はてなキーワード: 研究室とは
25年くらい前になるかな。パチンコ・パチスロを辞めてから20年以上立つので、ここに書くのは全部昔の話。今どうなってるかは殆ど知らない。
自分はいわゆる「学生プロ」というようなもので、大学院での研究をしながら月に10万くらいパチンコ・パチスロで稼いでいた。朝まで研究室にいて、モーニング打って寝て、なんて生活をしたりしてた。今ほどネットが発達してなかったので、情報源の大半はパチンコ雑誌、パチスロ雑誌だった。数多くあった雑誌の大半は「オカルト系」と呼ばれるもので、「大当たりを狙う撃ち方」というような科学的根拠のない記事が並んでいたが、その中でも「パチンコ必勝ガイド」と「パチンコ攻略マガジン」の2誌だけは、科学的根拠がしっかりした記事を中心としていて、毎号買っては丹念に読んでいた。
当時は「合法として運用されている違法?連チャン機」の全盛期だった。これは「保通協」という「パチンコ屋のホールで稼働していい機種かどうかを検査する機関」(後の仕事で、保通協はパチンコ以外にもいろんな業務をしてることを知るが、それはおいておく)で検査されるときは、申請通りのスペックで動作するが、実際のホールで稼働するとなぜか連チャンしてしまう機種のことだ。上述の2誌は、この「検査時はおとなしいが実稼働では連チャンしてしまう」仕組みについての調査を行い、雑誌に情報を掲載していた。
調査では実機を入手し...と思いきや、なぜか「ROMだけ先行入手できました」というケースも多く、パチンコ台メーカーによっては、ROMプログラム解析だけで「定番のスタックオーバーフローでの保留玉の抽選値書き換えパターンでした」というわかりやすいものもあったりした。メーカー毎に連チャンの仕掛けの癖があって、ROMプログラムだけで挙動がわかるようなメーカーもあれば、「実機を入手してICE使って解析してもその仕組がわからない」という技巧派メーカーもあったようだ。この記事の「春一番」を作ったのは、「西陣」という技巧派タイプのメーカーだった。ちなみに「実稼働で暴れる」という実態に業を煮やした当局は、当時一般的だったCPU「Z80」の使用を事実上禁止にし、そのためにICEも使えなくなったりしたようだが、それはこの記事よりも後の話。
さて、春一番の連チャンの仕組みが始めて雑誌に出たのは、恐らく「パチンコ必勝ガイド」の方だったと思う。その内容はこんな感じだった。それまでのホールでの実プレイでの検証から「連チャンは保留玉に限らず発生する」というものだった。そこから「大当たり後、一定の確率で連チャンモードに入り、連チャンモードであれば高い確率で当たりをひく」までは想定されていた。実機のプログラム検証の結果、この機種は0,1,2,3,0,1,2,3...とサイクリックに値を刻み続ける「連チャンカウンター」があり、大当たりの終了のタイミングでこのカウンターが、とある値(3だったかな)であれば、連チャンモードになり、保留玉〜20回転くらいで当たる、そうでなければ通常モードになる。
そして衝撃的だったのが、「この連チャンカウンターの値は狙える」というものだった。大当たりの終了タイミングは、アタッカー(デジパチで大当たりしたときだけ開くところ)の開閉の最終ラウンド(=16ラウンド)の最後の玉(=10個目)がセンサーに感知されたタイミング次第、となる。連チャンカウンターのサイクルが秒とか数秒であればまだしも、カウンター自体は比較的高速だったので、このタイミングを狙うのは現実的に不可能だ(そもそもタイミングを狙う指標もない)。
普通ならここで諦めるとこだろうが、雑誌の記事では現実的な攻略法が書いてあった。デジパチのアタッカーは10個目の玉を検知するとアタッカーが閉じて、次のラウンドに進むが(16ラウンド終了したら、大当たり終了)、タイムアウトまで10個入らない場合にもアタッカーが閉じる。このタイムアウトが正確(恐らく29.8秒、とかだったと思う)かつ連チャンカウンターと同期しているのを利用して、「ある条件に当てはまったら、以後のラウンドですべてタイムアウトを発生させると、連チャンモードが確定」ということが判明した。その「ある条件」は、大当たり画面のとある場面の切り替わりの瞬間が、大当たりBGMの四拍子のどのタイミング(拍子)か、というものだった。それも固定のタイミングではなく、大当たり前の4つの状態(とあるLED表示パターンで簡単にわかる)と大当たり後の4つの状態(これも同じLED)と16ラウンドの組み合わせで決まるため、単純には4x4x16=256通りの基準タイミングでの判定となる。
雑誌の記事を理解したとたんに「これは本当に使える攻略法だ!」と思い、春一番が設置してあるホールに出向いて試してみた。何回かやってみると、うまくいくケースもあるのだが、「タイミングは完璧なはずなのに、連チャンしない」というのもいくつかあった。「…これは雑誌の説明はあっているが、タイミングの表の数値が部分的に間違っている!」。翌号の記事で訂正記事が出るかな?と思ったものの特に何もコメントはなかったのだが、自分の推測は確信していたので、やれることは「自力で数値を修正する」だった。
そこからしばらく、「正しい数値はどれか」と「間違っているなら何が正しい数値か」の検証を進めていき、数値の修正が進むにつれて、連チャンを狙える率もちょっとずつ上がっていった。その作業のさなかに出た雑誌(最初の記事の翌々号)に「すいません!数値が間違ってました!」という訂正記事が載る。自分の検証と照らし合わせてみると、ほとんどが思ったような訂正になっていた。「こいつはそのまま使える!」。自分の数値は「実機で検証した推測値」だが、雑誌は「解析で計算した本当の値」なため、雑誌の数値の威力はやはり絶大で、条件さえよければ100%連チャンが狙えるレベルになった。
この「条件さえよければ」だが、実はこの攻略法が使えるには、いくつかの条件がある。まず絶対に欠かせない条件としては「大当たりのBGMがなってること」だ。BGMのタイミングで判定をする以上、これが鳴ってないと全く手が出ない。全く鳴らないホールはないのだが、音量の大小は様々だった。次は「ホールが騒がしすぎないこと」。BGMがはっきり聞これば聞こえるほど、成功率は上がる。逆に騒がしいホールでBGMが辛うじて聞こえるようなときは、わずかに聞こえるBGMからタイミングを検出する「人間相関検出器」状態になる。最後は「店員のチェックが甘いこと」。「ここから先、アタッカーに10個目の玉を入れずに29.8秒経過させる」というのは、やるのは簡単なのだが、実際にやると、「大当たりしているのに玉を打たない」という非常に不自然な状況になる。アタッカーにはほとんどの玉が入るようにできているので、普通に打つと10個の玉が入るのに10秒もかからない。そのため20秒以上は「玉を止める」ことが必要になる。やってることは合法なのだが、店には「特定の打ち方をしている客を追い出す権利」があるので、「何かやってる」と悟られた時点で終わりだ。そして店員に限らず、周囲の客に「何かやってる(から連チャンしている)」と悟られるのも同様にやばい。とにかく、条件にあてはまって「以後はタイムアウト発生させる」となったら、アタッカーが開いてもすぐには玉を打たずに、店員が通ったり、客がこっちを見てそうなタイミングだけ玉を打つ(そして9個で止める)、としていった。
こうして、その気になれば何十万、あるいは何百万も稼ぐことは可能な状態になったが、「バレたら終わり」なので、なるべく目立たないように勝ち続けた。「お兄ちゃん調子いいねー」「今日は調子いいっすねー(毎度調子いいだんけどな)」てな感じで、数ヶ月は稼ぎ続けたと思う。エンジニア、あるいはゲーマーにとっては理解しやすく、攻略もできる内容だったが、世間的には使っている人は全くいない感じだった。とはいえ、さすがに終わりはあって、いつも通っている店にも情報がやってきたのか、ある日「そういう撃ち方やめてもらえますか?」とやんわり言われ、「はい、わかりましたー」と快諾して、その店は終了となった。
「こうなったら市内中のパチンコ屋で最後のひと稼ぎするか」となったものの、この攻略の「もう1つの難点」をどうにかしたくなった。その難点は「最初の当たりは自力で当てないといけない」というものだ。普段なら「当たるまでじっくり待つか」でいいのだが、今回のように「残り時間が少ない」となると、そうも言っていられない。そこで誰かと一緒に行って、稼ぎを2倍3倍にすることを考えた。とにかくこっちには攻略法がある。負けるわけがない。なので「負けたら全額出す。勝ったら折半」という条件で友人を誘い出した。
実際に打ち始めると、その友人にあたりが来る。隣の台だが、画面を(さりげなく)ガン見してBGMも集中して聞く...「条件にハマった!ここからラウンド9個で止める!」と指示するものの、残念ながら普通の人は練習もなしにそういうプレイができたりはしないらしい。数回やってみて路線を変えることにした。当たったら打つのを交代する。どうせ勝ち分は折半するのだから、文句も全く言われない。これで2週間くらいにいろんな店をまわり、友人を誘ってやった会は負け知らず(一人で打っても、よほど運が悪くない限りは負けない)だった。
そんな「最後のひと稼ぎ」をしているある日のこと。比較的寂れた系のホールで打っていて、打っている客は島の中で自分と背中側の斜めに一人か二人、という状況だった。しばらく打っていると、その背中の人が大当たりをひいた。自分の台ではないのだが、自然と「1,2,3,4,1,2,3,4...」とBGMを追ってしまう。「あの台の状態は〇〇だったから、このラウンドでは2.5泊だったら当たりだな...おっ、条件にあてはまった。ここで止めれば」と思ってところに、打ち方をラウンドでの9個止めプレイに変わった(!)。
…今思えば、その人に声かけとけばよかったなー。
自分は、プログラミングはホボできない。(AtCoder緑程度、CTFはシーザー暗号解いて喜ぶレベル、Vue.jsでコンポーズで苦しむレベル)
機械学習は勉強したこともない。(『はじめてのディープラーニング』は1冊大体実装しました)
しかし、AI知識ではなく、ITシステム企業に「ドメイン知識があるから」ということで、AI評価者となった。
論文化が目的なら、使えないAIでも、「似たような成功例あるし、未来への教唆って感じでいいかな〜」と思って見てます。
「kaggle勉強するぞ!『はじめてのディープラーニング』を勉強するぞ!」とAI知識や、
「AWSの構造を理解して、通信的な部分での実装に対してgithubでコミットするぞ!」とか。
「CTFやって、ハッカー攻撃とかを想定したインフラへのフィードバックするぞ!」とか。
「素数暗号や楕円関数やブロックチェーンでセキュアな情報を提供するぞ!」とか。
そういう、勉強するき満々だった。
プログラミングを勉強して、プログラマーとしてブイブイ言わせると。
なんなら、webサイト作ってマネタイズの経験を複数経験しておいた。
ドメインに無かった必要そうなwebサービスもいくつかFirebaseにあげてみたりした。
う〜ん。
世の中への貢献としてドメイン知識持って、ドメインの世界をよくしたいものとしては、この働きがベストなんだろうけど。
世の中のドメインの偉い研究者の壮大なAIファンタジーをリアルな実績に補正するための仕事みたいな。
自分のAI知識は何もないんだけど、「AIがファンタジーにならず法律にも触れず業務フローのなかでワークし市場でマネタイズできるか」をチェックする人。
なんか、生産性というか、なんだろ。
「無駄なAI研究を否定して未然に止める」ってどうやって生産性っていうんでしょ。
転職とかできるのかな。AI担当者としてコメントしてるだけとか、どうやって能力として証明するんだろ。
とりあえず、10個くらいのAIプロジェクトに関わって、研究結果とか出すんだろうけど。
論文に自分の名前はおそらく乗らない。表に自分の実績はでない。(研究計画書に名前乗るけど)
ただコメントしてただけのAI担当者(AIプログラミングはできません)って、どうなんだろう。
明らかに不合理なドメインを確実によくしてる仕事なんだけど。。。
やはり、クラウドサーバー使えたり、新しいサービスを作れるみたいな、わかりやすい技術欲しいなあ。
って意味があるのかなあ。面白いとは思うけど、ドメインへの貢献にはそれはいらなくないかと思ってしまう。
自分でもドメインへ貢献するサービス作ってるから、そちらで創業することも考えようかなあ。
その噛み合わなさに強い違和感を感じていたけど、メロンダウトの記事を読んで、その違和感が決定的なものになった。
https://plagmaticjam.hatenablog.com/entry/2021/04/05/093629
フェミニストが求める女性の政治家や管理職比率の是正と、弱者男性が訴える結婚や仕事での救われなさの救済とは、雑に恋愛が~と言って同じテーブルに乗せていい物じゃない。
だが、いずれも第三者が他人の選択を強制することは許されないという一点でのみは同じだと考える事も出来るだろう。
現状の女性の管理職比率を是正しようと思えば、アファーマティブアクションのようなことをしなくてはならないだろう。
アファーマティブアクションというのは、アメリカの大学で黒人の学生が白人よりもアジア人よりも入学しやすくなっている、という有名な不公平の権化だが、社会的には
「黒人は差別の歴史によって文化的な背景から家庭において十分な教育を受ける機会に恵まれないケースが多くみられる。黒人が白人と同じ得点をテストで獲得するには、より多くの努力を必要とする。」
なんて言って正当化されるわけだ。
現在においては、貧しい白人学生は、豊かな黒人学生よりも幼少期の学習環境にハンデを背負っているはずで、もう黒人優遇にたいして意味はないと思うが、
アファーマティブアクション自体、アメリカにおける黒人奴隷の歴史等を考えれば強く異議を言えるはずがない、という強制力のある不公平で今や誰も抗えない。
だが、そんなことを言ってる一方で、同じ基準で選べば楽々とテストをクリアするアジア人学生には通常より高い壁が与えられている。
こんな試験に公平も糞もないんだが、大学は自分たちの意志で自分たちが必要とする学生を選ぶし、その基準は選考者である大学が定めるものだと考えれば
ちょっと前に医学部の試験で女性は合格しにくくなっていた事が問題となったが、それも同じことだ。
「現場は、より体力があり出産などで離職しない男性医師を求めている」
という理由で、選考者である大学が恣意的な選択をしたに過ぎない。
医師の数に対して異様に多い病床数によって医師の過重労働が続いている事と、医師の数が充足してない地域があるという医療行政上の問題を、現場が選考の基準でいなそうとしてるというだけにしか俺にはみえない。
これに対して女性に対する差別だ、などと吹き上がる向きには、黒人も白人も全く同じ基準で選ばれるべきだと思うのか?と問いたい。
医療現場が男性医師を求めているという理由と、歴史的な理由で黒人は環境にハンデが残っているという理由
どちらも選考する権利を持っている大学が、試験結果に加えて加味する理由としては、十分に理解できるものだし、誰かにとっては不公平だと感じても、納得しておくしかない。
同じ様に、弱者男性が女性に選ばれない。女性は下方婚をしない、なんていう非難も、女性には自分が好きになる相手を選ぶ自由がある、という一点で考えて意味がない。
全ての人間に、自分が好きでもない人間とは結婚しないですむ権利はある。
人事考課が同程度の男女がいれば、ちょっと劣っても女性を積極的に管理職にしろ。
成績が許容範囲内であれば、ちょっと劣っても黒人を積極的に合格させろ。
年収学歴などが近しければ、より恋愛弱者の経験に乏しい男を伴侶に選べ。
俺から言わせれば、どれもこれも同じで、どんな理屈で正当化したとしても、ただの迷惑極まりない押し付けに過ぎない。
女性が、同じ年収のイケメンとKKOが選択肢にある中で、KKOを選び取らされれば人権侵害だと荒れ狂うと思うし、それは応援したくなる怒りだが
大学教授が、優秀なアジア人と成績の劣る黒人とがいて、成績が劣る黒人学生を研究室に当てがわれて怒ってはならんのだろうか?
俺はどっちも、本来は選べたベストな選択肢を不当に奪われたという理由で、怒っていいと思う。
弱者男性が言う不平等ってのは、要はこういうことなんではないのか。
女性は女性であると言うだけで、アファーマティブアクションによって有利にすべきだと、能力もないのに社会における競争相手である男に強制しようとする。
ならば、女は恋愛や結婚において、魅力もない弱者男性を積極的に選ばされるとしたら、どう思うんだ?と、こういうことなんじゃないのか。
女性は歴史的に不当な扱いを受けてきたら、そもそも競争の減資となる力がまだまだ男に劣るし、そういった偏見が社会にある。
多少は強制しなくては社会は変わらないと、フェミニストは叫ぶ訳だが、医療の現場に男性を必要としてる病院にとっては迷惑でしかないだろうし
女子高が多すぎるがゆえにやむなく公立高校では男子学生を増やすしかなかった学区の担当者にとっては、怒りすら湧いてくる存在だろう。
弱者男性側の理屈を見ていると、自分の境遇に対してはとっくに諦観を持っていて社会に対して救えと言いいたい気持ちもないが、
お前は男だ自助努力が足りないだけだと、弱者男性を踏みつけながら、能力がなくても管理職になったり救われるべき存在だと主張してるフェミが目に余るだけなのだろうと思うよ。
そんなことを言うなら、まずは弱者男性に女をあてがってみろ、と皮肉もいいたくなるってもんではないか。
女性の管理職比率だなんて言っても、他社にそれをやれとさかんに報道したがるメディアからして、女性の管理職比率は低い。自分たちですら使えないと分かってるものを押し付けるのは不条理すぎるだろ。
フェミニストの皆さんは、不公平で他者に不利益を押し付ける社会的正義を、一緒になって社会に押し付けて抑圧しようと、弱者男性を誘ってみてはどうだ。
想像力のある方々なら、内容はタイトルからおおよそ察せられるものと思う。この手の話はテレビ、新聞、ラジオ、SNSその他媒体で散々語り尽くされてきたものだからだ。
はじめに少々長い前置きをさせてもらおう。
私は人との比較の上では少なくとも「苦しんではいない」。というのは、コロナ禍が始まってからも特段生活には困っていないからだ。家庭の収入が少なからず減ったりはしているし、出かけられる機会も減ったりしている。けれども、出費を切り詰めないといけないほどに家計が逼迫しているわけではないし、人間関係が修復不可能なほどに壊れて絶望的に孤独なわけでもない。ましてや、留学生の方々のように故郷へ帰るための道を断たれたわけでもない。私は、コロナで失業した人も知っているし、帰国できなくなった留学生の方も知っている。元々生活の困窮していた人が、更に困窮して居場所を追われる状況になっていることも知っている。彼らの心中を察するに、私の苦しみなど所詮は道端の糞ほどにも意味をなさないだろう。反対に、私とは違って全く苦しんでいない人も或いはあるかもしれない。
ともあれ、ここで敢えて一つ言わせて頂きたいことがある。この記事の目的は「私の苦しみが他者のそれを上回る」ことを主張することにはないし、その認識を持つつもりは少なくともない。仮に「私より苦しんでいない人」を想定したとして、その人に牙をむくことはこの記事の目的にはない。考えは未だまとまっていないし、書きながら自己矛盾を感じているところもある(矛盾を見つけても指摘するだけ無駄かも知れません)。しかしながら、先に述べたような悪意があるわけではないことを、頭の片隅に置いて読んでいただきたい。
ニュースや新聞、SNSなどを通じて、皆が苦しんでいる状況にあることは知っているつもりだ。身の回りの家族、友人、知り合いが苦しんでいることも知っている。身の回りの他者に自分の苦しみという重荷を更に背負わせないためにも今まで沈黙してきた。皆が苦しむ中で、自分の苦しみが苦しみとして認めてもらえないんじゃないか、そういう思いも大きかった。もしかしたら、自分の苦しみを認めたくない自分がいたことが一番大きかったのかもしれない。
他者との比較を求めるものでないことは先述した。ここに記すのはあくまで「私の苦しみ」であって、世間一般の大学生に通用する苦しみではないかもしれない。繰り返し、「私の苦しみ」であって、他者のを上回るものでもないし、反対に他者が否定できうるものでもないことを述べておく。
長くなったが、前置きはここまで。
[人間関係などに関して]
2020年の春に現役で無事第一志望の大学に入学した。しかしながら、周知の通り、そこで待っていたのは世間一般の思い描くキャンパスライフではなく、完全オンラインの「大学生活」だった。終日自室にこもって講義を受け、レポートを書き、深夜帯までデータベース上の論文を読み漁り、ひたすら思索に耽る(後ろ2つについては、本気の学問をできる環境の整った大学なので、対面だったとしても似通ったものだったとは思う)。特に堪えたのは、初年次のクラスメイトとの顔合わせすらもオンラインだったことだ。知らない人達と急に向き合わされる上に、他の人の画面に常に自分の顔が映っているという状況、楽しむことが強いられているように感じて終始作り笑いをしながら耐えていた。酷く疲弊した。かなりの労力を費やしたが、教室のそれとは違って個々人で話す機会もなく、仲良くなれた人はいなかった。他の少人数講義も似たような状況であった。唯一、ゼミ形式の過酷な講義でグループワークをする中で多少仲良くなった人はいるが、会えない中で関係を維持することはできなかった。
感染者の減った夏から秋ごろにかけて、少しだけ対面のサークル活動(運動系)ができた。回数は減らされ、条件付きで練習も認められた。複数受けた少人数講義も、合計でたった20回程度ではあるが対面で実施された。少々語らうことはあったが、教室で話すなとのお達しもあり、あまり話すこともできなかった。キャンパスが自宅から遠いこともあり、あまり会うこともできず、サークルでも少人数講義でもそれほど仲良くなった人はいない。
臆せずに会いに行けばいいという人もあるかも知れないが、それができないから困っているのだ。昼夜問わず会食はできないし、気軽に家に上がることもできない。自分が出歩いて感染したくないというのも勿論あるが、問題はその先だ。例えば、感染したことでサークル活動が長期間停止されるかも知れない。或いは、他の人が楽しみにしていた対面授業の機会を奪うことになるかも知れない(言わずもがな医療にも負担を強いることになる)。自分一人が自由に出歩くことが他人の首を絞めることになりうる。反対に他者が好き勝手に動き回った結果として自分の首が絞められることもあるかも知れない。出かけたとして咎められはしないだろうが、それができない。手足を縛られて動けない。そんな状況にある。これは何も人間関係に限った話ではなく、以前はアウトドアが趣味だったのだがそちらにも足が向かなくなった。理由は同じだ。
入学以来たびたび言われるのが、「せっかく入学したのに大学に行けなくて可哀想だ」「対面授業少なくて残念だね」「せっかくサークルに入ったのに活動少なくて残念だね」「新しい人間関係ができなくて可哀想」…(以下略)といった内容のものだ。要するに世に言うところの「キャンパスライフ」がないことを憐んでくれるわけだ。正直言ってこの言葉には腹が立って仕方がない。憐んでくれたところで、その言葉によって大元の原因が霧消してくれるわけではないし、状況は少しも動かない。医療という、か細い一本の柱に寄りかかって生きている今日現在にあって、ワクチンが普及したり、治療薬が完成したりしない限りにおいて、「キャンパスライフ」の実現可能性はほぼゼロである。この状況にあって、憐れみを述べる言葉は意味を少しも意味をなさない。ましてや「小中高や会社が(条件つきながら)通常営業できている中で、大学生だけ社会的に抑圧されているのはおかしい」と擁護の論陣を張ってくれたところで、待っているのは徒労だけである。
この手の話は、旱魃や凶作、飢えや渇きに苦しむ人に対して、殊更に強調して水や食料の美味しさを説くことに等しい。私の下の代やその下の代の頃には「キャンパスライフ」は可能かも知れない。しかしながら、既に4分の1が消し飛んだ今、私の卒業まで三年弱という状況にあって、その望みは薄いように感じる。自分が何をどうしようが手に入らなそうなものの美徳を説かれたところで気分が悪くなるだけだ。憐憫を垂れてくれる必要はないし、そういうことはしてほしくない。今、私が手に入れることができるのは、大学生活の亜種だけであって「キャンパスライフ」ではない。今できることに取り組もうとする人間に対して、今後できそうにもないことを押し付けるのは是非ともやめていただきたい。
オンライン中心での大学生活における大きな悩みの一つとして、「無為」な生活になってしまうことが挙げられる。「モラトリアムなのだからそれでいいのでは?」と言う人もいるかも知れない。しかし、これは何も自堕落な生活を送ることを指すのではなくて、「大学4年間で頑張ったこと」が何もない状況に陥りそうだと言っているのだ。自室に籠る生活を続ける中で読みたい本、読む必要のある本、多くの文字資料を読んできた。資料をたどりながら、学問的な問題や社会問題についても自分なりに考えを深めてきた。内的には少しだけ豊かになったかも知れない。けれども外的なものが何一つない。活動が制限される今、これを自分は頑張ったんだと言い切れるようなもの(サークル、バイト、インターン、学業面での功績等々)はまだ何もない(学業はこれからではあるが……。バイトも最近始めたが見つけるのにかなり苦労した)。頑張ったこと、熱心に打ち込んだことが欲しいと言うのは単に自分の気持ちの問題であって、就職のために必要としているわけではないけれども、面接官に「大学生活で何を頑張りましたか」と訊かれた時には、「大学生活などというものは無いに等しかった」と答えて離席するかも知れない。或いは面接官を殴らずにはいられないかも知れない。
この生活の中では、目標も失ってしまったし、舵取りも上手にはできない。と言うのも、目標となるような存在に出会う機会に乏しく、手に入る情報もとにかく少ないからだ。小中高の教室、或いは大学の研究室でもいいから、とにかくそこを思い浮かべてほしい。手本になるような人物、或いは反対に悪例となるような人物はいなかっただろうか?恩師、友人、同期、後輩、先輩、誰であれ少なからず自分の生き方の参考になるような人がいたはずだ。オンライン化されたことの一番手痛い問題として、そうした道標が失われてしまったこともあるのかも知れない。兎にも角にも、抜け出そうとあがきながらも、未だ無為に生活している。(これを努力不足と言おうとすることがあらば、それは見当違いというものである。)
一年が経過して大学2年になった。もう後輩が入学してくる時期となってしまった。諸用でキャンパスに行くと手続きに臨む新入生の列を見かける。SNS上では眩しいほどに希望に満ち溢れた姿を見たりもする。羨望を通り越して嫉妬してしまいそうなほどである。一方で「対面授業が少ないではないか」という声を聞いたりもする。「こんな世情にあって贅沢言ってるんじゃないよ」と言おうとして、すんでのところで踏みとどまる。対面形式の講義を沢山受けてきた諸先輩方や、コロナ禍にあっても高校で対面授業があった新入生にとっては理解し難いことかも知れない。比較しないように努めていながらも、どこかで強烈な被害者意識が渦巻いている。他者に自分の苦しみを味わせたいわけでは無いけれども、どこかでそれを求めているように感じてしまう。パワハラ上司はこうやって再生産されるのかも知れないなと思いながら、なんとか発言を飲み込んで止まっている。
ざっとこんな感じだろうか。筆をとる中で少々整理されたような気もしなくもない。繰り返し、他者に牙をむくことや、他者の苦しみと比較して変な優越感に浸ることはこの記事の本意ではない。もしそう感じられる内容があるのだとすれば、私の言語能力の限界ゆえ、或いは私の未熟さゆえであると思っていただきたい。
就職活動真っ只中です。
先日、ある会社(なんちゃらシステムズとかなんちゃらソリューション等のグループのIT事業を担う会社)から祈られた後に電話で不採用理由を教えていただいたのですが、その際に「院生にしては技術力が低すぎる」とのご指摘がありました。
採用担当の方が考える"院生相応の技術力"とはどのようなレベルなのかを電話口で聞きそびれてしまったのですが、それから数日間ずっと院生相応の技術力とはどのようなものなのか考え続けています。(私自身は研究室配属後にプログラミングを始め、主に数値計算や深層学習を勉強してきました。コードを読んだり書いたりは一通りできます。)
そこで、増田(今日はエイプリルフールなのかなぜか増田が吉田になる)の皆様が考える"院生相応の技術力"についてご教示願いたいです。(採用担当の方に直接連絡すりゃいいじゃんってツッコミはなしでお願いします。)
“院生相応の技術力”ってプログラミングスキルのことだと思っていましたが確かに「研究でこんなプログラム書きました」って言う方が相手にも伝わりやすいですよね、勉強になりました。ありがとうございます。
ルーズリーフ一行分にに2行詰めで文字書いてシャーペンの限界に挑戦してたり、論文読みながら爆笑してたり、とまあやばい人だった。
俺のいた研究室はブラックで、精神が病んでたときにその先輩から電話かかってきた。
なんか悩み聞いてあげよう言われたから、どうでも良くなって色々話してしまった。
基本うんうん言うだけなんやけど、やたら後ろでジャージャー変な音して、「何してるんですか?」って聞いたら「お風呂入れてる」って言われた。
なんでこいつ人の悩み聞いてる時に風呂いれとんねん、って考えたら面白くなって自分の悩みどうでも良くなってしまった。
人間案外変な救われ方するもんやなあと思った。
俺の悩みが大した事なかったんかもしれんけど
今社会人3年目ぐらいやろうけど、元気にしてるかな。
私の育った田舎は別にセクハラは良くないなんて価値観なかった。
小学校は男子がウンコちんちんおっぱいと言い、女子がちょっと男子ぃー、と言う。そういう感じだった。私はウンコちんちん言う側だった。
男性教諭は女性教諭の容姿を当然のように話題に上げ、生徒もそれに迎合した。
高校に入ってもやっぱり男子がおっぱいセックスと言い、言わない奴は言わないし、ちょっと男子ぃー。と言う女もいれば黙って軽蔑する女もいて、私は男子から振られる男性向けポルノの話題に対しては脳内で女性向けポルノに置き換えて考えて「分かるエローい」って返してた。やっぱり私はウンコちんちん言う側だった。
別にそこに性的な何かは感じてなかったが、まあコミュニケーションってそういうものかなって思ってた。そんなわけがあるか。
通学中に痴漢に遭った。まあでも小学校の通学路にも野生動物が出ることはあった。女児が猿に顔面を引っ掻かれれば大惨事である。自然の中で生きるというのは、猿や暴漢を警戒しながら生きるということなんだと思う。
大学は男が9割の学部に進学した。おっぱいマンコマンコチンコと言う男もいたし、そういうのが無理な男もいた。
配属された研究室では当然のようにセクハラが横行しており、学部の女と女子会を開くと、まあセクハラはどこの研究室でも当然のようにあるみたいだった。
セクハラして当然の空気があれば、私を性的に見てなくても、悪意がなくても、人はセクハラ発言でコミュニケーションを図ろうとするんだなと思った。
お嬢さま育ちの留学生の女は、セクハラに怒って報復してた。宅飲みでAV流した男どもを家に呼んでBLエロ同人誌を読ませたとか言ってた。
なんだその会私も参加したい。
身体を触れられることもあったがまあ別に悪い気はしなかった。私だって女の柔らかい身体が好きだ。自分におっぱいついててマジで良かったと思う。
男の身体なんてゴツゴツで抱きしめたってなんも気持ち良くない。いや愛情があればとか言うけど愛情と物理的表面硬さは別問題だろ。
触りたきゃ触ればいいよ。別に男だって胸筋触らせてって言えば触らせてくれるし。
なんか私はそうやってセクハラされながら生きていくの全然嫌じゃないんだけど、世の中セクハラダメって風潮だから、不思議だなあと思う。
嫌だよねー、って言い合う女に同調しなきゃいけない方がどっちかって言うと嫌。
怒った方がいいとか声を上げた方がいいとか他人のアンガーを勝手にマネジメントしたがる女の方が無理。
っていうか女は性的に見るものって価値観より、朝起きなきゃだめとか、時間を守れない奴は何やってもダメとか、締め切りに遅れちゃダメとか、敬語が使えなきゃダメとか、努力が偉いとか、怠け者は良くないとか、ミッキーマウスは可愛いとか、猫は正義とか、毛虫は気持ち悪いとか、テレビが面白いとか、数学が嫌いだとか、世の中もっと無理な価値観が多すぎんだわ。
セクハラ、怒んなきゃだめなんかな。
だめなんだろうな。無理だな~。ごめんね。
リケジョ、生きてるだけで褒められる。
メカが好きですー。とか言うだけでおっさんからちやほやされる。
就職だって出せばどこでも通る。マジでどこでも通るのか試してみたくなって日本語の破綻した中身のないESを某大手メーカー数社に送ったけど普通に通過のお知らせ来た。ヤバすぎ。
そのままコミュ障丸出しのビデオ面接に突入したけどそれも通った。ヤバすぎ。女性を採用しろって政府の圧力ヤバすぎ。
そういう感じで学会でも賞貰ったし、奨学金も貰ったし、まあ女が少ないので分不相応な男と付き合ったりもできる。
もちろん女が少ないので分不相応に男を振ったりしても構わない。
私が百数十人が在籍する学科で5本の指に入る美女である。研究室でも一番かわいい。
女がいないので。
何しようが何もしなかろうが、リケジョですってだけで過剰に評価される。楽勝~~~~~。
とか書いたけどまあそう思ってないとやってられないというのは往々にしてある。
女がいない環境は思いのほか辛い。ちやほやしてもらって楽勝だと思うじゃん?セクハラなんか別に恫喝されたり殴られたりするわけじゃないんだから大したことないと思うじゃん?
私もそう思う~~~~~。
けどなんかもう無理なんだわ。
他大学の学生とも、あるいは女性研究者や民間メーカーの女性社員とも、いっぱい喋ったけど、擦り切れて拗らせた女ばっかりで嫌になる。
ああなりたいと思える人間が一人もいない。一人もだぞ???ヤバくね?夢は叶わなくていいけど理想ぐらい存在しててよくね??
高校までの女友達も男が9割超えてるとこに行った女はほんと擦り切れて拗らせてる。変わりようにげんなりするが何も変わったのは彼女らだけでなく私も同じである。
いや無理だろ。
え、無理~~~。
まあ履かせてもらった下駄を失うのが怖いのでこのまま大手メーカーに就職すんだけどね。
嫌だな~~~は~~~~若いうちはおっさんにちやほやしてもらって、ちやほやされなくなったら転職しよ。
新卒ヤバいランキングを競いたいとかそういうわけじゃないんだが、一日寝てるとかいうレベルじゃないヤバさで死にたくなる。
まず職種からして、自己不信から来る逆張りスパルタ精神が災いしてド陰キャなのに営業を選んでしまった。謎に内定者グループにも参加してるけど同期zoom飲みとかおぞましすぎて招待すら直視できない。
そもそも就活でコロナを利用しまくってリモートで猫かぶりまくって得た分不相応な内定だから、この猫かぶりをこれから毎日続けられるわけがない。
つい最近でも、サークルの引継ぎも研究室の論文のポスターもギリギリまで放置して期日当日にゴミみたいなクオリティで投げ付けてきた始末だし
会社に関しても内定者課題?とかいうのも一応簡単に設定されてるけどそれすらほぼやってなくて、今からどう誤魔化すかしか考えてない。
クライアントにも自社の開発者の方々にも迷惑を掛ける未来しか見えない。そして今も増田を見ている。
先に謝っておこうと思う。本当にごめんなさい。
「身体的に男性だというだけで、その人を男性と決めつけるのは差別だ」
「トランス女性は女性です。公共のトイレに入ってくる女装した性犯罪者とトランス女性の見分け方は被害に遭えばわかる」
「今は無理でも、将来的には男性器があるトランス女性が女湯に入るのは当たり前になるので、性犯罪被害者の女性は男性器に慣れる必要がある」
などと、Twitterに常駐して延々と呟いていたツイフェミの同級生がいた
今日ヲチったら、専攻してる分野の研究者が男性ばかりなことや、オフィスのトイレが男女共用なことが辛くて大学院に行くのをやめ、今は海外院進を目指してると言っていた
専攻してる分野は男性が多数派である根拠とは一体何か。世界中にいる同一分野の研究者全員に「あなたの心の性別は何ですか」と聞いたのだろうか。まさか身体的に男性だから男性であると決めつけているわけではあるまい
自分は同じ専攻で面識もある男性メンバーが研究室やトイレにいるだけで辛くなってしまう。しかし、他の女性には女湯や女子トイレに男性器をぶら下げた身体男性が侵入し、性犯罪被害が発生するのも含めて我慢を強いる。相変わらず常人には理解できない思考をする人だなと思った
当時私は二十五歳の青年で、丸まるの内うちのあるビルディングにオフィスを持つ貿易商、合資会社S・K商会のクラークを勤めていた。実際は、僅わずかばかりの月給なぞ殆ほとんど私自身のお小遣こづかいになってしまうのだが、と云ってW実業学校を出た私を、それ以上の学校へ上げてくれる程、私の家は豊ゆたかではなかったのだ。
二十一歳から勤め出して、私はその春で丸四年勤続した訳であった。受持ちの仕事は会計の帳簿の一部分で、朝から夕方まで、パチパチ算盤玉そろばんだまをはじいていればよいのであったが、実業学校なんかやった癖に、小説や絵や芝居や活動写真がひどく好きで、一いっぱし芸術が分る積つもりでいた私は、機械みたいなこの勤務を、外ほかの店員達よりも一層いやに思っていたことは事実であった。同僚達は、夜よな夜なカフェ廻りをやったり、ダンス場へ通かよったり、そうでないのは暇ひまさえあればスポーツの話ばかりしていると云った派手はでで勇敢で現実的な人々が大部分であったから、空想好きで内気者うちきものの私には、四年もいたのだけれど、本当の友達は一人もないと云ってよかった。それが一際ひときわ私のオフィス勤めを味気あじきないものにしたのだった。
ところが、その半年ばかり前からというものは、私は朝々の出勤を、今迄いままで程はいやに思わぬ様になっていた。と云うのは、その頃十八歳の木崎初代が初めて、見習みならいタイピストとしてS・K商会の人となったからである。木崎初代は、私が生れるときから胸に描いていた様な女であった。色は憂鬱ゆううつな白さで、と云って不健康な感じではなく、身体からだは鯨骨くじらぼねの様にしなやかで弾力に富み、と云ってアラビヤ馬みたいに勇壮ゆうそうなのではなく、女にしては高く白い額に左右不揃いな眉まゆが不可思議な魅力をたたえ、切れの長い一ひとかわ目に微妙な謎を宿し、高からぬ鼻と薄過ぎぬ唇が、小さい顎あごを持った、しまった頬ほおの上に浮彫うきぼりされ、鼻と上唇の間が人並ひとなみよりは狭くて、その上唇が上方にややめくれ上った形をしていると、細かに書いてしまうと、一向初代らしい感じがしないのだが、彼女は大体その様に、一般の美人の標準にはずれた、その代りには私丈けには此上このうえもない魅力を感じさせる種類の女性であった。
内気者の私は、ふと機会を失って、半年もの間、彼女と言葉も交わさず、朝顔を見合わせても目礼さえしない間柄であった。(社員の多いこのオフィスでは、仕事の共通なものや、特別に親しい者の外は、朝の挨拶などもしない様な習わしであった)それが、どういう魔(?)がさしたものか、ある日、私はふと彼女に声をかけたのである。後になって考えて見ると、この事が、いや私の勤めているオフィスに彼女が入社して来たことすらが、誠に不思議なめぐり合せであった。彼女と私との間に醸かもされた恋のことを云うのではない。それよりも、その時彼女に声をかけたばっかりに、後に私を、この物語に記しるす様な、世にも恐ろしい出来事に導いた運命について云うのである。
その時木崎初代は、自分で結ゆったらしい、オールバックまがいの、恰好かっこうのいい頭を、タイプライターの上にうつむけて、藤色セルの仕事着の背中を、やや猫背にして、何か熱心にキイを叩たたいていた。
HIGUCHI HIGUCHI HIGUCHI HIGUCHI HIGUCHI ……
見ると、レタペーパの上には、樋口ひぐちと読むのであろう、誰かの姓らしいものが、模様みたいにベッタリと並んでいた。
私は「木崎さん、御熱心ですね」とか何とか云うつもりであったのだ。それが、内気者の常として、私はうろたえてしまって、愚かにも可成かなり頓狂とんきょうな声で、
「樋口さん」
と呼んでしまった。すると、響ひびきに応じる様に、木崎初代は私の方をふり向いて、
「なあに?」
と至極しごく落ちついて、だが、まるで小学生みたいなあどけない調子で答えたのである。彼女は樋口と呼ばれて少しも疑う所がないのだ。私は再びうろたえてしまった。木崎というのは私の飛とんでもない思違おもいちがいだったのかしら。彼女は彼女自身の姓を叩いていたに過ぎないのかしら。この疑問は少しの間私に羞恥しゅうちを忘れさせ私は思わず長い言葉を喋しゃべった。
「あなた、樋口さんて云うの? 僕は木崎さんだとばかり思っていた」
すると、彼女も亦またハッとした様に、目のふちを薄赤くして、云うのである。
「マア、あたしうっかりして。……木崎ですのよ」
「じゃあ、樋口っていうのは?」
「何なんでもないのよ。……」
そして木崎初代は慌あわてて、レタペーパを器械からとりはずし、片手で、もみくちゃにするのであった。
私はなぜこんなつまらない会話を記したかというに、それには理由があるのだ。この会話が私達の間にもっと深い関係を作るきっかけを為なしたという意味ばかりではない。彼女が叩いていた「樋口」という姓には、又彼女が樋口と呼ばれて何の躊躇ちゅうちょもなく返事をした事実には、実はこの物語の根本こんぽんに関する大きな意味が含まれていたからである。
この書物かきものは、恋物語を書くのが主眼でもなく、そんなことで暇どるには、余りに書くべき事柄が多いので、それからの、私と木崎初代との恋愛の進行については、ごくかいつまんで記すに止とどめるが、この偶然の会話を取交とりかわして以来、どちらが待ち合わせるともなく、私達はちょくちょく帰りが一緒になる様になった。そして、エレベーターの中と、ビルディングから電車の停留所までと、電車にのってから、彼女は巣鴨すがもの方へ、私は早稲田わせだの方へ、その乗換場所までの、僅わずかの間を、私達は一日中の最も楽しい時間とする様になった。間もなく、私達は段々大胆になって行った。帰宅を少しおくらせて、事務所に近い日比谷ひびや公園に立寄り片隅かたすみのベンチに、短い語らいの時間を作ることもあった。又、小川町おがわまちの乗換場で降りて、その辺のみすぼらしいカフェに這入はいり、一杯ずつお茶を命じる様なこともあった。だが、うぶな私達は、非常な勇気を出して、ある場末ばすえのホテルへ這入って行くまでには、殆ど半年もかかった程であった。
私が淋さびしがっていた様に、木崎初代も淋しがっていたのだ。お互たがいに勇敢なる現代人ではなかったのだ。そして、彼女の容姿が私の生れた時から胸に描いていたものであった様に、嬉しいことには、私の容姿も亦また彼女が生れた時から恋する所のものであったのだ。変なことを云う様だけれど、容貌については、私は以前からややたのむ所があった。諸戸道雄もろとみちおというのは矢張やはりこの物語に重要な役目を演ずる一人物であって、彼は医科大学を卒業して、そこの研究室である奇妙な実験に従事している男であったが、その諸戸道雄が、彼は医学生であり、私は実業学校の生徒であった頃から、この私に対して、可成かなり真剣な同性の恋愛を感じているらしいのである。
彼は私の知る限りに於おいて、肉体的にも精神的にも、最も高貴ノーブルな感じの美青年であり、私の方では決して彼に妙な愛着を感じている訳ではないけれど、彼の気難しい撰択に適かなったかと思うと、少くとも私は私の外形について聊いささかの自信を持ち得うる様に感じることもあったのである。だが、私と諸戸との関係については、後に屡々しばしば述べる機会があるであろう。
それは兎とも角かく、木崎初代との、あの場末のホテルに於おいての最初の夜は、今も猶なお私の忘れ兼かねる所のものであった。それはどこかのカフェで、その時私達はかけおち者の様な、いやに涙っぽく、やけな気持ちになっていたのだが、私は口馴れぬウィスキイをグラスに三つも重ねるし、初代も甘いカクテルを二杯ばかりもやって、二人共真赤まっかになって、やや正気を失った形で、それ故ゆえ、大した羞恥を感じることもなく、そのホテルのカウンタアの前に立つことが出来たのであった。私達は巾はばの広いベッドを置いた、壁紙にしみのある様な、いやに陰気な部屋に通された。ボーイが一隅の卓テーブルの上に、ドアの鍵と渋茶しぶちゃとを置いて、黙って出て行った時、私達は突然非常な驚きの目を見交わした。初代は見かけの弱々しい割には、心しんにしっかりした所のある娘であったが、それでも、酔よいのさめた様な青ざめた顔をして、ワナワナと唇の色をなくしていた。
「君、怖いの?」
私は私自身の恐怖をまぎらす為に、そんなことを囁ささやいた。彼女は黙って、目をつぶる様にして、見えぬ程に首を左右に動かした。だが云うまでもなく、彼女も怖がっているのだった。
それは誠に変てこな、気拙きまずい場合であった。二人とも、まさかこんな風になろうとは予期していなかった。もっとさりげなく、世の大人達の様に、最初の夜を楽しむことが出来るものと信じていた。それが、その時の私達には、ベッドの上に横になる勇気さえなかったのだ。着物を脱いで、肌を露あらわすことなど思いも及ばなかった。一口に言えば、私達は非常な焦慮しょうりょを感じながら、已すでに度々たびたび交わしていた唇をさえ交わすことなく、無論その外の何事をもしないで、ベッドの上に並んで腰をかけて、気拙さをごまかす為に、ぎこちなく両足をブラブラさせながら、殆ど一時間もの間、黙っていたのである。
「ね、話しましょうよ。私何だか小さかった時分のことが話して見たくなったのよ」
彼女が低い透き通った声でこんなことを云った時、私は已すでに肉体的な激しい焦慮を通り越して、却かえって、妙にすがすがしい気持になっていた。
「アア、それがいい」私はよい所へ気がついたと云う意味で答えた。
「話して下さい。君の身の上話を」
彼女は身体を楽な姿勢しせいにして、すみ切った細い声で、彼女の幼少の頃からの、不思議な思出おもいでを物語るのであった。私はじっと耳をすまして、長い間、殆ど身動きもせずそれに聞き入っていた。彼女の声は半なかばは子守歌の様に、私の耳を楽しませたのである。
私は、それまでにも又それから以後にも、彼女の身の上話は、切れ切れに、度々たびたび耳にしたのであったが、この時程感銘かんめい深くそれを聞いたことはない。今でも、その折の彼女の一語一語を、まざまざと思い浮うかべることが出来る程である。だが、ここには、この物語の為には、彼女の身の上話を悉ことごとくは記す必要がない。私はその内から、後にこの話に関係を生じるであろう部分丈けを極ごく簡単に書きとめて置けばよい訳である。
「いつかもお話した様に、私はどこで生れた誰の子なのかも分らないのよ。今のお母さん――あなたはまだ逢わないけれど、私はそのお母さんと二人暮ぐらしで、お母さんの為にこうして働いている訳なの――その私のお母さんが云うのです。初代や、お前は私達夫婦が若かった時分、大阪の川口かわぐちという船着場ふなつきばで、拾って来て、たんせいをして育て上げた子なのだよ。お前は汽船待合所の、薄暗い片隅に、手に小さな風呂敷包ふろしきづつみを持って、めそめそと泣いていたっけ。あとで、風呂敷包みを開けて見ると、中から多分お前の先祖のであろう、一冊の系図書けいずがきと、一枚の書かきつけとが出て来て、その書きつけで初代というお前の名も、その時丁度ちょうどお前が三つであったことも分ったのだよ。でもね、私達には子供がなかったので、神様から授さずかった本当の娘だと思って、警察の手続てつづきもすませ、立派にお前を貰もらって来て、私達はたんせいをこらしたのさ。だからね、お前も水臭い考えを起したりなんぞしないで、私を――お父さんも死んでしまって、一人ぼっちなんだから――本当のお母さんだと思っていておくれよ。とね。でも、私それを聞いても、何だかお伽噺とぎばなしでも聞かせて貰っている様で、夢の様で、本当は悲しくもなんともなかったのですけれど、それが、妙なのよ。涙が止めどもなく流れて仕様がなかったの」
彼女の育ての父親が在世ざいせいの頃、その系図書きを色々調べて、随分本当の親達を尋たずね出そうと骨折ったのだ。けれど系図書きに破けた所があって、ただ先祖の名前や号やおくり名が羅列られつしてあるばかりで、そんなものが残っている所を見れば相当の武士さむらいの家柄には相違ないのだが、その人達の属した藩はんなり、住居なりの記載が一つもないので、どうすることも出来なかったのである。
「三つにもなっていて、私馬鹿ですわねえ。両親の顔をまるで覚えていないのよ。そして、人混みの中で置き去りにされてしまうなんて。でもね。二つ丈け、私、今でもこう目をつむると、闇の中へ綺麗きれいに浮き出して見える程、ハッキリ覚えていることがありますわ。その一つは、私がどこかの浜辺の芝生の様な所で、暖かい日に照らされて、可愛い赤あかさんと遊んでいる景色なの。それは可愛い赤さんで、私は姉ねえさまぶって、その子のお守もりをしていたのかもしれませんわ。下の方には海の色が真青に見えていて、そのずっと向うに、紫色に煙けむって、丁度牛の臥ねた形で、どこかの陸おかが見えるのです。私、時々思うことがありますわ。この赤さんは、私の実の弟か妹で、その子は私みたいに置去りにされないで、今でもどこかに両親と一緒に仕合せに暮しているのではないかと。そんなことを考えると、私何だか胸をしめつけられる様に、懐しい悲しい気持になって来ますのよ」
彼女は遠い所を見つめて、独言ひとりごとの様に云うのである。そして、もう一つの彼女の幼い時の記憶と云うのは、
「岩ばかりで出来た様な、小山があって、その中腹から眺めた景色なのよ。少し隔へだたった所に、誰かの大きなお邸やしきがあって、万里ばんりの長城ちょうじょうみたいにいかめしい土塀どべいや、母屋おもやの大鳥おおとりの羽根を拡ひろげた様に見える立派な屋根や、その横手にある白い大きな土蔵なんかが、日に照てらされて、クッキリと見えているの。そして、それっ切りで、外ほかに家らしいものは一軒もなく、そのお邸の向うの方には、やっぱり青々とした海が見えているし、その又向うには、やっぱり牛の臥た様な陸地がもやにかすんで、横よこたわっているのよ。きっと何ですわ。私が赤さんと遊んでいた所と、同じ土地の景色なのね。私、幾度その同じ場所を夢に見たでしょう。夢の中で、アア又あすこへ行くんだなと思って、歩いていると、きっとその岩山の所へ出るに極きまっていますわ。私、日本中を隅々まで残らず歩き廻って見たら、きっとこの夢の中の景色と寸分違わぬ土地があるに違いないと思いますわ。そしてその土地こそ私の懐しい生れ故郷なのよ」
「ちょっと、ちょっと」私はその時、初代の話をとめて云った。「僕、まずいけれど、そこの君の夢に出て来る景色は、何だか絵になり相そうだな。書いて見ようか」
そこで、私は机の上の籠かごに入れてあったホテルの用箋ようせんを取出して、備そなえつけのペンで、彼女が岩山から見たという海岸の景色を描いた。その絵が丁度手元に残っていたので、版にしてここに掲かかげて置くが、この即席そくせきのいたずら書きが、後に私にとって甚だ重要な役目をつとめてくれ様などとは、無論その時には想像もしていなかったのである。
「マア、不思議ねえ。その通りですのよ。その通りですのよ」
初代は出来上った私の絵を見て、喜ばしげに叫んだ。
「これ、僕貰もらって置いてもいいでしょう」
私は、恋人の夢を抱いだく気持で、その紙を小さく畳たたみ、上衣うわぎの内ポケットにしまいながら云った。
初代は、それから又、彼女が物心ついてからの、様々の悲しみ喜びについて、尽きぬ思出を語ったのである。が、それはここに記す要はない。兎とも角かくも、私達はそうして、私達の最初の夜を、美しい夢の様に過すごしてしまったのである。無論私達はホテルに泊りはしないで、夜更よふけに、銘々めいめいの家に帰った。
海外には都合3年いた。その間、向こうの学生とルームシェアをしたりもしたけど、結局打ち解けることができず、友人と呼べる存在を作ることができなかった。日本人が何人か住んでおり、彼らと時折り食事をしたりした。
それなりに歳を食っていたので、向こうで研究生活を始めようとした時には多少のスキルと知識を持っていたのだが、努力できないという資質によって、あっという間に周囲の学部生にも追い抜かれ、かといって死にものぐるいの努力をすることもできず、成長をすることができずに終わってしまった。最後に同地を離れる時には、やはり、日本を離れた時と同じように逃げ出すようにして戻ってきた。国や学問領域によって違うのだろうが、PhD未満の学生に対するお情けのような学位があり、それを貰って帰ってきた。
日本と海外での生活で二十代を失ってしまった形だが、自分の人生はこんなもんなんだろうという諦めがついたのも事実だ。学部の時には少しばかりいい成績であったことで勘違いし、自分が何ものにでもなれるような気でいた。実際にそこで着実に努力をしていれば、目指すところにたどり着けただろうとも思う。とはいえ、それができなかったことは素直に受け止めている。幸い、帰国後に滑り込みのような形で一般企業に就職し、過去の研究分野とは離れたところで普通に暮らすことができている。翌年の自分の地位を憂うことなく、また、毎月給料が振り込まれる生活というのは本当に精神衛生にとってよいものだ。
大学院をやめてしばらくは当時のことから目を背けていたが、最近は少しずつ冷静に振り返ることもできるようになった。日本にいた頃の同僚の名前を研究者の名前として見かけても、彼ら彼女らの歩みを想像して受け止められる程度にはなった。先日、コロナになる前だが、日本に戻ってから結婚して生まれた息子を連れて大学に行き、キャンパスを歩いて学食で定食を食べてきた。研究室に挨拶に行けるほどの心の整理はできていないが、こんな人生かと今は思っている。
童貞を喪失したのは、僕が20代前半で大学院の博士課程前期の時だった。
その時の僕は、研究室と自宅を往復する生活で、外出と言えば、時折、専門書を買いに書店へ行く程度だった。
友人がいないわけではなかったが、そう頻繁に会うわけでもない。
相手の女性は40代の既婚者で、大学生のお子さんがいると言っていた。
最初に会った時(会ったのは1度だけだが)、一目見て、美人だと思った。
髪は肩にかかる程、痩身ではないが太ってはおらず、胸が大きい人で、色気のある体系だったことは覚えている。
下を舐めてもらうのが好きらしく、その手の掲示板で女性が募集の書込みをしていたのがきっかけである。
「主人も舐めてくれるが積極的にはしてくれないので、してくれる人を探している」という内容の書き込みだった。
当時、研究以外にはネットの情報を漁るくらいしか趣味がなかったから、たまたま興味本位でフリーメールで何人かにメールを送った。
返信があったのがその女性で、最初の返信は「若いですね。息子としてる気分になりそう」だった。
返事なんて大抵は来るものではないので驚いたし、それに、知り合えたのは奇跡的な確率と言っても良いかもしれない。
その後の展開は、速かった。
第1通目のメールを送ったのが夕方くらいなのだが、何通かのやりとりをし、当日の夜に会うことになった。
年齢、容姿はどんなか、どこに住んでいるか、そんなやりとりだった気がする。
「私、おばさんだけど、本当にいいの?」と言われたが、同年代より年上のほうが付き合いやすかったのが当時の自分だったし、それに、好奇心のほうが勝った。
京都市駅近くの、安くはないビジネスホテルを見栄をはって予約し、待ち合わせの京都駅へ向かった。
不安は正直あったが、興味のほうが大きかった。
当時の記憶は正確に思い出せないけど、単純に、好奇心で行動していたと思う。
確かに見た目は40代かもしれないが、笑顔が素敵で、険悪な感じが全くない。
会話した感じも明るく、積極的で、容姿も美人と言える人だった。
率直に、こんな人と出会えるなんて信じられない…という驚きの気持ち。
しかも、優し人で、お互いに晩ご飯がまだだったから、コンビニ弁当と飲み物を買ってきてくれていた。
「本当に、私でいいの?」
と、初めに言われた。
緊張していて、僕がその時に何を言ったか覚えていないが、ともかく、そのまま2人でホテルに直行した。
でも、道中(と言っても歩いて5分くらいだが)の会話は、そんなギクシャクしたものではなかった。
「もし、ホテルの人に関係きかれたら、就活で来た親子ってことにしとこうか」
と、笑いながら言われた。
ホテルの部屋で、お弁当を食べながらお話をしたが、非日常的というより、全く日常的な会話だった。
女性のお子さんのこととか、仕事のこととか(ただ、自分が何を言ったかを覚えていない…)。
でも、女性のほうがから、ふいに、「一人でしたりするの?」とか「彼女としたことないの?」とか、そんな話になり、
遠慮と緊張で「舐めるだけで大丈夫ですから」みたいなことを言ったら、
どういう経過でかは忘れたけど、「お薬飲んでるから、私は本番してもいいよ」と明るい声で言われた。
「私、初めての人とするの初めてだから」と言われ、部屋を真っ暗にした。
正直、ディープキスも初めてだし、胸を触るのも舐めるのも、下半身を舐めるのも初めてだったが、
相手の体温を感じながらやるのは、一人でする時よりは断然良かった。
下を舐めるのは変わった味がするけれど、でも、悪くなかった。
驚いたのが、女性のほうが舐めるのがすごく上手で、相手から69をしてきたことだった。
色んな姿勢でしたし、手でもさせてくれた。
初めて入れた時、思っていたよりも入れている感覚というか、締め付けがあるわけでもなかったのには驚いた。
でも、1回目はすぐに終わって、そのあと、すぐに2回目をした。
「中でいいよ」と言われたので、生だったし出したけど、まるでAVみたいだと思った。
女性が言うのは、服を脱いで抱き合ってキスした時、僕の体は震えていたらしい。
「初めてなんだなって思った」と言われた。
なんというか、頭の中は真っ白という感じだったと思う。
終わった後は、少しお話をして、一緒のベッドで手を繋いで寝た。
朝起きると、机の上にメモが置いてあって、「ホテル代ありがとう。エッチ代出せなくてごめんね」と書いてあった。
僕は、部屋のシャワーを浴びて、鏡の自分を見て、うまく言葉で言い表せないけど、変な気持ちになった。
行為中は気持ち良いかもしれないが、終わった後は、どちらかと言えば寂しい。
もう1度同じ体験をしたいかと言われれば、したいとは心からは言えない。
「私のことどう思ってる?」
とっさに答えられず、「若く見える」と答えた気がする。
それを聞いた女性は、少しため息をついて「まあ、よくそう言われる」と、少しがっかりした感じで言った。
僕は自分の気持ちを表現することが極度に苦手なので、あっさりした対応をすることがよくあるけど、未だに、「もう少し、良い答え方があったのでは」と考えることがある。
その後、こちらから女性に「会いたい」とメールしたことは一度もない。
でも、もし会うことがもしあれば、行為なんて別にいらないから、その時のことを会話してみたいとは思う。
もう少し気持ちを出すべきだったのかもしれない。
「大学どこにしよう」とか「院はどうしよう」とかいう人間よ、(もう時期的に手遅れだが)研究分野が合致してるかは二の次で“いい人”を選べ。
“いい人”についたら「大体近いね~」くらいの分野なら修論は何とかなる。
私も友人も、同じ大学の学部→院と進学した所謂生え抜きだが、そうなった経過は全然違う。
私は高校生の時から興味のある学部や分野をリサーチして、学びたい先生を見つけて…みたいなことは一切していない。
地元の国立大学進学が名誉な地域において地元の国立大学を受験し、合格し、一番興味に近く、自由度が高そうでいい人そうな先生のゼミに入った。
進学は「働くくらいなら勉強したほうがマシ」だから選んだし、院で他大学を受験するような七面倒なことは嫌だから内部進学しただけだ。
学部時代から愚痴をこぼしながらも私の関心どころを勉強してくれ、今では私を追い越してしまった。
一方で有能な友人は高校生の時から興味のある学部や分野をリサーチして、学びたい有能な学者を見つけ、その学者めがけて進学した。
学部時代から「あの先生なんかやっぱちょっと変だよ」と感づかれるようなイカニモな先生だったんだが、友人はあこがれのままに院でもその学者に付いた。
そして現在、人格的には優れていなかった学者あらため指導教官にこき使われて潰れそうになっている。
友人をこき使うのは指導教官だけではなく、無能な同期(私含む)や事務方までも友人の有能さを搾取している。
私と同じくらい指導してもらえてたり、苦労を分かち合える同じ研究室の友人に出会っていたりということはない。
有能な学者は有能な指導教官ではないかもしれず、友人の指導教官はドンピシャだった。
この友人にも問題がないわけではないんだ。
無能だと思われることを過度に恐れて仕事を断れないし、全部10割以上の出来にしないと満足できないので倒れるまで仕事をする。
しかもなぜか絶対に同期に助けを求めないし、仕事を割り振らない。
友人を研究に専念させたら主要雑誌に年に三本通るだろうと素人目ながら思う。
でも友人には三本も論文を書く暇がない。
新入生のお世話、自分には関係ない実験準備、会議出席の依頼メール、はては色恋沙汰や喧嘩の仲介まですべて友人に降りかかっているからだ。
私は友人がこれらに追われていた一年で一本の論文投稿と二回の発表を終えた。
「やっぱりどの先生に学びたいかだよ」っていう人は、多分研究にも人格的にも優れた教員に当ったんだろう。いいことだ。
日本の大学院でうまくやれなくて、逃げるようにして海外の大学院に行った。行き先はPIになってから数年の若手だがメジャーな論文にいくつも論文をだしている教授のいる、一流ではない州立大学だった。最初は居候をさせてもらう形で、その後PhDコースの試験を受けて入学をするような段取りだった。
この後のことはあまり書きたくない。彼は非常にフェアであり、かつ、環境も悪くなかったと思うが、結局、私自身の怠惰のせいで、その段取り通りには行かなかった。海外にまで行って再度思い知らされたのは、学部でのパフォーマンスの良し悪しと、その後の研究室での良し悪しに関して、求められるものが全く違う、ということだった。そこの落差を乗り越えるためのサポートや、それを乗り越えるための努力の仕方などは国が違えば様々なのだが、落差を本人の努力によって乗り越えなければいけないということには違いはないのだった。
研究とは本質的には関係のないところで海外に行って私を悩ませたことの一つとして、世間知のようなものの体系が大きく違うことがある。読んできた本、見たテレビ、口ずさんだ歌、学校のあるある話などが全く違う。私は、新見南吉や森のくまさんで育ち、ドリフやとんねるずに笑い、山月記やドグラマグラを読みながら世界に対して斜に構えてみたりもしてきた人間なのだが、そのような経験の引き出しは海外の人間と共感し合うのに当然ながら何の役にも立たない。会話のネタというのは共通の経験や知識に基づくものだから、それが薄い相手とは、面白い話をすることが難しい。私は、知的でユーモアのある人間でありたい、と欲しているのだが、そのような会話ができない、というのは地味に辛かった。
話は脱線するが、クイズや謎々というのは知的な遊戯だが、一方であれは、高度にドメスティックなものである。クイズ番組などでは、日本で一般的な良い高校良い大学を出ている「知的な」人間が7割程度解けるように調整された問題が出題されるのであり、「知的な」人間は芸能人やクイズ王と競い合いながら、自らの知性を感じるのが彼らにとっての楽しさとなっている。海外に行くと当たり前だが、クイズ番組で出題される問題がまったくといっていいほど分からない。日本語の壁を下に見て海外に出たのは私自身だが、日本語の中でこそ私が自分の知性と見做していたものに相対的な価値があったことに気づかされ自尊心を傷つけられたのだった。
そこで卒業にあたって、情報共有と備忘録を目的に6年間の系譜をここに記そうと思う
【高校生】
・プログラミングに興味を持つ
ゲームが大好きで当時は家に帰ると深夜3時までネットゲーム、寝不足で授業爆睡という感じだった
ゲーム作りたいという意識が芽生えて見様見真似でプログラミングを始め、理系志望になった
親から埼玉の家から通える国立に行けといわれ、不幸にも電通大に進学を決めてしまう
【電通大1年】
最初から新入生合宿があって北関東に知らない奴らとバス旅行した
これで友達ができるかと思ったが、なんと陽キャグループとそれ以外が自然と分かれる
俺は自然と陰キャ側へ、しかし守備範囲がバラバラでオタクトークが盛り上がることはなかった
1年はだいたい全員同じ授業で履修の自由度は皆無だった
散り散りになった陰キャ達に居場所はないし、後から仲間に入れてとも言えない雰囲気だった
大学生活終わったと思った
・助け合わないと生き残れない
意外と授業は簡単で過去問も大学が公開するなどぼっちに優しかった
時間割も高校に比べるとスカスカで暇すぎて時間を持て余していた
もう精神さえ保てば大学ぼっちでもいいかなと思い始めたところで
体育と実験が始まった
[体育]
電通大には体育がある(必修)
中学の「はいペア組んで〜」が大学でも発生するとは思わなかった
やめろ
[実験]
2人1組でペアを組む
協力が大事
やめろ
そういうわけでいくら勉強がどうにかなっても知り合いを増やさないと精神が摩耗するのは明らかだった
俺は早急に単独行動者に声掛けを行ってなんとか生きるための知り合いグループを作った
・無慈悲な別れ
なんとか1年間過ごしてみたが
頑張って繋いだ薄い人間関係は専攻分けでズタズタに寸断された
【電通大2年】
・慣れた
開始直後に生きるための知り合いグループを作った
このタイミングにグループに入る重要性は去年痛いほど学んでいた
授業は相変わらず楽だが、面白くもなかった
内容としてはプログラミングを少しやるかぐらいで基本的には数学の勉強が続いた
2年からだがサークルに入ってみたところ利害関係のない友達ができた
精神的な安定感や大学への通学欲が増したのは確かで人間関係の重要性を再認識した
【電通大3年】
・楽しくなってきた
そうだよこれを待ってたんだよ俺は
・研究室配属
電通大では3年生のうちに学生が行きたい研究室の希望を出し、成績と面接で教授から選ばれる
有名企業に行くために大学に通っているんだから、就職の悪い研究室なんて行きたくない
ずうずうしく質問して回り徹底的にサーチした
研究室配属が希望通り決まるとまともな学生生活はこれで終わりなんだと実感した
【電通大4年】
研究室に配属が決まると
興味のあることでもずっとやるのは気が滅入るなと思った
・何かに追われている
研究室は1週間に1回、進捗報告があった
大学でも家でも研究成果を出さないといけないという気持ちになり
俺は大学院に進む前提で将来を考えていたため3年生で就活をしていない
院試に落ちたらどうしようと思った
結果的には2月頃から早めに勉強していたのが功を奏し、危なげなく院試に合格した
・何も変わらない
大学院に進むと授業がほぼない
ただ研究をやるという日々が変わることはなかった
自分との戦いになってきた
・学会で発表
そんなの無理に決まってると思っていたが
俺の英語が下手だとわかると英語話者も優しい英語で話してくれた
・就活がある
でもだいたい知ってくれていて良かった
第一志望だったので満足
・何も変わらない…だがコロナ
・そして卒業
とくに何も起きずに卒業を迎えた
【総括】
Q. 電通大で良かったのか
A. 分からない
後半は貴重な友人もできた
しかし自業自得でもあるが、一般の大学生のような学生生活は送ってこなかった
生まれ変わったら文系に進んでもっと別の大学生活を送ってみたいとも思う
A. 研究室選び
シン・エヴァの(特に後半以降に関する)最大公約数的な解釈として「この映画は虚構!」「もう何も残っているものはない」「お前らも現実に帰って結婚したら?」という見立ては、おそらくおおむねその通りの解釈が可能だと思います。それは至極まっとうな話ではあるんですが、しかしそれを物語や登場人物に託すことなく、また映像演出的にも暗喩をもちいることなく、かなり直接的な表現(具体的には特撮の撮影スタジオで動くエヴァンゲリオンや登場人物たち・あるいは宇部興産)として出してしまう(ゴルゴダオブジェクトなる代物を出す、あるいはマイナス宇宙なんて大層な世界まで行ったのに!)、そういうことをやってしまう制作者たちがこれから手掛けるであろう「映画」や「物語」がつく嘘は信用することが出来るのだろうか。
映画/物語の作り手・物語世界に対して最も重い責任を負う立場の人間が、映画/物語のもつ現実やその確からしさを一切合切放棄する・新劇場版4部作の物語世界に対する不義理を、「よくやった庵野秀明さん」「成長したな庵野秀明さん」「やっと解放された庵野秀明さん」あるいは「エヴァってもともとこうだから(笑)」「あれのよさが分からん旧劇場版至上主義(笑)」「早くお前らも成長したら(笑)」と考える人びとが思いのほか多いのでかなりつらい。いいのか...
「この映画・物語は虚構」というのをその物語世界のなかであからさまに出してしまった、撮影セットの中でエヴァやシンジや綾波に演技をさせてしまった(ここは旧劇場版では比喩的な表現としてギリギリ踏みとどまっていたように思います)、この演出を制作側のだれも疑問に思わなかったのだろうか。事象の地平線まで行った先がミサトさんの酒瓶だらけの部屋で暴れるエヴァ2体なの、あまりにあんまりな映像じゃないですか?
前述のような物語世界の現実性に対する不誠実と思える演出や、碇ゲンドウ下車以降の「アスカ、おまえはケンケンといけ」「綾波、お前は田植えをしろ」「カヲルはもうええ」というような、(カウンセラーの碇シンジにとって)一切葛藤も迷いもない、エヴァを完璧に終わらせるための物語進行や、あるいはエヴァ世界に対する「他者」としてのマリ(初手で乳を押し付けてくる顔のいい「他者」、これ世間一般で言えばかなり視聴者に対して都合のいいアニメキャラ・虚構そのものでは?)の導きによる物語進行と宇部興産エンド、こういった要素がそのまま映画としてでてきてしまう状況(誰も「いやマイナス宇宙まで行ってエヴァがミサトさんの部屋で動いたら笑うだろ」「ゲンドウ以降のカウンセリング早すぎないか」「冬月研究室出身と乳がでかい以外の来歴がいっさい不明なキャラがなぜこのような大立ち回りを演じられるのかの部分っていつ説明したのか」とならなかったのか)、それに突っ込み入れず「よく終わらせた!」で肯定的に受け止めるファン含め、現状は庵野秀明さんにとって、旧劇場版でシンジくんが否定した「自分も他人も存在しない曖昧で脆弱な世界」「他人の恐怖が存在しない世界」そのものになってないですか
追記)マイナス宇宙・ゴルゴダ、これウルトラマン→特撮スタジオの進行か、いやそれって庵野秀明さんが好きだから以上に選択できる演出なのか?シン・として必要だったのか?
私のタイムライン限定かもしれないが以下のポストがバズっていた
https://anond.hatelabo.jp/20210228234557
私も数年前まで旧帝大の工学部で助教をしていたので楽しく読んでいたが
そこにあった一言
>私がやれば 2 週間で片付くような作業に 2 年くらい費やす学生が大半だ
に「そんなわけあるか」というような反論をしばしば見たのだが
そんなわけあったほうがいいんだよ
助教の6年~十数年の研究経験があまり役に立たない単純作業だろう
毎朝実験動物に餌をやるとか大腸菌を培養して半日待機するとかそういう肉体労働だ
そういうあまり知的でない活動に学生時代を空費するのはよろしくない
理論系の研究室になると学生は2年かけて助教がすでに知っていることを理解する
というのはなかなか良い難易度設定だと思う
学部四年生~修士二年生の3年間で助教の1ヶ月分に相当するイメージだろうか