はてなキーワード: 伝統とは
御譲位を機に皇位継承資格者を男系男子から直系男子に皇室典範を改正するべきである。
家は男が継ぐものであり、日本古来の伝統を守るためにも女性天皇は断じて認めるべきではない。女は男や家族に尽くすものである。男子が家を継ぐという神武天皇以来の祖法を決して犯してはならない。
現在、皇室はかつてない危機に直面している。このままでは、近い将来、皇位継承者がいなくなってしまうだろう。また、こうした状況を利用した反日勢力が、君臣の別を弁えない旧皇族の皇籍復帰論や女性天皇容認論を声高に叫んでいる。
男子継承を守りつつ千代に八千代に皇位を継承させていくためには、女系を認め、直系継承へと変えていかなければならない。
そのためにも女性宮家を創設し、女性皇族に男子を産んでいただかなければならない。
遺伝的なことだとかいろいろ要因はあるけども、とりあえず現状としては全世界的にタブーとして認識されてる。
つまり常識であり伝統であり慣習であり、実体はないけど強制力を持つもの。社会を規定するもの。
タブーとされてることをひっくり返すにはそれ相応のエネルギーが必要でメリットがないと無理。
受益者が多数いるとか現在進行形の人権侵害をなくすだとかそういう感じのこと。
近親相姦はというと、これを認めてタブーを打ち破って常識を変革して、
その労力に見合うメリットがあるかというとたぶんないんだよね。
そのうち自然に変わるかもしれないけど数十年後か数百年後か。
伝統、伝統とはやし立てる一方、伝統と距離を置きたがる人は大勢いる
さてこれを正確に音読できる人はどのくらいいるのだろう
「ちはやふる」と書いて「ちはやぶる」と音読できる人にはたわいもないことだろう
同様に
けんくわ・こうろんにより人をきる事ハ,ておいおほきかたのりうんたるへし。たゝしておい・しにんおほくとも,かゝり候ハヽ,かゝりてのをつとたるへき也
喧嘩や口論で人を斬った場合、怪我人が多い方の言い分を優越させなさい。ただし、怪我人や死人が多くても最初に手を出した場合にはそちらの罪である
戦国時代は怪我人や死人が多数出るほどの「喧嘩」「口論」が絶えなかったので、大名がこういった法を出さざるを得なかったわけだ
「喧嘩」「口論」といっても現代の感覚では理解できない規模だったと想像できる
戦乱に明け暮れていた大名が、地元の喧嘩口論の仲裁に頭を抱えていたとか、あれこれ想像するのもまた一興ではないかな
塵芥集のケースでは喧嘩両成敗の原則はとられていないが、今川領国内の場合は以下の通り
喧嘩に及輩、不論理非、両方共に可行死罪也、将又あひて取かくるといふと
も、令堪忍、剰被疵にをいてハ、事ハ非儀たりといふとも、当座をんひんの
はたらき、理運たるへき也、兼又与力の輩、そのしはいにをいて疵をかうふ
り、又は死するとも、不可及沙汰のよし、先年定了、次喧嘩人の成敗、当座
その身一人所罪たる上、妻子家内等にかかるへからす、但しはいより落行跡
においてハ、妻子其咎かかるへき歟、雖然死罪迄ハあるべからさるか
喧嘩に及ぶ輩は理非を論ぜず両方ともに死罪を行うべきなり、さてまたあえて
取りかかるというとも、堪忍せしめ、あまつさえ疵こうむるにおいては事は非儀たり
というとも、当座穏便のはたらき、利運たるべきなり、かねてまた与力の輩、その支配において疵をこうむり、
または死するとも、沙汰に及ぶべからざるのよし、先年定めおわんぬ、次に喧嘩人の成敗、当座その身一人所罪たる上、
妻子・家内などにかかるべからず、ただしはいより落行跡においては、妻子その咎かかるべきか、しかりといえども死罪まではあるべからざるか
良くあるパターンとしては、「プレイヤーが勇者となって世界を救う」ゲームがある
ドラクエ11もよく売れているらしいし、まだ行ける感じなのかな
この場合、プレイヤーは何なのだろうか?P(プロデューサ)か、なるほど
いや、言いたいのはこの場合の主人公は誰か?画面の中のアイドルなのではないのか
なんか変な話だ、いや変ではないのか
上記二者に対して、その中間に当たるのがFGOあたりか、アイドル的なヒーロー達を揃えて攻略するイメージ
(昔はその位置にファイナルファンタジーがいたのかな)
ただ、増田をたまに見ると「基本的に人は自分の話を聞いてもらいたい(だけ)なんだな」と思う
この場合、「現実世界で見てくれる人がいない」「現実世界で勇者として無理ゲー(人によってはヌルゲー)を戦っている」あたりなのかも知れない
よって、「自分を応援してくれるアプリ」「相談出来るアプリ」みたいなのが需要としてあるのかも知れないな、と
未来的には、AI+マイクロソフトの音声認識+音声認識を応用した発音機能あたりで実現か
さらにそれが恋愛コンテンツと結びつくと、リアル恋人がいらなくなる人もでるかも知れないな(w
正確な時代は不明だが、ずっと昔、まだどの学校も陸の上にあったころに、来るべき国際化社会のために広い視野を持った人材を育成し、学生の自主独立精神を養い高度な学生自治を行うために、これからの教育は海上で行うべし、と唱えた人物がいたらしく、その人物が私費を投げ打って最初の学園艦を作ったらしい。
こうして作られた最初の学園艦は良好な結果を挙げたほか、様々な災害にも強いことが分かり、次々と学園艦が作られることになった。
その歴史は非常に古く「大航海時代から続く学園艦」や「400年の伝統を誇る学園艦」なんてものもあり、欧州では少なくともローマ時代には学園艦があったとシーザーが書き残しているとか。
他にも、海洋国家たるヴェネツィアは古くから学園艦があったらしく、同じく古くから学園艦があったイギリスが、今のような学園艦を完成させたといわれている。
また、近年においては産業育成の名目もあり、巨大な学園艦を建造することによって重厚長大産業を活性化させ、国を豊かにするという目的もあった。
これでいいじゃん。
いや、探せば一人くらいいるだろうし多分私が知らないだけなんだろうけど、ともかく私は知らない。それだけが今、私の眼前に漫然と横たわる事実である。
このことが浮かんだのは風呂場でシャワーを浴びている時だった。着衣の間もずっとモヤモヤしていた。
多くの人が知っているであろう通り、スポーツ観戦に観客の「歌」はつきものである。
有名なところだとマンUのリパブリック賛歌だろうか、サッカーなら日本の浦和レッズだって試合に勝つと合唱タイムがあったりする。
当然応援中にも応援歌が歌われるし、ファンが手っ取り早く一体感を得るにはそこに混じって歌を覚えればいいのである。
多くは自チームの攻撃中に歌われるもので、その選手固有のテーマが宛がわれたり、新人には右打者左打者ごとに汎用テーマが用意されていたりする。
私も贔屓のチームはもちろん、同一リーグの球団歌は一通り歌えたりする。
さて、選手個人に宛がわれる応援歌は、ほとんどの場合その球団で伝統的に使われてきたものであり、ある選手が引退したり移籍したりすれば、その選手のテーマは他の選手に流用されたりする。
しかしその選手が問題を起こしたり、逆にレジェンド級の活躍をするなどした場合、その歌はその選手の記憶と共に葬り去られる。
つまり、世代が進めば進むほど、応援歌の絶対数が少なくなっていくのだ。
その為どの球団でも、毎年1,2曲が「補充」される。
大体半分くらいの新曲は、勝手にそのへんの曲をパクってきたものだ。
横浜ではチャンスになるとパチスロ「獣王」の「サバンナチャンス」が流れ、
かつてロッテに在籍していた神戸が打席に立つと東方の「U.N.オーエンは彼女なのか?」が替え歌で歌われたり
といった具合だ。
もうすこし逸れる。
近年、多くの球団で、球場の最寄り駅の発車メロディーに球団歌を流すという試みがなされることが多い。
関内駅や日本大通駅ではベイスターズの「熱き星たちよ」が流れる。
海浜幕張駅ではロッテの「We Love Marines」が流れる。
つまり駅メロは、その球団をアピールするひとつの商材として考えられていることがわかる。
そこが贔屓のファンが行き帰りに球団歌を聴けるのはうれしいだろうし、考えても見れば、その駅を職場の最寄として使っているサラリーマンは、球団にとってこの上ない格好のターゲットなのだから、アピールするのは当然である。
日常の何気ない音楽で、ふとした拍子に野球をうまく意識させ、精神の根底に根付かせる。駅メロにはそういう効能があるのだろう。
さて。
それは「数小節で簡潔していて、ループさせても違和感がない」ことだ。
しかし前述の、球団歌を駅で流すというのは、それに使われる球団歌はどれも数小節でループしないし、試合中に連呼されるものでもない。
これはとても勿体無いと思う。
最寄り駅で週代わりで、上下線別々に特定の選手の応援歌をシンセにアレンジしたものを流せば、絶対にしっくりくる。
だが、逆にこう考えてみよう。
やっと本題に入る。
これをするためにはもうひとつ条件がある。
そしてこれは、つまり最初から歌詞がついている曲が駅メロとして採用されているものなら何の問題も無いということだ。
私が推したい駅メロが二曲ある。
品川駅の「鉄道唱歌」と、桜木町駅の「線路は続くよどこまでも」だ。
どちらもループがほどよい長さで、既に歌詞がついている。このまま球場で歌ってもなんの問題も無いし、替え歌しても誰も怒らない。
そしてこれらの曲を応援歌として用いるとなれば、品川と桜木町を訪れるたびに、プロ野球ファンは「あっ、あの選手の応援歌が流れてる」となる。
広告効果はそれなりにあるだろうし、何よりこの二曲は大昔のものだから著作権はない。
作曲する手間もパクるリスクもいらないし、どちらも日本人に馴染みのあるメロディーだからすぐに覚えられるだろう。
まだ応援歌のない野球選手がひとり、鉄ヲタを公言するだけでいい。それだけで、私のこのしょうもない妄想は実現させられるかもしれない。
・・・さて。
品川駅と桜木町駅は、どちらも京浜東北根岸線が縦に走っていて、関内駅まで直通している。
この私の案が一番「効く」のは、横浜DeNAベイスターズだろう、と勝手に思っている。
自分を産み育んでくれたモノに対しては、恩があるからどうしても引け目を感じるし「感謝しなきゃいけない」「無条件に愛さなきゃいけない」「恩返ししなきゃいけない」という強迫観念が常にあった。
30歳を目前にして、最近やっと「恩はあるけど合わないものは合わないし、嫌いなものは嫌い」だと自分の気持ちを認められるようになった。
自分の身の回りの事は何一つ出来ないガキのような父親も、そんな父親を心底見下しながら離婚しない専業主婦の母親も、
男は家で踏ん反り返り女は奴隷のように立ち働くことを当然とする地元の風習も、
ミソジニストだらけで女の人生を殺しにかかってくる日本社会も大嫌いだ。
既婚なのでそろそろ子供を、という話も夫としている。親や国への恩返しとしては充分だろう。
「また8月なのにね」
「もう9月だよ」
私はもう27になるけど、クリスマスコフレなんて、まだ買ったこともない。百貨店に近寄るのも、まだ慣れない。
彼と話すうち、化粧品のデザインの話になった。きらきらしてかわいいものは多いけど、プラスチック製の素材は、どうにも女児玩具っぽくて、私は受け付けない。
ロココ調を目指しているであろうラデュレの花びらチークを見せながら、「いい線いってるけど、惜しいよねえ」と私が呟くと、
と、デザインよりも材質を重視する彼が、呆れたようにこぼす。
いろいろ探して、資生堂の復刻版の白粉とか、オイデルミンの瓶とかを見つけた。これはかわいい。
それから伊勢半の板紅。画像と、ケースの材料を見て、彼も深く唸っていた。
「本物は.....すごいな.....」
「これは、娘が成人した時にあげてもいいレベルの贈り物だと思うよ」
「そうだね.....」
それから、現代でも彫刻品としてきれいな化粧品ケースの文化は、香水瓶に受け継がれてるんじゃないかって話になった。
彼は、ガラス製の瓶が好きらしい。
エジプト香水瓶の存在を今日初めて知ったらしく、「デキャンタにできるかな?」なんて言ってはしゃいでいた。
サンタマリアノヴェッラのマッジオウォーターは、5月生まれの彼のために選んだものだ。ずっしりと重いガラス瓶で、底に刻印がしてあるしっかりした作りだ。
「なつかしい。昔家族で行った、リゾートホテルの香りがするよ。」と、今でも気に入っていて、時々つけてくれている。
そうしてだらだらと話しながらネットサーフィンをして、ゲランの「夜間飛行」を見つけた。
これには、二人で画面の前で唸ってしまった。
流石に手が出せる値段じゃなかったけれど、でも、とてもかっこよかった。20世紀前半のデザインが、そのまま残っている。
「そろそろ寝ますよー」と諭されて、今こうして布団にもぐっている。スピーカー越しに寝息が聞こえる。向こうはもう寝てしまったかな。
会話するほどに、互いの好みを深く知ることができて、とてもたのしい。
私自身がそうなのであまり意識したことがなかったし、一応伝統ある日本の宗教だとも思っていたのだけれど。
最近たまたま友人とその家族とそういう話をする機会があって、自分の出自としてうちは神道で~と
流れであまり深く考えずにそう話をしたのだけど、えっ、神道って何?という反応をされて戸惑った。
お寺が仏教で神社が神道ですよ、と説明したのだが、あまりピンと来ていないようだった。
そういえば周りにうちも神道だよ、なんて人に出会ったことがなかったなと思い、
サンプルが少ないのでそのおうちの教育が、ということもあるのかもしれないけど、
反応ありがとうございます。いくつか補足と返信をさせていただきます。
1. トラバもしたのですが、うちは
というわりとガッツリ神道の家なのですが、そういう人って少ないんでしょうか?ということでした。
広義の神道の信者は確かに多いと思います。みんな神社行きますし、神社本庁の信徒は1億人くらいいるらしいです。
2. お墓はよくわからないのですが、「~家奥津城」と書いてあったと思います。
葬儀で神主さんが祝詞を読んだときも「おくつきのみや・・・」みたいなことを言ってました。
うちはまさにこれでした。
他のコメントも全て読ませていただいてますが、やはりそういう家庭はそれほど多くないのでは、との意見が多いようです。
大変参考になりました。
色々あってエンジニアになる道を諦めて今は別の触手で働いています。
そんな職種でもエンジニアの方々と触れ合う機会は以外に多く、時折彼らの仕事ぶりを拝見してはその職人芸に劣等感を募らせるばかりです。
自分が今やっている仕事を30年続けたとしても、職場で空気を読む能力と雑用の手順把握ぐらいしか成長する部分がありません。
雑用を雑用を専門としない人間の倍の早さで出来るようになるのが関の山の今の仕事は、伸びしろの無さ故にある種の安心感はあります。
その安心感を求めてこの雑用仕事を選んだことは正解だったと時折思います。
ですが余りにも雑用が雑用であり、かつ雑用であるがゆえにその手順に真っ当な法則性は必要とされず、それゆえに職場の意味不明な伝統を積み上げただけの滅茶苦茶な動線をなぞり、その立場の弱さ故にその無駄な手間をいくつも挟んだやり方をちゃんとなぞって指示された通りにちゃんとやっていますと前例主義者の靴を舐める毎日に辟易してもいます。
そこで皆さんにお願いがあります。
「でもお前、本当にエンジニアになんかなっても辛いだけだぞ?」と言わんばかりのエピソードを聞かせてください。
エンジニアになった所で人生が茨の道に突っ込んでいくだけだと自分に言い訳したいのです。
そうしなければ後悔で心が張り裂けてしまいそうです。
かといって今からエンジニアを目指すような勇気も度量はありません。
何よりもほんの少しですがその道を齧った事により、純粋にエンジニアとしての才能の無さと、そもそも1人の人間としての素質の低さの査定はすっかり終わってしまっているのです。
こうなるともうエンジニアの道を進めばよかったという悩みなど、ただの気の迷い。
繰り返しになりますが、「エンジニアなんてなるもんじゃない。ならなくて正解」というエピソードをお持ちでしたら教えてください。
もちろん、お忙しいというのならば結構です。
思いついたら追記していきます。
・昔ながらの(昔懐かしい)
→ 古臭い。 特徴が無い。 何の特徴も思いつかない場合にとりあえず使う。
・伝統の
・○○好きの為の
・構想○年
→ クソマズイ
→ デザインだけ変更して値上げする時によく使う。
・オーガニック(有機)
・やさしい(味)
→ (味が)薄い。 味気ない。
・グラマー
→ デブ
・巨乳
→ デブ
→ クソデブ
・スリム
・癒し系
・ロリ(系)
・天然(または愛想が良い)
→ KY
・ギャル
→ 礼儀知らず
・礼儀正しい
→ 機械的な
・いちゃいちゃ系
→ テクニック無し
・お仕事派
→ ルックスには目をつむれ
・落ちつた
→ 暗い
・明るくて元気
→ 躁鬱が激しい。
羽奏という名前を、周囲の人が呼んでくれない、という釣り増田があった。
もともとの増田の漁業からは趣旨が外れるけれども、なぜ羽奏で「わかな」がダメなのか、忍者の里で暮らす私と一緒に考えてみよう。
羽と奏は、音以前に意味が繋がりにくいように思う。羽奏では、意味のつながりが連想・イメージしづらいのだ。
要するに、羽は音を奏でないだろってこと。
同じ「ワカナ」音を重視するなら「和奏」ならすっきりする。
和音とかで和ってのわ使われるし、和風だとかのニュアンスでも繋がりやすい。
羽奏でワカナのいいところは、ワカナって音にある。
それに当てた漢字の読み方がクソ気味だったのは、多く先人の指摘するところなのでここでは贅言せんぞ。
昔から「若菜」という言葉がある。だから、音は他の人が聞いて違和感が少ない。
今までのことをまとめると、<漢字がもつ音>と、<漢字がもつ意味>の両方を他の人に連想させやすくするのが名付けでは重要だ。
ここでの音というのは、あくまでまとまった時に聞こえが悪くないか、ということで、伝統的な読みにそぐうかどうか、ではない。
例えば「奏」で「かな」だとか、あとは最近の若い忍者も良く使うんだけれども「翔」で「と」と読むようなやり口。
もちろんこれは漢字の読みのうえでは間違いなんだけれど、私は名づけの上での省きはまぁいいんじゃないかと思うんだ。なんつーか流行ってるし。
部下の上忍の2人目の息子の名前が「拓路」くんで「たくみ」くんなんだけれど、いい名前じゃん。
路を拓く、という意味もいいし、音も「タクミ」は律令官制以来なじみ深い。
個人的には、ぶつ切りで読むのであっても、音と意味が整ってればいいじゃんってこと。
あと、意味を重視しないで音で当て字したいときのジョーカー的存在が万葉仮名だ。
これは、漢字の意味を捨てて、音だけを表すために用いられた漢字だ。
私の部下のくのいちに「利都」で「りつ」ってよむ女がいるんだが、いい名付けだなって思う。全身タイツスタイルの忍者なんだけど。
つまり万葉仮名は実質ひらがなみたいなもん。「あ」は「安」からきてるんだけど、「あ」は「安んずる」という意味はないでしょ。
森鴎外の子女たちが元祖キラキラネームといわれることがある。私はそうは思わない。
ルイとかオットーとか、すべて外国の人々の名前としては通用するもので、音は問題ない。
森鴎外のをキラキラネームとか言っちゃうのは、逆にお前の頭の中がキラキラしてるんだぞ、と思う。
忍者ってのは顧客ありきなんだから、例えば三菱の人とかに名簿(みょうぶ、って里では読む。古い読みだ)見られたときに悪印象を与えない名前にするのが重要なんだ。
佐助とかってのはダメだぞ。狙いすぎだ。かといって昨今のキラキラネームでもダメ。黄熊でぷうとか弱そうじゃん。かませ犬ですぐ死にそうじゃん。熊だけどさ。
だからさ、個人的には「翔」で「と」がオッケーな理由はこの辺りにあるんだよね。
翔ぶじゃん。忍者。だから忍者にピッタリな漢字なのよ。「遥翔」で「ハルト」って読むのが若い衆でいるんだけど、いいじゃん。
こうしてみると女子は古風な名前が付きがちなんだよな。こういうのももしかしたらジェンダー性があるのかもと思う。
「閑」で「しずか」とか、「青葉」で「あおば」とか。さっきの利都もそうか。ちなみに閑と青葉はミニスカタイプの装束のくのいちだぞ、諸君。
私は今の日本が嫌いだ。リーマンショック以前はアメリカよりも大嫌いだった。しかしそれでも世界3番目の大国。この国がしっかりしなければ、先進国の足並みをそろえて衰退への道に歯止めを掛けることはできない。そこで、私なりの「日本再生プラン」を考えてみた。
まず必要なことは資本至上主義発想の解体だ。良く言われているように、今の日本の諸問題は資本主義の暴走にあって、それに歯止めをかけるものがない。これは良く言えば一時期のアメリカに匹敵する経済構造を支えていた。
しかし今の日本では、資本主義が国家の味方というわけではない。むしろ弊害が増えていて、公務員でも資本主義を嫌悪する人も多い。そんな彼らからすれば「資本主義カースト上位」もモンスター思想家と同じくらい嫌悪すべき存在で、結果的に資本主義を活かしたプランが嫌われる傾向がある。
かつて大きな資本主義が必要だったのは日本の社会そのものが未熟だったからでもあるが、今の日本社会は成熟している。要するに社会主義的な考え方が導入・実践されており、たとえば高度な社会保障が持続化できるようになっている。
欧米各国で広まっている社会主義運動の流れを艦みて、日本はこの際、もう資本主義の拡張を諦めるべきではないか。勇気ある行動で示してほしい。資本主義社会も社畜思想もどうみても同じ側の存在であることは明白だ。旧来型の資本主義思想ときっぱり決別し、社会主義との共生への道を示すことを鮮明にすれば、国民は「日本は変わったな」と評価するはずだ。
日本国民はまとまりがなく「烏合の衆」とされていた。もともとが学生運動崩壊後にノンポリがごった煮になった国民なので、内心極左だった人もいれば極右もいる。その節操なさが日本国民の強みとも言われていたこともある。
ところが実際には、平成のポスト好景気になった時に、これがネックになった。景気回復問題、そして国民の荒れなど、是非が左右できっぱり分かれるテーマに直面した時に、はっきりと決断できなかった。妥協すれば国民は失望するし、一方をとればもう一方を失う。派閥抗争も激化した。
日本は当初、第二次世界大戦敗戦の際にアメリカなどの西側諸国と同盟を組んでいたが、韓国が反発し、戦前問題ではアメリカ人も躊躇するような過激思想が台頭し、2000年代の対中接近路線で一気に友好関係が破綻した。そうしたら、西側諸国との協調関係は崩壊したのである。
なので日本国民が烏合の衆である必要性はない。現状では、なんだかんだで一致団結すべき困難が続いているので、ネトウヨや新自由主義エリートたちが敵ということがわかりきっているのなら、日本国民がすべきは内部にある彼らを忖度することではなく、むしろ追放することではないか。
村田蓮舫がかつて述べた「私は多様性の象徴」という言葉にあるように。多様性こそが今の日本社会に必要なことなのである。日本社会の敵が右翼カラーの全体主義に陥る中、日本国民が示すべきは寛容な多様性主義である。そのために、まず右派なんか追い出したほうがいい。
日本社会のもとに集まるべきは、新自由主義エリートでも右派思想でもない人であり、インテリであり、社会主義になびく人ではないか。烏合の衆を脱し、多様性の国民に生まれ変わることも、日本の再起のために必要なことである。在特会みたいな小物右派をさっさと追放しろ。
かつて日本は藩閥社会(江戸時代のエリートの末裔)、帝国主義(天皇制シンパ)という大きな権威を抱える国家で彼らの末裔が総理大臣になったりした。現在も「日本2677年の歴史」であることから現状も帝国主義であると思い込んでいる人が多いが、それは間違いだと思う。日本の現状はどちらかといえばポスト帝国主義国家、つまりそれをブランドにしているに過ぎないのだ。
実際、本当の安倍政権の最大の支持者である藩閥主義者、帝国主義者は東京への搾取で裏切られ、選挙で左翼系が彼らを乗っ取る光景ももう当たり前だ。地方創生や天皇制問題を見ても、美しい伝統を民意を圧殺してぶち壊しているようにしか見えない。形は残っても中身は残っていない。
藩閥主義者や帝国主義者は安倍政権を支持しないが、高齢者なら左翼、若者は極左で大衆なら中道となると、残るは中道でも左翼でもない「右翼」というポジションである。経済面では、エコカーやコンパクトカーや安い車を作っても日本人の車離れは改善せず、公共交通の混雑は市場競争の弊害でむしろ激化するが、政治はちっとも進歩しないのだ。
そこで日本社会がすべきことは、安倍政権が見限った藩閥主義者、帝国主義者の受け皿になりつつ、歴代政権が放置し続けている諸問題(たとえば都市問題や経済問題など)に取り組むことである。ついでに共和制移行も検討してしまえばいい。なぜこれができないのか、不思議でならないよ。
今の持つ層と昔の持つ層と持たない層できっぱり考えが割れる傾向はアメリカを筆頭に共和制の先進国では当たり前になっているが、日本の場合はアメリカのような進んだ政治もなければ果てしなく富裕層を排出するような最高クラスの経済もない。「量産型化」したロボット国民の存在があまりに多いので、現役勝ち組と元勝ち組と負け組で割れない。
これら私の掲げる方向転換を日本国民が実施してくれる可能性はたぶんないだろう。だが、それくらい思い切った変化がなければいけない。あれほど圧倒的な勢いで経済成長できた日本が、わずか四半世紀で好景気終了後に凋落がとまらないのは、国家が現状維持以外の何もできずにいることに国民が失望しているからだ。
http://www.asahi.com/sp/articles/ASK8H5746K8HUTIL01J.html
見た。
普通は登録料別で¥3,000くらい。本間は¥2,000くらいみたいだね。
事情を知らない一般消費者が安い方がいいと思うのは当たり前だと思う。
簡単に¥1,000も下がっちゃうんだから本間以外の動物病院はボッタクリ商売だと思うかな?
でもさ、獣医師の平均年収ってこの記事https://www.google.co.jp/amp/s/mainichi.jp/articles/20170706/k00/00m/040/115000c.ampにある通り、569万円なんだぜ。医師はおろか、あれだけ過飽和が問題になっている歯科医師よりも稼げない。全然儲からないんだよ。
ワクチンやフィラリア予防なんかの簡単な予防医療は粗利が高いのに、何で儲からないと思う?
それはだな、獣医師の本分である病気の検索・治療が儲からないからなんだよ。
今や数百万円もするような院内血液検査機器やエコーはあって当たり前。
そういった検査機器を駆使して、人の医療と同じような手間とコストをかけて検査・治療をしても、貰える料金は半分もない。
日本の人医療は国民皆保険だから、病院に直接払う額は3割が基本だろ?
だから動物病院業界は業界全体の値つけが伝統的に医療保険制度みたいになっちゃってる。
つまり、予防医療で広く利益を確保して、安価に病気の検査・治療を提供しているわけだよ。
最近は高度医療を行うような動物病院も多くなってきているので、そういうところは別だけど、未だに多くの動物病院は昔ながらの料金体系なのよ。
だからさ、予防医療しかやらないような動物病院グループが価格をダンピングして顧客がそっちに流れるなら、検査・治療費は高くならざるを得ない。
市場に任せるってのはそういうこと。
そうなると、今だってある程度はそうだけど、ますます貧乏人は動物飼えなくなるよ。
で、動物飼育率が下がれば動物病院経営もどんどん厳しくなって、近所でそれなりの動物医療が受けられなくなっていくわけですわ。裾野が小さくなれば高度医療だって立ち行かなくなる。どんどん動物医療やペットビジネスが縮小していくわけですね。
全てが市場原理に任せれば良いことばかりじゃないですよね。
不動産だってさ、市街化調整区域の規制を緩めたら郊外に空き部屋ばっかりのアパートが乱立して問題になったじゃない?
派遣法の規制緩和だって賛否あるでしょうが問題は大きいですよね。
追記
貧乏人は動物を飼わなくなるんじゃなくて動物病院に連れていかなくなるだけってのはその通りだね。
俺は動物病院の中の人だから、多くの人にペットを飼育する素晴らしさを感じてほしいし、ペットには適切な医療を受けてほしいのでそうなるのは悲しいよ。
中の人に獣医師会の闇を暴いてほしいブコメがあったけど、中の人は獣医師会入っていないんです。
獣医師会が入れてくれないんです。
医師や歯科医師と比較するのはおこがましいってのがあったけど、医師と比較するのは確かにおこがましいかもな。
でもさ、歯科医師の偏差値考えるとさ、比較したっていいじゃんか。
職業として同列だって言いたいわけじゃないけど、大学が6年間なのって医師と歯科医師と獣医師と薬剤師だけじゃん?
比べたくなるじゃんか。そこは大目に見てよ。
それから、人医療って医療法人だよね。動物病院って法人化すると株式会社なんだよ。利潤の追求が許される。
まぁ利潤を追求するためには多くの人に支持されなきゃならんので、値上げすりゃいいってもんではないのは立派な社会人の諸兄はよくおわかりだよな。
だからまぁ、規制や保護なんて動物病院にはいらねーだろって言われると、そうかなって気もしてくるな。
本間さんは業者では悪者扱いなんだけど、狂犬病予防接種率の向上には寄与しているんだろうし、ノミダニ予防薬や療法食のネット販売等で業界の慣行に良くも悪くも風穴を開けてきた動物病院グループで、評価されるべき面もあるのかもね。
そもそもネット民って、基本的に「あらゆる広告は撲滅されるべき」と思っている人が大多数だし、そういうバイアスをかけてみれば、どんなCMでも愚痴の一つでも言いたくなるでしょ。
ネットを閲覧中に不要な広告に邪魔をされたり、自分は汗水たらして働いているのに、アフィリエイトとかで食べているやつのことが許せないとか、「電通と業界の不適切な関係が!」とか、色々あるし。
逆に、今までネット上で「この広告がよかった」という例があった?
例の牛乳石鹸のCMについては、言いたいことがよくわからなかったどころか、これが牛乳石鹸の販促に効果があると本気で思っているのかという疑問が。
そもそも今どき固形石鹸なんて不便だし。今はもっと便利な液体の石鹸がいくらでもある。伝統的な製品だからか知らないけど、どうしてそこまで固執するのか。