しい人間も散見されるので距離を置いた方がいいのかも、と考える。
・あとは、減点主義ではない職場で働いて(フリーランスで雇われずに働くのもあり)、自己主張をして、思考停止を良しとせず自分の頭で考えること
これぐらい、思ったより難しくない。
既存の価値観(終身雇用の正社員が素晴らしいだとか、結婚するのが偉いだとか)に囚われていたら無理だけど、そういった価値観を捨てて、病んだ社会システムにいかに巻き込まれずに生きるか、といった生き方を選択するのは、難しいことではない。
一番辛いのは、病んだ社会システムだと自覚しているのに、そのシステムの中で生きていること。(私個人も今の職場が病んだ社会システムの象徴のような場所なので、早く辞めたい。契約が切れるまでは、そのシステムに染まらず自分を貫いて保って、乗り切る…)
システムの異常を知覚したら、そこから離れて、異常に巻き込まれずに生きること、これが一番大事なんだと思う。
機能不全家族なら親と実家から離れること、ブラック企業なら辞めること、機能不全社会なら国外に脱出するか、ここに書いたような機能不全な部分に巻き込まれない生き方をすること(日本に生きていても、機能不全な部分に巻き込まれずに病まずに生きている人もいるから。正社員でも終身雇用ではない専門職(資格職)の人とか、抑圧や思考停止をしなくてよい社風のベンチャーで働く人だとか、夫に経済的に依存していない女性だとか。
大多数が病んでいる社会でも、病まずに生きることは不可能ではない、と理解すること。(日本みたいな不健全な社会で幸せを感じようとするより、健全なシステムの社会で幸せを感じる方が楽だと思いますが。言葉の壁とかが気にならない人はシステムが健全な社会に逃げるのもあり)
この異常なシステムの中で病まないためには、会社に支配されない、女性なら男性に支配されない(経済的に依存しない)、これが、一番大事なんだなぁ、と感じる。
そして、健全な社会(自殺率が低かったり、幸福度が高かったりする社会)は、これらが当たり前に満たされているんだな、と。
中途採用前提だから会社と労働者は対等だし、日本ほど男女の賃金格差が激しくない・長時間労働でもなく終身雇用でもないから女性が男性と同じように働いて稼ぐことが可能で、男と女が経済的に対等だし。(先進国でも男女の賃金格差はあるけど、日本より圧倒的にマシ
男も女も支配-被支配に組み込まれやすい社会構造だからこそ、病んでて、そのストレスを他者を攻撃することで発散してるこの社会だけど、その他者を攻撃するエネルギーを社会構造を分析したり社会構造を変えるための行動に使う人が増えれば、もっと世の中はマシになるのでは…と思いますが。
長いから最後まで読んだ人がどれくらいいるかわからないけど、同じように、機能不全社会に生きづらさを感じる人の思考の役に立てばいいな、と思います。
システムは異常だけど、適応せずに生きれば、病まずに生きることも可能だ、と、自分に言い聞かせたかったのと、そうやって、異常なシステムに適応せずに自由に生きる人が増えた結果、システムが変わればいいな、という希望と。
子音だけの音もないし。
英語を含む日本語以外の発音は大なり小なりややこしい発音があって、
だから日本語以外の言語圏の人は英語の発音をそのまま認識することができてる。
あとは頭の中で一回思い出すごとに、一回口に出すごとに、
脳がDeep learningして英語がちょっとづつ上手になるんだよ。
でも、日本人はいったん英語の発音をカタカナに変換して記憶している。
日本人が頭の中で思い出そうとしても、口に出そうとしても、
それは変換されたカタカナを出力してるだけ。
俺たちが思い出してるのはLearningじゃなくてラーニングなわけ。
対策としては英語の発音系統を発音記号込みで体得するしかない。
そしてそれには脳内で日本語だけ対応の聞き取りシステムが完成する前にやれば
君は1年前の私か? 同じような悩みを抱えていた。俗に言う積ん読。気になる本や読みたい本はたくさんあるんだけど、買ってきたはいいが読む気にならない。本も読めないダメ人間なのかと罪悪感にさいなまれる。
しかし、そんな日々は終わった。工夫ひとつで誰でも読めるようになる。1年前に苦悩していた私は、今年は30冊くらい読んだ。大きな進歩だ。しかも努力不要。
1. 「本を開く」ことを目標にする
本を読もうとするから億劫になってしまう。1日◯◯ページという目標はあまり良くない。目標は「本を開く」ことだ。目標は限りなく小さくせよ。で、読みたかったら読めばいいし、そんな気分じゃなかったら読まなければいい。数ページでも読めたら儲けものだ。
2. 疲れてきたら読むのをやめる
読書=苦痛となってしまったら一巻の終わりだ。つまらないことは誰もやりたくない。世の中には1時間でも2時間でも読み続けられる超人もいるけれど、我々は凡人だ。私は今でも10分も読むと疲れてしまう。あ、もう読みたくないなと少しでも思ったらすぐに読むのをやめる。すると、読書の楽しい印象だけを持つことができるので、次に繋がる。
3. スキマ時間で読む
5分の空き時間があったら何をするか? 読書が最適だ。読書は腰を据えてしなければならないと思いがちだけど、そんなことはない。むしろ5分の積み重ねだけで1冊読める。スキマ時間はニュースのチェックにも最適な時間だけど、ニュースチェックに飽きたら読書だ。継続すれば、気がつけばいつの間にか半分も読み終わってたと驚愕することになるだろう。
4. つまらなかったら読むのをやめる
本は最後まで読まなければならないという固定観念がある。私も完璧主義的なところがあって、つまらなかったり難しかったりするけど最後まで読まなければという考えに縛られて、結局は読書がつらい体験となってしまっていた。もちろん、つまらないし難しいので最後までは読めない。自分に合わない本だと思ったら途中でもバッサリ切り捨てる勇気を持つことだ。相性ってものはどうしてもあるから仕方ないと割り切ろう。ふとした時にまた読みたくなったら読めばいい。
5. たくさん読みたいなら多読
読書量を多くしたいなら、多読だ。3冊とか5冊とかを同時に読む。こう書くと超人的に思われるかもしれないが、そんなことはない。上に示した「疲れてきたら読むのをやめる」を応用する。1冊目に飽きてきたり疲れてきたら、1冊目は閉じて2冊目に移る。頭がごんがらがりそうと思うかもしれないけれど、否、違う内容が書いてあるとなぜか読めるのだ。自分でもやってみてびっくりしている。1冊目が助走になる。2冊めに飽きてきたら3冊目。
さあ、まずは本を開くところから始めてみよう。読む読まないは自由だ。読まなくても罪悪感を感じる必要はない。だって、目標である「本を開く」ことはできたわけだから。
日本の労働環境が異常で、それが様々な社会問題の原因だと思うのに、それでも正社員という奴隷を好む人が多いのは、なぜ…
終身雇用の正社員という奴隷的な働き方で会社に依存させられ、そういった不自由な人間が、自分が支配できる人間、専業主婦の妻だとかを求める。
自分が会社無しでは生きられないことを忘れるためなのか、自分なしでは生きられない、経済的に依存させられる専業主婦の妻を持ち、支配し。
そういった夫の支配にストレスを溜めた妻は、子供に歪んだ愛情を注ぎ(あからさまな虐待や、虐待と無自覚の過干渉や)それでストレスを溜めた子供は、学校でいじめをする、と…
支配と被支配の連鎖、暴力の連鎖の社会で、その根源は、パワハラ的な働き方が当たり前になっている労働環境と、会社に依存させられる終身雇用というシステムのせいなのに、なぜ、いじめや性暴力や虐待をなくそうと訴える人は、労働環境の改善に目を向けないのか…
ここが変わらないと、多くの社会問題は変わらない、反対に、ここが変わると、多くの問題はマシになる、と思うのに。
終身雇用の正社員も専業主婦も、他者の存在なくして自らが生きられない、自立できない存在にされていて、そういった、他者や組織に依存しないと生きられないシステムが社会病理の原因、と、なぜわからないのかなぁ…
終身雇用ではない、資格職で辞めても正社員での就職が可能な人たちは、終身雇用の正社員より思いつめていない、それほど、終身雇用が異常だって、なぜわからないのだろうか…
他者や環境に依存しないと生きられないシステム以外にも、異常なことが多くて、あるブログで、機能不全家族で育った場合の認知の歪みとしてあげられていた
・同一視
・完璧主義
・感情凍結
・思考停止
全てが日本社会に蔓延してることで、前から、機能不全家族に似てるよな…この社会…と思ってたから、腑に落ちた。
日本社会も機能不全家族みたいな環境だから、中身が子供の大人が多くて、だから、子供が主人公の娯楽ばかり蔓延してて、高校生ぐらいの主人公(男)が中高生ぐらいと恋愛するっていうゲームや漫画やアニメばかりの、ロリコン気持ち悪い…と思うような状況なのか、と。
日本人はロリコンというより子供コンプレックスだと思う、ガチのロリコンもいるんだろうけど、日本人全体が、大人の自分自身を受け入れられてなくて、子供に憧れが強くて、子供が主人公の娯楽作品を楽しんで、現実逃避してるっていうのが、現状じゃないか、と…
大人が大人を受け入れられる、大人の置かれた状況がマシなら(機能不全家族みたいな社会や異常な労働環境ではないなら)他の国みたく、大人が主人公のゲームや漫画が増えるんだろうな、と。
他人と自分の境界を理解していない、みんな同じという幻想にとらわれて、他人に干渉してくる、同一視が激しい社会、
完璧主義で減点主義で、うまくやっても褒められず小さなミスは責められる、だから、組織はミスを隠す方向になる、変化や変革というリスクがとれない社会、
個人より肩書き・立場が優先され、あるべき対応や姿を求められ、感情を抑圧してでもあるべき対応や姿を貫くことを美徳とする、社会、
ルールだからマニュアルだからと思考停止して自分の頭で考えることを許さず、学校でも自分で考えることではなく答えがあることの答えを覚えることを教えられる社会、
そして、上に書いたように、他者や組織に依存しないと生きられないようなシステム、自立が難しいシステムとなっている社会(お互い専門職やフリーランスで共働きなら、働いていて結婚しても自立し合った状態でいられる、けど、大多数の働く人や既婚女性は会社や夫に経済的に依存させられている)
こんな、機能不全家族の特徴に当てはまりすぎる病んだ社会だから、自殺率の高さやメンタル不調の多さや閉塞感は当たり前なんだけど、そんな社会に適応してる人も多いのが、不思議…
自分はこの異常に適応できず、終身雇用の正社員や結婚といったシステムから距離をとって生きているけど、異常を異常と認識せず、生きている人も多いのが、不思議でならない…
本当に些細なことで注意されて恥をかいたこと、多分誰にでもあると思うんだけど、そういう時に「うわーーーーーめちゃくちゃ恥ずかしいっていうか自分みじめだ!!つらい!消えたい!泣く!ごめんなさいいつも失敗してすいません」って反射的に思ってしまうのをやめたい。
誰でもそういうことってあるし、間違いなんて何歳でもすることだけど、一度の注意でいちいちそう思ってしまうので身が持たず、とてもしんどい。
原因は多分完璧主義者というか、プライドが高いくせに繊細だからなんだけど、自分でもすごくめんどくさいと思うし、変えられるのなら変えたい。要するにプライドが変に高いくせに繊細な自分が嫌いだ。
同い年でプライドがすごく高い人がいたけど、その人は天才で凡庸なミスなんか滅多にしなかったから傷つく頻度も少なかったと思う。記憶力もいいしものの受け答えもはきはきしてたから…
反対に私はうまくできないのにプライドだけが高い。ぼーっとしてることも多いし、言われたことを飲み込むのに時間がかかる。それで傷つきやすいのだから、生きづらさしかない。取り柄が全くないわけじゃないけど、できないことの方が多くて、何だか気が滅入る。
私にはいま追いかけようと思っている夢がある。夢のために、多少強引に自我を通すというか、批判を気にしない度胸も必要だと思っている。私の人生に責任を取らない他人の言葉に、心を折られたくない。だから失敗してもへこたれないというか、ふんばれる方法を教えてほしい。もう簡単にめげたくないんだ。