はてなキーワード: ユーラシア大陸とは
「ロシア政府によるウクライナ侵攻によるロシア国民のメリットがよくわからない」という声が聞こえてくる。
メリットがあるかないかという質問を受ければ返せる言葉は「ワンチャンある」だ。
現代の日本人は敗戦による反動を伴った戦後教育の影響で地政学的見地に疎く、地球上で国家の位置する座標が互いに影響し合うというのを理解しにくい(※戦後教育を完全に否定しているわけでない。何事も一部は行き過ぎることもあるだろうという考え)。
ある程度、軍事史に詳しい人ならばNATOの設立に大きく関わった米国外交官ジョージ・ケナン氏自身がNATO東方拡大へ不支持を表明していたことをご存じだと思うが、つまり今回のクリミアとウクライナの動乱はそもそもNATO設立時から予測されていたことだったのだ。
もう一度言おう、NATO設立の時点でNATO東方拡大をするとロシアが追い込まれ前へ出てくるのは予測されていた。
ポイントはこの「追い込まれる」という部分なのだ。
正直に言ってロシア経済は上手く行っていない。様々な経済政策を進めてきたし、特に海運は命題の1つであり昨今持ち上げられがちな北極海航路開発の進捗も芳しく無く、唯一の頼み綱は天然ガスだけだ。
軍事に明るくなくとも経済に明るい人、一方のネットワークがダメならは、現在動いているレガシーなネットワークへ依存せざる得ないを理解する情報技術に明るい人は、もうこの時点で気付いただろう。
みなさんもご存知かもしれないが、歴史の長さしか取り柄のない海運へ強依存した蛮族の国があるだろう。
ユーラシア大陸の雄である文明帝国が国際貿易のため制海権を得ようと南下はじめたことへ呼応し政変が起き、神のいたずらか悪魔の仕業か、運悪くも文明帝国は敗戦という憂き目に遭った。
蛮族はそこから調子に乗ってアジアを巻き込み、ついには2度目の大戦の際にABCD包囲網が動き出し、国際連盟を強がりつつも離脱し、あれよあれよと唯一の頼み綱である制海権を消失し敗北した。
なぜ蛮族は前へ出たのか?
後世だから言えるのかもしれないが、あの状況では敗ける可能性が濃厚だ。
しかし単純な話なのだ、実に単純だ。
我々は追い込まれた。制海権を喪失すれば国民が飢える、自らの子が飢える。ならば他国の人がどうなろうとも、他人の子供がどうなろうとも、我々の家族を食わせるために例え間違っているとしても前へ出る!
そういう単純な話なのだ。
NATO東方拡大はロシア唯一の頼み綱である陸路を他国の軍事同盟が掌握下に置くことを意味し、その影響は子々孫々に至るまで残る。
親ならば誰かを愛することのできる者ならば思うはずだ。
お前らがそうするのであれば今このとき今ここで、国を総動員してでも俺たちの世代でケリを付けてやる!
戦争反対だと?あぁ正しいな!お前らは正しい、俺たちは間違っているとも!
それがどうしたっ!?このまま行けば俺の子が飢える、俺の妻が泣く、前へ出なければそんな未来が確実に来る!
言ってみろ!俺たちに間違っていると言ってみろクソどもが!!!
というのがロシア側の意見であって、現代で戦争をするすべての国、国民がこのように同じ主張するってわけだ。
後々に自分の子が飢えるとわかっているのならば、前へ出ることでその可能性を低くできるのであれば、前へ出て先延ばしにできるのであれば、親ならば前へ出るだろうよ。
ちなみにこれは両論併記にはあたらない。
何故ならウクライナもアメリカもNATOも同じことを言ってるからだ。
全員が間違い続けた結果がこれだぞ。
サンタクロース……その起源は、遠く古代中国、東晋の時代へと遡る。
その頃、中国大陸一の武術の高手(達人)として名を馳せた肉羅臼(にく・らうす)は、他門派の武術家と決闘する際に、三種類の絶招(必殺技)の何れかを使うと相手に予告することで知られていた。
そうして、肉羅臼は「三つのうち何れの絶招で、お前は止めを刺されたいか?」と質問して選ばせた上で、必ず、その技によって決闘の相手を屠ったという。
その強さに感銘を受けた時の皇帝・中宗元帝から、肉羅臼は"三択老師(さんたく・ろうし)"の名を下賜されるとともに、当時の民衆からは
三招(3つの技)有れば事足りる」
と詠われて、その比類無き強さを讃えられた。
しかし、晩年の肉羅臼は、武術家同士が覚悟の上で行なった決闘とはいえ、多数の人命を奪ったことを大いに悔い、武術家としての技一切を封印すると、シルクロードを遥かに西に向けて辿る旅へと出発した。
長い旅路の果にユーラシア大陸の西・カッパドキアの地に到達した肉羅臼は、その地で入信したキリスト教の修道士となると、弱い民衆たち、殊に幼い孤児たちの救済事業に晩年を捧げたという。死後、その慈悲深い行ないを讃えて、肉羅臼は"聖ニクラウス"と呼ばれるようになり、幼い子供たちの守護聖人と見なされるようになった。
時は流れて二十一世紀、クリスマスの風物詩として、子供たちに贈り物を運んで来る伝説上の人物のことを、我々現代人は"サンタクロース"と呼んで親しんでいるが、その呼び名の起源が"三択老師"であることは言うまでもない。
それで競馬を見てみたが、どの馬も同じように見えてそこはそれほど魅力を見出せなかった。
けれども、youtubeで馬の世話をしている動画を見たら、馬という生物がメチャクチャかわいくて動画見るのを止められないレベルでかわいい。
サラブレッドはアスリートのような均整の取れた大きな体だけど、ポニーはちっこくてかわいい。シェトランドポニーは小さくても炭鉱で働いてた力持ちですごい。
つくづく、馬の生態は奇跡的だと思う。
猫はあのサイズがギリギリ人間が対等にやり取りできるサイズなのに、300kg越えのあの大きさで、人間を乗せてくれるんだからヤバい。
米英人は特に犬猫感覚で馬を飼っているから不思議だ。馬は毎日寝床の掃除をしてやって、日差しが強い日には鼻先に日焼け止めを塗ってやるらしい。
馬を飼ってる動画を見ると、馬は犬のように人間に服従するというよりは、人間に付き合ってあげてるという感じの距離感が凄く心地いい。
食生活も馬は草を食べて人間とバッティングしないから、都合が良さそうだ。
馬がそこら辺の草をボリボリ毟って食べているのは、じつに美味しそうでいい。
オートミールを食べるときはちょっと馬になった気分で食べている。
ユーラシア大陸から始まる世界征服には馬が必要不可欠と本に書いてあったけれど、心の底から納得できる。
ポニーに触りたいなと思って調べたら、近所の市営公園にいるらしい。子供がいなそうな平日昼間に有給を取って触りに行こうと思う。耳を触ってみたいんだよね。
2017年4月。新卒で入社した会社の内定式。就職活動に失敗した私はこんな会社はなんとして辞めなくてはいけないと入社前から決意していた。
なにせその会社は世間から聞こえはいい会社なものの実態は年間休日104日、残業月70時間以上(残業代が全部つくとは言ってない)で車を一年に一台買わされる(補助はあるが)という私の旅行・車という生きる楽しみを潰しにかかる地獄のような会社だった。
2016年8月に某一般社団法人の最終面接でやらかした自分が恨めしかった。私の就職活動は11月近くまで続き、とうとう内定を得た行きたくない前職に就くしかないと諦めたのは内定者懇談会の後だった。
他にも某黒い猫の会社の子会社にも内定していたが、親の強い勧めに負けるところがあり前職に就いた。ネームバリュー、東証一部上場とかそんなことはどうでも良いと気付くのは就職してからしばらくしてからだった。ネームバリューも東証一部上場も人を幸せにはしてくれない。現時点で私を幸せにするのは休みと旅行と乗り物だった。
誰かがアドバイスをくれても最終的に判断するのは自分で自分の判断を誰かを忖度して曲げてはいけない。自分の人生だ。
前職には本当に就きたくなくて4月に入社式を控えた1月末の午前4時に泣いたのをよく覚えている。
レールから外れることが怖かった私は結局卒論を出して卒業の日を迎えたが、嬉しいものではなかった。
嫌いな仕事だったが社会が転職を許容してくれる年次まではやむを得ず勤めようと丸2年勤めて3年目の冬に転機は訪れた。
転職活動を始めたキッカケはとある写真展だった。MPG写真展という名前のそれは2019年の1月末にあった。半ば強引に連れてきた同僚を乗せて会場の京都へと車を走らせ八坂神社近くのコインパーキングに車を停めた。
会場にはバイクと風景の素晴らしい写真が多数展示されていてこんな写真を撮れるように腕を磨かないと…!と思えてきた。(今年もやるそうです)
出展者の皆さんは所謂ホワイト企業に勤める方が多く、休暇をフル活用して各地に出かける「週末エクストリーマー」の異名を持つ方も居た。世の中にはそんな会社もあるのか…!と希望が湧いてきた。
自分も旅行が大好きな人間だったが、就職してからはどうだろうか?と振り返ってみた。
海外には全く行ってないし国内にも数回しか行ってなかった。余裕がなかった。休日は身体を休めることと家事に追われていた。
そんな「お休み過激派」の私はどんなに仕事をして成果を出しても「お休み」には繋がらないと分かると全く仕事にやる気が出ず、仕事が徐々にテキトーになってきた。
これではマズイと思うこともあったが、「お休み過激派」は止められない。
年間休日104日という少ない「お休み」を改善するには転職しかない。MPG写真展に行った翌日の昼休みには営業車の中から転職エージェントに連絡をしていた。
いざ転職活動を始めるとなかなか忙しいものだった。「お休み」が取れない中で転職活動をしなくてはならない。あらゆる嘘をつき「お休み」を作り出しなんとか面接に臨んだ。いくつかの取引先にもお願いをして「お休み」を無理やり作ったりもした。
転職エージェントとの面談を優先して面談中は絶対に職場、取引先からの連絡には応答しなかった。自分の最優先はこの職場をなんとしても抜け出すことでそれ以外は最早どうでも良いことだった。
仕事に粗が出てきたのか「君がわからない」と上司に言われたことがあった。分かってもらったら非常に困る。
30社以上に書類を出して面接にこぎ着けたのは7社程度だった。
一次面接も5社連続で落ちてかなり落ち込むと同時に受からなければこの会社で働き続けなくてはならないという絶望で頭がおかしくなりそうだった。
そんな中転職活動を始めてから3ヶ月後になんとか内定を貰った。最終面接を受けてから18日後のことだった。
自分の就職活動での失敗を自分で取り返した自分を誇らしく思う。よくやった。ありがとう。
内定を獲得してから30分も経たずにシベリア鉄道旅行の見積もりを取り旅行社に電話をかけていた。絶対行きますなんとかチケットを取ってほしいと電話口で担当の人に言っていた。
新卒入社してから数ヶ月後には転職に伴う旅行計画を策定しおおまかな計画は立てていた。ようやくソレが日の目を見るときが来た。
つらつら考えたこと
今のコロナ騒ぎは、世界中の人間が毎日大勢移動してることで拡大した
これがもし千年前なら、無症状のキャリアもそこまで広い範囲にウイルスをばら撒くことは出来なかっただろう
それでも、海や山を越えて分布域を広げるのは難しかったに違いない
そう考えると、今このタイミングで人間に拡散する能力を得た新コロナは、
めちゃくちゃ上手いことやったと言えるかもしれない
人間を宿主としないウイルスなら、拡散のハードルはもっとずっと上がるだろう
ネズミや虫などは今や人間と一緒に世界中どこへでも行き得るが、
基本的には宿主生物の生息域=ウイルスの拡散可能な最大領域なはずだ
そう考えると、鳥インフルは強い
ある鳥から別の鳥へと宿主を何度か乗り継げば、かなり短期間でユーラシア大陸くらいは制圧できそうだ
行動範囲の広い生き物というなら、魚はどうだろう?
軽く調べてみたが、特定の水域での流行はあるものの、大陸レベルでの同時期の感染という話は見つけられない
水を介して感染するなら直感的にはかなりやばそうな印象を持つが、
案外そこまででもないのか、単に海の中でのことは調査が難しくて追い切れていないのか
では逆にほとんど移動しない生物、たとえば植物を宿主にした場合、ウイルスはどうするのか?
これまたざっと調べたところ、様々な動物や原生生物を介したり、
傷ついた植物同士の樹液を介して感染したり(農作業や、動物に踏まれたり齧られたり等だろう)するらしい
ウイルスの生き残り戦略は移動範囲の拡大だけではないだろうが、
移動という一面だけで見ても、宿主に合わせていろいろな方法があるものだ
生き物ってすごいね
(程度の差はあり、中には最適な温度で地表に湧いている温泉もたくさんあります)。これは地面から湧いてくる灼熱の水を人間に適した温度まで水で薄めて利用していると言えます。ここで注目すべきはやはりマグマが関係していることと、熱い流体が地下から湧いてくる現象であるということ。そして温泉は火山の近くに形成されるということ。温泉はそれこそ風呂なんて概念を人類が運用する前から自然には存在していて、人類以外の動物も利用してきました。猿が風呂に入っているイメージなんかし易いですが、鹿や熊なんかも温泉に浸かるらしいですよ。それで火山の噴火による被害も昔からあったと思います、そりゃ地震も火山が原因で起こるので、「地震は人類が地球上に留まる限りその被害に遭い続ける」と言われるように火山の噴火も似たようなもんです。地震ほどもたびたび起こりませんけど(そうだったら人が土地に住めません)。何が言いたいかというと星の中にはマグマが流れていて、これは時に地上に激しく噴出しては火災などの致命的災禍となって人類を脅かしてきたという事実があり、そして鉱石や宝石や温泉といった、人類の利益になるものも火山の活動によってもたらされてきたので、人類がいままで継続してきた人類らしい生活を続ける限り、火山の脅威から完全に逃れることはできないってことです。マグマに焼かれる可能性を完全にゼロにしたいならば、既存の資源が採れる地上を捨てて空の上に逃げるしか道がありません。キリスト教では人間は人間である為に原罪というものを抱えていたので、神の子イエスさまは磔刑にかかるという形で人間の原罪を御許しくださったそうですが、罪を抱いたら落ちる先の地獄が灼熱の世界であることと、人類の文明が依存する金属資源が地下世界に流れる灼熱のマグマに由来することはなんだか面白い話に思えています。あとは、火山活動は間欠泉の他にはしばしば人間に有毒な気体を地面から吐き出させることがあり、この毒ガスにまかれて人が死ぬ事件なんかも昔からあります。ドラゴンは火を吐く他には毒の息を吐くなんて話もあるので、地獄が火山に由来するものであるならば、ドラゴンの活動とはすなわち火山に由来を見出すことができます。これで宗教的で、地理的で、人類学的なドラゴンの話は終わりです。
結びに、あまり触れられなかった気象的なドラゴンの話に急ぎ足で触れたいと思います(こっちは語れるほど詳しくないので一番最後になりました)。
ドラゴンもしばしば気象を操り、毒の息や火を吐く他には雷を吐くなんて言われます。怪獣映画のゴジラに出てくる怪獣キングギドラは雷のようなジグザグに飛ぶ光線や、ずばり雷そのものを吐き出しますがあんな感じです。
これは山の天気が変わりやすいという話と関連づけられて話されます。高い山の上は気象学的に雷雨が発生しやすいそうで、ここで発生した嵐がそのまま人里まで降りてきておそろしい災害をもたらしたこともヨーロッパでは珍しくなかったそうです。西洋の山々は高く険しい秘境で、ドラゴンの他には魔法使いが住んでるとか言われ、その険しさゆえにとても道路として利用できるような場所ではないので、いまよりも適切な登山道具や技術が普遍化されていない昔の時代に住んでいた人が山越えをするとなると、それは決死の覚悟で臨むものでした。つまり山の上には滅多に人が行き交うことがなかったので、空想のドラゴンやお伽話の魔法使いが住んでいてもおかしくないと言われたのでしょう(そう言われても嘘か本当か確かめるのが現実的ではない)。
また「雨を降らせる」とか「気候を操る」とか言われるとピンと来る方もいると思いますが、東洋の龍はもっぱらそういうことをする存在で、火よりも水と関連づけられていることの方が多いようです。川の化身なんて言われることもあって、こういう姿はジブリ作品の千と千尋の神隠しに登場したハクという人物のテーマにもなっています。水は高きから低きに流れるとか言う通り、山から人里に向かって川が形成されている様子をじかに確認することが日本では現実的であったので(日本の山でも人死はたくさん出ていますが、山越えに臨めばほぼ間違いなく死ぬと言われるほどではなかったようです)、川の神である龍は山の神もまた兼任することがあり、日本人の昔話的世界観において山と川とは切り離せない親しい関係にあります。というか、ずばり川の中に竜宮城がある(浦島太郎の話に出てくる、海の中にあったというあの竜宮城とほとんど似たようなものです)場合もあります。山の中にあるという鬼の居城もこの竜宮城が零落して悪評に貶められたと考える向きもあり、有名な鬼の祖に龍神が数えられていることもあります(酒呑童子という鬼の祖は伊吹山の神であると言われ、これは素戔嗚尊という英雄に退治された龍神のことだと言われています)。それで「山の気候は変わりやすい」なんて言い回しは日本人がよく口にする言い回しなので、山の神である龍が雨を降らせて川を流すという話はそういう思想が背景にあると思われます。奈良の大神神社に坐す大物主なる神はたいへん好色の蛇神として知られ、イケメンの男性に化けてから人間の女性と夜な夜な逢引をしていたというロマンチックなエピソードがある一方で、機嫌を損ねた時には疫病を流行らせて人を大勢殺したので時の天皇を困らせたとも言われています。この大物主が住むというのも三輪山という名山で、奈良のその周辺は川と山とに囲まれた肥沃な土地であったと言われています。今でも風景が綺麗なので、近くに住んでいるなら見に行くのも悪くないと思います。話が脱線しましたが、疫病が流行るというのはいろいろ理由がありますけど、川の氾濫といった水害が原因でも発生します。川から水が溢れて街が水に浸かると、下水道という設備がなかった昔はトイレの汚物が街中にぶちまけられるというのも珍しくなく、川の底のかき混ぜられた汚泥と一緒に環境を汚染するのでたいへん不衛生でした。なので的確に対策をこうじなければそこからあっという間に病気が流行り始めるのです。川が溢れると畑がダメになって作物…つまり食べ物もとれなくなるので、飢えて体が弱り病気になりやすくなるというのもあります。川がなければ水を畑や田んぼに引くことが難しく農業が瀕するので全く無いというのは困りますが、川が溢れ出しても人間は困るのですね。なので川と龍が縁深い日本では、川の工事(水害対策)に従事していたと言われる仏教の僧侶が悪さをする龍神をこらしめて改心させるなんて話も結構あります。西洋における聖ジョージやジークフリートなんかが、日本においては偉いお坊さんになってしまう訳です。すこしがっかりするような話ですね。そういったように、悪者のイメージが根強い西洋のドラゴンに対して、日本の龍というのは非常に気まぐれな存在で善悪両方の属性を持ちます。人間を助けることがあれば人間を脅かすこともあるし、人間に助けられることもあれば人間に倒されることもある。ところで東洋の龍という括りでいうとそもそも「龍」という漢字と考え方自体は大昔の中国にあったというたいへん豊かで大きな国からやってきたとも言われますが、中国文明は三大文明が一つ黄河文明と数えられている通り黄河という大きな川が育てた土地を耕して発展していったので、そりゃあもう川の整備には手を焼かされたそうです。大洪水で国中が水浸しになってみんなが困ったので、見かねた仙人が龍に乗って山から降りてきて洪水を治めたのでたいへん感謝され、皇帝の座についたという伝説もあるくらいです。というか、日本の坊さんがどこで川の整備技術を学んだかと言われれば当時の中国で学んできました。もっと正確に言えば、治水技術に秀でた仏教の僧侶が日本に布教するのにやってきて広まったのです。ユーラシア大陸から、「龍」という漢字や東洋龍のイメージと一緒に、「龍」と形容されるほどの荒れた川を治める技術もやってきたのです。お互い川を見ながら川の周辺で農業やって生活してきた民族なので、当時から生活風景がそこそこ似通っていたのでしょう。なので龍神は今日に至るまで日本の思想世界に受け入れられ親しまれ、日本独自の派生も見られるほどになりました。
誰かの空想からはじまった存在が、国を渡って話されどんどん遠くまで伝わって、その国でしか見られない風景や生き物の姿を継ぎ足して、そこに住む人々の固有の文化におさまっていく様子を前から後ろへと辿ってみるのは大変面白い娯楽でありました。今回は特にドラゴンについて言及しましたが、とてもキメラテックな話だったでしょう? キメラテックなのもたまには悪くないという気持ちに僕はなってきました。
更なる余談ですが、東洋の龍の「胴体が長く、翼を持たず、身体をくねくねさせて空を飛ぶ」イメージ(アニメ日本昔話のオープニングのようなやつです)なんですが、胴体のところは蛇をモチーフにしてあるのは一目瞭然ですよね。完全なる受け売りなんですが、この龍の顔の部分は馬をモチーフにしているという説があるそうです(髭があるところとか)。確か神武天皇だったと思うんですが、彼の皇が長旅をされた時に愛馬に水を飲ませようと泉に立ち寄って、その時誤って剣でその馬の首を切り落としてしまったそうです。自分が殺された側なのに、自分が死んで大泣きして悲しむ皇の姿をあまりにも気の毒に思った馬は、首だけで泉の中を泳ぎ始めてやがて馬のような顔を持つ魚になった、なんて伝説があります。空を泳ぐ龍が馬の首を持つ一方で、馬の首が泳ぎ出して魚になったという伝説もあるのは面白く、たまに関連づけて語りたくなります。ただ学問的な裏付けのないこじつけなので、こういう笑い話の場でしか言及しないことにしています。
ここまで読んでいただいた方がいらっしゃるなら、たいへん貴重なお時間をいただきました。あなたに御礼さしあげます。ありがとうございました。
(追伸、語り口調で一行が長かったり、誤字脱字が多くて申し訳ありませんでした。ちゃんと推敲する習慣をつけようと思います。重ねて、ここまで読んでいただきありがとうございました。)
新しいポケモンの化石ポケモンが話題になっていて、ずばりギリシャ神話のキマイラのことではなくて、普段からよく話題になる想像上の生き物で「複数の動物の特徴を掛け合わせているやつがいたなぁ」って思ったりしてたんですよ。
そいつ「ドラゴン」とか「龍」とかいう呼び名でよばれているんですけど。
個人的な分類なのでそれが常識ということは全然ないので構えずに聞いていただければ幸いなんですが、ドラゴンって呼ぶ時は西洋伝承の竜、「龍」って呼ぶ時は東洋伝承のリュウを意識しています。西洋伝承との比較の話題のときにはわざわざ東洋龍をドラゴンとかよんだりして自分からルールを破るので、本当にそこは私事ですよね。
ちょっと前にNHKの特集でドラゴン伝説に関する番組があったりしたんです。
テロップに「人類学者」「歴史学者」「宗教学者」って表示される人の他には、古生物学者さんとか比較生物学者さん、気象学者さんなんかもコメントしていたのが印象に残ってます。あと世間話でドラゴンって話題に出すときには、地理学を勉強している知人と話していることが個人的に多かったりもしますね。結構、色んな分野からドラゴン伝承というものを話題にすることができるってのは面白いなと思います。
古生物学的な知見から語るドラゴンとはずばり恐竜の化石の話でした。僕たちの世代ともなると人間何人ぶんくらいの恐竜の化石が見つかったとして、それは人類が成立する前の時代の、大昔の生き物の痕跡であって「こんな生き物がいまも生きて闊歩している」とは咄嗟にも思わない訳ですが、それは今日に至るまでの研究成果とそれを知識として普及できる教育の賜物であって、それがなかった時代の人たちはそうは思えなかったって話です。
番組ではルーマニアで有名な翼竜の化石が見つかっていると言及されていましたが、ルーマニアはドラキュラ伝承の元になったヴラド・ドラクル公の故郷ですよね。「ドラクル」という別名は彼の自称で「悪魔の子」って意味だとよく言われますが、本当は「竜の子」とかそういう自称だそうです。言語には明るくないのでもっと正確な意訳ができず恐縮でありますが、無知の身上なので「音が似てますもんね」とか言います。どうしてそれが「悪魔の子」だなんて受け取られ方をしたかと言えば後述したいと思いますが「ドラゴンは当時の人々にとっておそろしい敵役で、悪魔に連なるキャラクター」だったからです。竜の子なんて自称するのはその宗教的事情を考慮するならば自ら悪魔の敵役を名乗る型破りなことだった訳ですね。かなり話が脱線しましたが、竜の子ヴラドの伝説的な話が根付くルーマニアで、空を飛ぶ恐竜の化石が見つかっているという話がなんだか面白いなと僕は思う訳です。「無関係とは言えないだろう」とか僕なら思っちゃうし言いたいですし、当時の文献記録に化石の発掘らしき出来事の記述とかあるならそれは想像が捗るので素敵な話だと思います。
比較生物学的な見地からはいまも生きている生き物、特に蛇が槍玉に挙がっていました。ずばりって感じがします。番組では「何故ドラゴンは火を吐く?」という疑問に対して、蛇がちろちろと舌を出す様子に触れつつ、この蛇の習性が「誤った情報伝達の仕方をして」ドラゴンに火を吐かせるようにしたのではないかという話をしていたのでこれが面白かったですね。
まずドラゴンという想像上の生き物が成立する。次に「ドラゴンは想像上の生き物で、実物を人前に持ってきて伝えることができないから」人間は想像を絵に描いて伝えようとします。この間に、ドラゴンというのは実在しない生物なので、かわりに実在する他の生き物の特徴を取り込んでイラストとして出力されてしまう訳です。無いものを描くことはできないので、かわりに実際に有るものの特徴を代用して想像を膨らませていく。会話で比喩表現を使うようなもんですよね、「奴は蛇のようにずる賢い性格なんだ」とか「鳩が鉄砲で撃たれたような顔してるぜ」とか。
それで番組に出てきた絵なんですけど、たぶん火を吐いてなかったんですよ。イラストの横に難しいラテン語でびっしり説明文書かれていましたが、「これは火を吐いている絵ではなく、蛇のように舌をちろちろさせているドラゴンのイラストです」って言われたら僕はそれで納得してしまいます。そんな絵でした。
ところで遠い土地に住んでいる人に自分の描いた絵はこういうものだと事細かく説明できますか? 僕はそういうのが得意ではないので、しばしば伝言ゲームみたいになっちゃうんですよ。これが誰もが当たり前にまだラテン語を読めなかった時代で、聖書の記述すら読み書きの技術を持つ教会の神父様に読み聞かせていただかなればならなかった時代となると、もっと大変だったと思います。もちろん、そういう誤解が広がらない為にバチカンの偉い司祭様たちは色んな対策を立てたと思いますが、果たして「悪魔の姿形まで全員の意見を一致させようと手を回す余裕があったのか」はわかりません。イラストというのは文字や言葉より強烈です、写真の無かった時代ならそれは写真の代わりすらつとまったほどに。それでもやはり限界はありますよね。実際にあるものを観察して正確に描いたものなら兎も角、空想の風景を自分が見たことのある風景に喩えながら暗中模索で描きあげたらしいドラゴンのイラストですから尚更。もちろんそれを見せる相手が目の前にいたなら言葉にして説明できたでしょうが、その絵が本に載って遠い土地にいる人たちの手に渡った時、そして彼らが字を読み書きできないとかそもそも違う言葉を喋っている人たちだったりしたら、蛇の舌の絵が火を吐いているように受け取られたりしても即座に訂正したりできないのでそのまま広がってしまいますよね。
ここでちょっと本旨に触れていますが、空想上の生き物は実際にはいないのでそれが絵や銅像といった形にされる際、実在する動物の特徴をつぎはぎにして成立する時がある、というのが比較生物学的な知見で言いたかったことであるように思います。
恐竜の化石にしたって、伝説に語られるファブニールやヒドラそのものにしか見えない代物が発掘されている訳じゃありませんから。そもそも恐竜の化石から想定した想像図が最近すこしずつ変わっているらしくて、僕が映画で見たティラノサウルスはコモドドラゴンじみた堅そうなウロコに覆われた姿でしたが、いまは鳥のように羽毛が生えていたのではないかと言われているそうです。ここはもう少し言及すると、恐竜の末裔はいまも空を飛んでいる鳥、特に渡り鳥である、なんて話にも波及していきそうですが、僕はそのへん浅学なので触るだけで容赦していただきたく思います。
最後に歴史学、人類学、宗教学、あとすごく恐縮なんですが地理学から見たドラゴンの話をしたいな、と思います。ここがすごく自分が興味ある分野になるので話が長くなりそうなんですが、そのほとんどが他の人からの受け売りの知識・聞きかじりの知識であることを先に明言してから話したいと思います。この話を僕にしてくださった皆様に限りない御礼と尊敬を。
まず、先程までドラゴンが火を吐くのは、蛇の舌の特徴を取り込んで描いた想像図を見た別の人が、その絵の様子を「火を吐いている」と誤解して広がったからではないのか、と話題にしていました。さらにここを掘り下げて「何故火を吐いている姿に見えた(誤解した)んだろう?」という話をしようかと思います。
ドラクル公の話にも戻りますが、西洋ドラゴンは悪魔に連なる存在であり、人々にとっておそろしい敵役だったと言います。これは特に難しい理由がある訳ではなくて、人間より大きく、翼を持っていたり、人間の頭を咥え込める大きな口にずらりと牙が並んでいたり、ずばり「人間に噛みついて攻撃してくる蛇という生き物が人間よりでかかったら食べられそうで怖い」という恐怖心が、当時の宗教的道徳観で形成されている独特の恐怖心とつよく結びついた結果だと思います。恐竜は人間を食べそうだから怖い、ドラゴンは人間を食べるから怖い、悪魔は地獄にいて人間に悪いことをするから怖い、というのが全部同じ話になってしまった時、「ドラゴンは悪魔の手先である」という話になるんですね。そこにバチカンの神父様まで話を合わせはじめるともう誰も待ったをかける人間がいなくなる。恐怖とは使い方があるのです。「食べ物を粗末にすると目が潰れるからしてはいけない」なんて言い回しが日本にはありますが、本当にそうなのか?といえば絶対にそんなことないですよね。それが本当の話になってしまうと、目が見えない障がいと向き合って生きている人たちはみんな「食べ物を粗末にした」罰でそうなったという理屈が通じてしまうので大変失礼な話になります。ぶっちゃけこの言い回し、嘘か本当かで言えば嘘の話ですよね。でもいま食卓に並んでいる食べ物を、少なくないお金を支払い、少なくない労力を駆使して調理し、なんとか苦労して食卓に提供し続けている親からすれば、それを子供に台無しにされるのはひどくつらいことであるしその悪癖を矯正しないまま大人になっても子供のためにはならないからなんとかやめさせたいと思うのは当然なわけです。しかし、突然の家庭不景気に陥れば金銭交換ままならず明日にでもご飯が食べられなくなるという話を、お金の単位すら知らない無知の子供に納得してもらうまで言い聞かせるのは大変な交渉スキルと言語センスを必要とされます。これが「何故人が人を殺してはいけないのか?」「何故人が人から物を強奪してはいけないのか?」というレベルから説明しなければならないとなれば途方もない気分になってきますよね。なのでそれを説明する側は、悪いことをしてはならないという理由として「悪いことをすれば怖い目に遭う」と方便…つまり一種の嘘を用いるという苦肉の策を導入することにしました。これが日本で言えば「目が潰れる」とか「人攫いにあう」とかで、キリスト教が国教である場所では「悪いことをすれば悪魔のいる地獄に落ちるぞ」とか言われるようになる訳です。ドラゴンに食べられるのは誰だって嫌ですよね、僕はジュラシックパークでティラノサウルスに食べられるレベルから嫌ですしサメだって怖いですから、悪行に対する応報としての悪魔、地獄で罪人を責め苛む悪魔がドラゴンを操るなら当時の人たちにとって2倍の怖さになる訳で、時の宗教家たちはおそろしいドラゴンを悪魔に与えることでみんなが神の御言葉をもっと信じて慎ましく穏やかに生活する世界(=悪人が悪魔とドラゴンをおそれて悪行を思いとどまったり、間違えてからでもそれを悪いことだったと反省して償いをする世界)が形成されることを期待したわけです。なので実は違う種類の複数の恐怖が、宗教道徳という枠組みの中で融合するのは全然難しい話ではないってことですね。ドラゴンが英雄に退治される話が多いのも似たような理由です。人間の勇者が悪いドラゴンを退治して財宝と美しい伴侶を獲得して幸せに暮らす…というのは敵が強いぶん本当にそれを乗り越えられるならば素晴らしい成功であるように思える訳ですね。実際に、ドラゴン退治の伝説は宗教に組み込まれた結果、聖ジョージのドラゴン退治など、有名な宗教説話としてたくさんの人々に親しまれています。強いドラゴンが悪であったほうが都合がよかった時代や場所があったということです。
この長い前提があって、ドラゴンが火を吐く話が続きます。まず多くの宗教において死者の国・地獄とは地下世界に想定されます。そして程度の差はあれど、地獄とは炎の世界で、罪をおかして死んだ者はその炎に焼かれてずっと苦しむと説かれます。これはキリスト教も例外ではないというか、悪魔が住む地獄とはその典型例であるように思いますね。何故地獄が燃えているかと言えば、人間が火に焼かれる痛みを強烈に忌避する話の他に、古い時代の街並みが火災に弱いというのが挙げられます。日本でも江戸時代の平屋づくりなんか想像してくだされば分かりますが、木材を含む家屋が道の両脇にずらりと並んでいるのは火災に脆弱なんですよ。火災の真の恐ろしさとは「燃え移る」「燃え広がる」ことです。デマゴーグが人々の間であっという間に拡散して個人の名誉毀損の度合いがもう取り返しがつかなくなってしまう様子を「燎原の火」などと喩えますが、あれは草原に火を放つと一瞬で更地になるほどの規模の火災になることのようだと言っています。この草が家に置き換わったようなことが頻発しやすい都市計画というのが密集した家屋群にあたります。隣の家同士の距離が近ければ近いほど深刻だという認識で間違いないと言えます。対岸の火事なんて言い回しもあるんですが、実は一つの川を挟んだ対岸で火事が起こっているとしても、風向きと風速次第では火の粉が飛び火してきて火事になることも珍しくないらしいです。キリスト教の地獄の話をしているのでその圏内にある国の歴史を話題にするなら、ロンドンのテムズ川を挟んだ両岸の街々が飛び火が原因の大火事の被害に見舞われたことがあるそうです(これはNHKのドラゴン特集の受け売りです)。時代が昔に遡れば遡るほど消火技術というのが未熟なので、燃え盛る地獄のイメージが成立したほどの大昔となると一度家に火がつけば街一つ灰になるのも特に珍しくなくて、それが冬越し前ともなれば家の壁と屋根なしで厳しいヨーロッパの冬を耐えなければなりません。みじめなんてものではなくて、死にます。火事から助かったとしても家も財産も食べ物も燃えてしまっていて、最悪の場合助けてくれる隣人の家まで飛び火で火事になってて誰も助ける余裕なんかないとなれば、そういうのを「地獄のような風景だ」と言うのでしょう。これを避ける為に毎晩高台に見張りを立てるなどの習慣が根づいたそうです。ファンタジーでやぐらに立つ見張りといえば敵国の侵略者を瀬戸際で発見するだとか怪物が村や街に侵入しないようにする為だとかいうイメージで、もちろんそういう意味での見張りもありますが、一番怖かったのは火事だそうです。というか、敵国の兵士に火付けされることだってあります。火攻めとか言われる戦法で、この場合は侵略者と火事が同時にやってきます。侵略者は火で街の財産がすべて灰になる前に大急ぎで火事場泥棒をはたらくので容赦する時間的余裕はありませんし、火をつけられた街の住人だって火に焼かれるか人に殺されるかの極限状態ですから狂乱しています。ただの火事より、もっと大勢が死ぬでしょう。侵略者はまさに地獄からやってきた悪魔や化け物に見えたでしょうね。そうやって実際にあった大火災の惨事の記憶が、架空の風景である地獄のイメージを補強して、いまの地獄絵図というものがあるそうです。だから「悪魔の手先であるドラゴンが火を吐く(操る)のは当然だ。地獄からやってきたのだから」と言われれば、なんだかすごく話の筋が通っているように思いませんかね?
その上で更に別の解釈を交えます。地獄は地下世界にあると先述しましたが、地下にあると言えば何を想像するでしょうか。道具や芸術品の材料や貴重品そのものとして今でも生活の身近にある鉱石や宝石も地面の下から採掘される資源です。しばしばドラゴンは財宝と関連づけられることを思い出させられますね。化石も地下から現れることが多いです。ドラゴンが地獄に住まう悪魔のペットであることと、ドラゴンのイメージを形成するのにひと役買ったらしい恐竜の化石とがつよく関連づけられるような気がしますね。それで、マグマも地下には流れていますね? マグマによる火災被害、つまり火山の噴火というのはそれほど頻繁に起こる訳ではありません。少なくとも、毎日地球のどこでも火山が噴火しているともなれば人間の生存圏はもっと狭くて、地球は人間には住みづらい星だったでしょう。将来的にそうなるかもしれませんけどね。それはそれとして、噴火は頻繁に起こらないので毎日人間がマグマに殺されているというほどではないと思いますが、それ故に今でも予測して対策が立てづらく一度起こってしまえばおそろしい被害規模となる天災でもある。邦画にもなった漫画テルマエロマエの舞台くらい昔のローマにおいては、伝説的な火山の噴火によって当時の大国が大打撃を受けたらしい…そしてそれはただの伝説という訳ではなく、地質学や考古学的な研究からも実際に大災害が起こっているという史実的な話だそうです。ところでテルマエロマエという作品に触れましたが、これはお風呂をテーマにした漫画です。日本でも観光地各地が抱える温泉施設というのは間欠泉という自然現象を利用したお風呂であることは周知ですね。この間欠泉…温泉というのが、地下の水源がマグマによってあたためられて地表に噴き出す現象で、多くの温泉はそのまま人間が入浴するには適さないほど高熱だったりします、死ぬような大火傷を負うほど熱いこともあります(程度の差はあり、中には最適な Permalink | 記事への反応(1) | 14:56
『移動都市/モータル・エンジン』(以下、移動都市と省略)を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向けですぞ。
120点ヤッター!バンザイ!。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。大満足なんではあるが、この大満足は極めて個人的な感情であり、しかもタイミングによるところが大きい(後述)。なんで皆様におすすめできるか? オールタイムズベスト的な価値があるか? といえばおそらくない。見なくて良い。
しかし一方で今じゃないと書けない評価もあると思うので、この記事はその辺について触れたいと思う。
当方は「パンフとか購入するくらいならもう一本別の映画見るわ教」の人間なので詳しいセールス文句は知らないのだけれど、スタッフ的には『ロード・オブ・ザ・リング』のスタッフが結集!とのことで、ほうなるほどと思って足を運んだ。どうでもいいけど、この映画、日本での広報に失敗してない?
んでもって内容なのだけれど、想像した以上にCGが良かった。「CGが良い」っていろんな方向性があるんだけど、一昔前の重要課題だった「嘘くさくない」とか「合成に違和感がない」みたいな部分は今やもうすでに解決済みであって、現在では「どれくらい見たことがないすごい景色を見せてくれるか?」ってとこが焦点だとおもう。
その点において『移動都市』は素晴らしかった。超巨大戦車じみた土台の上に一個の都市ロンドンが乗っかって、スチームパンクともレトロフューチャーとも言える鉄量にまかせてゴンゴンガンガン進みながら、その中には宮殿も大英博物館もあってゴシックな生活もあるってあたりが、もう、きゅんとくる。世界観の荒唐無稽さを、CGによる映像美と迫力で押し切るという、いわば「嘘の芸術」である映画のセンス・オブ・ワンダーが花開いていた。その点は二重丸。
アクションも、チェイス、市街戦、空中戦、焼け落ちる基地からの脱出、潜入、銃撃戦と各種取りそろえそれぞれにレベルが高く、十分以上に楽しめる。
一方で脚本は、まあ、悪くもないんだけど、そこまで良くもない。割りとありきたりな復讐劇で世界観とCGによる大美術とアクションに全ふりしたような映画ではあった。
登場人物も、主人公ヘスター・ショウ(母親を殺害された件をきっかけとする復讐者)とトム・ナッツワーシー(ヘスターに好意を抱き所属するロンドンを裏切って協力する史学者&飛行機乗り)は、内面的にも平坦でそこまで感情移入するってほどでもない感じ。
二人をお助けする女性賞金稼ぎのアナ・ファンのほうが汎アジアキャラ的なドラマをもっていて好感度高かったほど。
だいたいしめて90点くらいで、レイトショーで割引で見ると満足な映画というのが評価だろうか。
しかし!上記のような説明ではこの映画を120点評価した理由が全くわからないだろう。ここではそこを解説したい。
そもそも『移動都市』の世界観は、現在の文明が大戦争でほぼ滅んだアフターホロコーストな地球である。大量破壊兵器メデューサで欧州は完全に壊滅して、泥炭じみたぬかるむ湿地の広がる大荒野になってしまっている。そこではもはや土地に根付いた生産をすることは不可能であり、都市は「移動都市国家」としてそれぞれが巨大陸上兵器になりつつ、荒野をさまよって、より小さな移動都市を鹵獲して、食料や燃料や労働力(そこの市民)を略奪して暮らしているのだった。
今回映画『移動都市』の主役都市とも言えるロンドンは、その中でもかなり大きなものであり、旧時代の文明研究をして工業力を維持しつつ、小都市を略奪して巨大化しているっぽい。
ロンドンはどうやら物語開幕直前にドーバー海峡を渡ったようで、欧州東部の小都市国家郡にたいする略奪旅行にでる。わーお!プレデタージャーニー!これを市長は「都市淘汰論」とかうそぶいて正当化する(ダーウィニズム! キタコレ)。
この時点で映画開始から10分もたってない。すごいよロンドン。めっちゃゲスじゃないですか。
移動略奪都市ロンドンは「移動派」を名乗っていて、一方で、ユーラシア大陸当方には「反移動派」がいて、これは旧来の都市運営のように普通に地面に都市を作って周辺で農耕しているらしい。映画後半になるとそっちにもカメラが行くんだけど、緑豊かな自然を復興している。
東へ向かうには要所となる渓谷があり、そこに東部の「反移動派」たちは「盾の壁」なるものを築いていて移動略奪都市の侵入を拒んでいる。この「盾の壁」と移動略奪都市ロンドンの大戦争が映画のクライマックスだ。
物語中では明言してない(してるわけがない)んだけど、この「移動派」の移動略奪都市ロンドンって、もう、完全に植民地主義なわけですよ。
巨大な鉄の破砕口で逃げ惑う小移動都市を捕捉してバリバリ噛み砕き、そこの住民たちを「強制移住」させて「ロンドンへようこそ!あなた達には住居と仕事が提供されます!」とか放送しちゃってるけれど、そういうひとたちは都市最下層の労働者タコ部屋みたいなところに押し込んで働かせている。
そういう小移動都市を奪って「燃料一ヶ月分の足しになるか」とか市長は言い放つし、ロンドンの公園テラス(周辺の荒野が見える)では、ロンドン上級市民が鈴なりになって、(おそらく東欧の貧乏な)小移動都市に銛を打ち込んで串刺しにして鹵獲するシーンとかで「うぉおおお!!ロンドン最高!!」「やれー!やっちまえーー!!」「貧乏人を奴隷にしろ!」とか大歓喜なんですよ。
もう、このシーンだけで興奮してしまう。
まじか。スタッフまじでこの映画作ってんのか? っていうか原作小説からこれかよ。パンクだな。
しかもそのうえ「反移動主義者どもは盾の壁などをつくって我々を干上がらせるつもりだ!けしからん!奴らの土地を奪うぞ!!決戦だ!!」「うぉおおお!ロンドン!ロンドン!!」とか言い始める。
これだよ。これこそが大英帝国だよ! 大英博物館はそうやって鹵獲した貧乏都市に残されていた旧時代の文明異物を収集して飾っておくとか説明されて、「わかってるよこの作者ぁ!?」ってなるなった。
んでまあ、そうやってね。植民地最高!労働力は移民(白目)でOK!上層部では光降り注ぐ庭園とヴィクトリアンなライフスタイルで下層はスチームパンクな労働者で身分が違うからろくな会話もできません。みたいなロンドンが、最終的にはコテンパンに負けるんですけどね。
原作者フィリップ・リーヴはイギリス出身なんだけど、自虐っていうかシニカルな笑いが凄まじいな。まさにこのシニカルかつブラックな笑いがこの映画の加点理由であって、だめな人には全くダメだし、歴史的な経緯がわからないと小芝居に意味が無いとも言えるし、そういう意味では難しい映画かもしれない。でも、めっちゃパンク。
まあそういう感じでゲスなダメダメさを楽しむ映画ではあるんでが、日本の場合はさらにボーナスがあって、それはイギリスがただ今絶賛ブレグジットに関するgdgdの真っ最中であって、過去自分がやった鬼畜所業を再確認中だってことですよね(欧米での公開は去年なのでそこまでタイミングドンピシャじゃなかった)。
イギリス人「だってイギリスはイギリスのものなのに政治の中枢がEU本国側にあるなんていやでしょ?」
みたいなことを思い出しながら『移動都市』を鑑賞のは最高に贅沢だと思うのですわ。メイちゃん首相もだんだん顔が怖くなってきたし。『移動都市』みたいにEUぶらり旅で離脱できるとええな。